» 地域おこしのブログ記事

現在、日本のユーザー数が1466万人といわれているTwitter。そこであるキーワードをつぶやくと、即座に反応を返してくれるキャラがいる。あるキーワードとは「小布施」。そしてリプライの語尾には必ず「クリ~」のひと言。

「まずは小布施に行きまする。北斎の天井絵があるそうな。」「まずは小布施、ありがとクリ~」
「小布施でお抹茶と栗かのこ!幸せ!」「小布施にきてくれてありがとクリクリ~♪」
「おはよー さて小布施に向かって出発しますかいなぁーと!」「気を付けてきておクリ~」

彼の名は、おぶせくりちゃん。
昨年4月にTwitterに登場したときは「リサイクリちゃん」で、まだ手も足もなかった。それが今や、手が出て足がでて、Twitter上で少しずつ人気もでて……ちょっとした「有名人」になりつつある。その人気の秘密を探りたくて、Twitterでアポをとってみたのだ……「くりちゃんの取材、したいんだけど……」と。

そうしたら、きました……お返事が。「上司に相談したら、取材OKだそうクリ~。」
………どうやらクリちゃんには上司さんがいるらしい。

とにもかくにも、キャラクターにインタビューなんて初めてなのでどきどきしながら小布施に突撃した。

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町に入ると、独特の匂いがしてきました。知っているものはすぐにわかる「栗の花の匂い」です。ここは信州小布施町。折しも栗の花が満開です。

「栗花落」という言葉があります。これは「つゆ」もしくは「つゆり」と読む当て字なのですけれど、この字は栗の花が落ちる季節とつゆの時期が重なるために生まれてきたそうです。

小布施町は葛飾北斎が滞在し、八方睨みの鳳凰図で有名です。それから昔から市が立って栄えた商業の町。さらに、江戸時代からとても良質の栗の産地としても有名で、小布施の町並みを歩くと「栗菓子」のお店が軒を連ねているのです。

ご覧のように、町中至るところに栗の木があり、どの木も花が満開でした。
写真の右にあるのが栗の木で、もさもさした黄色いのが栗の花です。

栗の花の匂いが充ちた小布施の道を走り、小布施の駅の近くにある町役場に到着しました。入口を入って、受付の人に「すみません……おぶせくりちゃんの取材に来たのですが」と心の中で(これでわかってもらえるのかしら?)とおそるおそる聞くと、「ああ、奥の方にどうぞ。」と言われたので、「行政改革グループ」という札がかかったカウンターに行ってふたたび「おぶせくりちゃんの……」と声をかけると、「ああ、お待ちしていました。」と立ち上がって案内してくれたのが「くりちゃんの上司」高野さんでした。

「すみませんね。くりちゃん今はまだ、Twitterから外には出られないんですよ。それに毎日みんなへのリプライが忙しいので、私がくりちゃんについてお話しさせていただきます。」

そういえば、くりちゃんのTwitterページの自己紹介文にはこう書いてあったなぁ……。

おぶせくりちゃん
場所: 長野県小布施町
自己紹介: 「おぶせくりちゃん」はTwitter(ツイッター)での「小布施つぶやきキャラ」です。小布施町のごみゼロ・リサイクル促進イメージキャラクター「リサイくりちゃん」から新しく生まれました。みなさん、かわいがってあげてくださいね。(時間帯によってはつぶやきが多く、タイムラインがいっぱいになってしまいますので気をつけてね)

……あの、くりちゃんって、一体1日にどのくらいつぶやいているんですか?
「そうですね……だいたい1日平均200から、多い時には300位みたいですね。5分に一回つぶやいている計算になります。」

200!!5分に一回!!私が時々衝動的につぶやき続けて「うわ~、今日は多すぎたかな」と感じる時で40~50程度。その5~6倍ものつぶやきを1日で???
「そうですね~、なんだか一日中つぶやいていますよね。でも、彼はそれが楽しくて仕方がないみたいですよ。休日もなく、毎日つぶやき続けていますけれど。」

くりちゃんの活動時間を見ていると、朝は7時くらいにみんなと「おはクリ~」と挨拶を交わし、「ねもねもクリ~、おやすみクリ~」と夜の挨拶でおしまいにするのが23時くらい。それも休日なく毎日16時間労働で頑張っているので、大変だろうと思ったのに。彼はどうやらそれを楽しんじゃっているそうです。

きっと小布施を楽しんでいる人のつぶやきを見ると嬉しくなって返事したくなっちゃうんでしょうね……。

確かに、くりちゃんのつぶやきはとてもテンポがよく、楽しいのです。だから、くりちゃんに「クリ~」って声をかけてもらうとこっちも「ありがとクリ~」って返事したくなってしまうのです。小布施が大好きなんだな、くりちゃん。その愛情に脱帽……。

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……高野さんが上司さんと言うことは、くりちゃんは小布施町役場に勤めているのですか?
「そうですね~、そういう事になりますね~。」

……どんな経緯でクリちゃんが働くことになったんですか?
「私たちの部署、行政改革グループというのは、この町役場の組織活性化や町の情報発信などをする部署なんですよ。昨年、Twitterによる発信をしようと思ったときにまわりの行政の発信を見ていたのですが、今ひとつ堅苦しくて面白くない。」

……ああ、確かに。いかにも「お知らせ」って感じであまり読む気になれません。
「それじゃ意味がないし、せっかくTwitterという双方向のメディアなので、発信だけでなく反応も返したらいいかもしれない、と思ったんですね。」

「そこでもうちょっと見ていると地方に関してのつぶやきをキャラがやっているのがいくつか目について。たとえば北海道長万部町のまんべくんとか、米子のねぎたくんとか。」

……なるほど。同じつぶやきでもキャラがいることで「対話」になりますものね。
「そうなんです。そこで、Twitterの応援をしてくれそうなキャラを小布施で探したところ、それまであまり活躍の場のなかったリサイくりちゃんが名乗りをあげてくれたのです。」

彼が「リサイくりちゃん」です。

それまでの彼は、小布施のゴミを減らすための文書に印刷されて登場する程度でした。でも、きっと、小布施を愛する彼はそれだけではもの足りずに何かしたいと思っていたのでしょう。自主的に名乗りをあげたリサイくりちゃんは、Twitterの世界の中で生き生きと活動をはじめたのです。

彼はまず、小布施の情宣活動に取り組みました。小布施町の情報をどんどん流すと共に、Twitterの中で「小布施」というつぶやきがあったら即座に拾い上げて反応する。小布施についてつぶやいてくれる事への感謝、それから小布施をつぶやいてくれる人の応援。そんなつぶやきを毎日毎日、本当にこつこつと積み上げていったら、いつの間にか彼の「クリ~」という語尾の楽しさやまろやかさが受けて、彼との対話ではクリ~と反応を返す人もでてきました。

「くりちゃんとお話をする」事が目的で、小布施をつぶやく人が登場し、くりちゃんにつぶやきを拾ってもらうために小布施のそばを通っただけでも「小布施なう」とつぶやく人が登場し、やがて、小布施には直接関係なくてもくりちゃんと話がしたくて声をかけてくる「くりちゃんファン」が登場するようになりました。そして、ファンからは「くりちゃんグッズが欲しい!」という声も届くようになりました。

そんなある日。
リサイくりちゃんは、みんなともっと仲良くなるために「進化」したのです。手足のなかったリサイくりちゃんに、突然手足がはえてきて、名前も「おぶせくりちゃん」に変わりました。

「彼がね、自分ではやしたんですよ。昨年の9月30日の事でした。もっとみんなと仲良くなりたいと、外に出る準備を始めたようですね。」

@obusekuri: 今日から、Twitterでの小布施つぶやきキャラとして、新しく「おぶせくりちゃん」として生まれ変わったクリ~
@komacafe: クリちゃんに足がはえた!!(9月30日10:50)

……この日のことは、覚えています。朝起きてTwitterのぞいていたら、くりちゃんに足が!!と思わず私も上のように叫んでしまったんですから。ファンのために進化するキャラクター。まるでポケモンのようです。
「みんながくりちゃんを好きになってくれればくれるほど、くりちゃんはみんなのために成長するんです。そんなくりちゃんを好きなってくれて、くりちゃんを通して小布施を知るだけでなく、くりちゃんに会うために小布施を知ろうとする人も増えて来ています。」

……それは、くりちゃん嬉しいでしょうね。
「はい、だから彼はきっと、そんなみんなのためにそのうちTwitterの中から飛び出すかもしれませんね。」

高野さんはそう言うと、意味ありげな笑いを浮かべました。

実際、この日帰ってTwitter見ていたら、くりちゃんも何人かとこんな会話をしていましたよ。(@obusekuriの太字がくりちゃんの発言です)

@ruirui0238: 今日くりちゃんにそっくりな人見たけど気のせいかな…(*´ω`*)くりちゃんは人じゃなくて栗だしなぁ…。
@obusekuri: びびびっクリ~
@ruirui0238: 目が合ったけど気のせいだよね…クリ…
@obusekuri: おぶせくりはまだTwitterの中だけクリ~
@ruirui0238: 早くツイッターの中から出てきておクリ~♪
@obusekuri: もうちょっと待ってておクリ~
@noa72: ええっ!もうちょっとで?o(゚θ゚)oワクワク♪
@obusekuri: ふふふクリ~
@_mikaeru: おぉゲコ♪

どうやら、くりちゃんがTwitterから飛び出すかもしれないという情報は、かなり確かなもののようです。

小布施では、7月17日に小布施見にマラソンが行われます。このマラソンでは毎年いろいろなコスプレで走る人もいるのですが、もしかしたら今年は「おぶせくりちゃん」に扮して走る人も出てくるかもしれません。

そして、小布施見にマラソンには間に合わないようですが(くりちゃんグッズは登場するかも??)、高野さんやくりちゃんの様子を見ると、なんだか今年の秋頃の小布施のイベントがくりちゃん登場のXデイの可能性が高そうです。

くりちゃんファンの皆さんは、小布施見にマラソンの 7月17日や、秋頃の小布施のイベントでのくりちゃんのつぶやきを見落とさないようにね!

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さて。
今はまだTwitterの中から出て来ることのできないくりちゃんですが、Twitterの中ではいつでもお話しすることができます。

上司の高野さんからたくさんお話しを聞いてだいぶくりちゃんのことがわかってきましたが、くりちゃん本人にはお話ができなかったので、お礼も兼ねてTwitterでつぶやいてみました。

@komacafe: 今日は、小布施に取材に行ってきました。今日の取材の相手はなんと!Twitterで活躍している小布施のアイドルおぶせくりちゃんでした~。(^_^) クリちゃんファンの皆様のために、クリちゃんのお話をいっぱい聞いて来ました。

でも、クリちゃんはまだTwitterの外には出られないし、みんなへのレスが忙しいそうなのでクリちゃんの話を聞かせてくれたのはクリちゃんの上司さんでした。クリちゃん、取材に応じてくれてありがとう。上司さんにもお世話になりました~。よろしくお伝えくださいね。(^_^)

そうしたら、くりちゃんからは返事が返ってきたんですが……そのあとすぐに、くりちゃんファンの人からも声がかかったんです。

「父と二人でクリちゃんのファンです、首都圏の人間ですが、こちらでも記事読めますか?」……って。そして、「楽しみにしています。ステキな記事になると良いですね。」と温かい励ましのお言葉もいただきました。


(その日のTwitterのやりとりです。新しい発言が上に来ますので、下から順に読んでみてください。)

小布施の町は、何回も取材していますが、町に住む人みんな小布施が大好きです。そしてたくさんの人が小布施に集まってきます。毎日楽しく小布施のつぶやきに答えるおぶせくりちゃんもまた、小布施が大好き。

そんなくりちゃんとの対話を楽しみながら、くりちゃんが好きになって、そして小布施もすきになる。おぶせくりちゃんが大好きな人が増えるにつれて、小布施の町が大好きな人もまた増えていくのです。

「くりちゃんに会いに、小布施に行こう!」

もし、くりちゃんがTwitterの中から飛び出したら……きっとそういう人がもっともっと増えるに違いないのでしょうね。

こうして魅力的な町、小布施にどんどん人々が集まって、ますます小布施は楽しくステキな町になっていくのです。おぶせくりちゃんは、そんな小布施のために今日もまたつぶやき続けているのです。

余談ですが。
くりちゃんは、去年の12月に彼の仕事を手伝うお友達、「おぶせまろんちゃん」を高野さんのもとに連れてきたそうです。まろんちゃんは、くりちゃんが忙しくなってきたら町の情報をつぶやくお手伝いをする予定らしいですが、まだのんびりとマイペースで活動しているようです。

くりちゃんが外に飛び出すようになったら、まろんちゃんの活躍も始まるのかもしれませんね……。今後の二人の動向をお楽しみに!

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おぶせくりちゃんTwitterページ

小布施町HP http://www.town.obuse.nagano.jp/
小布施見にマラソン公式サイト http://www.obusemarathon.jp/

☆この記事は、昨年の7月に掲載したものの再掲です。
そして今年、ついに「おぶせくりちゃん」と「おぶせまろんちゃん」がWebから飛び出すことになりました!
詳細はこちらから!→ゆるキャラ(R)大集合in小布施 おぶせくりちゃん・おぶせまろんちゃんお披露目イベント開催決定!

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風に乗って何やら派手な音楽が聞こえてきた。その音はこちらに向かってどんどん近づいて来る。やがて1台の送迎バスの姿。バスからはただならぬ音量で音楽があふれ出している。かなり離れているのに低音が下腹に響く。
あ。これが噂の「爆音バス」か………。それは想像以上の衝撃だった。

「爆音バス」と名づけられたのは、ラガーマンたちをグランドに送迎するためのバス。運転するのは「菅平プリンスホテル」の2代目大久保寿幸さん。送迎の道すがら音楽を大音量でかけて「激励」しているのだ。彼が「すがだいらぷりんす」というTwitter名でつぶやくのは兄貴のような温かいまなざしで見つめる、菅平を訪れるスポーツマンたちへの励ましの言葉。

そんな彼が今挑戦していること。それはある意味、菅平のみでなく信州の……あるいは、社会全体への大きな一石となるのかもしれないと思う。

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「菅平の爆音バス、って名物になるといいね。そう思ってやっているけど、周りとの関係もあってこれ以上はあまり派手には出来ないかなぁ。」
「いやすでに充分に派手だと思う……昔から変わってないよね、そういうところ。」

大久保さんの言葉に反応したのは今野さん。お二人は子供のころからずっと菅平で育ち、この地を見て感じてきた。

大久保寿幸さんは、7月はじめ菅平高原で行われた「セガレとセガレのBBQ」~様々な職種の「セガレ(2代目、3代目の跡継ぎたち)」たちの集まり~に菅平の観光ホテルの2代目として参加、そこで菅平の「これから」について語ってくれた。

それをBBQの記事に記述したところ、1人の女性がTwitterで声をかけてくれた。

【anuka_angela】 おはようございます! 私も菅平を故郷とするセガールです。友人が頑張ってるのを見ると嬉しくなりますね!素敵な記事にして読ませてくださって、ありがとうございます。

それがanuka_angelaこと今野真由美さんだった。菅平で育った彼女は長野を離れて大学進学し、卒業後長野県に教師として戻ってくる。けれど、教職のいろいろで体調を崩し退職、再び地元を離れ大学院に学ぶ。その後、結婚して今は菅平を遠く離れた秋田県で子育てしながらも故郷の菅平を想っている。

【anuka_angela】来月帰省しますよ。では菅平プリンスホテルで(笑)
【suga59】スゲー!つながってる!! 神様がくれた出会いだわ(^_^) 

……というわけで、今野さんのお盆帰省に合わせて菅平での「初対面」と大久保さんとの「取材再会」が成立した。

「小学校の時の担任の先生はめちゃくちゃだったよね。伊代ちゃんが大好きで、教室で毎日でっかい音で伊代ちゃんかけてた。」
「そうそう、カセットテープ二つ入れられるラジカセ買ってきて、それでみんな毎日聞いてたよな。『二つも入るなんて、なんか今までよりいい音する感じ?先生スゲー』なんて言ってたっけな。」

……もしかして、爆音バスのルーツはここにあるのだろうか?

2人は、幼稚園から中学校までずっと同級生だった。菅平には小中単級の学校がひとつあるだけ。だから同じ学年だと9年間は必然的に「同級生」になるわけだ。

「小学校の時には、山に入って遭難しそうになったこともあったよな。」
「最後は川に沿ってくだって、やっと出てこられたときに『あー良かった』って……。」
「先生自体が道わからなくなってたんだよな、あれって。」
「わたしたちの今ってあの先生の影響大きいのかもね。」
「あの先生好きだったよ。めちゃくちゃやったけどしめるところはしめてたよな。」

授業時間に山を歩き回る生徒と先生、めちゃくちゃだけど人間味あふれる先生、そんな先生の元で小学生時代を過ごして彼らの“今”がある。

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彼らが生まれ育った菅平高原は大笹街道が通り、太平洋と日本海を結ぶ重要な交通の拠点でもあった。江戸時代に本格的に始まった農地の開拓のため各地から移住してきた人々によって今の菅平がある。

夏のラグビーのメッカ。そのはじまりは法政大学のラグビー部を昭和6年に誘致してからのこと。一方、ウインターシーズンはスキーのコース数36、80年を超えるという規模・歴史的には申し分のないスキー場だ。けれど、その「申し分のないスキー場」「夏のスポーツのメッカ」である菅平が抱える問題はとても大きい。

たとえば菅平まで30分というところに住んでいる私が「スキーに行く」とき菅平は視野には入らない。私の関東・関西のスキー仲間も同じ。彼らは「長野でスキー」といえば白馬・志賀高原・野沢温泉。それはなぜか。

かつて、菅平に隣接する須坂市の野球少年たちが菅平でスキー合宿をした時、私は請われて指導者として参加したことがある。

野球少年とはいえ、3~4年の子達はまだスキーが上手くないので初心者コースを利用するのだが、リフト1本分しかない短さなのであっという間に滑り降りてしまう。
あきてしまって別のコースに移動するとゲレンデの連絡がとても悪く、子供たちはスキーで「歩く」のが大変。ようやく別のコースに出たらそこもまた短くあっという間に終了。ちょっと滑れるようになった子供には物足りない。初心者には移動が辛い。

せっかくたくさんのコースを抱えているのに、なんでもっと連絡良くしないんだろう?志賀高原の方がもっと広範囲に拡がっているけれど、「全リフト制覇特典」のように楽しみがあるから移動が気にならないのに比べ、菅平の一体感のなさってなんだろう?

「これだけのスペースに6つもの会社が入っていて……みんなそれぞれバラバラなんだよな……。」……と大久保さん。

あの時「菅平っていいな」にならなかったその理由が、その大久保さんのひとことでやっとわかった。そしてそれは、スキーの話に限らない。夏のスポーツでも同じようなことが起きていた。

菅平の「グランドマップ」(写真はその一部分)。夏のシーズン、スポーツ観戦に訪れる人のためのものだけど、菅平の「観光地図」として使われることも多い。

この地図を見るとグランドには番号がふってあって、それぞれが「どの宿泊施設のものか」わかるようになっている。ほぼ真ん中に1のグランド、そのあと2は?3は?と番号で追っていこうとすると2は見つかるけど3はそばにない。1の周りに60台、70台の番号が並ぶ。色分けされているけれど、その意味もよくわからない。

「これね、番号は『グランドの出来た順番』になっているんですよ。」と大久保さん。

「おまけにこの地図、グランド持っている宿泊施設しか載ってない。そこに泊まる選手は宿泊施設がバスで送迎するから地図は要らない。これ使うのは試合を見に来る親御さんや外部の人達で、必ずしもここに載っている宿に泊まるわけじゃない。番号の不規則さ、目印のなさ。使う人にとってとても見にくいものになっているんです。」

確かにそうだ。私も菅平はよく通るので道は知っている方だけれど、この地図もらったときに目印を捜してしばらく考え込んだ。ましてやまったく土地勘のない人にはすごくわかりづらいものだ。

「この地図のこと、いつも言っているんだけどね。作っている人間は“自分たちはわかっているから大丈夫”と言ってこれがなかなか改善されなくて。」

……だけど、菅平って「開拓者」が入ってきて出来た土地ですよね?伝統とか歴史とかにはあまりこだわりがなさそうな気がするんだけど?

「元々あちこちからの開拓組が集まって出来た土地なんだけど、『自分たちが切り開いてきたんだ』という自負というか、誇りというか、そういうものすごく強いものがあるんです。バブル期にうまくいっていたので自分たちの親世代には特にそれが強い。菅平を離れるとそれがよく見えます。」と今野さん。

大久保さんや今野さんの視点は外から菅平を訪れる人達のもの。けれど、菅平で人を迎える立場の多くの人が「自分たちにはわかっているからいい」という視点であちこちを考えていたら……私のように30分という至近距離にいながら「スキーは菅平」にならないのだから、遠くからわざわざ訪れる人にとったらなおのことだろう。

そうでなくても、今、スキー産業は落ち込み続けている。かつてバブルの頃、都会からスキーに殺到してリフト待ちが1時間2時間だったあの時代はもう過去のこと。

「菅平は、まだ夏のスポーツがあるから落ち込みがひどくない。でも、今この時に何とかしなかったら……春や秋、そこも視野に入れた菅平を考えなかったら手遅れになる。」という大久保さんの懸念は強くなるばかりだ。

しかし……「かつての華やかな頃」を知る親世代と、「未来に危機感を持つ」子世代との意識の差は……簡単には埋められない。

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「日本に『国技』ってあるでしょ?あれと同じように菅平の学校には『校技』ってのがある。スキーがそれ。」と大久保さん。

子供のころから当然のようにスキー。選手も大勢輩出したろうし、今の菅平にいるスキーの指導員は地元の人間が大多数。

「だけど私はスキーは大嫌い。なんでこんなことしなくちゃいけないかってずっと思ってたし、すごくいやだった。」と今野さん。

スキーは中学の部活にも大きな影響を持っていた。ゲレンデに雪のないシーズンは男子はサッカー、女子はバスケ。シーズンになると全員が「スキー部員」になる。
本来、一般の中学生は部活を「選択」して入部する。スポーツが好きな子だけじゃない。音楽や美術をめざしたい子もいるだろう。今野さんのように「スキー嫌い」という子もいるだろう。しかし菅平の中学生はみんな一緒。「それが常識」だった。

さらに数年前のこと。部活を一年中「スキーに統一する」という通達が学校から家庭にあった。これに対して、PTAからはいろいろな声が上がった。大久保さんもOBとして、PTAとして、声を上げた。

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思い起こせば、自分が生徒だった頃は「何のために勉強をするのか?」「何のためにスキーをするのか?」を自間自答しながら、自分が生まれる以前から始まっていた校技スキーの意義・概念を理解できないまま、受け入れる事ができないままに、ただ何となく活動に取り組んでいたように思います。(中略)

今回の中学生夏部活の件において、子供たちを取り巻く状況を一変させてしまったスキー活動の運営方針については、校技スキーの行く末を憂慮せざるを得ません。このような現状が、校枝スキーを「負の連鎖」に導くのではないかと危惧してならないのです。

現在の子供たちに対する教育・指導の内容は、次の世代の未来を創り、さらに、この世代の子供たちが親になって、そのまた次の世代を育ててゆきます。「教育は国家百年の計」と言われる所以です。

今回の件で、勇気を持って主張した生徒の意見が却下され、「大人に何を言つても無駄」と言葉を飲み込んでいる子供達が多数存在しています。意志が尊重されず、校技スキー活動に疑間を感じながら取り組まざるを得ない現在の生徒達が、菅平・峰の原の親となった時に『負の連鎖』が具現化され、校技スキーは衰退の一途を辿るのではないでしょうか。      (大久保さんのPTA文集原稿「思うこと」より抜粋)

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結局、通年スキー部はなくなったが、今まで秋までやっていたサッカーとバスケは春の地区大会までになり、その後夏からスキーシーズンの間は全員スキー部に……という「改変」が実施された。

けれど……。子供たちの夢は、スキーだけで実現するものじゃない。たとえ1人でもボールが蹴りたい子がいたらサッカーの機会を与えたい。速い球を投げられる子がいたら、甲子園夢見るかもしれない………。

実際、当時の中学生にはものすごく速い球を投げる生徒がいたし、サッカーの上手な女の子もいた。本来だったら「やりたいこと」の機会を与えるのは学校。けれど、菅平の学校でそれはかなわない。大久保さんは「菅平の子供の未来」を考えてひとつの行動を起こした。

サッカー少女と野球少年。2人のために「大人」を集めて一緒にゲームをする環境を作った。「菅平野球軍」「フリースタイルフットボールおしゃれ組」……そして、それらのために補助金をとり、菅平高原を拠点にしたスポーツクラブ設立をめざした。

メンバー集めから難航。地元の協力はなかなか得られない。スキーを推進する人達からは歓迎されない。体育協会への報告書作成もお役所仕事に翻弄される。
が、「地元の子供たちのために」という思いに突き動かされて活動は3年目に入った。

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「菅平は、夏、スポーツの選手が集まってきている。けれど昔に比べてスポーツマンの質も変化していて。」

「夏の菅平」も今の菅平を支えているのは確かな事実だ。しかし、そこにもただ喜んでばかりいられない「現実」がある。
かつてのようにスポーツの技術と同時に先輩後輩の関係から人やものに対しての「精神性」を育成されたスポーツマンばかりではなくなった。菅平のメイン通りだけでなく、グランドや宿のそばの細い道までも拡がって歩く。近くの畑の農家の人々がトラクターで通りかかろうとお構いなしに。当然、メインストリートでも車は大渋滞。

「家の近くで夜遅くまで、大声で騒いでいる人も多いですよ。狭い道なのに、そして農家は朝早いから夜は早く休まなくちゃいけないのに、その騒ぎで寝られないこともあります。」「そういう人達がいるから子供のころは夕方になると道を歩くのがこわかった。」と、実家が農業を営む今野さん。

「そう、菅平を支えているのは観光だけじゃない。農家の人達だって大切な存在。だけど、夏の誘客を考えたときにスポーツマンが来てくれることも必要。観光と農業の関係性がとても難しい………。」大久保さんがそれに言葉を添える。

「菅平の農家は冬はゲレンデの食堂などで稼いでいるんだけど、スキーが落ち込んだら夏に頑張るしかない。夏、農業で稼げなかったら冬の食堂の設備投資のための借金返せないし………。」今野さんが語る菅平の農業の問題点は深刻だ。

菅平の抱えている課題は大きい。「冬」と「夏」のあり方、「農業」と「観光」のあり方、「親世代」と「子世代」の感覚の違い………。そしてさらに、それぞれの思惑や願いが渦巻く中、そのバランスを考えた上での「菅平」のこれから。

けれど、それらのひとつひとつを見ていくと、これは菅平だけの課題ではないように思える。たとえば、「町並みづくり」「学校教育」「地域おこし」そして「社会のあり方」……。今までの伝統と新しいものとのバランスや融合、様々な立場の人達がそれぞれに主張するものをどうまとめていくのか。

今の社会全体が抱えている、様々な問題の根っこにあるものが、この「菅平高原」のあり方に凝縮されているように思う。

この日。あっという間に時間はすぎ、それぞれの場所に戻ってお互いに尽きない想いをTwitterでつぶやき合った。
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【anuka_angela】駒村さん(@komacafe)と、旧友菅平プリンス(@suga59)と会った!すごいエネルギーをもらって帰ってきた。異業種間交流はすっごく楽しかった。
【anuka_angela】……で思ったのは、儲けることは決して悪いことではないんだが、もう個々の利潤だけ追求してても発展はないってこと。全体の発展を考えて初めて、個々が潤う時代だな。
【suga59】このような情報交換が菅平内で出来れば面白いんだけどね~
【komacafe】「全体最適」の考え方。社会全体で考えていくべき問題なんですよね。
【suga59】そう!ウチのホテルだけ生き残っても、他が淘汰されれば菅平の集客力が落ちるってことだし、そうなればリフト会社の経営がより厳しくなるし、リフトが動かなくなったら菅平は壊滅する
【komacafe】それをみんなで考えるようになるためにはどうしたらいいのかなぁ。
【suga59】うーん、今は、いろんな活動を通して活躍することでミンナに認めてもらって、賛同者を増やして…と考えています(´∀`)そのためには稼業を揺るぎないものにしなければいけませんね!
【komacafe】私はそういう人を見つけて繋げて、拡げるお手伝いを……それぞれが出来ることをするってことかな。
【suga59】いろいろ教えてください!!ミンナが笑えるように
【komacafe】合言葉は「ミンナの笑顔」。
【anuka_angela】「最大多数の最大幸福」、社会全体の課題だよね。良いモノやサービスを提供するのは大事なこと。例えばホテルが良くても、スキー場のサービスが悪ければお客様は来ない。夏も同じ。みんなで協力することが不可欠だよなー。

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この話には「結論」はないし、まだ先も見えない。けれどこれは菅平の中で、そしてもっと言うと社会全体至るところでこの先「尽きることなく」討論されていくべきなのだろうと思う。「今」から生まれる「明日」のために………。

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観光(かんこう)とは、一般には、楽しみを目的とする旅行のことを指す。語源は『易経』の、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節による。「tourism」の訳語として用いられるようになった。(ウィキペディアより)

「国の光を観る」ということは、「その国の王の立派な人徳と、その王による国民の教化の美しさをみる」(これが、観光の意味)ということであり、「用て王に賓たるに利し」とは、「それだけの知力を持った人物であればこそ、王の賓客として遇せられる臣となることができる」(これが、観光の目的)ということ。

つまりは、その地にある光を見、その地の人々の徳に触れ、それによってその人も学ぶ。土地ばかりでなくそこの人々もまた「光」であるべきで、訪れたものが「また来たい」と思うような経験をそこですること。それが本来の「観光」だ。

最初に登場した「爆音バス」は、大久保さんが放つ光のひとつ。

【suga59】バスでAKB流してたら、違うグランドに送ってしまい、選手達はそこから走って移動しました…。しかしラガーマンは「いいアップになりました!!」と言ってくれた

大久保さんのツイッターにはこんな風に爆音バスで送迎したラガーマンたちの姿が登場する。彼らにはきっと、違ったグランドから走って移動することさえもいい「思い出」となったに違いない。爆音バスを知る人に聞くと、大久保さんはバスの子達だけでなく、信号待ちの時にもバスのドアを開けて道ばたのスポーツマンたちにも声をかけ続けているという。

「AKBで爆音バス楽しかった\(^^)/帰りのテンションなら最高に楽しいですww」

これはそんなラガーマンのつぶやきのひとつ。彼にとっても大久保さんの「おもてなし」は心から嬉しく楽しい思い出のひとつに刻まれたのだろう。→ 爆音バスの様子(Youtube)*ボリュームにご注意

帰るとき、ホテル前のベンチに3人のラガーマンが座っていた。日に焼けてたくましい筋肉を持つその青年たちは、私たちが前を通るとさっと立って「こんにちは!」と笑顔で挨拶してくれた。

「この子たちは今年の優勝候補だよ、強いんだよほんとに。」

そういって3人を紹介する大久保さんは、自分のことのように嬉しそうだった。

夏の合宿、冬のスキー修学旅行……「すがだいらぷりんす」に出会った人達は、ここに菅平の「光」を見、そしていつかまたきっとこの地を訪れて大久保アニキと語り合いたい……と思うに違いない。

菅平に生まれ、菅平に育った「すがだいらぷりんす」の想いはこの地を訪れる人達に菅平の光を届けること。そのためにはまず自分が光となり、輝いてちゃんと人を照らせるようになること。その光を菅平のみんなと共有し、「みんなの笑顔」があふれる事。

まだまだ越えなければならない山はたくさんある。 “プリンスの挑戦”はまだまだこれからも続いていく。「できるひと」が「できること」を。みんなのために力出し合う菅平をめざしてその輪を少しずつ拡げながら。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
菅平プリンスホテル→HP

写真・文 駒村みどり

「別に楽しみじゃないよ。大変だし。だけど嫌いじゃないし、無くなるときっと寂しいと思う。」
そう答えてくれたのは、6年生の男の子。
「う~ん、そう、大変。楽しいってわけじゃない。」
列の先頭で下級生の班長として並んでいた女の子もこう答える。

ここは、駒ヶ根市立中沢小学校。5月16日、朝から全校が校庭の隅に作られた立派な炭焼き窯のまわりに集まって、年間の恒例行事となっている「炭焼き」に取り組んでいた。作業中結構楽しそうに見えたので、「炭焼きの行事、楽しみだった?」と発したその問いに対しての子ども達の答えは「楽しみじゃない」だった。普通「楽しい!」という答えを期待する。だけど、どの子も取材むけに理想の答えをしてくれない。何でだろう?

その答えは、取材を進めていくうちに見つかってきた……。

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「いやぁ、来たかね。来るかどうか心配してたんだよ。」

そう言って、子ども達の炭焼きの指示を出しながらこちらに笑顔を向けてくれたのは、4月に「平成の花咲おじいさん」の記事に登場した宮下秀春さん。そこでも紹介した宮下さんの多彩な顔の一つに「炭焼き指導員」があります。朝から全校の炭焼きの指導にあたっているのです。

駒ヶ根市中沢地区は、かつてはナラの木に覆われた山あいの村でした。この中沢地区を支えていたのが養蚕と林業。その地区にある130年の歴史を持つ中沢小学校の校歌(大正5年制定)にも「かまどのけぶり豊かにて」と歌われているように特に林業で古くから炭焼きの技術が発達し、かつて炭が熱源として大いに活用されていた時代に良質の炭を産出し、地元を潤していました。

「車も炭で走っていたんだよ。木炭自動車って言ってね、炭を細かくしたものを使ったんだ。」
「だけど炭が使われなくなって、炭焼きのものがどんどんいなくなって。炭の材料になるナラの木も植林でどんどん杉の林に取って代わって、今では手に入りにくくなったよ。」

そう言いながら宮下さんが見回すまわりの山々一帯は「常緑樹」を植林され黒に近い緑色をしていました。けれど分杭峠に続く奥の方を見ると遠くの山肌には新緑のみずみずしい若葉色が……。「私にはよくわからないんですが、たぶん向こうのいろいろな緑のある方が元々のこの地区の森の様子だったんでしょうね。」と、橋枝教頭先生が教えてくださいました。 

「特色ある学校を作りたいのだけれど、炭焼きを子ども達に教えてくれませんか。」
平成3年3月、炭焼きの煙や炭焼き窯が地域から次第に姿を消す中、炭焼きを続けていた宮下さんのもとに当時の中沢小学校のPTA会長さんがやって来たそうです。その声をきっかけにして平成4年に体育館の裏手に炭焼き窯を作り、毎年子ども達が炭焼きに取り組むようになりました。

平成17年には宮下さんの指導とPTAの皆さんの作業によって新たに「これはあと、30年は使えるよ」と宮下さんの保証付きの大きく立派な炭焼き窯が誕生。そうして積み重ねてきた中沢小学校の炭焼きの歴史は、今年でなんと19年になるのです。

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「はい、重たいからね!気をつけて持ってね!」

炭焼きはまず、炭になる材料のナラの薪を窯にまんべんなく詰め込むところから始まります。
見るからにずっしりとした大きな薪。それを縦割りのグループで運びます。

中沢小学校に通うのは1年から6年までの約120名(各学年20名前後の単級)と、伊那養護学校の分教室のおともだち。その子ども達がみんな混ざった縦割り班で行動します。ですから薪運びも小さな薪は1人ずつ、大きな薪は大きな子と小さな子が組になり、お互いの力加減を工夫しながら協力しての作業。みんなが一緒になって窯に隙間なく薪を詰めていきます。

やがて、全校の協力で薪がすべて詰め込まれると、今度は入り口にみんなでレンガを運んで積み上げ、さらに土を詰め順番に木で押さえて厳重に密閉して準備が完了。今度は「火付け係」の6年生が2人、竈の方から火をつけます。火が勢いよく燃えはじめると全校からわぁっと歓声が上がり、思わず拍手をする子どももいます。

勢いよくもうもうと黒い煙が立ちこめあたりは煙で霞む中、この日の全校の生徒の仕事はここまでで、みんなは宮下さんにお礼をいって教室に戻っていきました。

けれど、宮下さんと学校の職員はまだその場に残って「ここから」の打合せ。いい炭に焼き上げるためにはここからの温度管理や観察が大切。宮下さんの指示と説明を先生方が真剣な表情で受けとめていたのが印象的でした。

「炭が焼き上がるのはいつですか?」そう宮下さんにお聞きすると、「いやぁ、いつとは言えないよ」との答え。

ここからの気温、天気、火の燃え方。そういういろいろな状態をずっと観察し続けて、最後は「今だ」という状態を見極めるのは長年の経験と感覚なのだそうです。およそこのくらい、とは予想はしても予想通りに行くとは限らない。だから、この先一週間ほどは毎日何回もここにやってきて様子を見て、「窯と相談しながら」焼き上がりを決めるとのこと。窯の入口は厳重に密閉されて中は見えません。見えない中の様子を様々な状況から予測して判断するしかないのです。

「煙が出なくなったら炭化終了だけどね、火を止めるタイミングが難しいんだよ。ここで焦ってのぞいちゃったりしてちょっかい出すといい炭ができないんだ。」

宮下さんが眼を細めながら話すその言葉を聞いて、炭焼きと人を育てることとはなんだかちょっと似ているかもしれないなぁ……と感じました。

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生徒たちの作業の合間に、長嶋校長先生が「炭の展示コーナー」を案内して下さいました。

このコーナーは児童玄関を入った正面の壁の真ん中にあります。学校に来てまず最初に目に入るところにきれいに展示された炭焼きの活動の様子と、できた炭で作られた製品。いかにこの学校で「炭焼き活動」が大切にされ、学校の中に位置付いているかが感じられます。

中沢小学校では、一年生から六年生までが全校で取り組む活動の他に、この「炭焼き」を柱に据えた学年ごとの活動もしています。出来上がった炭を使ってバーベキューをしたり、炭を販売して収益で本を購入したり。窯を使う炭焼きの他に、ドラム缶やオイル缶を使った炭焼きもします。

炭に使うナラの木は、ここ数年はここから分杭峠につながる道の途中にある「大曽倉の市有林」から切りだしたナラの木を使っています。切り出しでは毎年6年生も作業の手伝いをします。「倒れるぞ!」という呼びかけと共に大きな木がどさっと切り倒される様を、6年生は皆で見るのです。その切り倒された木が薪になって炭になる。こうして炭ができるその行程のすべてと、その炭の活用まで含めて6年生までのうちに子ども達は皆経験するのです。

「子ども達は、毎年やっているので中には煙の匂いとか加減で火の様子などを感じとる子ども達も出てきているんですよ。」

作業中の何人かの先生方の言葉にもあるように、子ども達はただ炭を柱にした活動をこなすだけではなく、宮下さんの炭焼き職人としての熟練した感覚までも受け継いできているのかもしれません。それはとても貴重なもの。マニュアルに書けるものではなく、マニュアルを読んでわかるものでもありません。長い年月経験を積まなければ生まれない貴重な技なのです。

「……ですけれど……。」

来年、20年目の節目をきっかけに、宮下さんは炭焼き指導から引退することになっているそうです。中沢の里で唯一炭焼きの技術を今につないでいる宮下さんの引退は中沢小学校にとって大きな転換でしょう。後継者のいない炭焼き窯の火をどう受け継いでいくのか……。

実は、今回の炭焼きに宮下さんの横でずっと一緒に作業をしていた方がいます。中沢地区で喫茶店を経営している岡庭さんです。宮下さんの後継者としてこの炭焼きの指導に当たることになっているとのこと。岡庭さんご自身は炭焼きの経験は無いけれど子供のころにおじいさんが炭焼きをしているのを見て育っていて、宮下さんから話があったときに「炭焼きの活動を絶やしたくない」とあとを引き受ける決意をされたそうです。

どうやら中沢の炭焼きの煙は、「30年は大丈夫」な炭焼き窯と共にまだまだ受け継がれていくことになるようです。

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「面白くはないけど、でもつまらなくはないよ。」

「別に楽しみじゃない」と答えたあとで、ふみきくんはこう言葉を続けました。彼は窯に火を入れた「火つけ係」2人のうちの1人です。
「火をつけるのは怖くない?マッチするのも大丈夫?」ときくと「1年の頃から炭でバーベキューやってたりしたから別に大丈夫。」と答えてくれました。

今は、ボタン一つ押せばすぐに火がつく時代。学校の理科や家庭科の時間、またキャンプの飯盒炊さんの時などにマッチをすれない子ども達が当たり前になってきています。けれど中沢小の子ども達は一年生から炭焼きとそれを柱にした活動をしてくる中で、ちゃんと火のつけ方も扱い方も身につけているのです。

この記事の冒頭に書いたように、「楽しみじゃない」「面白くない」という言葉を最初は意外に思った私でしたが、しかしそれはどうやら「炭焼きの否定」の意味ではなかったのです。

この学校の子ども達にとっては、炭焼きは「行事」じゃない、「日常生活」なんだ、ということ。炭と、炭焼きを柱にして人がちゃんとそこに生活を成り立たせているのです。日常と切り離された遠足や運動会のように、年に一度のお楽しみとして指折り数える行事ではなく、自分たちの生活を成り立たせる一場面。だから面白くはないけどつまらなくもなく、楽しみではないけどなくなると寂しい………。

竈から上がる煙と燃えさかる火を見守る人たちの想いや、木を切り倒す音、薪の匂い、炭の感触などとともに、それは子ども達の生活の場面として染みこんでいるのだろうとおもいました。

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「炭をもっと見直して山も元気にしなくてはね。」

一旦家に戻ってまた来るから、と別れを告げる宮下さんがつぶやいた言葉です。

長野県はかつて豊かな山と共にあり、山の幸を得て人びとは生活していました。林業で山を整え、炭を焼き、エネルギー資源として大きな需要を持っていた炭で潤っていた時代。しかし石油に頼るようになって炭は廃れ、山は荒れ、手を入れる者が減り、ナラの木の森は植林によって次第に針葉樹林に変化していきました。今は炭の材料になるナラの木を手に入れるのもなかなか思うにまかせません。

一度使わなくなった炭焼き窯は、復活させるのにはものすごく大変なのだそうです。それは炭焼きの技術も同じ。木も、山も。そして人も……みんな同じ事が言えるのではないでしょうか。

炭焼きの技術とそれを伝える者があり、それを受け継ごうとする者がいて。そこにある人の想いを感じとって受け止める子ども達がいて。そうしてこの中沢小学校の炭焼き窯はこれからも毎年こうしてもくもくと元気な煙を吐いて炭を焼き上げ続ける。

沢山の人たちに見守られながら行われる炭焼きは、同時にこの中沢地区に学ぶ子ども達の心もまた豊かに育んでいるのだ……ということを強く感じた一日でした。

駒ヶ根市立中沢小学校
〒399-4231 長野県駒ヶ根市中沢4036

玄関で手作りのくす玉が、ひらひらと朴訥に祝いの言葉で歓迎してくれた。

「祝 まちとしょテラソ開館1周年」

小布施の町立図書館まちとしょテラソが今月7月で開館して1周年を迎えた。3日間開館記念行事が行われ、そのフィナーレが19日のシンポジウム。
タイトルは「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」。
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この日も一般の人々がたくさん勉強したり本を読んだりしている。ここはいつ来ても活気がある。シンポジウム会場はそんなテラソの東の一画。七夕ムードに飾られた館内にふさわしく、浴衣での受付は情緒たっぷり涼の演出。

正面には大きなモニター、サイドに記録用のビデオカメラが配置され、さながらテレビスタジオのような趣。図書館利用の子供が周りを興味深そうにぐるぐる回っている。
日常の図書館の光景に加わったお祭りのワクワク感とちょっとした緊張感。夏の日差しが大きな窓から差し込んでいる中、シンポジウムが始まった。

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「この写真は大正15年の小布施の町の真ん中を走る道の写真です。」
シンポジウムの冒頭に挨拶に立った小布施町の町長、市村良三氏の言葉と共に提示されたのは印刷された白黒の写真。

シンポジウムのテーマが「デジタル」なのに初っ端の極端なアナログ資料の提示に驚く。しかし、シンポジウムのサブタイトルを見るとその意図が伝わってきた。

「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
  ~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~

市村氏は、こういう古い資料が雄弁に物語ることを未来に繋げることの重要性を語る。つまり「未来に向かう社会」がよりよくあるための過去と未来のかけはしがデジタルアーカイブだと。ここでシンポジウムのテーマとサブタイトルの意味がしっかり絡まり合ってつながった。

続く、国立情報学研究所 丸川雄三氏による基調講演。

「たとえば、このまちとしょテラソは何となく本を読みたくなるような図書館。その何かしたくなる、というのが大切。あるだけで何かしたくなる、そんな風に“文化”を発信していくことで何かが生まれる土壌になる。」

そう話しながら大きなディスプレイに触れる。サムネイルの風景画が一気に全画面表示になり、さらに部分拡大も。トラの画像を拡大すると今にも食いつきそうな迫力に。

確かにこれは、いじりたくなる。

こういう作品は美術館で実物を見るか、美術全集のようなもので写真で見るしかない。が、ガラスケースやフェンスに囲まれた本物には近づくことが出来ず、美術全集では写真の画像の細部の陰影はつぶれてしまう。けれど、デジタルの映像はあざやかで、拡大しても細部までくっきり見ることが出来る。様々に作品を“いじって”いるうちに、いろんな“発見”もありそうだ。

「何かが生まれる土壌になる」……なるほど、確かにうなずける。

丸川氏は文化財をデジタルデータ化し、たくさんの人達がいろいろな形で活用できるよう研究を進めている。これをデジタルアーカイブと呼ぶのだが、「これは、記録のデジタル化と言うよりは、“電子記憶”と呼んだ方が適切」という。

単なる記録ではない、単純に文化財をコピーするだけでもない。そこに“情報”を加えて一緒にデータ化することでコピー(記録)ではなく文化的な財産として価値をもったひとつの新たなデータ(記憶)になる。「人の手による作業」というアナログ的なものが加わり、埋もれていた文化財が生き生きとよみがえる、それがデジタルアーカイブだ。

こうしてよみがえった記憶を活用しやすいようにデータベース(目録)を作り、そこではじめて、人々はこの新たな記憶を「コンテンツ(記事)」として活用できるようになる。誰もがわかりやすく簡単に記憶をたぐり寄せることが可能になる。

たとえば、ジンボウナビ。古本屋の町、神保町のガイドがタッチパネルで自由に呼び出せる。絵引きギャラリー。画面に並んだたくさんの画像から興味のある文化財にタッチしてその詳細を知ることが出来る。そしてさらに、まちとしょテラソにも備えてある“連想検索”「想-IMAGINE」。キーワードをもとに関係図書・情報を探すことが出来るシステムだ。

さらにコンテンツをもとに新たなテーマでまた別のコンテンツを組み上げる。それを「メタコンテンツ」という。その例として丸川氏が見せてくれたのは「葛飾北斎」というキーワードから情報を集めた「連想新聞」だった。メタコンテンツと聞いてもピンと来なかったのだけれど、「連想新聞」の話を聞いて思いだしたことがある。

わたしは教員時代、中3生の修学旅行の「栞」を作るときに生徒とこれをやっていた。目的地は京都・大阪。金閣寺・清水寺、USJ・海遊館……。1人1カ所を担当した生徒たちはPCでそれを調べ上げ、他の生徒がそこで何をどんなふうに見たらいいのかのガイドを創った。

USJではどんなアトラクションがあって、どこにどんなおみやげがいくら位で売っているか。金閣寺は誰がどんな時代になんのために建てて、どこが写真スポットで……などなど。まだPCの扱いにも慣れない生徒たちが、自分の行きたい場所のガイドを作るうちに思いもかけないデータを集め、それをコピペし自分たちで見出しや解説をつけながら創り上げた自分たちのためのガイドブック。

わたしは見ていてその発想の豊かさや、視点の面白さに感心した。教師が教えるという観点で作る栞はそれなりに意味がある。だけど、生徒たちが自分で行きたい場所を人に伝えたいという想いから創り上げたそれは、荒削りだけど「伝わる」「わかる」という点ですばらしいものだった。

「メタコンテンツ作りは、必ずしも専門知識が必要ではありません。」

丸川氏のその言葉に、わたしは大きく心の中で同意した。市販のガイドブックやテレビの情報から選んだ目的地について生徒たちはほとんど何も知らない。だから一生懸命に調べる。わからない、知らないからこそ掘り下げる視点は目新しい。そこから「生まれる」新しい発見・認識や価値観。

まさに、過去の財産を今によみがえらせ、未来に繋げるかけ橋。今を生きる子供たちが、過去に学んで新しい価値観を想像するためには大きな力となるはずだ。

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「今日の講演、学校の先生は聴きに来ているのでしょうか?」

丸川氏の基調講演で,このテーマは学校現場にもものすごく必要なものであることを感じたわたしは、講演後の休憩時に花井館長をつかまえて質問した。

授業で教え込まれることの多い「学校」の中で、自ら学んでつかむための大きなヒントがここにある。おまけにこのまちとしょテラソは小学校に隣接している。これだけハードもソフトも充実し,それを使いこなす人がいるすばらしい施設を活用しない手はないし、今日の講演も先生たちが聞いたら、絶対に現場で役に立つ。

だけど、答えは残念ながら「NO」だった。まちとしょテラソが今回のサブテーマにかかげている「100年後の小布施人へ伝えるもの」……その100年後の小布施人に繋げていくのは、まぎれもなくこの小布施町の子供たちなのに………。その子供たちを実際に学校で育てる者が誰も来ていない……。

それは、ものすごく残念でもったいないことだ。こんな風にどんどん発信しているパワーあふれるスポットが近くにあるのに。「外に飛び出す図書館」がある町で学校はいまだに外と繋がろうとはしていない。せっかくの発信も受けとめるべきところが受けとめないと繋がってはいかない。

それは、ここ小布施に限ったことではないと思う。いや、小布施でさえもまだ難しい課題なのだとしたら……まだまだ、「未来を作る子供たち」に過去の財産を繋げていくのは難しいことなんだなぁ……と、ものすごく残念に思った。

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休憩後、「小布施百人選」の紹介が花井館長から、小布施の町内旧家文書デジタルアーカイブ実例集が小布施史料調査会の小山洋史氏から、「小布施ちずぶらり」について開発者の高橋徹氏から、「鴻山文庫」デジタルアーカイブの紹介が国立情報研究所の中村佳史氏から発表された。ここではその概要を掲載する。

小布施百人選:小布施町を作った人々を100人選定。町づくりの想いと知恵を本人が語ったものを映像と書物にて「人物史」としてアーカイブ化。先人から学び、今を生き抜く羅針盤の役目を果たすものとして,また未来へのタイムカプセルとして考えていく。……100年後にはすべてが大切な宝物となるはず。 (花井館長)

町内旧家文庫:小布施町の旧家に眠る資料を集めてデジタルアーカイブ化。横浜国大の協力を得て、検索システムを整備。調査しているうちに新しい史料(葛飾北斎の書状)も発見された。 (小山氏)

小布施ちずぶらり:iPod,iPhone用に開発された地図アプリ。18世紀後半の小布施の古地図・オリジナルイラスト地図・Google Mapを切り替えつつ、GPSで現在地を表示しながら小布施の街を歩くことが出来る。いろいろな人の作った地図を活用して拡げる研究も進められている。(高橋氏)

鴻山文庫のデジタルアーカイブ化
:旧小布施図書館に眠っていた高井鴻山の遺産「鴻山文庫」をまちとしょテラソに整理・保管。人々が閲覧できるようにデジタルアーカイブ化。立体感のあるあざやかな映像として鴻山文庫がよみがえった。地方文化を支えた鴻山の「コレクション」の固まりを財産としてまとめた。(中村氏)

小布施の町の財産が……100年後につながるものが今このまちとしょテラソを中心に宝の山として積み上がりつつある、そんな感動を覚えた。もし、小布施を訪れる機会があるのだったら、是非まちとしょテラソに寄ってそれらを体感して欲しいと思う。

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3時間半に及ぶシンポジウムのラストは発表者すべてによるディスカッション。今日の濃密な発表に呼応するように深く鋭い質問が飛び交った。

「デジタルアーカイブ」はまだまだ人の中への浸透率が低い。プラスの面ばかりでなくマイナス面、デメリットも当然あり、それは発表者各自もメリット同様に明言していた。また、普及にはソフト・ハード両面や環境面での困難さも多い。その点を発信するもの、受けとめるもの、両者がきちんと理解し合い、ふまえながらこの先も進めていくことの大切さが語られた。

個人情報の問題・著作権の問題。古地図を扱うには差別の問題も。一般に「公開」すると、かつてグーグルアースのストリートビューで問題になったような様々な問題が浮上してくる。法規制や個人のプライバシーをふまえてこれらに取り組むことと「情報の公開」との間にはまだまだ課題がたくさんある。

さらに二つ、大きな課題が提示された。

「なぜ、小布施(まちとしょテラソ)からの発信」なのか。そして「なぜ今、この時に無駄かもしれないことに金をかける」のか。

この答えについては,きっと今すぐには明確な回答は出ない。100年先になってはじめて見えることに今地道に取り組んでいる過程なのだから。けれど、今回のパネラー各氏の回答の中に、今も大切な想いが……将来につながる想いが浮かび上がってきていた。それは、過去の大いなるものを今よみがえらせ、未来へと受け渡す地道な努力を積み重ねている各氏だからこその言葉なのだろう。

小布施は実験の大好きな町。まずやって見よ、と遊ばせてくれる町。人のためになるのだったら進んで「小布施モデル」を作ろうとする気質がある。もしかしたらそれは、北斎はじめ「よそ者」を受け入れるばかりかつかんで離さないおぶせびとのDNA……。福岡出身で自らも小布施につかまれた花井館長が語る。

おぶせびとの小山氏(氏は小布施で天明時代から味噌を商う穀屋の主人でもある)がそれを受ける。城下町でも門前町でもなかった小布施は、市で成り立ってきた町。情報や人やものが外から入ってこないと成り立たなかった町。入ってきたものを発酵させて生きてきた。だからよそ者大歓迎の町だった、と。

そんな小布施町が、公費をかけて一見報われないもの(無駄なもの)と思われるものになぜ取り組むのか?という質問に答えて花井氏。

「地球を作ったのは僕たちじゃない。過去の100年、未来の100年の中で今、僕たちが生かされている。僕たちは今の人達だけのためにサービスするのではなく、もっと長い物差しで公務にあたり繋げていくための努力をするべき。」

受けて丸川氏が今、文化庁を中心にした取り組みについて語る。
「日本が文化的なものをどれだけ発信するのか、それがとても大切になってきている。急がないと失われつつある文化遺産の維持が難しくなってしまう。」税金を使って文化事業に取り組むことが急務である実態と共に、「IT化によりコスト削減の効果も考えられる。そういう期待に応えられるだけの成果を上げないといけない。」と、公務として取り組むものの覚悟も。

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3時間半にわたるシンポジウム、最初は長いなぁ……と思っていた。

けれど、これだけの濃い中身と課題の提示、その検討の時間は気が付くとあっという間だった。多分、まだまだ語り尽くせない想い、聞き出したい問題、そういうものもたくさん残っていたに違いない。けれど、それらはこれからの小布施やまちとしょテラソの取り組み……「小布施モデル」から我々が受けとめるものだろうし、またそうしていくべきなんだろう。真剣に我々を先駆ける小布施の姿から見つけ出すものなのだろう。

最後に再び挨拶に立った市村町長はこう語った。

「今の世の中、ものの尺度になる物差しが小さくなってきている。だからこそ我々は、いくつもの様々な物差しを持たないと危険だ。今、空気を読むことが大切といわれているけれど、この“空気”に対抗できるだけのものがないといけない。そのためには様々な物差しが必要で、それを生み出していく取り組みのこれからに期待したい。」

人々の地道な努力と積み重ね。それは、決して表に華やかに示されるものではない。いつの間にか町の片隅で,家の中で、実用化されて活用されていく。けれどもこの蓄積があってこそ、未来を作る子供たちの活動につながっていく……。という司会の中村氏は最後にこう締めくくった。

「100年前から100年後へ。この理念を持って今、誇りに思い伝えるべきものを伝える努力をする。ここからがまた新たなスタートです。心して遊びましょう。」

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小布施という北信濃の小さな町。
そこに静かに、しかし熱く積み重ねられつつあるものたち。今はまだ、その価値も真価もわからない。もしかしたら風に吹き飛ばされる小さなチリのようなものかもしれない。

けれど、長い長い昔からのものを今、受け継ぎ、熟成し、発酵させながらまた新たな物を生み出し、そうしてこの先の長い長い年月を繋いでいく。出発は小さな吹きだまりかもしれないが長い時を経たその先に、それはやがて積み重なって地層を形成し、この先の時代を構成する大きな山へと変貌していくのだろう。

今を生きる我々は、それを受けとめ受け継ぐ。未来を生きる人のために。未来を作る人達のために。

「図書館は、今まで何処もみんな同じが当然でまったく“議論”してこなかった。もっとお互いに情報交換しつつ、それぞれの立場で違う業態があっていい。うちはうちで持っている情報がある。それを編集して自分たちなりの表現をしていくことだね。」

この日、すべてが終わったあとの懇親会で伊那図書館の館長である平賀研也氏はこうつぶやいた。

小布施町の試みから発せられるエネルギーが、伊那市につながった。これが長野県、さらに日本の国をおおって巻き込んで拡がっていくことで、新しい未来につながっていくに違いない。それを受けとめるのはわたしたち。そして繋げるのは子供たち。

小布施の真似は決してできない。まちとしょテラソと同じ事をやっても意味がない。この発信を受けたもの……図書館も、学校も、役場も、地域の住民もあらゆる職種の人々も……それぞれがそれぞれの立場でできる小さなチリの積み重ねをはじめること。

その「小さな積み重ね」がみんなひとつに集まれば山となり、長野県、日本、そしてやがては世界の宝となって100年後につながっていく。

まちとしょテラソの1周年は、100年後への第一歩をここに記して盛会に終わった。

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写真・文 駒村みどり

細い山道のかたわらに、おい菜のおかみさんから聞いた「クリンソウ」の看板。わずかな空き地に車を停めて、坂道を下っていくと……そこはまるでおとぎの国の世界だった。

木立に囲まれたその向こうには大池の静かな水面。そして、手前にはピンクのじゅうたんを敷き詰めたようにクリンソウの花畑。

夢中になって写真を撮って、時間がおしているので次へ向かおうと立ち上がった時、木立の向こうに何か白いものの影。ぱっと見あげると、そこには……白鷺の群れ。

何物にも染まらない純白の大きな鳥が、それも5~6羽飛び交っている。長野県では田園地帯の田んぼや川辺に1羽で佇んでいる光景は見かけることがある。けれど、こんなにたくさんの野生の鷺を見るのは初めて。まるで舞を舞うようにくるくると……最初は池の水面ギリギリを飛び回り、次第に高度を上げて空高く小さくなっていき、やがて青空に吸い込まれるように消えていった。

それはまるで、ひととき夢の中か物語の中に飛び込んだかのようで、しばらく私はそこを動くことができなかった。

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「ああ、大池のクリンソウ、見てきたんですか。
実は、あの花、かつてはあの池のまわりにびっしりと咲いていたのですが、持ちかえる人が出てしまって、だいぶ減ってしまったんです。ですから今は、吹いて飛ぶような種を採取し、それを11月にまいて保護活動をしているのです。」

そう教えてくれたのはこの大鹿村の旅館、赤石荘のご主人の多田 聡さん。この言葉にかなりの衝撃を感じました。さっき見てきたあの夢のような世界が、実は大鹿村の人びとの手によって守られているものであって、もっというと守らなくてはならない状況がそこにある……つまり、あの美しい光景を自分だけのために破壊する人がいるのだ……というその事実。

タイトルに揚げた「日本で最も美しい村」。これはNPO法人「日本で最も美しい村」連合に参加している村々のことです。この活動の概要はHPでこう説明されています。

近年、日本では市町村合併が進み、小さくても素晴らしい地域資源を持つ村の存続や美しい景観の保護などが難しくなっています。私たちは、フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスで最も美しい村」活動に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る活動をはじめました。名前を「日本で最も美しい村」連合と言います。

「失ったら二度と取り戻せない景観・文化を守る活動」。つまり、この活動に参加している村々は、「日本で最も美しい自分たちの村を誇りに思い、大切に守り、そして後世にその美しさを引き継いでいく決意表明をした」村々、ということになります。

多田さんのクリンソウの花の保護活動の話を聞いて想い出しました。青いケシの記事に登場した中村さんも、実は中村農園のHPを見るとその美しさを守る苦労をされているのです。

※花を摘んだり地面から抜いて持ち去る方がいますが、ご自宅へ持ち帰ってもすぐに枯れてしまいます。最低限のマナーを守り楽しい時間をお過ごし下さい。

太字で2行のこの文章に、中村さんはどんな想いを込められていたのでしょうか。かなりの困難の末にあそこまで丹精し、見に来る人びとのためにと心を砕いてきたのに、心ない人のためにその心と貴重な花が失われてしまうのです……。

クリンソウも、青いケシも。どちらも訪れる人たちの目を楽しませてくれます。それは「大鹿村」という場所にあるからこそ美しいのです。そこにいる人びとが心を込めて慈しんできたからこそ、美しいのです……。

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さて、多田さんと、先ほど中村さんのところで話題になった「大鹿村騒動記」の映画の話になりました。中村さんは、歌舞伎役者として出演されるそうですけど、多田さんも出たんですか?とお聞きすると……

「あ、出ましたけど、本当に一瞬ですよ~。ぼくの出番は村のリニアモーターの賛否についての討論会の場面でしたよ。ぼくの後ろから松たかこさんがお茶を渡してくれるんですけど、振り返りたくても振り向くわけに行かなくてねぇ……。」

いやぁ、それは大変でしたね!といった後で、「リニア」という言葉に引っかかりました。現在、国やJRを中心に東京と大阪を結ぶリニア新幹線の計画が進められています。そして、そのルートとして大鹿村をトンネルで縦断することがほぼ決まっている……らしいのですが。

「いや、じつは、村の者のほとんどがちゃんと説明受けていなくて。どうやらこの赤石荘のすぐそばを走るらしいんですが……まったく情報が入ってこないで、僕らも新聞の記事でようやくいろいろと解るといった有様なんです。」

その言葉にふたたび私は衝撃を受けました。リニアのルートについては大鹿村を通るということで、村を見守る山のどてっぱらに風穴を開けるという行為について、何とかならないものなのだろうか?と思っていた私は、もう少し詳しくその話をお聞きしてみました。

……なぜ、誰にも説明がないままにルートが決まってしまっているのですか?

「実は、トンネルが通るあたりの一帯は個人の土地なんですね。それもリニア賛成派の議員さんの。その人がその土地を売るといえば、誰も文句は言えません。誰に説明がなくてもそれで話が進んでしまうんですよ。」

確かに、その土地の持ち主が売るといったら、文句は言えないでしょう。けれど、売った土地にトンネルが開いて毎日そこを新幹線が通る。ずっとトンネルなら振動があっても騒音はそんなにないでしょうが、予定地は山と山の間に川が通る谷あいの場所。トンネルから一旦外に出てふたたびトンネルに入ることになるため、その騒音は谷に響いて村に襲いかかることは容易に予想されます。

それは、たった1人だけの問題ではありません。村全体に関わって来ることのはず。なのに、それについて村全体には何も知らされず、知らない間にルートが決まっているのです……そんなことが行われているなんて……。

「………たぶん、トンネルが通ったら、トンネルの影響を受ける釜沢地区の人びとは村を出て行ってしまうでしょうね。」

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釜沢地区と聞いて、私は2年前に見た光景を想い出していました。文化庁の支援プログラムの一環で大鹿歌舞伎について取りあげた時、赤石岳を間近で見たくて大鹿村の中心部からさらに4~50分のところにある釜沢地区に早朝、車を走らせたことがあるのです。

(これはその2年前の3月に撮った写真です。リニアのトンネルは、この右側の山を貫通するのです。)

まだ午前中の早い時間にそこに行ったにもかかわらず、そして、かなり山の奥深くの場所に踏みいったにもかかわらず、なにやら遠くの方から工事の音らしきものが聞こえてきていました。そのあたりではダンプカーやショベルカーが何台か作業をしていたのです。

「ああ、それは、ちょうどその頃に試験掘削が行われていたんでそれでしょう。実は、あの時の騒音がもとですでに一軒、大鹿から出て行ってしまったご家族があるんです。」

山に囲まれ、町から隔離されたかのようなこの村。村の面積的には長野県で三番目に大きいけれど、そのうちの98%が山林で、人が住んでいるのは残りのたった2%。それも山のあちこちに小さな家の固まりがぽつぽつと点在しているこの村には、会社や企業はありません。

かつては林業が主幹産業であったけれど、もはやそれでは生計が成り立たず、職を求める者は村を出るしかありません。残っている人びとは農業を中心にほぼ自給自足に近い生活をしながら、周りの人々と助け合って静かに暮らしているのです。

「日本で最も美しい村」の活動に加盟し、その豊かな自然や静けさ、遙か昔から受け継がれてきた大鹿歌舞伎の伝統を守りながら静かに生きてきた村に、大きな機械が何台も乱入して山肌を削る。想像するとそれはかなり痛々しいこと。

村の人びとに情報がなにも入らないままにこういうことが起きていて、映画にも描かれたように、「リニアが通る」ということに対して危惧の声があったにもかかわらず、それは音もなく静かに進められています。それでは一体なぜ、そんな理不尽が認められているのでしょう?

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大鹿村は、「限界集落」です。限界集落というのは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって社会的共同生活の維持が困難になった集落のこと。

「実際、ぼくと同じ年代のものはほとんどいません。子育て世代が村にあるかどうか。」

豊かな自然を守って、大鹿の生活を支えているのはほとんどが高齢の方。先のクリンソウの保護活動に当たっているのは、ケシを育てている中村さんや、おい菜のおかみさんや、OBの協力を得て活動する大鹿村の「商工会青年部」。

村の40才までが所属する青年部の部員は今、多田さんたった1人です。そして多田さんが40を迎える2年後には、 “無期限休止状態”になるのです。

「そうですね、工事が始まったら……村には仕事ができて、人が入ってくる、という『メリット』もあって、それに対しては……反対派も何も言えないんです。」

実際工事が始まったら。この山奥の村にも「仕事」ができる。そしてその仕事をするために工事の期間は人が増える。少なくとも「肉体労働」をする年齢層の人びとが村に入ってきて、しばらくの間そこで生活をする。食事を取り、宿を必要とし、それは村をある期間、活気づかせることになる。

つまり「限界集落」として子育て世代や働き手世代が少ないこの大鹿村が一時期であれ活気づくのは、確かなことに違いありません。

リニアの工事はある一定期間で終了し、やがて山を貫いて新幹線が走ります。村に残るものは、リニアの振動と騒音だけ。駅ができるのは山をくだった遥か遠くの飯田市街地。東京と大阪を1時間で結ぶことをうたい文句にしているリニアが1日にいったい何本飯田に停まるのでしょう?飯田という「田舎」に停まる利点はほとんど無い。さらにそこから客足がこの大鹿村に向かうこと自体、まったく考えられないことになります。

大鹿村を訪れる人びとは、その村の美しい自然と静寂に惹かれてやって来ています。工事で人が増えたとしても、工事が終わったあと、大きな穴があいて騒音と振動がやって来る大鹿村を、以前の常連さんが同じように訪れてくれるでしょうか?

それに対して、説明がないため村全体の意志統一や意志確認もできず、討論の場も与えられず訳のわからないままに、水面下でリニアの計画だけが着々と進行している。

それが今、大鹿村の直面している大きな問題なのです。……そしてそれはある意味、原発問題にも共通するところがあるのかもしれないと、ふと思ったのでした。

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赤石荘には、目の前に大鹿村の山々が迫る露天風呂があります。日帰り入浴が可能です。気持ちよさそうなその温泉に入る時間は残念ながら無かったので、そのまま多田さんにお礼をいうと赤石荘をあとにしました。

「あちこち工事中で大変で……生活するのには本当に困ります。」

赤石荘に着いた時、多田さんの奥さんがつぶやいていましたが、村の中心から赤石荘につながる道も、実は今「通行止め」です。青いケシを見に行く時にもあちこち通行止めだったのですが、大鹿村は古より崩落との闘いを繰り広げていました。

そういう崩落の危険性のある細い山道をようやく拡げ、飯田や宮田村からのルートが確保されました。けれど、私が帰りにそちらのルートを行こうとしたら、そこもまた工事中や崩落修理で通行止め。

大鹿村に至る道は困難を極めます。それが都市部から切り離された美しい自然や、伝統ある文化が守られている大きな理由でしょう。でもそれがゆえに都会の利便性からもまた切り離され、だから若い人手が流れ出ていくことになる。

理想と、生きる事による現実と。
たぶんこの問題は、今までもこれからも、日本のあちこちで途絶えることなく討論し続けられていくことなのでしょう。その「正解」は……繰り返される過去の歴史を見返すことでしか見つけられないのではないでしょうか。

1つだけ私にできることは、この問題を「対岸の火事」、「知らない土地の関係無い出来事」と思わず、自然と闘い、その豊かさ・美しさに心を砕いて守る人びとが、しかしそれゆえに生きるため、村の存続のための闘いも続ける宿命にある人びとがいる、ということを心に留めて行くこと。

美しい自然は、決してただでは得られません。豊かな自然は、一度破壊されたら元には戻りません。なくなった村に人が戻ることも容易ではありません。美しい自然はそれを愛する人たちの思いの上に守られてきたことを……そして都会の利便性はこうして失われたものの上に成り立っていることを……私たちは決して、忘れてはならない……そんな思いを胸に抱きながら、新緑の大鹿村をあとにしました。

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大鹿村HP http://www.vill.ooshika.nagano.jp/
日本で最も美しい村 HP http://www.utsukushii-mura.jp/
赤石荘 HP http://www.akaishisou.com/

「こっちですよ」

案内の声に導かれて、受付から一段高台にある畑に着いた時、まるで青い空のかけらがこぼれ落ちてちりばめられているのかと思った。

それは、青いケシ。
青いケシが何株も目の覚めるようなさわやかな花びらを拡げてそこに咲いていた。
「ヒマラヤンブルー」という名を持つ、ケシの花の畑だった。

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駒ヶ根の市街地を抜けて細い山道をぐんぐん登り、パワースポットとして注目のゼロ磁場、「分杭峠」を越えると今度は長い細い山道を下ります。それはかつての「杖突街道」。今は国道152号線ですが、国道とはいえ、横には中央構造線に添って鹿塩川が流れ、反対側には切り立った山がひろがるこの道は、所々で車のすれ違いさえも困難な細い山道なのです。

突然、右の川の方から車の前を横切る大きな影。「危ない!」と急ブレーキを踏んでみると、大きなシカが道を横切ってあっという間に左の山の中へ消えていきました。

ここは、南信州にある「日本でもっとも美しい村」の1つ、大鹿村です。
その名にあるように、山あいの道を走るとたくさんのシカに遭遇します。……そのくらいの、山道なのです。

そして、ようやく少し開けた場所に出てくると、道のまわりに畑や田んぼが拡がり人家もちらほら見え始めます。この国道沿いに点々と散らばる人家や学校。やっと開けた場所にでてきてホッとしたのもつかの間。今日の目的地は、ここが終点ではありません。

カーナビの示す道をさらに山の方に上ろうとしたら「崩落により現在通行止め」の看板。あきらめてぐるっと山に添ってまわり、もう一つ次の道へ向かうと、そこもまた「崩落により………」。
もしかしたら、目的地に到達できないの?とおそるおそる次の道へ向かうとそこは何とか登ることができそうです。

そこから車はまた天をめざします。
ここからは片側が険しいがけ。所々ガードレールもない場所があり落ちたらひとたまりもないのでしょう。車のすれ違いも難しい細い道で、対向車が来ないことを祈りながらひたすら上を目指します。

そうして延々30分も上った頃でしょうか。要所要所の小さな看板が案内してくれていたその場所にようやく到着しました。
「青いケシ」……その小さな看板にはこう書いてありました。

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「はじめて青いケシが咲いてから、今年で17年目になるよ。」

ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原にある中村農園。そのご主人である中村元夫さんは、ここで様々な花を育てて東京や大阪に卸す仕事をしていました。

青いケシとの出会いは切り花のカタログを見て。普通は標高2000メートルから3000メートルの、気温が25度以上に上がらない、しかし適度な雨の降る土地でしか育たないこの青いケシに興味を持った中村さんは、ここ大鹿村の自分の農園でもなんとかできるかもしれない、と日本では不可能といわれた青いケシの栽培に取り組んだのです。

青いケシは、種をまいて1週間ほどで発芽します。そして本葉がでるまでの約一ヶ月間に温度と水分の管理でものすごく手をかけねばなりません。初めての時に中村さんがまいた種は3000で、そのうちきちんと苗として育ったものは300未満……たったの1割だけでした。

さらに、その1割の苗を植えて大切に守り育て、花が咲くのは翌年の6月……1年以上の時を経て、ようやく「開花」を迎えることが出来るのです。その初めての花が開いてから今年で17年。中村さんが慈しみ育てた青いケシは今や5000株に増え、毎年梅雨の時期に当たる6月はじめから7月はじめまでの一ヶ月間、一斉にその青い花を開いてたくさんの人たちの目を楽しませてくれるようになっています。

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この青いケシは先にも書きましたが、高温に弱く、気温が25度以上に上がるところでは育ちません。ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原はギリギリで、昨年の暑さで弱ったりダメになったりしてしまった株もあるそうです。そこに加えて今年は春の天候不順で、例年は一気に5000株が開くのがだいぶばらついてしまったそうです。

「でもね、ばらついてくれた方が逆に長く花が楽しめるので、たくさんの人に見てもらえるしね。」

中村さんは1人でも多くの人たちが楽しめるように……と、そう言います。

以前は株や切り花の販売もしていたそうですが、5000株もの開花を一度に見ることのできるのは日本……いえ、世界でもここだけかもしれないという専門家のお言葉にもあるように、ここ以外の場所ではこんなに生き生きと育つどころかあっという間に花がダメになってしまいます。「見に来てくれる人」のためもあって今は外には出していません。

中村さんの農園で17年間かけて育てられてきたケシの花の中には10年以上も咲き続けている株があり、1つの株に10輪も咲く株がここにはいくつもあるのです。それもこのケシの専門家の方にいわせると本当に珍しい(奇跡に近い)ことだそうです。

「前はね、種まきをして芽がでてから苗を作るまでも全部自分でやっていたのだけれど、管理を仕切れなくて、5000株のケシの花を維持していくためにもいまは中川村にある育苗センターにお願いしてやっているんだよ。それでようやく、苗になるのが2倍に増えてね。」

中村さんが育てているのは青いケシだけではありません。もともと花の卸しで東京や大阪にたくさんの花を卸しているのですから、他の花も温度や日照など気をつけながら育てています。そのかたわらの青いケシ、なかなか苗に付きっきりで育てるわけにも行かず……2倍とはいっても、もともと種から苗になるのは1割だったのが2割になったというだけ。貴重で難しいことにはかわりありません。外部に苗を依頼するようになってその分費用がかかるようになったので、ケシの花の入園料500円はその「協力金」なのだそうです。

中村さんは、展示会などで一輪見るだけでも貴重なこの”花の宝石”の青いケシ5000株の維持を、見に来てくれる人たちのために毎年丹精込めてしています。ですから、実際毎年見に来るファンも多いようです。私がケシの写真を撮っていると、同じようにカメラを持った年配の男性が「今年はね、ちょっと色ノリが悪いみたいだよ。例年はもっと青が深いんだ。」と教えてくれました。多い時には1日1000人ものお客さんが押し寄せる事もあるとか……この深い山奥に……想像しただけでものすごいことです。

協力金500円を払うともらえる入園券を3年分まとめて提示すると入園料はただになるそうですから、もし見に行くのでしたらチケットは捨てずに記念にとっておいてくださいね。

今年は、先にも書いたように花のばらつきはありますが開花が遅かったので、7月終わりくらいまでまだまだお花が楽しめるという中村さんのお話でした。もし、機会があったら是非ヒマラヤの青いケシの神秘な姿を見に訪れてみてください。

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さて、この青いケシを育てている中村さんには、もう一つの顔があります。それは「大鹿歌舞伎の女形役者」です。中村農園のHPを見ると、中村さんの舞台写真が掲載されていますが、そのやわらかい笑顔を浮かべた横顔を見ると、なるほど、と納得します。

実は、今年の夏……この大鹿歌舞伎を題材にした映画が全国で公開される事になっています。「大鹿村騒動記」というその映画は、「大鹿村の歌舞伎に取り組む」原田芳雄さんが主演で、昨年の大鹿村の秋の歌舞伎公演の収録も含めて大鹿村の光景や、村の人びとがたくさん画面に登場します。

中村さんもその1人。実際に白塗りの顔で舞台に立ち、セリフもちゃんとあるそうです。

「日本でもっとも美しい村」大鹿村の美しい自然や長い間受け継がれてきた大鹿歌舞伎の様子がふんだんに盛り込まれたこの「大鹿村騒動記」。7月16日から全国で公開されるそうですので、是非皆さん見に行ってみてください……そして、中村さんも探してみてください。(「白塗りの顔だから、わかんないとは思うけどね」と中村さんはおっしゃっていましたけれど。)

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中村さんに別れを告げて次に向かったのは、中村農園から数分くだったところにある「おい菜」というお食事処です。実は、「青いケシが6月に見られるのよ!」という情報をくれたのが、ここのおい菜のおかみさんだったのです。(ちなみに、「おい菜」というお店の名は、「おいな=おいでなさい」という大鹿の言葉から来ているそうです。)

帰りがけにおい菜に寄ってみると、ちょうど客足が途切れたところで、一番の特等席に案内してもらうことができました。

店の外のテラスです。やわらかい木のテーブル。正面には中央アルプスの雪をかぶった頂が連なり(千畳敷カールがよく見えました)、左手には遠く飯田の市街地が見えます。高台に張り出したテラスから下を見ると、パラグライダーの発着場で緑の芝生がひろがっています。そして……出てきたのはかりっと揚がった山菜たっぷりのコシの強いおそば(「皿そば」というそうです)。歯ごたえが全然違います。

ここ、おい菜のおかみさんがとってきた山ほどの山菜。「これのおかげで、ほんと腰が痛いわ~」と笑うおかみさん。おい菜にはその他にコロッケ、ラーメン、エビカツなどのメニューがそろっています。また、お店の入口には「鹿肉」や「猪肉」など「ジビエ」も冷凍されて売っています。

おい菜のご主人蛯沢さんはもともとはこの地元の方ではありません(北海道生まれ東北育ち)。大鹿に来る前は埼玉で居酒屋をやっていらっしゃったそうですが、「眠らない都会」から「お日さまと共に起きてお日さまと共に休む」生活がしたいと15年前、大鹿村にやってきて、このお店を始めたそうです。

ご覧のように、大鹿村の山の幸がふんだんに盛り込まれたおそばのコシの強さは、信州そばの味と香りに東北の粘り強さが混じっているからなのかもしれない……とそんな事を感じました。

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【Guide】

中村農園 HP  http://www.osk.janis.or.jp/~aoikeshi/index.html

大鹿そばの店 おい菜
住所:大鹿村鹿塩2459-1
電話:0265−39−2860
大鹿そば ¥1000
営業:4月29日~11月3日(6月は無休)
定休日:火・水・木(祭日は除く)

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「クリンソウ、見てきた?」

ここでまたまたおい菜のおかみさん情報。ここ大鹿村大池高原にある大池のほとりには、ちょうど今「クリンソウ」が花盛りなのだそうです。

「ここからすぐだから、見に行って良い写真とってきてね!」

おかみさんの声に送られて、大池にいって驚きました。
池の畔がピンクで彩られてまるで童話の中の世界のよう……。「日本で最も美しい村」である大鹿村の様々な美しさに感動し、堪能して……しかし、その次に訪れた場所で、その美しさの裏側にある「現実」を私は突きつけられることになったのです。

大鹿村が今、面している様々な変化と大きな波……それは、この次の記事に記述していこうと思います。

まるでおとぎの国のお菓子の家のよう。それともヨーロッパのおしゃれなセンスの良いお家。あまりに背景に見える中央アルプスの山並みが似合いすぎます。

このお店はお菓子屋さんなのだけれど、入口に向かうにはちょっとドキドキしながら緑茂る通路を通っていくので、お店というよりも友だちの家を訪れる感覚。そうしてドアを開くと……正面のショーウインドウには色とりどりのケーキが……。

けれど、私がまず目を奪われたのはそこよりもお店にいる人びとの様子でした。
まず、平日昼間のお客様の多さ。そしてそのお客様の中にお年を召した方の割合が多いこと。それは、正直「ケーキ屋さん」のイメージからしたら意外な光景でした。若い女の子や、ちょっと年配のマダムがおしゃれに立ち寄るのがケーキ屋さん、というイメージが私の中にはあったのですが……。

このお店は元々は和菓子やさんで、お店の一角ではちゃんと和菓子も……それもこのお店に受け継がれる味もしっかりと大切にされているからお年寄りの姿があるのも当然なのかもしれないけれど……。そんな風に思いながら、和菓子コーナーのショーウインドウでお菓子を見ているおばあさんの姿を見て、私はまた、はっとしたのです。

店員さんが……おばあさんの孫と言えるくらいの店員さんが、ショーウインドウの向こうからおばあさんの横にでてきて寄り添ってお菓子を一緒に選んでいる姿がそこにあったのです。まるで仲良しの孫とおばあちゃん。そんなほほえましい姿をそこに見て、このお店の中いっぱいに流れる温かい空気がどこから来ているのかがわかったような気がしました。

驚いたのはそれだけではありません。「○○様~。ケーキのご用意ができました。」……ケーキを選んで包んでもらい、お会計待ちをしていると店員さんが名前を呼んでくれるのです。

温かいなぁ……優しいなぁ……。美味しそうに並ぶケーキや和菓子たちの甘い匂いだけでなく、そんな微笑ましい「甘さ」がお店の中に漂っていました。

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朝7時48分。
お菓子を作る作業工房に、シェフ、パティシエ、店員さんたちがずらっと輪になって丸く並び、その輪の中の1人の女性がきりっと張りのある……それもかなりの声量でこう告げました。

「朝礼をはじめます!」
間髪を入れずその声は続きます。「笑顔体操、はじめ!」
かけ声にあわせて、顔をほぐすことしばし。そのあと「笑顔!」「真顔!」のかけ声でみんなが表情を作る練習。

でも、そこまでだったらまだいろいろなお店でもやっているのかもしれません。
その次に、二人組になるとみんなで真剣にはじめたことが……「じゃんけん」でした。嬉しそうに、楽しそうに。でも「本気」でみんな一斉にじゃんけんを始めます。

そうして次の合図で、勝った方の人から相手に向かって「いいところ」を伝えるのです。昨日見た接客の姿、お菓子作りに真剣な姿、同じ仲間として相手の姿を見て「いいなぁ」と思ったところを相手に時間いっぱい伝え続けるのです。

……皆さん、同じ職場でそれをやるように言われてできますか?それは実はとでも難しいこと。まずはその「相手」をしっかり見ていなくてはなりません。悪いところは目につきやすいもの。でも、いいところというのは相手をしっかり見ていなくては気が付かないもの。そして、それも中途半端に見ていたら、上っ面の言葉はすぐに相手にばれてしまうので「誉め言葉」にはならずにかえって不快にさせることになります。

それを、たった1人だけでなく、職場全員の姿について……仕事をしながら見ているわけですから、これは簡単にできる事じゃないのです。2人組になって、まず相手と握手をして挨拶してから勝った人が時間いっぱいに心から相手のいいところを伝える。当然、自分のいいところに気が付いてもらえたら嬉しいから聞いている方は笑顔になっていきます。心からの笑顔です。

そうして時間が来たら、自分のいいところを語ってくれた相手に心からのお礼を言うと、交代です。また真心のこもった言葉がどんどんと相手に届いていきます。

お互いにいいところを伝えあったら、今度はくるりと回れ右して、違う二人組でまたいいところを伝えあいます。それをみんなが真剣に伝えあっていく中で笑顔と優しさがこの作業工房の中に充ちてくる感じがしました。

「なりたい自分を想像しましょう!プラスのイメージで。イメージした自分にしかなれません!」

次のリーダーの声で、それまでのにぎやかさがあっという間に静寂に変わります。目をつぶって自分の「よい姿」を心に描くのです。そして次に「世界一宣言」。

自分は、これの世界一になる!という宣言を1人ずつ全員が、大きな声で順番にしていくのです。一周まわって全員の「世界一」が出そろうと、次は「HAPPY スパイラル!」……ここまで来るともう、お祭りが最高潮に盛り上がっているかのように皆さんの顔が上気し、声もどんどん大きくなっていきます。そしてその盛り上がりはみんなの意気を一つにまとめ上げていくのです。けれどそれは単なる大騒ぎばかりではなく、次の瞬間はみんなで手をあわせていろいろなものに静かに感謝の心を持つ時間へとつながります。

きれいだなぁ……
目をつぶって心の中で、家族、お客様、仲間、地域の人たち……いろいろな人たちに「感謝」をしている人たちの静かな横顔は、まるで仏像のような穏やかさに充ちているのです。

最後に目を開けて、仲間全員と順番に握手をし、一日頑張ろうと挨拶をしあって朝礼が終わったかと思うと、さっきまでの盛り上がりが嘘のように皆さんさっと自分の今日の仕事・持ち場に向かってそのままそれぞれの作業が始まるのです。

それはもう、鮮やかというか何というか……あまりの見事さに、私は言葉が出ませんでした。
たぶん10分か15分くらいの時間の中で、これだけ濃縮された中身が展開されて職場の仲間の心が一つになり、笑顔があふれ、やる気に充ちて始まる一日。 

ただ笑顔の強制じゃなく、ただ大声の強制じゃなく、ただ形ばかりの挨拶や目標を順番に述べるだけじゃない。見習い研修中の人も含めて皆が同じようにこの朝礼の時間を共有することで、この作業工房の中にやる気と真心をいっぱいに満たしてしまったのです。
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皆さんが朝礼をやっている間に、ふとまだ暗い店内を見渡せるカウンターの上に目が行きました。そこには、何冊も重なった分厚いノート。

どのノートも明らかに、びっしりと書き込まれていることは一目でわかります。たぶんこれは、それぞれのスタッフが書きためている仕事の記録なのでしょう。

菓匠Shimizuのシェフパティシエは、日本やフランスの各地のお菓子作りの権威のもとで修行を積んできた方でものすごくお菓子作りには厳しい方と聞いています。朝礼のあのノリで、意気をあげてその勢いだけで突っ走るのではなく、朝礼のあとはあっという間に仕事について張り詰めた空気を作りあげるのはたぶん、この「技術的」にも皆さんが菓匠Shimizuの味として責任持って胸を張れるものを生み出す努力も怠っていないから……さりげなく積み重ねられたノートのふくらみ方を見てもそれを感じることができました。

その確かな技術と、それから仲間同士の強い支え合いと真心の成果は、この菓匠Shimizuで行われている「夢ケーキ」というイベントが毎年「大成功」を積み重ねてきている実績にも表れています。

この「夢ケーキ」というイベントは、2006年、5年前から菓匠Shimizuで行われているイベントです。2005年に今の場所に今のお店をオープンし、その一周年企画で開催されたこのイベントは、「家族みんなで一つの夢を語ってもらい、その夢をケーキの上に描いてプレゼントする」というものです。

みんなでサッカーをしているケーキ、ロケットで宇宙に飛び立とうとするケーキ……様々な家族の夢を描いたケーキを形にして、その家族に無料でプレゼント……家族に夢を送ろう、子ども達に夢が叶う喜びを届けよう、という思いの元に開催されているこのイベントは、第一回目に6台申込みがあってから年を重ねるごとにその応募数を増やし、第8回には850台ものデコレーションケーキを応募者に届けるという、偉業を成し遂げています。

この夢ケーキの構想は、今や日本の各地に飛び火して共感したお菓子屋さんがそれぞれの想いを乗せた夢ケーキのイベントを始めて来ていて、2010年には8月8日を「夢ケーキの日」とし、さらに今年度はNPO法人「Dream Cake Project」を設立、このお店から発信された「夢ケーキ」の構想が「8月8日世界夢ケーキの日」制定に向けて確実にそのあゆみを進めています。

このイベントがここまで定着し、拡がり続けているのはまぎれもなくこの菓匠Shimizuの「夢に向かって突き進む力」であり、それを現実に叶える技術力でもあります。

デコレーションケーキは生ものですから、作り置きができません。日頃の業務はきちんとこなしつつ、数日の間に何百というデコレーションケーキを作りあげること。それはスタッフがあきらめず、できると信じて心を一つに協力してここに向かうからなのだと思います。

「お客様の夢を叶える」という喜びのために、みんなが一つになって、数が多いからと手抜きをすることなく、むしろ妥協を許さない厳しさと、時間や費用などの制約に負けないあきらめない心とで毎年成功しているこの夢ケーキ。ケーキを受け取るお客様の笑顔をエネルギーに、夢が叶うものだという喜びを送り続ける菓匠Shimizuの真心は、世界一の真心。

その真心のエッセンスがたっぷり含まれたお菓子。それはこのお菓子を食べた人たちにこれからも伝わり続けていくことでしょう。

いつかきっと。カレンダーに書かれる日が来るに違いありません。
「8月8日 世界夢ケーキの日」………と。

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さて。
この朝礼でお会いできなかった方がいます。

この菓匠Shimizuのオーナーシェフであり、朝礼を提案し、夢ケーキを進めてきた清水慎一さん……菓匠Shimizuの三代目です。

厳しさの中にも本気の笑顔でお菓子を作り続けるスタッフとこのお店を引っ張る清水さんとは……一体どんな方なのでしょうか?改めてこの次の記事で取り上げたいと思います。

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢」へつづく)

 

どこまでも細く続く山道をうねうねと上っていく。

「本当に、こんなところにあるんだろうか?道間違えたのかなぁ?」と、思わず不安になったその時。

小さな川に架かった橋を渡るその直前に、橋の向こうの道に沿った日の当たる山の斜面に目を奪われた。

「うわぁぁぁぁ……すごい………。」

思わず絶句した三年前の春。

駒ヶ根に住むお友達が教えてくれた駒ヶ根市中沢の「花桃の里」。「桃源郷」という言葉があるけれど、それはきっとこういう場所のことなのだろう……と思わず納得してしまったほどに、そこは美しかったのです。

山と山に囲まれた狭くて日影の細い道が、川端で開けて日当たりの良いその場所に、赤、白、ピンク……色鮮やかな花桃が咲き乱れていました。

訪れたその時は、ちょうど満開。さらに快晴で青空が拡がり、花桃たちは春の日を浴びながらきらきらと輝いて咲き誇っていました。花桃だけではありません。芝桜が川岸を覆いつくし、レンギョウや水仙といった春の花々が皆一斉にお日さまに向かって花開いていたのです。その有様はとても印象的でした。

それまで「花桃」という花の存在自体を知らなかったのですが(果実用の桃の花は見たことがあるのですが)その「花桃」の可憐さやあでやかさに魅了され、それ以来春の光景というと桜と並んでここの「花桃」を思い浮かべるようになりました。

その花桃の里についての「ある情報」が耳に入ったので、3年ぶりのこの春、再び訪れてみようと思い立ったのです。

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実は……この花桃の里を作りあげたのは「たったひとりのおじいちゃん」なのです。

宮下秀春さん。

花桃に包まれた「休み処 すみよしや」のご主人です。

「ここはもともと家が持っていた土地なんだけど、この急斜面に小さな棚田が7枚あっただけでね。川も荒れてた。退職のちょっと前から定年後の楽しみに……と思って、子どもや孫が遊べるようにと川の整備をはじめたのが平成3年だったな。」

「花桃を植えだしたのはその翌年の平成4年だったよ。で、店の建物を建てたのも同じ年。どうせやるならお店をやった方がいいのでは?と勧められてね。」

そうして定年後の楽しみとして整備をした川には、毎年夏になると駒ヶ根中の保育園の子どもたちが、順番にバスに乗って水遊びにくるそうです。

「管理が大変だけどね、特に夏は。だけど子どもたちの声がきこえてくるのが楽しみでねぇ。」

……と、日焼けした顔で瞳を細くして笑う顔はとても優しいおじいちゃん。

花桃は、平成4年から毎年30本〜50本を植え続け、今や800本という数。周り中どこを見てもかわいらしいお花が。不思議なことに、同じ木に白い花と赤い花、ピンクと白、など違う色の花が咲くのです。

「親の木を見れば、その種を育てるのでだいたい花の色もわかるよ。」

桃の花は種をまいて育てるそうです。9月半ばに種をとってまくと次の5月には芽が出て3ヶ月で苗になる。さらに3年たつと花が咲く。それを繰り返して今の花桃の里があります。去年は新聞でも紹介され、駒ヶ根市の「花巡りバス」のコースの一つにもなっていて、各地から訪れる人も増え時によっては渋滞が起こるほど。

ひとくちに「800本」と言っても平成4年から19年。たった1人で、山の急なところにも、川の水のせせらぎの近くにも、この谷のあちこちにある花桃を植え続ける。それは簡単なことではなかったでしょうに、宮下さんの笑顔からは「子どもたちや孫たちが喜んでくれたら」という張りが感じられます。

花桃の他にも、レンギョウや芝桜を植え、育て、そしておととしからは水仙を植え始めたそうです。水仙は年に1500本植えるとか……。本当に……想像を絶する数なのですけど……。

頑張ったんだ、とかすごいだろう、なんて感じは微塵もなくただただ沢山の人が見に来るのが楽しくて仕方がない、こうして人が見に来てくれるのが何よりも嬉しいんだ……という感じです。

その宮下さんがこの花桃の里で奥さんとやっている「休み処すみよしや」さん。
お団子と珈琲のセット。500円です。
ピンクのかわいらしいお団子の中にはあんこではなくみたらしが入っていて、口の中にとろっと溶け出しそれが何ともいい感じでおいしかったです。
(このお団子は、12個ひと箱700円、お土産で買えます。その名も「花よりだんご」というお団子。みたらしでなくごまが入っているのもあります。)

このお休みどころでは、春はイワナのお料理(庭にある池にいっぱいいるんだそうです)、夏はこれもまた敷地内に宮下さんがご自分で建てたBBQ場で炭火の焼き肉、秋には県のキノコの指導員を務めていた宮下さんが山で採ってくるキノコを使った松茸料理を楽しめるとのこと!

一年中、花桃の時期以外にも沢山の楽しみがありそうです。

花桃の里の花咲かおじいさん、お休みどころのご主人、キノコの指導員、などいろいろな顔を持つ宮下さんには、もう一つの顔も。

この地区の小学校中沢小学校では年3回全校での炭焼き行事がありそれを販売するという活動をしているそうで、その炭焼き指導も宮下さんの大切な仕事の一つ。

実は、宮下さんの一番下の内孫さんがこの中沢小学校の5年生なのだとか。
「でもね、おじいちゃんが来るのは照れて恥ずかしいみたいです。」…とお団子販売を手伝っていた宮下さんの娘さんが教えてくれました。

けれど、小さい頃から身近にあるこの花桃の里はお孫さんたちにとっても「残していきたい大切な場所」のようです。

「二番目の息子がね、今、調理師学校に通っていてね……。」と娘さん。

どうやら、このお休みどころには将来若い料理人が入ることになるのでしょう。おじいちゃんが慈しんだ花桃は、その心は。こうして若い世代の夢にもなって引き継がれていくのでしょう。

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南信濃には、こんな風に「個人が作りあげた花桃の里」がいくつか存在しているようです。二年前に訪れた泰阜村にも、それから大鹿村にも有名な個人宅の花桃スポットがあるようです。

こうして美しい景観をさらに美しく整えて次の世代に残していく。
そんな心が、ここ、南信濃にはあちこちに色濃く受け継がれているように思いました。

(写真・文 駒村みどり)

※中沢の花桃の里は、こちらです。

大きな地図で見る

さわやか信州旅.net(長野県観光公式ウエブサイト)での情報ページ

なお、例年よりも花が咲くのが遅れているので、このゴールデンウイークに満開になりそうです。是非訪れてみてください。苗木も販売していますよ。

7月11日、日曜日。天気は、あいにくの小雨模様。
菅平の裾の須坂でさえ肌寒い……さぞかし上は寒いだろうと長袖を着こんで会場に向かった。

けれど、会場に着いたときに思った。
どうやら長袖の必要はなかったのかもしれない……と。

※ここまでのことは「なから」がもたらす可能性(1)をご覧下さい。

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会場は菅平高原グリーンパーク。会場併設のグランドでは夏のシーズンの菅平名物、ラガーマンの練習風景が雨にもかかわらず展開している。

屋内のBBQコーナーは、すでに材料が並び始めて準備が整っていた。そして感じたのがそこの熱気。まだBBQの鉄板に火が入ってもいないのに、なんだかすでに熱いのだ。

「何かが、ここで起こりそう」……そんな予感がびりびりとしてくる。
そして、その予感が的中したことは、そのあとすぐに判明した。

「乾杯!」
間島さんの音頭で乾杯したあと、代表の児島さんの挨拶。それからメンバー自己紹介。
まずはこのイベントの関係者。東京から来たセガレメンバー5名。つづいて長野側の間島さん関係者。みんな話が面白い。というか、つい耳をかたむけて聴き入ってしまう話ばかり。……まだ、ほんの自己紹介なのに。

その感じは、多分わたしだけのものじゃない。だって、目の前にあるごちそうや飲みものを手にとりながら、誰一人として自分勝手に騒ぐ人なんかいない。話す人を見て真剣にその言葉を聞く。40人もの人たちがほそなが~く座っているから決して聞きやすい状況じゃないのに。

「みんなやってたら時間かかるだけだよね、それぞれで話をしながら自己紹介してください~。」

自己紹介はそこで中断。そしてたくさんの「セガレ(とセガール)」たちはたちまち入り交じってとけ合っていった。

参加メンバーの職業は本当に多彩だったし、活動地域もバラバラ。

地元観光地の旅館やホテルのセガレ、レタス農家の方、プロスノーボーダーの方、山野草などの花卉を栽培・通販している方、ステンレス創作をしている方、横浜でシステム開発をしている方、小谷村の写真を撮り続けて発信している方、印刷会社のセガレ、地元の広告代理店の方、などなど。中には遠く南信の阿南町から駆け付けた写真屋のセガレも。

まずは横浜のSEの沓掛さんとセガレメンバーの静岡のミカン農家のセガレ、わたるさんに話を聞く。ネットでこのイベントを知ってわざわざ横浜から駆け付けた沓掛さんは、実家が青木村で農業を営む、まさにどんぴしゃの「セガレ」。

「そうですね、家に戻るのには迷いがあるけどいずれは考えなくちゃならない……。」

田舎に引っ込むとSEの仕事は激減する。しかし都会から仕事を受けようと思うと費用の面で避けられる。今は国内よりも海外に発注した方がずっと安上がりだから。では家の仕事を手伝うか……というと生活の面でもかなり不安だ。

その迷いは、多分「セガレ」たち共通の悩み。東京のセガレたちはそういう悩みについての勉強会や意見交換会を開くこともしている。

そういう沓掛さんを「メンバーにいつでも歓迎しますよ!セガレは会社じゃない、サークルのようなものだし。」と受けとめるわたるさんは、東京で経営コンサルタントをしている。自分の実家だけでなく、農家の人たちがちゃんと生活できる、生活するだけの収入を得られるようになる手助けがしたい、と語る。

「でも、自分が出来るのはアドバイスだけです。自分たちは作っていればいい、というだけの農家じゃ手助けは無理。」

自分の家だけもうかるようにするのは多分すぐ出来る。でもそれじゃぁ「農」を考えたときに意味がない。“日本の農業”がきちんと成立するようにしなくては。そう語るミカン農家のセガレは、誇りある「日本の農家のセガレ」でもあるのだなぁ。

セガレつなぎに身を包むあつしさんは、酒米作りの農家のセガレ。代表の児玉さんが、東北の酒蔵の「セガレ」と縁があり、その縁をあつしさんに結びつけた。あつしさんの実家の造る酒米と、酒蔵のセガレとがコラボして出来上がったのは「オヤジナカセ」という名のお酒。父の日に向けてかなり売れたようだ。

「父の日が過ぎたら売れなくなりましたけどね、でも、父の日用のお酒、という位置づけでいいじゃないか、と思うんですよ。オヤジとセガレを結びつけるきっかけになるようなお酒になったらいいなぁ、と。」

久しぶりの帰省に、オヤジと飲もうとセガレがみやげに持ち帰る、もしくは久々に家に帰る息子と飲もうとオヤジが用意して待っている。帰れないけど感謝の気持ちを込めてオヤジに贈る、などそんな時に、この酒を……とあつしさんは言う。そんなメッセージ性(物語)のあるお酒、素敵だよなぁ。

間島さんとこの企画を盛り上げようとがんばってきたのが同じデザイン会社に勤める関さん。なんでこの企画に関わったのか?と聞いたらこういう答えが返ってきた。

「広告って、人を元気にするためのものじゃないですか。自分はそう思って仕事している。うちの会社は社長始めそういう人が集まってて、間島さんもそう。
広告ってものすごくいろんなことにつながることが出来る仕事。結局、人を元気にすることやそういう集まりの中から情報がどんどん集まってくる。こっちから発信するとまた集まってくる。そうしていろんなところとつながって、どんどんみんなが元気になったらいいじゃないですか。」

……広告は人を元気にするためにある。あったかい言葉だなぁ。

同じく上田セガレチームの大久保さんは、菅平プリンスホテルのセガレ。日本のダボスと言われる菅平はスキーのメッカだけれど、スキー人口は減少、各地のスキー場はどんどん苦しくなっている。

「菅平はまだ、夏のラガーマンの合宿があるからいい。他のスキー場と比べたら落ち込みは緩やか。けれど、この先を思ったら「春」や「秋」も考える必要がある。」

そう語る大久保さんが今取り組んでいることは、“ほっとステイ”。真田町と協力し、都会の子供たちを菅平に泊めて、真田町の農業体験&お年寄りとの交流を組み込んだ体験ツアーだ。このほっとステイ、セガレ代表の児玉さん出身地の武石村がやっていたことで、それを見に行った大久保さんが、都会のクールに見える子供たちが帰るときにお年寄りとの別れに涙を流す様子を見て「これだ!」と思って取り組みはじめたそうだ。

最初は「儲け」のことが頭にあった。採算を考えてがんばったときもあった。けれど、大久保さん自身が「お年寄りの無償の善意」に触れて考えが変わった。この企画は「信州しあわせ村」という団体でやっている。団体自体の儲けなどはほとんど無い。けれど、これを続けることで何か見えてくるはずだ。その手応えは確かに感じている。

現在、このほっとステイは長野県内で武石と真田町の他、青木村、立科、長和村、茅野が「長野県ほっとステイ協会」として横のつながりを持ち、フランチャイズ形式でお互いに支え合いながら活動を続けている。

その大久保さんに、「ここで何が起こっているのか」もよくわからずに引っ張ってこられたのが伊藤さん。「自然回帰線」という名のペンションのセガレだ。伊藤さんは元、自転車のレーサーだったが腰を痛めて菅平に帰ってきた。
彼とはあまりゆっくり話も出来なかったけれど、最初は周りの熱気に押されっぱなしだった彼が、帰った翌日Twitterでつぶやいた言葉は印象的だ。

「一晩開けても興奮冷めやまぬ。それは、きっと自分の中で何かが変わり始めた証拠だと思う。」

間島さんつながりで、カメラの仕事と兼ねてこの集まりに参加した南信、阿南町の写真館のセガレ、後藤さんもこう語る。

「離れて気が付く地元の良さって、ありますよね。自分も、この先写真を通して地元の南信州、阿南(新野の雪祭り・盆踊りで有名)の魅力を伝えていきたいと思っています。こういうイベントがまた開かれるのだったら、都合がつけば遠くても是非参加したいですね!」

セガレたちの集まりの持つ熱は、こうしてまた新たな熱を呼び覚ましたのだ。

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こんな風にたくさんの人たちの話を聞いてまわっているうちに、これだけたくさんの業種、職種、地区の人たちの集まりであるにもかかわらず、あるひとつの「共通点」があるように思えてきた。なんだろう?もうちょっと話を聞いてみる。

「セガレメンバー」の一人、湯田中のりんご農家のセガレ山本さん。彼はやはり幼い頃からりんご農家の大変さを感じて、兄に続き自らも地元を離れた。今、弟が家を手伝っている。「家を継ぐ」事について親は何も言わないし、責められているわけでもない。けれど、かえってそれが辛かった。自分の中では「何も出来ない、何もしていない」後ろめたさがずっとあった。

そんな時に東京で「セガレプロジェクト」に参加するようになった。
メンバーはみな「セガレ」である後ろめたさを持ちながらも、決して後ろ向きにはとらえていない。むしろそれぞれが出来ることをそれぞれの立場でやること、それを「楽しむ」感じ。

地元でりんごの手伝いをするのは、今の自分には出来ない。それじゃ、自分に出来る事って何だ?……そう考えた山本さんは、実家が作って売っているりんごジュースに目をつけた。ただ何もラベルのない瓶に詰めて売っているだけ。ここにちゃんとデザインしてラベルをつけたらどうだろう?

広告プランナーの山本さんは、友人のデザイナーの協力を得てラベルを作った。貼って売り出した実家のりんごジュースの売上げは、今までとはぜんぜん違った。自分も家の役に立った。親も喜んでくれた。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そう思えるようになった。

橋詰さんは旧武石村(現上田市)で、豚とトマトをやっていた農家のセガレ。やっぱり農業のつらさがあって、「継ぐ」という気持ちはなかった。兄は地元にいるが、別の仕事に就き、実家の農業は一回途切れた。

母親がずっと、花作りをしていた。花を育てながらいろいろ苦心する母の役に立ちたかった。そこで橋詰さんは花作りの専門学校に進学するためにいったん地元を離れた。その間いろいろ考えた。
自分の地元の武石村も、若い人たちが離れてどんどん寂れている。それはなんだかいやだった。実家はトマトもブタもやめてしまったけど、農地や設備は残っている。無からの出発ではなく「ある」ところから出来る。……「あるもの」で何が出来る?

そう思って地元に戻り、地元の花屋で働きながら実家の畑で今いろいろな野菜作りに取り組んでいる。彼は農協には入っていない。農協にはいると最低価格は保証されて、安定感はある。けれどそのためにはある程度の量産をしなくてはならない。今の状態で量産を考えたら人手も時間も足りない。そのために無理を重ねるのは何かおかしい。

計画的には出来ないけれど、代わりに自由度はある。自分でやることによって、お金で買えないものが手にはいる。自分が作った物を直接近くの店やレストランに卸して食べてもらう。「おいしかった」とまた買いに来る子供の感想を聞く。

「無理してやることはない。」

今ある農地で、今得られる力で、どのくらいあげられるのかが課題、と彼は言う。

その彼の言葉に同意するのは菅平で有機レタスを作っているまる文農場の小林さん。彼の祖父は上田から菅平の開拓史としてやってきて、その畑を守る3代目セガレだ。
JAは保証があるけれど、そのために量産が必要だ。それにある程度以上には高値で売れない。自分で直接売ったらもうちょっと高値でも売れる。そうして手塩にかけた野菜の販売網を自らで開拓し、自ら積んで配達しに行く。販売地域は主には上田から軽井沢まで。須坂からも売りに来て欲しい、とオファーがあったがそこまでは手が回らないから、と断った。

配達してくれる人を捜したら?というと彼もまた、こう口にした。

「無理はしない、無理をさせないのがいいんです。」

自分の手で運ぶのが大切なんだ、自分たちでやるからいいのだ、そのためには身の丈以上のことはしないのだ………と。

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長野県には、「なから」という言葉がある。

自分に出来ること(やりたいこと)を出来る範囲で、「楽しく」やるのがスタンスのセガレプロジェクト。一方、この集まりにやってきた長野県のセガレたちもまた、みなそこにあるものの範囲で、自分に出来ることを考えて決して「無理をしない」でやっていくスタンス。どちらもみんな、この「なから」な感じ。

今回、この菅平のイベントを取材してみてセガレたちから感じた共通点。それははじめて児玉さん・間島さんと話した日の想いと重なった。

彼らの親御さんたちは、ものすごく大変だった。彼らは小さい頃からその作業の手伝いにかり出された。そして物作りの大変さを身にしみて感じたからそこから離れたいと思った。けれども、親の作り出す物の温かさや大切さもまた、彼らの中には染みこんでいた。親のようにがんばりすぎるつもりはないけれど、でも、大切なものを伝えることはしたい。

そんなセガレたちの想いの行き着くところがこの「なから」なあり方だったのかもしれない。無理しない。多くを望まない。ある物、できることでやれる範囲でやっていく。

がむしゃらに収入を上げるために働く「エコノミックアニマル」と呼ばれたかつての日本人。高度成長の呼び声に踊らされて家族よりも社会、会社、国のために「24時間働きづめ」だった時代。その時代のツケが押し寄せて日本全体が混迷の状態にある今、そのセガレたちが人間らしく生きるために見つけた答えが「なから」なあり方なのかもしれない。

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イベントの最後は、みんなでの記念写真。
参加者の中に何人もカメラマンがいて、それぞれ交代でシャッターを押した。記念写真といったら、みんなで瞬きも我慢しながら緊張してシャッターが押されるのを待つ……のだと思ってた。

最後の一枚は、関さんがカメラの「横」に立った。みんなに声をかけて笑わせる。そしてその笑いの瞬間に、ファインダーものぞかずに、シャッターを押した。


                       (写真提供:関さん、間島さん)

「はい、お疲れ様~!!」(え~?いつ撮ったの???)

最後の記念撮影も、また、なからに終了。
そんな“なから”なセガレたちの集まり(つながり)はこれからの大きな可能性を秘めて幕を閉じた。

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セガレHP

写真・文 駒村みどり

大都会で。ネット上で。
偶然の出会いが拡がってそれが重なり合い、そしてひとつの熱い固まりになった。

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2年ちょっと前、東京のとある勉強会で偶然出会った3人の若者たち。
きっかけの言葉は、「実家では、何作ってるの?」

都会では、ずっと口にすることのなかったそのセリフ。
新鮮だった。そしてなんだか嬉しかった。こんな話が出来ると思わなかった。

一緒に会って飲みながら語りあうようになった。
かすかに感じていた後ろめたさ、そのマイナスの想いを「モチベーション」に換えて「行動」した。好評だった。後ろめたさが薄れて、さらに「楽しく」なった。

………それが、「はじまり」。

代表の児玉光史さんは、「はじまりの3人」のうちの一人。
長野県上田市(旧武石村)出身で、現在は東京でサラリーマンをしている。高校・大学と野球を続けていた。見上げるように背が高いので「大きいですね」と言ったら「大学の野球部では普通の方ですよ」とのこと。

そんな児玉さんのご実家は、アスパラと米を作る農家だった。
子供のころから家の手伝いをして、感じた農家の大変さ。野球中心の毎日、さらに東京に進学しそのまま就職して、実家の農業とは遠く離れて行きつつある都会の日々にも、「農家のせがれ」であるという意識はどこかにずっとこびりついていた。

何となく、後ろめたい気持ち。家の大変さはわかっている、でも……。
そんな中で参加した、東京での「農を考える」勉強会。そこで出会った他の二人も「同じ思い」を抱えていた。緑少ないコンクリートジャングルで実家の話が通じ、そればかりではなく実家の話題で盛り上がるという新鮮な感覚。

飲み仲間として3人でよく集まっているうちに、ふと思った。
「都会で“農”を考えたら、俺たちはプロじゃないか。この話題に関したら都会では誰にも負けない。」

ちょうどその頃、中国製の餃子の問題があって、「食の安全」について大きな話題になっていた。自分たちの実家には親が丹精し、安心して食べてきた新鮮で誇れる農産物がある。誰よりもその価値を知っている自分たちがそれを売ったら……。

実家に行って、実家の作物を車に積み込んだ。東京有楽町でやっている月に一回の「市」に持ち込んだ。すべて自分たちでやったので、ものすごく大変だった。「売れるんだろうかなぁ」という懸念ものしかかってきたけれど……。

「完売」

すべて売り終えたあとでそれまでとは違った想いが頭を持ち上げてきた。
……この考え方は、この方法は、「あり」だ。

そこからはじめたこのプロジェクト。今は、月に1回第3日曜日に自由が丘で野菜の販売をする活動をメインに、多彩なプログラムが行われている。活動を展開していくうちに、大都会に埋もれていた“せがれ”たちがだんだん集まってきた。


                             セガレHP

スタートは3人の出会いだった。

それが今年の9月で3年目を迎える今、メンバーはどんどん増えている。農家の伜という共通点を持った彼らは、自らを「セガレ」(女性はセガール)と称し、その活動を「セガレプロジェクト」と呼ぶ。

「だけどあくまでも“サークル”のようなもの、草野球のノリなんですよ、これは。」

今のメンバーの数は?と聞くと、答えは50人から70人とのこと、ずいぶんとおおざっぱだ。それもそのはず、入会規約があるわけじゃなく、会費があるわけじゃなく、なにか義務や責任が発生するわけでもない。コンセプトは「楽しく」。各個人が、好きなことを好きなようにやる。やりたいと思ったことを提案する人がいれば、それに参加したい人は参加し、手伝いたい人が手伝う。

「先日初めての有料講座を企画したんですよ。で、そこに集まったのが5人。」

「え?それだけ?」……“5”という数字をきいて、わたしは一瞬そう思った。けれど、続いて出た児玉さんの言葉は、「5人“も”集まったんです。」だった。心から満足そうな笑顔を浮かべて。

児玉さんは続ける。

「有料の講座だとしたら、もしかしたらひとりもいないって可能性だってあるんですよ。ひとりもいなかったら、何も始まらない。だけど、5人来てくれたんです。ひとりでもいたら、何かがはじまる。それが5人も、ですよ。すごいことですよ。」

「草野球」……そうか、草野球だ。

規則に則った試合なら最低9人は必要な野球。けれども、野球が好きでやりたいのだったらボールを握って飛び出せば、壁に向かって投げてとって一人練習も出来る。そこに誰かもう1人来たならば、2人でキャッチボールも出来る。3人いれば、落ちている枝を拾ってバットにしてでも投げる、打つ、受ける……ゲームも成立する。そう考えたら、5人いたらすごいじゃない………。確かに「5人も」と思うよね。

まず枠があって、その枠に何人足りない、という引き算の発想じゃなくて、一人よりも二人、二人よりも三人の方が可能性が増える、という足し算の発想。

さっき「草野球のようなもの」だと表現したこのセガレプロジェクトのあり方は、こんな児玉さんの想いが根底に流れているからこそ成立しているのかもしれない。

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「高校の時、武石村からどうやって通っていたんですか?」

現在は上田市武石地区となっている旧武石村。上田と小諸と美ヶ原を頂点に結ぶ三角形のほぼ真ん中に位置する。美ヶ原に隣接、といったら交通の便がいい?……と思うが実際は上田と松本を結ぶ三才山トンネルを通る道と、佐久と諏訪を結ぶ和田峠を越える道とにはさまれたど真ん中にあり、どちらも武石村は通らない。上田の高校に通っていたという児玉さんだけれど、鉄道は?バスは?と考えてみると、かなり不便だったろう。

「ああ、高校の時には同じ野球部に武石村から3人行っていましたので、3人の親が交代で送り迎えしてくれたんですよ。」

………武石村から上田までは、少なくとも40分以上はかかる。余裕を見て往復で2時間近く。練習時間もきっと朝早くから夜遅く。ご家族は朝は5時くらいに出て送って行き、武石に戻って農作業し、夕方の仕事が終わったら上田に迎えに行き、暗い道を汗と泥にまみれた高校生3人乗せて帰ってくる……。3家族で交代、とはいえ3日に一度上田までの2往復をやる。それも高校の3年間。

それをやってしまう武石村の親御さんたち……話を聞いただけでパワーに圧倒された。

でも、この話を聞いて悲壮感を感じないのはなぜかなぁ。「大変ですねぇ。」と同情するよりも、「いいなぁ、そうやってみんなでやり遂げちゃうの」という、エネルギーの強さに感動した。それは多分、児玉さんから武石村のもろもろのことを聞いたからだろう。「いいなぁ、武石村」……そう思ってしまう前向きなパワーがそこにはあった。

たとえば、地元の野菜や肉を使った「武石丼」というごまみそ味のメニューがある。「武石特産品検討委員会」が地域おこしのためのレシピ公募でグランプリに輝いた武石地域生活改善グループのレシピをもとに考えられた。この武石地域生活改善グループの代表が児玉さんのお母さんだ。(彩りも工夫、地元食材で「武石丼」 グランプリ決定~信州Live on

「なんだかね、地域の人と一緒になってやってましたよ。こんな風にみんなを盛り上げるの、得意みたいですね。」とお母さんについて語る児玉さんだけど、セガレプロジェクトを立ち上げて盛り上げている児玉さんはそんなお母さんゆずりの血を絶対濃くひいている……。

その他、今は約80農家が協力して「体験学習」を行っているが、そのまとまりはしっかりしていて、みんなで盛り上げもり立てる空気が武石にはあるらしい。

「秋のね、地区住民の運動会は武石を離れた同級生たちも帰ってきますよ。僕も毎年参加です。あれは続けたいですね。ぼく一人になっても絶対に続けますよ。」

上田の高校までの毎日の送り迎えは3家族の協力体制。体験学習をみんなで盛り上げる力。地元の運動会に帰省するセガレたち。地域おこしのためにみんなでレシピを開発するパワー。

わたしは武石の実情は知らない。だけれど、この日児玉さんから聞いた故郷のあり方は……そのまま、この児玉さんを育てた気風で、そしてその気風が大都会でもたくましく受けとめられる「セガレプロジェクト」につながっているんだな、と……ふとそんなことを考えた。

そうして児玉さんが2人の仲間とはじめた「セガレプロジェクト」は新聞や雑誌・テレビでも取り上げられて今やメディアの注目株。様々な追い風もあって、どんどん拡がっている。

その拡がりが、長野にも飛び火した。7月11日の日曜日、長野の菅平高原。
セガレパワーの火が、ここでもまた熱く燃え上がった。

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「セガレとセガレのBBQ、やります」

今話題のTwitterでふと目についたその文字に興味をひかれてたどったリンク先にあったのがこのチラシ。

このチラシを作ったのは、上田市のデザイン会社に勤める間島賢一さん。

記載されたリンクをクリックしてたどり着いたのは間島さんのブログ「間島の仕事」の1ページ。そこにど~んと載っていたのがこのチラシだった。

「若い頃は世間知らずでしたよ。」と笑うその表情からはまったくそんなことは想像できない。けれど、このあとのBBQで間島さんを昔から知る仕事仲間からも「昔はね、怖かったんです」という言葉が聞かれたから実際そうだったのだろう。ぎらぎらしていた。仕事をとるために、ガンガン突き進んだ。「ライバル」は山ほどいて、一歩でも先んじることばかりを考えていた。

けれど今回、間島さんの仲間はみな「こんなに人が集まったのは間島さんの人柄ですよ」……BBQで、予想を遙かに上回るメンバーが集まったのを受けて、口をそろえてこう言った。

間島さんは、自身のブログでこう綴る。

「今、企画デザインの仕事をお客さまと直接お取引しているなかで、ライバルと感じる感情が一切ない。(高飛車な意味じゃないですよ)    
 何でだろう?? そんな会話を聞いていた当社の代表が一言。

『見ているところがお客さんだからだよ!』

ライバルに勝つ負けるばかりを考えていると、肝心なお客様の為に何をすべきか
を怠ってしまいます。     (中略)   お客様の視点になって考える。」

印刷会社の営業の仕事から今のデザイン会社に移った。そこでの新しい同僚やお客さんとの出会い。それが間島さんの視点に影響を与えた。肩の力が抜けた。

そんな中で「農家」の方の仕事を請け負う機会が増えた。「物作り」のプロである農家の人たち。だけど日本では今、農業は「職業」としては成立していない。おまけに農家の人たちは「伝えること」がすごく下手。農村では若い作り手はどんどん減っていて、都会では「農業ブーム」が起きているけど、ブームとは裏腹の「現実」がここにある。

農業ブームって何だ?それって変じゃないのか?

そんな中で、東御市にある「永井農場」の仕事に関わった。そこでは誇りを持っていい作物を作る人(おやじ)と、それからそれを上手くコンサルテーションして「伝える」部分を考える人(せがれ)がいた。二人のコンビネーションが、この農場を成功に導いた。

「ブーム」ではない別の「渦」(動き)が、あってもいいのじゃないだろうか?「農」がちゃんと生活するために必要なものを得られる職業、仕事、として成立するための何かがあるはず。

そんな想いを持った間島さんと児島さんの出会いもまた、Web上だった。
セガレプロジェクトや、それについてのHP、ブログなどを通じてつながった二人が「会いませんか?」ということになったのは、今年のゴールデンウイークだった。

実家の野菜を都会で売る。活動基盤は東京だ。けれどいずれは長野に戻ろうと思う。長野ともっとつながりたい。……そういう児玉さんの想い。
東京で農をメインに据えた活動を展開し、成り立っているセガレプロジェクトと交流できたら、地元も大きな影響を受けるかもしれない。……そういう間島さんの想い。

二つの想いが重なり合って、勢いづいたこの企画が動き出した。

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長野県の方言のひとつに「なから」という言葉がある。
「なから」は中くらい、という意味ではない。中途半端、という意味でもない。大概、大体、おおよそ……そんな感じの言葉だ。

できることを、「5人しか」ではなく「5人も」と足し算思考で実践している児玉さん。
自分視点からお客さん視点に変わって力みが抜けて、自然体でやっている間島さん。

がんばって完璧をめざすんじゃない。だけど無責任で中途半端なことはしない。

そんな二人のあり方を見て、なんだかみょうに「いろいろ“なから”なんだよなぁ、そんなあり方っていい感じだなぁ。」と思えた帰り道だった。

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「10人も集まればいいかなぁ。」間島さんがそんな軽い気持ちではじめたこのBBQ企画。同じ会社の仲間たちや、菅平の観光を考える人たちの協力を得て、口コミに加えTwitterでの呼びかけの効果が大きく、蓋をあけてみたら総勢40人の名前が参加者名簿に並んだ。

……BBQ当日の模様は、「なから」がもたらす可能性(2)に続く………。

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写真・文 駒村みどり

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