» 生き方のブログ記事

風に乗って何やら派手な音楽が聞こえてきた。その音はこちらに向かってどんどん近づいて来る。やがて1台の送迎バスの姿。バスからはただならぬ音量で音楽があふれ出している。かなり離れているのに低音が下腹に響く。
あ。これが噂の「爆音バス」か………。それは想像以上の衝撃だった。

「爆音バス」と名づけられたのは、ラガーマンたちをグランドに送迎するためのバス。運転するのは「菅平プリンスホテル」の2代目大久保寿幸さん。送迎の道すがら音楽を大音量でかけて「激励」しているのだ。彼が「すがだいらぷりんす」というTwitter名でつぶやくのは兄貴のような温かいまなざしで見つめる、菅平を訪れるスポーツマンたちへの励ましの言葉。

そんな彼が今挑戦していること。それはある意味、菅平のみでなく信州の……あるいは、社会全体への大きな一石となるのかもしれないと思う。

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「菅平の爆音バス、って名物になるといいね。そう思ってやっているけど、周りとの関係もあってこれ以上はあまり派手には出来ないかなぁ。」
「いやすでに充分に派手だと思う……昔から変わってないよね、そういうところ。」

大久保さんの言葉に反応したのは今野さん。お二人は子供のころからずっと菅平で育ち、この地を見て感じてきた。

大久保寿幸さんは、7月はじめ菅平高原で行われた「セガレとセガレのBBQ」~様々な職種の「セガレ(2代目、3代目の跡継ぎたち)」たちの集まり~に菅平の観光ホテルの2代目として参加、そこで菅平の「これから」について語ってくれた。

それをBBQの記事に記述したところ、1人の女性がTwitterで声をかけてくれた。

【anuka_angela】 おはようございます! 私も菅平を故郷とするセガールです。友人が頑張ってるのを見ると嬉しくなりますね!素敵な記事にして読ませてくださって、ありがとうございます。

それがanuka_angelaこと今野真由美さんだった。菅平で育った彼女は長野を離れて大学進学し、卒業後長野県に教師として戻ってくる。けれど、教職のいろいろで体調を崩し退職、再び地元を離れ大学院に学ぶ。その後、結婚して今は菅平を遠く離れた秋田県で子育てしながらも故郷の菅平を想っている。

【anuka_angela】来月帰省しますよ。では菅平プリンスホテルで(笑)
【suga59】スゲー!つながってる!! 神様がくれた出会いだわ(^_^) 

……というわけで、今野さんのお盆帰省に合わせて菅平での「初対面」と大久保さんとの「取材再会」が成立した。

「小学校の時の担任の先生はめちゃくちゃだったよね。伊代ちゃんが大好きで、教室で毎日でっかい音で伊代ちゃんかけてた。」
「そうそう、カセットテープ二つ入れられるラジカセ買ってきて、それでみんな毎日聞いてたよな。『二つも入るなんて、なんか今までよりいい音する感じ?先生スゲー』なんて言ってたっけな。」

……もしかして、爆音バスのルーツはここにあるのだろうか?

2人は、幼稚園から中学校までずっと同級生だった。菅平には小中単級の学校がひとつあるだけ。だから同じ学年だと9年間は必然的に「同級生」になるわけだ。

「小学校の時には、山に入って遭難しそうになったこともあったよな。」
「最後は川に沿ってくだって、やっと出てこられたときに『あー良かった』って……。」
「先生自体が道わからなくなってたんだよな、あれって。」
「わたしたちの今ってあの先生の影響大きいのかもね。」
「あの先生好きだったよ。めちゃくちゃやったけどしめるところはしめてたよな。」

授業時間に山を歩き回る生徒と先生、めちゃくちゃだけど人間味あふれる先生、そんな先生の元で小学生時代を過ごして彼らの“今”がある。

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彼らが生まれ育った菅平高原は大笹街道が通り、太平洋と日本海を結ぶ重要な交通の拠点でもあった。江戸時代に本格的に始まった農地の開拓のため各地から移住してきた人々によって今の菅平がある。

夏のラグビーのメッカ。そのはじまりは法政大学のラグビー部を昭和6年に誘致してからのこと。一方、ウインターシーズンはスキーのコース数36、80年を超えるという規模・歴史的には申し分のないスキー場だ。けれど、その「申し分のないスキー場」「夏のスポーツのメッカ」である菅平が抱える問題はとても大きい。

たとえば菅平まで30分というところに住んでいる私が「スキーに行く」とき菅平は視野には入らない。私の関東・関西のスキー仲間も同じ。彼らは「長野でスキー」といえば白馬・志賀高原・野沢温泉。それはなぜか。

かつて、菅平に隣接する須坂市の野球少年たちが菅平でスキー合宿をした時、私は請われて指導者として参加したことがある。

野球少年とはいえ、3~4年の子達はまだスキーが上手くないので初心者コースを利用するのだが、リフト1本分しかない短さなのであっという間に滑り降りてしまう。
あきてしまって別のコースに移動するとゲレンデの連絡がとても悪く、子供たちはスキーで「歩く」のが大変。ようやく別のコースに出たらそこもまた短くあっという間に終了。ちょっと滑れるようになった子供には物足りない。初心者には移動が辛い。

せっかくたくさんのコースを抱えているのに、なんでもっと連絡良くしないんだろう?志賀高原の方がもっと広範囲に拡がっているけれど、「全リフト制覇特典」のように楽しみがあるから移動が気にならないのに比べ、菅平の一体感のなさってなんだろう?

「これだけのスペースに6つもの会社が入っていて……みんなそれぞれバラバラなんだよな……。」……と大久保さん。

あの時「菅平っていいな」にならなかったその理由が、その大久保さんのひとことでやっとわかった。そしてそれは、スキーの話に限らない。夏のスポーツでも同じようなことが起きていた。

菅平の「グランドマップ」(写真はその一部分)。夏のシーズン、スポーツ観戦に訪れる人のためのものだけど、菅平の「観光地図」として使われることも多い。

この地図を見るとグランドには番号がふってあって、それぞれが「どの宿泊施設のものか」わかるようになっている。ほぼ真ん中に1のグランド、そのあと2は?3は?と番号で追っていこうとすると2は見つかるけど3はそばにない。1の周りに60台、70台の番号が並ぶ。色分けされているけれど、その意味もよくわからない。

「これね、番号は『グランドの出来た順番』になっているんですよ。」と大久保さん。

「おまけにこの地図、グランド持っている宿泊施設しか載ってない。そこに泊まる選手は宿泊施設がバスで送迎するから地図は要らない。これ使うのは試合を見に来る親御さんや外部の人達で、必ずしもここに載っている宿に泊まるわけじゃない。番号の不規則さ、目印のなさ。使う人にとってとても見にくいものになっているんです。」

確かにそうだ。私も菅平はよく通るので道は知っている方だけれど、この地図もらったときに目印を捜してしばらく考え込んだ。ましてやまったく土地勘のない人にはすごくわかりづらいものだ。

「この地図のこと、いつも言っているんだけどね。作っている人間は“自分たちはわかっているから大丈夫”と言ってこれがなかなか改善されなくて。」

……だけど、菅平って「開拓者」が入ってきて出来た土地ですよね?伝統とか歴史とかにはあまりこだわりがなさそうな気がするんだけど?

「元々あちこちからの開拓組が集まって出来た土地なんだけど、『自分たちが切り開いてきたんだ』という自負というか、誇りというか、そういうものすごく強いものがあるんです。バブル期にうまくいっていたので自分たちの親世代には特にそれが強い。菅平を離れるとそれがよく見えます。」と今野さん。

大久保さんや今野さんの視点は外から菅平を訪れる人達のもの。けれど、菅平で人を迎える立場の多くの人が「自分たちにはわかっているからいい」という視点であちこちを考えていたら……私のように30分という至近距離にいながら「スキーは菅平」にならないのだから、遠くからわざわざ訪れる人にとったらなおのことだろう。

そうでなくても、今、スキー産業は落ち込み続けている。かつてバブルの頃、都会からスキーに殺到してリフト待ちが1時間2時間だったあの時代はもう過去のこと。

「菅平は、まだ夏のスポーツがあるから落ち込みがひどくない。でも、今この時に何とかしなかったら……春や秋、そこも視野に入れた菅平を考えなかったら手遅れになる。」という大久保さんの懸念は強くなるばかりだ。

しかし……「かつての華やかな頃」を知る親世代と、「未来に危機感を持つ」子世代との意識の差は……簡単には埋められない。

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「日本に『国技』ってあるでしょ?あれと同じように菅平の学校には『校技』ってのがある。スキーがそれ。」と大久保さん。

子供のころから当然のようにスキー。選手も大勢輩出したろうし、今の菅平にいるスキーの指導員は地元の人間が大多数。

「だけど私はスキーは大嫌い。なんでこんなことしなくちゃいけないかってずっと思ってたし、すごくいやだった。」と今野さん。

スキーは中学の部活にも大きな影響を持っていた。ゲレンデに雪のないシーズンは男子はサッカー、女子はバスケ。シーズンになると全員が「スキー部員」になる。
本来、一般の中学生は部活を「選択」して入部する。スポーツが好きな子だけじゃない。音楽や美術をめざしたい子もいるだろう。今野さんのように「スキー嫌い」という子もいるだろう。しかし菅平の中学生はみんな一緒。「それが常識」だった。

さらに数年前のこと。部活を一年中「スキーに統一する」という通達が学校から家庭にあった。これに対して、PTAからはいろいろな声が上がった。大久保さんもOBとして、PTAとして、声を上げた。

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思い起こせば、自分が生徒だった頃は「何のために勉強をするのか?」「何のためにスキーをするのか?」を自間自答しながら、自分が生まれる以前から始まっていた校技スキーの意義・概念を理解できないまま、受け入れる事ができないままに、ただ何となく活動に取り組んでいたように思います。(中略)

今回の中学生夏部活の件において、子供たちを取り巻く状況を一変させてしまったスキー活動の運営方針については、校技スキーの行く末を憂慮せざるを得ません。このような現状が、校枝スキーを「負の連鎖」に導くのではないかと危惧してならないのです。

現在の子供たちに対する教育・指導の内容は、次の世代の未来を創り、さらに、この世代の子供たちが親になって、そのまた次の世代を育ててゆきます。「教育は国家百年の計」と言われる所以です。

今回の件で、勇気を持って主張した生徒の意見が却下され、「大人に何を言つても無駄」と言葉を飲み込んでいる子供達が多数存在しています。意志が尊重されず、校技スキー活動に疑間を感じながら取り組まざるを得ない現在の生徒達が、菅平・峰の原の親となった時に『負の連鎖』が具現化され、校技スキーは衰退の一途を辿るのではないでしょうか。      (大久保さんのPTA文集原稿「思うこと」より抜粋)

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結局、通年スキー部はなくなったが、今まで秋までやっていたサッカーとバスケは春の地区大会までになり、その後夏からスキーシーズンの間は全員スキー部に……という「改変」が実施された。

けれど……。子供たちの夢は、スキーだけで実現するものじゃない。たとえ1人でもボールが蹴りたい子がいたらサッカーの機会を与えたい。速い球を投げられる子がいたら、甲子園夢見るかもしれない………。

実際、当時の中学生にはものすごく速い球を投げる生徒がいたし、サッカーの上手な女の子もいた。本来だったら「やりたいこと」の機会を与えるのは学校。けれど、菅平の学校でそれはかなわない。大久保さんは「菅平の子供の未来」を考えてひとつの行動を起こした。

サッカー少女と野球少年。2人のために「大人」を集めて一緒にゲームをする環境を作った。「菅平野球軍」「フリースタイルフットボールおしゃれ組」……そして、それらのために補助金をとり、菅平高原を拠点にしたスポーツクラブ設立をめざした。

メンバー集めから難航。地元の協力はなかなか得られない。スキーを推進する人達からは歓迎されない。体育協会への報告書作成もお役所仕事に翻弄される。
が、「地元の子供たちのために」という思いに突き動かされて活動は3年目に入った。

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「菅平は、夏、スポーツの選手が集まってきている。けれど昔に比べてスポーツマンの質も変化していて。」

「夏の菅平」も今の菅平を支えているのは確かな事実だ。しかし、そこにもただ喜んでばかりいられない「現実」がある。
かつてのようにスポーツの技術と同時に先輩後輩の関係から人やものに対しての「精神性」を育成されたスポーツマンばかりではなくなった。菅平のメイン通りだけでなく、グランドや宿のそばの細い道までも拡がって歩く。近くの畑の農家の人々がトラクターで通りかかろうとお構いなしに。当然、メインストリートでも車は大渋滞。

「家の近くで夜遅くまで、大声で騒いでいる人も多いですよ。狭い道なのに、そして農家は朝早いから夜は早く休まなくちゃいけないのに、その騒ぎで寝られないこともあります。」「そういう人達がいるから子供のころは夕方になると道を歩くのがこわかった。」と、実家が農業を営む今野さん。

「そう、菅平を支えているのは観光だけじゃない。農家の人達だって大切な存在。だけど、夏の誘客を考えたときにスポーツマンが来てくれることも必要。観光と農業の関係性がとても難しい………。」大久保さんがそれに言葉を添える。

「菅平の農家は冬はゲレンデの食堂などで稼いでいるんだけど、スキーが落ち込んだら夏に頑張るしかない。夏、農業で稼げなかったら冬の食堂の設備投資のための借金返せないし………。」今野さんが語る菅平の農業の問題点は深刻だ。

菅平の抱えている課題は大きい。「冬」と「夏」のあり方、「農業」と「観光」のあり方、「親世代」と「子世代」の感覚の違い………。そしてさらに、それぞれの思惑や願いが渦巻く中、そのバランスを考えた上での「菅平」のこれから。

けれど、それらのひとつひとつを見ていくと、これは菅平だけの課題ではないように思える。たとえば、「町並みづくり」「学校教育」「地域おこし」そして「社会のあり方」……。今までの伝統と新しいものとのバランスや融合、様々な立場の人達がそれぞれに主張するものをどうまとめていくのか。

今の社会全体が抱えている、様々な問題の根っこにあるものが、この「菅平高原」のあり方に凝縮されているように思う。

この日。あっという間に時間はすぎ、それぞれの場所に戻ってお互いに尽きない想いをTwitterでつぶやき合った。
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【anuka_angela】駒村さん(@komacafe)と、旧友菅平プリンス(@suga59)と会った!すごいエネルギーをもらって帰ってきた。異業種間交流はすっごく楽しかった。
【anuka_angela】……で思ったのは、儲けることは決して悪いことではないんだが、もう個々の利潤だけ追求してても発展はないってこと。全体の発展を考えて初めて、個々が潤う時代だな。
【suga59】このような情報交換が菅平内で出来れば面白いんだけどね~
【komacafe】「全体最適」の考え方。社会全体で考えていくべき問題なんですよね。
【suga59】そう!ウチのホテルだけ生き残っても、他が淘汰されれば菅平の集客力が落ちるってことだし、そうなればリフト会社の経営がより厳しくなるし、リフトが動かなくなったら菅平は壊滅する
【komacafe】それをみんなで考えるようになるためにはどうしたらいいのかなぁ。
【suga59】うーん、今は、いろんな活動を通して活躍することでミンナに認めてもらって、賛同者を増やして…と考えています(´∀`)そのためには稼業を揺るぎないものにしなければいけませんね!
【komacafe】私はそういう人を見つけて繋げて、拡げるお手伝いを……それぞれが出来ることをするってことかな。
【suga59】いろいろ教えてください!!ミンナが笑えるように
【komacafe】合言葉は「ミンナの笑顔」。
【anuka_angela】「最大多数の最大幸福」、社会全体の課題だよね。良いモノやサービスを提供するのは大事なこと。例えばホテルが良くても、スキー場のサービスが悪ければお客様は来ない。夏も同じ。みんなで協力することが不可欠だよなー。

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この話には「結論」はないし、まだ先も見えない。けれどこれは菅平の中で、そしてもっと言うと社会全体至るところでこの先「尽きることなく」討論されていくべきなのだろうと思う。「今」から生まれる「明日」のために………。

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観光(かんこう)とは、一般には、楽しみを目的とする旅行のことを指す。語源は『易経』の、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節による。「tourism」の訳語として用いられるようになった。(ウィキペディアより)

「国の光を観る」ということは、「その国の王の立派な人徳と、その王による国民の教化の美しさをみる」(これが、観光の意味)ということであり、「用て王に賓たるに利し」とは、「それだけの知力を持った人物であればこそ、王の賓客として遇せられる臣となることができる」(これが、観光の目的)ということ。

つまりは、その地にある光を見、その地の人々の徳に触れ、それによってその人も学ぶ。土地ばかりでなくそこの人々もまた「光」であるべきで、訪れたものが「また来たい」と思うような経験をそこですること。それが本来の「観光」だ。

最初に登場した「爆音バス」は、大久保さんが放つ光のひとつ。

【suga59】バスでAKB流してたら、違うグランドに送ってしまい、選手達はそこから走って移動しました…。しかしラガーマンは「いいアップになりました!!」と言ってくれた

大久保さんのツイッターにはこんな風に爆音バスで送迎したラガーマンたちの姿が登場する。彼らにはきっと、違ったグランドから走って移動することさえもいい「思い出」となったに違いない。爆音バスを知る人に聞くと、大久保さんはバスの子達だけでなく、信号待ちの時にもバスのドアを開けて道ばたのスポーツマンたちにも声をかけ続けているという。

「AKBで爆音バス楽しかった\(^^)/帰りのテンションなら最高に楽しいですww」

これはそんなラガーマンのつぶやきのひとつ。彼にとっても大久保さんの「おもてなし」は心から嬉しく楽しい思い出のひとつに刻まれたのだろう。→ 爆音バスの様子(Youtube)*ボリュームにご注意

帰るとき、ホテル前のベンチに3人のラガーマンが座っていた。日に焼けてたくましい筋肉を持つその青年たちは、私たちが前を通るとさっと立って「こんにちは!」と笑顔で挨拶してくれた。

「この子たちは今年の優勝候補だよ、強いんだよほんとに。」

そういって3人を紹介する大久保さんは、自分のことのように嬉しそうだった。

夏の合宿、冬のスキー修学旅行……「すがだいらぷりんす」に出会った人達は、ここに菅平の「光」を見、そしていつかまたきっとこの地を訪れて大久保アニキと語り合いたい……と思うに違いない。

菅平に生まれ、菅平に育った「すがだいらぷりんす」の想いはこの地を訪れる人達に菅平の光を届けること。そのためにはまず自分が光となり、輝いてちゃんと人を照らせるようになること。その光を菅平のみんなと共有し、「みんなの笑顔」があふれる事。

まだまだ越えなければならない山はたくさんある。 “プリンスの挑戦”はまだまだこれからも続いていく。「できるひと」が「できること」を。みんなのために力出し合う菅平をめざしてその輪を少しずつ拡げながら。

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菅平プリンスホテル→HP

写真・文 駒村みどり

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」
              (なかがわよしの 書き下ろし掌編小説より抜粋)

7月3日 19時開演  「傘に、ラ。」Vol.17   今に生まれて今に死ぬ 
出演:outside yoshino/タテタカコ   共演:なかがわよしの   

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「なぜ、この二人かって?
 だって、この二人って『今を燃焼』しているじゃないですか。」

ステージをじっと見つめて音に合わせて身体が揺れるなかがわ氏。
その表情は目の前のステージからダイレクトにガンガン飛んでくる音の固まりを受けとめて、生き生きと輝いていた。

なかがわよしの氏が『今』をテーマに企画・開催して17回目を数える『傘に、ラ。』追いかけて4回目の今回の取材はネオンホールで二人のゲストを迎えてのライブ。

「今に生まれて今に死ぬ」というタイトルを冠し、outside yohinoとタテタカコを迎えた「傘に、ラ。」としては珍しい有料イベント。

そこでなかがわ氏は表には一切登場しなかった。

「なかがわさんはステージ出ないんですか?」「いや、そんなおそれおおいじゃないですか。でも、自分はちゃんと小説を配って、それから気持ちの上では共演していますよ、ちゃんと。」

最初は、その意味がわからなかった。
けれども、ライブのステージが進むにつれて、わたしはなかがわ氏のその想いがわかってきたような気持ちになった。
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最初のMCが、ギターの強烈な和音にかき消される。
outside yoshinoのステージのオープニングはなんともつかみきれない語りから突然たたきつけられたようにはじまった。

outside yoshino
メンバー:俺   影響を受けた音楽:今まで聴いて来た全ての音楽と雑踏の騒音
音楽スタイル:エレキギターと声   レーベル:吉野製作所   
レーベル種別:アマチュア 

                (myspace.com/bedsideyoshinoより)

outside yoshinoのプロフィールを捜してみても、ようやくこれを見つけることが出来ただけ。「そんなことは、どうでもいい」という声がきこえてきそうだ。

たたきつけるようなギターの音と、outside yoshinoの叫びに似た歌声が客席に降り注ぐ。まるで機関銃の一斉射撃を受けるような衝撃。最初はただ「かっこいい」と思った。だけど、聞いているうちに、「かっこいい」から次第に離れていく不思議な感覚に陥っていった。

はじめてギターを手にした15才の不安定な少年時代。隣の家の犬をライバル(?)にしてひたすらギターを弾き続けた時の歌。聞いているうちにyoshinoのギターに反応して必死でほえる犬がそこに見えたような気になった。自分に挑んでくる得体の知れないものに対してただひたすらにほえ返す犬の姿は、何かをつかもうと必死になって、自分の中にあるぐしゃぐしゃなものと闘う15才のyoshinoの姿にも重なってくる。

次々に流れる言葉たちの中で、わたしの心に突き刺さった歌詞。

「弱いものから順に死んでいくのが当然なんだってよ………
 冗談じゃねぇぞバカ野郎 殺されてたまるか。
 言いなりになって捨てられるために生きてきたんじゃないはずさ……」

                      (「ファイトバック現代」より)

家に戻って、ライブの写真をPCに取り込んで見た。写真は「時」の中に流れていくoutside yoshinoのその瞬間……「今」を切りだしていた。

その表情は、突き放したような鋭さを持つ歌詞から感じる強さではなく、時には泣き出しそうな、時には祈るような……そんな種類のものだった。

「『傘に、ラ。』のテーマである『今』って、吉野さんにとって何ですか?」

ライブのあとで、“吉野氏”に戻ったときに聞いたこの問いに、返ってきた答え。

「え?『今』以外にいったい何があるの?」

その答えはあまりに強烈な直球だったので、わたしは受けとめた瞬間しびれて次の言葉が継げなかった。こんなに潔い「今」の表現って初めてだ。

「僕の音楽はね、ブルースなんだよ。」

この一言を聞いたときに、outside yoshinoの音楽を聴いているうちに単なる「かっこいい」から離れていった自分の中の不可解な感覚が見えた気がした。

あったかいのだ。彼のギターの音は。限りなく優しく、その鋭い歌詞を包み込んでいたのだ。激しくギターをかき鳴らすoutside yoshinoとギターは一体になって、祈りや叫びにも似た歌声を包み込み、それが受けとめるこちら側に「届けられる」感じ。

それは、「すごいアーティスト」が発する音楽を受けとめる、という感じではなくて一人の人間が「今」を必死で「生きている」その感覚の中に一緒に浸かっている感じ。

必死で何かに向かってあがいて、その中で泣きたくなったり、叫びたくなったり、そんな風に人間が生きている。ステージのoutside yoshinoも、受けとめるわたしも。

その言葉に出来ないものが、outside yoshinoの音を通して自分の中にある感覚を呼び起こしたのだろう……。聴きながら、やっぱり、今、必死で生きている自分もまた切なくて泣きたくなるような、そんな感じで胸がぎゅーっとなっていった。

最初、「かっこいい~」と思ってただその音の力に圧倒されていたわたしが感じた不可解な感覚は、これだったんだ。

そして、これが……outside yoshinoの「今」の形。

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「こんばんは、タテタカコです。」

いつもタテタカコのMCはピアノの前に座ってこんな風に礼儀正しい挨拶からはじまる。縁あって、タテタカコのライブは何回か聞いてきていたので、そんな「いつも通り」のオープニングをごく自然に受けとめて、いつものように流れるピアノの音に耳をかたむけた。

だけど、そこに続く時間は、いつの間にか「いつものように」ではなくなっていた。

タテタカコ
ハードコア・パンクからアヴァンポップまで、あらゆる表現分野を内包し得る新種(あるいは、珍種)のシンガー&ソングライター。
ピアノと歌だけを携えて、剥き出しの表現者魂に導かれるまま独立独歩で歌って歩く。

           (タテタカコHP—プロフィールより抜粋)

「いつものよう」ではないこの感覚は、じわじわとゆっくりやってきた。
何回も聞いた歌、馴染みの旋律。なのに、なんだかちょっと違う。

さっきのoutside yoshinoのステージで感じたのとはまた違う「不思議な」感覚。
またしても聴きながら不可解な状態に陥ってしまった。

「タテさんにとって『今』って何ですか?なかがわさんから、このテーマでの話を受けて、どんな感じがありましたか?」と問うと、タテさんはこう答えた。

「そうですね……なかがわさんからこのお話をいただいたときに、吉野さんとできるって思って、今日までこの時に向かってず~っと来た、ってそんな感じです。」

そういえば。ライブの途中のMCで、タテタカコはこう言っていた。
「新しいアルバムを出したんですが、今回はいろんな人とやりました。なんだかものすごく、そうしたいって感じたので。」

今まで、自らのピアノと歌だけで構成してきたステージやCDだけど、今回は違った。「人とやりたい」という想いがぐっと生まれてきた。この「傘に、ラ。」でもoutside yoshinoとやるんだ、まずその想いがタテタカコをこの「今」に導いてきたようだ。

「今は、こういうことがだんだん楽しくなってきているんです。」

昨年、タテタカコは友人の石橋英子と曲作りをし、ステージを共に構成した。それから「音楽を知らない」カンボジアのたくさんの子供たちに「音」を届けに行き、たくさんの子供たちと出会ってきた。

「それは、とても大きな影響があったと思います。それまでわたしは人と話すことがとても怖かったんだけれど、人と一緒にって事が怖くなくなってきた。そうしたら、だんだんライブとか話をすることとか、楽しいな、って思うようになってきたんです。」

わたしは自分の中に生まれた「いつもと違う」タテタカコへの感覚がどこから来たのかがわかった気がした。

「楽しくなってきた」……これだ。

今までわたしは、タテタカコのステージはいつもある「緊張感」を持って聞いていた。天から降り注ぐものをタテタカコが受けとめ、それを伝えるのを神妙に聞く……そんな感じ。

だけど、この日のステージではそうではなかったのだ。

たとえば、植物は「光合成」と「呼吸」をして生きている。
呼吸で排出したものを再び光合成のために身体に取り入れ、そこで作り出した物をエネルギーに生きて成長し、排出したものをまた呼吸で身体に取り入れる。そのくり返しで植物は自然の光や水を材料に自給自足で生きている。

この日のタテタカコはまるで植物のようにその音を生み出し、吐きだし、また取り込み……を、自然の流れのままでやっている感じ。outside yoshinoの音は、光や水といった光合成や呼吸のための材料やエネルギー。そして生まれたタテタカコの音は、受けとめた観客の感覚と混じって再びタテタカコの中に取り込まれ、ひとつになってまた音として吐き出されていく。

それは「今」この時、この場だからこそ生まれてくる音。タテタカコの中にある「楽しくなってきた」という感覚がそれをさらに膨らまして、拡げていく。会場も、共演者も、一緒になって呼吸し光合成をして、ステージが進んでいく。

それは、タテタカコが「祈りの肖像」という曲を歌ったときにぶわっと伝わってきた。

花よ誇れ その身を燃やせ 人よ歌え その声届くまで 
雨よ踊れ 乾き満たし 流れ続け 続け 続け
人よ歌え 生まれ変わる歌を 歌を
       (「祈りの肖像」より)

以前のように「天から降り注ぐ」感じではない。大地に根をはったタテタカコが大地から吸い上げたものや、生きるための自然な営みから生まれたものを広い空間にぱぁっと放ち、聞いている自分もそれを自然に身体に取り込む感じ。


今までライブで感じたような「緊張感」はまったく必要なくなっていた。

「今日のステージ、なんだかすごく拡がった感じがしたんです。」 そうステージ後のタテさんに語りかけると、「そうですか、もしそうだとしたら、それはきっと一緒にやってくださったyoshinoさんと、今日来てくれたお客さんからもらったもののせいだと想います。」いつものはにかんだような笑顔と共に、そんな答えが返ってきた。

「今」を生き、「今」を楽しむタテタカコが中心になって「今」が渦と拡がりまわりを包み込む。

……これが、タテタカコの「今」のあり方。

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「傘に、ラ。」の企画者でもあり、ずっと「今」をテーマにこのイベントを持ってきたなかがわ氏が、なぜ今回このステージには立たなかったか。

この日、この二人を招いたステージを作りあげたこと、これ自体がすでになかがわよしのの「今」の表現の形だったんだ。

つまり「なかがわよしの」は自らステージに立たなくてもこの二人とちゃんと「共演」していたわけで、その想いを受けてここに来た二人の音楽から「今」がものすごく濃い密度で発信されていたということなんだ。

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」
               
最初に引用したこの一文は、なかがわ氏がこの日、配った小説の一節。
二人の「音楽」から生まれる力と、なかがわよしのの「小説」から伝わる想い。

「今に生まれて今に死ぬ」……今、この時を生きている。私たちは生きている。
過去も未来もどうでもいい。今、ちゃんと生きているんだから。こうして何かを感じて熱くなってここに共にいるんだから。

なかがわよしの、outside yoshino、タテタカコ。と、この日ネオンホールの空間を共にした人たちが生み出した「今」はこうして思い切り燃え上がり、その幕を閉じた。

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今後の「傘に、ラ。」 (注:記事掲載当時’10.7月の情報です。)

10年7月25日(日)
「傘に、ラ。vol.19 ~カラーコーディネイト講習会やります。~」
@ナノグラフィカ 時間;13~15時 講師;一色はな

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.20 ~果樹園で朗読会。~」
@丸長果樹園 出演;植草四郎、井原羽八夏、なかがわよしの
詳細後日発表

10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」
@ネオンホール 詳細後日発表
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写真・文 駒村みどり

「こっちですよ」

案内の声に導かれて、受付から一段高台にある畑に着いた時、まるで青い空のかけらがこぼれ落ちてちりばめられているのかと思った。

それは、青いケシ。
青いケシが何株も目の覚めるようなさわやかな花びらを拡げてそこに咲いていた。
「ヒマラヤンブルー」という名を持つ、ケシの花の畑だった。

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駒ヶ根の市街地を抜けて細い山道をぐんぐん登り、パワースポットとして注目のゼロ磁場、「分杭峠」を越えると今度は長い細い山道を下ります。それはかつての「杖突街道」。今は国道152号線ですが、国道とはいえ、横には中央構造線に添って鹿塩川が流れ、反対側には切り立った山がひろがるこの道は、所々で車のすれ違いさえも困難な細い山道なのです。

突然、右の川の方から車の前を横切る大きな影。「危ない!」と急ブレーキを踏んでみると、大きなシカが道を横切ってあっという間に左の山の中へ消えていきました。

ここは、南信州にある「日本でもっとも美しい村」の1つ、大鹿村です。
その名にあるように、山あいの道を走るとたくさんのシカに遭遇します。……そのくらいの、山道なのです。

そして、ようやく少し開けた場所に出てくると、道のまわりに畑や田んぼが拡がり人家もちらほら見え始めます。この国道沿いに点々と散らばる人家や学校。やっと開けた場所にでてきてホッとしたのもつかの間。今日の目的地は、ここが終点ではありません。

カーナビの示す道をさらに山の方に上ろうとしたら「崩落により現在通行止め」の看板。あきらめてぐるっと山に添ってまわり、もう一つ次の道へ向かうと、そこもまた「崩落により………」。
もしかしたら、目的地に到達できないの?とおそるおそる次の道へ向かうとそこは何とか登ることができそうです。

そこから車はまた天をめざします。
ここからは片側が険しいがけ。所々ガードレールもない場所があり落ちたらひとたまりもないのでしょう。車のすれ違いも難しい細い道で、対向車が来ないことを祈りながらひたすら上を目指します。

そうして延々30分も上った頃でしょうか。要所要所の小さな看板が案内してくれていたその場所にようやく到着しました。
「青いケシ」……その小さな看板にはこう書いてありました。

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「はじめて青いケシが咲いてから、今年で17年目になるよ。」

ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原にある中村農園。そのご主人である中村元夫さんは、ここで様々な花を育てて東京や大阪に卸す仕事をしていました。

青いケシとの出会いは切り花のカタログを見て。普通は標高2000メートルから3000メートルの、気温が25度以上に上がらない、しかし適度な雨の降る土地でしか育たないこの青いケシに興味を持った中村さんは、ここ大鹿村の自分の農園でもなんとかできるかもしれない、と日本では不可能といわれた青いケシの栽培に取り組んだのです。

青いケシは、種をまいて1週間ほどで発芽します。そして本葉がでるまでの約一ヶ月間に温度と水分の管理でものすごく手をかけねばなりません。初めての時に中村さんがまいた種は3000で、そのうちきちんと苗として育ったものは300未満……たったの1割だけでした。

さらに、その1割の苗を植えて大切に守り育て、花が咲くのは翌年の6月……1年以上の時を経て、ようやく「開花」を迎えることが出来るのです。その初めての花が開いてから今年で17年。中村さんが慈しみ育てた青いケシは今や5000株に増え、毎年梅雨の時期に当たる6月はじめから7月はじめまでの一ヶ月間、一斉にその青い花を開いてたくさんの人たちの目を楽しませてくれるようになっています。

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この青いケシは先にも書きましたが、高温に弱く、気温が25度以上に上がるところでは育ちません。ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原はギリギリで、昨年の暑さで弱ったりダメになったりしてしまった株もあるそうです。そこに加えて今年は春の天候不順で、例年は一気に5000株が開くのがだいぶばらついてしまったそうです。

「でもね、ばらついてくれた方が逆に長く花が楽しめるので、たくさんの人に見てもらえるしね。」

中村さんは1人でも多くの人たちが楽しめるように……と、そう言います。

以前は株や切り花の販売もしていたそうですが、5000株もの開花を一度に見ることのできるのは日本……いえ、世界でもここだけかもしれないという専門家のお言葉にもあるように、ここ以外の場所ではこんなに生き生きと育つどころかあっという間に花がダメになってしまいます。「見に来てくれる人」のためもあって今は外には出していません。

中村さんの農園で17年間かけて育てられてきたケシの花の中には10年以上も咲き続けている株があり、1つの株に10輪も咲く株がここにはいくつもあるのです。それもこのケシの専門家の方にいわせると本当に珍しい(奇跡に近い)ことだそうです。

「前はね、種まきをして芽がでてから苗を作るまでも全部自分でやっていたのだけれど、管理を仕切れなくて、5000株のケシの花を維持していくためにもいまは中川村にある育苗センターにお願いしてやっているんだよ。それでようやく、苗になるのが2倍に増えてね。」

中村さんが育てているのは青いケシだけではありません。もともと花の卸しで東京や大阪にたくさんの花を卸しているのですから、他の花も温度や日照など気をつけながら育てています。そのかたわらの青いケシ、なかなか苗に付きっきりで育てるわけにも行かず……2倍とはいっても、もともと種から苗になるのは1割だったのが2割になったというだけ。貴重で難しいことにはかわりありません。外部に苗を依頼するようになってその分費用がかかるようになったので、ケシの花の入園料500円はその「協力金」なのだそうです。

中村さんは、展示会などで一輪見るだけでも貴重なこの”花の宝石”の青いケシ5000株の維持を、見に来てくれる人たちのために毎年丹精込めてしています。ですから、実際毎年見に来るファンも多いようです。私がケシの写真を撮っていると、同じようにカメラを持った年配の男性が「今年はね、ちょっと色ノリが悪いみたいだよ。例年はもっと青が深いんだ。」と教えてくれました。多い時には1日1000人ものお客さんが押し寄せる事もあるとか……この深い山奥に……想像しただけでものすごいことです。

協力金500円を払うともらえる入園券を3年分まとめて提示すると入園料はただになるそうですから、もし見に行くのでしたらチケットは捨てずに記念にとっておいてくださいね。

今年は、先にも書いたように花のばらつきはありますが開花が遅かったので、7月終わりくらいまでまだまだお花が楽しめるという中村さんのお話でした。もし、機会があったら是非ヒマラヤの青いケシの神秘な姿を見に訪れてみてください。

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さて、この青いケシを育てている中村さんには、もう一つの顔があります。それは「大鹿歌舞伎の女形役者」です。中村農園のHPを見ると、中村さんの舞台写真が掲載されていますが、そのやわらかい笑顔を浮かべた横顔を見ると、なるほど、と納得します。

実は、今年の夏……この大鹿歌舞伎を題材にした映画が全国で公開される事になっています。「大鹿村騒動記」というその映画は、「大鹿村の歌舞伎に取り組む」原田芳雄さんが主演で、昨年の大鹿村の秋の歌舞伎公演の収録も含めて大鹿村の光景や、村の人びとがたくさん画面に登場します。

中村さんもその1人。実際に白塗りの顔で舞台に立ち、セリフもちゃんとあるそうです。

「日本でもっとも美しい村」大鹿村の美しい自然や長い間受け継がれてきた大鹿歌舞伎の様子がふんだんに盛り込まれたこの「大鹿村騒動記」。7月16日から全国で公開されるそうですので、是非皆さん見に行ってみてください……そして、中村さんも探してみてください。(「白塗りの顔だから、わかんないとは思うけどね」と中村さんはおっしゃっていましたけれど。)

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中村さんに別れを告げて次に向かったのは、中村農園から数分くだったところにある「おい菜」というお食事処です。実は、「青いケシが6月に見られるのよ!」という情報をくれたのが、ここのおい菜のおかみさんだったのです。(ちなみに、「おい菜」というお店の名は、「おいな=おいでなさい」という大鹿の言葉から来ているそうです。)

帰りがけにおい菜に寄ってみると、ちょうど客足が途切れたところで、一番の特等席に案内してもらうことができました。

店の外のテラスです。やわらかい木のテーブル。正面には中央アルプスの雪をかぶった頂が連なり(千畳敷カールがよく見えました)、左手には遠く飯田の市街地が見えます。高台に張り出したテラスから下を見ると、パラグライダーの発着場で緑の芝生がひろがっています。そして……出てきたのはかりっと揚がった山菜たっぷりのコシの強いおそば(「皿そば」というそうです)。歯ごたえが全然違います。

ここ、おい菜のおかみさんがとってきた山ほどの山菜。「これのおかげで、ほんと腰が痛いわ~」と笑うおかみさん。おい菜にはその他にコロッケ、ラーメン、エビカツなどのメニューがそろっています。また、お店の入口には「鹿肉」や「猪肉」など「ジビエ」も冷凍されて売っています。

おい菜のご主人蛯沢さんはもともとはこの地元の方ではありません(北海道生まれ東北育ち)。大鹿に来る前は埼玉で居酒屋をやっていらっしゃったそうですが、「眠らない都会」から「お日さまと共に起きてお日さまと共に休む」生活がしたいと15年前、大鹿村にやってきて、このお店を始めたそうです。

ご覧のように、大鹿村の山の幸がふんだんに盛り込まれたおそばのコシの強さは、信州そばの味と香りに東北の粘り強さが混じっているからなのかもしれない……とそんな事を感じました。

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【Guide】

中村農園 HP  http://www.osk.janis.or.jp/~aoikeshi/index.html

大鹿そばの店 おい菜
住所:大鹿村鹿塩2459-1
電話:0265−39−2860
大鹿そば ¥1000
営業:4月29日~11月3日(6月は無休)
定休日:火・水・木(祭日は除く)

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「クリンソウ、見てきた?」

ここでまたまたおい菜のおかみさん情報。ここ大鹿村大池高原にある大池のほとりには、ちょうど今「クリンソウ」が花盛りなのだそうです。

「ここからすぐだから、見に行って良い写真とってきてね!」

おかみさんの声に送られて、大池にいって驚きました。
池の畔がピンクで彩られてまるで童話の中の世界のよう……。「日本で最も美しい村」である大鹿村の様々な美しさに感動し、堪能して……しかし、その次に訪れた場所で、その美しさの裏側にある「現実」を私は突きつけられることになったのです。

大鹿村が今、面している様々な変化と大きな波……それは、この次の記事に記述していこうと思います。

「実は、先日浪速の少年院で講演を頼まれまして。少年院、それも浪速の少年院なのでものすごくドキドキして行ったんですよ……。」

『夢』というテーマで話をしていた時に、突然少年院の話が出てきて驚いた。少年院……おおよそ「お菓子屋さん」とはつながらない場所。話してくれているのは菓匠Shimizuのシェフパティシエ、清水慎一さん。

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  清水慎一 

菓匠Shimizu専務取締役・シェフパティシエ
NPO法人Dream Cake Project理事長

「東京洋菓子倶楽部」( 東京・日本橋 ) で修行し渡仏。フランスで修行中にクープ・ドゥ・フランス大会入賞。
2005年、両親とともに「菓匠 Shimizu」新店舗をリニューアルオープン。
2006年より、子供たちの描いた夢の絵をケーキにしてプレゼントする「夢ケーキの日」を開始。 菓子業界のみならす各界から注目をあつめ、全国で技術講習や講演、世界的夢ケーキ普及のため小中高各学校で道徳やキャリア教育なども行っている。
夢は「お菓子を通して世界中を夢でいっぱいにすること」 愛称は「サンタクロース」。
                             (菓匠ShimizuHPより抜粋)

「夢ケーキ」で注目を浴びて、小学校や中学校からの講演の依頼が増えたという清水さんに舞い込んだ浪速少年院からの講演依頼。数多くの講演をこなしてきた清水さんはこの依頼に最初はとまどった。

少年犯罪を犯して収容されている少年たちに、自分の話が役に立つのだろうか?聞いてもらえないかもしれない……そんな思いを持って訪れた清水さんを迎えたのは、130人の院生たちのきらきらした眼と熱い拍手だった。

「正直な話、たぶんどこの小中学校よりも子ども達の姿勢はよく、背筋を伸ばして話にのめり込むように聞いてくれていました。涙を流さんばかりに感動した院生たちが、最後に全員で歌ってくれたのがゆずの『虹』でした。」

清水さんが少年院の先生たちと話をした中でわかったこと。それは罪を犯す少年たちは決して悪いことをしようとしているわけではなく、「居場所がない」ために居場所を求めて仲間たちに巻き込まれて、というパターンが多いこと……。

親から見放され、友人や社会から受け入れられずに「夢」をなくした少年たち。
その少年たちに「夢をあきらめないでかなえてきた」清水さんが語りかけたのだから、その瞳が輝くのもわかるような気がしました。

「子ども達には、ド真面目に、ド真剣に夢を語る大人が必要なんだと思います。」

この浪速少年院同様、いろいろな学校をまわってたくさんの生徒たちに出会い、先生たちに出会う。そこで清水さんが感じたことが、これでした。

子ども達は、夢の固まり。「運転手さんになりたい!」「野球選手になりたい!」「看護婦さんになりたい!」「世界一周したい!」……「○○したい!」「○○になりたい!」という思いはどんどんふくらんでいく。まだ世界を知らないし、自分に何ができるかわからないけど、だからこそその夢はあこがれを載せて無限に拡がっていく。

「なにそれ?無理だよ。」「そんな事できっこない。」「夢?ばっかじゃない?」

子ども達の「夢」に対して「世間を知った大人」がかける言葉の多くは、そこに「限界」を感じさせ、「制限」をつけます。無限に拡がる世界に大きな壁を作ってしまうのです。確かにそれは「現実」かもしれないけれど、それはあくまでもその大人にとっての「現実」にすぎないのです。

「ある中学で女の子が、ぼくの話を聞いたあとでこう言ったんですよ。『昔は、いっぱい夢を持っていたけれど中学になったら夢、って言葉をいわなくなった。でも、これからまたいっぱい夢を語りたい!』……ってね。たぶん、その子もまわりから夢なんて……って言われて夢なんかムリ……って思っちゃったんでしょうね。」

「できないって思ったら、絶対にできないし、あきらめたらそこでおしまい。だけど『絶対かなう』と思ったらそれはかなうんですよ。」

「夢は叶う!」……それを合言葉にして実際に夢ケーキのイベントを成功させてきた清水さんはそう子ども達に語りつづけているのです。

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「お菓子屋」である清水さんの想いが「社会」に向かうようになったのは、ある一つの事件がきっかけでした。

長野県のとある町。伊那近隣のいつもは静かなこの町で、突然起こった一つの悲劇。
……子が父に傷を負わせるという衝撃的な事件。

かつて、新聞では「人の死」の扱いがものすごく大きな記事になりました。それが今や自殺は日常茶飯事、肉親……本来は愛情で結ばれた関係である家族を傷つけたり殺害したりしても、「またか」と思ってしまう状況になっています。実際清水さんも、そういう事件を見てもどこかに「人ごと」という感じがあったそうです。

けれど、この時は違ったのです。自分の隣の町。もしかしたら……自分のお店に来たことがある人かもしれない。自分のケーキを、食べたことがある人かもしれない。

「もしも、事件の前日に、この家族が菓匠Shimizuのケーキを家族で一緒に食べていたら……もしかしたら、こんな事件が起こらなかったかもしれない。」

「人ごと」であり「自分には関わりのないこと」と思っていたこういう出来事が、悲劇が、一気に自分に降りかぶさってきたのを感じ、そして今まで「他人事」と無関心でいた自分へとその思いは向かったのです。

夢をなくした世の中。他人への関心が薄れた世の中。それは家族でさえも蝕んでいる。

自分も人の親であり、人の子であり、また、人を幸せな気持ちにするお菓子屋として、何ができるのだろう?夢を失った子ども達、夢のない社会……そのために何ができるのだろう?

そうして清水さんの中に生まれてきたのが「夢ケーキ」の構想だったのです。

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(写真は菓匠Shimizuの店内の展示。ケーキを受け取った人びとの笑顔がそこにある。)

「夢ケーキ」イベントは回を重ねるごとに応募が増え、中には毎回応募してくる家族もいて、いろいろな家族の笑顔がそこに生まれています。感想をもらっていると、その中で「家族の夢の進化」の有様が見えてくるそうです。

「このイベントに毎回応募してくださっているご家族があります。その「お父さんの夢」の欄を見ると、初めての時は「なし」と書かれていました。それが二回目の応募の時は「休みたい」でした。(中略) 
 その次の回には「休みの日に家族で出かけたい」と書かれていました。(中略)
 その次の応募用紙にはついに、「息子の夢をかなえたい」と書かれていました。(略)ぼくは嬉しくて応募用紙を見ながらニヤニヤしてしまいました。」(著書:世界夢ケーキ宣言!より抜粋)

こうして「夢」をキーワードにしてきた清水さんは、だからこそ「夢」というテーマについてよく考えるのだそうです。「夢って何だろう?」と……。

それは、無理矢理持たされるものではありません。「夢なんかありません」という人も実際にたくさんいます。じゃぁ、そういう人はどうすればいいのでしょう?

「夢なんかなくてもいいんです。そういう人たちにぼくはいつもこう言っているんです。『夢なんかなくてもいい。だけど、もしもあなたのまわりに夢を持っている人がいたら、あなたはその人の夢を応援してあげて。』……と。」

オリンピック、ワールドカップ、コンクール。テレビや新聞の向こうの世界のことでも、日本の選手が活躍するのはとても嬉しい。世界一を目指し、その夢のために闘う人を一緒になって応援する。その人が栄冠を手に入れたら……自分も嬉しくなる。
それは、その人の『夢』が自分の『夢』と重なって、誰かの夢が自分の夢になる瞬間。

それも立派な夢の実現の一つの形なのです。夢ケーキもその一つ。夢ケーキに限らず菓匠Shimizuのケーキは、そういう思いで作っていくことを目指しているのです。ケーキ作りは『物作り』ではなく『こと作り』。このケーキが食べたい、ではなくこの人が作ったケーキなら食べたい、と言ってもらえるようなケーキ作りを目指す。

けれど、いくら夢を目指し、思いを持ってやっていても、受けとめられるばかりではありません。時にはクレームもあるけれど、それはまた「さらに大きな夢の実現へのヒント」と受けとめ、無理難題は「あなたはそれをどうしたい?」と、大切なひとのためにだったらどうするかを考えてすべてを感謝に変えてやって来ました。

そのために必要なのは情熱だけではありません。「確かな技術」も必要です。夢をかなえるためにお菓子作りの腕を磨くこと、自分を高めることも怠りません。

「本当のおいしさとは味覚ではなく、安心感」
「お客様の言葉を愛で受けとめ感謝で返す」

……そして生まれるのが菓匠Shimizuのケーキであり、清水さんの目指すケーキなのです。

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「夢のない大人が、子どもの夢を育てることなんかできません。大人が夢を語る世の中にならないと。」

……そう語る清水さん。だからこそ「夢ケーキ」で家族がみんなで一つの夢を語る時間を提供したい。そうして家族が夢を語り、夢見た世界をケーキの上で実現したい。それがまた清水さんや菓匠Shimizuのスタッフ全員の夢になるのです。

果てしなく広がる夢をあきらめなければ、どんな形でもそれはきっと実現する。短い期間で850台ものデコレーションケーキを仕上げるという技も、その思いの上にやり遂げた。その充実感が清水さんやスタッフを幸せにし、その夢がつまったケーキを受け取った家族も笑顔になり、そしてその笑顔を見てみんなが幸せになる。……そしてそれが、次の夢の実現へのエネルギーになっていく……。

「夢を信じてかなえること」は、決して楽なことではありません。夢は、簡単に手に入ったら夢ではないのです。だからこそそれに向かって人は必死で努力するのです。

挫折も失敗もそこにはあるけれど、あきらめずに突き進めば絶対にかなう。そうして夢は果てしなく広がり、その連鎖でみんなが幸せになる。
そういう人びとで積み上げられた社会は……これは、本当に幸せな社会になる、心のある温かい社会になる。

実はそれが、「お菓子のサンタクロース」清水さんがめざす一番の「夢」なのです。

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「菓子屋が変われば、世の中は変わる」<菓匠Shimizuのこころみから>

8月8日世界夢ケーキの日 東日本復興チャリティー講演会 8月8日伊那市生涯学習センター6F 無料(義援金募金形式)300名
NPO法人「Dream Cake Project」 
 *今年度の夢ケーキ企画 期間8月5日~7日 (申込みは7月1日より)
東北大震災チャリティー夢ケーキ(2011年4月1日~2012月3月31日)
  
「夢塾」・お菓子作り教室……等イベント・企画多数。詳細、お問い合わせは菓匠Shimizu HP 

書籍「世界夢ケーキ宣言!幸せは家族だんらん」清水慎一著
清水さんの著書です。夢のこと、お店のことなどが綴られ、読んでいるうちにだんだん忘れていた「夢を追いかける気持ち」を思い出せる……そんな一冊です。

まるでおとぎの国のお菓子の家のよう。それともヨーロッパのおしゃれなセンスの良いお家。あまりに背景に見える中央アルプスの山並みが似合いすぎます。

このお店はお菓子屋さんなのだけれど、入口に向かうにはちょっとドキドキしながら緑茂る通路を通っていくので、お店というよりも友だちの家を訪れる感覚。そうしてドアを開くと……正面のショーウインドウには色とりどりのケーキが……。

けれど、私がまず目を奪われたのはそこよりもお店にいる人びとの様子でした。
まず、平日昼間のお客様の多さ。そしてそのお客様の中にお年を召した方の割合が多いこと。それは、正直「ケーキ屋さん」のイメージからしたら意外な光景でした。若い女の子や、ちょっと年配のマダムがおしゃれに立ち寄るのがケーキ屋さん、というイメージが私の中にはあったのですが……。

このお店は元々は和菓子やさんで、お店の一角ではちゃんと和菓子も……それもこのお店に受け継がれる味もしっかりと大切にされているからお年寄りの姿があるのも当然なのかもしれないけれど……。そんな風に思いながら、和菓子コーナーのショーウインドウでお菓子を見ているおばあさんの姿を見て、私はまた、はっとしたのです。

店員さんが……おばあさんの孫と言えるくらいの店員さんが、ショーウインドウの向こうからおばあさんの横にでてきて寄り添ってお菓子を一緒に選んでいる姿がそこにあったのです。まるで仲良しの孫とおばあちゃん。そんなほほえましい姿をそこに見て、このお店の中いっぱいに流れる温かい空気がどこから来ているのかがわかったような気がしました。

驚いたのはそれだけではありません。「○○様~。ケーキのご用意ができました。」……ケーキを選んで包んでもらい、お会計待ちをしていると店員さんが名前を呼んでくれるのです。

温かいなぁ……優しいなぁ……。美味しそうに並ぶケーキや和菓子たちの甘い匂いだけでなく、そんな微笑ましい「甘さ」がお店の中に漂っていました。

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朝7時48分。
お菓子を作る作業工房に、シェフ、パティシエ、店員さんたちがずらっと輪になって丸く並び、その輪の中の1人の女性がきりっと張りのある……それもかなりの声量でこう告げました。

「朝礼をはじめます!」
間髪を入れずその声は続きます。「笑顔体操、はじめ!」
かけ声にあわせて、顔をほぐすことしばし。そのあと「笑顔!」「真顔!」のかけ声でみんなが表情を作る練習。

でも、そこまでだったらまだいろいろなお店でもやっているのかもしれません。
その次に、二人組になるとみんなで真剣にはじめたことが……「じゃんけん」でした。嬉しそうに、楽しそうに。でも「本気」でみんな一斉にじゃんけんを始めます。

そうして次の合図で、勝った方の人から相手に向かって「いいところ」を伝えるのです。昨日見た接客の姿、お菓子作りに真剣な姿、同じ仲間として相手の姿を見て「いいなぁ」と思ったところを相手に時間いっぱい伝え続けるのです。

……皆さん、同じ職場でそれをやるように言われてできますか?それは実はとでも難しいこと。まずはその「相手」をしっかり見ていなくてはなりません。悪いところは目につきやすいもの。でも、いいところというのは相手をしっかり見ていなくては気が付かないもの。そして、それも中途半端に見ていたら、上っ面の言葉はすぐに相手にばれてしまうので「誉め言葉」にはならずにかえって不快にさせることになります。

それを、たった1人だけでなく、職場全員の姿について……仕事をしながら見ているわけですから、これは簡単にできる事じゃないのです。2人組になって、まず相手と握手をして挨拶してから勝った人が時間いっぱいに心から相手のいいところを伝える。当然、自分のいいところに気が付いてもらえたら嬉しいから聞いている方は笑顔になっていきます。心からの笑顔です。

そうして時間が来たら、自分のいいところを語ってくれた相手に心からのお礼を言うと、交代です。また真心のこもった言葉がどんどんと相手に届いていきます。

お互いにいいところを伝えあったら、今度はくるりと回れ右して、違う二人組でまたいいところを伝えあいます。それをみんなが真剣に伝えあっていく中で笑顔と優しさがこの作業工房の中に充ちてくる感じがしました。

「なりたい自分を想像しましょう!プラスのイメージで。イメージした自分にしかなれません!」

次のリーダーの声で、それまでのにぎやかさがあっという間に静寂に変わります。目をつぶって自分の「よい姿」を心に描くのです。そして次に「世界一宣言」。

自分は、これの世界一になる!という宣言を1人ずつ全員が、大きな声で順番にしていくのです。一周まわって全員の「世界一」が出そろうと、次は「HAPPY スパイラル!」……ここまで来るともう、お祭りが最高潮に盛り上がっているかのように皆さんの顔が上気し、声もどんどん大きくなっていきます。そしてその盛り上がりはみんなの意気を一つにまとめ上げていくのです。けれどそれは単なる大騒ぎばかりではなく、次の瞬間はみんなで手をあわせていろいろなものに静かに感謝の心を持つ時間へとつながります。

きれいだなぁ……
目をつぶって心の中で、家族、お客様、仲間、地域の人たち……いろいろな人たちに「感謝」をしている人たちの静かな横顔は、まるで仏像のような穏やかさに充ちているのです。

最後に目を開けて、仲間全員と順番に握手をし、一日頑張ろうと挨拶をしあって朝礼が終わったかと思うと、さっきまでの盛り上がりが嘘のように皆さんさっと自分の今日の仕事・持ち場に向かってそのままそれぞれの作業が始まるのです。

それはもう、鮮やかというか何というか……あまりの見事さに、私は言葉が出ませんでした。
たぶん10分か15分くらいの時間の中で、これだけ濃縮された中身が展開されて職場の仲間の心が一つになり、笑顔があふれ、やる気に充ちて始まる一日。 

ただ笑顔の強制じゃなく、ただ大声の強制じゃなく、ただ形ばかりの挨拶や目標を順番に述べるだけじゃない。見習い研修中の人も含めて皆が同じようにこの朝礼の時間を共有することで、この作業工房の中にやる気と真心をいっぱいに満たしてしまったのです。
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皆さんが朝礼をやっている間に、ふとまだ暗い店内を見渡せるカウンターの上に目が行きました。そこには、何冊も重なった分厚いノート。

どのノートも明らかに、びっしりと書き込まれていることは一目でわかります。たぶんこれは、それぞれのスタッフが書きためている仕事の記録なのでしょう。

菓匠Shimizuのシェフパティシエは、日本やフランスの各地のお菓子作りの権威のもとで修行を積んできた方でものすごくお菓子作りには厳しい方と聞いています。朝礼のあのノリで、意気をあげてその勢いだけで突っ走るのではなく、朝礼のあとはあっという間に仕事について張り詰めた空気を作りあげるのはたぶん、この「技術的」にも皆さんが菓匠Shimizuの味として責任持って胸を張れるものを生み出す努力も怠っていないから……さりげなく積み重ねられたノートのふくらみ方を見てもそれを感じることができました。

その確かな技術と、それから仲間同士の強い支え合いと真心の成果は、この菓匠Shimizuで行われている「夢ケーキ」というイベントが毎年「大成功」を積み重ねてきている実績にも表れています。

この「夢ケーキ」というイベントは、2006年、5年前から菓匠Shimizuで行われているイベントです。2005年に今の場所に今のお店をオープンし、その一周年企画で開催されたこのイベントは、「家族みんなで一つの夢を語ってもらい、その夢をケーキの上に描いてプレゼントする」というものです。

みんなでサッカーをしているケーキ、ロケットで宇宙に飛び立とうとするケーキ……様々な家族の夢を描いたケーキを形にして、その家族に無料でプレゼント……家族に夢を送ろう、子ども達に夢が叶う喜びを届けよう、という思いの元に開催されているこのイベントは、第一回目に6台申込みがあってから年を重ねるごとにその応募数を増やし、第8回には850台ものデコレーションケーキを応募者に届けるという、偉業を成し遂げています。

この夢ケーキの構想は、今や日本の各地に飛び火して共感したお菓子屋さんがそれぞれの想いを乗せた夢ケーキのイベントを始めて来ていて、2010年には8月8日を「夢ケーキの日」とし、さらに今年度はNPO法人「Dream Cake Project」を設立、このお店から発信された「夢ケーキ」の構想が「8月8日世界夢ケーキの日」制定に向けて確実にそのあゆみを進めています。

このイベントがここまで定着し、拡がり続けているのはまぎれもなくこの菓匠Shimizuの「夢に向かって突き進む力」であり、それを現実に叶える技術力でもあります。

デコレーションケーキは生ものですから、作り置きができません。日頃の業務はきちんとこなしつつ、数日の間に何百というデコレーションケーキを作りあげること。それはスタッフがあきらめず、できると信じて心を一つに協力してここに向かうからなのだと思います。

「お客様の夢を叶える」という喜びのために、みんなが一つになって、数が多いからと手抜きをすることなく、むしろ妥協を許さない厳しさと、時間や費用などの制約に負けないあきらめない心とで毎年成功しているこの夢ケーキ。ケーキを受け取るお客様の笑顔をエネルギーに、夢が叶うものだという喜びを送り続ける菓匠Shimizuの真心は、世界一の真心。

その真心のエッセンスがたっぷり含まれたお菓子。それはこのお菓子を食べた人たちにこれからも伝わり続けていくことでしょう。

いつかきっと。カレンダーに書かれる日が来るに違いありません。
「8月8日 世界夢ケーキの日」………と。

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さて。
この朝礼でお会いできなかった方がいます。

この菓匠Shimizuのオーナーシェフであり、朝礼を提案し、夢ケーキを進めてきた清水慎一さん……菓匠Shimizuの三代目です。

厳しさの中にも本気の笑顔でお菓子を作り続けるスタッフとこのお店を引っ張る清水さんとは……一体どんな方なのでしょうか?改めてこの次の記事で取り上げたいと思います。

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢」へつづく)

 

どこまでも細く続く山道をうねうねと上っていく。

「本当に、こんなところにあるんだろうか?道間違えたのかなぁ?」と、思わず不安になったその時。

小さな川に架かった橋を渡るその直前に、橋の向こうの道に沿った日の当たる山の斜面に目を奪われた。

「うわぁぁぁぁ……すごい………。」

思わず絶句した三年前の春。

駒ヶ根に住むお友達が教えてくれた駒ヶ根市中沢の「花桃の里」。「桃源郷」という言葉があるけれど、それはきっとこういう場所のことなのだろう……と思わず納得してしまったほどに、そこは美しかったのです。

山と山に囲まれた狭くて日影の細い道が、川端で開けて日当たりの良いその場所に、赤、白、ピンク……色鮮やかな花桃が咲き乱れていました。

訪れたその時は、ちょうど満開。さらに快晴で青空が拡がり、花桃たちは春の日を浴びながらきらきらと輝いて咲き誇っていました。花桃だけではありません。芝桜が川岸を覆いつくし、レンギョウや水仙といった春の花々が皆一斉にお日さまに向かって花開いていたのです。その有様はとても印象的でした。

それまで「花桃」という花の存在自体を知らなかったのですが(果実用の桃の花は見たことがあるのですが)その「花桃」の可憐さやあでやかさに魅了され、それ以来春の光景というと桜と並んでここの「花桃」を思い浮かべるようになりました。

その花桃の里についての「ある情報」が耳に入ったので、3年ぶりのこの春、再び訪れてみようと思い立ったのです。

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実は……この花桃の里を作りあげたのは「たったひとりのおじいちゃん」なのです。

宮下秀春さん。

花桃に包まれた「休み処 すみよしや」のご主人です。

「ここはもともと家が持っていた土地なんだけど、この急斜面に小さな棚田が7枚あっただけでね。川も荒れてた。退職のちょっと前から定年後の楽しみに……と思って、子どもや孫が遊べるようにと川の整備をはじめたのが平成3年だったな。」

「花桃を植えだしたのはその翌年の平成4年だったよ。で、店の建物を建てたのも同じ年。どうせやるならお店をやった方がいいのでは?と勧められてね。」

そうして定年後の楽しみとして整備をした川には、毎年夏になると駒ヶ根中の保育園の子どもたちが、順番にバスに乗って水遊びにくるそうです。

「管理が大変だけどね、特に夏は。だけど子どもたちの声がきこえてくるのが楽しみでねぇ。」

……と、日焼けした顔で瞳を細くして笑う顔はとても優しいおじいちゃん。

花桃は、平成4年から毎年30本〜50本を植え続け、今や800本という数。周り中どこを見てもかわいらしいお花が。不思議なことに、同じ木に白い花と赤い花、ピンクと白、など違う色の花が咲くのです。

「親の木を見れば、その種を育てるのでだいたい花の色もわかるよ。」

桃の花は種をまいて育てるそうです。9月半ばに種をとってまくと次の5月には芽が出て3ヶ月で苗になる。さらに3年たつと花が咲く。それを繰り返して今の花桃の里があります。去年は新聞でも紹介され、駒ヶ根市の「花巡りバス」のコースの一つにもなっていて、各地から訪れる人も増え時によっては渋滞が起こるほど。

ひとくちに「800本」と言っても平成4年から19年。たった1人で、山の急なところにも、川の水のせせらぎの近くにも、この谷のあちこちにある花桃を植え続ける。それは簡単なことではなかったでしょうに、宮下さんの笑顔からは「子どもたちや孫たちが喜んでくれたら」という張りが感じられます。

花桃の他にも、レンギョウや芝桜を植え、育て、そしておととしからは水仙を植え始めたそうです。水仙は年に1500本植えるとか……。本当に……想像を絶する数なのですけど……。

頑張ったんだ、とかすごいだろう、なんて感じは微塵もなくただただ沢山の人が見に来るのが楽しくて仕方がない、こうして人が見に来てくれるのが何よりも嬉しいんだ……という感じです。

その宮下さんがこの花桃の里で奥さんとやっている「休み処すみよしや」さん。
お団子と珈琲のセット。500円です。
ピンクのかわいらしいお団子の中にはあんこではなくみたらしが入っていて、口の中にとろっと溶け出しそれが何ともいい感じでおいしかったです。
(このお団子は、12個ひと箱700円、お土産で買えます。その名も「花よりだんご」というお団子。みたらしでなくごまが入っているのもあります。)

このお休みどころでは、春はイワナのお料理(庭にある池にいっぱいいるんだそうです)、夏はこれもまた敷地内に宮下さんがご自分で建てたBBQ場で炭火の焼き肉、秋には県のキノコの指導員を務めていた宮下さんが山で採ってくるキノコを使った松茸料理を楽しめるとのこと!

一年中、花桃の時期以外にも沢山の楽しみがありそうです。

花桃の里の花咲かおじいさん、お休みどころのご主人、キノコの指導員、などいろいろな顔を持つ宮下さんには、もう一つの顔も。

この地区の小学校中沢小学校では年3回全校での炭焼き行事がありそれを販売するという活動をしているそうで、その炭焼き指導も宮下さんの大切な仕事の一つ。

実は、宮下さんの一番下の内孫さんがこの中沢小学校の5年生なのだとか。
「でもね、おじいちゃんが来るのは照れて恥ずかしいみたいです。」…とお団子販売を手伝っていた宮下さんの娘さんが教えてくれました。

けれど、小さい頃から身近にあるこの花桃の里はお孫さんたちにとっても「残していきたい大切な場所」のようです。

「二番目の息子がね、今、調理師学校に通っていてね……。」と娘さん。

どうやら、このお休みどころには将来若い料理人が入ることになるのでしょう。おじいちゃんが慈しんだ花桃は、その心は。こうして若い世代の夢にもなって引き継がれていくのでしょう。

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南信濃には、こんな風に「個人が作りあげた花桃の里」がいくつか存在しているようです。二年前に訪れた泰阜村にも、それから大鹿村にも有名な個人宅の花桃スポットがあるようです。

こうして美しい景観をさらに美しく整えて次の世代に残していく。
そんな心が、ここ、南信濃にはあちこちに色濃く受け継がれているように思いました。

(写真・文 駒村みどり)

※中沢の花桃の里は、こちらです。

大きな地図で見る

さわやか信州旅.net(長野県観光公式ウエブサイト)での情報ページ

なお、例年よりも花が咲くのが遅れているので、このゴールデンウイークに満開になりそうです。是非訪れてみてください。苗木も販売していますよ。

7月11日、日曜日。天気は、あいにくの小雨模様。
菅平の裾の須坂でさえ肌寒い……さぞかし上は寒いだろうと長袖を着こんで会場に向かった。

けれど、会場に着いたときに思った。
どうやら長袖の必要はなかったのかもしれない……と。

※ここまでのことは「なから」がもたらす可能性(1)をご覧下さい。

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会場は菅平高原グリーンパーク。会場併設のグランドでは夏のシーズンの菅平名物、ラガーマンの練習風景が雨にもかかわらず展開している。

屋内のBBQコーナーは、すでに材料が並び始めて準備が整っていた。そして感じたのがそこの熱気。まだBBQの鉄板に火が入ってもいないのに、なんだかすでに熱いのだ。

「何かが、ここで起こりそう」……そんな予感がびりびりとしてくる。
そして、その予感が的中したことは、そのあとすぐに判明した。

「乾杯!」
間島さんの音頭で乾杯したあと、代表の児島さんの挨拶。それからメンバー自己紹介。
まずはこのイベントの関係者。東京から来たセガレメンバー5名。つづいて長野側の間島さん関係者。みんな話が面白い。というか、つい耳をかたむけて聴き入ってしまう話ばかり。……まだ、ほんの自己紹介なのに。

その感じは、多分わたしだけのものじゃない。だって、目の前にあるごちそうや飲みものを手にとりながら、誰一人として自分勝手に騒ぐ人なんかいない。話す人を見て真剣にその言葉を聞く。40人もの人たちがほそなが~く座っているから決して聞きやすい状況じゃないのに。

「みんなやってたら時間かかるだけだよね、それぞれで話をしながら自己紹介してください~。」

自己紹介はそこで中断。そしてたくさんの「セガレ(とセガール)」たちはたちまち入り交じってとけ合っていった。

参加メンバーの職業は本当に多彩だったし、活動地域もバラバラ。

地元観光地の旅館やホテルのセガレ、レタス農家の方、プロスノーボーダーの方、山野草などの花卉を栽培・通販している方、ステンレス創作をしている方、横浜でシステム開発をしている方、小谷村の写真を撮り続けて発信している方、印刷会社のセガレ、地元の広告代理店の方、などなど。中には遠く南信の阿南町から駆け付けた写真屋のセガレも。

まずは横浜のSEの沓掛さんとセガレメンバーの静岡のミカン農家のセガレ、わたるさんに話を聞く。ネットでこのイベントを知ってわざわざ横浜から駆け付けた沓掛さんは、実家が青木村で農業を営む、まさにどんぴしゃの「セガレ」。

「そうですね、家に戻るのには迷いがあるけどいずれは考えなくちゃならない……。」

田舎に引っ込むとSEの仕事は激減する。しかし都会から仕事を受けようと思うと費用の面で避けられる。今は国内よりも海外に発注した方がずっと安上がりだから。では家の仕事を手伝うか……というと生活の面でもかなり不安だ。

その迷いは、多分「セガレ」たち共通の悩み。東京のセガレたちはそういう悩みについての勉強会や意見交換会を開くこともしている。

そういう沓掛さんを「メンバーにいつでも歓迎しますよ!セガレは会社じゃない、サークルのようなものだし。」と受けとめるわたるさんは、東京で経営コンサルタントをしている。自分の実家だけでなく、農家の人たちがちゃんと生活できる、生活するだけの収入を得られるようになる手助けがしたい、と語る。

「でも、自分が出来るのはアドバイスだけです。自分たちは作っていればいい、というだけの農家じゃ手助けは無理。」

自分の家だけもうかるようにするのは多分すぐ出来る。でもそれじゃぁ「農」を考えたときに意味がない。“日本の農業”がきちんと成立するようにしなくては。そう語るミカン農家のセガレは、誇りある「日本の農家のセガレ」でもあるのだなぁ。

セガレつなぎに身を包むあつしさんは、酒米作りの農家のセガレ。代表の児玉さんが、東北の酒蔵の「セガレ」と縁があり、その縁をあつしさんに結びつけた。あつしさんの実家の造る酒米と、酒蔵のセガレとがコラボして出来上がったのは「オヤジナカセ」という名のお酒。父の日に向けてかなり売れたようだ。

「父の日が過ぎたら売れなくなりましたけどね、でも、父の日用のお酒、という位置づけでいいじゃないか、と思うんですよ。オヤジとセガレを結びつけるきっかけになるようなお酒になったらいいなぁ、と。」

久しぶりの帰省に、オヤジと飲もうとセガレがみやげに持ち帰る、もしくは久々に家に帰る息子と飲もうとオヤジが用意して待っている。帰れないけど感謝の気持ちを込めてオヤジに贈る、などそんな時に、この酒を……とあつしさんは言う。そんなメッセージ性(物語)のあるお酒、素敵だよなぁ。

間島さんとこの企画を盛り上げようとがんばってきたのが同じデザイン会社に勤める関さん。なんでこの企画に関わったのか?と聞いたらこういう答えが返ってきた。

「広告って、人を元気にするためのものじゃないですか。自分はそう思って仕事している。うちの会社は社長始めそういう人が集まってて、間島さんもそう。
広告ってものすごくいろんなことにつながることが出来る仕事。結局、人を元気にすることやそういう集まりの中から情報がどんどん集まってくる。こっちから発信するとまた集まってくる。そうしていろんなところとつながって、どんどんみんなが元気になったらいいじゃないですか。」

……広告は人を元気にするためにある。あったかい言葉だなぁ。

同じく上田セガレチームの大久保さんは、菅平プリンスホテルのセガレ。日本のダボスと言われる菅平はスキーのメッカだけれど、スキー人口は減少、各地のスキー場はどんどん苦しくなっている。

「菅平はまだ、夏のラガーマンの合宿があるからいい。他のスキー場と比べたら落ち込みは緩やか。けれど、この先を思ったら「春」や「秋」も考える必要がある。」

そう語る大久保さんが今取り組んでいることは、“ほっとステイ”。真田町と協力し、都会の子供たちを菅平に泊めて、真田町の農業体験&お年寄りとの交流を組み込んだ体験ツアーだ。このほっとステイ、セガレ代表の児玉さん出身地の武石村がやっていたことで、それを見に行った大久保さんが、都会のクールに見える子供たちが帰るときにお年寄りとの別れに涙を流す様子を見て「これだ!」と思って取り組みはじめたそうだ。

最初は「儲け」のことが頭にあった。採算を考えてがんばったときもあった。けれど、大久保さん自身が「お年寄りの無償の善意」に触れて考えが変わった。この企画は「信州しあわせ村」という団体でやっている。団体自体の儲けなどはほとんど無い。けれど、これを続けることで何か見えてくるはずだ。その手応えは確かに感じている。

現在、このほっとステイは長野県内で武石と真田町の他、青木村、立科、長和村、茅野が「長野県ほっとステイ協会」として横のつながりを持ち、フランチャイズ形式でお互いに支え合いながら活動を続けている。

その大久保さんに、「ここで何が起こっているのか」もよくわからずに引っ張ってこられたのが伊藤さん。「自然回帰線」という名のペンションのセガレだ。伊藤さんは元、自転車のレーサーだったが腰を痛めて菅平に帰ってきた。
彼とはあまりゆっくり話も出来なかったけれど、最初は周りの熱気に押されっぱなしだった彼が、帰った翌日Twitterでつぶやいた言葉は印象的だ。

「一晩開けても興奮冷めやまぬ。それは、きっと自分の中で何かが変わり始めた証拠だと思う。」

間島さんつながりで、カメラの仕事と兼ねてこの集まりに参加した南信、阿南町の写真館のセガレ、後藤さんもこう語る。

「離れて気が付く地元の良さって、ありますよね。自分も、この先写真を通して地元の南信州、阿南(新野の雪祭り・盆踊りで有名)の魅力を伝えていきたいと思っています。こういうイベントがまた開かれるのだったら、都合がつけば遠くても是非参加したいですね!」

セガレたちの集まりの持つ熱は、こうしてまた新たな熱を呼び覚ましたのだ。

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こんな風にたくさんの人たちの話を聞いてまわっているうちに、これだけたくさんの業種、職種、地区の人たちの集まりであるにもかかわらず、あるひとつの「共通点」があるように思えてきた。なんだろう?もうちょっと話を聞いてみる。

「セガレメンバー」の一人、湯田中のりんご農家のセガレ山本さん。彼はやはり幼い頃からりんご農家の大変さを感じて、兄に続き自らも地元を離れた。今、弟が家を手伝っている。「家を継ぐ」事について親は何も言わないし、責められているわけでもない。けれど、かえってそれが辛かった。自分の中では「何も出来ない、何もしていない」後ろめたさがずっとあった。

そんな時に東京で「セガレプロジェクト」に参加するようになった。
メンバーはみな「セガレ」である後ろめたさを持ちながらも、決して後ろ向きにはとらえていない。むしろそれぞれが出来ることをそれぞれの立場でやること、それを「楽しむ」感じ。

地元でりんごの手伝いをするのは、今の自分には出来ない。それじゃ、自分に出来る事って何だ?……そう考えた山本さんは、実家が作って売っているりんごジュースに目をつけた。ただ何もラベルのない瓶に詰めて売っているだけ。ここにちゃんとデザインしてラベルをつけたらどうだろう?

広告プランナーの山本さんは、友人のデザイナーの協力を得てラベルを作った。貼って売り出した実家のりんごジュースの売上げは、今までとはぜんぜん違った。自分も家の役に立った。親も喜んでくれた。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そう思えるようになった。

橋詰さんは旧武石村(現上田市)で、豚とトマトをやっていた農家のセガレ。やっぱり農業のつらさがあって、「継ぐ」という気持ちはなかった。兄は地元にいるが、別の仕事に就き、実家の農業は一回途切れた。

母親がずっと、花作りをしていた。花を育てながらいろいろ苦心する母の役に立ちたかった。そこで橋詰さんは花作りの専門学校に進学するためにいったん地元を離れた。その間いろいろ考えた。
自分の地元の武石村も、若い人たちが離れてどんどん寂れている。それはなんだかいやだった。実家はトマトもブタもやめてしまったけど、農地や設備は残っている。無からの出発ではなく「ある」ところから出来る。……「あるもの」で何が出来る?

そう思って地元に戻り、地元の花屋で働きながら実家の畑で今いろいろな野菜作りに取り組んでいる。彼は農協には入っていない。農協にはいると最低価格は保証されて、安定感はある。けれどそのためにはある程度の量産をしなくてはならない。今の状態で量産を考えたら人手も時間も足りない。そのために無理を重ねるのは何かおかしい。

計画的には出来ないけれど、代わりに自由度はある。自分でやることによって、お金で買えないものが手にはいる。自分が作った物を直接近くの店やレストランに卸して食べてもらう。「おいしかった」とまた買いに来る子供の感想を聞く。

「無理してやることはない。」

今ある農地で、今得られる力で、どのくらいあげられるのかが課題、と彼は言う。

その彼の言葉に同意するのは菅平で有機レタスを作っているまる文農場の小林さん。彼の祖父は上田から菅平の開拓史としてやってきて、その畑を守る3代目セガレだ。
JAは保証があるけれど、そのために量産が必要だ。それにある程度以上には高値で売れない。自分で直接売ったらもうちょっと高値でも売れる。そうして手塩にかけた野菜の販売網を自らで開拓し、自ら積んで配達しに行く。販売地域は主には上田から軽井沢まで。須坂からも売りに来て欲しい、とオファーがあったがそこまでは手が回らないから、と断った。

配達してくれる人を捜したら?というと彼もまた、こう口にした。

「無理はしない、無理をさせないのがいいんです。」

自分の手で運ぶのが大切なんだ、自分たちでやるからいいのだ、そのためには身の丈以上のことはしないのだ………と。

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長野県には、「なから」という言葉がある。

自分に出来ること(やりたいこと)を出来る範囲で、「楽しく」やるのがスタンスのセガレプロジェクト。一方、この集まりにやってきた長野県のセガレたちもまた、みなそこにあるものの範囲で、自分に出来ることを考えて決して「無理をしない」でやっていくスタンス。どちらもみんな、この「なから」な感じ。

今回、この菅平のイベントを取材してみてセガレたちから感じた共通点。それははじめて児玉さん・間島さんと話した日の想いと重なった。

彼らの親御さんたちは、ものすごく大変だった。彼らは小さい頃からその作業の手伝いにかり出された。そして物作りの大変さを身にしみて感じたからそこから離れたいと思った。けれども、親の作り出す物の温かさや大切さもまた、彼らの中には染みこんでいた。親のようにがんばりすぎるつもりはないけれど、でも、大切なものを伝えることはしたい。

そんなセガレたちの想いの行き着くところがこの「なから」なあり方だったのかもしれない。無理しない。多くを望まない。ある物、できることでやれる範囲でやっていく。

がむしゃらに収入を上げるために働く「エコノミックアニマル」と呼ばれたかつての日本人。高度成長の呼び声に踊らされて家族よりも社会、会社、国のために「24時間働きづめ」だった時代。その時代のツケが押し寄せて日本全体が混迷の状態にある今、そのセガレたちが人間らしく生きるために見つけた答えが「なから」なあり方なのかもしれない。

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イベントの最後は、みんなでの記念写真。
参加者の中に何人もカメラマンがいて、それぞれ交代でシャッターを押した。記念写真といったら、みんなで瞬きも我慢しながら緊張してシャッターが押されるのを待つ……のだと思ってた。

最後の一枚は、関さんがカメラの「横」に立った。みんなに声をかけて笑わせる。そしてその笑いの瞬間に、ファインダーものぞかずに、シャッターを押した。


                       (写真提供:関さん、間島さん)

「はい、お疲れ様~!!」(え~?いつ撮ったの???)

最後の記念撮影も、また、なからに終了。
そんな“なから”なセガレたちの集まり(つながり)はこれからの大きな可能性を秘めて幕を閉じた。

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セガレHP

写真・文 駒村みどり

大都会で。ネット上で。
偶然の出会いが拡がってそれが重なり合い、そしてひとつの熱い固まりになった。

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2年ちょっと前、東京のとある勉強会で偶然出会った3人の若者たち。
きっかけの言葉は、「実家では、何作ってるの?」

都会では、ずっと口にすることのなかったそのセリフ。
新鮮だった。そしてなんだか嬉しかった。こんな話が出来ると思わなかった。

一緒に会って飲みながら語りあうようになった。
かすかに感じていた後ろめたさ、そのマイナスの想いを「モチベーション」に換えて「行動」した。好評だった。後ろめたさが薄れて、さらに「楽しく」なった。

………それが、「はじまり」。

代表の児玉光史さんは、「はじまりの3人」のうちの一人。
長野県上田市(旧武石村)出身で、現在は東京でサラリーマンをしている。高校・大学と野球を続けていた。見上げるように背が高いので「大きいですね」と言ったら「大学の野球部では普通の方ですよ」とのこと。

そんな児玉さんのご実家は、アスパラと米を作る農家だった。
子供のころから家の手伝いをして、感じた農家の大変さ。野球中心の毎日、さらに東京に進学しそのまま就職して、実家の農業とは遠く離れて行きつつある都会の日々にも、「農家のせがれ」であるという意識はどこかにずっとこびりついていた。

何となく、後ろめたい気持ち。家の大変さはわかっている、でも……。
そんな中で参加した、東京での「農を考える」勉強会。そこで出会った他の二人も「同じ思い」を抱えていた。緑少ないコンクリートジャングルで実家の話が通じ、そればかりではなく実家の話題で盛り上がるという新鮮な感覚。

飲み仲間として3人でよく集まっているうちに、ふと思った。
「都会で“農”を考えたら、俺たちはプロじゃないか。この話題に関したら都会では誰にも負けない。」

ちょうどその頃、中国製の餃子の問題があって、「食の安全」について大きな話題になっていた。自分たちの実家には親が丹精し、安心して食べてきた新鮮で誇れる農産物がある。誰よりもその価値を知っている自分たちがそれを売ったら……。

実家に行って、実家の作物を車に積み込んだ。東京有楽町でやっている月に一回の「市」に持ち込んだ。すべて自分たちでやったので、ものすごく大変だった。「売れるんだろうかなぁ」という懸念ものしかかってきたけれど……。

「完売」

すべて売り終えたあとでそれまでとは違った想いが頭を持ち上げてきた。
……この考え方は、この方法は、「あり」だ。

そこからはじめたこのプロジェクト。今は、月に1回第3日曜日に自由が丘で野菜の販売をする活動をメインに、多彩なプログラムが行われている。活動を展開していくうちに、大都会に埋もれていた“せがれ”たちがだんだん集まってきた。


                             セガレHP

スタートは3人の出会いだった。

それが今年の9月で3年目を迎える今、メンバーはどんどん増えている。農家の伜という共通点を持った彼らは、自らを「セガレ」(女性はセガール)と称し、その活動を「セガレプロジェクト」と呼ぶ。

「だけどあくまでも“サークル”のようなもの、草野球のノリなんですよ、これは。」

今のメンバーの数は?と聞くと、答えは50人から70人とのこと、ずいぶんとおおざっぱだ。それもそのはず、入会規約があるわけじゃなく、会費があるわけじゃなく、なにか義務や責任が発生するわけでもない。コンセプトは「楽しく」。各個人が、好きなことを好きなようにやる。やりたいと思ったことを提案する人がいれば、それに参加したい人は参加し、手伝いたい人が手伝う。

「先日初めての有料講座を企画したんですよ。で、そこに集まったのが5人。」

「え?それだけ?」……“5”という数字をきいて、わたしは一瞬そう思った。けれど、続いて出た児玉さんの言葉は、「5人“も”集まったんです。」だった。心から満足そうな笑顔を浮かべて。

児玉さんは続ける。

「有料の講座だとしたら、もしかしたらひとりもいないって可能性だってあるんですよ。ひとりもいなかったら、何も始まらない。だけど、5人来てくれたんです。ひとりでもいたら、何かがはじまる。それが5人も、ですよ。すごいことですよ。」

「草野球」……そうか、草野球だ。

規則に則った試合なら最低9人は必要な野球。けれども、野球が好きでやりたいのだったらボールを握って飛び出せば、壁に向かって投げてとって一人練習も出来る。そこに誰かもう1人来たならば、2人でキャッチボールも出来る。3人いれば、落ちている枝を拾ってバットにしてでも投げる、打つ、受ける……ゲームも成立する。そう考えたら、5人いたらすごいじゃない………。確かに「5人も」と思うよね。

まず枠があって、その枠に何人足りない、という引き算の発想じゃなくて、一人よりも二人、二人よりも三人の方が可能性が増える、という足し算の発想。

さっき「草野球のようなもの」だと表現したこのセガレプロジェクトのあり方は、こんな児玉さんの想いが根底に流れているからこそ成立しているのかもしれない。

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「高校の時、武石村からどうやって通っていたんですか?」

現在は上田市武石地区となっている旧武石村。上田と小諸と美ヶ原を頂点に結ぶ三角形のほぼ真ん中に位置する。美ヶ原に隣接、といったら交通の便がいい?……と思うが実際は上田と松本を結ぶ三才山トンネルを通る道と、佐久と諏訪を結ぶ和田峠を越える道とにはさまれたど真ん中にあり、どちらも武石村は通らない。上田の高校に通っていたという児玉さんだけれど、鉄道は?バスは?と考えてみると、かなり不便だったろう。

「ああ、高校の時には同じ野球部に武石村から3人行っていましたので、3人の親が交代で送り迎えしてくれたんですよ。」

………武石村から上田までは、少なくとも40分以上はかかる。余裕を見て往復で2時間近く。練習時間もきっと朝早くから夜遅く。ご家族は朝は5時くらいに出て送って行き、武石に戻って農作業し、夕方の仕事が終わったら上田に迎えに行き、暗い道を汗と泥にまみれた高校生3人乗せて帰ってくる……。3家族で交代、とはいえ3日に一度上田までの2往復をやる。それも高校の3年間。

それをやってしまう武石村の親御さんたち……話を聞いただけでパワーに圧倒された。

でも、この話を聞いて悲壮感を感じないのはなぜかなぁ。「大変ですねぇ。」と同情するよりも、「いいなぁ、そうやってみんなでやり遂げちゃうの」という、エネルギーの強さに感動した。それは多分、児玉さんから武石村のもろもろのことを聞いたからだろう。「いいなぁ、武石村」……そう思ってしまう前向きなパワーがそこにはあった。

たとえば、地元の野菜や肉を使った「武石丼」というごまみそ味のメニューがある。「武石特産品検討委員会」が地域おこしのためのレシピ公募でグランプリに輝いた武石地域生活改善グループのレシピをもとに考えられた。この武石地域生活改善グループの代表が児玉さんのお母さんだ。(彩りも工夫、地元食材で「武石丼」 グランプリ決定~信州Live on

「なんだかね、地域の人と一緒になってやってましたよ。こんな風にみんなを盛り上げるの、得意みたいですね。」とお母さんについて語る児玉さんだけど、セガレプロジェクトを立ち上げて盛り上げている児玉さんはそんなお母さんゆずりの血を絶対濃くひいている……。

その他、今は約80農家が協力して「体験学習」を行っているが、そのまとまりはしっかりしていて、みんなで盛り上げもり立てる空気が武石にはあるらしい。

「秋のね、地区住民の運動会は武石を離れた同級生たちも帰ってきますよ。僕も毎年参加です。あれは続けたいですね。ぼく一人になっても絶対に続けますよ。」

上田の高校までの毎日の送り迎えは3家族の協力体制。体験学習をみんなで盛り上げる力。地元の運動会に帰省するセガレたち。地域おこしのためにみんなでレシピを開発するパワー。

わたしは武石の実情は知らない。だけれど、この日児玉さんから聞いた故郷のあり方は……そのまま、この児玉さんを育てた気風で、そしてその気風が大都会でもたくましく受けとめられる「セガレプロジェクト」につながっているんだな、と……ふとそんなことを考えた。

そうして児玉さんが2人の仲間とはじめた「セガレプロジェクト」は新聞や雑誌・テレビでも取り上げられて今やメディアの注目株。様々な追い風もあって、どんどん拡がっている。

その拡がりが、長野にも飛び火した。7月11日の日曜日、長野の菅平高原。
セガレパワーの火が、ここでもまた熱く燃え上がった。

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「セガレとセガレのBBQ、やります」

今話題のTwitterでふと目についたその文字に興味をひかれてたどったリンク先にあったのがこのチラシ。

このチラシを作ったのは、上田市のデザイン会社に勤める間島賢一さん。

記載されたリンクをクリックしてたどり着いたのは間島さんのブログ「間島の仕事」の1ページ。そこにど~んと載っていたのがこのチラシだった。

「若い頃は世間知らずでしたよ。」と笑うその表情からはまったくそんなことは想像できない。けれど、このあとのBBQで間島さんを昔から知る仕事仲間からも「昔はね、怖かったんです」という言葉が聞かれたから実際そうだったのだろう。ぎらぎらしていた。仕事をとるために、ガンガン突き進んだ。「ライバル」は山ほどいて、一歩でも先んじることばかりを考えていた。

けれど今回、間島さんの仲間はみな「こんなに人が集まったのは間島さんの人柄ですよ」……BBQで、予想を遙かに上回るメンバーが集まったのを受けて、口をそろえてこう言った。

間島さんは、自身のブログでこう綴る。

「今、企画デザインの仕事をお客さまと直接お取引しているなかで、ライバルと感じる感情が一切ない。(高飛車な意味じゃないですよ)    
 何でだろう?? そんな会話を聞いていた当社の代表が一言。

『見ているところがお客さんだからだよ!』

ライバルに勝つ負けるばかりを考えていると、肝心なお客様の為に何をすべきか
を怠ってしまいます。     (中略)   お客様の視点になって考える。」

印刷会社の営業の仕事から今のデザイン会社に移った。そこでの新しい同僚やお客さんとの出会い。それが間島さんの視点に影響を与えた。肩の力が抜けた。

そんな中で「農家」の方の仕事を請け負う機会が増えた。「物作り」のプロである農家の人たち。だけど日本では今、農業は「職業」としては成立していない。おまけに農家の人たちは「伝えること」がすごく下手。農村では若い作り手はどんどん減っていて、都会では「農業ブーム」が起きているけど、ブームとは裏腹の「現実」がここにある。

農業ブームって何だ?それって変じゃないのか?

そんな中で、東御市にある「永井農場」の仕事に関わった。そこでは誇りを持っていい作物を作る人(おやじ)と、それからそれを上手くコンサルテーションして「伝える」部分を考える人(せがれ)がいた。二人のコンビネーションが、この農場を成功に導いた。

「ブーム」ではない別の「渦」(動き)が、あってもいいのじゃないだろうか?「農」がちゃんと生活するために必要なものを得られる職業、仕事、として成立するための何かがあるはず。

そんな想いを持った間島さんと児島さんの出会いもまた、Web上だった。
セガレプロジェクトや、それについてのHP、ブログなどを通じてつながった二人が「会いませんか?」ということになったのは、今年のゴールデンウイークだった。

実家の野菜を都会で売る。活動基盤は東京だ。けれどいずれは長野に戻ろうと思う。長野ともっとつながりたい。……そういう児玉さんの想い。
東京で農をメインに据えた活動を展開し、成り立っているセガレプロジェクトと交流できたら、地元も大きな影響を受けるかもしれない。……そういう間島さんの想い。

二つの想いが重なり合って、勢いづいたこの企画が動き出した。

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長野県の方言のひとつに「なから」という言葉がある。
「なから」は中くらい、という意味ではない。中途半端、という意味でもない。大概、大体、おおよそ……そんな感じの言葉だ。

できることを、「5人しか」ではなく「5人も」と足し算思考で実践している児玉さん。
自分視点からお客さん視点に変わって力みが抜けて、自然体でやっている間島さん。

がんばって完璧をめざすんじゃない。だけど無責任で中途半端なことはしない。

そんな二人のあり方を見て、なんだかみょうに「いろいろ“なから”なんだよなぁ、そんなあり方っていい感じだなぁ。」と思えた帰り道だった。

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「10人も集まればいいかなぁ。」間島さんがそんな軽い気持ちではじめたこのBBQ企画。同じ会社の仲間たちや、菅平の観光を考える人たちの協力を得て、口コミに加えTwitterでの呼びかけの効果が大きく、蓋をあけてみたら総勢40人の名前が参加者名簿に並んだ。

……BBQ当日の模様は、「なから」がもたらす可能性(2)に続く………。

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写真・文 駒村みどり

「長野市は川合新田からやってまいりました、なかがわよしのです。」

おなじみの前口上だけれども、聞く場所によってこんなに違うものなのか。

カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

今まで2回にわたって取材してきたなかがわよしの氏の「傘に、ラ」のシリーズ。
今回は、2月の末にネオンホールで行われた「芝居」の会(「傘に、ラ vol.8」と、先日6月始めに行われた田植え&田んぼでライブの会(「傘に、ラ vol.16」)のふたつの会を取り上げてみようと思う。

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なかがわよしの氏。
彼が「今」をキーワードに様々な試みをしている「傘に、ラ」。
詩の朗読や対談、音楽や芝居など様々なジャンルでいろいろなゲストと共にこれまでいろいろな場所で展開されてきた。

ナノグラフィカ、ネオンホール、そういった「会場」で行われたり、最近ではツイッターといったネットの上で展開されたり。

2月の「傘に、ラ」は、凍てついた空気の中、ネオンホールで行われた。
ちょっと遅れて入った会場のステージでは、女性二人がおしゃべりをしながら餃子を作っていた。そこにあるのは、ごく普通の「日常」を切りとっただけの一場面だった。

前半は赤尾英二氏脚本・演出による「餃子のなかみ」という現代口語劇。
激しい動きはない。ステージの上では餃子の具をきざみ、それを包み、「いただきます」というところまでの30分の展開。

ところが、「餃子を作って食べる」というその一連の流れの中で交わされる会話はかなりドラマティックだ。赤尾氏の演じる弟と、囲む姉二人(司宏美氏、田中けいこ氏)の3姉弟の間にはいろいろなわだかまりがあって、「親の死」という事実の前にお互いの想いがぶつかり合う。

妹弟を思うがゆえに口うるさくなる長姉。素直に受け止められない弟。間にはさまれる次姉。その3人の想いを紡ぎ、気持ちを繋げていくのがひとつのセリフだった。

「来た道を振り返ってはため息をつき、石橋をたたいては渡るのをためらう。」

先を見過ぎても、過去にこだわりすぎても進めない。せっかくのこの瞬間を見失ってしまう。そのセリフは出来上がった餃子から立ち上る湯気のようにステージ上の3人を包み込み、餃子の香ばしい香りと共に会場にも広がり、さらにはなかがわ氏の一人芝居へと引き継がれていく。

(ちなみにこの餃子、前半の劇終了後の休憩時間に会場のみなにふるまわれた。写真を撮っていてわたしは食べ損なったがおいしそうだった………残念。)

続くなかがわ氏の一人芝居。彼が演じるのは、売れない脚本家。

売れない彼は、ある日「声」を聞く。
~「今」をわたしにおくれ。おまえはすばらしい過去と未来を手に入れる。地位や、名誉はおまえのものだ。~

そうして彼はその声にしたがって「今」を捨て去る。
あっという間に売れっ子の脚本家に変貌した彼の「過去」には華やかな名誉ある足跡が刻まれ、「未来」は光にあふれて輝く。金も、地位も、女も、栄光も……彼は「すべて」を手に入れる。たったひとつ「今」をのぞいたすべては彼の思いのままだった。

しかし、彼には「今」がない。だから、「今を生きている」実感がない。
どんな名誉が過去にあっても、その名誉を受けたその瞬間の実感がない。この先必ずすばらしい成功が来るのは約束されている。だから今、そこに向かう緊張感もない。

ちやほやされても賞賛を浴びても。彼はその「瞬間」の記憶がない。

「さみしい」「むなしい」「悲しい」

次第に彼の心は、華やかな実情とはまったく別の感情に占領されていく。
そして彼は、かつて自らの「今」を明け渡した「声」に、再び乞い願う。
「お願いです、僕の今を返してください」………と。

声は答える。
「それなら、おまえの命とひきかえに『今』を返そう。」

彼は、今……その「一瞬」を手に入れ、その瞬間にすべては「無」に……。

ネオンホールの真っ暗な空間に、沈黙が流れる。
「今」というテーマがぎゅっと凝縮され、一瞬の光を放って、消えた。

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6月に入ったばかりの日差しまぶしい小川村の田んぼ。
白馬に向かうオリンピック道路に向かって登っていくのぼり道をすこしあがると、歓声が聞こえてきた。

道から一枚の田んぼが見える。その手前の広場には軽トラや自転車が停めてあり、祖田んぼ沿いの空き地にはテントとビールケースをひっくり返した即席テーブル。

小さな煙突つきのストーブからは煙が上がり、その上で豚汁がおいしそうに湯気を上げている。そこに田植えをしている人がいなかったら、それはさながらキャンプの光景。

「傘に、ラ。vol.16~田植え的ピクニック~」

なかがわ氏からいつも送られてくる「傘に、ラ」の告知メールにはこう書いてあった。

田植えやります! 当日苗がどんくらい集まるかわからんので、「え!? もう終わりっ」とかいうこともなきにしもあらずだけど、豚汁食ったり、談笑したり、誰かが歌ったり、あっちで即興芝居はじまったり、ラジカセからなんかいいカンジの音楽流したりして、またりーと過ごす予定。「ピクニック、ときどき田植え」な催しです。 

なかがわ氏、奥さんに誘われて姨捨の田んぼの農作業を経験、それで田んぼの面白さに目覚めたそうなのだけれども、今回それが「ピクニック」という発想につながったのはナノグラフィカの高井綾子さんとの会話がきっかけだそう。
(ちなみに、高井さんは昨年松代で田んぼ作業を経験、その模様はこちらから。
皆神山の麓の田んぼで…・ 桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?

高井さんから小川村で田んぼをやっている大沢さんを紹介してもらって今回のこの田植えイベントになったということ。

この田んぼは、小川村に移住してきた大沢さんと、お友達のジョンさんの家族が借り受けてやっている田んぼだそうで、大沢さんも田んぼや農業に関わりたくて長野県にやってきた人。小川村では農業就業者の年齢が高齢化して、今ではあき田んぼが増え、大沢さんやジョンさんのように借りる希望者がいても、それよりもあき田んぼの数の方が多いのが実態。

けれど、そんな中でも「田んぼ」を受け継いでやっていこうとする人がいる。
なかがわ氏も、それから今回ここに集まったなかがわ氏の友人の多くの人も、何らかの形で田んぼに関わっていた人たち。

その人たちが今回、なかがわさんの呼びかけで集まってみんなでワイワイと田植えをしちゃおう、ということなのだ。

家族ぐるみで参加している人が多く、小さい子供もたくさん。水位を下げているとはいえ田んぼのどろどろの中、膝の上まで泥にはまって田んぼのかえるやオタマジャクシと戯れながら、ひとしきりお田植え。

2時をまわった頃には、田んぼの端までしっかりと苗が植えられて、せき止められていた取水口から勢いよく水が流れ込み始めた。
そして田んぼの横に停めてあった軽トラが、一転ステージに変貌する。お田植え会場は、あっという間にライブ会場に変身。なかがわ氏の詩の朗読がはじまった。

田んぼに水の注ぐ音。空の高いところを吹き抜ける風の音。なかがわ氏が「今」を紡ぐ音。それらが頭の上にひろがった閉ざされることのない空間に広がっていった。

続いてステージに登場したのは地元小川村のデュオ、「やくばらい」のおふたり。
オリジナルソングを中心に、10分ほどのミニミニライブを展開。

ちょうど、田んぼの上の道を通りかかったおばあちゃんがその歌声を聞きながら、「いや、おんがくこういうところで聞くのって、なかなかいいもんだね。」と笑顔を浮かべてゆっくりと畑に向かっていった。


やくばらいミニライブのラストナンバーはメンバー紹介ソングだったのだけど、ここでジャンベをやっているという大沢氏が臨時参戦。けれど、ジャンベがそこにあるわけではなく、転がっていた長い塩ビのパイプをたたいての即席パーカッション。

やくばらいのお二人のデュエットに絶妙に絡んだ“パイプカッション”のセッション。
今、この時、この瞬間だから生まれた音が静かな田んぼの上を渡る風に乗ってのんびりと流れていった。

軽トラの即席ステージで、なかがわ氏の即興詩の朗読と、塩ビパイプの即席セッションが加わった田んぼライブが終わる頃、みんなが田植えで踏み込んで泥で濁っていた田んぼの水も、すっかり澄み渡って静かに青い空を映し出していた。

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暗く閉ざされた空間で、その空間の中に凝縮され、発表の場に向かってぐーっと焦点化されていった「今」があれば、どこまでも広がっていく無限の空間の中に、その瞬間にふと生まれてどんどん広がっていく「今」がある。

どちらもまぎれもなく「今」であり、その表現の形。

「なんかね、最近はテーマとかジャンルとかあまり気にしないで『これやりたい』と思うことをとりあげるようになってますね。」

田植えをなぜ『傘に、ラ』で取り上げたのかを聞いたとき、なかがわ氏はそう答えた。

なかがわ氏がこの「傘に、ラ」というイベントで持っている「今」というテーマ。
どうやらそれは、すでになかがわ氏だけのものではなくなっているようだ。なかがわ氏が取り上げるジャンルや会場、そういうものに影響を受けその場を共有したものたちの中に、しっかりと「今」が息づいて広がり始めているのではないか。

いろいろな形の「今」があり、いろいろな人の「今」がある。
それはみな違うものだし、その先がどこに向かっているのかもわからないけれども、そういうたくさんの「今」が出会い、触れあい、輝きあって「明日」に向かっていくのだろう。

始まって半年のなかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、そうしてこれからも様々な「今」を織りなしながら進化していく。

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今後の「傘に、ラ」
(注:記事掲載時2010年6月時点の情報)

10年7月3日(土)
「傘に、ラ。 vol.18 ~今に生まれて今に死ぬ~」@ネオンホール
出演:outside yoshino・ タテタカコ
料金/前売・予約3500円、当日4000円
問い合わせ/026-237-2719(ネオンホール)

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.19 ~果樹園で朗読会。~」@丸長果樹園
詳細後日発表
10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」@ネオンホール
詳細後日発表

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写真、文 駒村みどり

小布施の町立図書館、まちとしょテラソ。
今までの「図書館」のイメージとはまったく離れた、しかし図書館の原点を基盤にしっかりふまえたそのスペースは、小布施の町の人々やその気風から生まれたものだ。

しかし、この「まちとしょテラソ」という形をイメージしてそれを提示し、そのイメージを「形」にするために、まとめ上げてリードしていく存在がないと無理なことだ。

今回、このまちとしょテラソを知りたい、知って欲しいと思って取材で館長の花井裕一郎氏と話をしているうちに、強く思ったこと。

「この人がいたからここまで来て、この人だからこそあるこの空間なんだ。」

多分、まちとしょテラソは小布施だからこそ生まれた場所だ。小布施の人々がいたからこそ実現した場所だ。そして、そこにこの人のイメージや思いがなかったら、多分形にならなかった場所だ。

今回、まちとしょテラソを取り上げるにあたって、この人について語ることも欠かせないのだろうと思う。
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花井裕一郎氏。
小布施町、まちとしょテラソ館長。演出家、映像作家。 OBUSERYTHM
福岡県 旧宮田町に生まれる。 1989年、ディレクターとしてフジテレビの番組を担当。その後、NHK、TBS、NTV、CSなどの番組を担当。2001年長野県小布施町に魅せられ移住。2008 年小布施町立図書館 館長に就任 2009 年まちとしょテラソ(小布施町立図書館)初代館長 小布施にて創作活動を続けている。

「はじめて小布施を訪れたとき、ものすごい大雪の日でしたねぇ。今でも覚えてます。」

1999年のことだった。
花井氏は、そのころフジテレビの「スーパーニュース」の土日の企画を担当していた。

それまでずっと、映像の世界で世界中を股にかけて飛びまわり、いろいろな国、いろいろな場所、いろいろな人と出会ってきた。その花井氏と小布施との出会いは、番組で担当しているミニドキュメンタリーで小布施のレストランを取り上げることになったことから。

そこで取り上げたレストランが「蔵部」。出会ったのが「白金」というお酒とその頃はまだ無名だったセーラ・マリ・カミングス氏。さらにそこから小布施堂の市村社長へとつながっていく。そこで小布施に魅せられた花井氏は、程なく月一回の小布施通いをはじめる。

当時、テレビの世界でも様々な番組を担当し、多忙な毎日だった花井氏の心の奥にあったひとつの想い。

「自分の生きるフィールドは、ここではない。」

若い頃に映像の世界に関わりたくて上京し、ずっとその世界で生きてきたけれど、テレビの世界には自分のめざす物はない。自分の「表現場所」はここではない。

そんな想いの中、東京での多忙な毎日を過ごすうちに、突発性難聴を起こしたり、事故に巻き込まれたりした花井氏が小布施に感じたもの。その「直感」にひかれて小布施通いをするうちに、次第に小布施に位置付きはじめた自分を実感しはじめる。

「通っているうちに、いろいろな人と出会い、そして小布施というこの土地で“議論を交わせる”人がどんどん増えていったんです。」

そうしてついに、小布施に住むことを決意。東京から小布施に移住して9年目を迎える。

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「思えば、ずいぶん遠くに来たもんです。」

というので、「お生まれはどちらなのですか?」と聞くと返ってきた答えは「福岡」。
………確かに、遠い。そして九州男児……なるほど、妙に納得する。生まれは九州福岡。「青春の門」の舞台となった炭坑で有名な筑豊地方。

「実はねぇ。僕はいろいろあって中学浪人しているんですよ。」

別に、高校に入れなかったわけではない。受ける学校によって差別されるようなそんな風潮に違和感を覚えて自分から「行かない」道を選んだ。「高校に流れのままに行くのは嫌だ」という思いを理解してくれた叔母の言葉……

「浪人は、大学だけじゃないんだよ、行かないという選択肢もあるんだよ。」

その声に後押しされて予備校に入学。一年間そこで学んで入った高校で「出会い」があった。仲間とバンドを結成、音楽の世界を仲間と楽しんでいるうちに当時はやりだした「音楽ビデオ」の作成に興味を持つ。それがきっかけで次第に「映像」の世界へと想いが向かっていった。

「映像の仕事をしたい」。そう思って大学は東京をめざした。とにかく、東京に出たかった。だから、東京の大学に合格して上京したあと、今度はテレビ局通いをはじめた。

その頃はテレビ局で、学生のバイト採用があったのでそれを狙った。何度も何度も空きが出るまで粘った。そして、ついにフジテレビに採用され、そのまま「3時のあなた」という番組のADに。テレビの世界での経験を積みはじめる。

やがて「学生」という肩書きが外れることになってバイトではなく「仕事」を得る必要が出、テレビ局の人に紹介されてあるプロダクションに入る。けれど、そこで任されたのは「バラエティー」。……”過剰な演出”の世界。
やりたかったのはドキュメンタリー、人間ドラマ。めざす世界とは違う。強い違和感を覚えた花井氏は、思い切ってプロダクションを辞める。

その会社からはもちろん、紹介してくれた人からも激しい非難を受ける。テレビや映像の世界には、もう戻れない……。

しばらくその世界から離れ、仕事を辞めて生活に困って花井氏が就いた仕事が「靴の販売店員」。店員募集のチラシにつられて飛び込んだその店で、花井氏は接客の毎日。まったく畑の違う仕事だったが、この“インターバル”が花井氏に与えてくれたものは大きかった。

「人間観察が出来るんですよ。いろんな人が毎日店に来る。相手の表情を見ながら、どんなものが欲しいのか、どんな言葉や表現をしたら相手が気持ちよく品物を買うのか。そういう“人を見る”スキルを身につけるのにあの頃の経験が本当に役に立ちましたね。」

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相手が望む要素、どんな要素を入れたら人が受け入れたり理解したりしてくれるのか。
「表現」を自分からするだけではない、受け止める相手の姿を見ることは実はとても大切だと思う。

どんなにいいと思う物事でも、ただ自分の想いのみを発信するだけでは、受け止める側へ想いのないそれはただの「垂れ流し」になってしまう。それは映像、音楽、情報、教育、販売、すべて「受け止め手」がある世界には共通のこと。

けれど、今の社会ではそのあたりがおろそかになっているように思う。中央からテレビを通して氾濫してくる情報。それは花井氏が過剰な演出の世界に違和感を感じたように、単に受けるため、視聴率や販売数を上げるためだけの垂れ流しに陥りがち。

発信側は、発信する責任がある。受け止め側も当然、それを取捨選択する必要がある。けれど今、そのバランスが崩れている。だからこそ発信側のこういう想いはとても必要なのだと思う。

花井氏のこういう経験が元になった表現のひとつの形である「まちとしょテラソ」がなぜ心地よいのか。そのあたりのヒントが、ここにあるように思う。

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靴(リーガルシューズ)の販売員をしながら販売スキルと共に対人スキルもアップした花井氏は、再び映像の世界への足がかりを持つ。

先生について、シナリオの勉強をはじめたのだ。シナリオの勉強は楽しく、そこでスキルアップした花井氏は以前プロダクションを辞めたときに出来てしまったわだかまりなどからあきらめていたテレビ局への関わりを、再び取り戻していった。

そして、自らのめざす「文化」「人のあり方」「音楽」「食」などに焦点を当てた番組作りなどに携わり……「小布施」に出会う。

月1回の小布施通いから、やがて小布施移住を決意した花井氏は、2001年から小布施の住民になる。まだ家族で一緒に動くのは難しかったので、一年間は自らが先に小布施に暮らし、「東京通い」をしつつ、単発での映像の仕事を請け負う。正直、東京の時よりは収入は減った。けれども、それよりもっと大きなものを花井氏は得た。

「東京にいた頃はね、○◯テレビのディレクター、という肩書きで呼ばれた。けれど、小布施に来たらね、『小布施の花井さん』っていうのが僕の肩書きになった。」

そうして「小布施」という町に積極的に関わり、町作りの話し合いや意見募集にはどんどんアイディアをぶつけ、そして今、「まちとしょテラソ」というひとつの「表現の場」に到達した花井氏。

彼の経歴は決して「図書館」に近づくものではなかった。けれど、映像の世界、テレビの世界、番組作り、演出や脚本、そして販売員として培った人を見る目……さらにさかのぼって「ただ流れにまかせて高校に行けばよい」という流れに乗らなかった自分。

そういう数々の「寄り道」「回り道」「みちくさ」とでも言える多くの要素やスキルが、今このまちとしょテラソの中のあちこちに、ちゃんと生かされているのだ。

「今まで僕は、いろんなドアを開けてきた。いろんな鍵を手に入れて。そして、ここでまたひとつ、大切な鍵を見つけたんです。」

人間、持っている引き出しはたくさんの方がいい。生きているその時その時で、今を含めてこの先、どの引き出しがいつ必要になるかなどとは誰にもわからない。だから、たくさんの引き出しにいろいろなものを詰め込んで持っていて、必要なときには必要な物をぱっと取り出せたらそれは素敵だ。

「対象は、乳幼児から高齢者の方まで」というまちとしょテラソがいろいろな年齢層の人に受け入れられ、町中の人ばかりでなく今、各地の人からも注目されはじめているのは、様々な要求や用途をちゃんと取り入れ、受け止め、答えるために花井氏が今までにあけてきたたくさんのドアや得たたくさんの鍵が大きな役割を果たしていることは確かな事実。

白か黒か、◯か×か、の世界ではなく、グレーゾーンを許容し、とにかくやってみて結果を見てまた進む、という小布施の空気がそれをあたたかく包み込み、だからこそまちとしょテラソは今、どんどんその魅力に磨きをかけて様々な人を惹きつけているのだろう。

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「なんだかよくわからなくてぶらっと立ち寄るわたしのような人間でも、すんなりと受け入れてもらえるこの雰囲気が嬉しい。これってきっと、館長さんのお人柄なんだろうなぁ。」

まちとしょテラソの一室は、その日小学生から中学生で満員だった。その会場に偶然居合わせた一年生の娘を連れた小布施在住の友人が、こうつぶやいた。

子供たちの目的は、小学生が子供だけで作った映画を観ること。花井氏から上映会のことを聞いて時間ぎりぎりに会場に飛び込んだわたしは、想像以上に子供たちであふれかえっているその様子に驚いた。1時間ちょっとの上映時間、満員の子供たちの目はずっと映画にそそがれ、ワクワク感がまわりでどんどん高まっていくのを感じていた。

けれど、その空気を誰よりも感じて一番目をきらきらさせていたのは、花井氏だった。

「こんなにたくさんの、それも子供たちが来てくれるとは思わなかった!」

そう語る花井氏の顔には、満面の笑顔。

この空気を作り出したのはこういうイベントを心から楽しんでいる花井氏と、それから会場の設営や受付を心込めて一生懸命にやった館員の皆さん。だからこそ、子供たちはその想いを素直に受け止めてイベントを楽しみ、子供たちにひかれて来る親たちにもその様子が伝わり、先に述べたような友人のひとことにつながっていくのだろう。

みちくさもあり、寄り道もあり、大きな回り道もあった。
けれども、そういういろいろな道程を経てたどり着いた小布施の地で、いろんな道程から学び、感じ、受け止めたことをもとに今、発信をはじめている花井氏。

小布施を、まちとしょテラソを、自分の行き着いた表現の場として心を注ぐ。花井氏のその想いは今、確かに人々に染みこんで伝わりはじめている。

「ここからは、人を育てたい。」

今、花井氏がめざしていることのひとつ。

自分がリードしながらすすめてきたイメージは、ここでひとつの形になりつつある。その想いは館員や周りの人々に伝わりつつある。だけど、この先それは自分だけではできない。ちゃんと人を育て、共にすすむ人、“その先”を任せられる力を育てないと。常に「協働」「共働」を頭に置く花井氏の想いがそこにある。

「この先」を強く見据える「小布施の花井」氏の目には、そういう人たちと共に紡ぎ出すはずの、さらに広がり輝く未来のイメージが次々と生まれてきているのだ。

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(注:以下の情報は、2010年記事掲載の当時の情報です)
まちとしょテラソ今後のイベント予定(http://machitoshoterrasow.com/

著者×まちとしょテラソ#5   鈴木中人さん講演会
■講 師 いのちをバトンタッチする会代表 鈴木中人氏
■テーマ 「いのちのバトンタッチ」
■日 時 7月1日(木) 18:00~19:00

第3回 紙芝居を楽しもう!
■7月10日(土) 10:30~12:00

お父さんによる読み聞かせ会
■次回 7月11日(日)

まちとしょテラソ開館一周年記念シンポジウム
「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~
■日 時 7月19日(海の日) 15:00~18:30

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「原点に立ってめざす「先進」の姿~小布施、まちとしょテラソ~」

写真・文 駒村みどり

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