美術

生きるための力。生きるための学び。〜さくらびの挑戦<’10年8月掲載記事>

「今日これ使うグループは?」

美術教室の黒板の前で先生が手にしたのはデッキブラシ。受け取った女生徒はそれを嬉しそうに持って席に着く。大掃除の時間ではない、れっきとした美術の授業時間。

さらにビニールシート、梱包の保護材のプチプチ……次々に登場するモノはおよそ美術教室には縁がなさそうな素材ばかり。それらを手にした中学生たちは先生の指示を聞くとぱっとそれぞれの作業場所へと散っていった。

先生の名は、中平千尋。この美術教室で展開されているのは「さくらびアートプロジェクト」。「学校を美術館にしよう」をスローガンにかかげたこのアートプロジェクトの流れは今年で6年目を迎え、いま全国から熱く注目されつつある。

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机の上には、ウエディング情報誌。あこがれのドレスに身を包んで微笑むモデルさん。それを囲んで真剣に討論する女の子二人。写真の甘いムードと、それに向かうその表情の真剣さとは対照的だ。

そうかと思うと、その隣では同じく女の子二人組で趣ある古民家の写真集を拡げている。「教室に古民家の町並みを作りたい」というのがこの二人の想い。

古民家とアニメとのコラボを考える……何とも絶妙な取り合わせ。どんな町並みが出来るのだろう?信州大学の工学部の学生がそのイメージ実現の支援をする。
パソコンを開いて、ノートに書き込んで、実際に作って……各グループは自分たちのイメージを外部から来ている支援者と共にどんどん拡げている。

ベランダでなにやら写真を一生懸命に撮っているチーム。ここも女の子二人組。
「何撮っているの?」と聞くと「空の写真です。」との答え。

二人は海のない長野県に海を作っちゃおう、というグループ。小さいときに家の人と行った海。いいなぁ、あれ、教室に作れないかなぁ……そう思った二人が教室に海を再現するのにチャレンジ。空の写真は、その海の背景に使うのでとにかく青い空をいっぱいいいとこ撮りするのだそうだ。

「どんな海が出来るのかなぁ、楽しみだね。」と声をかけると恥ずかしそうに「はい!」と笑顔で答えてくれた。………良い表情だなぁ。

別教室では電動ドライバーの音。やや危なっかしい手つきだけど真剣に木の枠組みを作っている。長いねじなのでまっすぐに入っていかない。やり直し。今度はまっすぐしっかりとねじが食い込んでいく。

「教室の真ん中に、クジラのしっぽがどーんとあったらいいなと思って。」と水口くん。図書館で見たクジラ。これを作りたい。教室を深~い海の底にして………。その想いに共感した清野くんと組んだ男子二人組を応援するのは昨年に引き続き今年も支援者として参加の彫刻家の神林学氏。(神林学氏の作品は、ワイヤーワークなどで躍動感と生命力があると定評がある。小布施境内アートにも参加。 )

二人のイメージをもとになんと3メートルもあるクジラの実物大のしっぽが教室に登場するらしい。ダイナミックだ。聞いただけでワクワクする。

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「絵を描くなんてかったるい」「なんか創るのめんどくさい。」

学校の美術の授業でよく聞かれる生徒の声だ。何かを作ること、何かを表現すること、それはとにかく時間がかかる。自分の想いを表現するのには必死で考え、工夫することも必要だ。なんでもあって便利な世の中になって「考える」「工夫する」「自分で作り出す」必要もなくなってきた今、そういう機会は生活の場からは激減している。

子供のころから外で泥だらけになって遊ぶことやそういう場所も減り、汚いからと泥から遠ざけられ、土をこねる機会もない。泥遊びできる水たまりさえ排水溝の整備などで見あたらなくなった。

いい高校へ、いい大学へ。そのためにはいい成績を……。そういう「テストの点重視」の社会の流れの中、学校での限られた授業時間も次第に「受験教科」にかたむけられるようになってきて、結果、受験に関係ない美術、音楽、家庭科などはもう20年くらいも前から次第に削減される傾向にあった。

それは「ゆとり教育」がきちんと浸透しない中途半端な形で「失敗」と言われてからなおのこと加速化した。そして……もしかしたら数年後には「美術の時間」は学校から消えるかもしれない、という危機的な状態にある今。

「このままでいいのだろうか?これではまずい。」

その危機感をそのままにしておけずに自ら「危険」の鐘を鳴らし始めたのがこの授業を組んでいる中平千尋教諭だ。

彼は、長野県に美術教育を育て、確立させようと孤軍奮闘をはじめる。その試みのひとつが「Nアートプロジェクト」。“学校を美術館にしてしまおう”という大胆なスローガンをかかげ、独自の美術教育を展開し、さらに外部に向かって次々と発信をし続けているのだ。

中平千尋教諭履歴(NアートプロジェクトHPより抜粋)

 

武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、東京都内のデザイン会社勤務を経て、長野県内の養護学校や中学校を歴任。
2001年から千曲市立戸倉上山田中学校に勤務。2003年より学校を美術館に変身させる「戸倉上山田びじゅつ中学校(略称:とがびアートプロジェクト)」を始める。その後、2007年長野市立櫻ヶ岡中学校に転勤、2007年からは「ながのアートプロジェクト」を立ち上げ、長野県内の美術教育だけではなく、全国の美術教育を盛り上げるため活動中。

芸術には情熱が必要だ。表現し、伝える、そのためにはかなりのパワーと熱量がないとやって行かれない。ある意味それは「先生」という職業にも通じる部分がある。生徒という人間に学びの場で対し、「育てる」点で情熱が必要だ。芸術への想いと生徒への想い。その二つが重なり合い強い想いを持って教壇に立つ。

……中平教諭はそんな「熱い」芸術教師だ。

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「今の世の中、なんでもすぐに“答え”を求める。“答え”に結びつけたがる。だけれど、答えはすぐには見つかるものじゃないし、ひとつじゃない。それぞれの答えはそれぞれ自分で見つけるものですよね。」「美術では答えはひとつじゃない。自分の答えを自分で見つける。だから今、美術教育が必要なんです。」

今の世の中、今の子供たち。その現実を見つめたときに「美術教育の育むもの」の必要性を感じた中平教諭は、千曲市の戸倉上山田中学校在職中に「学校を美術館にしよう」というアートプロジェクト、“とがぴアートプロジェクト”を立ち上げ、展開をはじめる。(詳細はこちらから。「とがびプロジェクトの意義と展開」ほか)

しかし、そんな中平教諭の発信はなかなか受けとめられない。まずは学校。「外に向かう」事に対してものすごい抵抗がある。それから周りの教諭たち。毎日の細かい仕事に追われる中「余計な手間」に関わってはいられない。地域の文化施設。美術館からの発信もなかなかない。

美術に関わるべきものが、発信していない。必要な場所に必要なものが届かない。そういう矛盾の中、中平教諭は警鐘を鳴らすことと発信とをやめなかった。
選挙前の各政党に、美術教育や文化に対する質問状を送った。(2党は返答が帰ってこなかったが)それを校内に掲示して自らも候補者としての主張をかかげて校内で「選挙」を行った。生徒たちからは圧倒的な支持を得た。

当時の千曲市の教育長もとがびのプロジェクトに理解を示してくれた。しかしその発信を受けとめはじめたのは、残念ながら県内からではなかった。県外の学校からの視察が来る。文科省からも視察が来た。講演の依頼もある。
そして何よりも、生徒たちの姿が物語る。

「相談室登校の生徒がいるんですが、この時間だけは教室に来るんですよ。」

さくらびのプロジェクトでの1人の生徒の姿。あるグループに入って毎時間一生懸命取り組んでいる。他の時間には教室に顔を出せないのに、その時間はグループの中心になって活動する。周りの生徒もその思いをちゃんと受けとめる。

「今、学校の先生や親たち(社会)が、車の運転にたとえるとハンドルを握るところからブレーキもアクセルもすべてやってしまう状態。生徒は手が出せない。“いい子”はそれであきらめてしまう。」「だけど、美術は自分の想いの中で“徹底的にやる”事が出来る。やりたいことを徹底的にやる、ということが学校教育の中で出来るのが、美術の時間だと思うのです。」

子供たちはもともと無鉄砲だ。小さい頃は遊びの中で、大きくなったらこういう表現活動を通して「無茶」や「めちゃくちゃ」をやる。その中で「自分はここまでできる」「これだったら大丈夫」という「基準」を見つけ出す。そうして自分探しをしながら大人になっていく。

「それが“自立”だと思うんですよね。徹底的にやることで自分勝手なところから自分を知って周りの中でともに生きる術を身につける。それをぼくは“卒業”って表現しているんです。」

今までのアートプロジェクトの中でいくつもあった「卒業」の場面。そういう場面を通して生徒たちは本当の意味で生きる力をつけていく。そして、それが本来の学校教育の中でつけるべき力。本来の学校教育がめざすべきものであるはずだ………。

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「え~、せんせい音楽の先生なのに、さんすう出来るんだ!」

中平教諭と話しながら、かつて私自身が小学校の音楽教諭をしていた頃、低学年の子供にそう言われて愕然としたことを想い出した。もう15年も前のことだ。「おんがく」や「ずこう」は「勉強」ではない、そういう意識がこんなに小さい子供の中にもあることがショックだった。

自分自身、音楽や美術で育てられた感覚が「教科学習」に役立ったことは数知れない。

現在は中学生の家庭教師をしているが5教科の指導で子供たちを見ていると、数学や理科の文章題が解けない子は文章が読めない、わからない。読解力の不足と共に、問題を読んで頭の中にイメージがわかないから図や表でその現象を表現できない。表現力の欠如が原因だ。細かいところに注意する「観察力」も影響する。

読解力を助けるイメージ力や表現力などは音楽や美術で育つ力だ。また、表現の対象をじっと見て分析することで育つ観察力も、あきらめないで問題にじっくり取り組む集中力も、音楽や美術の表現を完成させようとする中で得られる力だ。

合唱や合奏で音を合わせて曲を練り上げる。共同製作で大きな作品を創り上げる。人と「力を合わせる」事の心地よさを感じ、自分1人では出来ないことも出来る可能性を感じる。そこで育つのは社会で生きていくために大切な「コミュニケーション力」。「創作」の課程や「表現の工夫」のなかで、人と関わり、自分にない価値観とぶつかり、それを取り込んだり折り合ったりしながら生まれてくる力だ。ひとり机に向かって黙々とやる「勉強」の中からは決して育たない。

逆に、音楽や美術をやっていく上で、国語や社会・英語、時に理科や数学の力が必要になることもある。教科を越えて「知識」というものは絡んでくる。このすべてをバランス良く獲得しようというのが「ゆとり教育」で詠われた「総合学習」の狙いだ。

けれど、点数ではかる「学力」重視の傾向がこの狙いを妨げた。いろいろな力は長い期間をかけて積み上げる中でつく力であり、最終的にはそれが学力に限らず「生きるために考える力」に結びついていく。けれど結果がすぐには出ないため、結果を急ぐ点数重視の社会は「ゆとりはダメだ」という世論を早くから展開し、それが総合学習の本来あるべき姿をどんどんゆがめていってしまった。

それでは、テストの点を重視したら学力はつくのか。

教えている中学生たちは一様に答案の点数の部分を折り返して隠す。点数を隠しても×のある答案は丸見えなのに。生徒には「点数」しか見えていない。50点なら50点。自分の力は「50点」。

まったくわからなくて出来ない問題が50点分の×なのか、それとも勘違いやちょっとしたミスでの×なのか。それを見ようともしない。そこで「どうして自分が50点?」と「考える」こともない。「悔しい」という気持ちさえもわいてこない。「なぜ、どうしてこの答えがこうなるのか」それを理解しただけで、子供たちはものすごく嬉しそうに微笑むのに。

音楽や美術で「出来る」「自分で満足する」までくり返し練習し、訓練し、その中で感じる出来ないときの悔しさや出来たときの感動も、「テスト」では関係ない。そうして子供たちは「点数基準」の判定になれ、自分の中に自分で基準を持てず、目標も持てず、◯か×かの2者択一の判断基準の中で良いか悪いかで生きていくしかない。

テストが出来る子は、頭がいい子。点が取れなかったらダメな子。

だけど、この先生きていくときに、◯か×かだけじゃない選択肢は山ほどある。50点の子が50点の生き方しかできないわけじゃない。100点の子よりも輝いて生きている人はいっぱいいる。

「生きる力」の評価基準は「子供たちの姿」だ。わかったときの笑顔、成し遂げたときの輝いた顔、その表情。生きるために本当に必要な力は「テストの点」では決してはかれない。

中平教諭の鳴らす警鐘は、これを如実に伝えている。子供たちの表情を見取って評価しながら、社会の一員として、この世に生きる者として、立って歩いていくために必要なものをちゃんと見きわめて与えていかなければ………と。

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「あのですね、今の世の中ちょっとリッチな気分になりたいですよね。だから、教室中をお金でいっぱいにするんですよ。」自らのデザインしたお金を誇らしげにかかげる大日向リーダー。男の子の5人組のチームは、机に向かってひたすらにお札のデザインをしていた。

壁一面・バスタブいっぱいのお札を作って、来た人に「リッチな気持ち」になってもらいたい。自分たちの夢のほかに「来てもらうお客さん」への想いが重なっている。教室いっぱいのお札を作るには、一体何枚製作するのだろう。ちょっと考えると途方もない。けれど生徒たちには迷いがない。真剣なその姿は、声をかけるのさえもとまどうほどだ。

不思議な世界を作りだそう……という目的の隣の男子4人チームは教室中にトンネルを造ろうと話し合う。話し合いの声に耳をかたむけてみる。

「不思議とかえ~っとかいう感じを出すには、ただトンネルあるだけじゃなくて“中をのぞく”事が出来たらいいね。」「そう、好奇心。何かあるんじゃないかなって感じ。」「どうせだったら理科室ぜ~んぶおおっちゃおうか。」「それは時間かかるねぇ、前日の準備大変だから、前日お泊まり会やるかぁ。」「合宿、合宿!」

話が弾む4人の男子と支援する信大教育学部美術科の二人の学生。学祭のノリだ。

さらに話は続く。「じゃぁ、トンネルの高さはどうしよう?」「そうだなぁ、しゃがむと腰が痛くなる人もいるから2メートル?」「いやぁ、教室だと192センチが限界だよなぁ。」

ああ、ここでも。自分たちの製作をお祭りのノリで楽しみながら、見てくれる人に思いやりを持ってトンネルの高さを考える心が育っている。自分たちだけが楽しめばいいのではない、だけど自分たちもちゃんと楽しんでいる。

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「美術の時間って、自分のやりたいことが出来る時間だから好きだった。」「作ることって楽しいし、考えることがいっぱいある。その中で人とのコミュニケーション力も育ってくる。」

この日の授業終了後、トンネルチームを支援している二人に話を聞いていたら、別のチームを支援している3人がそこに加わってきた。この5人は、信州大学教育学部の美術科の学生。善光寺門前の古い蔵を利用してギャラリーやワークショップを自主的に主催しているMINIKURAERT(ミニクラート) のメンバーだ。

「教育実習で中学生が、美術の時間をすごく嫌がる姿がショックだった。」「きっと、誉められたことないんだろうね。上手い下手、とか点数で評価されるのに慣れちゃってほんとの楽しさ感じる機会がなかったんだろうなぁ。」

自分たちは図工や美術の楽しさを知って、美術教師の資格をとる課程にいる。自分たちの生きる軸だった美術が学校の教育から消えてしまったら悲しいという。

彼らは中平教諭の持っている危機感に呼応するように今回協力者としてここに参加している。こういう世代が後に続き、次に繋ぐ活動をしている。こんな風にたくさんの協力者と、今年もさくらびアートプロジェクトは進行していく。

10月に向かって各自の夢が進行していくその中で、中平教諭の想いや生徒たちがどうなっていくのか、それはまだわからない。10月の発表を迎えたあとで、みんなの中にどんな想いが育ち、なにが生まれるのか。その表情や成果の中に中平教諭の美術指導の成果と真価が見えてくるはずだ。

今年、その10月までもうちょっとこのプロジェクトを追いかけてみようと思う。

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ながのアートプロジェクトHP

(写真・文: 駒村みどり)

「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2)〜境内アート小布施×苗市〜<’10年5月掲載>

北信濃の小さな町、小布施町。その南西に位置する玄照寺で4月17,18日の2日間にわたって行われた「境内アート小布施×苗市」。

最初の目的を忘れて思わずあちこちに見入ってしまったそのにぎやかで楽しいイベントの様子は(1)に記述したが、では、このイベントがここまで盛り上がってきたのはなぜか。
その仕掛け人のひとりとして名前の挙がった中村仁氏。
わたしがこの日玄照寺を訪れたのはこの人に出会うためだった。あまりの楽しさに、目的を忘れて思わずイベント自体に引き込まれてしまったのだ。

そこで、改めて目的を果たすべく中村氏を捜して境内に出た。

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ふたたび境内に出て最初に出会ったのが、もともとこの日にここに中村氏が来ることをわたしに教えてくれた人、花井裕一郎氏だった。

花井裕一郎氏は、昨年小布施町にオープンしたばかりの町の図書館、「まちとしょテラソ」の館長だ。
この日は、この境内で「一箱古本市~まちとしょテラソ市~」を開催していて、わたしはその取材を兼ねて中村氏を紹介していただく予定だったのだ。
花井氏については、別の機会に「まちとしょテラソ」の記事できちんとご紹介したいと思う。

「一箱古本市」。
そのルーツは東京の「不忍ブックストリート」にある。
参加者が一箱に売りたい本を持ち寄って、販売しながら交流を楽しむ日本初のネットワーク型の古本市だ。

それを、この小布施のアート展に花井氏が昨年から持ち込んだ。
三門の回廊がその会場だ。

「せっかくやるなら、小布施らしさを出したいと思ってね。」

古本市には、どんな箱でもいいから「一箱」に本を入れて売るのだが、その「一箱」を探したら近隣の農家からたくさん見つかったのが「りんご箱」。
言われて見ると「ふじ」と箱の横にはっきり書かれたりんご箱がそこに。

おお………確かに良い味だしてる。東京には絶対ないね。これ。

「どう?売れてますか?」

あちこちのイベントでよく顔を見る知り合いがいたので声をかけてみた。
回廊は、日影。日があたらない上に風通しがいいので、前日雪が降った小布施の風は冷たい。古本市出店の人はみな、厚いジャケットに身を包んでいる。

「売れないよ~。でもね、周りの人やのぞきに来る人と、他の人の箱をのぞき込んで本の話するのが楽しいよ。」

凍えながらも笑顔でそんな答えが返ってきた。
本を通じての交流。そうか、これがネットワーク型の古本市か。

三門の反対側では、こんな風に「ご自由にどうぞ」の本のコーナーもあった。
来年は、わたしも一箱出してみようかなぁ………。

さて、で、紹介いただくはずの中村氏はいずこに?

「う~ん、あの人さっきまでここにいたんだけど、今どこにいるかなぁ。会場内のどこかにはいるはずなんだけど。」

「また会ったら声かけますよ。」

そういうわけで、花井氏から声がかかるまで再度会場内をうろつくことにした。
で、ここまでほとんど全部見回っていたんだけど、ふと目についた看板。

ダンボールの看板に書かれた文字は「絵・映像パフォーマンス」。
あ、まだこれ、見てないや。待っている間に、これ見てみよう。

会場は三門入ってすぐの左にある「講堂」。
ここは屋内なので靴を脱いであがる。

……なんだか懐かしいこの雰囲気。
そうか、学校の文化祭で体育館に展示してあるあの感じだ。

四隅の壁に作品が展示されていて真ん中があいていて。子供がかけっこしたりして。
肩肘張らずにゆる~く、展示物を楽しんでいるのだ。

ぐるっと見回したら一番奥に映像のコーナーがあって、扉の奥でやっているようなのでそちらに向かうと、扉手前で見たことのあるペンギンの絵。(写真右下)

あ。
N-geneでも紹介されているたかはしびわ氏だ。
ちょうどお客さんが途切れていたので、声をかけてみた。

びわ氏も、このアート展が始まった頃からずっとこうして参加しているそうで。

「前に外で展示してみたんですけどね、クラフトと違って絵だからホコリや光の影響がどうしてもあって。」

で、日があたらなくて寒いけど、この屋内でいつも展示しているそう。
しばらくびわ氏とお話しをしていたら、中村氏の話になって。
「今日は、中村さんに会いに来たんですけど。」
「え?今そこで写真とっている人が中村さんですよ。」

見ると、カメラ片手に今から外に行こうとしている背の高い人影が。
あわててびわさんにお礼を言うと、中村氏に声をかけた。

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中村仁氏。御代田在住の「美術家」。アーティスト。グラフィックデザイナー。
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略歴(小布施との関わり中心に抜粋)
1959 長野県生まれ
1984 信州大学教育学部美術科工芸研究室卒(主に鋳造による現代金属工芸を研究)
1987 JACA’87日本イラストレーション展入選(伊勢丹美術館)
8th 日本グラフィック展協賛企業賞受賞(渋谷パルコPART3)

※以降、国内外で作品を発表、個展、企画展への参加など多数

1999 「中村仁の仕事展 ・ 絵本の世界から」(千曲川ハイウェイミュージアム)
2007「オブセコンテンポラリー」アーティストネットワークによる企画プロデュースを1年間手がける(小布施)
2004 “境内アート「苗市」in 玄照寺 vol.1”企画・参加(以後毎年,小布施)

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そもそも取材しようと思ったきっかけは、中村氏がデザインしたまちとしょテラソのキャラクター「テラソくん」に興味があって、その生みの親に会ってみたいなぁ、と思ったから。

そういう理由で花井氏に紹介してもらう手はずだったから、知らなかったのだ。
このアート展に出展していること。……それも、さっきまで見ていたびわ氏のお隣に。
さらに、中村氏がこのイベントの重要人物であることも。
(ちなみに、このアート展のチラシ・ポスターの図案も中村氏の作品だ。)

本当に、なんの予備知識もないままに飛び込んで来ちゃったなぁ。ちょっと出展者の名前調べたら、花井氏に紹介してもらうまでもなくちゃんとここにたどり着けたはずなのに。

ようやく偶然巡り会えた中村氏と、その場に座り込んで話を聞き始めた。

現在、御代田在住の中村氏。その中村氏がなぜ、小布施のこのイベントに「アート」を持ち込んだのですか?

「7年前、玄照寺さんから文屋・木下豊氏を通して、その頃次第に人出が減り始めていた苗市を再興する手だてがないか、クラフトフェアのような企画はどうだろう?と相談を受けました。しかしその時点ですでに、クラフトをテーマにしたフェアは有名なものが数多く存在していました。同じような企画の後ノリでは面白くない。そこで木下氏と二人で『小布施ならではの形』を考えた。で、どうせやるなら志を“アート”にしようと、それで「境内アート」。単純なんですけどね。」

「じつは、自分自身がいろんなクラフトフェアに触れて来た中で、それまで“アート”という言葉はどちらかというと“クラフト”の価値を高めるようなかたちで使われることが多く、“アートそのもの”にちゃんと向き合ったフェアはあまりなかったように感じていたのです。
でも、“アート・芸術”といっても取っつきにくい。そこで この苗市という“市”の持っている活気とか迫力とかをアートに活かせないかと思ったわけです。」

「 “クラフト作品”は何かの役に立つものです。でもアート作品って“飾って楽しむ”以外には多分何の使い道もありません。“役に立たないもの”にお金をかける事って勇気がいりますし、日本人はあまり慣れてもいません。

でも海外では道ばたにアート作品を並べて売っていたり、お客さんも自分の身の丈に合ったアートを家具やインテリアのような感覚で購入したりして上手に付き合っています。自分のお気に入りのクリエーターの作品をちょっと勇気を出して買って日常の中で楽しむきっかけやそういう体験の場に出来たらいいな、と思ったのです。

美術館やギャラリーでスポットライトをあびているモノだけがアートではありませんからね。」

……でも、なぜそれが小布施だったのですか?

「小布施の人たちは、これはダメかも、というラインからは入らないんですよ。どうせだったらちゃんとやってみて考える、という意識にある。」

やるんだったらやってみよう。小布施だったら出来る。そういう想いでアート展をここに持ち込んだ。さらに……

「住職さんにはこの企画をやるのであればどんなにお客さんがこなくても10年は我慢して続けてくださいとお願いしました。」

ご住職はそれを快諾し、そしてその想いに共鳴した地元の人たちやアーティストの協力の輪が広がって、今年7年目を迎えるアート展はますます盛況だ。

「アート、アートといっても“クラフト”だってやっぱり楽しい。使って楽しむ魅力もありますよね。そこで昨年から、町で秋に開催されていたクラフトフェアと合流しました。」

「僕はただきっかけを持ち込んだだけですよ。僕の力じゃないんです。ここに来るまでに、いろんな人を巻き込んできた、ただそれだけです。」

といって中村氏は穏やかに笑う。

けれど、このひとがそれだけの想いを持ってここに来なかったら、このアート展は始まらず、その想いを受け止める人もいなかったのだ。

こうして話をしている間にも、中村氏のもとにやってきた新しいつながり。
「長野・門前暮らしの会」のメンバー。今年の境内アートに参加した人たちだ。

「結局こういうものはごちゃごちゃ言わないで楽しんだもの勝ち。お客さんにも、参加者やスタッフも「境内アート小布施×苗市」を心から楽しんでもらいたい。毎回新しい試みにみんなでチャレンジしています。」

小布施の魅力が、人を引き寄せる。
そして、魅力ある人のもとにまた人が集まる。
このイベントはそうして成長し続け、より魅力ある町が、生活が、生まれて育っていく。

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そういえば、今までいろいろなアートの展覧会やクラフト展、境内のお祭りやイベントを見てきたが、この小布施で特別に感じたことがある。

「子供の多い空間」だなぁ………ということ。

古いお寺をめぐるときには、小さい子供の姿はほとんど見かけない。
クラフト展やアート展でも目立つほど多い、とは感じない。
ところが、このお寺を歩き回っている間、子供の姿のないところがなかった。
それも、みんなのびのびと子供らしい表情で、人のいる場所でよく見かける「静かにしなさい」とか「そんなに飛び回らないの」とか大人に怒られている場面にまったく出くわさなかった。
(さっきも、中村さんの展示物のある講堂で子供が走り回っていたし。)

かつてあった、町の路地で近所の仲良しが集まってそこがたちまち「遊び場」になったような、そんな感じ。子供たちも「アート」「クラフト」に囲まれてそこにいるのだ。

あちこちで見られるその「子供のいる風景」は、クラフト展というよりもごく普通の生活の一場面を切りとったよう。

そう。
ここは、特別な空間ではない。小布施という町の生活の一コマなのだ。

そして、この空間で目立つのは子供たちばかりではない。

ちょっと気軽に散歩に……といった風体のお年寄りも。うららかな春の光や桜を楽しみながら起伏のある道を歩き回る姿。ブースの若い人たちと交流する姿。
日頃縁のないようなバンドのライブをBGMに、アートを楽しむ境内の姿。

中村さんから教えていただいたのだが、この日は小布施町で他にもたくさんのイベントが行われていたそうだ。
そんな中で、これだけたくさんのいろいろな年齢層の人がここに集まっている、その事実はものすごいことなんだと思う。それだけまちの人々にこのイベントが受け入れられ、創り上げた人たちの想いを受け止める人がいるのだ、ということだから。

「それはとても嬉しいことですね。」

そう言って、中村氏はまたにっこりと笑った。

境内という磁場と縁日という祝祭の空気感のなかで何かを表現できたら、作家も見に来てくれる人たちもどんなにか楽しいだろうとはじめたフェス。その想いは全て「境内アート」という名前に込めました。毎年4月北信濃桜咲き誇る季節、さまざまなジャンルのクリエーターたちが全国から集まります。老若男女・善男善女どんな出会いがあるかお楽しみ。是非小布施へ足を運んでみてください。」(中村仁氏)

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「あのね、これは聞くべきですよ。ちょうど今、やっているから。」

中村氏にそう言われてお礼と別れを告げるとわたしは本堂に向かった。
これは多分……どんなアート展でもクラフト展でも体験できないここならではのメインイベント。

この間、本堂前で行なわれていたライブはお休みで、境内は厳かな空気に包まれる。
本堂で行われているのは「大般若法要」。

ご住職の静かだが張りのある読経の声が本堂に満ちていく。

これもまた、すごい「ライブ」であり「アート」の形だなぁ………。

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小布施の町の南西にある普段は静寂の中にあるお寺、玄照寺。

その境内がすべて一大テーマパークに変わる。
それは、小布施の町や生活を作る人、愛するひとが集って創り上げたもの。

そこにはその土地に住む、その土地に息づく人たちが集まってくる。
人が集まり、その空気を共有するものに伝わり、ひろがってそしてまたつながっていく。

そうして、この町の空気は作られていく。ひとも作られていく。

このイベントを、もっと多くのひとに知って欲しい。
もっと多くのひとに感じて欲しい。心から、そう思った。

ここに来ればきっと、ひとのためにある思いがひとを集め、町を作るその事実を感じられるはずだから。

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境内アート小布施×苗市 HP
玄照寺 HP
中村仁 HP

+++++ 境内アート小布施×苗市 その背景とここまでの流れ +++++++

そもそもは戦後約50年ほどつづいた曹洞宗・玄照寺縁日「苗市」の“再興”(歴史はあったものの当時は足を運ぶ人が年々減少傾向)を目指して葦澤住職、現事務局の木下氏(出版編集「文屋」代表・小布施在住)、そして中村仁氏らが中心になり、2004年にお寺で開催するアートフェス「境内アート」の企画・構想を立ち上げる。
運営母体は同寺若手檀家衆「玄照寺奉賛会」であり、現在もその仕組みは変わらず、開催・運営にあたって彼ら地元小布施人の尽力によるところは大きい。その後、回を重ねるごとに運営にかかわる人たちが増え、実行委員会を組織し2009年より本格的に小布施町の協力を得て、事務局も役場・行政改革グループ内に設けている。
尚、同年より毎年秋に開催されていた「おぶせアート&クラフトフェア」と企画統合し、正式名称も「境内アート小布施×苗市」(毎年4月第三土・日開催)とし、アート部門・クラフト部門・飲食部門の公募の他、歴史ある「苗市」を存続させ、参道にて骨董市を開催。さらに2010年より同町立図書館「まちとしょテラソ」企画による「一箱古本市」も共催するなど、他に類を見ない複合型フェスに発展している。
資料協力:中村仁氏

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(文・写真 駒村みどり)

「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(1)〜境内アート小布施×苗市〜<’10年5月掲載>

4月の第3週末である17日・18日。
この日、わたしはある人に会うために小布施町の玄照寺を訪れた。

ところが、玄照寺に行き着く手前で車は特設駐車場にはいるように誘導された。
駐車場はいっぱいでビックリ。

……いったい、ここで何が起きているのだろう?

お寺までの道は静かな田舎の生活道路なのだが、お寺の真ん前に立って参道を見たときにまたビックリ。

この人出は、どうしたこと?
まるでここだけ別世界。
参道にはずらりと屋台が軒を並べ、人がどんどん奥へ奥へと吸い込まれている。

屋台といったら、お祭り。お祭り……楽しそう………。
最初の目的を忘れて、わたしも参道の奥に引き込まれていくひとりになった。

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信州小布施町の曹洞宗陽光山玄照寺。
小布施町の南西部にある普段は静かなお寺。お寺の前の道路を通っても、ここにお寺があることは気が付かないくらい。

けれども、どうやらこの日は違う。

参道に足を踏み入れる。
両側ににぎやかな屋台が並ぶ。
その屋台を過ぎるとそこには「骨董市」ののぼり。

着物の古着。古い道具。ブリキのおもちゃ。
タープを張って、その下に人の手のぬくもりの染みこんだ「骨董品」たちが所狭しと並んでいる。

面白そうだけど……
横目で見ながら、さらに奥へ。

すると今度は、鮮やかな「色彩」が飛び込んできた。
三門の手前の「苗市」のブースだ。

「苗市」。
春の香りがあたりに満ちている。

けれど、先を急いでここも通り過ぎる。

すると、三門前には案内看板。
右に曲がると「クラフトエリア」、直進して三門をくぐると「アートエリア」。

山門の向こうからは、なにやら歌声も聞こえてくる……ライブをやっているらしい。
ここまで来ると、この先に何があるのか早く見たくて小走りになる。

三門をくぐると……

桜の花がちょうど満開の境内。
本堂に向かう参道の両側に様々な「アート」が展示されていた。
いや、よく見ると、参道の両脇だけではなく、庭にも、本堂の回廊にも……。

気が付くとそこに何か作品が「ある」。
境内のあちこちに、普段は物静かなお寺の庭や建物と一緒に、今、人が歩いているその場所に「ある」。

こういう「アート」っていいよなぁ。
「芸術」って言ってかしこまっていたり、高値で取引されていたりするものばかりが「アート」なわけじゃない。
足元の小さな石ころの中に、どうぶつの姿や人の顔を思い浮かべる……そんなのも「アート」。人の日常の中に、日常の中から生まれてくる表現がアート。
自分の周りの景色がいつもと違って見えるとか、その中に何かを感じること。
それがアート。

余談だけど、artという単語の語源はラテン語のL.ars 。技、芸術という意味がある。関連語彙にartifice(工夫)なんて言葉もある。日常の些細な風景や感覚を違った形で工夫したり創り上げたり、組み立てたり……もっと言うと、「おばあちゃんの知恵」だってアート。

境内には、そういう「生まれたてのアート」があっちこっちにかくれんぼしている。
そして、ごく自然にその周りで子供が遊んだりお年寄りが憩ったりしている。
……いいな、いいな、これ。

正面の本堂の周りも、すごいことになっている。

わたしにとっては「お寺さん」って言うと「荘厳」で「侵すべからざるもの」というイメージがある。お寺さんの敷地内では静かに瞑想にふけって煩悩から切り離されたところにいなくちゃ、なんて気分になる場所……だと思ってた。

それが、どうだろう。

……うわ、本堂の真ん前でライブやっちゃってる。
それも、なんか「荘厳」って言葉とはかけ離れたけだるい雰囲気だったり「煩悩」の固まりのような曲だったり……。(笑)

でも、かしこまってえらそうにしているお寺よりもずっとこの方が、いいなぁ。

そして本堂の周りの縁。通路に沿って歩くだけでも、こんなにいろいろ。

縁の上、下。柱。すべて有効活用されている。
縁の上では展示の他にもゆっくり座ってのんびりと庭を眺めたりお茶を飲んだりする人の姿も。

日頃はひっそり静かなお寺の本堂も、まるで孫が来たときのおじいちゃんのように心なしか華やいで嬉しそうな感じ。

本堂に沿う石の通路は、そのままクラフトエリアへの道になる。
にぎやかな本堂の裏手に回り、見事な庭園の池庭(ここにも展示物がある)を見ながらさらに進むと、お寺を取り囲む林へつながっていくのだが……

小さなせせらぎを越えるとそこは「どんぐり千年の森」。
雰囲気がまたがらっと変わったクラフト展の会場だ。

ごらんの通り、桜が満開。
桜並木の下に、今年は何と150ものブースが登場した。

ぐるっと会場を歩いてみる。

わたしは、二日目に行ったのだけど、1日目の土曜日は、4月に珍しい積雪のあった日でとても寒かった。そのため、このクラフト展会場の通路はぐちゃぐちゃになってしまって泥まみれになるから、急遽スタッフが畳を並べて臨時通路を造ったという。

それがまた、あったかいのだ。
畳の感触が、足に優しい。

臨時通路だから決して歩きやすいとは言えないけれど、かえってそれが子供たちには魅力みたいで、一生懸命にでこぼこを笑顔で歩く姿がかわいい。
ベビーカーを押して歩く人の姿も多い。

頭の上には満開の桜。

クラフトを楽しみ、お花見も楽しめ、花より団子の人は飲食ブースでいろいろな味を楽しむ。焼きそばやお好み焼きのようなおなじみのメニューに混じって東御市から来た永井農園の「焼き餅」の香ばしい匂いも………。

クラフト展の会場を歩いていて感じた。

ただの林の中に、それぞれが好きにタープを立ててやっているので、まるでキャンプ場にいる気分。敷地は塀や柵で囲われていない、外から遮断されていないオープンな会場。なので、どこからでも会場に入り込んで行かれるし、中でなんかにぎやかだなぁ、と、偶然通りがかっただけでもついふらっと気楽に入り込める。
やわらかい草地。落ち葉のじゅうたんがふかふかで、「区画」や「線ひき」のない会場構成は、まるで「小布施方式」と言われて全国から注目されている小布施の町並みと同じ感覚なのだ。

……小布施ならでは、なのかもしれない。この光景は。

しかし、すごいなぁ。
入り口の屋台から始まって、骨董市、苗市、アート展、クラフト展。飲食も出来て花見も出来て、散歩も出来てライブも聴くことが出来て。
お寺全体がひとつの「テーマパーク」のようになっているのだ。

わたしの持っていた「お寺」というイメージとはかなり異なっている。

このお寺の住職さんは、どんな方なんだろう?
そういう疑問が湧き上がって、ものすごくお会いしてみたくなった。

「ああ、住職さんや奥さんだったらあそこから行けばいいよ、みんな自由に出入りしてるから。」
そういわれて、「お話をお聞きしたいのですが」と突撃取材。

忙しいのにご住職は笑顔で迎えてくれた。

玄照寺23世住職、葦澤義文氏。

玄照寺は今からおよそ450年ほど前に開かれたお寺。現在の場所に移転したのが江戸時代の1704年だという。

その玄照寺で「苗市」が始まったのが今から50年前の1960年。
地域の人々に春を運ぶその行事は、毎年多くの人が訪れていたが、今や「苗」は近くの花屋、スーパー、ホームセンターなどで一年中手にはいる。

「そこでね、7年前から以前はハイウエイオアシスで町主催でやっていたアート展を苗市と合体させたんです。」
「その後、昨年からはクラフト展も一緒にやるようになりました。今年はアート展を始めた頃の出展数の2倍以上、150の出展数になりましたよ。」

町でやっていたことを、ひとつのお寺が請け負うというのはすごい。
お寺さんはどういう立場で?

「そうですね、場所の提供と、あとは、檀家さんなどの協力ももらって運営費を一部捻出しています。でも、いろいろ実行にあたっては寺の若い人や役所の人、クラフト展実行委員会の人たちがみんなで頑張っています。」

話をしていたら、住職の奥様がお昼に、と牛丼を持ってきてくださった。
話をしている場所は関係者の休憩場所で、入れ替わり立ち替わりいろいろな人が心づくしの食事を食べに来る。

「昨日の夜は関係者みんなで交流会やりました。150人くらいいたかな。」

「通路に畳を敷きながら話したんですよ。来年は、もうちょっとこの林を整備したらもっとたくさん出展できるかもね、って。」

そう言ってご住職は、穏やかに微笑んだ。

小布施という北信濃の小さな町。その小さな町の片隅の、静かなお寺。
そこにそれだけの「人」が集まって、このイベントを創り上げている。
毎年毎年、新しい人がやってきて新しいつながりを作り、新しい人を巻き込んでどんどん発展しているこのイベント。

苗市の衰退とともに、ご住職がどうにかしたいと小布施の仕掛け人 文屋・木下豊氏に声をかけ、その木下氏が、美術家・中村仁氏を住職に紹介し、この3人に、お寺の檀家衆が加わり、境内アートが始まって。

そして、昨年からハイウエイオアシスで町も加わった実行委員会でやっていたアート&クラフト展が一緒になったそうだ。

ここでご住職の口から出た「中村仁」という人の名前。
それはこの日、わたしが当初の目的として会うはずの人の名だった。

わたしはご住職にお礼を言い、中村氏を捜して再び外にでた。

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「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2) へつづく。

(文・写真:駒村みどり)

心は体には囚われない〜風子、その1〜<’10年5月掲載>

春まだ浅い3月のある日。長野市篠ノ井にある額縁店2階のギャラリーで、会場から流れるキーボードの音楽。個展+ミニコンサート「春へのつぶやき」。そこでキーボードを奏でるのは「手」ではなくて「足」。奏でているのは、個展で「絵手紙」ならぬ「絵足紙」を含めたたくさんの作品を披露している「風子」さん。

「千の風になって」、「G線上のアリア」。
しっとり聞かせたかと思ったら突然に「トッカータとフーガ」。

「いやぁ、やっちゃったよ。」
演奏が終わるとそういって会場を笑わせる。

豪快で繊細。大胆で優しい。
彼女の持ち味は昔からまったく変わらない。

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「風子」。本名は冨永房枝。
長野県長野市に生まれる。生まれて半年後に風邪のための高熱が元で「脳性小児マヒ」を発症。それにより体幹の機能障害が残る。養護学校の高等部を卒業後、詩作、詩の朗読、キーボードの演奏などでボランティア活動を続ける。

1996年に「絵足紙」を始める。絵だけでなく、書など描き続けた作品は多数にのぼる。
(詳細は彼女のHPを参照のこと)

演奏会でも、話をしている最中にしょっちゅう汗をかく。(その汗も、足でタオルを持って拭き取る。)からだが常に緊張して突っ張っているうえに思いもよらない動きが常に止まることがない。ひとこと話すごとに体中が突っ張って、息が荒くなり顔がこわばるので話し声に集中しないと聞き取りにくい。

それは、小児マヒによる体のマヒと、緊張と、それから不随意運動のせいだ。
この状態にある人たちは、だから見た目はある意味「異様」だ。ゆがんだ体と顔。それは意識があって脳が働いている間はどうにもならないのだ。彼女らの緊張のない状態が見られるのは、脳が休んでいる「眠っているとき」だけだ。

こういう「機能障害」を持った人は、私たちの周りに普通に居るのだが……しかし、町でその姿を見かけることはほとんど無い。たいていの人は施設に入ってしまうか、「差別」「好奇」の視線が苦しくて家に引きこもってしまうか、あまり外には出てこない。

けれど、彼女はどんどん外に出て行く。
明るい笑顔と大きな笑い声と共に。

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わたしが彼女と「再会」したのは、2007年の5月。
再会のきっかけはネットのSNSだった。

「再会」と書いたのは、彼女との出会いはもう20年以上も前にさかのぼるからだ。

「なんかねぇ、久しぶりなのにそんな気がしないね。」
そう笑う彼女は、その時ふとわたしのことを「みどりちゃん」と呼んだ。
その呼び方が昔の二人の状態を的確に表しているようで妙に笑えた。

彼女の活動は展覧会やコンサート、講演を通じて今やかなり多くの人が知っている。支援者も多く、そういう人たちと共に彼女は自分の道を歩んでいる。けれど、わたしはそういう人たちが彼女を知る以前の姿を知っていて、そしてある意味、彼女との出会いでわたしの考え方も大きく変わった。

だから、今回の演奏会の取材記事を書こうと思ったときに、ただ単にみんなが知っている彼女の姿だけではなく、その頃の彼女を描きたい……とそう思ったのだった。

「風子」以前の「富永房枝」の姿。まずはそこから、入りたいと思う。

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「肢体不自由養護学校の高等部3年生 冨永房枝さん」。

それが、わたしが最初に出会ったときの彼女の肩書き。
そして、その時のわたしの肩書きは「その学校の新卒一年目の新米先生」だった。当時、採用されたぺーぺーの先生だったわたしは、特殊教育(当時の呼び名)の免許もないのに養護学校に配属されて途方に暮れていた。

もともとは音楽の免許を持っていたので、高等部に所属したわたしは音楽のクラスを二つ担当した。そのひとつのクラスにいたのが房枝さんだ。

「先生」とは呼ばれても、まだ養護学校について何も知らなかった私と、小さい頃からずっとこの養護学校で学んでいた彼女。学校のキャリアからいったら彼女の方がずっと慣れたもので、おまけに新卒のわたしと高三の彼女では実質いくつも年は違わない。

途方に暮れてあたふたしていたわたしからしたら、ある意味この学校では「先輩」とも言える彼女は体に緊張があって手が自由に使えないけれど、字を書くのも絵を描くのも、ランチルームで給食を食べるのでも、なんでもまったく手でやるのと変わらぬ出来映えでやってしまっていた。

驚いたことに、彼女の足は手よりもずっと器用に動いた。編み物……特に一番細かいレース編みでさえも……彼女はみんな足の指を駆使してやってのけたのだ。その足さばきは、わたしにとって本当に驚異的で器用さには舌を巻いた。

また一方で、専門である音楽の授業でもわたしは途方に暮れていた。
生徒たちは房枝さんだけでなく、みんなからだが思うように動かない。のどに緊張が走るから、歌を歌うのにも声を振り絞って必死だし、楽器を奏でるにもテンポやリズムの通りには行かない。

みんな音楽は大好きなのに……どうしたらいいんだろう?

その頃に、「文明の利器」が有志の方から学校に寄贈された。ヤマハの「ポータートーン」というキーボードだ。今は、簡単なものだったら1万円もせずに買えてしまうポータブルキーボードだが、当時はン十万もする高価なもの。

その登場のおかげで、思いもかけない展開が待っていた。

「先生、やろうよ。」

昼休みになると、わたしの教室に房枝さんがやってきた。
最初は片足でメロディーを奏でる。こちらの方は、足さばきはもう手慣れたもので(じゃない、足慣れたもの、だな。)楽譜を一緒に読めば割合すんなりと演奏が出来た。

彼女の技能をひろげたのは、今こそ当たり前のようにキーボードについている「ワンフィンガー和音演奏」機能だ。

左の指一本でキーを押すと、設定された「リズムパターン」に乗って「和音」がなる。コード進行に合わせて一本指でキーを押すだけで、重厚な和音伴奏がつけられるのだ。ワルツ、ポップス、ロックンロール、マーチ、ボサノバ、16ビート。それがたった一本の指で和音演奏と同時にパーカッションとして鳴ってくれる。

手の10本指では右も左も簡単にできる「和音演奏」だが、足の指は短くてとても無理だ。けれど、この「ワンフィンガー」機能だと、その一本指がありさえすれば立派なリズム伴奏になるのだ。

……と簡単そうに書いたけれど、当然右足でメロディーを弾きながら、テンポ変わらず流れているリズムパターンにのせて左足でコード進行を追うのは、普通の人でも大変なこと。

それに彼女は挑戦したのだ。毎日毎日、休みなく教室にやってきては練習する。曲は今でも忘れない。さだまさしの「天までとどけ」だ。

「あの曲ね、もう、さんざんやったから今はもう飽きちゃったよ。」

そういって彼女は笑う。確かにそうだろうね、そのくらいほんとに毎日何回も練習したものね。

もともと右足でメロディーを弾くことは出来ていても、この曲のさびの部分は16分音符が連続してどんどん音が上昇していくので手の五本指でも大変。メロディーがなんとか出来ても、それに合わせて左でのコード演奏がついていかない。いったいどのくらいの期間、練習したのだろう?今は華麗な足さばきでレパートリーもたくさんになった彼女のキーボード演奏の基本は、この時の必死な練習の積み重ねの結果なのだ。

そうして、「天までとどけ」が形になって、2曲くらい演奏が可能になった頃に、彼女は卒業して社会へと飛び立っていった。

この時のキーボードとの出会いが彼女のライフワークのひとつとして存在している。それは大きな出会いだったろう。でも、同時に、「この学校でこの生徒たちとどう音楽に向かい合ったらいいのだろう?」と悩んでいたわたしにとっても、彼女が毎日教室にやってきて練習し、仕上がっていく段階を一緒に悩み、工夫しながら味わった経験が「そうか、音楽って教科書や楽譜を教えるだけじゃない、その人なりに表現することなんだな」という大きな収穫と音楽指導の確信へとつながったのだった。

「あのね、最初にあったときにわたしが何考えていたかっていうとね………。」
「わたし楽譜読めないしさ、この音楽の先生、ニコニコして人が良さそうだから利用してやれ~って思ったんだ。」

そういって彼女は朗らかに笑った。
この取材のために改めて会って話していたときに、この頃を想い出して不意に彼女が口にした二十何年目の事実。

目標を持つ。それに向かって何が必要で、どんなふうに学び深めるのかを自ら考えて選ぶ。
そしてそこに向かってくり返し投げ出さずに進んでいく。

そのくり返しと積み重ねが今の彼女を創り上げ、この笑顔と自信を支えているのだ。こともなげに見えるその影では流した汗や苦労などは当然のことと受け止めて、前向きに進んでいく彼女の姿があるのだ。

わたしもね。利用してもらえてよかったよ。おかげで、あの頃一緒に練習していた思いは大切な経験のひとつになって私の中に蓄積されているのだから。おたがいさまだね。

そういってわたしも、一緒に笑った。

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たぶん。障害とか、先生と生徒とか、そんなものはどうでもよかったんだろうと思う。
人と人とのつながりや、関わり合い、出会いというのはこういうものなんだろうと、そう思う。

『障害者としてではなく、ひとりの社会人として世に問うていく「風子の絵足紙キャラバン」に、今後ともより一層のご理解とご支援をお願いいたします。』

今回行われたつぶやきコンサートでもらったパンフレットにこんな一文が載っている。これは絵足紙キャラバン実行委員会という彼女の支援者の会の挨拶文だ。彼女に出会った人たちは、みな、「障害なんか関係ないや」と、きっとそう思うに違いない。

彼女は「冨永房枝」というひとりの人間として生きてきているのだから。人と人との関係の中で、ただ生を与えられたものとして同じように悩みもし、苦しみもし、喜びや感動を得ながら生きているだけなのだから。

そんな彼女がここに来るまでの「からだとのつきあい方」「生きざま」を通しながら、彼女の「絵足紙展」についてこのあと記述していこうと思う。

心は体には囚われない~風子、その2~へ続く。)

HP「風子の絵足紙キャラバン」

(写真、文:駒村みどり)