音楽

今 祈り、今 叫び、今 生きる。〜傘に、ラ。(その4)<’10年7月掲載>

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」
(なかがわよしの 書き下ろし掌編小説より抜粋)

7月3日 19時開演  「傘に、ラ。」Vol.17   今に生まれて今に死ぬ
出演:outside yoshino/タテタカコ   共演:なかがわよしの

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「なぜ、この二人かって?
だって、この二人って『今を燃焼』しているじゃないですか。」

ステージをじっと見つめて音に合わせて身体が揺れるなかがわ氏。
その表情は目の前のステージからダイレクトにガンガン飛んでくる音の固まりを受けとめて、生き生きと輝いていた。

なかがわよしの氏が『今』をテーマに企画・開催して17回目を数える『傘に、ラ。』追いかけて4回目の今回の取材はネオンホールで二人のゲストを迎えてのライブ。

「今に生まれて今に死ぬ」というタイトルを冠し、outside yohinoとタテタカコを迎えた「傘に、ラ。」としては珍しい有料イベント。

そこでなかがわ氏は表には一切登場しなかった。

「なかがわさんはステージ出ないんですか?」「いや、そんなおそれおおいじゃないですか。でも、自分はちゃんと小説を配って、それから気持ちの上では共演していますよ、ちゃんと。」

最初は、その意味がわからなかった。
けれども、ライブのステージが進むにつれて、わたしはなかがわ氏のその想いがわかってきたような気持ちになった。
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最初のMCが、ギターの強烈な和音にかき消される。
outside yoshinoのステージのオープニングはなんともつかみきれない語りから突然たたきつけられたようにはじまった。

outside yoshino
メンバー:俺   影響を受けた音楽:今まで聴いて来た全ての音楽と雑踏の騒音
音楽スタイル:エレキギターと声   レーベル:吉野製作所
レーベル種別:アマチュア 

myspace.com/bedsideyoshinoより)

outside yoshinoのプロフィールを捜してみても、ようやくこれを見つけることが出来ただけ。「そんなことは、どうでもいい」という声がきこえてきそうだ。

たたきつけるようなギターの音と、outside yoshinoの叫びに似た歌声が客席に降り注ぐ。まるで機関銃の一斉射撃を受けるような衝撃。最初はただ「かっこいい」と思った。だけど、聞いているうちに、「かっこいい」から次第に離れていく不思議な感覚に陥っていった。

はじめてギターを手にした15才の不安定な少年時代。隣の家の犬をライバル(?)にしてひたすらギターを弾き続けた時の歌。聞いているうちにyoshinoのギターに反応して必死でほえる犬がそこに見えたような気になった。自分に挑んでくる得体の知れないものに対してただひたすらにほえ返す犬の姿は、何かをつかもうと必死になって、自分の中にあるぐしゃぐしゃなものと闘う15才のyoshinoの姿にも重なってくる。

次々に流れる言葉たちの中で、わたしの心に突き刺さった歌詞。

「弱いものから順に死んでいくのが当然なんだってよ………
冗談じゃねぇぞバカ野郎 殺されてたまるか。
言いなりになって捨てられるために生きてきたんじゃないはずさ……」

(「ファイトバック現代」より)

家に戻って、ライブの写真をPCに取り込んで見た。写真は「時」の中に流れていくoutside yoshinoのその瞬間……「今」を切りだしていた。

その表情は、突き放したような鋭さを持つ歌詞から感じる強さではなく、時には泣き出しそうな、時には祈るような……そんな種類のものだった。

「『傘に、ラ。』のテーマである『今』って、吉野さんにとって何ですか?」

ライブのあとで、“吉野氏”に戻ったときに聞いたこの問いに、返ってきた答え。

「え?『今』以外にいったい何があるの?」

その答えはあまりに強烈な直球だったので、わたしは受けとめた瞬間しびれて次の言葉が継げなかった。こんなに潔い「今」の表現って初めてだ。

「僕の音楽はね、ブルースなんだよ。」

この一言を聞いたときに、outside yoshinoの音楽を聴いているうちに単なる「かっこいい」から離れていった自分の中の不可解な感覚が見えた気がした。

あったかいのだ。彼のギターの音は。限りなく優しく、その鋭い歌詞を包み込んでいたのだ。激しくギターをかき鳴らすoutside yoshinoとギターは一体になって、祈りや叫びにも似た歌声を包み込み、それが受けとめるこちら側に「届けられる」感じ。

それは、「すごいアーティスト」が発する音楽を受けとめる、という感じではなくて一人の人間が「今」を必死で「生きている」その感覚の中に一緒に浸かっている感じ。

必死で何かに向かってあがいて、その中で泣きたくなったり、叫びたくなったり、そんな風に人間が生きている。ステージのoutside yoshinoも、受けとめるわたしも。

その言葉に出来ないものが、outside yoshinoの音を通して自分の中にある感覚を呼び起こしたのだろう……。聴きながら、やっぱり、今、必死で生きている自分もまた切なくて泣きたくなるような、そんな感じで胸がぎゅーっとなっていった。

最初、「かっこいい~」と思ってただその音の力に圧倒されていたわたしが感じた不可解な感覚は、これだったんだ。

そして、これが……outside yoshinoの「今」の形。

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「こんばんは、タテタカコです。」

いつもタテタカコのMCはピアノの前に座ってこんな風に礼儀正しい挨拶からはじまる。縁あって、タテタカコのライブは何回か聞いてきていたので、そんな「いつも通り」のオープニングをごく自然に受けとめて、いつものように流れるピアノの音に耳をかたむけた。

だけど、そこに続く時間は、いつの間にか「いつものように」ではなくなっていた。

タテタカコ
ハードコア・パンクからアヴァンポップまで、あらゆる表現分野を内包し得る新種(あるいは、珍種)のシンガー&ソングライター。
ピアノと歌だけを携えて、剥き出しの表現者魂に導かれるまま独立独歩で歌って歩く。

タテタカコHP—プロフィールより抜粋)

「いつものよう」ではないこの感覚は、じわじわとゆっくりやってきた。
何回も聞いた歌、馴染みの旋律。なのに、なんだかちょっと違う。

さっきのoutside yoshinoのステージで感じたのとはまた違う「不思議な」感覚。
またしても聴きながら不可解な状態に陥ってしまった。

「タテさんにとって『今』って何ですか?なかがわさんから、このテーマでの話を受けて、どんな感じがありましたか?」と問うと、タテさんはこう答えた。

「そうですね……なかがわさんからこのお話をいただいたときに、吉野さんとできるって思って、今日までこの時に向かってず~っと来た、ってそんな感じです。」

そういえば。ライブの途中のMCで、タテタカコはこう言っていた。
「新しいアルバムを出したんですが、今回はいろんな人とやりました。なんだかものすごく、そうしたいって感じたので。」

今まで、自らのピアノと歌だけで構成してきたステージやCDだけど、今回は違った。「人とやりたい」という想いがぐっと生まれてきた。この「傘に、ラ。」でもoutside yoshinoとやるんだ、まずその想いがタテタカコをこの「今」に導いてきたようだ。

「今は、こういうことがだんだん楽しくなってきているんです。」

昨年、タテタカコは友人の石橋英子と曲作りをし、ステージを共に構成した。それから「音楽を知らない」カンボジアのたくさんの子供たちに「音」を届けに行き、たくさんの子供たちと出会ってきた。

「それは、とても大きな影響があったと思います。それまでわたしは人と話すことがとても怖かったんだけれど、人と一緒にって事が怖くなくなってきた。そうしたら、だんだんライブとか話をすることとか、楽しいな、って思うようになってきたんです。」

わたしは自分の中に生まれた「いつもと違う」タテタカコへの感覚がどこから来たのかがわかった気がした。

「楽しくなってきた」……これだ。

今までわたしは、タテタカコのステージはいつもある「緊張感」を持って聞いていた。天から降り注ぐものをタテタカコが受けとめ、それを伝えるのを神妙に聞く……そんな感じ。

だけど、この日のステージではそうではなかったのだ。

たとえば、植物は「光合成」と「呼吸」をして生きている。
呼吸で排出したものを再び光合成のために身体に取り入れ、そこで作り出した物をエネルギーに生きて成長し、排出したものをまた呼吸で身体に取り入れる。そのくり返しで植物は自然の光や水を材料に自給自足で生きている。

この日のタテタカコはまるで植物のようにその音を生み出し、吐きだし、また取り込み……を、自然の流れのままでやっている感じ。outside yoshinoの音は、光や水といった光合成や呼吸のための材料やエネルギー。そして生まれたタテタカコの音は、受けとめた観客の感覚と混じって再びタテタカコの中に取り込まれ、ひとつになってまた音として吐き出されていく。

それは「今」この時、この場だからこそ生まれてくる音。タテタカコの中にある「楽しくなってきた」という感覚がそれをさらに膨らまして、拡げていく。会場も、共演者も、一緒になって呼吸し光合成をして、ステージが進んでいく。

それは、タテタカコが「祈りの肖像」という曲を歌ったときにぶわっと伝わってきた。

花よ誇れ その身を燃やせ 人よ歌え その声届くまで
雨よ踊れ 乾き満たし 流れ続け 続け 続け
人よ歌え 生まれ変わる歌を 歌を
       (「祈りの肖像」より)

以前のように「天から降り注ぐ」感じではない。大地に根をはったタテタカコが大地から吸い上げたものや、生きるための自然な営みから生まれたものを広い空間にぱぁっと放ち、聞いている自分もそれを自然に身体に取り込む感じ。


今までライブで感じたような「緊張感」はまったく必要なくなっていた。

「今日のステージ、なんだかすごく拡がった感じがしたんです。」 そうステージ後のタテさんに語りかけると、「そうですか、もしそうだとしたら、それはきっと一緒にやってくださったyoshinoさんと、今日来てくれたお客さんからもらったもののせいだと想います。」いつものはにかんだような笑顔と共に、そんな答えが返ってきた。

「今」を生き、「今」を楽しむタテタカコが中心になって「今」が渦と拡がりまわりを包み込む。

……これが、タテタカコの「今」のあり方。

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「傘に、ラ。」の企画者でもあり、ずっと「今」をテーマにこのイベントを持ってきたなかがわ氏が、なぜ今回このステージには立たなかったか。

この日、この二人を招いたステージを作りあげたこと、これ自体がすでになかがわよしのの「今」の表現の形だったんだ。

つまり「なかがわよしの」は自らステージに立たなくてもこの二人とちゃんと「共演」していたわけで、その想いを受けてここに来た二人の音楽から「今」がものすごく濃い密度で発信されていたということなんだ。

「音楽には力があるんだよ。小説もきっとそうだよ。誰かの力になれたら、それがたった一人だったとしても、価値があると思うんだ。」

最初に引用したこの一文は、なかがわ氏がこの日、配った小説の一節。
二人の「音楽」から生まれる力と、なかがわよしのの「小説」から伝わる想い。

「今に生まれて今に死ぬ」……今、この時を生きている。私たちは生きている。
過去も未来もどうでもいい。今、ちゃんと生きているんだから。こうして何かを感じて熱くなってここに共にいるんだから。

なかがわよしの、outside yoshino、タテタカコ。と、この日ネオンホールの空間を共にした人たちが生み出した「今」はこうして思い切り燃え上がり、その幕を閉じた。

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今後の「傘に、ラ。」 (注:記事掲載当時’10.7月の情報です。)

10年7月25日(日)
「傘に、ラ。vol.19 ~カラーコーディネイト講習会やります。~」
@ナノグラフィカ 時間;13~15時 講師;一色はな

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.20 ~果樹園で朗読会。~」
@丸長果樹園 出演;植草四郎、井原羽八夏、なかがわよしの
詳細後日発表

10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」
@ネオンホール 詳細後日発表
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写真・文 駒村みどり

心は体には囚われない〜風子、その2〜<’10年5月掲載>

(その1)よりつづき~

小児マヒによる緊張と硬直で動きにくい手の変わりに足を使いこなす風子こと冨永房枝さん。
彼女と話をしていると、まったくそういう「障害の壁」を感じない。なぜだろう?

ひとつに、彼女はいつも笑顔を絶やさない。もうひとつ、その屈託のない笑顔で話す言葉にはネガティブな感じが全くない。彼女は「障害があるから」という言葉を決して口にしない。

先日、取材のために一緒にランチでも、と迎えにいってお店に向かう車の中での会話。

「あのね、悪いけど今日、食べさせてね。」
「いやぁ~、悪いけどわたしも貧乏だからさ、おごるのはムリ。(笑)」
「そうじゃなくてさぁ~。」
「あははは、ちゃんとわかってるよ。大丈夫だよ、まかせてね。」

“食べさせて”という言葉の意味は「おごって」などではもちろんない。
レストランのようなお店では、椅子に座って食事をする。当然、足で食べる仕様にはなっていない。だから「食べ物を口に運んでね」という意味だ。

「足を使う」

その行為に対して、人は決して必ずしもいい感情を持たない。
何かをするのは“手が当たり前”だから。そして“足は汚い”という感覚が一般的だから。

手が使えない代わりに足でやる。今でこそ彼女の周りはそれを認めるけれど、子供のころからそうだったわけではない。実際、わたしも彼女の高等部時代に同じ学校の職員がこう話すのを聞いたことがある。

「彼女は、足でクッキーも作っちゃう。それはすごいけど、でも足で作ったクッキー食べる気にはなれないなぁ。」

もちろん彼女は足をいつもきれいにしている。今もキーボードを弾くその足のつめは手入れされてきれいにペディキュアが施されている。わたしは彼女がどんなに自分の足を大切にしているのか感じ、いつもきれいだなぁ、とその足に見とれてしまうのだ。

けれども“足は汚い”という感覚は一般的で、その中で子供のころから生きて来た彼女はその笑顔や明るさの裏に悲しみや苦しみもたくさん感じてきたことだろう。

“いたずらをしたい。触ったりぐちゃぐちゃにしてみたりしたい。”
それは好奇心の固まりの小さな子供にはごく当たり前の欲求だ。
けれども、周りの人間と同じようにやろうとしても、手が動かない。

動きたい、動かせない。
そのイライラが高まって、足を動かした。

「足の方が、じょうずにできる!」

そう思って足を使い始めた彼女だが、周りがそれを受け入れるのは難しかった。

「足で給食食べていい、って許してもらえたのは中学部になるときだったよ。それまでは、手の機能訓練ということでなんでも手でやるようにいわれたなぁ。『足の方がずっと速く、上手に出来るのになぁ』って思いながらやってたから訓練つまんなかったねぇ。」

笑顔でそう話すけど、食べることまですべて「訓練」にされるのはたまらなかったろう。みんなが美味しそうに食べているのに、お腹もすいているのに、手ではなかなか食べられず、時間もかかる。

「足で食べてもいい」と認められた(というよりは、「周りがあきらめたんだよ」と彼女は表現したが)ときには「やっと自分らしく出来る」という思いがあふれてきたそうだ。

「足でものをやる」ということひとつとっても、彼女を小さな頃から知る身近な者でもこれだけの抵抗がある。当然、彼女が受けてきた波は、それだけに留まらなかった。

わたしは彼女からメールをもらって再会の約束をしたが、その一方で久しぶりに会う「先生」という存在に対しての心の迷いや傷について彼女は自身のHPの日記に、こんな記述をしている。

養護学校の思い出は楽しいことよりも先に“辛いこと(当時の養護学校には障害児・者を理解できず“社会のお荷物”と口走り、生徒の心を無雑作に傷つける教師もいて、嫌な思いをしたこと)”を思い出してしまうからだ。教師と生徒だったことがあり「先生」と呼んでいたMさんに再会したら、私は平常心でいられるだろうか…?
(風子のきまぐれ絵日記 2007年5月「花香る風の中の再会は………」より)

同じように、彼女が1990年に出版した詩集「”女の子”のとき」にも障害のある自らに対する悩みや苦悩がこんな風に描かれている。

 なれているからこわくない
いつも 口にするけれど
うそです

街を歩くのは こわいのです
一人で歩く道は こわいのです
いくら なれていても
こわいものは やっぱりこわいのです

   家の一歩そとは
心の戦場
人の目は機関銃
聞こえる声は大砲
人の態度はミサイル
わたしの心 殺そうとする
わたし1人殺すのに 何十人、何百人

(詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

が、彼女はそれを人前では臆面にも出さないのだ。「障害があるから」「手が使えないから」……彼女はそれを理由にしない。そして、その裏でどんなに汗や涙を流したのか、どんなに努力をしたのかも、ひけらかすことはない。

再会のとき、わたしはうつ病で学校に行かれなくなった休職中の教師で、彼女はボランティアでいろいろな学校にも講演に行くことがある立場から、「学校」の話になった。

彼女の“人目をひく姿”に対して、子供たちは当然興味を持つ。そういう人を見かける機会も少なければ、話をする機会などもっとない。だから、校長室やステージなどで話をしている彼女に子供たちは寄ってきて、時々こういう質問をする。

「ねぇ、なんでそんな変な恰好なの?」

その時に、周りの先生たちの対応はまっぷたつにわかれるそうだ。
「そんなこというのじゃない」と叱責し、彼女から遠ざけるパターン。
それを見守り、子供たちの疑問に対して彼女が答えるチャンスをくれるパターン。

自分の体について人がどう思うのか、彼女はいやというほど知っている。まだ経験の浅い子供たちならなおのことだ。そういう子供たちが「知る」機会を奪わないで欲しい、と彼女は言う。

「変な恰好」といわれたら、ちゃんと話をする。伝わるように、わかるように、きちんと話をする。そういう子供の好奇心をただ「言っちゃいけないこと」と押さえ、そういう対象から遠ざけたら、子供の中に残るのは「障害について口にするのは禁忌」……そんなマイナスのイメージ。知ろうともせず避けて通る人間が出来上がる。

だから、彼女は自分の体について知ろうとする子供やその好奇の目を遠ざけない。すごく落ち込んだり重い気持ちになることがあっても、そうして人とつながることをやめることはしない。

 こわいけど
ミサイル・鉄砲 すごくこわいけど
でも 歩く
こわくなくなるまで歩く
戦争が終わるまで歩きたい

   こわいけど やっぱり歩く
(詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

死んでもこの身体はなおらない と
気付いたときから
生きたい と思った

(詩集“女の子”のとき「自殺」より抜粋)

それは、彼女の決意でもあり、覚悟でもあり、そして多分彼女が自分を受け入れた瞬間だったんだろう。再会したとき、高等部時代よりもずっと軽やかになった彼女の心をわたしは感じた。いつの間にか2時間も話し込んだ。そうして「また、会おうね」とわかれた。ごく普通に、お互い必死で生きている人間同士として。心から「また語りあいたい」と思った。

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「今回は、本当に久しぶりに新作を描いたんです。何を描こうか迷ったんだけど、紙一面を宇宙にたとえてみたんです。」

ミニコンサートの合間のMCで、今回の新作の話になった。
「銀河鉄道の夜」はあるけど、「銀河鉄道の朝」はどう?……そういわれて、ぱぁっとひろがったイメージ。1メートル×2メートルの紙を2枚繋げて約一週間で書き上げた。

野の花。とり。風、月、万華鏡。彼女の心の中にひろがる宇宙、銀河鉄道の朝にはいろいろなものが息づいている。寒くてしもやけに悩まされながら描ききった作品。

この中の「万華鏡」について彼女はこう語った。

「小さな穴をのぞくと、その中にひろがる大きなきれいな世界。
それって人間とか宇宙とかに似ている。
小さな人間が地球の上で動き回って悩みまくって
あたふたしている様子のように思えたんですよね。」

さらに、この絵について内緒話をひとつ。

「実は、この絵の中に一カ所だけ塗り残したところがあるんですよ。
これはね、まだ終わってないよ、これからも続くよ、ってそういう意味。」

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苦労も、悲しみも。悔しいことだってまだまだ山ほどある。
だけどそんなこと言っていてもしょうがない。

体が思い通りにならないから出来ることに制限もある。
だけど、それも自分の体。

そして、自分の体をしっかりと受け止め、自分も含めてあたふたしながらちっちゃいことでうだうだしつつそれでも生きていく人間の「生」を、万華鏡のきらめきのように愛おしむ。そしてまだまだ続くよ……と彼女の心はその歩みを止めることがない。

彼女の心はなにものにも囚われずに、自由に飛び回る。その自由な心が、彼女の笑顔に触れた物達に伝わって、そしてまたひろがっていく。

絵から、詩から、音楽から。彼女の足が生み出すすべてのものが、今日もまた輝いて“生きる”事の持つエネルギーを発信し伝え続けていくのだ。

もし、あなたの近くに「風子の絵足紙キャラバン」が訪れたら、そこに行ってぜひ一人の人間の命のきらめきと生きざまを感じて欲しいとそう思う。

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心は体には囚われない~風子、その1~

HP:「風子の絵足紙キャラバン
森の宿 林りん館 (長野県小川村「風子の絵足紙ギャラリー」併設宿泊施設)

(写真・文:駒村みどり)

心は体には囚われない〜風子、その1〜<’10年5月掲載>

春まだ浅い3月のある日。長野市篠ノ井にある額縁店2階のギャラリーで、会場から流れるキーボードの音楽。個展+ミニコンサート「春へのつぶやき」。そこでキーボードを奏でるのは「手」ではなくて「足」。奏でているのは、個展で「絵手紙」ならぬ「絵足紙」を含めたたくさんの作品を披露している「風子」さん。

「千の風になって」、「G線上のアリア」。
しっとり聞かせたかと思ったら突然に「トッカータとフーガ」。

「いやぁ、やっちゃったよ。」
演奏が終わるとそういって会場を笑わせる。

豪快で繊細。大胆で優しい。
彼女の持ち味は昔からまったく変わらない。

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「風子」。本名は冨永房枝。
長野県長野市に生まれる。生まれて半年後に風邪のための高熱が元で「脳性小児マヒ」を発症。それにより体幹の機能障害が残る。養護学校の高等部を卒業後、詩作、詩の朗読、キーボードの演奏などでボランティア活動を続ける。

1996年に「絵足紙」を始める。絵だけでなく、書など描き続けた作品は多数にのぼる。
(詳細は彼女のHPを参照のこと)

演奏会でも、話をしている最中にしょっちゅう汗をかく。(その汗も、足でタオルを持って拭き取る。)からだが常に緊張して突っ張っているうえに思いもよらない動きが常に止まることがない。ひとこと話すごとに体中が突っ張って、息が荒くなり顔がこわばるので話し声に集中しないと聞き取りにくい。

それは、小児マヒによる体のマヒと、緊張と、それから不随意運動のせいだ。
この状態にある人たちは、だから見た目はある意味「異様」だ。ゆがんだ体と顔。それは意識があって脳が働いている間はどうにもならないのだ。彼女らの緊張のない状態が見られるのは、脳が休んでいる「眠っているとき」だけだ。

こういう「機能障害」を持った人は、私たちの周りに普通に居るのだが……しかし、町でその姿を見かけることはほとんど無い。たいていの人は施設に入ってしまうか、「差別」「好奇」の視線が苦しくて家に引きこもってしまうか、あまり外には出てこない。

けれど、彼女はどんどん外に出て行く。
明るい笑顔と大きな笑い声と共に。

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わたしが彼女と「再会」したのは、2007年の5月。
再会のきっかけはネットのSNSだった。

「再会」と書いたのは、彼女との出会いはもう20年以上も前にさかのぼるからだ。

「なんかねぇ、久しぶりなのにそんな気がしないね。」
そう笑う彼女は、その時ふとわたしのことを「みどりちゃん」と呼んだ。
その呼び方が昔の二人の状態を的確に表しているようで妙に笑えた。

彼女の活動は展覧会やコンサート、講演を通じて今やかなり多くの人が知っている。支援者も多く、そういう人たちと共に彼女は自分の道を歩んでいる。けれど、わたしはそういう人たちが彼女を知る以前の姿を知っていて、そしてある意味、彼女との出会いでわたしの考え方も大きく変わった。

だから、今回の演奏会の取材記事を書こうと思ったときに、ただ単にみんなが知っている彼女の姿だけではなく、その頃の彼女を描きたい……とそう思ったのだった。

「風子」以前の「富永房枝」の姿。まずはそこから、入りたいと思う。

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「肢体不自由養護学校の高等部3年生 冨永房枝さん」。

それが、わたしが最初に出会ったときの彼女の肩書き。
そして、その時のわたしの肩書きは「その学校の新卒一年目の新米先生」だった。当時、採用されたぺーぺーの先生だったわたしは、特殊教育(当時の呼び名)の免許もないのに養護学校に配属されて途方に暮れていた。

もともとは音楽の免許を持っていたので、高等部に所属したわたしは音楽のクラスを二つ担当した。そのひとつのクラスにいたのが房枝さんだ。

「先生」とは呼ばれても、まだ養護学校について何も知らなかった私と、小さい頃からずっとこの養護学校で学んでいた彼女。学校のキャリアからいったら彼女の方がずっと慣れたもので、おまけに新卒のわたしと高三の彼女では実質いくつも年は違わない。

途方に暮れてあたふたしていたわたしからしたら、ある意味この学校では「先輩」とも言える彼女は体に緊張があって手が自由に使えないけれど、字を書くのも絵を描くのも、ランチルームで給食を食べるのでも、なんでもまったく手でやるのと変わらぬ出来映えでやってしまっていた。

驚いたことに、彼女の足は手よりもずっと器用に動いた。編み物……特に一番細かいレース編みでさえも……彼女はみんな足の指を駆使してやってのけたのだ。その足さばきは、わたしにとって本当に驚異的で器用さには舌を巻いた。

また一方で、専門である音楽の授業でもわたしは途方に暮れていた。
生徒たちは房枝さんだけでなく、みんなからだが思うように動かない。のどに緊張が走るから、歌を歌うのにも声を振り絞って必死だし、楽器を奏でるにもテンポやリズムの通りには行かない。

みんな音楽は大好きなのに……どうしたらいいんだろう?

その頃に、「文明の利器」が有志の方から学校に寄贈された。ヤマハの「ポータートーン」というキーボードだ。今は、簡単なものだったら1万円もせずに買えてしまうポータブルキーボードだが、当時はン十万もする高価なもの。

その登場のおかげで、思いもかけない展開が待っていた。

「先生、やろうよ。」

昼休みになると、わたしの教室に房枝さんがやってきた。
最初は片足でメロディーを奏でる。こちらの方は、足さばきはもう手慣れたもので(じゃない、足慣れたもの、だな。)楽譜を一緒に読めば割合すんなりと演奏が出来た。

彼女の技能をひろげたのは、今こそ当たり前のようにキーボードについている「ワンフィンガー和音演奏」機能だ。

左の指一本でキーを押すと、設定された「リズムパターン」に乗って「和音」がなる。コード進行に合わせて一本指でキーを押すだけで、重厚な和音伴奏がつけられるのだ。ワルツ、ポップス、ロックンロール、マーチ、ボサノバ、16ビート。それがたった一本の指で和音演奏と同時にパーカッションとして鳴ってくれる。

手の10本指では右も左も簡単にできる「和音演奏」だが、足の指は短くてとても無理だ。けれど、この「ワンフィンガー」機能だと、その一本指がありさえすれば立派なリズム伴奏になるのだ。

……と簡単そうに書いたけれど、当然右足でメロディーを弾きながら、テンポ変わらず流れているリズムパターンにのせて左足でコード進行を追うのは、普通の人でも大変なこと。

それに彼女は挑戦したのだ。毎日毎日、休みなく教室にやってきては練習する。曲は今でも忘れない。さだまさしの「天までとどけ」だ。

「あの曲ね、もう、さんざんやったから今はもう飽きちゃったよ。」

そういって彼女は笑う。確かにそうだろうね、そのくらいほんとに毎日何回も練習したものね。

もともと右足でメロディーを弾くことは出来ていても、この曲のさびの部分は16分音符が連続してどんどん音が上昇していくので手の五本指でも大変。メロディーがなんとか出来ても、それに合わせて左でのコード演奏がついていかない。いったいどのくらいの期間、練習したのだろう?今は華麗な足さばきでレパートリーもたくさんになった彼女のキーボード演奏の基本は、この時の必死な練習の積み重ねの結果なのだ。

そうして、「天までとどけ」が形になって、2曲くらい演奏が可能になった頃に、彼女は卒業して社会へと飛び立っていった。

この時のキーボードとの出会いが彼女のライフワークのひとつとして存在している。それは大きな出会いだったろう。でも、同時に、「この学校でこの生徒たちとどう音楽に向かい合ったらいいのだろう?」と悩んでいたわたしにとっても、彼女が毎日教室にやってきて練習し、仕上がっていく段階を一緒に悩み、工夫しながら味わった経験が「そうか、音楽って教科書や楽譜を教えるだけじゃない、その人なりに表現することなんだな」という大きな収穫と音楽指導の確信へとつながったのだった。

「あのね、最初にあったときにわたしが何考えていたかっていうとね………。」
「わたし楽譜読めないしさ、この音楽の先生、ニコニコして人が良さそうだから利用してやれ~って思ったんだ。」

そういって彼女は朗らかに笑った。
この取材のために改めて会って話していたときに、この頃を想い出して不意に彼女が口にした二十何年目の事実。

目標を持つ。それに向かって何が必要で、どんなふうに学び深めるのかを自ら考えて選ぶ。
そしてそこに向かってくり返し投げ出さずに進んでいく。

そのくり返しと積み重ねが今の彼女を創り上げ、この笑顔と自信を支えているのだ。こともなげに見えるその影では流した汗や苦労などは当然のことと受け止めて、前向きに進んでいく彼女の姿があるのだ。

わたしもね。利用してもらえてよかったよ。おかげで、あの頃一緒に練習していた思いは大切な経験のひとつになって私の中に蓄積されているのだから。おたがいさまだね。

そういってわたしも、一緒に笑った。

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たぶん。障害とか、先生と生徒とか、そんなものはどうでもよかったんだろうと思う。
人と人とのつながりや、関わり合い、出会いというのはこういうものなんだろうと、そう思う。

『障害者としてではなく、ひとりの社会人として世に問うていく「風子の絵足紙キャラバン」に、今後ともより一層のご理解とご支援をお願いいたします。』

今回行われたつぶやきコンサートでもらったパンフレットにこんな一文が載っている。これは絵足紙キャラバン実行委員会という彼女の支援者の会の挨拶文だ。彼女に出会った人たちは、みな、「障害なんか関係ないや」と、きっとそう思うに違いない。

彼女は「冨永房枝」というひとりの人間として生きてきているのだから。人と人との関係の中で、ただ生を与えられたものとして同じように悩みもし、苦しみもし、喜びや感動を得ながら生きているだけなのだから。

そんな彼女がここに来るまでの「からだとのつきあい方」「生きざま」を通しながら、彼女の「絵足紙展」についてこのあと記述していこうと思う。

心は体には囚われない~風子、その2~へ続く。)

HP「風子の絵足紙キャラバン」

(写真、文:駒村みどり)

ピアノのおいしさ、つまみ食い。〜ピアノ・ア・ラ・モードat佐久なんだ館〜<’10年4月掲載>

「面白いことをやるんですよ」

以前、この取材でお世話になったオギタカさんから、そんな声がかかりました。
(オギタカさん取材記事「届け、つながれ。 大地の鼓動・風の歌」)

新しい形の、ライブ。
その名も「ピアノ・ア・ラ・モード」。

……ピアノのアラモードって???
キャッチコピーが、こう。

「ちょっと大人な音楽デザート お好きなアペリティフを召し上がれ」

どうやら、ジャンルの違うピアニスト5人が集まってひとつのライブを構成するらしい。一粒で5度おいしいライブ???

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ピアノ・ア・ラ・モードの企画を考えて主催したのは、坂城に在住のジャズピアニスト、コイケテツヤ氏。

コイケテツヤ氏は、「ブルースピアニスト」としてライブ活動を行っている。
でもこの「ブルースピアノ」というジャンル。あまりメジャーではない。
そのため、コイケ氏は、とにかくいろんなブルースピアニストの演奏を聴き、ほぼ独学でブルースピアノの世界を身につけたそうだ。

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小学校3年ぐらいから中学3年生まで約6年間ピアノを続けました。
そのときは「習わされていた」といった感じです。

高校卒業、就職し、バンドをやっていなかった19歳のあるとき、「ジャケ買い」した一枚のブルースピアニスト「otis spann (オーティス・スパン)」のアルバムが、ブルースにのめり込むきっかけとなりました。

そのアルバムを聞きまくり、一所懸命真似しました。
そのときはブルースしか見えていませんでしたね。
他のジャンルにはまったく興味がありませんでした。

いまから6,7年前から、それまでやった事のなかった歌を歌い始めました。
自分で歌うと、選曲に歌詞の内容を重視するようになり、その頃からだったか、徐々にジャンルへのこだわりはなくなっていきました。

いろいろな音楽に興味がでてきて素直にいろいろな音が私の中に入ってくるようになりました。

(コイケ氏談)
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そんなコイケ氏が、この企画を思いついたきっかけ。
それは、「自分がいろんなピアノに触れてみたい」というところから始まったそうだ。

自らのブルースピアノの世界。それ以外に、ポップス、クラッシック、ジャズ……「ピアノの演奏」とひとことで言ってもいろんなジャンルがある。

そういう人たちの演奏を、いろいろ聞いてみたい。
みんなで一緒にやったら、良いかもしれない。

そんなところから、ピアノつながりで声をかけた人々。
その人たちもみな、コイケ氏のその意図に「乗って」今回の企画が実現した。
ひとり20分の持ち時間。その中で、それぞれのピアノの世界を展開する。
それが、「ピアノ・ア・ラ・モード」。

今回の企画に参加するピアニストの皆さんが東信地区の人が多いので、会場は新幹線佐久平駅近くの「なんだ館」のメインホールになった。

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当日のライブの様子を記述する前に、この「なんだ館」についてもちょっと触れておこうとおもう。

佐久市なんだ館。よ~く見ると、四角じゃない。「五角形」の建物だ。
(外から見るとよくわからないけど、中のホールで天井を見上げるとはっきりわかる)

北海道函館に「五稜郭」があることは、歴史の勉強した人はみんな知っている。けれども、日本にもう一つ「五稜郭」があることはほとんど知られていない。それが、この佐久市の臼田にあるのだ。

この「なんだ館」が五角形なのは、その五稜郭にちなんでいる。「もうひとつの五稜郭」を人の記憶にとどめようとこの「なんだ館」も五角形なのだ。

オーナーの渡辺さんは、そんな佐久の持つ歴史文化遺産に思いをはせ、そしてここから「文化発信」をしたいと考えた。

もともとは御代田でご自身の持つアパートの二階をミニコンサートに解放していたそうだが、きちんとしたホールで……という思いから佐久平駅に近く客の訪れやすいここに新たにオープンさせたのだそうだ。

なんだ館は中央にホール(コンコース)があり、その五角形の各辺からさらに五つのスペースが展開している。
このスペースは、ステージ・三つのテナントブース、喫茶室で構成されている。テナントブースでは、お店で販売、という状態までは手が届かない手作り品を販売できるよう、手作り発信の場として考えられたスペース。

プロ・セミプロの作家さんはもちろん、学校の生徒さんが販売用に作った作品なども、このスペースを活用して展示販売してもらえたら……とシンプルな作りとお手頃な使用料で提供している。
また、手作りサロンとして、申し込めば羊毛フェルトや陶芸などの講座が受けられるスペースもある。

中央のコンコースは最大100脚の椅子が用意されていて、普段は「多目的スペース」としての空間だが、椅子を並べるとあっという間にコンサート会場に早変わり。

ここのピアノはいい音がすると評判で、ピアノ教室の発表会にもよく利用されるらしい。

ホールの後ろにある螺旋階段を上ると、そこはギャラリー席としても活用できるスペース。ピアノの演奏を聴くには、なかなか特等席かもしれない。

そして、ホールの壁面や、ちょっとしたところにはちいさな花が飾られていた。
何とも言えない「手作り感」とぬくもりあるスペース。

立地的にも良い場所だし、こういうはっきりしたコンセプトを持った会場は、もっともっと活用されて根付いて欲しいなぁ、と思った。

(*「なんだ館」お問い合わせは0267-88−5010。詳細はHPをご覧ください。)

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いろいろな方の演奏が聴きたくなり、観たくなり、時間があればライブを観にいきました。次第にいろいろな方々との交流が増え、そんな中、ピアノを使って表現する人が意外と多いことに気がつきました。

同じピアノプレーヤーとして私にはない感覚を持った人がいることがとても新鮮で、
皆さんアーティストとして素晴らしい方々ばかり。

一緒に出来ればすばらしい!

こんなことがきっかけで、今回の企画が浮かんできました。
ジャンルを超えた「ピアノ・ア・ラ・モード」を企画した理由は、一台のピアノが、弾く人の感性で様々な音色に変化して、いろいろな世界が繰り広げられる、すべてが面白くて、興味深いものであって、そんなステージをおみせしたかったからです。

そしてなにより、私自身そんなステージを観たかった!

今回のこの企画を立ち上げたコイケテツヤ氏は、このイベントへの想いをこう語る。

こんなコイケ氏の想いに答える人がいて、それを迎える会場があって、そうして「ピアノ・ア・ラ・モード」は2月の最後の一日に実現した。

開演と共にそれまでは演奏を待つのどかな人々のサロン的な雰囲気だった会場の雰囲気が、一変した。

トップは主催者であるコイケテツヤ氏のブルースピアノ。

黒いピアノに、黒いコイケ氏の出で立ちでステージが一気に引き締まる。
軽やかな音符たちがピアノの上ではね回り、それにつられてからだが自然とリズムをきざみ出す。

この日、ステージにこのあと立つ他の出演者たちも、自分たちの出番以外はお客のひとり。コイケ氏のピアノに合わせて、オギタカ氏が手拍子を鳴らし始めると会場全体がそれに合わせて乗ってくる。

楽しい。カメラをかまえながら、ついリズムに乗ってしまう。

はずんだり、微笑んだり、歌ったり、聴き入ったり。
いろいろな音がステージから降り注いでくるたびに、お客さんの顔が輝いていく。

ひとり持ち時間20分というステージは、あっという間に終了。だけど、コイケ氏のはなった音は、会場の空間に満ちあふれている。もっと聞きたい、だけど、これだけでも満足。それだけこの20分が、濃密だったんだろう。

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続いては、POPピアノの俊智(しゅんち)氏の登場。
山口県生まれの俊智氏は、現在御代田在住。自らが御代田の空気を感じながら得た感覚を音にのせてオリジナルソングを発表している。

御代田の優しい風が、浅間山麓の林を吹き抜けるような染みこむメロディー。
そうかと思うと龍神祭の激しい鼓動。

緩急織り交ぜた俊智氏のオリジナルソングは、御代田の空気を聞くものに正確に届けていく。
佐久で育ったわたしは、龍神祭自体は見たことがないが、そのお寺には父に連れられて行ったことがある。お寺の庭にある池が諏訪湖とつながっていて、諏訪の国の神様として祀られている甲賀三郎が龍の姿となって地上に出てきた際、この池から出てきたという神話がある。
その池の神秘さや、清浄な感じが俊智氏のピアノによって記憶の奥からよみがえってきた。

浅間山を間近に感じる御代田の地に立っている気分になる不思議な20分間だった。

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続いてはクラッシックピアノの細井美来氏。
細井氏は4才からピアノを始め、現在は軽井沢で演奏活動と後進指導に当たっている。

出だしが「トロイメライ」。
個人的に、この曲にはちょっとした思い出があって、さらにその思い出に重なる細井氏の音がとてもやわらかく優しくて、思わずこみ上げそうなものをこらえた。

男性二人の骨太な演奏のあとで、女性らしい繊細な演奏が対照的で、そして聴かせる。
2曲目のショパンの「ノクターン第2番」では、ラストの細かい音符のきらめきが、ひとつひとつ明瞭に際だちながら鮮やかに奏でられ、一音も逃したくない気持ちになって細井氏の音に引き込まれてしまった。

最後の音が消えたその瞬間の余韻までも楽しむことが出来、ため息がでてしまった。

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休憩のティーブレイク終了後、オギタカ氏のステージ。

オギタカ氏の演奏はいつもながらにパワフルで、いつ聴いても元気になる。
20分という時間のせいか、最初からガンガンに飛ばしていくのであっという間に会場はハイテンションに盛り上がっていく。

そして、なんと、オギタカ氏のピアノにコイケ氏が参加してピアノのデュオを披露。

この二人の息のあった演奏は、どんどん熱を帯びて盛り上がる。
何よりも二人ともとても楽しそうで、二人の奏でる音が絡み合い、支え合い、刺激しあって新しい音が生まれていく様が何とも「Happy」なのだ。

今この場で生まれた音、この瞬間しか聴くことの出来ない音。
生き生きとした音の固まりがぶつかってくる感じが何とも嬉しい。

デュオのあとはオギタカ氏がしっとりと歌い込んでステージをしめる。

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ラストに登場したのがジャズピアノの武藤さとみ氏。

軽井沢町在住の武藤氏は、プロとして数多くのセッションに参加している実力派。
初っ端になんか聴いたことのあるメロディーだと思ったら、ブルグミュラーの練習曲。ピアノを習ったことのある人だったら多分みんなやったことがある曲。
それが、だんだんジャズ風に姿が変わっていって。「こんな曲あったよねぇ。」って思うようなジャズ曲に変身。

すごいなぁ。さすがだ。

それに、武藤氏オリジナルアレンジの曲が何曲か。
軽井沢の情景をイメージしたもので、から松林や軽井沢の乾いてちょっと涼しげな風を感じさせる曲。

軽井沢は、冬は厳しい気候のあとの芽吹きの新緑の喜びがひとしおな土地。そんな軽井沢の自然を見つめる武藤氏の感覚が、お母さんのような優しさと包容力を持って静かに流れ込んできた。

最後に、武藤氏のMCと笑顔でステージ終了……。
かと思ったら、今日の演奏者がステージに集結。なんと、アンコールでSMAPの「トライアングル」を全員で演奏。

歌詞にあるように、みんなの声(音)は異なっているけど、
表現方法も、ジャンルも、まったく異なっているけれど、
「音を愛する人たち」の想いは、生命は、ここでひとつに結びついた。

ステージの上の5名も、それを受け止めた観客も。
みなそういうひとつの想いの中に過ごした2時間あまりをかみしめたラストステージだったように思う。

もともと、人がその想いを伝えるひとつの手段として生まれたのが「音」。
人をつなぐために、喜びや悲しみを伝えるために、人とそういう想いを分かち合うために、様々な音が生まれてきた。

音楽に国境はない。

言語も、人種も、歴史も、伝統も。

「クラシック」とか「ポップス」とか。
そんなジャンルも関係ない。

そんなものはくそくらえで、その本来の「音」の持つ意味をもっともっと自由に感じとっていってもいいよねぇ。

それでこそ、「音楽」……音を楽しむこと、なんだから。

「来年もまた、やろうね」

打ち上げの時に、5人が笑顔でそう語っていた。
こんな風に、音楽の本来の楽しさをどんどん伝えてくれるステージが広まっていったらいい。この試みが、この先もさらにひろがって続いていったらいい。

そんなワクワクするビジョンが、どんどん湧き上がってきたステキなステージだった。

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【コイケ氏ブログ】  ライブ情報やまとめなどの情報がアップされるのはこちら。

コイケテツヤノオモウコト

【コイケ氏の今後の活動予定】←記事掲載’10年4月現在のもの。最新情報はコイケ氏のブログでご確認ください。

4月24日(土)
長野市「はくな・またた
オープン/19:00 スタート/20:00
チャージ/\1,000(1ドリンク付)

出演/
魂のギターデュオ
コイケテツヤ
こんこば

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5月22日(土)
「SUPER JAM NIGHT vol.2」
長野市 LIVE HOUSE J
オープン/17:30 スタート/18:00
\1,500(1ドリンク付)

出演/
SOUL BEAT(ソウルビート)
DEEP SOUTH GROOVE(ディープサウスグルーブ)
BEVA,SOUL BROTHERS(ビバ、ソウルブラザース)
BOOGIE WOOGIE SHACK(ブギウギシャック)Vo.:コイケ氏
飯山ガキデカJAG STOMPERS(イイヤマガキデカジャグストンパーズ)

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コイケ氏は、音楽活動のかたわら、腹膜偽粘液種(ふくまくぎねんえきしゅ)という疾患を難病として特定疾患に認定するための署名活動も行っています。
詳しくは、コイケ氏のブログ記事「腹膜偽粘液腫に関する署名のお願い」をお読みください。

(写真・文:駒村みどり)

届け、つながれ。〜大地の鼓動・風の歌〜<’10.2月掲載>

1月末のある晴れた日。
一台の車がある学校にやってきた。

車の中には、たくさんの楽器。
積みおろしを手伝う。

重たい大きな袋には……いっぱいの川原の石。
別の袋には……太い竹筒が何本も。

「それ、重たいでしょう?無理しないでね、千曲川の川原の石だから。」

そう言って笑うのは、東信地区を中心に活動を続ける音楽家のオギタカさん。
日に焼けたその顔に浮かぶ柔らかな笑顔から、大地の香りがした。

わたしはこの日、彼の音楽活動のひとつである、ある学校での「音あそび教室」にご一緒させてもらった。

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ここで、簡単にオギタカさんのプロフィールをご紹介します。

オギタカ

作曲家。シンガーソングライター(ボーカル・ピアノ・ギター・ジャンベ・バラフォン・スティールパンなど)
映画音楽、舞台音楽、プレステーション等のゲーム音楽、TVやイベントのBGM等の幅広いジャンルの作曲を手がけている。

1966年長野県小諸市生まれ
中学時代、ブリティシュサウンドにはまりバンドを始める。
高校卒業後上京、ソロ活動や作曲の仕事をしながら世界各地の民族音楽にのめり込んで行く。
2000年拠点を小諸に移し、風土に根ざした曲や詩の制作を始める。
2003年よりモンゴルより伝わった地元民謡「正調小室節」を歌い始め、現在準師範。
2004年「音あそびの会」を発足。
現在、「ライブ」と「音あそび」の2本柱により長野各地で活動中。

(音あそびの会HP、オギタカプロフィールより)

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「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」

オギタカさんがこの日、持っていた絵本「アフリカの音」の中の一節。

彼は、「音あそびの会」にいつもこの本を持っていくのです。
音あそびの会の中で、読み聞かせをすることもあります。

彼がなぜ、この本を持って歩いているのか、読み聞かせするのか……。
この本の中に彼が人々に音楽を通して伝えたい想いが詰まっているからかもしれません。

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「アフリカの音」はアフリカ人の思想(命や精神が循環していくことの大切さ)を音楽や祭りを通して表現している本だと思います。

「すべてが循環していくことの大切さ」・・・ここはキーポイントかな?

「アフリカの音」に「命のつらなり ありがとう」みたいのがあったと思うけど・・・
命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくると思うのです。

現代の日本社会が忘れてしまったこと・・・・
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。

それが希薄になって来ている現代は孤独な人や独善的な人が増えているように思えます。

みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたらもっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません。

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オギタカさんに、ご自分のもろもろの活動にむける想いをお聞きしたら、こういう答えが返ってきました。

一昨年、あるイベントをきっかけにオギタカさんと出会いました。
そして、オギタカさんの音を聴きました。

初めていったライブは室内のものでしたが、その次に聴いた音は飯綱高原の大座法師池の上に設置されたステージでのもの。

どちらのライブも素晴らしかったのですが、オギタカさんの音楽に対して持っている想い、人に伝えようとしている鼓動、それが、この野外ステージでのライブでびりびりと伝わり、飯綱の森の中に染みこんでいったその感覚が忘れられなかったのです。

アフリカの楽器を中心にして彼が放つ音は、まるで大地の鼓動や風の歌のように聞こえ、木々のゆらぎや水のさざめきがそれを彩っていました。
次第に暮れていく周りの景色全体が音楽の中にとけ込んでいく感じ。
自分もまた、その景色の中に組み込まれて一体化していく不思議な感覚がそこにありました。

アフリカの人々は、楽器を使って会話をします。
祭の中に、神への感謝、生きることの喜びを歌い上げるときにも、楽器をかき鳴らします。
音楽とは、単なる表現ではない。命の叫びです。歓喜の声です。

オギタカさんは、自分の音楽活動を通して、こういうものを人々に伝え、届け、感じてもらう活動をしているのだ……と、私はそう感じました。

そんなオギタカさんの音楽活動を、ここから少し追いかけてみたいと思います。

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オギタカさんの想いは、さらにこう続きます。

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音あそびは「ひと時の夢」なのだと思います。
でも参加者がその中で何か感じ取って、それが心のどこかにすこしでも残ってくれれば嬉しいです。
もちろん義務でやっているわけではないので一番楽しんでるのは僕自身なんですけねどね(笑)

ライブに関しては好き勝手にやってるだけです。
自己表現としてあまり色んな観念に縛られたくないと言うが本当のところです。
でも音あそびから得たグッドバイブレーションが自然にライブに反映されることは望みです。

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オギタカさんのライブは確かに、とても自由な感じです。
音楽の時間の勉強のように、音符や拍子にはずれないようにと頑張る感じではなくて。
そういうものにとらわれない、自分の中にある気持ちや心の動きをそのまま音にのせてお客さんに投げかける。

だから、それを受け止めるお客さんたちも、だんだん自分の中にある想いを手拍子や足拍子で一緒に表現し……時には踊り出す人もいて、にぎやかにみんなで音を共有する。

オギタカさんを中心に、「音」がさざ波となって会場全体にひろがっていく、そんな感じなのです。

そして、この日の音あそびでも……そんな様子があちこちに見られました。

まずは、ジャンベで「リズムでの会話」を楽しみます。
ジャンベというのはアフリカの太鼓。
この楽器の音の出し方、どんなふうに何を表現するのに使われるのか。
そんな簡単な説明のあとでみんなが一斉にたたきます。

最初はしかめっ面で、遠慮がちにたたいていた生徒の顔が……どんどん生き生きとしてくる。
「これでいいのかなぁ?」と困ったような顔が、リズムに集中しているうちに次第に和らいで、ほころんでくる。

二つのリズムの掛け合わせで、相手のリズムに答え、合わせてたたいているうちに、ほおが上気して、眼がキラキラして。

「楽しい!!」という感じが教室に満ちあふれてくる。

硬かった体の動きも、だんだんリズムに乗って軽やかになり。
部屋の中は、飛び跳ねる音でいっぱいになります。

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オギタカさんが手に持っているのは……冒頭に書いた「千曲川の川原の石」。
オギタカさんにかかるとこれだって立派な「楽器」になるのです。

両手に持ってたたき合わせると鳴る音。
細かいリズム、ゆったりしたリズム。
こすり合わせてでるかすかな音、投げて床に落ちる音。
みんなそれも「音」………「音楽」なのです。

たたき方。
頭の上でたたいたり、背中に手を回してたたいたり。
それを見てみんな笑顔で真似をします。
あいさつがわりに隣の人と、軽く合わせて出す「コン」という音も。
みんな人と人とをつなぐ音です。

音の輪が、どんどん広がっていくのです。

木琴のような楽器は、あとでご紹介しますが「バラフォン」です。
まるで瞑想の世界に誘うような音がでます。

たくさん転がっている千曲川の石。
さっきまで、みんなしっかり握りしめて、いろいろな音を奏でていました。

そしてバラフォンと石の間にあるのは竹筒。
これもまた……ほんとにステキな楽器に変わります。

一人一本ずつ竹の筒を持って。
そうして何人かのグループになって、順番にならしていきます。
不思議な音のつながりが輪になって、あちこちのグループから聞こえてきます。

自分の順番をはずさないように。
強く、弱く。
いろんな表情でならします。

途切れることのない音の輪は、まるで音にのせた気持ちのリレーのようです。
みんなでグループの他の人の出す音を聴きながら、自分の音の順番を待ち、そうしてその「和」を崩さないように上手く次につなげる音を出すのです。

たまに失敗して笑い声が起こるのも、ご愛敬。
それもまた、他のグループの竹のメロディーに組み込まれて新しいハーモニーが生まれます。

そうして最初は緊張の中に始まった「音あそび」は、部屋いっぱいの笑顔があふれる中、オギタカさんからのプレゼントで終わるのです。

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オギタカさんのミニライブ。

しっとりした曲、手拍子しながらのノリノリの曲。
音楽を最後にみんなに贈って、この日の「音あそび」のプログラムは終わり。

でも………
プログラムが終わった後も、片付けまでまだまだ音あそびは続くのです。

音と笑顔でつながった生徒さんたちは………
片付けを待つバラフォンのバチを手にとって「これ、鳴らしてみてもいいですか?」と奏で始めました。

自由にいろいろな音を鳴らしながら。
友だちと向かい合って。

「気持ちいい~~~~。」
「楽しい~~~~~。」

この日、シメの笑顔とやさしいバラフォンの音色で音あそびが終了しました。

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オギタカさんの音でつながる活動は、このあともまだまだ続きます。

障害を持つ子供たちとつながったり、いろんなジャンルのピアニストとつながったり、
本当にいろいろな人々と、音でつながっていくのです。

そんなオギタカさんの活動を、この先ももうちょっと追いかけてみようと思います。

<「音あそびの会」HP> http://oto-asobi.main.jp/

<今後の活動予定>

2月28日(日)ピアノ・ア・ラ・モード  ~5人のピアニストによるジャンルMIXライブ~
会場:佐久市なんだ館(0267-88-5010)

4月24日(土)アースデイin佐久
会場:佐久ミレニアムパーク(佐久平駅蓼科口西)

(文・写真 駒村みどり)