生き方

心は体には囚われない〜風子、その2〜<’10年5月掲載>

(その1)よりつづき~

小児マヒによる緊張と硬直で動きにくい手の変わりに足を使いこなす風子こと冨永房枝さん。
彼女と話をしていると、まったくそういう「障害の壁」を感じない。なぜだろう?

ひとつに、彼女はいつも笑顔を絶やさない。もうひとつ、その屈託のない笑顔で話す言葉にはネガティブな感じが全くない。彼女は「障害があるから」という言葉を決して口にしない。

先日、取材のために一緒にランチでも、と迎えにいってお店に向かう車の中での会話。

「あのね、悪いけど今日、食べさせてね。」
「いやぁ~、悪いけどわたしも貧乏だからさ、おごるのはムリ。(笑)」
「そうじゃなくてさぁ~。」
「あははは、ちゃんとわかってるよ。大丈夫だよ、まかせてね。」

“食べさせて”という言葉の意味は「おごって」などではもちろんない。
レストランのようなお店では、椅子に座って食事をする。当然、足で食べる仕様にはなっていない。だから「食べ物を口に運んでね」という意味だ。

「足を使う」

その行為に対して、人は決して必ずしもいい感情を持たない。
何かをするのは“手が当たり前”だから。そして“足は汚い”という感覚が一般的だから。

手が使えない代わりに足でやる。今でこそ彼女の周りはそれを認めるけれど、子供のころからそうだったわけではない。実際、わたしも彼女の高等部時代に同じ学校の職員がこう話すのを聞いたことがある。

「彼女は、足でクッキーも作っちゃう。それはすごいけど、でも足で作ったクッキー食べる気にはなれないなぁ。」

もちろん彼女は足をいつもきれいにしている。今もキーボードを弾くその足のつめは手入れされてきれいにペディキュアが施されている。わたしは彼女がどんなに自分の足を大切にしているのか感じ、いつもきれいだなぁ、とその足に見とれてしまうのだ。

けれども“足は汚い”という感覚は一般的で、その中で子供のころから生きて来た彼女はその笑顔や明るさの裏に悲しみや苦しみもたくさん感じてきたことだろう。

“いたずらをしたい。触ったりぐちゃぐちゃにしてみたりしたい。”
それは好奇心の固まりの小さな子供にはごく当たり前の欲求だ。
けれども、周りの人間と同じようにやろうとしても、手が動かない。

動きたい、動かせない。
そのイライラが高まって、足を動かした。

「足の方が、じょうずにできる!」

そう思って足を使い始めた彼女だが、周りがそれを受け入れるのは難しかった。

「足で給食食べていい、って許してもらえたのは中学部になるときだったよ。それまでは、手の機能訓練ということでなんでも手でやるようにいわれたなぁ。『足の方がずっと速く、上手に出来るのになぁ』って思いながらやってたから訓練つまんなかったねぇ。」

笑顔でそう話すけど、食べることまですべて「訓練」にされるのはたまらなかったろう。みんなが美味しそうに食べているのに、お腹もすいているのに、手ではなかなか食べられず、時間もかかる。

「足で食べてもいい」と認められた(というよりは、「周りがあきらめたんだよ」と彼女は表現したが)ときには「やっと自分らしく出来る」という思いがあふれてきたそうだ。

「足でものをやる」ということひとつとっても、彼女を小さな頃から知る身近な者でもこれだけの抵抗がある。当然、彼女が受けてきた波は、それだけに留まらなかった。

わたしは彼女からメールをもらって再会の約束をしたが、その一方で久しぶりに会う「先生」という存在に対しての心の迷いや傷について彼女は自身のHPの日記に、こんな記述をしている。

養護学校の思い出は楽しいことよりも先に“辛いこと(当時の養護学校には障害児・者を理解できず“社会のお荷物”と口走り、生徒の心を無雑作に傷つける教師もいて、嫌な思いをしたこと)”を思い出してしまうからだ。教師と生徒だったことがあり「先生」と呼んでいたMさんに再会したら、私は平常心でいられるだろうか…?
(風子のきまぐれ絵日記 2007年5月「花香る風の中の再会は………」より)

同じように、彼女が1990年に出版した詩集「”女の子”のとき」にも障害のある自らに対する悩みや苦悩がこんな風に描かれている。

 なれているからこわくない
いつも 口にするけれど
うそです

街を歩くのは こわいのです
一人で歩く道は こわいのです
いくら なれていても
こわいものは やっぱりこわいのです

   家の一歩そとは
心の戦場
人の目は機関銃
聞こえる声は大砲
人の態度はミサイル
わたしの心 殺そうとする
わたし1人殺すのに 何十人、何百人

(詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

が、彼女はそれを人前では臆面にも出さないのだ。「障害があるから」「手が使えないから」……彼女はそれを理由にしない。そして、その裏でどんなに汗や涙を流したのか、どんなに努力をしたのかも、ひけらかすことはない。

再会のとき、わたしはうつ病で学校に行かれなくなった休職中の教師で、彼女はボランティアでいろいろな学校にも講演に行くことがある立場から、「学校」の話になった。

彼女の“人目をひく姿”に対して、子供たちは当然興味を持つ。そういう人を見かける機会も少なければ、話をする機会などもっとない。だから、校長室やステージなどで話をしている彼女に子供たちは寄ってきて、時々こういう質問をする。

「ねぇ、なんでそんな変な恰好なの?」

その時に、周りの先生たちの対応はまっぷたつにわかれるそうだ。
「そんなこというのじゃない」と叱責し、彼女から遠ざけるパターン。
それを見守り、子供たちの疑問に対して彼女が答えるチャンスをくれるパターン。

自分の体について人がどう思うのか、彼女はいやというほど知っている。まだ経験の浅い子供たちならなおのことだ。そういう子供たちが「知る」機会を奪わないで欲しい、と彼女は言う。

「変な恰好」といわれたら、ちゃんと話をする。伝わるように、わかるように、きちんと話をする。そういう子供の好奇心をただ「言っちゃいけないこと」と押さえ、そういう対象から遠ざけたら、子供の中に残るのは「障害について口にするのは禁忌」……そんなマイナスのイメージ。知ろうともせず避けて通る人間が出来上がる。

だから、彼女は自分の体について知ろうとする子供やその好奇の目を遠ざけない。すごく落ち込んだり重い気持ちになることがあっても、そうして人とつながることをやめることはしない。

 こわいけど
ミサイル・鉄砲 すごくこわいけど
でも 歩く
こわくなくなるまで歩く
戦争が終わるまで歩きたい

   こわいけど やっぱり歩く
(詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

死んでもこの身体はなおらない と
気付いたときから
生きたい と思った

(詩集“女の子”のとき「自殺」より抜粋)

それは、彼女の決意でもあり、覚悟でもあり、そして多分彼女が自分を受け入れた瞬間だったんだろう。再会したとき、高等部時代よりもずっと軽やかになった彼女の心をわたしは感じた。いつの間にか2時間も話し込んだ。そうして「また、会おうね」とわかれた。ごく普通に、お互い必死で生きている人間同士として。心から「また語りあいたい」と思った。

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「今回は、本当に久しぶりに新作を描いたんです。何を描こうか迷ったんだけど、紙一面を宇宙にたとえてみたんです。」

ミニコンサートの合間のMCで、今回の新作の話になった。
「銀河鉄道の夜」はあるけど、「銀河鉄道の朝」はどう?……そういわれて、ぱぁっとひろがったイメージ。1メートル×2メートルの紙を2枚繋げて約一週間で書き上げた。

野の花。とり。風、月、万華鏡。彼女の心の中にひろがる宇宙、銀河鉄道の朝にはいろいろなものが息づいている。寒くてしもやけに悩まされながら描ききった作品。

この中の「万華鏡」について彼女はこう語った。

「小さな穴をのぞくと、その中にひろがる大きなきれいな世界。
それって人間とか宇宙とかに似ている。
小さな人間が地球の上で動き回って悩みまくって
あたふたしている様子のように思えたんですよね。」

さらに、この絵について内緒話をひとつ。

「実は、この絵の中に一カ所だけ塗り残したところがあるんですよ。
これはね、まだ終わってないよ、これからも続くよ、ってそういう意味。」

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苦労も、悲しみも。悔しいことだってまだまだ山ほどある。
だけどそんなこと言っていてもしょうがない。

体が思い通りにならないから出来ることに制限もある。
だけど、それも自分の体。

そして、自分の体をしっかりと受け止め、自分も含めてあたふたしながらちっちゃいことでうだうだしつつそれでも生きていく人間の「生」を、万華鏡のきらめきのように愛おしむ。そしてまだまだ続くよ……と彼女の心はその歩みを止めることがない。

彼女の心はなにものにも囚われずに、自由に飛び回る。その自由な心が、彼女の笑顔に触れた物達に伝わって、そしてまたひろがっていく。

絵から、詩から、音楽から。彼女の足が生み出すすべてのものが、今日もまた輝いて“生きる”事の持つエネルギーを発信し伝え続けていくのだ。

もし、あなたの近くに「風子の絵足紙キャラバン」が訪れたら、そこに行ってぜひ一人の人間の命のきらめきと生きざまを感じて欲しいとそう思う。

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心は体には囚われない~風子、その1~

HP:「風子の絵足紙キャラバン
森の宿 林りん館 (長野県小川村「風子の絵足紙ギャラリー」併設宿泊施設)

(写真・文:駒村みどり)

心は体には囚われない〜風子、その1〜<’10年5月掲載>

春まだ浅い3月のある日。長野市篠ノ井にある額縁店2階のギャラリーで、会場から流れるキーボードの音楽。個展+ミニコンサート「春へのつぶやき」。そこでキーボードを奏でるのは「手」ではなくて「足」。奏でているのは、個展で「絵手紙」ならぬ「絵足紙」を含めたたくさんの作品を披露している「風子」さん。

「千の風になって」、「G線上のアリア」。
しっとり聞かせたかと思ったら突然に「トッカータとフーガ」。

「いやぁ、やっちゃったよ。」
演奏が終わるとそういって会場を笑わせる。

豪快で繊細。大胆で優しい。
彼女の持ち味は昔からまったく変わらない。

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「風子」。本名は冨永房枝。
長野県長野市に生まれる。生まれて半年後に風邪のための高熱が元で「脳性小児マヒ」を発症。それにより体幹の機能障害が残る。養護学校の高等部を卒業後、詩作、詩の朗読、キーボードの演奏などでボランティア活動を続ける。

1996年に「絵足紙」を始める。絵だけでなく、書など描き続けた作品は多数にのぼる。
(詳細は彼女のHPを参照のこと)

演奏会でも、話をしている最中にしょっちゅう汗をかく。(その汗も、足でタオルを持って拭き取る。)からだが常に緊張して突っ張っているうえに思いもよらない動きが常に止まることがない。ひとこと話すごとに体中が突っ張って、息が荒くなり顔がこわばるので話し声に集中しないと聞き取りにくい。

それは、小児マヒによる体のマヒと、緊張と、それから不随意運動のせいだ。
この状態にある人たちは、だから見た目はある意味「異様」だ。ゆがんだ体と顔。それは意識があって脳が働いている間はどうにもならないのだ。彼女らの緊張のない状態が見られるのは、脳が休んでいる「眠っているとき」だけだ。

こういう「機能障害」を持った人は、私たちの周りに普通に居るのだが……しかし、町でその姿を見かけることはほとんど無い。たいていの人は施設に入ってしまうか、「差別」「好奇」の視線が苦しくて家に引きこもってしまうか、あまり外には出てこない。

けれど、彼女はどんどん外に出て行く。
明るい笑顔と大きな笑い声と共に。

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わたしが彼女と「再会」したのは、2007年の5月。
再会のきっかけはネットのSNSだった。

「再会」と書いたのは、彼女との出会いはもう20年以上も前にさかのぼるからだ。

「なんかねぇ、久しぶりなのにそんな気がしないね。」
そう笑う彼女は、その時ふとわたしのことを「みどりちゃん」と呼んだ。
その呼び方が昔の二人の状態を的確に表しているようで妙に笑えた。

彼女の活動は展覧会やコンサート、講演を通じて今やかなり多くの人が知っている。支援者も多く、そういう人たちと共に彼女は自分の道を歩んでいる。けれど、わたしはそういう人たちが彼女を知る以前の姿を知っていて、そしてある意味、彼女との出会いでわたしの考え方も大きく変わった。

だから、今回の演奏会の取材記事を書こうと思ったときに、ただ単にみんなが知っている彼女の姿だけではなく、その頃の彼女を描きたい……とそう思ったのだった。

「風子」以前の「富永房枝」の姿。まずはそこから、入りたいと思う。

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「肢体不自由養護学校の高等部3年生 冨永房枝さん」。

それが、わたしが最初に出会ったときの彼女の肩書き。
そして、その時のわたしの肩書きは「その学校の新卒一年目の新米先生」だった。当時、採用されたぺーぺーの先生だったわたしは、特殊教育(当時の呼び名)の免許もないのに養護学校に配属されて途方に暮れていた。

もともとは音楽の免許を持っていたので、高等部に所属したわたしは音楽のクラスを二つ担当した。そのひとつのクラスにいたのが房枝さんだ。

「先生」とは呼ばれても、まだ養護学校について何も知らなかった私と、小さい頃からずっとこの養護学校で学んでいた彼女。学校のキャリアからいったら彼女の方がずっと慣れたもので、おまけに新卒のわたしと高三の彼女では実質いくつも年は違わない。

途方に暮れてあたふたしていたわたしからしたら、ある意味この学校では「先輩」とも言える彼女は体に緊張があって手が自由に使えないけれど、字を書くのも絵を描くのも、ランチルームで給食を食べるのでも、なんでもまったく手でやるのと変わらぬ出来映えでやってしまっていた。

驚いたことに、彼女の足は手よりもずっと器用に動いた。編み物……特に一番細かいレース編みでさえも……彼女はみんな足の指を駆使してやってのけたのだ。その足さばきは、わたしにとって本当に驚異的で器用さには舌を巻いた。

また一方で、専門である音楽の授業でもわたしは途方に暮れていた。
生徒たちは房枝さんだけでなく、みんなからだが思うように動かない。のどに緊張が走るから、歌を歌うのにも声を振り絞って必死だし、楽器を奏でるにもテンポやリズムの通りには行かない。

みんな音楽は大好きなのに……どうしたらいいんだろう?

その頃に、「文明の利器」が有志の方から学校に寄贈された。ヤマハの「ポータートーン」というキーボードだ。今は、簡単なものだったら1万円もせずに買えてしまうポータブルキーボードだが、当時はン十万もする高価なもの。

その登場のおかげで、思いもかけない展開が待っていた。

「先生、やろうよ。」

昼休みになると、わたしの教室に房枝さんがやってきた。
最初は片足でメロディーを奏でる。こちらの方は、足さばきはもう手慣れたもので(じゃない、足慣れたもの、だな。)楽譜を一緒に読めば割合すんなりと演奏が出来た。

彼女の技能をひろげたのは、今こそ当たり前のようにキーボードについている「ワンフィンガー和音演奏」機能だ。

左の指一本でキーを押すと、設定された「リズムパターン」に乗って「和音」がなる。コード進行に合わせて一本指でキーを押すだけで、重厚な和音伴奏がつけられるのだ。ワルツ、ポップス、ロックンロール、マーチ、ボサノバ、16ビート。それがたった一本の指で和音演奏と同時にパーカッションとして鳴ってくれる。

手の10本指では右も左も簡単にできる「和音演奏」だが、足の指は短くてとても無理だ。けれど、この「ワンフィンガー」機能だと、その一本指がありさえすれば立派なリズム伴奏になるのだ。

……と簡単そうに書いたけれど、当然右足でメロディーを弾きながら、テンポ変わらず流れているリズムパターンにのせて左足でコード進行を追うのは、普通の人でも大変なこと。

それに彼女は挑戦したのだ。毎日毎日、休みなく教室にやってきては練習する。曲は今でも忘れない。さだまさしの「天までとどけ」だ。

「あの曲ね、もう、さんざんやったから今はもう飽きちゃったよ。」

そういって彼女は笑う。確かにそうだろうね、そのくらいほんとに毎日何回も練習したものね。

もともと右足でメロディーを弾くことは出来ていても、この曲のさびの部分は16分音符が連続してどんどん音が上昇していくので手の五本指でも大変。メロディーがなんとか出来ても、それに合わせて左でのコード演奏がついていかない。いったいどのくらいの期間、練習したのだろう?今は華麗な足さばきでレパートリーもたくさんになった彼女のキーボード演奏の基本は、この時の必死な練習の積み重ねの結果なのだ。

そうして、「天までとどけ」が形になって、2曲くらい演奏が可能になった頃に、彼女は卒業して社会へと飛び立っていった。

この時のキーボードとの出会いが彼女のライフワークのひとつとして存在している。それは大きな出会いだったろう。でも、同時に、「この学校でこの生徒たちとどう音楽に向かい合ったらいいのだろう?」と悩んでいたわたしにとっても、彼女が毎日教室にやってきて練習し、仕上がっていく段階を一緒に悩み、工夫しながら味わった経験が「そうか、音楽って教科書や楽譜を教えるだけじゃない、その人なりに表現することなんだな」という大きな収穫と音楽指導の確信へとつながったのだった。

「あのね、最初にあったときにわたしが何考えていたかっていうとね………。」
「わたし楽譜読めないしさ、この音楽の先生、ニコニコして人が良さそうだから利用してやれ~って思ったんだ。」

そういって彼女は朗らかに笑った。
この取材のために改めて会って話していたときに、この頃を想い出して不意に彼女が口にした二十何年目の事実。

目標を持つ。それに向かって何が必要で、どんなふうに学び深めるのかを自ら考えて選ぶ。
そしてそこに向かってくり返し投げ出さずに進んでいく。

そのくり返しと積み重ねが今の彼女を創り上げ、この笑顔と自信を支えているのだ。こともなげに見えるその影では流した汗や苦労などは当然のことと受け止めて、前向きに進んでいく彼女の姿があるのだ。

わたしもね。利用してもらえてよかったよ。おかげで、あの頃一緒に練習していた思いは大切な経験のひとつになって私の中に蓄積されているのだから。おたがいさまだね。

そういってわたしも、一緒に笑った。

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たぶん。障害とか、先生と生徒とか、そんなものはどうでもよかったんだろうと思う。
人と人とのつながりや、関わり合い、出会いというのはこういうものなんだろうと、そう思う。

『障害者としてではなく、ひとりの社会人として世に問うていく「風子の絵足紙キャラバン」に、今後ともより一層のご理解とご支援をお願いいたします。』

今回行われたつぶやきコンサートでもらったパンフレットにこんな一文が載っている。これは絵足紙キャラバン実行委員会という彼女の支援者の会の挨拶文だ。彼女に出会った人たちは、みな、「障害なんか関係ないや」と、きっとそう思うに違いない。

彼女は「冨永房枝」というひとりの人間として生きてきているのだから。人と人との関係の中で、ただ生を与えられたものとして同じように悩みもし、苦しみもし、喜びや感動を得ながら生きているだけなのだから。

そんな彼女がここに来るまでの「からだとのつきあい方」「生きざま」を通しながら、彼女の「絵足紙展」についてこのあと記述していこうと思う。

心は体には囚われない~風子、その2~へ続く。)

HP「風子の絵足紙キャラバン」

(写真、文:駒村みどり)

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その5)【’11年5月掲載】

(注:本記事は、H23年5月11日に発表されたものの再掲です)

*本日5月11日で、震災から丸二ヶ月がたちます。改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしつつ、今なお避難生活にある人びとに一刻も早く安心した生活が戻りますことを重ねて心からお祈りしたいと思います。
なお、これだけの日々を経た今も、被災地からは大量の支援物資の要請が笑顔プロジェクトの方にも届いているそうです。この記事の一番最後に詳細を書きますので、可能な方はお力を貸していただければと思います。

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「自粛」と「不謹慎」という二つの言葉。

何かしたい、何かをしよう……と人々の心が被災地や自分たちの状況に集中した3月11日から日がたち、それぞれの受けとめや感覚や行動の差が次第に明らかになるにつれてこの2つの言葉が世の中に蔓延し、人びとの動きは停滞しはじめた。

「自粛」と「不謹慎」による自主規制の動きには、「こんなことやったら被災地には迷惑」とか「被災地の人が悲しんでいるのに自分たちが笑っちゃダメ」とかいう想い、さらに何もできない焦りから生まれた目立つ人に対してのあこがれやできない自分を卑下する、もしくは理由付けしようという想いが垣間見える気がする。

そうでなくても災害によって「日常」が停滞しているところにさらに自主規制がかかった世の中。でも、果たして「これから」のためにはそれでいいのだろうか?

「だからね、お金を動かさなくては。まず、昔から商業地だったこの小布施町でちゃんとお金を動かすことが大切なんです。」

そうして生まれたのがこの企画。「ラーメンフェスタin小布施」だ。

北信の人気ラーメン店8軒が出店、一杯500円のワンコインでラーメンが食べられる。でも、小布施でなぜ「ラーメン」??さらにラーメンのイベントだったら毎年地元テレビ局主催のものはじめすでに大きなものがいくつかある。

「ラーメンはね、小さいお子さんからお年寄りまで、みんなが笑顔で食べることのできるメニューだからですよ。」……と林さん。

「で、今回は皆さんと相談して他のラーメンフェスタと違い全部『新作ラーメン』で行こうと。お店に行ったらいつでも食べられるラーメンじゃなくて、ここでしか食べられないもの。そして赤になったら意味がないから黒字(収益)を出す。そのお金を支援活動に当てる。

みんながおいしいラーメンで笑顔になって、そのお金を使うことで被災地に笑顔が届けられて、自分の笑顔が被災地の笑顔につながる。」

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「正直ね、ラーメンとしたらほとんど収益無いですよ。」

そんな林さんの想いを受けた須坂の参加ラーメン店「旋風堂」の店長の田子さんに「500円って値段設定、正直どうなんですか?」と聞いたらこんな答えが返ってきた。

「せっかくいろんなラーメン食べられるんだからと、話し合って一杯の量は控えめで500円設定にしたけれど、それでも500円じゃとんとんぐらいかな。けどね……」

「今回の話を聞いて嬉しかったよ。だって、もし必要だったら実際現地に行って炊き出しでもなんでもする気はあったけど、行って邪魔になっても困るし1人でがんばるのは難しすぎる。せいぜい店で募金つのるしかできなかったところに今回のこの話が来た。こんな風に誰かが考えてくれてそこに乗れば自分も力になれる。『待ってましたぁ!』って感じだったよ。」

そんな田子さんは、「焼きラーメン」の新作メニューを考えている。

「これ今回のフェスタでしか絶対に作るつもり無いからね。フェスタ以外ではもう食べられない味になるよ。」

……つまりは、旋風堂の「幻の味」になるわけですね。

その幻の味が、他の7店でも全部一杯ワンコイン500円で味わえる。会場の小布施ハイウエイオアシスではこの日、ライブペインティングや太鼓の演奏などのイベントも盛りだくさん用意されている。そしてそこで1日楽しめばその笑顔は確実に笑顔プロジェクトメンバーが被災地に届けてくれるのだ。

用意されたのは3000食分のラーメン。だけどもしかしたら、足りなくなるのかもしれないなぁ……と、林さんや田子さんの笑顔を見ながらふとそう思った。

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「何かしたいけど、何もできなくてじれったかった」

旋風堂の田子さんの言葉にもあったけれど、実際そう想っている人が私の周りにもかなりいる。私も、そして私の周りの多くの人たちも、そういう思いを抱えつつ「できる事は?」と考えては募金をし、支援物資を提供してみても「届いている」「役だった」「力になれた」という実感はなく、現地では本当に足りているのか、何が必要なのか、という情報はほとんど入ってこない。

笑顔プロジェクトに係わった人たちは、笑顔のお返しをダイレクトに感じることができ、次にできる事は?と具体的に考えて動くことができる。小布施の近くにいる人や遊びに来ることが出来る人は、今回のラーメンフェスタでおいしいラーメンを食べる事で「協力できた」「力になれた」実感を得ることも出来る。

でも、それすら出来ない人は?それが出来ないと、やっぱり「何もできない自分」を恥じたり卑下したりして哀しい思いにいなくてはならないのだろうか?

……私は、そうは思わない。

では、いったい何をすればいいのだろうか?

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原発問題が起こり、電力の不足がささやかれて行われた計画停電。その時に想い出したことがある。

「こんな停電、昔はしょっちゅうあったなぁ……。」ってことを。

まだ、テレビが白黒だった時代。番組が盛り上がって「いよいよ」って時に、突然テレビが消えてしまうことがよくあった。夜、明日の宿題を必死でやっている最中にも、突然真っ暗になって何も見えなくなり、焦ることもあった。「停電」は予告もなくやって来て、いつまで続くのかもわからなかった。

けれど、誰ひとり怒らなかったしあわてなかった。家々に常備してあるろうそくをつけ、ろうそくの周りに集まって平気で食事や会話が続いていた。暗闇に揺れるろうそくの光はあたたかくて、いつもよりも隣の人を身近に感じ、暗闇はなんだか「秘密基地」を思わせてドキドキした。

夜になると暗くなるのは当然で、コンビニが生まれる前の時代、お店は19時というとみんな閉まってしまった。買い物はそれまでに済ませて人びとは家路につく。「夜は暗いのが当たり前」だった時代。

被災後の電力不足が懸念される今、「節電のため、明るさを控えています」とお詫びの貼り紙のある店に入っても、実は何も不便はない。節電状態でも充分だ。今までは「もっと目立つように、もっと買ってもらうように」という想いから必要ない電気が使われていたのだから。

それは何も、電気に限ったことではない。テレビもそうだ。どのチャンネルを見ても同じような情報しか流れてこなかった震災時。テレビを消して、新聞やラジオ、ウェブ上だけでも充分に情報を得ることが出来た。それも、テレビのように垂れ流され押しつけられる情報でなく、自分から求める事実を必要に応じて必要なだけ。

食べ物、灯油やガソリン、本……同じように振り返ってみると「無くても大丈夫なもの」がいかに多かったのかを震災後にものすごく感じる。

そうして「もっと」を望まずに無くて当然の状態で「無駄を省くこと」をみんなが行った結果、停電はかなり規模が縮小されたし、必要な物は被災地に届きやすくなった。

人びとが「もっと」を望まずあるものに感謝して大切に使う……それだけでちゃんと世の中の流れが自然になり、さらにそこには「ありがとう」と笑顔が生まれている。

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今回、笑顔プロジェクトのメンバーが支援活動で、子ども達がさぞや「もっと」を言うのかと思ったら、それどころかクッキー1枚、本一冊という「今ここにあるもの」をものすごく喜んだ姿を報告している。

たぶんその子達は、あきらめたわけでも我慢しているわけでもないと私は思う。そのクッキー1枚、本一冊を届けようとここまでやって来てくれた人たちの「想い」の温かさを感じ、「物があること」に対しての心からの感謝と喜びで満たされたからなのではないだろうか。だからその「ありがとう」が伝わると、届けた方も嬉しくなって「ありがとう」と笑顔になる。

家族がいること、仕事があること、食べるものがあること……生きていること。
当たり前だと思っていたそれらのことを振り返ったときに「あること」に対しての感謝と喜びの気持ちがわき、そして「ありがとう」と口に出すことで人びとが笑顔になる。

「わたしには何ができる?」そう思ったら、そんな風に感謝を持って「ありがとう」を口にしてみたらどうだろう。もし、それで自分も、それを聞いた人も「笑顔」になったら。それがあなたにできる、あなたにしかできない何よりも大きな事なのではないだろうか。あなたの想いが大きいほど、あなたの笑顔が人にもたらす笑顔も大きく拡がるはず。

それが拡がっていくことで、自分だけでなく周りの人々、そして地域の人たち、被災地の人びと、日本の人たち……さらには世界みんなの幸せへとつながっていくのではないのだろうか。

どんな小さな事でもみんなで積み重ねていけば……それは絶対にできるはずだ。

大げさな物言いかもしれない。
けれど、こうして「笑顔をつなげ、被災地に笑顔を」というところから始まり、被災地の人びとの必死で生きる姿に背中を押された人びとの小さな力がしだいにまとまり確実な力として被災地に届けようとしている、長野県小布施町の小さなお寺中心に拡がりつつある「笑顔プロジェクト」の試みから、そんな事を強く感じた。

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取材後、夕闇に埋もれつつある本堂を背に別れを告げ「本当は私も、行って力になりたかったんですけれど……」と小さくつぶやいた私に、林さんは満面の笑顔と共にこう言った。

「こうして取材に来て、いろいろなことを聞いてその事実を「伝えて」くれる人も必要です。被災地の皆さんの「この事実を記憶から消してしまわないで!」という叫びを届けるためにも……。」

その言葉と林さんの笑顔に、私は「ありがとうございます」と笑顔で返し、家路についた。

〔写真・文 駒村みどり)

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これまでの笑顔プロジェクトの詳しい情報や、これからの活動予定などはこちらから。
「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その4)【’11年5月掲載】

4月27日の訪問は日帰りという強硬日程で、現地での混乱や慌ただしさや困難があった。しかし、実はそこに至るまでの地元の準備段階でも、かなり大きな壁をたくさん乗り越えなくてはならなかったのだ。

「4月27日にうどん1000食を被災地の子どもたちに届けよう!」

笑顔プロジェクトの支援目標が決まった。では次に、支援に向かう先は?

先発隊のメンバーがすでに行ってその情況を目の当たりにしている宮城県へ。でもその先はまったくわからない。どこも大変だろうが、同じようにちゃんと支援が届いているのかと言ったらたぶんそれはないだろう。「学校」で一番支援が届いていないところに行こう。

そう考えて地元のボランティアセンターに問い合わせる。しかし、「学校は後回し、避難所が先」というボランティアセンターは「学校」への分配機能がなかった。その現状を全く把握もしていないので取り次ぎどころか紹介さえもしてくれない。社会福祉協議会や役所、公的機関もおなじ。どこも全く当てにはならなかった。

それなら、とみんなでいろいろな伝手を頼って「地元の人」を探した。地元水産業の平塚さんという方にやっとつながりをつけることができた。その方を通じて「支援が必要な学校」ということでようやくたどり着いたのが「女川第一中学校」だった。

一方うどん1000食を実際に「炊き出しに行く」ために必要な物……現地調達は無理だからすべてをこちらから持って行くことになる。

「ガス」。火をおこし、お湯を沸かし、うどんを茹でるのに必要。
1000食分というと相当なガスが必要になる。けれど、個人で運べるガスの量はたった8キログラム。小グループのキャンプだったらいいけれど、1000食はとても作れない。さらに大量のガスを運ぶにも扱うにも、「危険物取り扱い」の資格を持ったものがいないとダメだ。(実際に、ボランティアで行った人による「ガス事故」や「ボヤ騒ぎ」も報道されていないが多発しているようで地元でも神経をとがらせているそうだ。)

………どうしたらいいのだろう?みんなで必死に考える。

初っ端からの躓きに困惑しながらこちらもメンバーそれぞれの伝手をたどり、Web上でも必死で手立てを探っていたら中野の「北信ガス」という会社が協力を申し出てくれた。ガスの取り扱いの資格を持った人材と運搬車両を貸してくれることになった。

「水」。うどんのつゆなどで必要になるのは600キログラムの水。20リットル入りのポリタンクが30個必要になる。

「地元の給水車を借りられれば……」

そう思って小布施町に掛け合ってみた。だが、給水車は緊急時のもので、たとえ普段使ってはいなくても「もしも」のために地元から離すことが出来ない事になっているとのこと。隣の須坂市でも同じ答えだった。確かに時期が時期だから、地元だっていつ必要になるかわからない。またもやみんなであちこちに投げかけ、問い合わせる。

給水車を貸せない代わりに、とポリタンクを沢山貸してくれた自治体。そしてタンクを持っている……という個人の方の好意。最終的には北信ガスさんが大型の水用タンクを貸してくれることになり、ついに水600キログラムもなんとか持参可能になった。

行き先が決まり、支援物資も整って、材料もそろい、出発までにあと3日……。
そこまで来てアクシデントがまた起きた。

「排水は持ち帰って下さい。」との連絡が入る。

現場の混乱状況や処理雑務の多さを考えれば仕方がないこととはいえ、「排水タンクは充分だから排水の方は持ち帰らなくてもいい」という打合せだったはず。

持って行く水のタンクに排水を入れるわけにはいかず、あわてて処理の仕方を考える。またもやあちこちに投げかけて、直前に慌ただしいながらもようやくドラム缶を用意することができた。

そうして迎えた4月27日。夜中の0時の小雨降り注ぐ寒さの中、総勢24名、車7台のチームが出発。

(写真は公式ページ「笑顔の活動報告」 より転載)

結局現地でも、「避難所以外での調理行為禁止」とか「炊き出しは一品ではなく一食のメニューにしなくてはダメ」だとかいう様々な困難に突き当たって右往左往した。

けれど現地での支援活動に向けて、メンバーや沢山の協力者とそれらの多くの困難や積み上がったがれきの山を一回乗り越えてみて今、林さんはこう語る。

「支援物資を持ってきてくれる人や、車を見送ってくれた人たちはみんな『ありがとう』って言ってくれたのです。」

「何かしたい。自分たちも行って手伝いたい……。」
きっと辛い思いをして居るであろう被災者の方々への思いがあっても何もできない憤りの中にいた人びとが、「支援物資供出」で協力でき、その想いのこもった荷物の載った車を見送って実際に想いが届く状況を見ることが出来た。小さくても自分も力になれた。それが「ありがとう」に込められた想い。

一方で実際に支援活動を行う林さんたちメンバー自身も、最初はまったく何もないところからこんなに沢山の人たちの協力を得、その思いを受けとめて支援活動に向かうことができた。自分たちだけではできなかった。「ありがとう」と心から思う。

被災地ではいつまで続くかわからない深い悲しみや寒さや飢えや不自由さと今も毎日闘っている人びと……支援物資を届け、炊き出しのうどんを食べた人から、「ありがとう」の声を受け取ることができた。

「笑顔でそれぞれの想いや行為に心から『ありがとう』を口にする。みんながね、お互いに『ありがとう』なんですよ。ありがとうでつながっている。」

心からのありがとうという言葉に乗って、笑顔は確実に支援地につながった。
そして支援地でもらったありがとうが、笑顔と共に地元に戻ってきてさらに大きな「ありがとう」と笑顔につながっていく。

災害のあと、「何かをしたい」「何ができる?」と突き上げられる想いのままに、人びとは公的機関の支援物資集めに協力したり、義援金に募金したりした。私も募金箱と見ると手持ちのお金を募金した。

そこにあるのは、人として本当にシンプルな人を想う気持ち。けれど、そのシンプルな気持ちが実際にちゃんとした形で届いているのかどうかはまったくわからないままだ。

実際、自分が今入れたお金は、いったいどこの誰に、いつ役に立ったのだろうか?今現在、寒さや飢えや悲しみで苦しんでいる人たちのために「今すぐ」役に立ちたいのに、何もできない。せめて、と募金してみても、そのお金は「今すぐ」どころか、ちゃんと役に立ったのかどうかすらもわからない。

著名人がチャリティーで大金を寄付し、コンサートを行うニュースが流れる。なのに力のない自分には何もできない。実際に行くことができたら、と焦る。でも、実情はそう簡単にはいかない。……やっぱりもやもやした焦りが残ったままだ。

けれど、この「笑顔プロジェクト」に関われた人たちは自分の想いがちゃんと届き、被災地で受け取った笑顔と「ありがとう」が返ってくることが実感ができた。だからこその心からの「ありがとう」なのだ。人が人を想う気持ちがしっかりつながったときに生まれる、「ありがとう」なのだ。

「笑顔のデリバリー」である笑顔プロジェクトは、こうして沢山の人たちにダイレクトにありがとうをつなげ、笑顔を届けている。ただひたすらに、今辛い状況にある被災地の人びとのために何かがしたい、というその想いの積み重ねに動かされて。

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今月16日。今回縁のできた宮城に、再びメンバーは向かうことになっている。前回の困難を教訓に、今度は公的機関は通さずに行く。お寺や集会所といった私的な場所に避難している人びとに、ダイレクトに笑顔を届けに行く。

こういう「私的避難所」には、避難している人びとがいても毎日の食事も支援物資も届けてもらえない。だから、公的避難所まで取りに行くしかない。

けれど、毎日毎食、避難生活で疲弊した身体で、お年寄りにその生活が可能だろうか?その答えは誰でもすぐにわかるだろう。把握しきれないほど沢山ある、そんな私的な避難所に今度は笑顔を届けに行くのだ。

それから、訪問する学校では「筆あそび出張教室」も予定している。最初はライブをしようかと提案したが、ライブのできる場所の確保が無理だった。「筆遊びをやって下さい!」……学校からそう提案された。筆一本で表現できる自分の気持ち。きっと子ども達の豊かな感性ですばらしい作品が沢山生まれ、避難所生活にも笑顔が広がるに違いない。

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平行して5月29日にむけて「あるイベントの企画」が進行中だ。それによってもっと沢山の人たちに「自分にもできる事」を感じてもらうために……。みんなにありがとうと笑顔の輪が広がるように……。

(その5に続く)

写真・文 駒村みどり

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)【’11年5月掲載】

連日連夜流れる被災地からの目を覆わんばかりの映像。テレビやラジオ、どのチャンネルをまわしてもなすすべもなく流されていく家々や人びとの涙と叫び。そして絶え間なく続く大きな余震の恐怖。停電のため混乱した大都会。

「○○で人が助けを求めています!」

Twitterのタイムラインはそんな救助要請や家族を捜す悲痛な声で満たされ、一方で「何とかして!」「何ができる?」と支援をしたくてもどうして良いかわからずにとまどう声も。

3月11日。

「その日」を境にのどかな日々が一変した。次第に被害の大きさが明らかになるにつれて人々の心にできた大きな傷口からの痛みがそれぞれの人たちの心を重くしていった。やがてこんな呼びかけまでなされる事に。

「ニュース映像を見続ける人にも衝撃によるストレスが影響を及ぼします!テレビを見続けずにスイッチを切って下さい!」

そう。映像が苦しかったらテレビを消せばいい。ラジオを聴きたくなければラジオのスイッチをひねればいい。けれど……

毎日地震のニュースを見ていると具合が悪くなる、ニュースを見るのをやめたという大人がいる。何回も同じCMが流れて抗議をしたという人もいる。子供たちは、このような景色だけを毎日見ている。これが現実なんだと思ったら胸が苦しくなった。

(以下太字は笑顔プロジェクト横川玲子さんの「救援物資運搬・炊き出し」の記述より。)

そこに「現実」として目の前のがれきの山が広がったままの被災地の人びとは毎日その「事実」を突きつけられている。その事実の中に大切なものの命を奪われたものもいる。被災地の人びとは悲劇のスイッチを消すこともかなわないのだ。

そんな被災地に笑顔プロジェクトチームの代表メンバーは飛び込んでいった。

27日0時 天気は雨、すごく寒い。 総勢24名、7台の車が長野を出発する。 これから向かう先も雨が降り、寒いのであろうか。
私は支援物資を載せた車に乗った。支援物資・支援金を提供した人、仕分けや積み込みをした人の 「本当は一緒に行きたいけど、行かれない。どうか届けて欲しい!!」 温かく優しい気持ちがたくさん詰まった車に乗り込んだ。


(中略) 福島近くから高速道路がガタガタと道が悪くなり、車酔いとこれからどんな光景が目に飛び込んでくるのか。 そして、初めてのボランティアで迷惑をかけないか。 不安で胃が痛くなった。

3月11日の被害を受けた人と、そうでない自分たち。その実際もわからないし、何ができるのか、果たして自分たちが力になれるのかもわからない。大きな不安を抱えつつ、メンバーで支え合いながらここまで来た。それでもやっぱり胸が痛くなる。

現地に着いて女川第一中学校で物資を配る。
「クッキーをもらえる」という言葉に想像以上に大きな喜びを見せる子どもたち。

            (被災地に届けた手作りの「笑顔クッキー」)
女の子の3人が私のところに来て、
「私ね、クッキー大好きなの。本当に嬉しい、ありがとう。」
「久しぶりのおやつです。」
「おやつの中でクッキーが一番好き。」
クッキーでこんなに喜んでくれるのかって思った。もっと、あれが欲しかった、これが欲しかったって言われるかと思ったこの子たちの給食はパンと牛乳だけ。

「もっと」という言葉は、どの子からも聞くことがなかった。自分の与えられたものとそれを持ってきてくれた想いに、心から感謝する子どもたち。「もっとわがままになってもいいのに!」と思うけれど……子どもたちの喜ぶ姿に逆に胸がつまりあふれそうになる涙を抑えて笑顔を作るメンバー。

そうかと思えば生きるための「現実」もまた迫ってくる。
炊き出し用の別の会場で、うどんを作りデザート用のゼリーを配りはじめたときのこと。

仕切りのないところでゼリーを配り始めると列を作らず、四方から延びる手。一個ずつ配る私を差し置いて、すべてを持っていこうとする。
それが本能だ。 自分の身を守るための行動だ。 生きていくための手段だ。そう思ったけど、 遠くでこちらを見ている方の姿を見つけ、このままではいけないと思いっきり声を振り絞って 「少しでも多くの人に行き渡るようにご協力ください。」 その言葉で、元に戻してくれる人もいた。

多くを望む気持ちもわかる。生きていこうとする本能と、人としての助け合いと……どちらの立場もわかる。……本音と建て前と云々言っていたら「生きる」ということの前に力尽きるかもしれない。だけど……。

炊き出しをしている私たちを手伝ってくれた、おばさま二人と出会った。「自分たちは、家も仕事も失った。早く仕事をしたい」 そして「あなたたちは、いいわね。帰ったら仕事があるんでしょ?」

帰ったら「もとどおりの日常」が待っている自分たち。一方の目の前にいる人たちは「天災」という敵に傷つけられ突き落とされても、その怒りや悲しみをぶつける場もない。言葉を失う。返す言葉もない。あるのは「普段通りの日常」に感謝する気持ちと、この人たちに精一杯できる事を……の気持ち。

次の避難所に向かう。湊小学校体育館。
体育館の周りには、墓地があった。目に入ってきた光景は……。

墓石の上に車が・・・ 近づくと仏像も倒れ首が取れているものもあった。大人の私でも、恐ろしいものがあった。この墓地の向かいに体育館への入り口があった。

体育館に避難している人びとは、この「恐ろしい」光景を毎日目にして生活しているのだ……。

「欲しいもの」との問いに答える子どもたちの口から出るのは……フラフープ、投げ輪。読み飽きてしまったので違う絵本。……それから、おやつ。

子どもたちの望む物は、つい1ヶ月前までは当たり前のように身のまわりにあったもの。けれど避難所生活ではそれらの物すら手に入らず、まして多くの人が避難しているので体育館といえども走り回ると「走るな!」と注意の声が飛ぶ。
(欲しいというおもちゃが、大きく身体を動かさずに遊べるものだというのもそういう状況を理解して、の事なのだろうか?)

それでも、その状況の中で、「今」を素直にしっかり受けとめて子どもたちは生きている。忘れられない、忘れちゃいけない。

「また、来ます」……目の当たりにした震災の傷跡を受けとめたメンバーの答えが、これだった。

(その4に続く)

*今回の記事に引用させていただきました福島さんの写真と記述の全文は、笑顔プロジェクトHPの「活動報告」の救援物資運搬・炊き出し (2011,4,27) に記載されています。

現地に行ったメンバーの生の声と現地の事実が綴られています。是非全文お読み下さい。

被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その2)【’11年5月掲載】

「地震や津波の事だけだったらまだなんとか自分を保てたのに、原発の恐怖が加わったら自分がどうにかなってしまいそうでどうにもならなかった。」

震災後、小布施町の数人の集まりで小さなお子さんを持つお母さんが、あまりのショックでご主人にしっかりとハグしてもらわないと立ち直れなかったと語った。その声を受けとめた林さんは衝撃を受けた。

「物事の受け止め方にはこんなに人によって差がある。男性と女性でもこんなに認識の仕方が違う。こういう状況ではダメージを受けるのは被災した人たちだけではないのだ。」

被災者への支援は急務だ。しかし、支援する立場にある側も人に支えてもらわなくては苦しくなるほどダメージを受けている。その「支援側のケア」も必要だ……。支援者も元気にならねば、と強く感じた林さんが自分にできる事を考えた時に思い浮かんだことが「字を書くこと」だった。

林さんは浄光寺で「筆遊び教室」を開催している。その文字による表現を学びたいと常にキャンセル待ちが出ているほど林さんが書く文字には伝える「力」があり、それを求める人は多い。

書こうと思った文字は「笑顔」。

笑顔でみんなが元気になるように。何よりも自分がまず「笑顔」になれるように。……そうして書いた「笑顔」の文字がどんどんとその力をいろいろな人たちに繋げていった。

この文字に共感した人が人を呼び、3月19日「日本笑顔プロジェクト」が立ち上がり、浄光寺のHPに公式ページが開設された。同時にFacebookにプロジェクトのページが作られた。でも笑顔プロジェクトのアカウントを取得、Web上で投げられた小さな小石はその波紋をどんどん拡げていった。

東北とほぼ時を同じくして起きた長野県栄村の被災地。今年度で「閉校」が決まっていた栄村東部小学校では卒業式と閉校式が中止になった。林さんは3月24日、代わりに行われた「卒業証書を渡す会」にプロジェクトメンバー3名と参加し、この「笑顔」の文字を1人1人に手渡した。

(写真は公式ブログ「笑顔の活動報告」”栄村へ笑顔を“より転載)

この子どもたちをはじめ、「笑顔」の文字を掲げた人たちのフォトアルバムが公式ページに掲載されている。


文字を持った人々の心からの笑顔。その数は現時点(平成23年5月現在)で405点に達している。

現状の厳しさは、被災地も支援者も形こそ違え決して双方楽観の出来ない状況にある。けれど、この文字を持って微笑む人の笑顔は見るものの心に「希望」の光を含んで鮮やかな輝きとなって伝わってくる。

「400人を超えたし、そろそろいいかな」

元々は「支援者側のメンタルダウン対処」としてこのプロジェクトを立ち上げた林さんはそう思った。けれど、動き出した笑顔のパワーはこれでとどまることはなかったのだ。

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ある時、メンバーの1人が「東北に行きたい」と実際に現地に飛んだ。

宮城県に行ったそのメンバーが戻ってきて語った「宮城の事実」はあまりにも報道やそこから想像されるものとはかけ離れていた。現地は「そろそろいいかな」で終わりにできる状態ではなかった。いや、被災地の悲劇は終息するどころか「まだまだこれから」なのだ……。

「現地に行こう!自分たちでそれを受けとめてこよう!そして現地に笑顔を直接届けよう!」

「現実」を目の当たりにした「笑顔プロジェクト」はこうして新たな展開を迎えた。

その3に続く)

文・駒村みどり 写真提供・笑顔プロジェクト 写真加工・駒村みどり

被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その1) 【’11年5月掲載】

宮城県牡鹿郡女川町、女川第一中学校。
ここでは今、二つの小学校と一つの中学校の生徒400人あまりが集まって勉強している。

昼の「給食」は毎日牛乳一本とパン1個だけ。
(成長期の子どもたちが………だ。)

物資は「避難所」には届くが、「学校」は後回し。炊き出しや支援物資を届けたいとボランティアセンターに問い合わせてみても関連の機関に問い合わせても、どこも取り次いではくれなかった。

せめて、積んでいった230個のりんごを食べてもらいたい……と申し出たら「ごめんなさい、受け取れない」と言われた。

生徒が400人。りんごはその半分の数。
丸ごと1個はわたらないから半分に切って配ればいい……ずっと野菜もくだものも食べていない育ち盛りの子どもたちに食べさせたい……そういう思いからの申し出だったのに、なぜ?

答えは、「りんごを切ることができないから」……だった。

今、「調理行為」が許されているのは「公的に認可された避難所」でのみなのだ。それ以外の場所では、調理……当然炊き出しも含まれる……は、一切認められていない。消毒ができず食中毒の恐れがあるためなのだ。

りんごを切るのには包丁を使う。使った包丁を洗って消毒できる充分な設備がない。だから、りんご1個を半分に切り分ける行為さえも認められない。…..結局、生徒たちにりんごを配ることはかなわなかった。同様に、学校でやろうと考えていた「うどん1000食分の炊き出し」もかなわなかった。

「子どもたちに笑顔を」「子どもたちに食べさせたい」

そういう想いがいくらあっても、その想いが届くにはかなりの困難がある。
それが、報道では「物資もボランティアも足りている」と言われているはずの被災地の現実……。

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3月11日。

東北地方を震源とした群発地震は予想もできない大津波を引き起こし、そして想像もできないほどの多くの命を奪っていった。

その影響の大きさは2ヶ月たとうとする今でも……いや、ここから先なおのことその爪痕をあらわにしてきているが、その一方であの時点でみんなの気持ちが「被災地」に向き、「何かできることは?」という一つにまとまった気持ちは次第に「日常」の中に薄れつつあるのかもしれない、という感じがある。

けれど、今でもまだ被災地では捜索が続き、がれきの山は積み上がったまま。

冒頭に記述したように4月の末現在、いまだに子どもたちにも充分な栄養のある食事が行き渡っていないし入浴もままならない避難所生活の中にある人が大半だ。

(4/27女川第一中学校から見下ろす風景)

さらに、原発の恐怖。

放射能汚染(被曝)の恐怖に加えて風評被害という2次、3次、4次と続く被害、天災のみでなく人的被害までを直接被っている被災地の人びとにとって「これから」はまだまだ見えてこない。

被災地から遠く離れたここ長野県では、同時期に起こった栄村震源地となる地震による被害を受けた人びとも同じように復興の目処も立たずにいるが、それすらも「実態」「事実」はなかなか見えてこないし伝わってこない。

そんな中でも「自分たちにできる事を」と多くの人たちが想い、それぞれの場所、それぞれの立場でできる事を頑張っている人びとの支援活動もたくさんある。

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「笑顔プロジェクト」はWeb上で始まったそんな支援活動の一つ。

長野県小布施町浄光寺。
副住職の林映寿(はやしえいじゅ)さんを中心として始まったこのプロジェクト。林さんがその笑顔プロジェクトの仲間・協力者24名と4月27日訪れた被災地(宮城県石巻)の姿は、報道されているものとは全くかけ離れていました。そこで信じられない状況と現実を目の当たりにしてきたのです。

震災から間もなく2ヶ月を迎えようとする今、笑顔プロジェクトメンバーが現地の人たちから受けとめてきた「これを風化させないで、記憶から消さないで」という訴えを繋げるために、この林さんの活動を中心に見えてくる震災の事実を今日から11日まで5回に分けて記述していこうと思います。(その2に続く)

文・駒村みどり
*使用写真は林さんはじめ24名が4/27に被災地宮城県石巻市に行ったときのものです。
(石巻市での活動報告は→ こちら

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)<’10.2月掲載>

♪パパッパ、パ、パ、パ………(ジャマジャマ)
パパッパ、パ、ジャ、マ………(ジャマジャマジャマジャ)

会場が暗くなったとたんに始まったのは、「お母さんと一緒」でおなじみの「パジャマでおじゃま」のテーマソング。

その音に合わせてステージにでてきたなかがわよしの氏が、突然服を脱ぎ始めた。

………え???
なんだ、なんだ?

シャッターを切る手を思わず止めて、その先何が起こるのかとなかがわ氏の裸体……(結構筋肉質なんですね、写真とっておけば良かったと後悔。)に見入ってしまった。

上着を脱ぎ、おもむろにズボンも脱ぎ始め、ついにパンツだけになったなかがわ氏は、今度は逆に作業着らしき服を着こみ始めた。

そうして、「パ、ジャまたね♪」の音楽の終わりに合わせて(ちょっと間に合わなかったけど)ステージ衣装(?)に着替え終わった。

と、その瞬間に、なかがわ氏の声が静寂を突き破る。

「はだかのぼくを、見て欲しいと思ったから
すべてを脱いで、はだかになりました!」

それは、小さな爆発のように。吹き飛んだ言葉の破片が、体に突き刺さる。
痛い。
だけどそれは、苦痛の痛みではない。
心の奥に縮こまっているかくれんぼしている「自分」の手を引っ張られている痛み。
決して、不快な痛みではない。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

このN-geneで「なかがわよしのの400字」の連載を続けているなかがわよしの氏が主催する、「傘に、ラ」のレポート第2弾です。

第1弾の記事にも書きましたが、「今」という言葉をテーマにして、月に1~2回企画されるイベントです。

前回のレポートでは、この「傘に、ラ」のゲストとして共に「今」を語る企画に参加させていただいたのですが、今回は完全にイベントを観客の1人として受け止める立場で参戦しました。

第2弾で取材したのは、
2010年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」

ゲストにお二人の「詩の朗読パフォーマンス」をされている、GOKU氏、猫道氏を迎えて3人による「詩の朗読会」でした。

なかがわ氏と、GOKU氏、猫道氏とのそれぞれの出会いのきっかけになったのが「詩のボクシング」。

詩のボクシング(しのボクシング)は、ボクシングのリングに見立てた舞台の上で二人の朗読者が自作の詩などを朗読し、どちらの表現がより観客の心に届いたか、その表現力を競うイベント。キャッチコピーは「声と言葉のスポーツ」、「声と言葉の格闘技」。一般参加の大会は、これまでに35都道府県で開催されている。全国大会も年に1度開催される。(wikipediaより)

言葉や声を、生きた力を持つものとし、それを各人の表現によって人に伝える力を競うもの。

最初、これを聞いたときに、「ボクシング」と言うイメージと「詩」というイメージがなかなか結びつきませんでした。

私のイメージで行くと「詩」というのは「詩作にふける文学少女」が秋のセンチメンタルな枯れ葉舞う風景の中で静かに穏やかに読むもの………だったからです。

ところが。

そんなイメージでいたわたしは、のっけからカウンターパンチをくらってしまったわけです。

言葉が、こんな「力」を持って迫ってくるなんて、思いもしていなかったんです。
詩が、こんなに熱いものだなんて、イメージしたこともなかったんです。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

突然、ステージのなかがわ氏は脇に去ったかと思うと「卓上ガスコンロ」を手に再登場。

そして、おもむろに着火……が、なぜか火がつかない。

「着かない!!」
「こんな時に限って、着かない!!」

そういうアクシデントもまた、なかがわ氏の即興詩に読み込まれる題材になる。

「過去」は要らない。時と共に過ぎ去ってしまう「過去」は要らない。
そんなものは、燃やしてしまえ。
(そのためのガスコンロだったけど……火が着かなかった。)

「未来」を見るのは遠すぎる。
だから。だから、「今」なんだ。

彼の中に、脈々と流れ続けるテーマが強烈にうたいあげられる。
「今」という言葉が、彼の中で熟成されて、そうして熱い熱を帯びながら会場に放たれる。

やがて、そのなかがわ氏から発せられた「熱」は、さらに溶岩の固まりとなって次のGOKU氏に受け継がれた。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

GOKU氏。

東信在住の自作詩の詩人。
彼となかがわ氏の出会いは、「オープンマイク」というイベントによるものでした。

OPEN MIC(オープンマイク)と はアメリカやイギリスで一般的な、当日飛び入り参加形式の自由なパフォーマンスステージです。その名の通り、誰にでもオープンなマイクということで、参加自由のイベントです。弾き語り、バンド、詩、マジック、ラップ、コント、ただマイクの前でしゃべるだけ、などどんなパフォーマンスでもOKというものです。

東京などでは結構行われている「オープンマイク」。その長野版を自主的に行っているのがGOKU氏です。(いずれ、このN-gene記事としても取り扱いたいと思っています。)その、彼の主催するオープンマイクに、なかがわ氏が参加したことで二人のつながりが始まりました。

GOKU氏は、先に書いた詩のボクシングの2005年の全国大会では準優勝したという実力者でもあります。

なかがわ氏も、GOKU氏も、お互いに「友だちじゃない」といいます。
多分……友だちというだけじゃもったいない、表現における「ライバル」とか「敵」とかいう類の高め合う仲なのでしょう。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

GOKU氏は自作の詩人。

自らが紡ぎ出した言葉を乗せた詩を、体中使ってステージいっぱいに叫ぶかと思うと次の瞬間に泣き出しそうにささやく。

その緩急ある言葉の放ち方によって、思いが乗った重たい言葉が聞くものの胸にどかんとぶつかってくる。

犬の詩を読んだ。
野良犬の死を詠み込んだ詩を読んだ。

………………………・

~「ノラ犬のカラダ」より一部抜粋~

僕の記憶から、ノラ犬の死体は寂しそうに立ち去り、
僕の記憶には、畑を斜めに歩くノラ犬が棲みつきました。

「土に還りたい」
「空を飛びたい」
「静かに暮らしたい」
それら全ては僕が求めているものなのに
それらをひとつも求めていないであろうノラ犬は
その全てを叶えて
僕の記憶に棲みつきました。

………………………・

野良犬は、今、死によって放置され鎖の束縛から自由になった。
見ている自分は、その自由が欲しいのに、それが手元になく。
野良犬は、その自由を欲してはいなかったかもしれないのに、自由の元にある。

今、欲しいものは手には入らず、必要としていない者にそれが与えられる………。

ずきっと来る。

自作詩人のGOKU氏はまた、最近自費出版で詩集を出した。
この詩集にあるのは、すべて彼の詩ではない。
詩人である自分が「読みたい」と思った詩を集めて綴った小さな詩集。
そのひとつを、今度は切々と読み上げる。

入り口においてあったその詩集は、あっという間に多くの人の手元に旅立っていった。

なかがわ氏に触発されたのか。
GOKU氏も脱ぎ始める。

お色直し後のGOKU氏は、おもむろにスケッチブックを取り出して観客の前に拡げる。「宇宙ガール」というタイトルの詩を朗々と読み、次第に観客を巻き込む。

「ありんこの声で!」「ロケットのスピードで!」「地球の声で!」
彼の指示にしたがって、観客もいろいろな声をイメージしながら共に言葉を発する。

やがて高まった熱が、GOKU氏の中で爆発。
ステージ上を「小宇宙」という言葉を発しながら飛び跳ねる。
飛び散る汗が見えるほどの爆発ぶりだ。

「なかがわさんのパンツ一丁にはかなわないけど。」

そういいながら、3度目のお色直し。

そして、持ち時間の30分の間……
いったいいくつの言葉を発したのだろう?

そのきらめきの余韻をステージにまき散らして、GOKU氏のステージ終了。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

猫道氏。

彼は、「猫道一家」の座頭なのだそうです。

今までは、この「猫道一家」というクルーでお芝居を発表していたそうですが、2008年にお芝居をやめてポエトリーリーディングに転向し、2009年より自ら主催するスポークンワードのイベントを渋谷 道玄坂のBAR SAZANAMIで毎月開催しているそうです。

先にも書いたように、「詩のボクシング」に参戦、そこでなかがわ氏と出会い、どうやらお互いにいいライバル、刺激を与え合う関係がそこで生まれたようです。

かつて、芝居の音響・演出・脚本などを手がけていただけあって、彼のステージの上にはいろいろな道具も並んでいました。
何が出てくるのか???それを見ているだけで期待感が高まりました。


※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

登場と共に、そこはたちまち、歌舞伎の舞台になった。
大声で名乗りをあげ、見得を切る。

……かと思うと、次の瞬間にはいつの間にか「ラップ」になって言葉がぽんぽんとポップコーンのように飛び跳ねる。

ぐいぐいと、観客をステージの上の「言葉」に引き寄せていく。
その瞬間に、舞台はもう猫道氏の世界。

飛び跳ねる言葉。
飛び跳ねる音。
飛び跳ねる、猫道氏。

それをとらえようと必死にステージに吸い寄せられる観客たち。
その緊張感が高まる中で、次にホールの空間に投げつけられた言葉にはっとする。

………………………・

「素顔」より ~一部抜粋~

一皮剥けたら元には戻せないのは、
あの塩釜の海岸で散々日に焼けた20年前のナツヤスミに戻れないのと同じことで、
変わらないのは蚊取り線香の匂いばかりです。

(中略)

人間椅子になって隠れたりしたい。
タイガーマスクになって悪者をやっつけたりしたい。
途中で我慢できなくなって、タマネギみたく皮を剥いて、
涙目の素顔をさらしたい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
みんな涙目になって皮を剥いたらいい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
「髪の毛切った?」って言われるのは
みんなうれしいと思うから。

………………………・

一皮むけたら、戻れない。
あの夏に戻れないのと同じように。

「素顔」というタイトルのこの詩が、なかがわ氏のかかげるテーマである「今」にだぶった。

そして、それは、今の自分の想いにもどかんと乗っかってきて……胸に堪えた。
胸の奥にたまっていた何かが、堰を切ってあふれ出そうになってあわててこらえた。

緩急織り交ぜたステージ上で。
期待通りに、猫道氏もお色直し。

猫道氏3態。

3枚目、一番右の写真で彼が手にしているのは。
「ネオンホール特製マイク」なんだそうな。

この特製マイクを握って、彼はこうつぶやいた。

「溶け始める時間を、たべる。
おいしいは、のこる。」

3人の熱いステージは、こうして幕を閉じた。
会場のネオンホールの空間に、その空気の中に、いつまでもその熱が漂って。
しばらくの間、冷めることはなかった。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

なかがわ氏の持っているテーマは、「今」なのだけれども。
その「今」の中にはまた、様々な人間模様が織りなされている。

この3人の「今」の中には、「今」に至るまでの「過去」があり、その「過去」を踏み台にした「今」があり、その「今」を積み重ねていくのが「未来」。

この3人の織り交ぜた「今」は、彼らがステージから熱と共に撃ちまくった言葉のマシンガンの目にも止まらぬ弾となって、それに射抜かれた人々の中に何かを残す。
そしてその人たちの中にある「過去」をほじくり返しながらそれぞれの「今」を実感させ、そして「未来」を思うきっかけをくれる。

言葉の持つ力は、なんてすごいのだろう。
そして、それを放つ人の力が加わると、何という破壊力を持つのだろう。

言葉が発せられるのはほんの一瞬なのに、命を得た言葉が、どんな力を持って人に迫るのか。

この2時間強の時間の間に、それを目の前にたたきつけられた気分になった。

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ちなみに、ネオンホールの階段ギャラリーでは、28日までなかがわ氏の展示も行われています。↓

なかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、このあとも続きます。

10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~たかが芝居だ!~」
現代口語劇「餃子の なかみ」赤尾英二、司宏美、田中けいこ
アングラ劇「たかが芝居だ。」(脚本・演出・出演/なかがわよしの)、

10年3月7日(日)「傘に、ラ。 vol.9~たっちゃんと ゆかいな なかまたち~」
客人:田沢明善

10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.10~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」
ゲストライブ
オサカミツオSLOWLIE、なかがわよしの、bubblesweet ほか(50音順)

10年3月21日(日)「傘に、ラ。 vol.11 ~つぶやいて、なんになる~」
@twitter

10年7月3日(土)「傘に、ラ。~今に生まれて今に死ぬ~」
出演:outside yoshino  タテタカコ

(写真、文:駒村みどり)

カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)<’09.12月掲載>

~そして、それでも、こうしてわたしたちは生きている。~

12月6日、日曜日。
師走の最初の日曜日の逢魔が時。

長野市善光寺の門前町にある「ナノグラフィカ」で、あるイベントが開催された。

「傘に、ラ。 vol.4 ~怪シイ会ニ誘ワレテ気分ハ憂鬱~」

時間になると、突然朗々とした声が会場に響きはじめた。
その声は、「彼」というひとりの人間のある時の生きざまをとうとうと語り続けた。

「彼」はうつになり、「彼」は仕事を投げ出して失踪し、「彼」は苦悩する。

だけれども……「彼」は生きている。今でも、生きている。

「彼」は、それを語る「ぼく」であり、それを語っているのはこのイベントを企画している「なかがわよしの」氏である。

このN-geneにも「なかがわよしのの400字」というタイトルで、短い日常の一コマを描いた文面で、読んだ者に何とも言えないいろいろな気持ちを呼び覚ます、そういう連載を続けている彼だ。

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わたしの元に、一通のメッセージが届いたのは、10月の末のこと。
「出演のご相談」というタイトルで届いたそのメッセージには、こう書いてあった。

ええと、
最近、即興朗読のイベントを
はじめました。
自分は即興で
ポエトリーリーディングをやります。
ただ、ひとりでは物足りなくて
「この人と面白いことがしたい!」
と思う人といっしょにイベントが
できたらなーと
考えています。

自分もうつ病経験者で
今も通院しているし、
薬も飲んでいます。
ただやはりまわりの反応が怖くて
おおっぴらには告白できないでいます。
偏見をなくしたい、というよりも
うつでも生きていけるさってことを
コマちゃんと伝えられたらと思います。

ちょうど、この10月、わたしは自分の住んでいる地域の主催する講演会で、うつについての講演を頼まれていた。自らのうつの体験を元に、うつについて知ってもらうことで「人ってみんな一生懸命に生きてるんだよ」ってことを伝えたい、それをテーマに講演を組み立てていたわたしは、この「うつでも生きていけるさ、ってことを・・・」の一文にとてもひかれた。

やります。

すぐにそう返事を返しつつ、ひとつなかがわさんに質問した。
「傘に、ラ」って一体どういう意味ですか?……と。

その返事として帰ってきたのが、これだった。

傘にラ
というのは
「今」という意味です。
「今」の
上の部分が「傘」で
下の部分が「ラ」です。

「今」………そうか、「今」かぁ。

わたし自身、心にいつも持っているテーマが「今を大切に生きる」ということ。なので、なかがわさんが「今」というテーマを持ってやっているこのイベントに声をかけてもらえたのが嬉しく、とても楽しみになった。

11月の末、当日を前にした打合せの時は、それぞれのうつの体験を語りながら、来てくれた人に何を持ち帰ってもらおうか、という話で討論し、気がついたら3時間近くも話し込んでしまっていた。

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なかがわさんの「詩の朗読」では、彼の自らのうつに対したときの赤裸々な思いを、その「彼」を横で見つめている「ぼく」という人物がとうとうと語る。

時に重く、時に軽妙に、流れ出すその言葉の力。
それはまた、わたし自身のうつの体験とも重なって、心にどかんとぶつかってきた。

詩の朗読からそのまま、わたしとのトークセッションにはいる。

「スマイルコーディネーターって、なんですか?」

それは、わたしの肩書きとして名刺にも書いてあることば。わたしが2度のうつ体験から立ち上がったときに、心に浮かび上がった自分の方向を示すことば。

それが何かと問うなかがわさんの言葉につられて、わたしも自然に自らのうつの体験を語りはじめた。

それはもう、数分じゃ語れない。
「スマイルコーディネーター」という肩書きで自らの道を歩こうと決めるまでには、2回のうつの体験と、そこに至るまでの仕事での学びと、苦しみと……から始まっていることだから、結局25年という間の自分の教職生活をかいつまんで話すことになる。

できるだけ簡潔に、必要な部分だけ……そう思いつつも、「だから、スマイルコーディネーターなんですよ」っていうところに行き着くまでには30分以上もかかってしまった。

けれども、そこに至るまでに、自分の体験となかがわさんの体験とをお互いに語りあい、絡ませながら進んでいて、多分、その場にいる人たちには「うつってこういうことなんだ」ということが伝わったんじゃないのかな、と思っている。

そして、2人で決めた、この日来た人に知って欲しかった想い、

「うつ病だっていって、特別扱いする必要も、特別視する必要もない。
うつという病気にかかった『人間』がそこにいるという事実があるだけ。
みんな同じ人間で、その人がうつだとか、今朝の寝起きが悪くてつらいんだとか、ものすごく良いことがあってうきうきしているとか、そういう『状態』がそこにあるだけ。みんな、『生きている』ってことでは同じなんだ。」

……と、その部分に流れを持って行かれたのかどうかは、実はわたしもなかがわさんも、結構テンパっていたりしたのでちょっとわからない。

でも、なかがわさんのこの『傘に、ラ。』企画全体に流れる柱であり、わたし自身も自らの柱として持っている共通のテーマ、「『今』を必死で『生きている』」ということ、それは1時間半という間のお互いの話の中、自分たちの経験を通した想いの中に織り込んで、できるだけ伝えたつもりだ。

そんなこのイベントに参加していたひとりの方に、どんな感じだったのかをこっそりお聞きしてみた。

・・・・・・
まるで、「昨日ね~こんなことがあったのよ~」というように、軽妙に語られてはいましたが、それはまさしく体験した者しか語ることのできない、辛く、苦しい、体験談でした。でもお二人とも、沢山の笑顔と、ユーモアで、その辛い過去を明るく話してくださっていたのが、印象的でした。

二人とも、真面目で、ユーモアがあり、能力が高く、でもだからこそ、鬱病になったのではないかな?と何度も思いました。

「あぁ、鬱病って、よいひと がなる病気なんだ。」って。

でも、お二人とも、内服や、環境を変えることで、それを完全に克服し、その上で、自分たちのようにならないために、自分たちが体験した辛さの中にいる人たちに、どう接したらいいのかを語ってくださっていました。

中川さんの
「鬱になってよかった、なんて絶対に思えない」
と言う言葉。
スマイル・コーディネータ、コマちゃん自身の笑顔が、
いまでも忘れられません。

・・・・・・・・・……
このイベントが終わった後、わたしはこの記事を書こうと思っていたので、なかがわさんにちょっとだけ取材をした。その時に、改めて「なんでこの企画をしていこうと思ったのですか?」という質問をしたのだが、その時の答えは、この先にまだ続くなかがわさんの他のイベントの記事で書かせてもらうことにして、もう一つ、翌日になかがわさんから届いたメールの一節を、ここに転載させてもらおうと思う。

うつ病への理解とか
うつの人を助けたいとか
自分にはそういう使命感もないのですが、
昨日のトークセッションで
思い出したことがあります。

傘にラを始めた根本の根本には
自分が病気になって
迷惑や心配を掛けた人たちに
「僕はそれでも生きてます」
ということを伝えたい
という気持ちがありました。

それは大切なことなのに
忘れてました。
思い出すことができたのは
昨日のイベントのおかげです。
一緒におはなししてくれて
ありがとうございました。

なんかうまく言えんですが
とにかく、ありがとうありがとうありがとう。
ってことです。

人それぞれに、必死で生きて「今」がある。
それぞれの「今」が出会い、絡み合って新しい「明日」が生まれていく。

なかがわさんとのイベントを通して、お互いの「今」を持ち寄ることで、「明日」への可能性がより大きく広がるんだ、ということを感じさせてもらった。

わたしからも、ありがとうありがとうありがとう。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

なかがわさんの「傘に、ラ。」のイベントは、この後も続きます。
このイベントを、数回かけて追っていってみようと思っています。

今後の予定は、以下の通り。
10年1月10日(日)「傘に、ラ。 vol.5 ~本当に好きな人は手に入らなかった~」
10年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」
10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.7 ~たかが芝居だ!~」
10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」

(詳細は、なかがわよしのの400字のページの左枠のなかをご覧ください)

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【うつのくれた贈り物】~「うつ」からもらった、幸せの法則~

写真協力:なかがわさんのお友達 文:駒村みどり

桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?<'09.9.28掲載>

<<2009.09.28 N-gene掲載記事>>

実りの秋です。

先日、近くにある青果市場から「巨峰」と書かれた箱を山ほど積んだトラックが出てくるのを見ました。そういえば、この前通りかかった畑でも、野菜を箱詰めしてはトラックに積み込んでいる様子を見かけました。

秋は、豊かな実りをもたらしてくれる季節です。そして、その実りは、あちらこちらの田んぼにも………。

 

ナノグラフィカの高井綾子さんが、松代にある小川さんのうちの田んぼのお手伝いをする模様を5月&7月と訪れてレポートした記事「皆神山の麓の田んぼで…」の続報です。

そうなのです、高井さんがお手伝いしていた田んぼでも、先日ついに稲刈りが行われたのです。その情報を得て、さっそくおじゃましてきました。

「シルバーウイーク」って、誰がいつから言いはじめたのか知りませんが、その秋の連休後半の9月22日。天気は、薄曇り。松代にバイクで向かいましたが、風を切るのでもう長袖+ウインドブレーカーでも寒いくらいです。

連休の後半と言うことで、松代の町中は結構な渋滞。しかし、田んぼのあるあたりはほとんど人通りも車通りもなく、静かなもの。

小川さんの田んぼに着くと、すでにもう稲刈りは始まっていました。 そういえば。昔はこの時期、「農繁休業(稲刈り休み)」っていうのがあったっけなぁ。周りに農家が多かったので友だちはみんな稲刈りのお手伝いにかり出されて日焼けしてた……記憶が。

そう、農業はごく当たり前の生活の一場面で。生活にあわせて学校もお休みになって。そうしてもろもろの農作業が一段落つくときに、一年の労働の慰労も兼ねて地域をあげて「運動会」を家族で楽しむ……という流れがありました。

そうそう、稲刈りの時期に忘れてはいけないお方と久しぶりにご対面しました。

そうなのです、イナゴくんです。このイナゴくん、稲を食い荒らす害虫とされていて、でもその一方で山の地方のタンパク源としては貴重なもので。中学生のころには、農繁休みの宿題で「イナゴを茶碗2杯分持ってくること」が課題に出たりしていたのです。生徒会で全校分を集めて業者に売って、貴重な生徒会の予算源にもなっていたのでした。(私の学校だけかなぁ)

いつの間にか田んぼからイナゴが減って(農薬の影響?)農繁休業もなくなり、今はもうそんな課題が出せなくなっちゃっているんでしょうね。この日も、出会ったイナゴくんはこの写真の3匹……じゃない、2匹と1ペアだけでした。

さて、そうこうしているうちに、高井さんと7〜8名の集団が車でやってきました。簡単に打合せをしたかと思うと、あっという間に手際よくはぜかけの作業に取り組みはじめました。

手慣れているのもそのはずです。このメンバー、毎年ここに田んぼ作りの手伝いにやってきている人たちです。皆さん、すでにもう3年とか5年とか、田植えと稲刈りをここに来てやっている方々で、遅れてきたのはここに来る前に別の田んぼでの作業をしていたからです。

いわば、そんな「先輩諸氏」の間に入って、高井さんも笑顔で作業をしていました。そんな高井さんの仕事姿。一年目とはいえ様になっているような……。

黄色い稲がまだ残っている部分と、すでに刈り取られてはぜかけしている部分。すでに稲刈りが終わって切り株だけが整列して残る田んぼ。

「秋の色」の織りなす模様は美しい……秋の田んぼを見るといつもそう思います。
先ほどまでは数名での作業でなかなか進まなかったはぜかけも、あっという間にすすみました。

そういえば、この田んぼでは「バインダー」で稲を刈ってはぜかけをしていますが。周りを見渡すとなぜかはぜかけが見あたらない田んぼが。

「最近はねぇ、機械で稲刈りから脱穀まで一気に全部、やっちゃう所も多いからねぇ。」

すみません、私、よく知りませんでした。「コンバイン」という機械は知っていたけど、はぜかけしないで脱穀まで一気に!?

「あの、日に干さなくても大丈夫なんでしょうか?」「うん、やっぱりね、味は違うみたいね。ちゃんとはぜかけで日に当たったお米は長期保存しても味が落ちないけど、コンバインで脱穀しちゃったお米は一年たつと味が落ちるらしいわよ。」

おひさまの力は、偉大です。そして、それをちゃんと「はぜかけ」という形で美味しい米作りに生かしてきた日本の農家も偉大です。

それにしても、今年はちょっと青い稲が気になるなぁ。出来はどうだったんだろう?と高井さんに聞くと。

「そうねぇ、どうも今年の実りは今ひとつみたい。稲も軽いようだしね。夏の雨が影響したみたい。」

冷夏だった今年、たしかに実りが心配です。

そうして、一年間、田植えからずっと見守ってきた田んぼ。この先も、脱穀〜新米賞味会(?)〜しめ縄作り、と続いていくのですが、田んぼ自体との関わりはこれで一段落です。

「でもね、実はあまり顔出せなかったんだ。それに、言葉が通じないんだよ。」「通じない?」「うん、みんなの会話が『そろそろあれだから』とか『もういい時期だろう?』とか、主語がないんだよね。でもちゃんとみんなわかってて通じちゃうの。 この会話がわからないとちゃんと田んぼの作業に入れないし。また、来年はもうちょっと会話に加われるように、田んぼにも顔出せるようにしたいなぁ。」「……ということは、来年もやるの?」「そうね、3年くらいはちゃんとやらないとやったって言えるようにはならないよ、きっと。」

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

「桃栗三年柿八年」という言葉があります。種をまき、芽吹いてから実りの時期を迎えるまでにはそのくらいかかる。何か事に当たってそれが実るには時間がかかる、すぐには実りを手に入れられない……そういう意味のこの言葉。

高井さんにとっては、今年は「種をまいて芽吹いた」年だったんですね。

こうして田んぼの一年が終わっていきますが、高井さんにとっての田んぼとの関わりはここがスタート。来年、再来年とやっていくことによって「稲作り」における高井さんの「実り」に近づいていくのでしょう。

「桃栗三年柿八年」のあとには、「柚は九年で花盛り梅はすいとて十三年。」とかいろいろな言葉がくっついてくるようですが。

桃栗三年柿八年。高井さんの田んぼはあと何年?高井さんの挑戦は、まだまだこの先も続いていくようです。

そんなわけで。この記事もまだまだ続く……。(かな?)

(写真・文 駒村みどり)

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