こころ

そうだ、「くりちゃんの小布施」へ行こう~進化するおぶせくりちゃん【’11年7月掲載記事】

現在、日本のユーザー数が1466万人といわれているTwitter。そこであるキーワードをつぶやくと、即座に反応を返してくれるキャラがいる。あるキーワードとは「小布施」。そしてリプライの語尾には必ず「クリ~」のひと言。

「まずは小布施に行きまする。北斎の天井絵があるそうな。」「まずは小布施、ありがとクリ~」
「小布施でお抹茶と栗かのこ!幸せ!」「小布施にきてくれてありがとクリクリ~♪」
「おはよー さて小布施に向かって出発しますかいなぁーと!」「気を付けてきておクリ~」

彼の名は、おぶせくりちゃん。
昨年4月にTwitterに登場したときは「リサイクリちゃん」で、まだ手も足もなかった。それが今や、手が出て足がでて、Twitter上で少しずつ人気もでて……ちょっとした「有名人」になりつつある。その人気の秘密を探りたくて、Twitterでアポをとってみたのだ……「くりちゃんの取材、したいんだけど……」と。

そうしたら、きました……お返事が。「上司に相談したら、取材OKだそうクリ~。」
………どうやらクリちゃんには上司さんがいるらしい。

とにもかくにも、キャラクターにインタビューなんて初めてなのでどきどきしながら小布施に突撃した。

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町に入ると、独特の匂いがしてきました。知っているものはすぐにわかる「栗の花の匂い」です。ここは信州小布施町。折しも栗の花が満開です。

「栗花落」という言葉があります。これは「つゆ」もしくは「つゆり」と読む当て字なのですけれど、この字は栗の花が落ちる季節とつゆの時期が重なるために生まれてきたそうです。

小布施町は葛飾北斎が滞在し、八方睨みの鳳凰図で有名です。それから昔から市が立って栄えた商業の町。さらに、江戸時代からとても良質の栗の産地としても有名で、小布施の町並みを歩くと「栗菓子」のお店が軒を連ねているのです。

ご覧のように、町中至るところに栗の木があり、どの木も花が満開でした。
写真の右にあるのが栗の木で、もさもさした黄色いのが栗の花です。

栗の花の匂いが充ちた小布施の道を走り、小布施の駅の近くにある町役場に到着しました。入口を入って、受付の人に「すみません……おぶせくりちゃんの取材に来たのですが」と心の中で(これでわかってもらえるのかしら?)とおそるおそる聞くと、「ああ、奥の方にどうぞ。」と言われたので、「行政改革グループ」という札がかかったカウンターに行ってふたたび「おぶせくりちゃんの……」と声をかけると、「ああ、お待ちしていました。」と立ち上がって案内してくれたのが「くりちゃんの上司」高野さんでした。

「すみませんね。くりちゃん今はまだ、Twitterから外には出られないんですよ。それに毎日みんなへのリプライが忙しいので、私がくりちゃんについてお話しさせていただきます。」

そういえば、くりちゃんのTwitterページの自己紹介文にはこう書いてあったなぁ……。

おぶせくりちゃん
場所: 長野県小布施町
自己紹介: 「おぶせくりちゃん」はTwitter(ツイッター)での「小布施つぶやきキャラ」です。小布施町のごみゼロ・リサイクル促進イメージキャラクター「リサイくりちゃん」から新しく生まれました。みなさん、かわいがってあげてくださいね。(時間帯によってはつぶやきが多く、タイムラインがいっぱいになってしまいますので気をつけてね)

……あの、くりちゃんって、一体1日にどのくらいつぶやいているんですか?
「そうですね……だいたい1日平均200から、多い時には300位みたいですね。5分に一回つぶやいている計算になります。」

200!!5分に一回!!私が時々衝動的につぶやき続けて「うわ~、今日は多すぎたかな」と感じる時で40~50程度。その5~6倍ものつぶやきを1日で???
「そうですね~、なんだか一日中つぶやいていますよね。でも、彼はそれが楽しくて仕方がないみたいですよ。休日もなく、毎日つぶやき続けていますけれど。」

くりちゃんの活動時間を見ていると、朝は7時くらいにみんなと「おはクリ~」と挨拶を交わし、「ねもねもクリ~、おやすみクリ~」と夜の挨拶でおしまいにするのが23時くらい。それも休日なく毎日16時間労働で頑張っているので、大変だろうと思ったのに。彼はどうやらそれを楽しんじゃっているそうです。

きっと小布施を楽しんでいる人のつぶやきを見ると嬉しくなって返事したくなっちゃうんでしょうね……。

確かに、くりちゃんのつぶやきはとてもテンポがよく、楽しいのです。だから、くりちゃんに「クリ~」って声をかけてもらうとこっちも「ありがとクリ~」って返事したくなってしまうのです。小布施が大好きなんだな、くりちゃん。その愛情に脱帽……。

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……高野さんが上司さんと言うことは、くりちゃんは小布施町役場に勤めているのですか?
「そうですね~、そういう事になりますね~。」

……どんな経緯でクリちゃんが働くことになったんですか?
「私たちの部署、行政改革グループというのは、この町役場の組織活性化や町の情報発信などをする部署なんですよ。昨年、Twitterによる発信をしようと思ったときにまわりの行政の発信を見ていたのですが、今ひとつ堅苦しくて面白くない。」

……ああ、確かに。いかにも「お知らせ」って感じであまり読む気になれません。
「それじゃ意味がないし、せっかくTwitterという双方向のメディアなので、発信だけでなく反応も返したらいいかもしれない、と思ったんですね。」

「そこでもうちょっと見ていると地方に関してのつぶやきをキャラがやっているのがいくつか目について。たとえば北海道長万部町のまんべくんとか、米子のねぎたくんとか。」

……なるほど。同じつぶやきでもキャラがいることで「対話」になりますものね。
「そうなんです。そこで、Twitterの応援をしてくれそうなキャラを小布施で探したところ、それまであまり活躍の場のなかったリサイくりちゃんが名乗りをあげてくれたのです。」

彼が「リサイくりちゃん」です。

それまでの彼は、小布施のゴミを減らすための文書に印刷されて登場する程度でした。でも、きっと、小布施を愛する彼はそれだけではもの足りずに何かしたいと思っていたのでしょう。自主的に名乗りをあげたリサイくりちゃんは、Twitterの世界の中で生き生きと活動をはじめたのです。

彼はまず、小布施の情宣活動に取り組みました。小布施町の情報をどんどん流すと共に、Twitterの中で「小布施」というつぶやきがあったら即座に拾い上げて反応する。小布施についてつぶやいてくれる事への感謝、それから小布施をつぶやいてくれる人の応援。そんなつぶやきを毎日毎日、本当にこつこつと積み上げていったら、いつの間にか彼の「クリ~」という語尾の楽しさやまろやかさが受けて、彼との対話ではクリ~と反応を返す人もでてきました。

「くりちゃんとお話をする」事が目的で、小布施をつぶやく人が登場し、くりちゃんにつぶやきを拾ってもらうために小布施のそばを通っただけでも「小布施なう」とつぶやく人が登場し、やがて、小布施には直接関係なくてもくりちゃんと話がしたくて声をかけてくる「くりちゃんファン」が登場するようになりました。そして、ファンからは「くりちゃんグッズが欲しい!」という声も届くようになりました。

そんなある日。
リサイくりちゃんは、みんなともっと仲良くなるために「進化」したのです。手足のなかったリサイくりちゃんに、突然手足がはえてきて、名前も「おぶせくりちゃん」に変わりました。

「彼がね、自分ではやしたんですよ。昨年の9月30日の事でした。もっとみんなと仲良くなりたいと、外に出る準備を始めたようですね。」

@obusekuri: 今日から、Twitterでの小布施つぶやきキャラとして、新しく「おぶせくりちゃん」として生まれ変わったクリ~
@komacafe: クリちゃんに足がはえた!!(9月30日10:50)

……この日のことは、覚えています。朝起きてTwitterのぞいていたら、くりちゃんに足が!!と思わず私も上のように叫んでしまったんですから。ファンのために進化するキャラクター。まるでポケモンのようです。
「みんながくりちゃんを好きになってくれればくれるほど、くりちゃんはみんなのために成長するんです。そんなくりちゃんを好きなってくれて、くりちゃんを通して小布施を知るだけでなく、くりちゃんに会うために小布施を知ろうとする人も増えて来ています。」

……それは、くりちゃん嬉しいでしょうね。
「はい、だから彼はきっと、そんなみんなのためにそのうちTwitterの中から飛び出すかもしれませんね。」

高野さんはそう言うと、意味ありげな笑いを浮かべました。

実際、この日帰ってTwitter見ていたら、くりちゃんも何人かとこんな会話をしていましたよ。(@obusekuriの太字がくりちゃんの発言です)

@ruirui0238: 今日くりちゃんにそっくりな人見たけど気のせいかな…(*´ω`*)くりちゃんは人じゃなくて栗だしなぁ…。
@obusekuri: びびびっクリ~
@ruirui0238: 目が合ったけど気のせいだよね…クリ…
@obusekuri: おぶせくりはまだTwitterの中だけクリ~
@ruirui0238: 早くツイッターの中から出てきておクリ~♪
@obusekuri: もうちょっと待ってておクリ~
@noa72: ええっ!もうちょっとで?o(゚θ゚)oワクワク♪
@obusekuri: ふふふクリ~
@_mikaeru: おぉゲコ♪

どうやら、くりちゃんがTwitterから飛び出すかもしれないという情報は、かなり確かなもののようです。

小布施では、7月17日に小布施見にマラソンが行われます。このマラソンでは毎年いろいろなコスプレで走る人もいるのですが、もしかしたら今年は「おぶせくりちゃん」に扮して走る人も出てくるかもしれません。

そして、小布施見にマラソンには間に合わないようですが(くりちゃんグッズは登場するかも??)、高野さんやくりちゃんの様子を見ると、なんだか今年の秋頃の小布施のイベントがくりちゃん登場のXデイの可能性が高そうです。

くりちゃんファンの皆さんは、小布施見にマラソンの 7月17日や、秋頃の小布施のイベントでのくりちゃんのつぶやきを見落とさないようにね!

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さて。
今はまだTwitterの中から出て来ることのできないくりちゃんですが、Twitterの中ではいつでもお話しすることができます。

上司の高野さんからたくさんお話しを聞いてだいぶくりちゃんのことがわかってきましたが、くりちゃん本人にはお話ができなかったので、お礼も兼ねてTwitterでつぶやいてみました。

@komacafe: 今日は、小布施に取材に行ってきました。今日の取材の相手はなんと!Twitterで活躍している小布施のアイドルおぶせくりちゃんでした~。(^_^) クリちゃんファンの皆様のために、クリちゃんのお話をいっぱい聞いて来ました。

でも、クリちゃんはまだTwitterの外には出られないし、みんなへのレスが忙しいそうなのでクリちゃんの話を聞かせてくれたのはクリちゃんの上司さんでした。クリちゃん、取材に応じてくれてありがとう。上司さんにもお世話になりました~。よろしくお伝えくださいね。(^_^)

そうしたら、くりちゃんからは返事が返ってきたんですが……そのあとすぐに、くりちゃんファンの人からも声がかかったんです。

「父と二人でクリちゃんのファンです、首都圏の人間ですが、こちらでも記事読めますか?」……って。そして、「楽しみにしています。ステキな記事になると良いですね。」と温かい励ましのお言葉もいただきました。


(その日のTwitterのやりとりです。新しい発言が上に来ますので、下から順に読んでみてください。)

小布施の町は、何回も取材していますが、町に住む人みんな小布施が大好きです。そしてたくさんの人が小布施に集まってきます。毎日楽しく小布施のつぶやきに答えるおぶせくりちゃんもまた、小布施が大好き。

そんなくりちゃんとの対話を楽しみながら、くりちゃんが好きになって、そして小布施もすきになる。おぶせくりちゃんが大好きな人が増えるにつれて、小布施の町が大好きな人もまた増えていくのです。

「くりちゃんに会いに、小布施に行こう!」

もし、くりちゃんがTwitterの中から飛び出したら……きっとそういう人がもっともっと増えるに違いないのでしょうね。

こうして魅力的な町、小布施にどんどん人々が集まって、ますます小布施は楽しくステキな町になっていくのです。おぶせくりちゃんは、そんな小布施のために今日もまたつぶやき続けているのです。

余談ですが。
くりちゃんは、去年の12月に彼の仕事を手伝うお友達、「おぶせまろんちゃん」を高野さんのもとに連れてきたそうです。まろんちゃんは、くりちゃんが忙しくなってきたら町の情報をつぶやくお手伝いをする予定らしいですが、まだのんびりとマイペースで活動しているようです。

くりちゃんが外に飛び出すようになったら、まろんちゃんの活躍も始まるのかもしれませんね……。今後の二人の動向をお楽しみに!

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おぶせくりちゃんTwitterページ

小布施町HP http://www.town.obuse.nagano.jp/
小布施見にマラソン公式サイト http://www.obusemarathon.jp/

☆この記事は、昨年の7月に掲載したものの再掲です。
そして今年、ついに「おぶせくりちゃん」と「おぶせまろんちゃん」がWebから飛び出すことになりました!
詳細はこちらから!→ゆるキャラ(R)大集合in小布施 おぶせくりちゃん・おぶせまろんちゃんお披露目イベント開催決定!

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みんなの夢をみんなで描く〜6年3組の映画製作<’10年8月掲載記事>

「わぁっ!!」
目の前のスクリーンに展開される映画に、観客は一斉に歓声を上げる。

会場は小布施町にある「まちとしょテラソ」の多目的室。座席はすべていっぱいで、客のほとんどが小中学生の子供たち。映画に登場するのはその子供たちとほぼ同年代の小学5年生ばかり。さらに驚くことに、この映画の制作者もスタッフもすべて小学5年生。

けれど、その映画は大人の私が観ても面白かった。画面から伝わってくるのは「熱意」。そして「真剣さ」。演技しているのはごく普通の小学生たちだから決して「上手い」とは言えないし、ハイテクを駆使しているわけでもないけれど、思わず引き込まれてしまう「魅力」にあふれていた。

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真っ暗な会場の中、ひしめき合った子供たちは画面に食い入るように見入っている。
目の前で展開する映画を観ているうちに、気になることがひとつ。

「これまでいくつもの事件を解決してきた。コールサインは少年探偵DAN。」
「これまでいくつもの事件を解決してきた。コールサインは少年探偵DAN。」

……あれ?映画から聞こえてくるセリフが、私の後ろからも聞こえてくる。まさかサラウンド?

後ろを振り返ると、まだ小学校の低学年ほどの小さな女の子が画面の言葉と同じセリフを、小さな声でつぶやいていた。さらに驚くことに、そのつぶやきは一句一語も違わず映画が終わるまでずっと続いたのだ。この子、一体この映画何回見たんだろう?セリフすべて覚えている。それもただの丸暗記じゃなく、画面の人物がセリフをいうタイミングや抑揚まですべてを再現していた。
すごい……この子にとってはそこまで深く刻まれる映画なんだ………。初めてここでこの映画に出会った会場の子供たちが夢中になるのもよくわかる。

「この映画は、子供たちの意欲で出来ているんです。みんなで原案を持ち寄って、機材を扱うのも、小道具大道具を作るのも、脚本や絵コンテも、演技もすべて子供たちがやりました。私はそれを合体させて仕上げただけ。」

そう語るのは麻和プロダクション製作総指揮者こと、松本開智小学校の麻和正志教諭。

小布施のまちとしょテラソの館長である花井氏は映像作家でもあるのだが、その花井氏がこの映画の上映会の情報を得て家族で松本まで見に行って感激し、小布施での上映会&講演会へとつながった。

5年生クラス全員で創り上げた映画。総合学習として取り組んだそうだが学校の多忙な時間割の中、これだけの作品を創り上げるには相当の手間と労力が必要だ。
さらに、すべての子が「みんなと一緒」に動くはずもない。機械の扱いにしろ、撮影技術にしろ、演技力にしろ、すべてが1からのスタートだ。ひとクラスの子供たちを動かすことでさえも大変なのに、どうしてここまで来ることが出来たのだろう?

「やれるものなら、やってみろ、最初はそこからでしたね。」

元々、漫画家になりたかった。「美術の勉強が出来る国立大学」として選んだのが信大教育学部の美術科……。気が付いたら、「学校の先生」になっていた。

けれど、大学祭で一度映画を作ってから映像への興味は尽きることなく、教員生活のスタートから映像作品を学校の行事に生かすなどして何らかの形で関わってきた。それはやがて「映画」へとつながり、地元松本では「映画の先生」として周知のところとなった。このクラスを5年で担任することになり、一年間の総合学習のテーマを考えたとき、「映画」は子供たちの中から自然と出てきたそうだ。

むろん、映画作りは時間がかかるしやったことのない子供たちには問題山積み。それに、他にも「やりたいこと」はあがっていた。けれど麻和教諭のとまどいを押し切ったのは子供たちだった。

「やれるものなら……」そうして、本格的な「映画作り」に昨年一年かけて取り組んだ。やる上で、先生は子供たちといくつかの約束をした。

「時間は守る。準備、片付けはきちんとする。他のクラスに迷惑はかけない。」そして……「映画を言い訳にしない。」

簡単なようだけれども、これはとても難しいことだ。子供たちはどうしても出来ないこと、忘れてしまうことがある。めんどくさいことからは逃げたい。(これは大人も同じだけど)。「○○があったから遅れました」というのはとてもいい「口実」だけれど、言いはじめたらきりがない。自分たちのことに夢中で、周りが見えなくなることもある。熱中して面白いことは、途中で止めて切り替えるのは難しい。それも、数人ではなくひとクラス。29人の「個性」を率いるのはかなり困難だ。

しかし、この約束の下に映画は完成し、上映会会場の松本市民芸術館の小ホールは2回の上映とも満員の客であふれ、「来年やるとしたら大ホールにしてください。」と会場にいわれるほどだったそうだ。

「ひとつやり遂げる中で、子供たちは『みんなでやる』姿勢が育ってきた。支え合う姿も。それから映画作りの中で『物の見方』も変わってきた。そして、映画を勉強しない理由にはさせないから、ちゃんと勉強もする。」

……これこそ、「総合学習」の狙う「生きる力」。

「総合学習で子供たちにどんな力をつけていくのかは教師自身が考えてアピールしていくべき。」「大きな舞台を用意すると、子供たちはちゃんと動く。ケンカやいじめをしている『ヒマ』なんか無くなります。」
「結局、生きるということやその目的は、真剣に放浪して捜すものだと思います。ゼロから出発して自分たちで………。」

麻和教諭のこの講演を聴きながら、わたしはものすごくこの「生徒たち」に会ってみたくなった。

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他県の学校はまだ当然のように夏休みの期間。けれどなぜか長野県の「休み」は短く、どんな酷暑でもエアコンも扇風機もない学校は窓を全開にしても蒸し暑さにつぶされそうになる。まして「夏休み」から「学校生活」への身体の切り替えがまだ出来ていない2学期のはじめは、生徒も先生も動くのがかなり辛い期間。

打合せ時の麻和教諭からのメールには「低学年では熱中症にやられる子も出ています、暑いのでお気をつけておいでください。」……うわぁ……。

学校に着くとわざわざ玄関まで迎えに出てくださった麻和教諭について教室へ。教室の入り口には去年映画で使ったべっこう飴屋の看板を掲げてあった。

「市民芸術館で『今年は大ホールに』といわれて、その予約の関係で2月には今年映画をやるかどうかをみんなで決めなくちゃならなかったんですが、全員一致で決まりました。」

子供たちの意志はもう一つだった。「もっといい映画を」「無駄な時間を作らないように」「去年失敗したり経験したりしたことを生かして」「大ホールがいっぱいになってそのお客さんが楽しんでくれるものを」「もう一度映画作りの経験をして卒業したい」

昨年度末に映画作りをするかどうかを決めたときの子供たちの決意。紙の上に踊るのはよりよいものをめざすみんなのやる気と、それから「来年度」にかける夢。
一度映画製作をしているので皆「やること」や「流れ」はつかめている。「次に描きたい世界」ももうそれぞれ持っていた。春休みの日記などを使って今年の構想が練られた。スタッフはすでに3月中に決まっていた。

教室の黒板の上には、「学級目標」「学校目標」にはさまれて「映画作りの目標」もかかげてある。映画はこのクラスの柱なのだ。

映画の「制作費」。機材はあるものを使うけれど、いろいろな道具は作らなくてはならない。それを稼ぐのも自分たち。学校のPTAバザーで子供たちは家にある「景品」を持ち寄って射的の店を出し「こんなに稼いでいいのかと思うくらいに」売り上げた。それから昨年の映画。DVDで販売する。その売上げも「次の映画」にむけての資金。ちゃんと昨年の活動が次の年につながっていく。それも大きな力となって。

教室は、普通の6年生の教室。台の上には、はにわなどのフィギュア。「歴史の勉強がありますから」と麻和先生。「映画製作」に関わるのだったらもっと道具でゴチャゴチャしているのだと思っていた。けれど、小さなロッカーにカバンや水着の袋が詰まっている……といった感じの小学生らしい雑然さはあっても「映画作っています」みたいな「特別感」は全くなかった。

しかし、その雰囲気は5時間目の開始と共にがらっと変わった。


今日の撮影シーンの確認。黒板の先生の説明を真剣に聞く。撮影場所でケガや事故がないようにとの注意も、多分聞き漏らした子はいないだろう。

そして「では、はじめよう」の声と共に生徒たちは準備を開始。大勢の子がすぐに教室を出ていったけれど、数人が残ってなにやら製作をはじめた。

生徒たちの打合せ。これも映画のワンシーンのよう。

最初は廊下で撮影。南から夏の日が照りつける。

麻和教諭の額には玉の汗。

それぞれが、それぞれの役に真剣に取り組む。1人1人がこの「映画製作」では主人公だ。今年の主役を務める達家さんの身支度を手伝う衣装の係の天野さんと西山さん。小道具の点検に余念がないのは山崎くん、犬飼くん、中川くん。カチンコを持ち、記録をとるのは昨年の映画でヒロイン美咲役を務めた長瀬さん。それぞれのシーンをチェックしながら、そこで必要なことを細かく記録していく。撮影の最初からとった記録の紙の束はすでにもうかなりの厚さになる。

もう一つのシーンの撮影現場に移動。窓ひとつないオイルタンク室が撮影場所だ。普段は誰も近づくことのないこの部屋も、子供たちの工夫によって不思議な異次元空間に変身する。風がまったく通らないから暑い。けれど誰1人文句をいわず黙々とそれぞれの役割を果たす。重い機材や熱いライトを支え、記録をとり、風を送り……。

何回も撮り直したシーンが「カット」と終わったとき、コスチュームのヘルメットの下から現れたのは津田くんの汗まみれの顔。

授業時間も終わりに近づき、廊下では特別教室から戻ってくるほかのクラスの子供たち。その子達が通るのに邪魔にならないようにさっと交通整理をはじめる生徒はプロデューサーの渋木くん。

「へぇ?こんな部屋、学校にあったんだ。」

別のクラスの生徒がオイルタンク室を見てつぶやいた。学校の廊下の突き当たりにある普段はまったく気にもとめない小部屋。それが、麻和プロダクションの子供たちに見いだされ、演出によってなんだか興味深い雰囲気を醸し出している。はしご階段の上からのぞく2人のヘルメット姿を見ると、なんだか不思議な気分になる。誰がここを「舞台」として見いだしたのだろう。

「撮影終わり、片付けて次の時間だよ。」先生の声に「もうちょっと……」との声を飲み込んで整然と片付けをし、教室に戻る。教室ではまだ別グループが作業中。

彼らが黙々と作っているのは「ネギ」。が、これは映画の小道具ではない。毎年やっている「長野県ふるさとCM大賞」にむけての準備だ。彼らは昨年、松本代表として予選を突破して県民ホールのステージに立った。
「去年は入賞が出来なかったから、今年は賞をとりたい。」

チーフの松本さんはネギ作りの手を休めずにそう語る。映画と平行してそちらの撮影も進んでいる。丁寧に作られたネギが今年のCM大賞での入賞につながるといいね。

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「最初に子供たちを持ったとき、はさみも糊もちゃんと使えなくて驚きました。」

今の子供たちは、自らそうして何かを「生み出す」機会が少ない。小さい頃に泥をこねてどろだんごをつくる。そういう経験さえもないので粘土で団子やひもをこねることも出来ない。ぞうきんも絞れない。マッチで火をつけることはおろか、ガスコンロも今はスイッチひとつだから理科室でマッチを擦ってガスの栓を「開いて」火をつけることも困難だ。

学校で図工や美術の時間が減り、家庭科も減り、理科も実験している時間がなく教科書を読むことで終わることも増えた。机に向かい、本を見る時間がいくら増えてもこれらの「体験」による学びは決して得られない。今の子供たちはそうして「頭で考える」世界にいることが多い。自らの力で生み出し、見いだし、工夫する機会はほとんど無いからそういうことが出来ないのは当然だ。

その子供たちが今、こうしてネギを作り記録をとり、自分たちのイメージで創り上げた「新しい世界」を生み出すために地道な努力を積み重ねている。その膨大な時間の中で自分に出来ることも、出来ないこともあることを感じ、出来ないことは出来るために努力し、一人の力で足りないところはみんなで考え補い合って様々な力をつけ、昨年一年の成果の中でさらに「次のステージ」をめざしている。

「はさみ使えるように」と先生に「宿題」を出されなくても、子供たちは自らのめざすもののために山ほどのネギをきれいに作り上げる力をつけた。その子供たちの姿を見て、親たちも心から活動を支援している。

「学びの姿」……本来のその姿は、ここにあるのではないだろうか。

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「去年やってよかったこと?そうだなぁ……『最後までやり通した』ってことかなぁ。」

昨年の映画で少年探偵DANを演じた清水くんに去年のことを聞いたらこんな返事が返ってきた。

そういえば、映画の中のセリフに『きみになら出来る』という言葉が出てきた。これは、麻和教諭が日頃から口にする言葉だそうだ。はじまれば、終わりがある。どんなに大変なことでも、はじめればきっと終わるときが来る。

その終わりをどんなふうに迎えるのかはそれぞれ違うだろう。けれど『きみになら出来る』という可能性を腹の底に据えた先生とそれを受けとめた生徒たち、そして見守る人々がやり終えた時に生み出したひとつの「成果」。

それは確実に何かを変えていく。新しい何かを生み出していく。
そしてそこに至る力は、「次の未来へ」向かう地盤となってどんどん拡がっていく。

麻和プロダクションpresents「スターダイバー」。
2月27日の上映会むけて、今、撮影は進んでいる。きっと今年度の観客にも彼らの創り上げるものが発する大きなエネルギーが伝わるに違いない。

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写真・文 駒村みどり

(付記)
今年の映画製作の模様は一年間を通してテレビ松本によって何回かにまとめられて放送されるようです。

この映画製作に当たっては、12月1日公開の超大作「SPACEBATTLESHIP ヤマト」の監督で松本市出身の山崎貴監督の応援をいただいています。今、ヤマト製作で大変多忙を極めているにもかかわらず、メールでアドバイスをくださっています。

昨年度の「少年探偵DAN」においては、多くの青春映画の監督をされた河崎義祐監督にもご指導をいただいています。

また、今回の映画の主人公、達家さんは「キンダーフィルムフェスティバル」の審査員としてこの夏、東京で活躍をしてきたそうです。

N-gene掲載当時にいただいたコメントもこちらに転載します。

コメント
ご報告です。
頑張って作ったネギのCMが、長野県知事賞を受賞しました。
みなさまの応援に感謝いたします。
(ほごしゃ①)
投稿者: M・Y | 2010年12月07日 10:22
>M・Yさま
県知事賞、おめでとうございます!
子どもたちはきっと、大喜びだったことでしょうね。
HPでCMを見させていただきましたが、すばらしい出来ですよね。わたしも、自分のHPでもご紹介させていただきました。
→http://komacafe.net/blog/archives/category/3-0/3-3/3-3-1
ほんとうにおめでとうございます。
今ごろは、映画の最後の仕上げで忙しいことでしょうが、2月の上映会を楽しみにしています。
お知らせありがとうございました。
投稿者: 駒村みどり | 2011年01月17日 22:40

生きるための力。生きるための学び。〜さくらびの挑戦<’10年8月掲載記事>

「今日これ使うグループは?」

美術教室の黒板の前で先生が手にしたのはデッキブラシ。受け取った女生徒はそれを嬉しそうに持って席に着く。大掃除の時間ではない、れっきとした美術の授業時間。

さらにビニールシート、梱包の保護材のプチプチ……次々に登場するモノはおよそ美術教室には縁がなさそうな素材ばかり。それらを手にした中学生たちは先生の指示を聞くとぱっとそれぞれの作業場所へと散っていった。

先生の名は、中平千尋。この美術教室で展開されているのは「さくらびアートプロジェクト」。「学校を美術館にしよう」をスローガンにかかげたこのアートプロジェクトの流れは今年で6年目を迎え、いま全国から熱く注目されつつある。

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机の上には、ウエディング情報誌。あこがれのドレスに身を包んで微笑むモデルさん。それを囲んで真剣に討論する女の子二人。写真の甘いムードと、それに向かうその表情の真剣さとは対照的だ。

そうかと思うと、その隣では同じく女の子二人組で趣ある古民家の写真集を拡げている。「教室に古民家の町並みを作りたい」というのがこの二人の想い。

古民家とアニメとのコラボを考える……何とも絶妙な取り合わせ。どんな町並みが出来るのだろう?信州大学の工学部の学生がそのイメージ実現の支援をする。
パソコンを開いて、ノートに書き込んで、実際に作って……各グループは自分たちのイメージを外部から来ている支援者と共にどんどん拡げている。

ベランダでなにやら写真を一生懸命に撮っているチーム。ここも女の子二人組。
「何撮っているの?」と聞くと「空の写真です。」との答え。

二人は海のない長野県に海を作っちゃおう、というグループ。小さいときに家の人と行った海。いいなぁ、あれ、教室に作れないかなぁ……そう思った二人が教室に海を再現するのにチャレンジ。空の写真は、その海の背景に使うのでとにかく青い空をいっぱいいいとこ撮りするのだそうだ。

「どんな海が出来るのかなぁ、楽しみだね。」と声をかけると恥ずかしそうに「はい!」と笑顔で答えてくれた。………良い表情だなぁ。

別教室では電動ドライバーの音。やや危なっかしい手つきだけど真剣に木の枠組みを作っている。長いねじなのでまっすぐに入っていかない。やり直し。今度はまっすぐしっかりとねじが食い込んでいく。

「教室の真ん中に、クジラのしっぽがどーんとあったらいいなと思って。」と水口くん。図書館で見たクジラ。これを作りたい。教室を深~い海の底にして………。その想いに共感した清野くんと組んだ男子二人組を応援するのは昨年に引き続き今年も支援者として参加の彫刻家の神林学氏。(神林学氏の作品は、ワイヤーワークなどで躍動感と生命力があると定評がある。小布施境内アートにも参加。 )

二人のイメージをもとになんと3メートルもあるクジラの実物大のしっぽが教室に登場するらしい。ダイナミックだ。聞いただけでワクワクする。

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「絵を描くなんてかったるい」「なんか創るのめんどくさい。」

学校の美術の授業でよく聞かれる生徒の声だ。何かを作ること、何かを表現すること、それはとにかく時間がかかる。自分の想いを表現するのには必死で考え、工夫することも必要だ。なんでもあって便利な世の中になって「考える」「工夫する」「自分で作り出す」必要もなくなってきた今、そういう機会は生活の場からは激減している。

子供のころから外で泥だらけになって遊ぶことやそういう場所も減り、汚いからと泥から遠ざけられ、土をこねる機会もない。泥遊びできる水たまりさえ排水溝の整備などで見あたらなくなった。

いい高校へ、いい大学へ。そのためにはいい成績を……。そういう「テストの点重視」の社会の流れの中、学校での限られた授業時間も次第に「受験教科」にかたむけられるようになってきて、結果、受験に関係ない美術、音楽、家庭科などはもう20年くらいも前から次第に削減される傾向にあった。

それは「ゆとり教育」がきちんと浸透しない中途半端な形で「失敗」と言われてからなおのこと加速化した。そして……もしかしたら数年後には「美術の時間」は学校から消えるかもしれない、という危機的な状態にある今。

「このままでいいのだろうか?これではまずい。」

その危機感をそのままにしておけずに自ら「危険」の鐘を鳴らし始めたのがこの授業を組んでいる中平千尋教諭だ。

彼は、長野県に美術教育を育て、確立させようと孤軍奮闘をはじめる。その試みのひとつが「Nアートプロジェクト」。“学校を美術館にしてしまおう”という大胆なスローガンをかかげ、独自の美術教育を展開し、さらに外部に向かって次々と発信をし続けているのだ。

中平千尋教諭履歴(NアートプロジェクトHPより抜粋)

 

武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、東京都内のデザイン会社勤務を経て、長野県内の養護学校や中学校を歴任。
2001年から千曲市立戸倉上山田中学校に勤務。2003年より学校を美術館に変身させる「戸倉上山田びじゅつ中学校(略称:とがびアートプロジェクト)」を始める。その後、2007年長野市立櫻ヶ岡中学校に転勤、2007年からは「ながのアートプロジェクト」を立ち上げ、長野県内の美術教育だけではなく、全国の美術教育を盛り上げるため活動中。

芸術には情熱が必要だ。表現し、伝える、そのためにはかなりのパワーと熱量がないとやって行かれない。ある意味それは「先生」という職業にも通じる部分がある。生徒という人間に学びの場で対し、「育てる」点で情熱が必要だ。芸術への想いと生徒への想い。その二つが重なり合い強い想いを持って教壇に立つ。

……中平教諭はそんな「熱い」芸術教師だ。

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「今の世の中、なんでもすぐに“答え”を求める。“答え”に結びつけたがる。だけれど、答えはすぐには見つかるものじゃないし、ひとつじゃない。それぞれの答えはそれぞれ自分で見つけるものですよね。」「美術では答えはひとつじゃない。自分の答えを自分で見つける。だから今、美術教育が必要なんです。」

今の世の中、今の子供たち。その現実を見つめたときに「美術教育の育むもの」の必要性を感じた中平教諭は、千曲市の戸倉上山田中学校在職中に「学校を美術館にしよう」というアートプロジェクト、“とがぴアートプロジェクト”を立ち上げ、展開をはじめる。(詳細はこちらから。「とがびプロジェクトの意義と展開」ほか)

しかし、そんな中平教諭の発信はなかなか受けとめられない。まずは学校。「外に向かう」事に対してものすごい抵抗がある。それから周りの教諭たち。毎日の細かい仕事に追われる中「余計な手間」に関わってはいられない。地域の文化施設。美術館からの発信もなかなかない。

美術に関わるべきものが、発信していない。必要な場所に必要なものが届かない。そういう矛盾の中、中平教諭は警鐘を鳴らすことと発信とをやめなかった。
選挙前の各政党に、美術教育や文化に対する質問状を送った。(2党は返答が帰ってこなかったが)それを校内に掲示して自らも候補者としての主張をかかげて校内で「選挙」を行った。生徒たちからは圧倒的な支持を得た。

当時の千曲市の教育長もとがびのプロジェクトに理解を示してくれた。しかしその発信を受けとめはじめたのは、残念ながら県内からではなかった。県外の学校からの視察が来る。文科省からも視察が来た。講演の依頼もある。
そして何よりも、生徒たちの姿が物語る。

「相談室登校の生徒がいるんですが、この時間だけは教室に来るんですよ。」

さくらびのプロジェクトでの1人の生徒の姿。あるグループに入って毎時間一生懸命取り組んでいる。他の時間には教室に顔を出せないのに、その時間はグループの中心になって活動する。周りの生徒もその思いをちゃんと受けとめる。

「今、学校の先生や親たち(社会)が、車の運転にたとえるとハンドルを握るところからブレーキもアクセルもすべてやってしまう状態。生徒は手が出せない。“いい子”はそれであきらめてしまう。」「だけど、美術は自分の想いの中で“徹底的にやる”事が出来る。やりたいことを徹底的にやる、ということが学校教育の中で出来るのが、美術の時間だと思うのです。」

子供たちはもともと無鉄砲だ。小さい頃は遊びの中で、大きくなったらこういう表現活動を通して「無茶」や「めちゃくちゃ」をやる。その中で「自分はここまでできる」「これだったら大丈夫」という「基準」を見つけ出す。そうして自分探しをしながら大人になっていく。

「それが“自立”だと思うんですよね。徹底的にやることで自分勝手なところから自分を知って周りの中でともに生きる術を身につける。それをぼくは“卒業”って表現しているんです。」

今までのアートプロジェクトの中でいくつもあった「卒業」の場面。そういう場面を通して生徒たちは本当の意味で生きる力をつけていく。そして、それが本来の学校教育の中でつけるべき力。本来の学校教育がめざすべきものであるはずだ………。

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「え~、せんせい音楽の先生なのに、さんすう出来るんだ!」

中平教諭と話しながら、かつて私自身が小学校の音楽教諭をしていた頃、低学年の子供にそう言われて愕然としたことを想い出した。もう15年も前のことだ。「おんがく」や「ずこう」は「勉強」ではない、そういう意識がこんなに小さい子供の中にもあることがショックだった。

自分自身、音楽や美術で育てられた感覚が「教科学習」に役立ったことは数知れない。

現在は中学生の家庭教師をしているが5教科の指導で子供たちを見ていると、数学や理科の文章題が解けない子は文章が読めない、わからない。読解力の不足と共に、問題を読んで頭の中にイメージがわかないから図や表でその現象を表現できない。表現力の欠如が原因だ。細かいところに注意する「観察力」も影響する。

読解力を助けるイメージ力や表現力などは音楽や美術で育つ力だ。また、表現の対象をじっと見て分析することで育つ観察力も、あきらめないで問題にじっくり取り組む集中力も、音楽や美術の表現を完成させようとする中で得られる力だ。

合唱や合奏で音を合わせて曲を練り上げる。共同製作で大きな作品を創り上げる。人と「力を合わせる」事の心地よさを感じ、自分1人では出来ないことも出来る可能性を感じる。そこで育つのは社会で生きていくために大切な「コミュニケーション力」。「創作」の課程や「表現の工夫」のなかで、人と関わり、自分にない価値観とぶつかり、それを取り込んだり折り合ったりしながら生まれてくる力だ。ひとり机に向かって黙々とやる「勉強」の中からは決して育たない。

逆に、音楽や美術をやっていく上で、国語や社会・英語、時に理科や数学の力が必要になることもある。教科を越えて「知識」というものは絡んでくる。このすべてをバランス良く獲得しようというのが「ゆとり教育」で詠われた「総合学習」の狙いだ。

けれど、点数ではかる「学力」重視の傾向がこの狙いを妨げた。いろいろな力は長い期間をかけて積み上げる中でつく力であり、最終的にはそれが学力に限らず「生きるために考える力」に結びついていく。けれど結果がすぐには出ないため、結果を急ぐ点数重視の社会は「ゆとりはダメだ」という世論を早くから展開し、それが総合学習の本来あるべき姿をどんどんゆがめていってしまった。

それでは、テストの点を重視したら学力はつくのか。

教えている中学生たちは一様に答案の点数の部分を折り返して隠す。点数を隠しても×のある答案は丸見えなのに。生徒には「点数」しか見えていない。50点なら50点。自分の力は「50点」。

まったくわからなくて出来ない問題が50点分の×なのか、それとも勘違いやちょっとしたミスでの×なのか。それを見ようともしない。そこで「どうして自分が50点?」と「考える」こともない。「悔しい」という気持ちさえもわいてこない。「なぜ、どうしてこの答えがこうなるのか」それを理解しただけで、子供たちはものすごく嬉しそうに微笑むのに。

音楽や美術で「出来る」「自分で満足する」までくり返し練習し、訓練し、その中で感じる出来ないときの悔しさや出来たときの感動も、「テスト」では関係ない。そうして子供たちは「点数基準」の判定になれ、自分の中に自分で基準を持てず、目標も持てず、◯か×かの2者択一の判断基準の中で良いか悪いかで生きていくしかない。

テストが出来る子は、頭がいい子。点が取れなかったらダメな子。

だけど、この先生きていくときに、◯か×かだけじゃない選択肢は山ほどある。50点の子が50点の生き方しかできないわけじゃない。100点の子よりも輝いて生きている人はいっぱいいる。

「生きる力」の評価基準は「子供たちの姿」だ。わかったときの笑顔、成し遂げたときの輝いた顔、その表情。生きるために本当に必要な力は「テストの点」では決してはかれない。

中平教諭の鳴らす警鐘は、これを如実に伝えている。子供たちの表情を見取って評価しながら、社会の一員として、この世に生きる者として、立って歩いていくために必要なものをちゃんと見きわめて与えていかなければ………と。

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「あのですね、今の世の中ちょっとリッチな気分になりたいですよね。だから、教室中をお金でいっぱいにするんですよ。」自らのデザインしたお金を誇らしげにかかげる大日向リーダー。男の子の5人組のチームは、机に向かってひたすらにお札のデザインをしていた。

壁一面・バスタブいっぱいのお札を作って、来た人に「リッチな気持ち」になってもらいたい。自分たちの夢のほかに「来てもらうお客さん」への想いが重なっている。教室いっぱいのお札を作るには、一体何枚製作するのだろう。ちょっと考えると途方もない。けれど生徒たちには迷いがない。真剣なその姿は、声をかけるのさえもとまどうほどだ。

不思議な世界を作りだそう……という目的の隣の男子4人チームは教室中にトンネルを造ろうと話し合う。話し合いの声に耳をかたむけてみる。

「不思議とかえ~っとかいう感じを出すには、ただトンネルあるだけじゃなくて“中をのぞく”事が出来たらいいね。」「そう、好奇心。何かあるんじゃないかなって感じ。」「どうせだったら理科室ぜ~んぶおおっちゃおうか。」「それは時間かかるねぇ、前日の準備大変だから、前日お泊まり会やるかぁ。」「合宿、合宿!」

話が弾む4人の男子と支援する信大教育学部美術科の二人の学生。学祭のノリだ。

さらに話は続く。「じゃぁ、トンネルの高さはどうしよう?」「そうだなぁ、しゃがむと腰が痛くなる人もいるから2メートル?」「いやぁ、教室だと192センチが限界だよなぁ。」

ああ、ここでも。自分たちの製作をお祭りのノリで楽しみながら、見てくれる人に思いやりを持ってトンネルの高さを考える心が育っている。自分たちだけが楽しめばいいのではない、だけど自分たちもちゃんと楽しんでいる。

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「美術の時間って、自分のやりたいことが出来る時間だから好きだった。」「作ることって楽しいし、考えることがいっぱいある。その中で人とのコミュニケーション力も育ってくる。」

この日の授業終了後、トンネルチームを支援している二人に話を聞いていたら、別のチームを支援している3人がそこに加わってきた。この5人は、信州大学教育学部の美術科の学生。善光寺門前の古い蔵を利用してギャラリーやワークショップを自主的に主催しているMINIKURAERT(ミニクラート) のメンバーだ。

「教育実習で中学生が、美術の時間をすごく嫌がる姿がショックだった。」「きっと、誉められたことないんだろうね。上手い下手、とか点数で評価されるのに慣れちゃってほんとの楽しさ感じる機会がなかったんだろうなぁ。」

自分たちは図工や美術の楽しさを知って、美術教師の資格をとる課程にいる。自分たちの生きる軸だった美術が学校の教育から消えてしまったら悲しいという。

彼らは中平教諭の持っている危機感に呼応するように今回協力者としてここに参加している。こういう世代が後に続き、次に繋ぐ活動をしている。こんな風にたくさんの協力者と、今年もさくらびアートプロジェクトは進行していく。

10月に向かって各自の夢が進行していくその中で、中平教諭の想いや生徒たちがどうなっていくのか、それはまだわからない。10月の発表を迎えたあとで、みんなの中にどんな想いが育ち、なにが生まれるのか。その表情や成果の中に中平教諭の美術指導の成果と真価が見えてくるはずだ。

今年、その10月までもうちょっとこのプロジェクトを追いかけてみようと思う。

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ながのアートプロジェクトHP

(写真・文: 駒村みどり)

今 祈り、今 叫び、今 生きる。〜傘に、ラ。(その4)<’10年7月掲載>

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」
(なかがわよしの 書き下ろし掌編小説より抜粋)

7月3日 19時開演  「傘に、ラ。」Vol.17   今に生まれて今に死ぬ
出演:outside yoshino/タテタカコ   共演:なかがわよしの

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「なぜ、この二人かって?
だって、この二人って『今を燃焼』しているじゃないですか。」

ステージをじっと見つめて音に合わせて身体が揺れるなかがわ氏。
その表情は目の前のステージからダイレクトにガンガン飛んでくる音の固まりを受けとめて、生き生きと輝いていた。

なかがわよしの氏が『今』をテーマに企画・開催して17回目を数える『傘に、ラ。』追いかけて4回目の今回の取材はネオンホールで二人のゲストを迎えてのライブ。

「今に生まれて今に死ぬ」というタイトルを冠し、outside yohinoとタテタカコを迎えた「傘に、ラ。」としては珍しい有料イベント。

そこでなかがわ氏は表には一切登場しなかった。

「なかがわさんはステージ出ないんですか?」「いや、そんなおそれおおいじゃないですか。でも、自分はちゃんと小説を配って、それから気持ちの上では共演していますよ、ちゃんと。」

最初は、その意味がわからなかった。
けれども、ライブのステージが進むにつれて、わたしはなかがわ氏のその想いがわかってきたような気持ちになった。
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最初のMCが、ギターの強烈な和音にかき消される。
outside yoshinoのステージのオープニングはなんともつかみきれない語りから突然たたきつけられたようにはじまった。

outside yoshino
メンバー:俺   影響を受けた音楽:今まで聴いて来た全ての音楽と雑踏の騒音
音楽スタイル:エレキギターと声   レーベル:吉野製作所
レーベル種別:アマチュア 

myspace.com/bedsideyoshinoより)

outside yoshinoのプロフィールを捜してみても、ようやくこれを見つけることが出来ただけ。「そんなことは、どうでもいい」という声がきこえてきそうだ。

たたきつけるようなギターの音と、outside yoshinoの叫びに似た歌声が客席に降り注ぐ。まるで機関銃の一斉射撃を受けるような衝撃。最初はただ「かっこいい」と思った。だけど、聞いているうちに、「かっこいい」から次第に離れていく不思議な感覚に陥っていった。

はじめてギターを手にした15才の不安定な少年時代。隣の家の犬をライバル(?)にしてひたすらギターを弾き続けた時の歌。聞いているうちにyoshinoのギターに反応して必死でほえる犬がそこに見えたような気になった。自分に挑んでくる得体の知れないものに対してただひたすらにほえ返す犬の姿は、何かをつかもうと必死になって、自分の中にあるぐしゃぐしゃなものと闘う15才のyoshinoの姿にも重なってくる。

次々に流れる言葉たちの中で、わたしの心に突き刺さった歌詞。

「弱いものから順に死んでいくのが当然なんだってよ………
冗談じゃねぇぞバカ野郎 殺されてたまるか。
言いなりになって捨てられるために生きてきたんじゃないはずさ……」

(「ファイトバック現代」より)

家に戻って、ライブの写真をPCに取り込んで見た。写真は「時」の中に流れていくoutside yoshinoのその瞬間……「今」を切りだしていた。

その表情は、突き放したような鋭さを持つ歌詞から感じる強さではなく、時には泣き出しそうな、時には祈るような……そんな種類のものだった。

「『傘に、ラ。』のテーマである『今』って、吉野さんにとって何ですか?」

ライブのあとで、“吉野氏”に戻ったときに聞いたこの問いに、返ってきた答え。

「え?『今』以外にいったい何があるの?」

その答えはあまりに強烈な直球だったので、わたしは受けとめた瞬間しびれて次の言葉が継げなかった。こんなに潔い「今」の表現って初めてだ。

「僕の音楽はね、ブルースなんだよ。」

この一言を聞いたときに、outside yoshinoの音楽を聴いているうちに単なる「かっこいい」から離れていった自分の中の不可解な感覚が見えた気がした。

あったかいのだ。彼のギターの音は。限りなく優しく、その鋭い歌詞を包み込んでいたのだ。激しくギターをかき鳴らすoutside yoshinoとギターは一体になって、祈りや叫びにも似た歌声を包み込み、それが受けとめるこちら側に「届けられる」感じ。

それは、「すごいアーティスト」が発する音楽を受けとめる、という感じではなくて一人の人間が「今」を必死で「生きている」その感覚の中に一緒に浸かっている感じ。

必死で何かに向かってあがいて、その中で泣きたくなったり、叫びたくなったり、そんな風に人間が生きている。ステージのoutside yoshinoも、受けとめるわたしも。

その言葉に出来ないものが、outside yoshinoの音を通して自分の中にある感覚を呼び起こしたのだろう……。聴きながら、やっぱり、今、必死で生きている自分もまた切なくて泣きたくなるような、そんな感じで胸がぎゅーっとなっていった。

最初、「かっこいい~」と思ってただその音の力に圧倒されていたわたしが感じた不可解な感覚は、これだったんだ。

そして、これが……outside yoshinoの「今」の形。

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「こんばんは、タテタカコです。」

いつもタテタカコのMCはピアノの前に座ってこんな風に礼儀正しい挨拶からはじまる。縁あって、タテタカコのライブは何回か聞いてきていたので、そんな「いつも通り」のオープニングをごく自然に受けとめて、いつものように流れるピアノの音に耳をかたむけた。

だけど、そこに続く時間は、いつの間にか「いつものように」ではなくなっていた。

タテタカコ
ハードコア・パンクからアヴァンポップまで、あらゆる表現分野を内包し得る新種(あるいは、珍種)のシンガー&ソングライター。
ピアノと歌だけを携えて、剥き出しの表現者魂に導かれるまま独立独歩で歌って歩く。

タテタカコHP—プロフィールより抜粋)

「いつものよう」ではないこの感覚は、じわじわとゆっくりやってきた。
何回も聞いた歌、馴染みの旋律。なのに、なんだかちょっと違う。

さっきのoutside yoshinoのステージで感じたのとはまた違う「不思議な」感覚。
またしても聴きながら不可解な状態に陥ってしまった。

「タテさんにとって『今』って何ですか?なかがわさんから、このテーマでの話を受けて、どんな感じがありましたか?」と問うと、タテさんはこう答えた。

「そうですね……なかがわさんからこのお話をいただいたときに、吉野さんとできるって思って、今日までこの時に向かってず~っと来た、ってそんな感じです。」

そういえば。ライブの途中のMCで、タテタカコはこう言っていた。
「新しいアルバムを出したんですが、今回はいろんな人とやりました。なんだかものすごく、そうしたいって感じたので。」

今まで、自らのピアノと歌だけで構成してきたステージやCDだけど、今回は違った。「人とやりたい」という想いがぐっと生まれてきた。この「傘に、ラ。」でもoutside yoshinoとやるんだ、まずその想いがタテタカコをこの「今」に導いてきたようだ。

「今は、こういうことがだんだん楽しくなってきているんです。」

昨年、タテタカコは友人の石橋英子と曲作りをし、ステージを共に構成した。それから「音楽を知らない」カンボジアのたくさんの子供たちに「音」を届けに行き、たくさんの子供たちと出会ってきた。

「それは、とても大きな影響があったと思います。それまでわたしは人と話すことがとても怖かったんだけれど、人と一緒にって事が怖くなくなってきた。そうしたら、だんだんライブとか話をすることとか、楽しいな、って思うようになってきたんです。」

わたしは自分の中に生まれた「いつもと違う」タテタカコへの感覚がどこから来たのかがわかった気がした。

「楽しくなってきた」……これだ。

今までわたしは、タテタカコのステージはいつもある「緊張感」を持って聞いていた。天から降り注ぐものをタテタカコが受けとめ、それを伝えるのを神妙に聞く……そんな感じ。

だけど、この日のステージではそうではなかったのだ。

たとえば、植物は「光合成」と「呼吸」をして生きている。
呼吸で排出したものを再び光合成のために身体に取り入れ、そこで作り出した物をエネルギーに生きて成長し、排出したものをまた呼吸で身体に取り入れる。そのくり返しで植物は自然の光や水を材料に自給自足で生きている。

この日のタテタカコはまるで植物のようにその音を生み出し、吐きだし、また取り込み……を、自然の流れのままでやっている感じ。outside yoshinoの音は、光や水といった光合成や呼吸のための材料やエネルギー。そして生まれたタテタカコの音は、受けとめた観客の感覚と混じって再びタテタカコの中に取り込まれ、ひとつになってまた音として吐き出されていく。

それは「今」この時、この場だからこそ生まれてくる音。タテタカコの中にある「楽しくなってきた」という感覚がそれをさらに膨らまして、拡げていく。会場も、共演者も、一緒になって呼吸し光合成をして、ステージが進んでいく。

それは、タテタカコが「祈りの肖像」という曲を歌ったときにぶわっと伝わってきた。

花よ誇れ その身を燃やせ 人よ歌え その声届くまで
雨よ踊れ 乾き満たし 流れ続け 続け 続け
人よ歌え 生まれ変わる歌を 歌を
       (「祈りの肖像」より)

以前のように「天から降り注ぐ」感じではない。大地に根をはったタテタカコが大地から吸い上げたものや、生きるための自然な営みから生まれたものを広い空間にぱぁっと放ち、聞いている自分もそれを自然に身体に取り込む感じ。


今までライブで感じたような「緊張感」はまったく必要なくなっていた。

「今日のステージ、なんだかすごく拡がった感じがしたんです。」 そうステージ後のタテさんに語りかけると、「そうですか、もしそうだとしたら、それはきっと一緒にやってくださったyoshinoさんと、今日来てくれたお客さんからもらったもののせいだと想います。」いつものはにかんだような笑顔と共に、そんな答えが返ってきた。

「今」を生き、「今」を楽しむタテタカコが中心になって「今」が渦と拡がりまわりを包み込む。

……これが、タテタカコの「今」のあり方。

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「傘に、ラ。」の企画者でもあり、ずっと「今」をテーマにこのイベントを持ってきたなかがわ氏が、なぜ今回このステージには立たなかったか。

この日、この二人を招いたステージを作りあげたこと、これ自体がすでになかがわよしのの「今」の表現の形だったんだ。

つまり「なかがわよしの」は自らステージに立たなくてもこの二人とちゃんと「共演」していたわけで、その想いを受けてここに来た二人の音楽から「今」がものすごく濃い密度で発信されていたということなんだ。

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」

最初に引用したこの一文は、なかがわ氏がこの日、配った小説の一節。
二人の「音楽」から生まれる力と、なかがわよしのの「小説」から伝わる想い。

「今に生まれて今に死ぬ」……今、この時を生きている。私たちは生きている。
過去も未来もどうでもいい。今、ちゃんと生きているんだから。こうして何かを感じて熱くなってここに共にいるんだから。

なかがわよしの、outside yoshino、タテタカコ。と、この日ネオンホールの空間を共にした人たちが生み出した「今」はこうして思い切り燃え上がり、その幕を閉じた。

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今後の「傘に、ラ。」 (注:記事掲載当時’10.7月の情報です。)

10年7月25日(日)
「傘に、ラ。vol.19 ~カラーコーディネイト講習会やります。~」
@ナノグラフィカ 時間;13~15時 講師;一色はな

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.20 ~果樹園で朗読会。~」
@丸長果樹園 出演;植草四郎、井原羽八夏、なかがわよしの
詳細後日発表

10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」
@ネオンホール 詳細後日発表
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写真・文 駒村みどり

伝える者と受け継ぐ者と~中沢小の炭焼き行事【’11年5月掲載記事】

「別に楽しみじゃないよ。大変だし。だけど嫌いじゃないし、無くなるときっと寂しいと思う。」
そう答えてくれたのは、6年生の男の子。
「う~ん、そう、大変。楽しいってわけじゃない。」
列の先頭で下級生の班長として並んでいた女の子もこう答える。

ここは、駒ヶ根市立中沢小学校。5月16日、朝から全校が校庭の隅に作られた立派な炭焼き窯のまわりに集まって、年間の恒例行事となっている「炭焼き」に取り組んでいた。作業中結構楽しそうに見えたので、「炭焼きの行事、楽しみだった?」と発したその問いに対しての子ども達の答えは「楽しみじゃない」だった。普通「楽しい!」という答えを期待する。だけど、どの子も取材むけに理想の答えをしてくれない。何でだろう?

その答えは、取材を進めていくうちに見つかってきた……。

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「いやぁ、来たかね。来るかどうか心配してたんだよ。」

そう言って、子ども達の炭焼きの指示を出しながらこちらに笑顔を向けてくれたのは、4月に「平成の花咲おじいさん」の記事に登場した宮下秀春さん。そこでも紹介した宮下さんの多彩な顔の一つに「炭焼き指導員」があります。朝から全校の炭焼きの指導にあたっているのです。

駒ヶ根市中沢地区は、かつてはナラの木に覆われた山あいの村でした。この中沢地区を支えていたのが養蚕と林業。その地区にある130年の歴史を持つ中沢小学校の校歌(大正5年制定)にも「かまどのけぶり豊かにて」と歌われているように特に林業で古くから炭焼きの技術が発達し、かつて炭が熱源として大いに活用されていた時代に良質の炭を産出し、地元を潤していました。

「車も炭で走っていたんだよ。木炭自動車って言ってね、炭を細かくしたものを使ったんだ。」
「だけど炭が使われなくなって、炭焼きのものがどんどんいなくなって。炭の材料になるナラの木も植林でどんどん杉の林に取って代わって、今では手に入りにくくなったよ。」

そう言いながら宮下さんが見回すまわりの山々一帯は「常緑樹」を植林され黒に近い緑色をしていました。けれど分杭峠に続く奥の方を見ると遠くの山肌には新緑のみずみずしい若葉色が……。「私にはよくわからないんですが、たぶん向こうのいろいろな緑のある方が元々のこの地区の森の様子だったんでしょうね。」と、橋枝教頭先生が教えてくださいました。

「特色ある学校を作りたいのだけれど、炭焼きを子ども達に教えてくれませんか。」
平成3年3月、炭焼きの煙や炭焼き窯が地域から次第に姿を消す中、炭焼きを続けていた宮下さんのもとに当時の中沢小学校のPTA会長さんがやって来たそうです。その声をきっかけにして平成4年に体育館の裏手に炭焼き窯を作り、毎年子ども達が炭焼きに取り組むようになりました。

平成17年には宮下さんの指導とPTAの皆さんの作業によって新たに「これはあと、30年は使えるよ」と宮下さんの保証付きの大きく立派な炭焼き窯が誕生。そうして積み重ねてきた中沢小学校の炭焼きの歴史は、今年でなんと19年になるのです。

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「はい、重たいからね!気をつけて持ってね!」

炭焼きはまず、炭になる材料のナラの薪を窯にまんべんなく詰め込むところから始まります。
見るからにずっしりとした大きな薪。それを縦割りのグループで運びます。

中沢小学校に通うのは1年から6年までの約120名(各学年20名前後の単級)と、伊那養護学校の分教室のおともだち。その子ども達がみんな混ざった縦割り班で行動します。ですから薪運びも小さな薪は1人ずつ、大きな薪は大きな子と小さな子が組になり、お互いの力加減を工夫しながら協力しての作業。みんなが一緒になって窯に隙間なく薪を詰めていきます。

やがて、全校の協力で薪がすべて詰め込まれると、今度は入り口にみんなでレンガを運んで積み上げ、さらに土を詰め順番に木で押さえて厳重に密閉して準備が完了。今度は「火付け係」の6年生が2人、竈の方から火をつけます。火が勢いよく燃えはじめると全校からわぁっと歓声が上がり、思わず拍手をする子どももいます。

勢いよくもうもうと黒い煙が立ちこめあたりは煙で霞む中、この日の全校の生徒の仕事はここまでで、みんなは宮下さんにお礼をいって教室に戻っていきました。

けれど、宮下さんと学校の職員はまだその場に残って「ここから」の打合せ。いい炭に焼き上げるためにはここからの温度管理や観察が大切。宮下さんの指示と説明を先生方が真剣な表情で受けとめていたのが印象的でした。

「炭が焼き上がるのはいつですか?」そう宮下さんにお聞きすると、「いやぁ、いつとは言えないよ」との答え。

ここからの気温、天気、火の燃え方。そういういろいろな状態をずっと観察し続けて、最後は「今だ」という状態を見極めるのは長年の経験と感覚なのだそうです。およそこのくらい、とは予想はしても予想通りに行くとは限らない。だから、この先一週間ほどは毎日何回もここにやってきて様子を見て、「窯と相談しながら」焼き上がりを決めるとのこと。窯の入口は厳重に密閉されて中は見えません。見えない中の様子を様々な状況から予測して判断するしかないのです。

「煙が出なくなったら炭化終了だけどね、火を止めるタイミングが難しいんだよ。ここで焦ってのぞいちゃったりしてちょっかい出すといい炭ができないんだ。」

宮下さんが眼を細めながら話すその言葉を聞いて、炭焼きと人を育てることとはなんだかちょっと似ているかもしれないなぁ……と感じました。

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生徒たちの作業の合間に、長嶋校長先生が「炭の展示コーナー」を案内して下さいました。

このコーナーは児童玄関を入った正面の壁の真ん中にあります。学校に来てまず最初に目に入るところにきれいに展示された炭焼きの活動の様子と、できた炭で作られた製品。いかにこの学校で「炭焼き活動」が大切にされ、学校の中に位置付いているかが感じられます。

中沢小学校では、一年生から六年生までが全校で取り組む活動の他に、この「炭焼き」を柱に据えた学年ごとの活動もしています。出来上がった炭を使ってバーベキューをしたり、炭を販売して収益で本を購入したり。窯を使う炭焼きの他に、ドラム缶やオイル缶を使った炭焼きもします。

炭に使うナラの木は、ここ数年はここから分杭峠につながる道の途中にある「大曽倉の市有林」から切りだしたナラの木を使っています。切り出しでは毎年6年生も作業の手伝いをします。「倒れるぞ!」という呼びかけと共に大きな木がどさっと切り倒される様を、6年生は皆で見るのです。その切り倒された木が薪になって炭になる。こうして炭ができるその行程のすべてと、その炭の活用まで含めて6年生までのうちに子ども達は皆経験するのです。

「子ども達は、毎年やっているので中には煙の匂いとか加減で火の様子などを感じとる子ども達も出てきているんですよ。」

作業中の何人かの先生方の言葉にもあるように、子ども達はただ炭を柱にした活動をこなすだけではなく、宮下さんの炭焼き職人としての熟練した感覚までも受け継いできているのかもしれません。それはとても貴重なもの。マニュアルに書けるものではなく、マニュアルを読んでわかるものでもありません。長い年月経験を積まなければ生まれない貴重な技なのです。

「……ですけれど……。」

来年、20年目の節目をきっかけに、宮下さんは炭焼き指導から引退することになっているそうです。中沢の里で唯一炭焼きの技術を今につないでいる宮下さんの引退は中沢小学校にとって大きな転換でしょう。後継者のいない炭焼き窯の火をどう受け継いでいくのか……。

実は、今回の炭焼きに宮下さんの横でずっと一緒に作業をしていた方がいます。中沢地区で喫茶店を経営している岡庭さんです。宮下さんの後継者としてこの炭焼きの指導に当たることになっているとのこと。岡庭さんご自身は炭焼きの経験は無いけれど子供のころにおじいさんが炭焼きをしているのを見て育っていて、宮下さんから話があったときに「炭焼きの活動を絶やしたくない」とあとを引き受ける決意をされたそうです。

どうやら中沢の炭焼きの煙は、「30年は大丈夫」な炭焼き窯と共にまだまだ受け継がれていくことになるようです。

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「面白くはないけど、でもつまらなくはないよ。」

「別に楽しみじゃない」と答えたあとで、ふみきくんはこう言葉を続けました。彼は窯に火を入れた「火つけ係」2人のうちの1人です。
「火をつけるのは怖くない?マッチするのも大丈夫?」ときくと「1年の頃から炭でバーベキューやってたりしたから別に大丈夫。」と答えてくれました。

今は、ボタン一つ押せばすぐに火がつく時代。学校の理科や家庭科の時間、またキャンプの飯盒炊さんの時などにマッチをすれない子ども達が当たり前になってきています。けれど中沢小の子ども達は一年生から炭焼きとそれを柱にした活動をしてくる中で、ちゃんと火のつけ方も扱い方も身につけているのです。

この記事の冒頭に書いたように、「楽しみじゃない」「面白くない」という言葉を最初は意外に思った私でしたが、しかしそれはどうやら「炭焼きの否定」の意味ではなかったのです。

この学校の子ども達にとっては、炭焼きは「行事」じゃない、「日常生活」なんだ、ということ。炭と、炭焼きを柱にして人がちゃんとそこに生活を成り立たせているのです。日常と切り離された遠足や運動会のように、年に一度のお楽しみとして指折り数える行事ではなく、自分たちの生活を成り立たせる一場面。だから面白くはないけどつまらなくもなく、楽しみではないけどなくなると寂しい………。

竈から上がる煙と燃えさかる火を見守る人たちの想いや、木を切り倒す音、薪の匂い、炭の感触などとともに、それは子ども達の生活の場面として染みこんでいるのだろうとおもいました。

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「炭をもっと見直して山も元気にしなくてはね。」

一旦家に戻ってまた来るから、と別れを告げる宮下さんがつぶやいた言葉です。

長野県はかつて豊かな山と共にあり、山の幸を得て人びとは生活していました。林業で山を整え、炭を焼き、エネルギー資源として大きな需要を持っていた炭で潤っていた時代。しかし石油に頼るようになって炭は廃れ、山は荒れ、手を入れる者が減り、ナラの木の森は植林によって次第に針葉樹林に変化していきました。今は炭の材料になるナラの木を手に入れるのもなかなか思うにまかせません。

一度使わなくなった炭焼き窯は、復活させるのにはものすごく大変なのだそうです。それは炭焼きの技術も同じ。木も、山も。そして人も……みんな同じ事が言えるのではないでしょうか。

炭焼きの技術とそれを伝える者があり、それを受け継ごうとする者がいて。そこにある人の想いを感じとって受け止める子ども達がいて。そうしてこの中沢小学校の炭焼き窯はこれからも毎年こうしてもくもくと元気な煙を吐いて炭を焼き上げ続ける。

沢山の人たちに見守られながら行われる炭焼きは、同時にこの中沢地区に学ぶ子ども達の心もまた豊かに育んでいるのだ……ということを強く感じた一日でした。

駒ヶ根市立中沢小学校
〒399-4231 長野県駒ヶ根市中沢4036

「日本で最も美しい村」が直面する現実〜大鹿村の今とこれから【’11年6月掲載記事】

細い山道のかたわらに、おい菜のおかみさんから聞いた「クリンソウ」の看板。わずかな空き地に車を停めて、坂道を下っていくと……そこはまるでおとぎの国の世界だった。

木立に囲まれたその向こうには大池の静かな水面。そして、手前にはピンクのじゅうたんを敷き詰めたようにクリンソウの花畑。

夢中になって写真を撮って、時間がおしているので次へ向かおうと立ち上がった時、木立の向こうに何か白いものの影。ぱっと見あげると、そこには……白鷺の群れ。

何物にも染まらない純白の大きな鳥が、それも5~6羽飛び交っている。長野県では田園地帯の田んぼや川辺に1羽で佇んでいる光景は見かけることがある。けれど、こんなにたくさんの野生の鷺を見るのは初めて。まるで舞を舞うようにくるくると……最初は池の水面ギリギリを飛び回り、次第に高度を上げて空高く小さくなっていき、やがて青空に吸い込まれるように消えていった。

それはまるで、ひととき夢の中か物語の中に飛び込んだかのようで、しばらく私はそこを動くことができなかった。

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「ああ、大池のクリンソウ、見てきたんですか。
実は、あの花、かつてはあの池のまわりにびっしりと咲いていたのですが、持ちかえる人が出てしまって、だいぶ減ってしまったんです。ですから今は、吹いて飛ぶような種を採取し、それを11月にまいて保護活動をしているのです。」

そう教えてくれたのはこの大鹿村の旅館、赤石荘のご主人の多田 聡さん。この言葉にかなりの衝撃を感じました。さっき見てきたあの夢のような世界が、実は大鹿村の人びとの手によって守られているものであって、もっというと守らなくてはならない状況がそこにある……つまり、あの美しい光景を自分だけのために破壊する人がいるのだ……というその事実。

タイトルに揚げた「日本で最も美しい村」。これはNPO法人「日本で最も美しい村」連合に参加している村々のことです。この活動の概要はHPでこう説明されています。

近年、日本では市町村合併が進み、小さくても素晴らしい地域資源を持つ村の存続や美しい景観の保護などが難しくなっています。私たちは、フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスで最も美しい村」活動に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る活動をはじめました。名前を「日本で最も美しい村」連合と言います。

「失ったら二度と取り戻せない景観・文化を守る活動」。つまり、この活動に参加している村々は、「日本で最も美しい自分たちの村を誇りに思い、大切に守り、そして後世にその美しさを引き継いでいく決意表明をした」村々、ということになります。

多田さんのクリンソウの花の保護活動の話を聞いて想い出しました。青いケシの記事に登場した中村さんも、実は中村農園のHPを見るとその美しさを守る苦労をされているのです。

※花を摘んだり地面から抜いて持ち去る方がいますが、ご自宅へ持ち帰ってもすぐに枯れてしまいます。最低限のマナーを守り楽しい時間をお過ごし下さい。

太字で2行のこの文章に、中村さんはどんな想いを込められていたのでしょうか。かなりの困難の末にあそこまで丹精し、見に来る人びとのためにと心を砕いてきたのに、心ない人のためにその心と貴重な花が失われてしまうのです……。

クリンソウも、青いケシも。どちらも訪れる人たちの目を楽しませてくれます。それは「大鹿村」という場所にあるからこそ美しいのです。そこにいる人びとが心を込めて慈しんできたからこそ、美しいのです……。

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さて、多田さんと、先ほど中村さんのところで話題になった「大鹿村騒動記」の映画の話になりました。中村さんは、歌舞伎役者として出演されるそうですけど、多田さんも出たんですか?とお聞きすると……

「あ、出ましたけど、本当に一瞬ですよ~。ぼくの出番は村のリニアモーターの賛否についての討論会の場面でしたよ。ぼくの後ろから松たかこさんがお茶を渡してくれるんですけど、振り返りたくても振り向くわけに行かなくてねぇ……。」

いやぁ、それは大変でしたね!といった後で、「リニア」という言葉に引っかかりました。現在、国やJRを中心に東京と大阪を結ぶリニア新幹線の計画が進められています。そして、そのルートとして大鹿村をトンネルで縦断することがほぼ決まっている……らしいのですが。

「いや、じつは、村の者のほとんどがちゃんと説明受けていなくて。どうやらこの赤石荘のすぐそばを走るらしいんですが……まったく情報が入ってこないで、僕らも新聞の記事でようやくいろいろと解るといった有様なんです。」

その言葉にふたたび私は衝撃を受けました。リニアのルートについては大鹿村を通るということで、村を見守る山のどてっぱらに風穴を開けるという行為について、何とかならないものなのだろうか?と思っていた私は、もう少し詳しくその話をお聞きしてみました。

……なぜ、誰にも説明がないままにルートが決まってしまっているのですか?

「実は、トンネルが通るあたりの一帯は個人の土地なんですね。それもリニア賛成派の議員さんの。その人がその土地を売るといえば、誰も文句は言えません。誰に説明がなくてもそれで話が進んでしまうんですよ。」

確かに、その土地の持ち主が売るといったら、文句は言えないでしょう。けれど、売った土地にトンネルが開いて毎日そこを新幹線が通る。ずっとトンネルなら振動があっても騒音はそんなにないでしょうが、予定地は山と山の間に川が通る谷あいの場所。トンネルから一旦外に出てふたたびトンネルに入ることになるため、その騒音は谷に響いて村に襲いかかることは容易に予想されます。

それは、たった1人だけの問題ではありません。村全体に関わって来ることのはず。なのに、それについて村全体には何も知らされず、知らない間にルートが決まっているのです……そんなことが行われているなんて……。

「………たぶん、トンネルが通ったら、トンネルの影響を受ける釜沢地区の人びとは村を出て行ってしまうでしょうね。」

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釜沢地区と聞いて、私は2年前に見た光景を想い出していました。文化庁の支援プログラムの一環で大鹿歌舞伎について取りあげた時、赤石岳を間近で見たくて大鹿村の中心部からさらに4~50分のところにある釜沢地区に早朝、車を走らせたことがあるのです。

(これはその2年前の3月に撮った写真です。リニアのトンネルは、この右側の山を貫通するのです。)

まだ午前中の早い時間にそこに行ったにもかかわらず、そして、かなり山の奥深くの場所に踏みいったにもかかわらず、なにやら遠くの方から工事の音らしきものが聞こえてきていました。そのあたりではダンプカーやショベルカーが何台か作業をしていたのです。

「ああ、それは、ちょうどその頃に試験掘削が行われていたんでそれでしょう。実は、あの時の騒音がもとですでに一軒、大鹿から出て行ってしまったご家族があるんです。」

山に囲まれ、町から隔離されたかのようなこの村。村の面積的には長野県で三番目に大きいけれど、そのうちの98%が山林で、人が住んでいるのは残りのたった2%。それも山のあちこちに小さな家の固まりがぽつぽつと点在しているこの村には、会社や企業はありません。

かつては林業が主幹産業であったけれど、もはやそれでは生計が成り立たず、職を求める者は村を出るしかありません。残っている人びとは農業を中心にほぼ自給自足に近い生活をしながら、周りの人々と助け合って静かに暮らしているのです。

「日本で最も美しい村」の活動に加盟し、その豊かな自然や静けさ、遙か昔から受け継がれてきた大鹿歌舞伎の伝統を守りながら静かに生きてきた村に、大きな機械が何台も乱入して山肌を削る。想像するとそれはかなり痛々しいこと。

村の人びとに情報がなにも入らないままにこういうことが起きていて、映画にも描かれたように、「リニアが通る」ということに対して危惧の声があったにもかかわらず、それは音もなく静かに進められています。それでは一体なぜ、そんな理不尽が認められているのでしょう?

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大鹿村は、「限界集落」です。限界集落というのは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって社会的共同生活の維持が困難になった集落のこと。

「実際、ぼくと同じ年代のものはほとんどいません。子育て世代が村にあるかどうか。」

豊かな自然を守って、大鹿の生活を支えているのはほとんどが高齢の方。先のクリンソウの保護活動に当たっているのは、ケシを育てている中村さんや、おい菜のおかみさんや、OBの協力を得て活動する大鹿村の「商工会青年部」。

村の40才までが所属する青年部の部員は今、多田さんたった1人です。そして多田さんが40を迎える2年後には、 “無期限休止状態”になるのです。

「そうですね、工事が始まったら……村には仕事ができて、人が入ってくる、という『メリット』もあって、それに対しては……反対派も何も言えないんです。」

実際工事が始まったら。この山奥の村にも「仕事」ができる。そしてその仕事をするために工事の期間は人が増える。少なくとも「肉体労働」をする年齢層の人びとが村に入ってきて、しばらくの間そこで生活をする。食事を取り、宿を必要とし、それは村をある期間、活気づかせることになる。

つまり「限界集落」として子育て世代や働き手世代が少ないこの大鹿村が一時期であれ活気づくのは、確かなことに違いありません。

リニアの工事はある一定期間で終了し、やがて山を貫いて新幹線が走ります。村に残るものは、リニアの振動と騒音だけ。駅ができるのは山をくだった遥か遠くの飯田市街地。東京と大阪を1時間で結ぶことをうたい文句にしているリニアが1日にいったい何本飯田に停まるのでしょう?飯田という「田舎」に停まる利点はほとんど無い。さらにそこから客足がこの大鹿村に向かうこと自体、まったく考えられないことになります。

大鹿村を訪れる人びとは、その村の美しい自然と静寂に惹かれてやって来ています。工事で人が増えたとしても、工事が終わったあと、大きな穴があいて騒音と振動がやって来る大鹿村を、以前の常連さんが同じように訪れてくれるでしょうか?

それに対して、説明がないため村全体の意志統一や意志確認もできず、討論の場も与えられず訳のわからないままに、水面下でリニアの計画だけが着々と進行している。

それが今、大鹿村の直面している大きな問題なのです。……そしてそれはある意味、原発問題にも共通するところがあるのかもしれないと、ふと思ったのでした。

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赤石荘には、目の前に大鹿村の山々が迫る露天風呂があります。日帰り入浴が可能です。気持ちよさそうなその温泉に入る時間は残念ながら無かったので、そのまま多田さんにお礼をいうと赤石荘をあとにしました。

「あちこち工事中で大変で……生活するのには本当に困ります。」

赤石荘に着いた時、多田さんの奥さんがつぶやいていましたが、村の中心から赤石荘につながる道も、実は今「通行止め」です。青いケシを見に行く時にもあちこち通行止めだったのですが、大鹿村は古より崩落との闘いを繰り広げていました。

そういう崩落の危険性のある細い山道をようやく拡げ、飯田や宮田村からのルートが確保されました。けれど、私が帰りにそちらのルートを行こうとしたら、そこもまた工事中や崩落修理で通行止め。

大鹿村に至る道は困難を極めます。それが都市部から切り離された美しい自然や、伝統ある文化が守られている大きな理由でしょう。でもそれがゆえに都会の利便性からもまた切り離され、だから若い人手が流れ出ていくことになる。

理想と、生きる事による現実と。
たぶんこの問題は、今までもこれからも、日本のあちこちで途絶えることなく討論し続けられていくことなのでしょう。その「正解」は……繰り返される過去の歴史を見返すことでしか見つけられないのではないでしょうか。

1つだけ私にできることは、この問題を「対岸の火事」、「知らない土地の関係無い出来事」と思わず、自然と闘い、その豊かさ・美しさに心を砕いて守る人びとが、しかしそれゆえに生きるため、村の存続のための闘いも続ける宿命にある人びとがいる、ということを心に留めて行くこと。

美しい自然は、決してただでは得られません。豊かな自然は、一度破壊されたら元には戻りません。なくなった村に人が戻ることも容易ではありません。美しい自然はそれを愛する人たちの思いの上に守られてきたことを……そして都会の利便性はこうして失われたものの上に成り立っていることを……私たちは決して、忘れてはならない……そんな思いを胸に抱きながら、新緑の大鹿村をあとにしました。

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大鹿村HP http://www.vill.ooshika.nagano.jp/
日本で最も美しい村 HP http://www.utsukushii-mura.jp/
赤石荘 HP http://www.akaishisou.com/

地上にひろがるヒマラヤの空のかけら~大鹿村の青いケシ【’11年6月掲載記事】

「こっちですよ」

案内の声に導かれて、受付から一段高台にある畑に着いた時、まるで青い空のかけらがこぼれ落ちてちりばめられているのかと思った。

それは、青いケシ。
青いケシが何株も目の覚めるようなさわやかな花びらを拡げてそこに咲いていた。
「ヒマラヤンブルー」という名を持つ、ケシの花の畑だった。

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駒ヶ根の市街地を抜けて細い山道をぐんぐん登り、パワースポットとして注目のゼロ磁場、「分杭峠」を越えると今度は長い細い山道を下ります。それはかつての「杖突街道」。今は国道152号線ですが、国道とはいえ、横には中央構造線に添って鹿塩川が流れ、反対側には切り立った山がひろがるこの道は、所々で車のすれ違いさえも困難な細い山道なのです。

突然、右の川の方から車の前を横切る大きな影。「危ない!」と急ブレーキを踏んでみると、大きなシカが道を横切ってあっという間に左の山の中へ消えていきました。

ここは、南信州にある「日本でもっとも美しい村」の1つ、大鹿村です。
その名にあるように、山あいの道を走るとたくさんのシカに遭遇します。……そのくらいの、山道なのです。

そして、ようやく少し開けた場所に出てくると、道のまわりに畑や田んぼが拡がり人家もちらほら見え始めます。この国道沿いに点々と散らばる人家や学校。やっと開けた場所にでてきてホッとしたのもつかの間。今日の目的地は、ここが終点ではありません。

カーナビの示す道をさらに山の方に上ろうとしたら「崩落により現在通行止め」の看板。あきらめてぐるっと山に添ってまわり、もう一つ次の道へ向かうと、そこもまた「崩落により………」。
もしかしたら、目的地に到達できないの?とおそるおそる次の道へ向かうとそこは何とか登ることができそうです。

そこから車はまた天をめざします。
ここからは片側が険しいがけ。所々ガードレールもない場所があり落ちたらひとたまりもないのでしょう。車のすれ違いも難しい細い道で、対向車が来ないことを祈りながらひたすら上を目指します。

そうして延々30分も上った頃でしょうか。要所要所の小さな看板が案内してくれていたその場所にようやく到着しました。
「青いケシ」……その小さな看板にはこう書いてありました。

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「はじめて青いケシが咲いてから、今年で17年目になるよ。」

ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原にある中村農園。そのご主人である中村元夫さんは、ここで様々な花を育てて東京や大阪に卸す仕事をしていました。

青いケシとの出会いは切り花のカタログを見て。普通は標高2000メートルから3000メートルの、気温が25度以上に上がらない、しかし適度な雨の降る土地でしか育たないこの青いケシに興味を持った中村さんは、ここ大鹿村の自分の農園でもなんとかできるかもしれない、と日本では不可能といわれた青いケシの栽培に取り組んだのです。

青いケシは、種をまいて1週間ほどで発芽します。そして本葉がでるまでの約一ヶ月間に温度と水分の管理でものすごく手をかけねばなりません。初めての時に中村さんがまいた種は3000で、そのうちきちんと苗として育ったものは300未満……たったの1割だけでした。

さらに、その1割の苗を植えて大切に守り育て、花が咲くのは翌年の6月……1年以上の時を経て、ようやく「開花」を迎えることが出来るのです。その初めての花が開いてから今年で17年。中村さんが慈しみ育てた青いケシは今や5000株に増え、毎年梅雨の時期に当たる6月はじめから7月はじめまでの一ヶ月間、一斉にその青い花を開いてたくさんの人たちの目を楽しませてくれるようになっています。

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この青いケシは先にも書きましたが、高温に弱く、気温が25度以上に上がるところでは育ちません。ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原はギリギリで、昨年の暑さで弱ったりダメになったりしてしまった株もあるそうです。そこに加えて今年は春の天候不順で、例年は一気に5000株が開くのがだいぶばらついてしまったそうです。

「でもね、ばらついてくれた方が逆に長く花が楽しめるので、たくさんの人に見てもらえるしね。」

中村さんは1人でも多くの人たちが楽しめるように……と、そう言います。

以前は株や切り花の販売もしていたそうですが、5000株もの開花を一度に見ることのできるのは日本……いえ、世界でもここだけかもしれないという専門家のお言葉にもあるように、ここ以外の場所ではこんなに生き生きと育つどころかあっという間に花がダメになってしまいます。「見に来てくれる人」のためもあって今は外には出していません。

中村さんの農園で17年間かけて育てられてきたケシの花の中には10年以上も咲き続けている株があり、1つの株に10輪も咲く株がここにはいくつもあるのです。それもこのケシの専門家の方にいわせると本当に珍しい(奇跡に近い)ことだそうです。

「前はね、種まきをして芽がでてから苗を作るまでも全部自分でやっていたのだけれど、管理を仕切れなくて、5000株のケシの花を維持していくためにもいまは中川村にある育苗センターにお願いしてやっているんだよ。それでようやく、苗になるのが2倍に増えてね。」

中村さんが育てているのは青いケシだけではありません。もともと花の卸しで東京や大阪にたくさんの花を卸しているのですから、他の花も温度や日照など気をつけながら育てています。そのかたわらの青いケシ、なかなか苗に付きっきりで育てるわけにも行かず……2倍とはいっても、もともと種から苗になるのは1割だったのが2割になったというだけ。貴重で難しいことにはかわりありません。外部に苗を依頼するようになってその分費用がかかるようになったので、ケシの花の入園料500円はその「協力金」なのだそうです。

中村さんは、展示会などで一輪見るだけでも貴重なこの”花の宝石”の青いケシ5000株の維持を、見に来てくれる人たちのために毎年丹精込めてしています。ですから、実際毎年見に来るファンも多いようです。私がケシの写真を撮っていると、同じようにカメラを持った年配の男性が「今年はね、ちょっと色ノリが悪いみたいだよ。例年はもっと青が深いんだ。」と教えてくれました。多い時には1日1000人ものお客さんが押し寄せる事もあるとか……この深い山奥に……想像しただけでものすごいことです。

協力金500円を払うともらえる入園券を3年分まとめて提示すると入園料はただになるそうですから、もし見に行くのでしたらチケットは捨てずに記念にとっておいてくださいね。

今年は、先にも書いたように花のばらつきはありますが開花が遅かったので、7月終わりくらいまでまだまだお花が楽しめるという中村さんのお話でした。もし、機会があったら是非ヒマラヤの青いケシの神秘な姿を見に訪れてみてください。

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さて、この青いケシを育てている中村さんには、もう一つの顔があります。それは「大鹿歌舞伎の女形役者」です。中村農園のHPを見ると、中村さんの舞台写真が掲載されていますが、そのやわらかい笑顔を浮かべた横顔を見ると、なるほど、と納得します。

実は、今年の夏……この大鹿歌舞伎を題材にした映画が全国で公開される事になっています。「大鹿村騒動記」というその映画は、「大鹿村の歌舞伎に取り組む」原田芳雄さんが主演で、昨年の大鹿村の秋の歌舞伎公演の収録も含めて大鹿村の光景や、村の人びとがたくさん画面に登場します。

中村さんもその1人。実際に白塗りの顔で舞台に立ち、セリフもちゃんとあるそうです。

「日本でもっとも美しい村」大鹿村の美しい自然や長い間受け継がれてきた大鹿歌舞伎の様子がふんだんに盛り込まれたこの「大鹿村騒動記」。7月16日から全国で公開されるそうですので、是非皆さん見に行ってみてください……そして、中村さんも探してみてください。(「白塗りの顔だから、わかんないとは思うけどね」と中村さんはおっしゃっていましたけれど。)

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中村さんに別れを告げて次に向かったのは、中村農園から数分くだったところにある「おい菜」というお食事処です。実は、「青いケシが6月に見られるのよ!」という情報をくれたのが、ここのおい菜のおかみさんだったのです。(ちなみに、「おい菜」というお店の名は、「おいな=おいでなさい」という大鹿の言葉から来ているそうです。)

帰りがけにおい菜に寄ってみると、ちょうど客足が途切れたところで、一番の特等席に案内してもらうことができました。

店の外のテラスです。やわらかい木のテーブル。正面には中央アルプスの雪をかぶった頂が連なり(千畳敷カールがよく見えました)、左手には遠く飯田の市街地が見えます。高台に張り出したテラスから下を見ると、パラグライダーの発着場で緑の芝生がひろがっています。そして……出てきたのはかりっと揚がった山菜たっぷりのコシの強いおそば(「皿そば」というそうです)。歯ごたえが全然違います。

ここ、おい菜のおかみさんがとってきた山ほどの山菜。「これのおかげで、ほんと腰が痛いわ~」と笑うおかみさん。おい菜にはその他にコロッケ、ラーメン、エビカツなどのメニューがそろっています。また、お店の入口には「鹿肉」や「猪肉」など「ジビエ」も冷凍されて売っています。

おい菜のご主人蛯沢さんはもともとはこの地元の方ではありません(北海道生まれ東北育ち)。大鹿に来る前は埼玉で居酒屋をやっていらっしゃったそうですが、「眠らない都会」から「お日さまと共に起きてお日さまと共に休む」生活がしたいと15年前、大鹿村にやってきて、このお店を始めたそうです。

ご覧のように、大鹿村の山の幸がふんだんに盛り込まれたおそばのコシの強さは、信州そばの味と香りに東北の粘り強さが混じっているからなのかもしれない……とそんな事を感じました。

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【Guide】

中村農園 HP  http://www.osk.janis.or.jp/~aoikeshi/index.html

大鹿そばの店 おい菜
住所:大鹿村鹿塩2459-1
電話:0265−39−2860
大鹿そば ¥1000
営業:4月29日~11月3日(6月は無休)
定休日:火・水・木(祭日は除く)

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「クリンソウ、見てきた?」

ここでまたまたおい菜のおかみさん情報。ここ大鹿村大池高原にある大池のほとりには、ちょうど今「クリンソウ」が花盛りなのだそうです。

「ここからすぐだから、見に行って良い写真とってきてね!」

おかみさんの声に送られて、大池にいって驚きました。
池の畔がピンクで彩られてまるで童話の中の世界のよう……。「日本で最も美しい村」である大鹿村の様々な美しさに感動し、堪能して……しかし、その次に訪れた場所で、その美しさの裏側にある「現実」を私は突きつけられることになったのです。

大鹿村が今、面している様々な変化と大きな波……それは、この次の記事に記述していこうと思います。

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢【’11年6月掲載記事】

「実は、先日浪速の少年院で講演を頼まれまして。少年院、それも浪速の少年院なのでものすごくドキドキして行ったんですよ……。」

『夢』というテーマで話をしていた時に、突然少年院の話が出てきて驚いた。少年院……おおよそ「お菓子屋さん」とはつながらない場所。話してくれているのは菓匠Shimizuのシェフパティシエ、清水慎一さん。

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清水慎一 

菓匠Shimizu専務取締役・シェフパティシエ
NPO法人Dream Cake Project理事長

「東京洋菓子倶楽部」( 東京・日本橋 ) で修行し渡仏。フランスで修行中にクープ・ドゥ・フランス大会入賞。
2005年、両親とともに「菓匠 Shimizu」新店舗をリニューアルオープン。
2006年より、子供たちの描いた夢の絵をケーキにしてプレゼントする「夢ケーキの日」を開始。 菓子業界のみならす各界から注目をあつめ、全国で技術講習や講演、世界的夢ケーキ普及のため小中高各学校で道徳やキャリア教育なども行っている。
夢は「お菓子を通して世界中を夢でいっぱいにすること」 愛称は「サンタクロース」。
(菓匠ShimizuHPより抜粋)

「夢ケーキ」で注目を浴びて、小学校や中学校からの講演の依頼が増えたという清水さんに舞い込んだ浪速少年院からの講演依頼。数多くの講演をこなしてきた清水さんはこの依頼に最初はとまどった。

少年犯罪を犯して収容されている少年たちに、自分の話が役に立つのだろうか?聞いてもらえないかもしれない……そんな思いを持って訪れた清水さんを迎えたのは、130人の院生たちのきらきらした眼と熱い拍手だった。

「正直な話、たぶんどこの小中学校よりも子ども達の姿勢はよく、背筋を伸ばして話にのめり込むように聞いてくれていました。涙を流さんばかりに感動した院生たちが、最後に全員で歌ってくれたのがゆずの『虹』でした。」

清水さんが少年院の先生たちと話をした中でわかったこと。それは罪を犯す少年たちは決して悪いことをしようとしているわけではなく、「居場所がない」ために居場所を求めて仲間たちに巻き込まれて、というパターンが多いこと……。

親から見放され、友人や社会から受け入れられずに「夢」をなくした少年たち。
その少年たちに「夢をあきらめないでかなえてきた」清水さんが語りかけたのだから、その瞳が輝くのもわかるような気がしました。

「子ども達には、ド真面目に、ド真剣に夢を語る大人が必要なんだと思います。」

この浪速少年院同様、いろいろな学校をまわってたくさんの生徒たちに出会い、先生たちに出会う。そこで清水さんが感じたことが、これでした。

子ども達は、夢の固まり。「運転手さんになりたい!」「野球選手になりたい!」「看護婦さんになりたい!」「世界一周したい!」……「○○したい!」「○○になりたい!」という思いはどんどんふくらんでいく。まだ世界を知らないし、自分に何ができるかわからないけど、だからこそその夢はあこがれを載せて無限に拡がっていく。

「なにそれ?無理だよ。」「そんな事できっこない。」「夢?ばっかじゃない?」

子ども達の「夢」に対して「世間を知った大人」がかける言葉の多くは、そこに「限界」を感じさせ、「制限」をつけます。無限に拡がる世界に大きな壁を作ってしまうのです。確かにそれは「現実」かもしれないけれど、それはあくまでもその大人にとっての「現実」にすぎないのです。

「ある中学で女の子が、ぼくの話を聞いたあとでこう言ったんですよ。『昔は、いっぱい夢を持っていたけれど中学になったら夢、って言葉をいわなくなった。でも、これからまたいっぱい夢を語りたい!』……ってね。たぶん、その子もまわりから夢なんて……って言われて夢なんかムリ……って思っちゃったんでしょうね。」

「できないって思ったら、絶対にできないし、あきらめたらそこでおしまい。だけど『絶対かなう』と思ったらそれはかなうんですよ。」

「夢は叶う!」……それを合言葉にして実際に夢ケーキのイベントを成功させてきた清水さんはそう子ども達に語りつづけているのです。

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「お菓子屋」である清水さんの想いが「社会」に向かうようになったのは、ある一つの事件がきっかけでした。

長野県のとある町。伊那近隣のいつもは静かなこの町で、突然起こった一つの悲劇。
……子が父に傷を負わせるという衝撃的な事件。

かつて、新聞では「人の死」の扱いがものすごく大きな記事になりました。それが今や自殺は日常茶飯事、肉親……本来は愛情で結ばれた関係である家族を傷つけたり殺害したりしても、「またか」と思ってしまう状況になっています。実際清水さんも、そういう事件を見てもどこかに「人ごと」という感じがあったそうです。

けれど、この時は違ったのです。自分の隣の町。もしかしたら……自分のお店に来たことがある人かもしれない。自分のケーキを、食べたことがある人かもしれない。

「もしも、事件の前日に、この家族が菓匠Shimizuのケーキを家族で一緒に食べていたら……もしかしたら、こんな事件が起こらなかったかもしれない。」

「人ごと」であり「自分には関わりのないこと」と思っていたこういう出来事が、悲劇が、一気に自分に降りかぶさってきたのを感じ、そして今まで「他人事」と無関心でいた自分へとその思いは向かったのです。

夢をなくした世の中。他人への関心が薄れた世の中。それは家族でさえも蝕んでいる。

自分も人の親であり、人の子であり、また、人を幸せな気持ちにするお菓子屋として、何ができるのだろう?夢を失った子ども達、夢のない社会……そのために何ができるのだろう?

そうして清水さんの中に生まれてきたのが「夢ケーキ」の構想だったのです。

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(写真は菓匠Shimizuの店内の展示。ケーキを受け取った人びとの笑顔がそこにある。)

「夢ケーキ」イベントは回を重ねるごとに応募が増え、中には毎回応募してくる家族もいて、いろいろな家族の笑顔がそこに生まれています。感想をもらっていると、その中で「家族の夢の進化」の有様が見えてくるそうです。

「このイベントに毎回応募してくださっているご家族があります。その「お父さんの夢」の欄を見ると、初めての時は「なし」と書かれていました。それが二回目の応募の時は「休みたい」でした。(中略)
その次の回には「休みの日に家族で出かけたい」と書かれていました。(中略)
その次の応募用紙にはついに、「息子の夢をかなえたい」と書かれていました。(略)ぼくは嬉しくて応募用紙を見ながらニヤニヤしてしまいました。」(著書:世界夢ケーキ宣言!より抜粋)

こうして「夢」をキーワードにしてきた清水さんは、だからこそ「夢」というテーマについてよく考えるのだそうです。「夢って何だろう?」と……。

それは、無理矢理持たされるものではありません。「夢なんかありません」という人も実際にたくさんいます。じゃぁ、そういう人はどうすればいいのでしょう?

「夢なんかなくてもいいんです。そういう人たちにぼくはいつもこう言っているんです。『夢なんかなくてもいい。だけど、もしもあなたのまわりに夢を持っている人がいたら、あなたはその人の夢を応援してあげて。』……と。」

オリンピック、ワールドカップ、コンクール。テレビや新聞の向こうの世界のことでも、日本の選手が活躍するのはとても嬉しい。世界一を目指し、その夢のために闘う人を一緒になって応援する。その人が栄冠を手に入れたら……自分も嬉しくなる。
それは、その人の『夢』が自分の『夢』と重なって、誰かの夢が自分の夢になる瞬間。

それも立派な夢の実現の一つの形なのです。夢ケーキもその一つ。夢ケーキに限らず菓匠Shimizuのケーキは、そういう思いで作っていくことを目指しているのです。ケーキ作りは『物作り』ではなく『こと作り』。このケーキが食べたい、ではなくこの人が作ったケーキなら食べたい、と言ってもらえるようなケーキ作りを目指す。

けれど、いくら夢を目指し、思いを持ってやっていても、受けとめられるばかりではありません。時にはクレームもあるけれど、それはまた「さらに大きな夢の実現へのヒント」と受けとめ、無理難題は「あなたはそれをどうしたい?」と、大切なひとのためにだったらどうするかを考えてすべてを感謝に変えてやって来ました。

そのために必要なのは情熱だけではありません。「確かな技術」も必要です。夢をかなえるためにお菓子作りの腕を磨くこと、自分を高めることも怠りません。

「本当のおいしさとは味覚ではなく、安心感」
「お客様の言葉を愛で受けとめ感謝で返す」

……そして生まれるのが菓匠Shimizuのケーキであり、清水さんの目指すケーキなのです。

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「夢のない大人が、子どもの夢を育てることなんかできません。大人が夢を語る世の中にならないと。」

……そう語る清水さん。だからこそ「夢ケーキ」で家族がみんなで一つの夢を語る時間を提供したい。そうして家族が夢を語り、夢見た世界をケーキの上で実現したい。それがまた清水さんや菓匠Shimizuのスタッフ全員の夢になるのです。

果てしなく広がる夢をあきらめなければ、どんな形でもそれはきっと実現する。短い期間で850台ものデコレーションケーキを仕上げるという技も、その思いの上にやり遂げた。その充実感が清水さんやスタッフを幸せにし、その夢がつまったケーキを受け取った家族も笑顔になり、そしてその笑顔を見てみんなが幸せになる。……そしてそれが、次の夢の実現へのエネルギーになっていく……。

「夢を信じてかなえること」は、決して楽なことではありません。夢は、簡単に手に入ったら夢ではないのです。だからこそそれに向かって人は必死で努力するのです。

挫折も失敗もそこにはあるけれど、あきらめずに突き進めば絶対にかなう。そうして夢は果てしなく広がり、その連鎖でみんなが幸せになる。
そういう人びとで積み上げられた社会は……これは、本当に幸せな社会になる、心のある温かい社会になる。

実はそれが、「お菓子のサンタクロース」清水さんがめざす一番の「夢」なのです。

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「菓子屋が変われば、世の中は変わる」<菓匠Shimizuのこころみから>

8月8日世界夢ケーキの日 東日本復興チャリティー講演会 8月8日伊那市生涯学習センター6F 無料(義援金募金形式)300名
NPO法人「Dream Cake Project」
*今年度の夢ケーキ企画 期間8月5日~7日 (申込みは7月1日より)
東北大震災チャリティー夢ケーキ(2011年4月1日~2012月3月31日)

「夢塾」・お菓子作り教室……等イベント・企画多数。詳細、お問い合わせは菓匠Shimizu HP 

書籍「世界夢ケーキ宣言!幸せは家族だんらん」清水慎一著
清水さんの著書です。夢のこと、お店のことなどが綴られ、読んでいるうちにだんだん忘れていた「夢を追いかける気持ち」を思い出せる……そんな一冊です。

「世界一の真心」を売るお菓子やさん~菓匠Shimizu【’11年6月掲載記事】

まるでおとぎの国のお菓子の家のよう。それともヨーロッパのおしゃれなセンスの良いお家。あまりに背景に見える中央アルプスの山並みが似合いすぎます。

このお店はお菓子屋さんなのだけれど、入口に向かうにはちょっとドキドキしながら緑茂る通路を通っていくので、お店というよりも友だちの家を訪れる感覚。そうしてドアを開くと……正面のショーウインドウには色とりどりのケーキが……。

けれど、私がまず目を奪われたのはそこよりもお店にいる人びとの様子でした。
まず、平日昼間のお客様の多さ。そしてそのお客様の中にお年を召した方の割合が多いこと。それは、正直「ケーキ屋さん」のイメージからしたら意外な光景でした。若い女の子や、ちょっと年配のマダムがおしゃれに立ち寄るのがケーキ屋さん、というイメージが私の中にはあったのですが……。

このお店は元々は和菓子やさんで、お店の一角ではちゃんと和菓子も……それもこのお店に受け継がれる味もしっかりと大切にされているからお年寄りの姿があるのも当然なのかもしれないけれど……。そんな風に思いながら、和菓子コーナーのショーウインドウでお菓子を見ているおばあさんの姿を見て、私はまた、はっとしたのです。

店員さんが……おばあさんの孫と言えるくらいの店員さんが、ショーウインドウの向こうからおばあさんの横にでてきて寄り添ってお菓子を一緒に選んでいる姿がそこにあったのです。まるで仲良しの孫とおばあちゃん。そんなほほえましい姿をそこに見て、このお店の中いっぱいに流れる温かい空気がどこから来ているのかがわかったような気がしました。

驚いたのはそれだけではありません。「○○様~。ケーキのご用意ができました。」……ケーキを選んで包んでもらい、お会計待ちをしていると店員さんが名前を呼んでくれるのです。

温かいなぁ……優しいなぁ……。美味しそうに並ぶケーキや和菓子たちの甘い匂いだけでなく、そんな微笑ましい「甘さ」がお店の中に漂っていました。

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朝7時48分。
お菓子を作る作業工房に、シェフ、パティシエ、店員さんたちがずらっと輪になって丸く並び、その輪の中の1人の女性がきりっと張りのある……それもかなりの声量でこう告げました。

「朝礼をはじめます!」
間髪を入れずその声は続きます。「笑顔体操、はじめ!」
かけ声にあわせて、顔をほぐすことしばし。そのあと「笑顔!」「真顔!」のかけ声でみんなが表情を作る練習。

でも、そこまでだったらまだいろいろなお店でもやっているのかもしれません。
その次に、二人組になるとみんなで真剣にはじめたことが……「じゃんけん」でした。嬉しそうに、楽しそうに。でも「本気」でみんな一斉にじゃんけんを始めます。

そうして次の合図で、勝った方の人から相手に向かって「いいところ」を伝えるのです。昨日見た接客の姿、お菓子作りに真剣な姿、同じ仲間として相手の姿を見て「いいなぁ」と思ったところを相手に時間いっぱい伝え続けるのです。

……皆さん、同じ職場でそれをやるように言われてできますか?それは実はとでも難しいこと。まずはその「相手」をしっかり見ていなくてはなりません。悪いところは目につきやすいもの。でも、いいところというのは相手をしっかり見ていなくては気が付かないもの。そして、それも中途半端に見ていたら、上っ面の言葉はすぐに相手にばれてしまうので「誉め言葉」にはならずにかえって不快にさせることになります。

それを、たった1人だけでなく、職場全員の姿について……仕事をしながら見ているわけですから、これは簡単にできる事じゃないのです。2人組になって、まず相手と握手をして挨拶してから勝った人が時間いっぱいに心から相手のいいところを伝える。当然、自分のいいところに気が付いてもらえたら嬉しいから聞いている方は笑顔になっていきます。心からの笑顔です。

そうして時間が来たら、自分のいいところを語ってくれた相手に心からのお礼を言うと、交代です。また真心のこもった言葉がどんどんと相手に届いていきます。

お互いにいいところを伝えあったら、今度はくるりと回れ右して、違う二人組でまたいいところを伝えあいます。それをみんなが真剣に伝えあっていく中で笑顔と優しさがこの作業工房の中に充ちてくる感じがしました。

「なりたい自分を想像しましょう!プラスのイメージで。イメージした自分にしかなれません!」

次のリーダーの声で、それまでのにぎやかさがあっという間に静寂に変わります。目をつぶって自分の「よい姿」を心に描くのです。そして次に「世界一宣言」。

自分は、これの世界一になる!という宣言を1人ずつ全員が、大きな声で順番にしていくのです。一周まわって全員の「世界一」が出そろうと、次は「HAPPY スパイラル!」……ここまで来るともう、お祭りが最高潮に盛り上がっているかのように皆さんの顔が上気し、声もどんどん大きくなっていきます。そしてその盛り上がりはみんなの意気を一つにまとめ上げていくのです。けれどそれは単なる大騒ぎばかりではなく、次の瞬間はみんなで手をあわせていろいろなものに静かに感謝の心を持つ時間へとつながります。

きれいだなぁ……
目をつぶって心の中で、家族、お客様、仲間、地域の人たち……いろいろな人たちに「感謝」をしている人たちの静かな横顔は、まるで仏像のような穏やかさに充ちているのです。

最後に目を開けて、仲間全員と順番に握手をし、一日頑張ろうと挨拶をしあって朝礼が終わったかと思うと、さっきまでの盛り上がりが嘘のように皆さんさっと自分の今日の仕事・持ち場に向かってそのままそれぞれの作業が始まるのです。

それはもう、鮮やかというか何というか……あまりの見事さに、私は言葉が出ませんでした。
たぶん10分か15分くらいの時間の中で、これだけ濃縮された中身が展開されて職場の仲間の心が一つになり、笑顔があふれ、やる気に充ちて始まる一日。

ただ笑顔の強制じゃなく、ただ大声の強制じゃなく、ただ形ばかりの挨拶や目標を順番に述べるだけじゃない。見習い研修中の人も含めて皆が同じようにこの朝礼の時間を共有することで、この作業工房の中にやる気と真心をいっぱいに満たしてしまったのです。
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皆さんが朝礼をやっている間に、ふとまだ暗い店内を見渡せるカウンターの上に目が行きました。そこには、何冊も重なった分厚いノート。

どのノートも明らかに、びっしりと書き込まれていることは一目でわかります。たぶんこれは、それぞれのスタッフが書きためている仕事の記録なのでしょう。

菓匠Shimizuのシェフパティシエは、日本やフランスの各地のお菓子作りの権威のもとで修行を積んできた方でものすごくお菓子作りには厳しい方と聞いています。朝礼のあのノリで、意気をあげてその勢いだけで突っ走るのではなく、朝礼のあとはあっという間に仕事について張り詰めた空気を作りあげるのはたぶん、この「技術的」にも皆さんが菓匠Shimizuの味として責任持って胸を張れるものを生み出す努力も怠っていないから……さりげなく積み重ねられたノートのふくらみ方を見てもそれを感じることができました。

その確かな技術と、それから仲間同士の強い支え合いと真心の成果は、この菓匠Shimizuで行われている「夢ケーキ」というイベントが毎年「大成功」を積み重ねてきている実績にも表れています。

この「夢ケーキ」というイベントは、2006年、5年前から菓匠Shimizuで行われているイベントです。2005年に今の場所に今のお店をオープンし、その一周年企画で開催されたこのイベントは、「家族みんなで一つの夢を語ってもらい、その夢をケーキの上に描いてプレゼントする」というものです。

みんなでサッカーをしているケーキ、ロケットで宇宙に飛び立とうとするケーキ……様々な家族の夢を描いたケーキを形にして、その家族に無料でプレゼント……家族に夢を送ろう、子ども達に夢が叶う喜びを届けよう、という思いの元に開催されているこのイベントは、第一回目に6台申込みがあってから年を重ねるごとにその応募数を増やし、第8回には850台ものデコレーションケーキを応募者に届けるという、偉業を成し遂げています。

この夢ケーキの構想は、今や日本の各地に飛び火して共感したお菓子屋さんがそれぞれの想いを乗せた夢ケーキのイベントを始めて来ていて、2010年には8月8日を「夢ケーキの日」とし、さらに今年度はNPO法人「Dream Cake Project」を設立、このお店から発信された「夢ケーキ」の構想が「8月8日世界夢ケーキの日」制定に向けて確実にそのあゆみを進めています。

このイベントがここまで定着し、拡がり続けているのはまぎれもなくこの菓匠Shimizuの「夢に向かって突き進む力」であり、それを現実に叶える技術力でもあります。

デコレーションケーキは生ものですから、作り置きができません。日頃の業務はきちんとこなしつつ、数日の間に何百というデコレーションケーキを作りあげること。それはスタッフがあきらめず、できると信じて心を一つに協力してここに向かうからなのだと思います。

「お客様の夢を叶える」という喜びのために、みんなが一つになって、数が多いからと手抜きをすることなく、むしろ妥協を許さない厳しさと、時間や費用などの制約に負けないあきらめない心とで毎年成功しているこの夢ケーキ。ケーキを受け取るお客様の笑顔をエネルギーに、夢が叶うものだという喜びを送り続ける菓匠Shimizuの真心は、世界一の真心。

その真心のエッセンスがたっぷり含まれたお菓子。それはこのお菓子を食べた人たちにこれからも伝わり続けていくことでしょう。

いつかきっと。カレンダーに書かれる日が来るに違いありません。
「8月8日 世界夢ケーキの日」………と。

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さて。
この朝礼でお会いできなかった方がいます。

この菓匠Shimizuのオーナーシェフであり、朝礼を提案し、夢ケーキを進めてきた清水慎一さん……菓匠Shimizuの三代目です。

厳しさの中にも本気の笑顔でお菓子を作り続けるスタッフとこのお店を引っ張る清水さんとは……一体どんな方なのでしょうか?改めてこの次の記事で取り上げたいと思います。

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢」へつづく)

平成の花咲かおじいさん~中沢の花桃の里【’11年4月掲載】

どこまでも細く続く山道をうねうねと上っていく。

「本当に、こんなところにあるんだろうか?道間違えたのかなぁ?」と、思わず不安になったその時。

小さな川に架かった橋を渡るその直前に、橋の向こうの道に沿った日の当たる山の斜面に目を奪われた。

「うわぁぁぁぁ……すごい………。」

思わず絶句した三年前の春。

駒ヶ根に住むお友達が教えてくれた駒ヶ根市中沢の「花桃の里」。「桃源郷」という言葉があるけれど、それはきっとこういう場所のことなのだろう……と思わず納得してしまったほどに、そこは美しかったのです。

山と山に囲まれた狭くて日影の細い道が、川端で開けて日当たりの良いその場所に、赤、白、ピンク……色鮮やかな花桃が咲き乱れていました。

訪れたその時は、ちょうど満開。さらに快晴で青空が拡がり、花桃たちは春の日を浴びながらきらきらと輝いて咲き誇っていました。花桃だけではありません。芝桜が川岸を覆いつくし、レンギョウや水仙といった春の花々が皆一斉にお日さまに向かって花開いていたのです。その有様はとても印象的でした。

それまで「花桃」という花の存在自体を知らなかったのですが(果実用の桃の花は見たことがあるのですが)その「花桃」の可憐さやあでやかさに魅了され、それ以来春の光景というと桜と並んでここの「花桃」を思い浮かべるようになりました。

その花桃の里についての「ある情報」が耳に入ったので、3年ぶりのこの春、再び訪れてみようと思い立ったのです。

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実は……この花桃の里を作りあげたのは「たったひとりのおじいちゃん」なのです。

宮下秀春さん。

花桃に包まれた「休み処 すみよしや」のご主人です。

「ここはもともと家が持っていた土地なんだけど、この急斜面に小さな棚田が7枚あっただけでね。川も荒れてた。退職のちょっと前から定年後の楽しみに……と思って、子どもや孫が遊べるようにと川の整備をはじめたのが平成3年だったな。」

「花桃を植えだしたのはその翌年の平成4年だったよ。で、店の建物を建てたのも同じ年。どうせやるならお店をやった方がいいのでは?と勧められてね。」

そうして定年後の楽しみとして整備をした川には、毎年夏になると駒ヶ根中の保育園の子どもたちが、順番にバスに乗って水遊びにくるそうです。

「管理が大変だけどね、特に夏は。だけど子どもたちの声がきこえてくるのが楽しみでねぇ。」

……と、日焼けした顔で瞳を細くして笑う顔はとても優しいおじいちゃん。

花桃は、平成4年から毎年30本〜50本を植え続け、今や800本という数。周り中どこを見てもかわいらしいお花が。不思議なことに、同じ木に白い花と赤い花、ピンクと白、など違う色の花が咲くのです。

「親の木を見れば、その種を育てるのでだいたい花の色もわかるよ。」

桃の花は種をまいて育てるそうです。9月半ばに種をとってまくと次の5月には芽が出て3ヶ月で苗になる。さらに3年たつと花が咲く。それを繰り返して今の花桃の里があります。去年は新聞でも紹介され、駒ヶ根市の「花巡りバス」のコースの一つにもなっていて、各地から訪れる人も増え時によっては渋滞が起こるほど。

ひとくちに「800本」と言っても平成4年から19年。たった1人で、山の急なところにも、川の水のせせらぎの近くにも、この谷のあちこちにある花桃を植え続ける。それは簡単なことではなかったでしょうに、宮下さんの笑顔からは「子どもたちや孫たちが喜んでくれたら」という張りが感じられます。

花桃の他にも、レンギョウや芝桜を植え、育て、そしておととしからは水仙を植え始めたそうです。水仙は年に1500本植えるとか……。本当に……想像を絶する数なのですけど……。

頑張ったんだ、とかすごいだろう、なんて感じは微塵もなくただただ沢山の人が見に来るのが楽しくて仕方がない、こうして人が見に来てくれるのが何よりも嬉しいんだ……という感じです。

その宮下さんがこの花桃の里で奥さんとやっている「休み処すみよしや」さん。
お団子と珈琲のセット。500円です。
ピンクのかわいらしいお団子の中にはあんこではなくみたらしが入っていて、口の中にとろっと溶け出しそれが何ともいい感じでおいしかったです。
(このお団子は、12個ひと箱700円、お土産で買えます。その名も「花よりだんご」というお団子。みたらしでなくごまが入っているのもあります。)

このお休みどころでは、春はイワナのお料理(庭にある池にいっぱいいるんだそうです)、夏はこれもまた敷地内に宮下さんがご自分で建てたBBQ場で炭火の焼き肉、秋には県のキノコの指導員を務めていた宮下さんが山で採ってくるキノコを使った松茸料理を楽しめるとのこと!

一年中、花桃の時期以外にも沢山の楽しみがありそうです。

花桃の里の花咲かおじいさん、お休みどころのご主人、キノコの指導員、などいろいろな顔を持つ宮下さんには、もう一つの顔も。

この地区の小学校中沢小学校では年3回全校での炭焼き行事がありそれを販売するという活動をしているそうで、その炭焼き指導も宮下さんの大切な仕事の一つ。

実は、宮下さんの一番下の内孫さんがこの中沢小学校の5年生なのだとか。
「でもね、おじいちゃんが来るのは照れて恥ずかしいみたいです。」…とお団子販売を手伝っていた宮下さんの娘さんが教えてくれました。

けれど、小さい頃から身近にあるこの花桃の里はお孫さんたちにとっても「残していきたい大切な場所」のようです。

「二番目の息子がね、今、調理師学校に通っていてね……。」と娘さん。

どうやら、このお休みどころには将来若い料理人が入ることになるのでしょう。おじいちゃんが慈しんだ花桃は、その心は。こうして若い世代の夢にもなって引き継がれていくのでしょう。

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南信濃には、こんな風に「個人が作りあげた花桃の里」がいくつか存在しているようです。二年前に訪れた泰阜村にも、それから大鹿村にも有名な個人宅の花桃スポットがあるようです。

こうして美しい景観をさらに美しく整えて次の世代に残していく。
そんな心が、ここ、南信濃にはあちこちに色濃く受け継がれているように思いました。

(写真・文 駒村みどり)

※中沢の花桃の里は、こちらです。

大きな地図で見る

さわやか信州旅.net(長野県観光公式ウエブサイト)での情報ページ

なお、例年よりも花が咲くのが遅れているので、このゴールデンウイークに満開になりそうです。是非訪れてみてください。苗木も販売していますよ。

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