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「わぁっ!!」
目の前のスクリーンに展開される映画に、観客は一斉に歓声を上げる。

会場は小布施町にある「まちとしょテラソ」の多目的室。座席はすべていっぱいで、客のほとんどが小中学生の子供たち。映画に登場するのはその子供たちとほぼ同年代の小学5年生ばかり。さらに驚くことに、この映画の制作者もスタッフもすべて小学5年生。

けれど、その映画は大人の私が観ても面白かった。画面から伝わってくるのは「熱意」。そして「真剣さ」。演技しているのはごく普通の小学生たちだから決して「上手い」とは言えないし、ハイテクを駆使しているわけでもないけれど、思わず引き込まれてしまう「魅力」にあふれていた。

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真っ暗な会場の中、ひしめき合った子供たちは画面に食い入るように見入っている。
目の前で展開する映画を観ているうちに、気になることがひとつ。

「これまでいくつもの事件を解決してきた。コールサインは少年探偵DAN。」
「これまでいくつもの事件を解決してきた。コールサインは少年探偵DAN。」

……あれ?映画から聞こえてくるセリフが、私の後ろからも聞こえてくる。まさかサラウンド?

後ろを振り返ると、まだ小学校の低学年ほどの小さな女の子が画面の言葉と同じセリフを、小さな声でつぶやいていた。さらに驚くことに、そのつぶやきは一句一語も違わず映画が終わるまでずっと続いたのだ。この子、一体この映画何回見たんだろう?セリフすべて覚えている。それもただの丸暗記じゃなく、画面の人物がセリフをいうタイミングや抑揚まですべてを再現していた。
すごい……この子にとってはそこまで深く刻まれる映画なんだ………。初めてここでこの映画に出会った会場の子供たちが夢中になるのもよくわかる。

「この映画は、子供たちの意欲で出来ているんです。みんなで原案を持ち寄って、機材を扱うのも、小道具大道具を作るのも、脚本や絵コンテも、演技もすべて子供たちがやりました。私はそれを合体させて仕上げただけ。」

そう語るのは麻和プロダクション製作総指揮者こと、松本開智小学校の麻和正志教諭。

小布施のまちとしょテラソの館長である花井氏は映像作家でもあるのだが、その花井氏がこの映画の上映会の情報を得て家族で松本まで見に行って感激し、小布施での上映会&講演会へとつながった。

5年生クラス全員で創り上げた映画。総合学習として取り組んだそうだが学校の多忙な時間割の中、これだけの作品を創り上げるには相当の手間と労力が必要だ。
さらに、すべての子が「みんなと一緒」に動くはずもない。機械の扱いにしろ、撮影技術にしろ、演技力にしろ、すべてが1からのスタートだ。ひとクラスの子供たちを動かすことでさえも大変なのに、どうしてここまで来ることが出来たのだろう?

「やれるものなら、やってみろ、最初はそこからでしたね。」

元々、漫画家になりたかった。「美術の勉強が出来る国立大学」として選んだのが信大教育学部の美術科……。気が付いたら、「学校の先生」になっていた。

けれど、大学祭で一度映画を作ってから映像への興味は尽きることなく、教員生活のスタートから映像作品を学校の行事に生かすなどして何らかの形で関わってきた。それはやがて「映画」へとつながり、地元松本では「映画の先生」として周知のところとなった。このクラスを5年で担任することになり、一年間の総合学習のテーマを考えたとき、「映画」は子供たちの中から自然と出てきたそうだ。

むろん、映画作りは時間がかかるしやったことのない子供たちには問題山積み。それに、他にも「やりたいこと」はあがっていた。けれど麻和教諭のとまどいを押し切ったのは子供たちだった。

「やれるものなら……」そうして、本格的な「映画作り」に昨年一年かけて取り組んだ。やる上で、先生は子供たちといくつかの約束をした。

「時間は守る。準備、片付けはきちんとする。他のクラスに迷惑はかけない。」そして……「映画を言い訳にしない。」

簡単なようだけれども、これはとても難しいことだ。子供たちはどうしても出来ないこと、忘れてしまうことがある。めんどくさいことからは逃げたい。(これは大人も同じだけど)。「○○があったから遅れました」というのはとてもいい「口実」だけれど、言いはじめたらきりがない。自分たちのことに夢中で、周りが見えなくなることもある。熱中して面白いことは、途中で止めて切り替えるのは難しい。それも、数人ではなくひとクラス。29人の「個性」を率いるのはかなり困難だ。

しかし、この約束の下に映画は完成し、上映会会場の松本市民芸術館の小ホールは2回の上映とも満員の客であふれ、「来年やるとしたら大ホールにしてください。」と会場にいわれるほどだったそうだ。

「ひとつやり遂げる中で、子供たちは『みんなでやる』姿勢が育ってきた。支え合う姿も。それから映画作りの中で『物の見方』も変わってきた。そして、映画を勉強しない理由にはさせないから、ちゃんと勉強もする。」

……これこそ、「総合学習」の狙う「生きる力」。

「総合学習で子供たちにどんな力をつけていくのかは教師自身が考えてアピールしていくべき。」「大きな舞台を用意すると、子供たちはちゃんと動く。ケンカやいじめをしている『ヒマ』なんか無くなります。」
「結局、生きるということやその目的は、真剣に放浪して捜すものだと思います。ゼロから出発して自分たちで………。」

麻和教諭のこの講演を聴きながら、わたしはものすごくこの「生徒たち」に会ってみたくなった。

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他県の学校はまだ当然のように夏休みの期間。けれどなぜか長野県の「休み」は短く、どんな酷暑でもエアコンも扇風機もない学校は窓を全開にしても蒸し暑さにつぶされそうになる。まして「夏休み」から「学校生活」への身体の切り替えがまだ出来ていない2学期のはじめは、生徒も先生も動くのがかなり辛い期間。

打合せ時の麻和教諭からのメールには「低学年では熱中症にやられる子も出ています、暑いのでお気をつけておいでください。」……うわぁ……。

学校に着くとわざわざ玄関まで迎えに出てくださった麻和教諭について教室へ。教室の入り口には去年映画で使ったべっこう飴屋の看板を掲げてあった。

「市民芸術館で『今年は大ホールに』といわれて、その予約の関係で2月には今年映画をやるかどうかをみんなで決めなくちゃならなかったんですが、全員一致で決まりました。」

子供たちの意志はもう一つだった。「もっといい映画を」「無駄な時間を作らないように」「去年失敗したり経験したりしたことを生かして」「大ホールがいっぱいになってそのお客さんが楽しんでくれるものを」「もう一度映画作りの経験をして卒業したい」

昨年度末に映画作りをするかどうかを決めたときの子供たちの決意。紙の上に踊るのはよりよいものをめざすみんなのやる気と、それから「来年度」にかける夢。
一度映画製作をしているので皆「やること」や「流れ」はつかめている。「次に描きたい世界」ももうそれぞれ持っていた。春休みの日記などを使って今年の構想が練られた。スタッフはすでに3月中に決まっていた。

教室の黒板の上には、「学級目標」「学校目標」にはさまれて「映画作りの目標」もかかげてある。映画はこのクラスの柱なのだ。

映画の「制作費」。機材はあるものを使うけれど、いろいろな道具は作らなくてはならない。それを稼ぐのも自分たち。学校のPTAバザーで子供たちは家にある「景品」を持ち寄って射的の店を出し「こんなに稼いでいいのかと思うくらいに」売り上げた。それから昨年の映画。DVDで販売する。その売上げも「次の映画」にむけての資金。ちゃんと昨年の活動が次の年につながっていく。それも大きな力となって。

教室は、普通の6年生の教室。台の上には、はにわなどのフィギュア。「歴史の勉強がありますから」と麻和先生。「映画製作」に関わるのだったらもっと道具でゴチャゴチャしているのだと思っていた。けれど、小さなロッカーにカバンや水着の袋が詰まっている……といった感じの小学生らしい雑然さはあっても「映画作っています」みたいな「特別感」は全くなかった。

しかし、その雰囲気は5時間目の開始と共にがらっと変わった。


今日の撮影シーンの確認。黒板の先生の説明を真剣に聞く。撮影場所でケガや事故がないようにとの注意も、多分聞き漏らした子はいないだろう。

そして「では、はじめよう」の声と共に生徒たちは準備を開始。大勢の子がすぐに教室を出ていったけれど、数人が残ってなにやら製作をはじめた。

生徒たちの打合せ。これも映画のワンシーンのよう。

最初は廊下で撮影。南から夏の日が照りつける。

麻和教諭の額には玉の汗。

それぞれが、それぞれの役に真剣に取り組む。1人1人がこの「映画製作」では主人公だ。今年の主役を務める達家さんの身支度を手伝う衣装の係の天野さんと西山さん。小道具の点検に余念がないのは山崎くん、犬飼くん、中川くん。カチンコを持ち、記録をとるのは昨年の映画でヒロイン美咲役を務めた長瀬さん。それぞれのシーンをチェックしながら、そこで必要なことを細かく記録していく。撮影の最初からとった記録の紙の束はすでにもうかなりの厚さになる。

もう一つのシーンの撮影現場に移動。窓ひとつないオイルタンク室が撮影場所だ。普段は誰も近づくことのないこの部屋も、子供たちの工夫によって不思議な異次元空間に変身する。風がまったく通らないから暑い。けれど誰1人文句をいわず黙々とそれぞれの役割を果たす。重い機材や熱いライトを支え、記録をとり、風を送り……。

何回も撮り直したシーンが「カット」と終わったとき、コスチュームのヘルメットの下から現れたのは津田くんの汗まみれの顔。

授業時間も終わりに近づき、廊下では特別教室から戻ってくるほかのクラスの子供たち。その子達が通るのに邪魔にならないようにさっと交通整理をはじめる生徒はプロデューサーの渋木くん。

「へぇ?こんな部屋、学校にあったんだ。」

別のクラスの生徒がオイルタンク室を見てつぶやいた。学校の廊下の突き当たりにある普段はまったく気にもとめない小部屋。それが、麻和プロダクションの子供たちに見いだされ、演出によってなんだか興味深い雰囲気を醸し出している。はしご階段の上からのぞく2人のヘルメット姿を見ると、なんだか不思議な気分になる。誰がここを「舞台」として見いだしたのだろう。

「撮影終わり、片付けて次の時間だよ。」先生の声に「もうちょっと……」との声を飲み込んで整然と片付けをし、教室に戻る。教室ではまだ別グループが作業中。

彼らが黙々と作っているのは「ネギ」。が、これは映画の小道具ではない。毎年やっている「長野県ふるさとCM大賞」にむけての準備だ。彼らは昨年、松本代表として予選を突破して県民ホールのステージに立った。
「去年は入賞が出来なかったから、今年は賞をとりたい。」

チーフの松本さんはネギ作りの手を休めずにそう語る。映画と平行してそちらの撮影も進んでいる。丁寧に作られたネギが今年のCM大賞での入賞につながるといいね。

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「最初に子供たちを持ったとき、はさみも糊もちゃんと使えなくて驚きました。」

今の子供たちは、自らそうして何かを「生み出す」機会が少ない。小さい頃に泥をこねてどろだんごをつくる。そういう経験さえもないので粘土で団子やひもをこねることも出来ない。ぞうきんも絞れない。マッチで火をつけることはおろか、ガスコンロも今はスイッチひとつだから理科室でマッチを擦ってガスの栓を「開いて」火をつけることも困難だ。

学校で図工や美術の時間が減り、家庭科も減り、理科も実験している時間がなく教科書を読むことで終わることも増えた。机に向かい、本を見る時間がいくら増えてもこれらの「体験」による学びは決して得られない。今の子供たちはそうして「頭で考える」世界にいることが多い。自らの力で生み出し、見いだし、工夫する機会はほとんど無いからそういうことが出来ないのは当然だ。

その子供たちが今、こうしてネギを作り記録をとり、自分たちのイメージで創り上げた「新しい世界」を生み出すために地道な努力を積み重ねている。その膨大な時間の中で自分に出来ることも、出来ないこともあることを感じ、出来ないことは出来るために努力し、一人の力で足りないところはみんなで考え補い合って様々な力をつけ、昨年一年の成果の中でさらに「次のステージ」をめざしている。

「はさみ使えるように」と先生に「宿題」を出されなくても、子供たちは自らのめざすもののために山ほどのネギをきれいに作り上げる力をつけた。その子供たちの姿を見て、親たちも心から活動を支援している。

「学びの姿」……本来のその姿は、ここにあるのではないだろうか。

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「去年やってよかったこと?そうだなぁ……『最後までやり通した』ってことかなぁ。」

昨年の映画で少年探偵DANを演じた清水くんに去年のことを聞いたらこんな返事が返ってきた。

そういえば、映画の中のセリフに『きみになら出来る』という言葉が出てきた。これは、麻和教諭が日頃から口にする言葉だそうだ。はじまれば、終わりがある。どんなに大変なことでも、はじめればきっと終わるときが来る。

その終わりをどんなふうに迎えるのかはそれぞれ違うだろう。けれど『きみになら出来る』という可能性を腹の底に据えた先生とそれを受けとめた生徒たち、そして見守る人々がやり終えた時に生み出したひとつの「成果」。

それは確実に何かを変えていく。新しい何かを生み出していく。
そしてそこに至る力は、「次の未来へ」向かう地盤となってどんどん拡がっていく。

麻和プロダクションpresents「スターダイバー」。
2月27日の上映会むけて、今、撮影は進んでいる。きっと今年度の観客にも彼らの創り上げるものが発する大きなエネルギーが伝わるに違いない。

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写真・文 駒村みどり

(付記)
今年の映画製作の模様は一年間を通してテレビ松本によって何回かにまとめられて放送されるようです。

この映画製作に当たっては、12月1日公開の超大作「SPACEBATTLESHIP ヤマト」の監督で松本市出身の山崎貴監督の応援をいただいています。今、ヤマト製作で大変多忙を極めているにもかかわらず、メールでアドバイスをくださっています。

昨年度の「少年探偵DAN」においては、多くの青春映画の監督をされた河崎義祐監督にもご指導をいただいています。

また、今回の映画の主人公、達家さんは「キンダーフィルムフェスティバル」の審査員としてこの夏、東京で活躍をしてきたそうです。

N-gene掲載当時にいただいたコメントもこちらに転載します。

コメント
ご報告です。
頑張って作ったネギのCMが、長野県知事賞を受賞しました。
みなさまの応援に感謝いたします。
(ほごしゃ①)
投稿者: M・Y | 2010年12月07日 10:22
>M・Yさま
県知事賞、おめでとうございます!
子どもたちはきっと、大喜びだったことでしょうね。
HPでCMを見させていただきましたが、すばらしい出来ですよね。わたしも、自分のHPでもご紹介させていただきました。
→http://chobi.net/~komacafe/blog/archives/category/3-0/3-3/3-3-1
ほんとうにおめでとうございます。
今ごろは、映画の最後の仕上げで忙しいことでしょうが、2月の上映会を楽しみにしています。
お知らせありがとうございました。
投稿者: 駒村みどり | 2011年01月17日 22:40

「今日これ使うグループは?」

美術教室の黒板の前で先生が手にしたのはデッキブラシ。受け取った女生徒はそれを嬉しそうに持って席に着く。大掃除の時間ではない、れっきとした美術の授業時間。

さらにビニールシート、梱包の保護材のプチプチ……次々に登場するモノはおよそ美術教室には縁がなさそうな素材ばかり。それらを手にした中学生たちは先生の指示を聞くとぱっとそれぞれの作業場所へと散っていった。

先生の名は、中平千尋。この美術教室で展開されているのは「さくらびアートプロジェクト」。「学校を美術館にしよう」をスローガンにかかげたこのアートプロジェクトの流れは今年で6年目を迎え、いま全国から熱く注目されつつある。

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机の上には、ウエディング情報誌。あこがれのドレスに身を包んで微笑むモデルさん。それを囲んで真剣に討論する女の子二人。写真の甘いムードと、それに向かうその表情の真剣さとは対照的だ。

そうかと思うと、その隣では同じく女の子二人組で趣ある古民家の写真集を拡げている。「教室に古民家の町並みを作りたい」というのがこの二人の想い。

古民家とアニメとのコラボを考える……何とも絶妙な取り合わせ。どんな町並みが出来るのだろう?信州大学の工学部の学生がそのイメージ実現の支援をする。
パソコンを開いて、ノートに書き込んで、実際に作って……各グループは自分たちのイメージを外部から来ている支援者と共にどんどん拡げている。

ベランダでなにやら写真を一生懸命に撮っているチーム。ここも女の子二人組。
「何撮っているの?」と聞くと「空の写真です。」との答え。

二人は海のない長野県に海を作っちゃおう、というグループ。小さいときに家の人と行った海。いいなぁ、あれ、教室に作れないかなぁ……そう思った二人が教室に海を再現するのにチャレンジ。空の写真は、その海の背景に使うのでとにかく青い空をいっぱいいいとこ撮りするのだそうだ。

「どんな海が出来るのかなぁ、楽しみだね。」と声をかけると恥ずかしそうに「はい!」と笑顔で答えてくれた。………良い表情だなぁ。

別教室では電動ドライバーの音。やや危なっかしい手つきだけど真剣に木の枠組みを作っている。長いねじなのでまっすぐに入っていかない。やり直し。今度はまっすぐしっかりとねじが食い込んでいく。

「教室の真ん中に、クジラのしっぽがどーんとあったらいいなと思って。」と水口くん。図書館で見たクジラ。これを作りたい。教室を深~い海の底にして………。その想いに共感した清野くんと組んだ男子二人組を応援するのは昨年に引き続き今年も支援者として参加の彫刻家の神林学氏。(神林学氏の作品は、ワイヤーワークなどで躍動感と生命力があると定評がある。小布施境内アートにも参加。 )

二人のイメージをもとになんと3メートルもあるクジラの実物大のしっぽが教室に登場するらしい。ダイナミックだ。聞いただけでワクワクする。

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「絵を描くなんてかったるい」「なんか創るのめんどくさい。」

学校の美術の授業でよく聞かれる生徒の声だ。何かを作ること、何かを表現すること、それはとにかく時間がかかる。自分の想いを表現するのには必死で考え、工夫することも必要だ。なんでもあって便利な世の中になって「考える」「工夫する」「自分で作り出す」必要もなくなってきた今、そういう機会は生活の場からは激減している。

子供のころから外で泥だらけになって遊ぶことやそういう場所も減り、汚いからと泥から遠ざけられ、土をこねる機会もない。泥遊びできる水たまりさえ排水溝の整備などで見あたらなくなった。

いい高校へ、いい大学へ。そのためにはいい成績を……。そういう「テストの点重視」の社会の流れの中、学校での限られた授業時間も次第に「受験教科」にかたむけられるようになってきて、結果、受験に関係ない美術、音楽、家庭科などはもう20年くらいも前から次第に削減される傾向にあった。

それは「ゆとり教育」がきちんと浸透しない中途半端な形で「失敗」と言われてからなおのこと加速化した。そして……もしかしたら数年後には「美術の時間」は学校から消えるかもしれない、という危機的な状態にある今。

「このままでいいのだろうか?これではまずい。」

その危機感をそのままにしておけずに自ら「危険」の鐘を鳴らし始めたのがこの授業を組んでいる中平千尋教諭だ。

彼は、長野県に美術教育を育て、確立させようと孤軍奮闘をはじめる。その試みのひとつが「Nアートプロジェクト」。“学校を美術館にしてしまおう”という大胆なスローガンをかかげ、独自の美術教育を展開し、さらに外部に向かって次々と発信をし続けているのだ。

中平千尋教諭履歴(NアートプロジェクトHPより抜粋)

武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、東京都内のデザイン会社勤務を経て、長野県内の養護学校や中学校を歴任。
2001年から千曲市立戸倉上山田中学校に勤務。2003年より学校を美術館に変身させる「戸倉上山田びじゅつ中学校(略称:とがびアートプロジェクト)」を始める。その後、2007年長野市立櫻ヶ岡中学校に転勤、2007年からは「ながのアートプロジェクト」を立ち上げ、長野県内の美術教育だけではなく、全国の美術教育を盛り上げるため活動中。

芸術には情熱が必要だ。表現し、伝える、そのためにはかなりのパワーと熱量がないとやって行かれない。ある意味それは「先生」という職業にも通じる部分がある。生徒という人間に学びの場で対し、「育てる」点で情熱が必要だ。芸術への想いと生徒への想い。その二つが重なり合い強い想いを持って教壇に立つ。

……中平教諭はそんな「熱い」芸術教師だ。

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「今の世の中、なんでもすぐに“答え”を求める。“答え”に結びつけたがる。だけれど、答えはすぐには見つかるものじゃないし、ひとつじゃない。それぞれの答えはそれぞれ自分で見つけるものですよね。」「美術では答えはひとつじゃない。自分の答えを自分で見つける。だから今、美術教育が必要なんです。」

今の世の中、今の子供たち。その現実を見つめたときに「美術教育の育むもの」の必要性を感じた中平教諭は、千曲市の戸倉上山田中学校在職中に「学校を美術館にしよう」というアートプロジェクト、“とがぴアートプロジェクト”を立ち上げ、展開をはじめる。(詳細はこちらから。「とがびプロジェクトの意義と展開」ほか)

しかし、そんな中平教諭の発信はなかなか受けとめられない。まずは学校。「外に向かう」事に対してものすごい抵抗がある。それから周りの教諭たち。毎日の細かい仕事に追われる中「余計な手間」に関わってはいられない。地域の文化施設。美術館からの発信もなかなかない。

美術に関わるべきものが、発信していない。必要な場所に必要なものが届かない。そういう矛盾の中、中平教諭は警鐘を鳴らすことと発信とをやめなかった。
選挙前の各政党に、美術教育や文化に対する質問状を送った。(2党は返答が帰ってこなかったが)それを校内に掲示して自らも候補者としての主張をかかげて校内で「選挙」を行った。生徒たちからは圧倒的な支持を得た。

当時の千曲市の教育長もとがびのプロジェクトに理解を示してくれた。しかしその発信を受けとめはじめたのは、残念ながら県内からではなかった。県外の学校からの視察が来る。文科省からも視察が来た。講演の依頼もある。
そして何よりも、生徒たちの姿が物語る。

「相談室登校の生徒がいるんですが、この時間だけは教室に来るんですよ。」

さくらびのプロジェクトでの1人の生徒の姿。あるグループに入って毎時間一生懸命取り組んでいる。他の時間には教室に顔を出せないのに、その時間はグループの中心になって活動する。周りの生徒もその思いをちゃんと受けとめる。

「今、学校の先生や親たち(社会)が、車の運転にたとえるとハンドルを握るところからブレーキもアクセルもすべてやってしまう状態。生徒は手が出せない。“いい子”はそれであきらめてしまう。」「だけど、美術は自分の想いの中で“徹底的にやる”事が出来る。やりたいことを徹底的にやる、ということが学校教育の中で出来るのが、美術の時間だと思うのです。」

子供たちはもともと無鉄砲だ。小さい頃は遊びの中で、大きくなったらこういう表現活動を通して「無茶」や「めちゃくちゃ」をやる。その中で「自分はここまでできる」「これだったら大丈夫」という「基準」を見つけ出す。そうして自分探しをしながら大人になっていく。

「それが“自立”だと思うんですよね。徹底的にやることで自分勝手なところから自分を知って周りの中でともに生きる術を身につける。それをぼくは“卒業”って表現しているんです。」

今までのアートプロジェクトの中でいくつもあった「卒業」の場面。そういう場面を通して生徒たちは本当の意味で生きる力をつけていく。そして、それが本来の学校教育の中でつけるべき力。本来の学校教育がめざすべきものであるはずだ………。

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「え~、せんせい音楽の先生なのに、さんすう出来るんだ!」

中平教諭と話しながら、かつて私自身が小学校の音楽教諭をしていた頃、低学年の子供にそう言われて愕然としたことを想い出した。もう15年も前のことだ。「おんがく」や「ずこう」は「勉強」ではない、そういう意識がこんなに小さい子供の中にもあることがショックだった。

自分自身、音楽や美術で育てられた感覚が「教科学習」に役立ったことは数知れない。

現在は中学生の家庭教師をしているが5教科の指導で子供たちを見ていると、数学や理科の文章題が解けない子は文章が読めない、わからない。読解力の不足と共に、問題を読んで頭の中にイメージがわかないから図や表でその現象を表現できない。表現力の欠如が原因だ。細かいところに注意する「観察力」も影響する。

読解力を助けるイメージ力や表現力などは音楽や美術で育つ力だ。また、表現の対象をじっと見て分析することで育つ観察力も、あきらめないで問題にじっくり取り組む集中力も、音楽や美術の表現を完成させようとする中で得られる力だ。

合唱や合奏で音を合わせて曲を練り上げる。共同製作で大きな作品を創り上げる。人と「力を合わせる」事の心地よさを感じ、自分1人では出来ないことも出来る可能性を感じる。そこで育つのは社会で生きていくために大切な「コミュニケーション力」。「創作」の課程や「表現の工夫」のなかで、人と関わり、自分にない価値観とぶつかり、それを取り込んだり折り合ったりしながら生まれてくる力だ。ひとり机に向かって黙々とやる「勉強」の中からは決して育たない。

逆に、音楽や美術をやっていく上で、国語や社会・英語、時に理科や数学の力が必要になることもある。教科を越えて「知識」というものは絡んでくる。このすべてをバランス良く獲得しようというのが「ゆとり教育」で詠われた「総合学習」の狙いだ。

けれど、点数ではかる「学力」重視の傾向がこの狙いを妨げた。いろいろな力は長い期間をかけて積み上げる中でつく力であり、最終的にはそれが学力に限らず「生きるために考える力」に結びついていく。けれど結果がすぐには出ないため、結果を急ぐ点数重視の社会は「ゆとりはダメだ」という世論を早くから展開し、それが総合学習の本来あるべき姿をどんどんゆがめていってしまった。

それでは、テストの点を重視したら学力はつくのか。

教えている中学生たちは一様に答案の点数の部分を折り返して隠す。点数を隠しても×のある答案は丸見えなのに。生徒には「点数」しか見えていない。50点なら50点。自分の力は「50点」。

まったくわからなくて出来ない問題が50点分の×なのか、それとも勘違いやちょっとしたミスでの×なのか。それを見ようともしない。そこで「どうして自分が50点?」と「考える」こともない。「悔しい」という気持ちさえもわいてこない。「なぜ、どうしてこの答えがこうなるのか」それを理解しただけで、子供たちはものすごく嬉しそうに微笑むのに。

音楽や美術で「出来る」「自分で満足する」までくり返し練習し、訓練し、その中で感じる出来ないときの悔しさや出来たときの感動も、「テスト」では関係ない。そうして子供たちは「点数基準」の判定になれ、自分の中に自分で基準を持てず、目標も持てず、◯か×かの2者択一の判断基準の中で良いか悪いかで生きていくしかない。

テストが出来る子は、頭がいい子。点が取れなかったらダメな子。

だけど、この先生きていくときに、◯か×かだけじゃない選択肢は山ほどある。50点の子が50点の生き方しかできないわけじゃない。100点の子よりも輝いて生きている人はいっぱいいる。

「生きる力」の評価基準は「子供たちの姿」だ。わかったときの笑顔、成し遂げたときの輝いた顔、その表情。生きるために本当に必要な力は「テストの点」では決してはかれない。

中平教諭の鳴らす警鐘は、これを如実に伝えている。子供たちの表情を見取って評価しながら、社会の一員として、この世に生きる者として、立って歩いていくために必要なものをちゃんと見きわめて与えていかなければ………と。

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「あのですね、今の世の中ちょっとリッチな気分になりたいですよね。だから、教室中をお金でいっぱいにするんですよ。」自らのデザインしたお金を誇らしげにかかげる大日向リーダー。男の子の5人組のチームは、机に向かってひたすらにお札のデザインをしていた。

壁一面・バスタブいっぱいのお札を作って、来た人に「リッチな気持ち」になってもらいたい。自分たちの夢のほかに「来てもらうお客さん」への想いが重なっている。教室いっぱいのお札を作るには、一体何枚製作するのだろう。ちょっと考えると途方もない。けれど生徒たちには迷いがない。真剣なその姿は、声をかけるのさえもとまどうほどだ。

不思議な世界を作りだそう……という目的の隣の男子4人チームは教室中にトンネルを造ろうと話し合う。話し合いの声に耳をかたむけてみる。

「不思議とかえ~っとかいう感じを出すには、ただトンネルあるだけじゃなくて“中をのぞく”事が出来たらいいね。」「そう、好奇心。何かあるんじゃないかなって感じ。」「どうせだったら理科室ぜ~んぶおおっちゃおうか。」「それは時間かかるねぇ、前日の準備大変だから、前日お泊まり会やるかぁ。」「合宿、合宿!」

話が弾む4人の男子と支援する信大教育学部美術科の二人の学生。学祭のノリだ。

さらに話は続く。「じゃぁ、トンネルの高さはどうしよう?」「そうだなぁ、しゃがむと腰が痛くなる人もいるから2メートル?」「いやぁ、教室だと192センチが限界だよなぁ。」

ああ、ここでも。自分たちの製作をお祭りのノリで楽しみながら、見てくれる人に思いやりを持ってトンネルの高さを考える心が育っている。自分たちだけが楽しめばいいのではない、だけど自分たちもちゃんと楽しんでいる。

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「美術の時間って、自分のやりたいことが出来る時間だから好きだった。」「作ることって楽しいし、考えることがいっぱいある。その中で人とのコミュニケーション力も育ってくる。」

この日の授業終了後、トンネルチームを支援している二人に話を聞いていたら、別のチームを支援している3人がそこに加わってきた。この5人は、信州大学教育学部の美術科の学生。善光寺門前の古い蔵を利用してギャラリーやワークショップを自主的に主催しているMINIKURAERT(ミニクラート) のメンバーだ。

「教育実習で中学生が、美術の時間をすごく嫌がる姿がショックだった。」「きっと、誉められたことないんだろうね。上手い下手、とか点数で評価されるのに慣れちゃってほんとの楽しさ感じる機会がなかったんだろうなぁ。」

自分たちは図工や美術の楽しさを知って、美術教師の資格をとる課程にいる。自分たちの生きる軸だった美術が学校の教育から消えてしまったら悲しいという。

彼らは中平教諭の持っている危機感に呼応するように今回協力者としてここに参加している。こういう世代が後に続き、次に繋ぐ活動をしている。こんな風にたくさんの協力者と、今年もさくらびアートプロジェクトは進行していく。

10月に向かって各自の夢が進行していくその中で、中平教諭の想いや生徒たちがどうなっていくのか、それはまだわからない。10月の発表を迎えたあとで、みんなの中にどんな想いが育ち、なにが生まれるのか。その表情や成果の中に中平教諭の美術指導の成果と真価が見えてくるはずだ。

今年、その10月までもうちょっとこのプロジェクトを追いかけてみようと思う。

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ながのアートプロジェクトHP

(写真・文: 駒村みどり)

風に乗って何やら派手な音楽が聞こえてきた。その音はこちらに向かってどんどん近づいて来る。やがて1台の送迎バスの姿。バスからはただならぬ音量で音楽があふれ出している。かなり離れているのに低音が下腹に響く。
あ。これが噂の「爆音バス」か………。それは想像以上の衝撃だった。

「爆音バス」と名づけられたのは、ラガーマンたちをグランドに送迎するためのバス。運転するのは「菅平プリンスホテル」の2代目大久保寿幸さん。送迎の道すがら音楽を大音量でかけて「激励」しているのだ。彼が「すがだいらぷりんす」というTwitter名でつぶやくのは兄貴のような温かいまなざしで見つめる、菅平を訪れるスポーツマンたちへの励ましの言葉。

そんな彼が今挑戦していること。それはある意味、菅平のみでなく信州の……あるいは、社会全体への大きな一石となるのかもしれないと思う。

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「菅平の爆音バス、って名物になるといいね。そう思ってやっているけど、周りとの関係もあってこれ以上はあまり派手には出来ないかなぁ。」
「いやすでに充分に派手だと思う……昔から変わってないよね、そういうところ。」

大久保さんの言葉に反応したのは今野さん。お二人は子供のころからずっと菅平で育ち、この地を見て感じてきた。

大久保寿幸さんは、7月はじめ菅平高原で行われた「セガレとセガレのBBQ」~様々な職種の「セガレ(2代目、3代目の跡継ぎたち)」たちの集まり~に菅平の観光ホテルの2代目として参加、そこで菅平の「これから」について語ってくれた。

それをBBQの記事に記述したところ、1人の女性がTwitterで声をかけてくれた。

【anuka_angela】 おはようございます! 私も菅平を故郷とするセガールです。友人が頑張ってるのを見ると嬉しくなりますね!素敵な記事にして読ませてくださって、ありがとうございます。

それがanuka_angelaこと今野真由美さんだった。菅平で育った彼女は長野を離れて大学進学し、卒業後長野県に教師として戻ってくる。けれど、教職のいろいろで体調を崩し退職、再び地元を離れ大学院に学ぶ。その後、結婚して今は菅平を遠く離れた秋田県で子育てしながらも故郷の菅平を想っている。

【anuka_angela】来月帰省しますよ。では菅平プリンスホテルで(笑)
【suga59】スゲー!つながってる!! 神様がくれた出会いだわ(^_^) 

……というわけで、今野さんのお盆帰省に合わせて菅平での「初対面」と大久保さんとの「取材再会」が成立した。

「小学校の時の担任の先生はめちゃくちゃだったよね。伊代ちゃんが大好きで、教室で毎日でっかい音で伊代ちゃんかけてた。」
「そうそう、カセットテープ二つ入れられるラジカセ買ってきて、それでみんな毎日聞いてたよな。『二つも入るなんて、なんか今までよりいい音する感じ?先生スゲー』なんて言ってたっけな。」

……もしかして、爆音バスのルーツはここにあるのだろうか?

2人は、幼稚園から中学校までずっと同級生だった。菅平には小中単級の学校がひとつあるだけ。だから同じ学年だと9年間は必然的に「同級生」になるわけだ。

「小学校の時には、山に入って遭難しそうになったこともあったよな。」
「最後は川に沿ってくだって、やっと出てこられたときに『あー良かった』って……。」
「先生自体が道わからなくなってたんだよな、あれって。」
「わたしたちの今ってあの先生の影響大きいのかもね。」
「あの先生好きだったよ。めちゃくちゃやったけどしめるところはしめてたよな。」

授業時間に山を歩き回る生徒と先生、めちゃくちゃだけど人間味あふれる先生、そんな先生の元で小学生時代を過ごして彼らの“今”がある。

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彼らが生まれ育った菅平高原は大笹街道が通り、太平洋と日本海を結ぶ重要な交通の拠点でもあった。江戸時代に本格的に始まった農地の開拓のため各地から移住してきた人々によって今の菅平がある。

夏のラグビーのメッカ。そのはじまりは法政大学のラグビー部を昭和6年に誘致してからのこと。一方、ウインターシーズンはスキーのコース数36、80年を超えるという規模・歴史的には申し分のないスキー場だ。けれど、その「申し分のないスキー場」「夏のスポーツのメッカ」である菅平が抱える問題はとても大きい。

たとえば菅平まで30分というところに住んでいる私が「スキーに行く」とき菅平は視野には入らない。私の関東・関西のスキー仲間も同じ。彼らは「長野でスキー」といえば白馬・志賀高原・野沢温泉。それはなぜか。

かつて、菅平に隣接する須坂市の野球少年たちが菅平でスキー合宿をした時、私は請われて指導者として参加したことがある。

野球少年とはいえ、3~4年の子達はまだスキーが上手くないので初心者コースを利用するのだが、リフト1本分しかない短さなのであっという間に滑り降りてしまう。
あきてしまって別のコースに移動するとゲレンデの連絡がとても悪く、子供たちはスキーで「歩く」のが大変。ようやく別のコースに出たらそこもまた短くあっという間に終了。ちょっと滑れるようになった子供には物足りない。初心者には移動が辛い。

せっかくたくさんのコースを抱えているのに、なんでもっと連絡良くしないんだろう?志賀高原の方がもっと広範囲に拡がっているけれど、「全リフト制覇特典」のように楽しみがあるから移動が気にならないのに比べ、菅平の一体感のなさってなんだろう?

「これだけのスペースに6つもの会社が入っていて……みんなそれぞれバラバラなんだよな……。」……と大久保さん。

あの時「菅平っていいな」にならなかったその理由が、その大久保さんのひとことでやっとわかった。そしてそれは、スキーの話に限らない。夏のスポーツでも同じようなことが起きていた。

菅平の「グランドマップ」(写真はその一部分)。夏のシーズン、スポーツ観戦に訪れる人のためのものだけど、菅平の「観光地図」として使われることも多い。

この地図を見るとグランドには番号がふってあって、それぞれが「どの宿泊施設のものか」わかるようになっている。ほぼ真ん中に1のグランド、そのあと2は?3は?と番号で追っていこうとすると2は見つかるけど3はそばにない。1の周りに60台、70台の番号が並ぶ。色分けされているけれど、その意味もよくわからない。

「これね、番号は『グランドの出来た順番』になっているんですよ。」と大久保さん。

「おまけにこの地図、グランド持っている宿泊施設しか載ってない。そこに泊まる選手は宿泊施設がバスで送迎するから地図は要らない。これ使うのは試合を見に来る親御さんや外部の人達で、必ずしもここに載っている宿に泊まるわけじゃない。番号の不規則さ、目印のなさ。使う人にとってとても見にくいものになっているんです。」

確かにそうだ。私も菅平はよく通るので道は知っている方だけれど、この地図もらったときに目印を捜してしばらく考え込んだ。ましてやまったく土地勘のない人にはすごくわかりづらいものだ。

「この地図のこと、いつも言っているんだけどね。作っている人間は“自分たちはわかっているから大丈夫”と言ってこれがなかなか改善されなくて。」

……だけど、菅平って「開拓者」が入ってきて出来た土地ですよね?伝統とか歴史とかにはあまりこだわりがなさそうな気がするんだけど?

「元々あちこちからの開拓組が集まって出来た土地なんだけど、『自分たちが切り開いてきたんだ』という自負というか、誇りというか、そういうものすごく強いものがあるんです。バブル期にうまくいっていたので自分たちの親世代には特にそれが強い。菅平を離れるとそれがよく見えます。」と今野さん。

大久保さんや今野さんの視点は外から菅平を訪れる人達のもの。けれど、菅平で人を迎える立場の多くの人が「自分たちにはわかっているからいい」という視点であちこちを考えていたら……私のように30分という至近距離にいながら「スキーは菅平」にならないのだから、遠くからわざわざ訪れる人にとったらなおのことだろう。

そうでなくても、今、スキー産業は落ち込み続けている。かつてバブルの頃、都会からスキーに殺到してリフト待ちが1時間2時間だったあの時代はもう過去のこと。

「菅平は、まだ夏のスポーツがあるから落ち込みがひどくない。でも、今この時に何とかしなかったら……春や秋、そこも視野に入れた菅平を考えなかったら手遅れになる。」という大久保さんの懸念は強くなるばかりだ。

しかし……「かつての華やかな頃」を知る親世代と、「未来に危機感を持つ」子世代との意識の差は……簡単には埋められない。

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「日本に『国技』ってあるでしょ?あれと同じように菅平の学校には『校技』ってのがある。スキーがそれ。」と大久保さん。

子供のころから当然のようにスキー。選手も大勢輩出したろうし、今の菅平にいるスキーの指導員は地元の人間が大多数。

「だけど私はスキーは大嫌い。なんでこんなことしなくちゃいけないかってずっと思ってたし、すごくいやだった。」と今野さん。

スキーは中学の部活にも大きな影響を持っていた。ゲレンデに雪のないシーズンは男子はサッカー、女子はバスケ。シーズンになると全員が「スキー部員」になる。
本来、一般の中学生は部活を「選択」して入部する。スポーツが好きな子だけじゃない。音楽や美術をめざしたい子もいるだろう。今野さんのように「スキー嫌い」という子もいるだろう。しかし菅平の中学生はみんな一緒。「それが常識」だった。

さらに数年前のこと。部活を一年中「スキーに統一する」という通達が学校から家庭にあった。これに対して、PTAからはいろいろな声が上がった。大久保さんもOBとして、PTAとして、声を上げた。

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思い起こせば、自分が生徒だった頃は「何のために勉強をするのか?」「何のためにスキーをするのか?」を自間自答しながら、自分が生まれる以前から始まっていた校技スキーの意義・概念を理解できないまま、受け入れる事ができないままに、ただ何となく活動に取り組んでいたように思います。(中略)

今回の中学生夏部活の件において、子供たちを取り巻く状況を一変させてしまったスキー活動の運営方針については、校技スキーの行く末を憂慮せざるを得ません。このような現状が、校枝スキーを「負の連鎖」に導くのではないかと危惧してならないのです。

現在の子供たちに対する教育・指導の内容は、次の世代の未来を創り、さらに、この世代の子供たちが親になって、そのまた次の世代を育ててゆきます。「教育は国家百年の計」と言われる所以です。

今回の件で、勇気を持って主張した生徒の意見が却下され、「大人に何を言つても無駄」と言葉を飲み込んでいる子供達が多数存在しています。意志が尊重されず、校技スキー活動に疑間を感じながら取り組まざるを得ない現在の生徒達が、菅平・峰の原の親となった時に『負の連鎖』が具現化され、校技スキーは衰退の一途を辿るのではないでしょうか。      (大久保さんのPTA文集原稿「思うこと」より抜粋)

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結局、通年スキー部はなくなったが、今まで秋までやっていたサッカーとバスケは春の地区大会までになり、その後夏からスキーシーズンの間は全員スキー部に……という「改変」が実施された。

けれど……。子供たちの夢は、スキーだけで実現するものじゃない。たとえ1人でもボールが蹴りたい子がいたらサッカーの機会を与えたい。速い球を投げられる子がいたら、甲子園夢見るかもしれない………。

実際、当時の中学生にはものすごく速い球を投げる生徒がいたし、サッカーの上手な女の子もいた。本来だったら「やりたいこと」の機会を与えるのは学校。けれど、菅平の学校でそれはかなわない。大久保さんは「菅平の子供の未来」を考えてひとつの行動を起こした。

サッカー少女と野球少年。2人のために「大人」を集めて一緒にゲームをする環境を作った。「菅平野球軍」「フリースタイルフットボールおしゃれ組」……そして、それらのために補助金をとり、菅平高原を拠点にしたスポーツクラブ設立をめざした。

メンバー集めから難航。地元の協力はなかなか得られない。スキーを推進する人達からは歓迎されない。体育協会への報告書作成もお役所仕事に翻弄される。
が、「地元の子供たちのために」という思いに突き動かされて活動は3年目に入った。

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「菅平は、夏、スポーツの選手が集まってきている。けれど昔に比べてスポーツマンの質も変化していて。」

「夏の菅平」も今の菅平を支えているのは確かな事実だ。しかし、そこにもただ喜んでばかりいられない「現実」がある。
かつてのようにスポーツの技術と同時に先輩後輩の関係から人やものに対しての「精神性」を育成されたスポーツマンばかりではなくなった。菅平のメイン通りだけでなく、グランドや宿のそばの細い道までも拡がって歩く。近くの畑の農家の人々がトラクターで通りかかろうとお構いなしに。当然、メインストリートでも車は大渋滞。

「家の近くで夜遅くまで、大声で騒いでいる人も多いですよ。狭い道なのに、そして農家は朝早いから夜は早く休まなくちゃいけないのに、その騒ぎで寝られないこともあります。」「そういう人達がいるから子供のころは夕方になると道を歩くのがこわかった。」と、実家が農業を営む今野さん。

「そう、菅平を支えているのは観光だけじゃない。農家の人達だって大切な存在。だけど、夏の誘客を考えたときにスポーツマンが来てくれることも必要。観光と農業の関係性がとても難しい………。」大久保さんがそれに言葉を添える。

「菅平の農家は冬はゲレンデの食堂などで稼いでいるんだけど、スキーが落ち込んだら夏に頑張るしかない。夏、農業で稼げなかったら冬の食堂の設備投資のための借金返せないし………。」今野さんが語る菅平の農業の問題点は深刻だ。

菅平の抱えている課題は大きい。「冬」と「夏」のあり方、「農業」と「観光」のあり方、「親世代」と「子世代」の感覚の違い………。そしてさらに、それぞれの思惑や願いが渦巻く中、そのバランスを考えた上での「菅平」のこれから。

けれど、それらのひとつひとつを見ていくと、これは菅平だけの課題ではないように思える。たとえば、「町並みづくり」「学校教育」「地域おこし」そして「社会のあり方」……。今までの伝統と新しいものとのバランスや融合、様々な立場の人達がそれぞれに主張するものをどうまとめていくのか。

今の社会全体が抱えている、様々な問題の根っこにあるものが、この「菅平高原」のあり方に凝縮されているように思う。

この日。あっという間に時間はすぎ、それぞれの場所に戻ってお互いに尽きない想いをTwitterでつぶやき合った。
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【anuka_angela】駒村さん(@komacafe)と、旧友菅平プリンス(@suga59)と会った!すごいエネルギーをもらって帰ってきた。異業種間交流はすっごく楽しかった。
【anuka_angela】……で思ったのは、儲けることは決して悪いことではないんだが、もう個々の利潤だけ追求してても発展はないってこと。全体の発展を考えて初めて、個々が潤う時代だな。
【suga59】このような情報交換が菅平内で出来れば面白いんだけどね~
【komacafe】「全体最適」の考え方。社会全体で考えていくべき問題なんですよね。
【suga59】そう!ウチのホテルだけ生き残っても、他が淘汰されれば菅平の集客力が落ちるってことだし、そうなればリフト会社の経営がより厳しくなるし、リフトが動かなくなったら菅平は壊滅する
【komacafe】それをみんなで考えるようになるためにはどうしたらいいのかなぁ。
【suga59】うーん、今は、いろんな活動を通して活躍することでミンナに認めてもらって、賛同者を増やして…と考えています(´∀`)そのためには稼業を揺るぎないものにしなければいけませんね!
【komacafe】私はそういう人を見つけて繋げて、拡げるお手伝いを……それぞれが出来ることをするってことかな。
【suga59】いろいろ教えてください!!ミンナが笑えるように
【komacafe】合言葉は「ミンナの笑顔」。
【anuka_angela】「最大多数の最大幸福」、社会全体の課題だよね。良いモノやサービスを提供するのは大事なこと。例えばホテルが良くても、スキー場のサービスが悪ければお客様は来ない。夏も同じ。みんなで協力することが不可欠だよなー。

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この話には「結論」はないし、まだ先も見えない。けれどこれは菅平の中で、そしてもっと言うと社会全体至るところでこの先「尽きることなく」討論されていくべきなのだろうと思う。「今」から生まれる「明日」のために………。

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観光(かんこう)とは、一般には、楽しみを目的とする旅行のことを指す。語源は『易経』の、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節による。「tourism」の訳語として用いられるようになった。(ウィキペディアより)

「国の光を観る」ということは、「その国の王の立派な人徳と、その王による国民の教化の美しさをみる」(これが、観光の意味)ということであり、「用て王に賓たるに利し」とは、「それだけの知力を持った人物であればこそ、王の賓客として遇せられる臣となることができる」(これが、観光の目的)ということ。

つまりは、その地にある光を見、その地の人々の徳に触れ、それによってその人も学ぶ。土地ばかりでなくそこの人々もまた「光」であるべきで、訪れたものが「また来たい」と思うような経験をそこですること。それが本来の「観光」だ。

最初に登場した「爆音バス」は、大久保さんが放つ光のひとつ。

【suga59】バスでAKB流してたら、違うグランドに送ってしまい、選手達はそこから走って移動しました…。しかしラガーマンは「いいアップになりました!!」と言ってくれた

大久保さんのツイッターにはこんな風に爆音バスで送迎したラガーマンたちの姿が登場する。彼らにはきっと、違ったグランドから走って移動することさえもいい「思い出」となったに違いない。爆音バスを知る人に聞くと、大久保さんはバスの子達だけでなく、信号待ちの時にもバスのドアを開けて道ばたのスポーツマンたちにも声をかけ続けているという。

「AKBで爆音バス楽しかった\(^^)/帰りのテンションなら最高に楽しいですww」

これはそんなラガーマンのつぶやきのひとつ。彼にとっても大久保さんの「おもてなし」は心から嬉しく楽しい思い出のひとつに刻まれたのだろう。→ 爆音バスの様子(Youtube)*ボリュームにご注意

帰るとき、ホテル前のベンチに3人のラガーマンが座っていた。日に焼けてたくましい筋肉を持つその青年たちは、私たちが前を通るとさっと立って「こんにちは!」と笑顔で挨拶してくれた。

「この子たちは今年の優勝候補だよ、強いんだよほんとに。」

そういって3人を紹介する大久保さんは、自分のことのように嬉しそうだった。

夏の合宿、冬のスキー修学旅行……「すがだいらぷりんす」に出会った人達は、ここに菅平の「光」を見、そしていつかまたきっとこの地を訪れて大久保アニキと語り合いたい……と思うに違いない。

菅平に生まれ、菅平に育った「すがだいらぷりんす」の想いはこの地を訪れる人達に菅平の光を届けること。そのためにはまず自分が光となり、輝いてちゃんと人を照らせるようになること。その光を菅平のみんなと共有し、「みんなの笑顔」があふれる事。

まだまだ越えなければならない山はたくさんある。 “プリンスの挑戦”はまだまだこれからも続いていく。「できるひと」が「できること」を。みんなのために力出し合う菅平をめざしてその輪を少しずつ拡げながら。

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菅平プリンスホテル→HP

写真・文 駒村みどり

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」
              (なかがわよしの 書き下ろし掌編小説より抜粋)

7月3日 19時開演  「傘に、ラ。」Vol.17   今に生まれて今に死ぬ 
出演:outside yoshino/タテタカコ   共演:なかがわよしの   

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「なぜ、この二人かって?
 だって、この二人って『今を燃焼』しているじゃないですか。」

ステージをじっと見つめて音に合わせて身体が揺れるなかがわ氏。
その表情は目の前のステージからダイレクトにガンガン飛んでくる音の固まりを受けとめて、生き生きと輝いていた。

なかがわよしの氏が『今』をテーマに企画・開催して17回目を数える『傘に、ラ。』追いかけて4回目の今回の取材はネオンホールで二人のゲストを迎えてのライブ。

「今に生まれて今に死ぬ」というタイトルを冠し、outside yohinoとタテタカコを迎えた「傘に、ラ。」としては珍しい有料イベント。

そこでなかがわ氏は表には一切登場しなかった。

「なかがわさんはステージ出ないんですか?」「いや、そんなおそれおおいじゃないですか。でも、自分はちゃんと小説を配って、それから気持ちの上では共演していますよ、ちゃんと。」

最初は、その意味がわからなかった。
けれども、ライブのステージが進むにつれて、わたしはなかがわ氏のその想いがわかってきたような気持ちになった。
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最初のMCが、ギターの強烈な和音にかき消される。
outside yoshinoのステージのオープニングはなんともつかみきれない語りから突然たたきつけられたようにはじまった。

outside yoshino
メンバー:俺   影響を受けた音楽:今まで聴いて来た全ての音楽と雑踏の騒音
音楽スタイル:エレキギターと声   レーベル:吉野製作所   
レーベル種別:アマチュア 

                (myspace.com/bedsideyoshinoより)

outside yoshinoのプロフィールを捜してみても、ようやくこれを見つけることが出来ただけ。「そんなことは、どうでもいい」という声がきこえてきそうだ。

たたきつけるようなギターの音と、outside yoshinoの叫びに似た歌声が客席に降り注ぐ。まるで機関銃の一斉射撃を受けるような衝撃。最初はただ「かっこいい」と思った。だけど、聞いているうちに、「かっこいい」から次第に離れていく不思議な感覚に陥っていった。

はじめてギターを手にした15才の不安定な少年時代。隣の家の犬をライバル(?)にしてひたすらギターを弾き続けた時の歌。聞いているうちにyoshinoのギターに反応して必死でほえる犬がそこに見えたような気になった。自分に挑んでくる得体の知れないものに対してただひたすらにほえ返す犬の姿は、何かをつかもうと必死になって、自分の中にあるぐしゃぐしゃなものと闘う15才のyoshinoの姿にも重なってくる。

次々に流れる言葉たちの中で、わたしの心に突き刺さった歌詞。

「弱いものから順に死んでいくのが当然なんだってよ………
 冗談じゃねぇぞバカ野郎 殺されてたまるか。
 言いなりになって捨てられるために生きてきたんじゃないはずさ……」

                      (「ファイトバック現代」より)

家に戻って、ライブの写真をPCに取り込んで見た。写真は「時」の中に流れていくoutside yoshinoのその瞬間……「今」を切りだしていた。

その表情は、突き放したような鋭さを持つ歌詞から感じる強さではなく、時には泣き出しそうな、時には祈るような……そんな種類のものだった。

「『傘に、ラ。』のテーマである『今』って、吉野さんにとって何ですか?」

ライブのあとで、“吉野氏”に戻ったときに聞いたこの問いに、返ってきた答え。

「え?『今』以外にいったい何があるの?」

その答えはあまりに強烈な直球だったので、わたしは受けとめた瞬間しびれて次の言葉が継げなかった。こんなに潔い「今」の表現って初めてだ。

「僕の音楽はね、ブルースなんだよ。」

この一言を聞いたときに、outside yoshinoの音楽を聴いているうちに単なる「かっこいい」から離れていった自分の中の不可解な感覚が見えた気がした。

あったかいのだ。彼のギターの音は。限りなく優しく、その鋭い歌詞を包み込んでいたのだ。激しくギターをかき鳴らすoutside yoshinoとギターは一体になって、祈りや叫びにも似た歌声を包み込み、それが受けとめるこちら側に「届けられる」感じ。

それは、「すごいアーティスト」が発する音楽を受けとめる、という感じではなくて一人の人間が「今」を必死で「生きている」その感覚の中に一緒に浸かっている感じ。

必死で何かに向かってあがいて、その中で泣きたくなったり、叫びたくなったり、そんな風に人間が生きている。ステージのoutside yoshinoも、受けとめるわたしも。

その言葉に出来ないものが、outside yoshinoの音を通して自分の中にある感覚を呼び起こしたのだろう……。聴きながら、やっぱり、今、必死で生きている自分もまた切なくて泣きたくなるような、そんな感じで胸がぎゅーっとなっていった。

最初、「かっこいい~」と思ってただその音の力に圧倒されていたわたしが感じた不可解な感覚は、これだったんだ。

そして、これが……outside yoshinoの「今」の形。

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「こんばんは、タテタカコです。」

いつもタテタカコのMCはピアノの前に座ってこんな風に礼儀正しい挨拶からはじまる。縁あって、タテタカコのライブは何回か聞いてきていたので、そんな「いつも通り」のオープニングをごく自然に受けとめて、いつものように流れるピアノの音に耳をかたむけた。

だけど、そこに続く時間は、いつの間にか「いつものように」ではなくなっていた。

タテタカコ
ハードコア・パンクからアヴァンポップまで、あらゆる表現分野を内包し得る新種(あるいは、珍種)のシンガー&ソングライター。
ピアノと歌だけを携えて、剥き出しの表現者魂に導かれるまま独立独歩で歌って歩く。

           (タテタカコHP—プロフィールより抜粋)

「いつものよう」ではないこの感覚は、じわじわとゆっくりやってきた。
何回も聞いた歌、馴染みの旋律。なのに、なんだかちょっと違う。

さっきのoutside yoshinoのステージで感じたのとはまた違う「不思議な」感覚。
またしても聴きながら不可解な状態に陥ってしまった。

「タテさんにとって『今』って何ですか?なかがわさんから、このテーマでの話を受けて、どんな感じがありましたか?」と問うと、タテさんはこう答えた。

「そうですね……なかがわさんからこのお話をいただいたときに、吉野さんとできるって思って、今日までこの時に向かってず~っと来た、ってそんな感じです。」

そういえば。ライブの途中のMCで、タテタカコはこう言っていた。
「新しいアルバムを出したんですが、今回はいろんな人とやりました。なんだかものすごく、そうしたいって感じたので。」

今まで、自らのピアノと歌だけで構成してきたステージやCDだけど、今回は違った。「人とやりたい」という想いがぐっと生まれてきた。この「傘に、ラ。」でもoutside yoshinoとやるんだ、まずその想いがタテタカコをこの「今」に導いてきたようだ。

「今は、こういうことがだんだん楽しくなってきているんです。」

昨年、タテタカコは友人の石橋英子と曲作りをし、ステージを共に構成した。それから「音楽を知らない」カンボジアのたくさんの子供たちに「音」を届けに行き、たくさんの子供たちと出会ってきた。

「それは、とても大きな影響があったと思います。それまでわたしは人と話すことがとても怖かったんだけれど、人と一緒にって事が怖くなくなってきた。そうしたら、だんだんライブとか話をすることとか、楽しいな、って思うようになってきたんです。」

わたしは自分の中に生まれた「いつもと違う」タテタカコへの感覚がどこから来たのかがわかった気がした。

「楽しくなってきた」……これだ。

今までわたしは、タテタカコのステージはいつもある「緊張感」を持って聞いていた。天から降り注ぐものをタテタカコが受けとめ、それを伝えるのを神妙に聞く……そんな感じ。

だけど、この日のステージではそうではなかったのだ。

たとえば、植物は「光合成」と「呼吸」をして生きている。
呼吸で排出したものを再び光合成のために身体に取り入れ、そこで作り出した物をエネルギーに生きて成長し、排出したものをまた呼吸で身体に取り入れる。そのくり返しで植物は自然の光や水を材料に自給自足で生きている。

この日のタテタカコはまるで植物のようにその音を生み出し、吐きだし、また取り込み……を、自然の流れのままでやっている感じ。outside yoshinoの音は、光や水といった光合成や呼吸のための材料やエネルギー。そして生まれたタテタカコの音は、受けとめた観客の感覚と混じって再びタテタカコの中に取り込まれ、ひとつになってまた音として吐き出されていく。

それは「今」この時、この場だからこそ生まれてくる音。タテタカコの中にある「楽しくなってきた」という感覚がそれをさらに膨らまして、拡げていく。会場も、共演者も、一緒になって呼吸し光合成をして、ステージが進んでいく。

それは、タテタカコが「祈りの肖像」という曲を歌ったときにぶわっと伝わってきた。

花よ誇れ その身を燃やせ 人よ歌え その声届くまで 
雨よ踊れ 乾き満たし 流れ続け 続け 続け
人よ歌え 生まれ変わる歌を 歌を
       (「祈りの肖像」より)

以前のように「天から降り注ぐ」感じではない。大地に根をはったタテタカコが大地から吸い上げたものや、生きるための自然な営みから生まれたものを広い空間にぱぁっと放ち、聞いている自分もそれを自然に身体に取り込む感じ。


今までライブで感じたような「緊張感」はまったく必要なくなっていた。

「今日のステージ、なんだかすごく拡がった感じがしたんです。」 そうステージ後のタテさんに語りかけると、「そうですか、もしそうだとしたら、それはきっと一緒にやってくださったyoshinoさんと、今日来てくれたお客さんからもらったもののせいだと想います。」いつものはにかんだような笑顔と共に、そんな答えが返ってきた。

「今」を生き、「今」を楽しむタテタカコが中心になって「今」が渦と拡がりまわりを包み込む。

……これが、タテタカコの「今」のあり方。

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「傘に、ラ。」の企画者でもあり、ずっと「今」をテーマにこのイベントを持ってきたなかがわ氏が、なぜ今回このステージには立たなかったか。

この日、この二人を招いたステージを作りあげたこと、これ自体がすでになかがわよしのの「今」の表現の形だったんだ。

つまり「なかがわよしの」は自らステージに立たなくてもこの二人とちゃんと「共演」していたわけで、その想いを受けてここに来た二人の音楽から「今」がものすごく濃い密度で発信されていたということなんだ。

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」
               
最初に引用したこの一文は、なかがわ氏がこの日、配った小説の一節。
二人の「音楽」から生まれる力と、なかがわよしのの「小説」から伝わる想い。

「今に生まれて今に死ぬ」……今、この時を生きている。私たちは生きている。
過去も未来もどうでもいい。今、ちゃんと生きているんだから。こうして何かを感じて熱くなってここに共にいるんだから。

なかがわよしの、outside yoshino、タテタカコ。と、この日ネオンホールの空間を共にした人たちが生み出した「今」はこうして思い切り燃え上がり、その幕を閉じた。

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今後の「傘に、ラ。」 (注:記事掲載当時’10.7月の情報です。)

10年7月25日(日)
「傘に、ラ。vol.19 ~カラーコーディネイト講習会やります。~」
@ナノグラフィカ 時間;13~15時 講師;一色はな

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.20 ~果樹園で朗読会。~」
@丸長果樹園 出演;植草四郎、井原羽八夏、なかがわよしの
詳細後日発表

10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」
@ネオンホール 詳細後日発表
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写真・文 駒村みどり

玄関で手作りのくす玉が、ひらひらと朴訥に祝いの言葉で歓迎してくれた。

「祝 まちとしょテラソ開館1周年」

小布施の町立図書館まちとしょテラソが今月7月で開館して1周年を迎えた。3日間開館記念行事が行われ、そのフィナーレが19日のシンポジウム。
タイトルは「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」。
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この日も一般の人々がたくさん勉強したり本を読んだりしている。ここはいつ来ても活気がある。シンポジウム会場はそんなテラソの東の一画。七夕ムードに飾られた館内にふさわしく、浴衣での受付は情緒たっぷり涼の演出。

正面には大きなモニター、サイドに記録用のビデオカメラが配置され、さながらテレビスタジオのような趣。図書館利用の子供が周りを興味深そうにぐるぐる回っている。
日常の図書館の光景に加わったお祭りのワクワク感とちょっとした緊張感。夏の日差しが大きな窓から差し込んでいる中、シンポジウムが始まった。

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「この写真は大正15年の小布施の町の真ん中を走る道の写真です。」
シンポジウムの冒頭に挨拶に立った小布施町の町長、市村良三氏の言葉と共に提示されたのは印刷された白黒の写真。

シンポジウムのテーマが「デジタル」なのに初っ端の極端なアナログ資料の提示に驚く。しかし、シンポジウムのサブタイトルを見るとその意図が伝わってきた。

「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
  ~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~

市村氏は、こういう古い資料が雄弁に物語ることを未来に繋げることの重要性を語る。つまり「未来に向かう社会」がよりよくあるための過去と未来のかけはしがデジタルアーカイブだと。ここでシンポジウムのテーマとサブタイトルの意味がしっかり絡まり合ってつながった。

続く、国立情報学研究所 丸川雄三氏による基調講演。

「たとえば、このまちとしょテラソは何となく本を読みたくなるような図書館。その何かしたくなる、というのが大切。あるだけで何かしたくなる、そんな風に“文化”を発信していくことで何かが生まれる土壌になる。」

そう話しながら大きなディスプレイに触れる。サムネイルの風景画が一気に全画面表示になり、さらに部分拡大も。トラの画像を拡大すると今にも食いつきそうな迫力に。

確かにこれは、いじりたくなる。

こういう作品は美術館で実物を見るか、美術全集のようなもので写真で見るしかない。が、ガラスケースやフェンスに囲まれた本物には近づくことが出来ず、美術全集では写真の画像の細部の陰影はつぶれてしまう。けれど、デジタルの映像はあざやかで、拡大しても細部までくっきり見ることが出来る。様々に作品を“いじって”いるうちに、いろんな“発見”もありそうだ。

「何かが生まれる土壌になる」……なるほど、確かにうなずける。

丸川氏は文化財をデジタルデータ化し、たくさんの人達がいろいろな形で活用できるよう研究を進めている。これをデジタルアーカイブと呼ぶのだが、「これは、記録のデジタル化と言うよりは、“電子記憶”と呼んだ方が適切」という。

単なる記録ではない、単純に文化財をコピーするだけでもない。そこに“情報”を加えて一緒にデータ化することでコピー(記録)ではなく文化的な財産として価値をもったひとつの新たなデータ(記憶)になる。「人の手による作業」というアナログ的なものが加わり、埋もれていた文化財が生き生きとよみがえる、それがデジタルアーカイブだ。

こうしてよみがえった記憶を活用しやすいようにデータベース(目録)を作り、そこではじめて、人々はこの新たな記憶を「コンテンツ(記事)」として活用できるようになる。誰もがわかりやすく簡単に記憶をたぐり寄せることが可能になる。

たとえば、ジンボウナビ。古本屋の町、神保町のガイドがタッチパネルで自由に呼び出せる。絵引きギャラリー。画面に並んだたくさんの画像から興味のある文化財にタッチしてその詳細を知ることが出来る。そしてさらに、まちとしょテラソにも備えてある“連想検索”「想-IMAGINE」。キーワードをもとに関係図書・情報を探すことが出来るシステムだ。

さらにコンテンツをもとに新たなテーマでまた別のコンテンツを組み上げる。それを「メタコンテンツ」という。その例として丸川氏が見せてくれたのは「葛飾北斎」というキーワードから情報を集めた「連想新聞」だった。メタコンテンツと聞いてもピンと来なかったのだけれど、「連想新聞」の話を聞いて思いだしたことがある。

わたしは教員時代、中3生の修学旅行の「栞」を作るときに生徒とこれをやっていた。目的地は京都・大阪。金閣寺・清水寺、USJ・海遊館……。1人1カ所を担当した生徒たちはPCでそれを調べ上げ、他の生徒がそこで何をどんなふうに見たらいいのかのガイドを創った。

USJではどんなアトラクションがあって、どこにどんなおみやげがいくら位で売っているか。金閣寺は誰がどんな時代になんのために建てて、どこが写真スポットで……などなど。まだPCの扱いにも慣れない生徒たちが、自分の行きたい場所のガイドを作るうちに思いもかけないデータを集め、それをコピペし自分たちで見出しや解説をつけながら創り上げた自分たちのためのガイドブック。

わたしは見ていてその発想の豊かさや、視点の面白さに感心した。教師が教えるという観点で作る栞はそれなりに意味がある。だけど、生徒たちが自分で行きたい場所を人に伝えたいという想いから創り上げたそれは、荒削りだけど「伝わる」「わかる」という点ですばらしいものだった。

「メタコンテンツ作りは、必ずしも専門知識が必要ではありません。」

丸川氏のその言葉に、わたしは大きく心の中で同意した。市販のガイドブックやテレビの情報から選んだ目的地について生徒たちはほとんど何も知らない。だから一生懸命に調べる。わからない、知らないからこそ掘り下げる視点は目新しい。そこから「生まれる」新しい発見・認識や価値観。

まさに、過去の財産を今によみがえらせ、未来に繋げるかけ橋。今を生きる子供たちが、過去に学んで新しい価値観を想像するためには大きな力となるはずだ。

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「今日の講演、学校の先生は聴きに来ているのでしょうか?」

丸川氏の基調講演で,このテーマは学校現場にもものすごく必要なものであることを感じたわたしは、講演後の休憩時に花井館長をつかまえて質問した。

授業で教え込まれることの多い「学校」の中で、自ら学んでつかむための大きなヒントがここにある。おまけにこのまちとしょテラソは小学校に隣接している。これだけハードもソフトも充実し,それを使いこなす人がいるすばらしい施設を活用しない手はないし、今日の講演も先生たちが聞いたら、絶対に現場で役に立つ。

だけど、答えは残念ながら「NO」だった。まちとしょテラソが今回のサブテーマにかかげている「100年後の小布施人へ伝えるもの」……その100年後の小布施人に繋げていくのは、まぎれもなくこの小布施町の子供たちなのに………。その子供たちを実際に学校で育てる者が誰も来ていない……。

それは、ものすごく残念でもったいないことだ。こんな風にどんどん発信しているパワーあふれるスポットが近くにあるのに。「外に飛び出す図書館」がある町で学校はいまだに外と繋がろうとはしていない。せっかくの発信も受けとめるべきところが受けとめないと繋がってはいかない。

それは、ここ小布施に限ったことではないと思う。いや、小布施でさえもまだ難しい課題なのだとしたら……まだまだ、「未来を作る子供たち」に過去の財産を繋げていくのは難しいことなんだなぁ……と、ものすごく残念に思った。

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休憩後、「小布施百人選」の紹介が花井館長から、小布施の町内旧家文書デジタルアーカイブ実例集が小布施史料調査会の小山洋史氏から、「小布施ちずぶらり」について開発者の高橋徹氏から、「鴻山文庫」デジタルアーカイブの紹介が国立情報研究所の中村佳史氏から発表された。ここではその概要を掲載する。

小布施百人選:小布施町を作った人々を100人選定。町づくりの想いと知恵を本人が語ったものを映像と書物にて「人物史」としてアーカイブ化。先人から学び、今を生き抜く羅針盤の役目を果たすものとして,また未来へのタイムカプセルとして考えていく。……100年後にはすべてが大切な宝物となるはず。 (花井館長)

町内旧家文庫:小布施町の旧家に眠る資料を集めてデジタルアーカイブ化。横浜国大の協力を得て、検索システムを整備。調査しているうちに新しい史料(葛飾北斎の書状)も発見された。 (小山氏)

小布施ちずぶらり:iPod,iPhone用に開発された地図アプリ。18世紀後半の小布施の古地図・オリジナルイラスト地図・Google Mapを切り替えつつ、GPSで現在地を表示しながら小布施の街を歩くことが出来る。いろいろな人の作った地図を活用して拡げる研究も進められている。(高橋氏)

鴻山文庫のデジタルアーカイブ化
:旧小布施図書館に眠っていた高井鴻山の遺産「鴻山文庫」をまちとしょテラソに整理・保管。人々が閲覧できるようにデジタルアーカイブ化。立体感のあるあざやかな映像として鴻山文庫がよみがえった。地方文化を支えた鴻山の「コレクション」の固まりを財産としてまとめた。(中村氏)

小布施の町の財産が……100年後につながるものが今このまちとしょテラソを中心に宝の山として積み上がりつつある、そんな感動を覚えた。もし、小布施を訪れる機会があるのだったら、是非まちとしょテラソに寄ってそれらを体感して欲しいと思う。

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3時間半に及ぶシンポジウムのラストは発表者すべてによるディスカッション。今日の濃密な発表に呼応するように深く鋭い質問が飛び交った。

「デジタルアーカイブ」はまだまだ人の中への浸透率が低い。プラスの面ばかりでなくマイナス面、デメリットも当然あり、それは発表者各自もメリット同様に明言していた。また、普及にはソフト・ハード両面や環境面での困難さも多い。その点を発信するもの、受けとめるもの、両者がきちんと理解し合い、ふまえながらこの先も進めていくことの大切さが語られた。

個人情報の問題・著作権の問題。古地図を扱うには差別の問題も。一般に「公開」すると、かつてグーグルアースのストリートビューで問題になったような様々な問題が浮上してくる。法規制や個人のプライバシーをふまえてこれらに取り組むことと「情報の公開」との間にはまだまだ課題がたくさんある。

さらに二つ、大きな課題が提示された。

「なぜ、小布施(まちとしょテラソ)からの発信」なのか。そして「なぜ今、この時に無駄かもしれないことに金をかける」のか。

この答えについては,きっと今すぐには明確な回答は出ない。100年先になってはじめて見えることに今地道に取り組んでいる過程なのだから。けれど、今回のパネラー各氏の回答の中に、今も大切な想いが……将来につながる想いが浮かび上がってきていた。それは、過去の大いなるものを今よみがえらせ、未来へと受け渡す地道な努力を積み重ねている各氏だからこその言葉なのだろう。

小布施は実験の大好きな町。まずやって見よ、と遊ばせてくれる町。人のためになるのだったら進んで「小布施モデル」を作ろうとする気質がある。もしかしたらそれは、北斎はじめ「よそ者」を受け入れるばかりかつかんで離さないおぶせびとのDNA……。福岡出身で自らも小布施につかまれた花井館長が語る。

おぶせびとの小山氏(氏は小布施で天明時代から味噌を商う穀屋の主人でもある)がそれを受ける。城下町でも門前町でもなかった小布施は、市で成り立ってきた町。情報や人やものが外から入ってこないと成り立たなかった町。入ってきたものを発酵させて生きてきた。だからよそ者大歓迎の町だった、と。

そんな小布施町が、公費をかけて一見報われないもの(無駄なもの)と思われるものになぜ取り組むのか?という質問に答えて花井氏。

「地球を作ったのは僕たちじゃない。過去の100年、未来の100年の中で今、僕たちが生かされている。僕たちは今の人達だけのためにサービスするのではなく、もっと長い物差しで公務にあたり繋げていくための努力をするべき。」

受けて丸川氏が今、文化庁を中心にした取り組みについて語る。
「日本が文化的なものをどれだけ発信するのか、それがとても大切になってきている。急がないと失われつつある文化遺産の維持が難しくなってしまう。」税金を使って文化事業に取り組むことが急務である実態と共に、「IT化によりコスト削減の効果も考えられる。そういう期待に応えられるだけの成果を上げないといけない。」と、公務として取り組むものの覚悟も。

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3時間半にわたるシンポジウム、最初は長いなぁ……と思っていた。

けれど、これだけの濃い中身と課題の提示、その検討の時間は気が付くとあっという間だった。多分、まだまだ語り尽くせない想い、聞き出したい問題、そういうものもたくさん残っていたに違いない。けれど、それらはこれからの小布施やまちとしょテラソの取り組み……「小布施モデル」から我々が受けとめるものだろうし、またそうしていくべきなんだろう。真剣に我々を先駆ける小布施の姿から見つけ出すものなのだろう。

最後に再び挨拶に立った市村町長はこう語った。

「今の世の中、ものの尺度になる物差しが小さくなってきている。だからこそ我々は、いくつもの様々な物差しを持たないと危険だ。今、空気を読むことが大切といわれているけれど、この“空気”に対抗できるだけのものがないといけない。そのためには様々な物差しが必要で、それを生み出していく取り組みのこれからに期待したい。」

人々の地道な努力と積み重ね。それは、決して表に華やかに示されるものではない。いつの間にか町の片隅で,家の中で、実用化されて活用されていく。けれどもこの蓄積があってこそ、未来を作る子供たちの活動につながっていく……。という司会の中村氏は最後にこう締めくくった。

「100年前から100年後へ。この理念を持って今、誇りに思い伝えるべきものを伝える努力をする。ここからがまた新たなスタートです。心して遊びましょう。」

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小布施という北信濃の小さな町。
そこに静かに、しかし熱く積み重ねられつつあるものたち。今はまだ、その価値も真価もわからない。もしかしたら風に吹き飛ばされる小さなチリのようなものかもしれない。

けれど、長い長い昔からのものを今、受け継ぎ、熟成し、発酵させながらまた新たな物を生み出し、そうしてこの先の長い長い年月を繋いでいく。出発は小さな吹きだまりかもしれないが長い時を経たその先に、それはやがて積み重なって地層を形成し、この先の時代を構成する大きな山へと変貌していくのだろう。

今を生きる我々は、それを受けとめ受け継ぐ。未来を生きる人のために。未来を作る人達のために。

「図書館は、今まで何処もみんな同じが当然でまったく“議論”してこなかった。もっとお互いに情報交換しつつ、それぞれの立場で違う業態があっていい。うちはうちで持っている情報がある。それを編集して自分たちなりの表現をしていくことだね。」

この日、すべてが終わったあとの懇親会で伊那図書館の館長である平賀研也氏はこうつぶやいた。

小布施町の試みから発せられるエネルギーが、伊那市につながった。これが長野県、さらに日本の国をおおって巻き込んで拡がっていくことで、新しい未来につながっていくに違いない。それを受けとめるのはわたしたち。そして繋げるのは子供たち。

小布施の真似は決してできない。まちとしょテラソと同じ事をやっても意味がない。この発信を受けたもの……図書館も、学校も、役場も、地域の住民もあらゆる職種の人々も……それぞれがそれぞれの立場でできる小さなチリの積み重ねをはじめること。

その「小さな積み重ね」がみんなひとつに集まれば山となり、長野県、日本、そしてやがては世界の宝となって100年後につながっていく。

まちとしょテラソの1周年は、100年後への第一歩をここに記して盛会に終わった。

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写真・文 駒村みどり

細い山道のかたわらに、おい菜のおかみさんから聞いた「クリンソウ」の看板。わずかな空き地に車を停めて、坂道を下っていくと……そこはまるでおとぎの国の世界だった。

木立に囲まれたその向こうには大池の静かな水面。そして、手前にはピンクのじゅうたんを敷き詰めたようにクリンソウの花畑。

夢中になって写真を撮って、時間がおしているので次へ向かおうと立ち上がった時、木立の向こうに何か白いものの影。ぱっと見あげると、そこには……白鷺の群れ。

何物にも染まらない純白の大きな鳥が、それも5~6羽飛び交っている。長野県では田園地帯の田んぼや川辺に1羽で佇んでいる光景は見かけることがある。けれど、こんなにたくさんの野生の鷺を見るのは初めて。まるで舞を舞うようにくるくると……最初は池の水面ギリギリを飛び回り、次第に高度を上げて空高く小さくなっていき、やがて青空に吸い込まれるように消えていった。

それはまるで、ひととき夢の中か物語の中に飛び込んだかのようで、しばらく私はそこを動くことができなかった。

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「ああ、大池のクリンソウ、見てきたんですか。
実は、あの花、かつてはあの池のまわりにびっしりと咲いていたのですが、持ちかえる人が出てしまって、だいぶ減ってしまったんです。ですから今は、吹いて飛ぶような種を採取し、それを11月にまいて保護活動をしているのです。」

そう教えてくれたのはこの大鹿村の旅館、赤石荘のご主人の多田 聡さん。この言葉にかなりの衝撃を感じました。さっき見てきたあの夢のような世界が、実は大鹿村の人びとの手によって守られているものであって、もっというと守らなくてはならない状況がそこにある……つまり、あの美しい光景を自分だけのために破壊する人がいるのだ……というその事実。

タイトルに揚げた「日本で最も美しい村」。これはNPO法人「日本で最も美しい村」連合に参加している村々のことです。この活動の概要はHPでこう説明されています。

近年、日本では市町村合併が進み、小さくても素晴らしい地域資源を持つ村の存続や美しい景観の保護などが難しくなっています。私たちは、フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスで最も美しい村」活動に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る活動をはじめました。名前を「日本で最も美しい村」連合と言います。

「失ったら二度と取り戻せない景観・文化を守る活動」。つまり、この活動に参加している村々は、「日本で最も美しい自分たちの村を誇りに思い、大切に守り、そして後世にその美しさを引き継いでいく決意表明をした」村々、ということになります。

多田さんのクリンソウの花の保護活動の話を聞いて想い出しました。青いケシの記事に登場した中村さんも、実は中村農園のHPを見るとその美しさを守る苦労をされているのです。

※花を摘んだり地面から抜いて持ち去る方がいますが、ご自宅へ持ち帰ってもすぐに枯れてしまいます。最低限のマナーを守り楽しい時間をお過ごし下さい。

太字で2行のこの文章に、中村さんはどんな想いを込められていたのでしょうか。かなりの困難の末にあそこまで丹精し、見に来る人びとのためにと心を砕いてきたのに、心ない人のためにその心と貴重な花が失われてしまうのです……。

クリンソウも、青いケシも。どちらも訪れる人たちの目を楽しませてくれます。それは「大鹿村」という場所にあるからこそ美しいのです。そこにいる人びとが心を込めて慈しんできたからこそ、美しいのです……。

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さて、多田さんと、先ほど中村さんのところで話題になった「大鹿村騒動記」の映画の話になりました。中村さんは、歌舞伎役者として出演されるそうですけど、多田さんも出たんですか?とお聞きすると……

「あ、出ましたけど、本当に一瞬ですよ~。ぼくの出番は村のリニアモーターの賛否についての討論会の場面でしたよ。ぼくの後ろから松たかこさんがお茶を渡してくれるんですけど、振り返りたくても振り向くわけに行かなくてねぇ……。」

いやぁ、それは大変でしたね!といった後で、「リニア」という言葉に引っかかりました。現在、国やJRを中心に東京と大阪を結ぶリニア新幹線の計画が進められています。そして、そのルートとして大鹿村をトンネルで縦断することがほぼ決まっている……らしいのですが。

「いや、じつは、村の者のほとんどがちゃんと説明受けていなくて。どうやらこの赤石荘のすぐそばを走るらしいんですが……まったく情報が入ってこないで、僕らも新聞の記事でようやくいろいろと解るといった有様なんです。」

その言葉にふたたび私は衝撃を受けました。リニアのルートについては大鹿村を通るということで、村を見守る山のどてっぱらに風穴を開けるという行為について、何とかならないものなのだろうか?と思っていた私は、もう少し詳しくその話をお聞きしてみました。

……なぜ、誰にも説明がないままにルートが決まってしまっているのですか?

「実は、トンネルが通るあたりの一帯は個人の土地なんですね。それもリニア賛成派の議員さんの。その人がその土地を売るといえば、誰も文句は言えません。誰に説明がなくてもそれで話が進んでしまうんですよ。」

確かに、その土地の持ち主が売るといったら、文句は言えないでしょう。けれど、売った土地にトンネルが開いて毎日そこを新幹線が通る。ずっとトンネルなら振動があっても騒音はそんなにないでしょうが、予定地は山と山の間に川が通る谷あいの場所。トンネルから一旦外に出てふたたびトンネルに入ることになるため、その騒音は谷に響いて村に襲いかかることは容易に予想されます。

それは、たった1人だけの問題ではありません。村全体に関わって来ることのはず。なのに、それについて村全体には何も知らされず、知らない間にルートが決まっているのです……そんなことが行われているなんて……。

「………たぶん、トンネルが通ったら、トンネルの影響を受ける釜沢地区の人びとは村を出て行ってしまうでしょうね。」

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釜沢地区と聞いて、私は2年前に見た光景を想い出していました。文化庁の支援プログラムの一環で大鹿歌舞伎について取りあげた時、赤石岳を間近で見たくて大鹿村の中心部からさらに4~50分のところにある釜沢地区に早朝、車を走らせたことがあるのです。

(これはその2年前の3月に撮った写真です。リニアのトンネルは、この右側の山を貫通するのです。)

まだ午前中の早い時間にそこに行ったにもかかわらず、そして、かなり山の奥深くの場所に踏みいったにもかかわらず、なにやら遠くの方から工事の音らしきものが聞こえてきていました。そのあたりではダンプカーやショベルカーが何台か作業をしていたのです。

「ああ、それは、ちょうどその頃に試験掘削が行われていたんでそれでしょう。実は、あの時の騒音がもとですでに一軒、大鹿から出て行ってしまったご家族があるんです。」

山に囲まれ、町から隔離されたかのようなこの村。村の面積的には長野県で三番目に大きいけれど、そのうちの98%が山林で、人が住んでいるのは残りのたった2%。それも山のあちこちに小さな家の固まりがぽつぽつと点在しているこの村には、会社や企業はありません。

かつては林業が主幹産業であったけれど、もはやそれでは生計が成り立たず、職を求める者は村を出るしかありません。残っている人びとは農業を中心にほぼ自給自足に近い生活をしながら、周りの人々と助け合って静かに暮らしているのです。

「日本で最も美しい村」の活動に加盟し、その豊かな自然や静けさ、遙か昔から受け継がれてきた大鹿歌舞伎の伝統を守りながら静かに生きてきた村に、大きな機械が何台も乱入して山肌を削る。想像するとそれはかなり痛々しいこと。

村の人びとに情報がなにも入らないままにこういうことが起きていて、映画にも描かれたように、「リニアが通る」ということに対して危惧の声があったにもかかわらず、それは音もなく静かに進められています。それでは一体なぜ、そんな理不尽が認められているのでしょう?

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大鹿村は、「限界集落」です。限界集落というのは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって社会的共同生活の維持が困難になった集落のこと。

「実際、ぼくと同じ年代のものはほとんどいません。子育て世代が村にあるかどうか。」

豊かな自然を守って、大鹿の生活を支えているのはほとんどが高齢の方。先のクリンソウの保護活動に当たっているのは、ケシを育てている中村さんや、おい菜のおかみさんや、OBの協力を得て活動する大鹿村の「商工会青年部」。

村の40才までが所属する青年部の部員は今、多田さんたった1人です。そして多田さんが40を迎える2年後には、 “無期限休止状態”になるのです。

「そうですね、工事が始まったら……村には仕事ができて、人が入ってくる、という『メリット』もあって、それに対しては……反対派も何も言えないんです。」

実際工事が始まったら。この山奥の村にも「仕事」ができる。そしてその仕事をするために工事の期間は人が増える。少なくとも「肉体労働」をする年齢層の人びとが村に入ってきて、しばらくの間そこで生活をする。食事を取り、宿を必要とし、それは村をある期間、活気づかせることになる。

つまり「限界集落」として子育て世代や働き手世代が少ないこの大鹿村が一時期であれ活気づくのは、確かなことに違いありません。

リニアの工事はある一定期間で終了し、やがて山を貫いて新幹線が走ります。村に残るものは、リニアの振動と騒音だけ。駅ができるのは山をくだった遥か遠くの飯田市街地。東京と大阪を1時間で結ぶことをうたい文句にしているリニアが1日にいったい何本飯田に停まるのでしょう?飯田という「田舎」に停まる利点はほとんど無い。さらにそこから客足がこの大鹿村に向かうこと自体、まったく考えられないことになります。

大鹿村を訪れる人びとは、その村の美しい自然と静寂に惹かれてやって来ています。工事で人が増えたとしても、工事が終わったあと、大きな穴があいて騒音と振動がやって来る大鹿村を、以前の常連さんが同じように訪れてくれるでしょうか?

それに対して、説明がないため村全体の意志統一や意志確認もできず、討論の場も与えられず訳のわからないままに、水面下でリニアの計画だけが着々と進行している。

それが今、大鹿村の直面している大きな問題なのです。……そしてそれはある意味、原発問題にも共通するところがあるのかもしれないと、ふと思ったのでした。

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赤石荘には、目の前に大鹿村の山々が迫る露天風呂があります。日帰り入浴が可能です。気持ちよさそうなその温泉に入る時間は残念ながら無かったので、そのまま多田さんにお礼をいうと赤石荘をあとにしました。

「あちこち工事中で大変で……生活するのには本当に困ります。」

赤石荘に着いた時、多田さんの奥さんがつぶやいていましたが、村の中心から赤石荘につながる道も、実は今「通行止め」です。青いケシを見に行く時にもあちこち通行止めだったのですが、大鹿村は古より崩落との闘いを繰り広げていました。

そういう崩落の危険性のある細い山道をようやく拡げ、飯田や宮田村からのルートが確保されました。けれど、私が帰りにそちらのルートを行こうとしたら、そこもまた工事中や崩落修理で通行止め。

大鹿村に至る道は困難を極めます。それが都市部から切り離された美しい自然や、伝統ある文化が守られている大きな理由でしょう。でもそれがゆえに都会の利便性からもまた切り離され、だから若い人手が流れ出ていくことになる。

理想と、生きる事による現実と。
たぶんこの問題は、今までもこれからも、日本のあちこちで途絶えることなく討論し続けられていくことなのでしょう。その「正解」は……繰り返される過去の歴史を見返すことでしか見つけられないのではないでしょうか。

1つだけ私にできることは、この問題を「対岸の火事」、「知らない土地の関係無い出来事」と思わず、自然と闘い、その豊かさ・美しさに心を砕いて守る人びとが、しかしそれゆえに生きるため、村の存続のための闘いも続ける宿命にある人びとがいる、ということを心に留めて行くこと。

美しい自然は、決してただでは得られません。豊かな自然は、一度破壊されたら元には戻りません。なくなった村に人が戻ることも容易ではありません。美しい自然はそれを愛する人たちの思いの上に守られてきたことを……そして都会の利便性はこうして失われたものの上に成り立っていることを……私たちは決して、忘れてはならない……そんな思いを胸に抱きながら、新緑の大鹿村をあとにしました。

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大鹿村HP http://www.vill.ooshika.nagano.jp/
日本で最も美しい村 HP http://www.utsukushii-mura.jp/
赤石荘 HP http://www.akaishisou.com/

「こっちですよ」

案内の声に導かれて、受付から一段高台にある畑に着いた時、まるで青い空のかけらがこぼれ落ちてちりばめられているのかと思った。

それは、青いケシ。
青いケシが何株も目の覚めるようなさわやかな花びらを拡げてそこに咲いていた。
「ヒマラヤンブルー」という名を持つ、ケシの花の畑だった。

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駒ヶ根の市街地を抜けて細い山道をぐんぐん登り、パワースポットとして注目のゼロ磁場、「分杭峠」を越えると今度は長い細い山道を下ります。それはかつての「杖突街道」。今は国道152号線ですが、国道とはいえ、横には中央構造線に添って鹿塩川が流れ、反対側には切り立った山がひろがるこの道は、所々で車のすれ違いさえも困難な細い山道なのです。

突然、右の川の方から車の前を横切る大きな影。「危ない!」と急ブレーキを踏んでみると、大きなシカが道を横切ってあっという間に左の山の中へ消えていきました。

ここは、南信州にある「日本でもっとも美しい村」の1つ、大鹿村です。
その名にあるように、山あいの道を走るとたくさんのシカに遭遇します。……そのくらいの、山道なのです。

そして、ようやく少し開けた場所に出てくると、道のまわりに畑や田んぼが拡がり人家もちらほら見え始めます。この国道沿いに点々と散らばる人家や学校。やっと開けた場所にでてきてホッとしたのもつかの間。今日の目的地は、ここが終点ではありません。

カーナビの示す道をさらに山の方に上ろうとしたら「崩落により現在通行止め」の看板。あきらめてぐるっと山に添ってまわり、もう一つ次の道へ向かうと、そこもまた「崩落により………」。
もしかしたら、目的地に到達できないの?とおそるおそる次の道へ向かうとそこは何とか登ることができそうです。

そこから車はまた天をめざします。
ここからは片側が険しいがけ。所々ガードレールもない場所があり落ちたらひとたまりもないのでしょう。車のすれ違いも難しい細い道で、対向車が来ないことを祈りながらひたすら上を目指します。

そうして延々30分も上った頃でしょうか。要所要所の小さな看板が案内してくれていたその場所にようやく到着しました。
「青いケシ」……その小さな看板にはこう書いてありました。

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「はじめて青いケシが咲いてから、今年で17年目になるよ。」

ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原にある中村農園。そのご主人である中村元夫さんは、ここで様々な花を育てて東京や大阪に卸す仕事をしていました。

青いケシとの出会いは切り花のカタログを見て。普通は標高2000メートルから3000メートルの、気温が25度以上に上がらない、しかし適度な雨の降る土地でしか育たないこの青いケシに興味を持った中村さんは、ここ大鹿村の自分の農園でもなんとかできるかもしれない、と日本では不可能といわれた青いケシの栽培に取り組んだのです。

青いケシは、種をまいて1週間ほどで発芽します。そして本葉がでるまでの約一ヶ月間に温度と水分の管理でものすごく手をかけねばなりません。初めての時に中村さんがまいた種は3000で、そのうちきちんと苗として育ったものは300未満……たったの1割だけでした。

さらに、その1割の苗を植えて大切に守り育て、花が咲くのは翌年の6月……1年以上の時を経て、ようやく「開花」を迎えることが出来るのです。その初めての花が開いてから今年で17年。中村さんが慈しみ育てた青いケシは今や5000株に増え、毎年梅雨の時期に当たる6月はじめから7月はじめまでの一ヶ月間、一斉にその青い花を開いてたくさんの人たちの目を楽しませてくれるようになっています。

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この青いケシは先にも書きましたが、高温に弱く、気温が25度以上に上がるところでは育ちません。ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原はギリギリで、昨年の暑さで弱ったりダメになったりしてしまった株もあるそうです。そこに加えて今年は春の天候不順で、例年は一気に5000株が開くのがだいぶばらついてしまったそうです。

「でもね、ばらついてくれた方が逆に長く花が楽しめるので、たくさんの人に見てもらえるしね。」

中村さんは1人でも多くの人たちが楽しめるように……と、そう言います。

以前は株や切り花の販売もしていたそうですが、5000株もの開花を一度に見ることのできるのは日本……いえ、世界でもここだけかもしれないという専門家のお言葉にもあるように、ここ以外の場所ではこんなに生き生きと育つどころかあっという間に花がダメになってしまいます。「見に来てくれる人」のためもあって今は外には出していません。

中村さんの農園で17年間かけて育てられてきたケシの花の中には10年以上も咲き続けている株があり、1つの株に10輪も咲く株がここにはいくつもあるのです。それもこのケシの専門家の方にいわせると本当に珍しい(奇跡に近い)ことだそうです。

「前はね、種まきをして芽がでてから苗を作るまでも全部自分でやっていたのだけれど、管理を仕切れなくて、5000株のケシの花を維持していくためにもいまは中川村にある育苗センターにお願いしてやっているんだよ。それでようやく、苗になるのが2倍に増えてね。」

中村さんが育てているのは青いケシだけではありません。もともと花の卸しで東京や大阪にたくさんの花を卸しているのですから、他の花も温度や日照など気をつけながら育てています。そのかたわらの青いケシ、なかなか苗に付きっきりで育てるわけにも行かず……2倍とはいっても、もともと種から苗になるのは1割だったのが2割になったというだけ。貴重で難しいことにはかわりありません。外部に苗を依頼するようになってその分費用がかかるようになったので、ケシの花の入園料500円はその「協力金」なのだそうです。

中村さんは、展示会などで一輪見るだけでも貴重なこの”花の宝石”の青いケシ5000株の維持を、見に来てくれる人たちのために毎年丹精込めてしています。ですから、実際毎年見に来るファンも多いようです。私がケシの写真を撮っていると、同じようにカメラを持った年配の男性が「今年はね、ちょっと色ノリが悪いみたいだよ。例年はもっと青が深いんだ。」と教えてくれました。多い時には1日1000人ものお客さんが押し寄せる事もあるとか……この深い山奥に……想像しただけでものすごいことです。

協力金500円を払うともらえる入園券を3年分まとめて提示すると入園料はただになるそうですから、もし見に行くのでしたらチケットは捨てずに記念にとっておいてくださいね。

今年は、先にも書いたように花のばらつきはありますが開花が遅かったので、7月終わりくらいまでまだまだお花が楽しめるという中村さんのお話でした。もし、機会があったら是非ヒマラヤの青いケシの神秘な姿を見に訪れてみてください。

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さて、この青いケシを育てている中村さんには、もう一つの顔があります。それは「大鹿歌舞伎の女形役者」です。中村農園のHPを見ると、中村さんの舞台写真が掲載されていますが、そのやわらかい笑顔を浮かべた横顔を見ると、なるほど、と納得します。

実は、今年の夏……この大鹿歌舞伎を題材にした映画が全国で公開される事になっています。「大鹿村騒動記」というその映画は、「大鹿村の歌舞伎に取り組む」原田芳雄さんが主演で、昨年の大鹿村の秋の歌舞伎公演の収録も含めて大鹿村の光景や、村の人びとがたくさん画面に登場します。

中村さんもその1人。実際に白塗りの顔で舞台に立ち、セリフもちゃんとあるそうです。

「日本でもっとも美しい村」大鹿村の美しい自然や長い間受け継がれてきた大鹿歌舞伎の様子がふんだんに盛り込まれたこの「大鹿村騒動記」。7月16日から全国で公開されるそうですので、是非皆さん見に行ってみてください……そして、中村さんも探してみてください。(「白塗りの顔だから、わかんないとは思うけどね」と中村さんはおっしゃっていましたけれど。)

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中村さんに別れを告げて次に向かったのは、中村農園から数分くだったところにある「おい菜」というお食事処です。実は、「青いケシが6月に見られるのよ!」という情報をくれたのが、ここのおい菜のおかみさんだったのです。(ちなみに、「おい菜」というお店の名は、「おいな=おいでなさい」という大鹿の言葉から来ているそうです。)

帰りがけにおい菜に寄ってみると、ちょうど客足が途切れたところで、一番の特等席に案内してもらうことができました。

店の外のテラスです。やわらかい木のテーブル。正面には中央アルプスの雪をかぶった頂が連なり(千畳敷カールがよく見えました)、左手には遠く飯田の市街地が見えます。高台に張り出したテラスから下を見ると、パラグライダーの発着場で緑の芝生がひろがっています。そして……出てきたのはかりっと揚がった山菜たっぷりのコシの強いおそば(「皿そば」というそうです)。歯ごたえが全然違います。

ここ、おい菜のおかみさんがとってきた山ほどの山菜。「これのおかげで、ほんと腰が痛いわ~」と笑うおかみさん。おい菜にはその他にコロッケ、ラーメン、エビカツなどのメニューがそろっています。また、お店の入口には「鹿肉」や「猪肉」など「ジビエ」も冷凍されて売っています。

おい菜のご主人蛯沢さんはもともとはこの地元の方ではありません(北海道生まれ東北育ち)。大鹿に来る前は埼玉で居酒屋をやっていらっしゃったそうですが、「眠らない都会」から「お日さまと共に起きてお日さまと共に休む」生活がしたいと15年前、大鹿村にやってきて、このお店を始めたそうです。

ご覧のように、大鹿村の山の幸がふんだんに盛り込まれたおそばのコシの強さは、信州そばの味と香りに東北の粘り強さが混じっているからなのかもしれない……とそんな事を感じました。

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【Guide】

中村農園 HP  http://www.osk.janis.or.jp/~aoikeshi/index.html

大鹿そばの店 おい菜
住所:大鹿村鹿塩2459-1
電話:0265−39−2860
大鹿そば ¥1000
営業:4月29日~11月3日(6月は無休)
定休日:火・水・木(祭日は除く)

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「クリンソウ、見てきた?」

ここでまたまたおい菜のおかみさん情報。ここ大鹿村大池高原にある大池のほとりには、ちょうど今「クリンソウ」が花盛りなのだそうです。

「ここからすぐだから、見に行って良い写真とってきてね!」

おかみさんの声に送られて、大池にいって驚きました。
池の畔がピンクで彩られてまるで童話の中の世界のよう……。「日本で最も美しい村」である大鹿村の様々な美しさに感動し、堪能して……しかし、その次に訪れた場所で、その美しさの裏側にある「現実」を私は突きつけられることになったのです。

大鹿村が今、面している様々な変化と大きな波……それは、この次の記事に記述していこうと思います。

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