まるでおとぎの国のお菓子の家のよう。それともヨーロッパのおしゃれなセンスの良いお家。あまりに背景に見える中央アルプスの山並みが似合いすぎます。

このお店はお菓子屋さんなのだけれど、入口に向かうにはちょっとドキドキしながら緑茂る通路を通っていくので、お店というよりも友だちの家を訪れる感覚。そうしてドアを開くと……正面のショーウインドウには色とりどりのケーキが……。

けれど、私がまず目を奪われたのはそこよりもお店にいる人びとの様子でした。
まず、平日昼間のお客様の多さ。そしてそのお客様の中にお年を召した方の割合が多いこと。それは、正直「ケーキ屋さん」のイメージからしたら意外な光景でした。若い女の子や、ちょっと年配のマダムがおしゃれに立ち寄るのがケーキ屋さん、というイメージが私の中にはあったのですが……。

このお店は元々は和菓子やさんで、お店の一角ではちゃんと和菓子も……それもこのお店に受け継がれる味もしっかりと大切にされているからお年寄りの姿があるのも当然なのかもしれないけれど……。そんな風に思いながら、和菓子コーナーのショーウインドウでお菓子を見ているおばあさんの姿を見て、私はまた、はっとしたのです。

店員さんが……おばあさんの孫と言えるくらいの店員さんが、ショーウインドウの向こうからおばあさんの横にでてきて寄り添ってお菓子を一緒に選んでいる姿がそこにあったのです。まるで仲良しの孫とおばあちゃん。そんなほほえましい姿をそこに見て、このお店の中いっぱいに流れる温かい空気がどこから来ているのかがわかったような気がしました。

驚いたのはそれだけではありません。「○○様~。ケーキのご用意ができました。」……ケーキを選んで包んでもらい、お会計待ちをしていると店員さんが名前を呼んでくれるのです。

温かいなぁ……優しいなぁ……。美味しそうに並ぶケーキや和菓子たちの甘い匂いだけでなく、そんな微笑ましい「甘さ」がお店の中に漂っていました。

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朝7時48分。
お菓子を作る作業工房に、シェフ、パティシエ、店員さんたちがずらっと輪になって丸く並び、その輪の中の1人の女性がきりっと張りのある……それもかなりの声量でこう告げました。

「朝礼をはじめます!」
間髪を入れずその声は続きます。「笑顔体操、はじめ!」
かけ声にあわせて、顔をほぐすことしばし。そのあと「笑顔!」「真顔!」のかけ声でみんなが表情を作る練習。

でも、そこまでだったらまだいろいろなお店でもやっているのかもしれません。
その次に、二人組になるとみんなで真剣にはじめたことが……「じゃんけん」でした。嬉しそうに、楽しそうに。でも「本気」でみんな一斉にじゃんけんを始めます。

そうして次の合図で、勝った方の人から相手に向かって「いいところ」を伝えるのです。昨日見た接客の姿、お菓子作りに真剣な姿、同じ仲間として相手の姿を見て「いいなぁ」と思ったところを相手に時間いっぱい伝え続けるのです。

……皆さん、同じ職場でそれをやるように言われてできますか?それは実はとでも難しいこと。まずはその「相手」をしっかり見ていなくてはなりません。悪いところは目につきやすいもの。でも、いいところというのは相手をしっかり見ていなくては気が付かないもの。そして、それも中途半端に見ていたら、上っ面の言葉はすぐに相手にばれてしまうので「誉め言葉」にはならずにかえって不快にさせることになります。

それを、たった1人だけでなく、職場全員の姿について……仕事をしながら見ているわけですから、これは簡単にできる事じゃないのです。2人組になって、まず相手と握手をして挨拶してから勝った人が時間いっぱいに心から相手のいいところを伝える。当然、自分のいいところに気が付いてもらえたら嬉しいから聞いている方は笑顔になっていきます。心からの笑顔です。

そうして時間が来たら、自分のいいところを語ってくれた相手に心からのお礼を言うと、交代です。また真心のこもった言葉がどんどんと相手に届いていきます。

お互いにいいところを伝えあったら、今度はくるりと回れ右して、違う二人組でまたいいところを伝えあいます。それをみんなが真剣に伝えあっていく中で笑顔と優しさがこの作業工房の中に充ちてくる感じがしました。

「なりたい自分を想像しましょう!プラスのイメージで。イメージした自分にしかなれません!」

次のリーダーの声で、それまでのにぎやかさがあっという間に静寂に変わります。目をつぶって自分の「よい姿」を心に描くのです。そして次に「世界一宣言」。

自分は、これの世界一になる!という宣言を1人ずつ全員が、大きな声で順番にしていくのです。一周まわって全員の「世界一」が出そろうと、次は「HAPPY スパイラル!」……ここまで来るともう、お祭りが最高潮に盛り上がっているかのように皆さんの顔が上気し、声もどんどん大きくなっていきます。そしてその盛り上がりはみんなの意気を一つにまとめ上げていくのです。けれどそれは単なる大騒ぎばかりではなく、次の瞬間はみんなで手をあわせていろいろなものに静かに感謝の心を持つ時間へとつながります。

きれいだなぁ……
目をつぶって心の中で、家族、お客様、仲間、地域の人たち……いろいろな人たちに「感謝」をしている人たちの静かな横顔は、まるで仏像のような穏やかさに充ちているのです。

最後に目を開けて、仲間全員と順番に握手をし、一日頑張ろうと挨拶をしあって朝礼が終わったかと思うと、さっきまでの盛り上がりが嘘のように皆さんさっと自分の今日の仕事・持ち場に向かってそのままそれぞれの作業が始まるのです。

それはもう、鮮やかというか何というか……あまりの見事さに、私は言葉が出ませんでした。
たぶん10分か15分くらいの時間の中で、これだけ濃縮された中身が展開されて職場の仲間の心が一つになり、笑顔があふれ、やる気に充ちて始まる一日。 

ただ笑顔の強制じゃなく、ただ大声の強制じゃなく、ただ形ばかりの挨拶や目標を順番に述べるだけじゃない。見習い研修中の人も含めて皆が同じようにこの朝礼の時間を共有することで、この作業工房の中にやる気と真心をいっぱいに満たしてしまったのです。
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皆さんが朝礼をやっている間に、ふとまだ暗い店内を見渡せるカウンターの上に目が行きました。そこには、何冊も重なった分厚いノート。

どのノートも明らかに、びっしりと書き込まれていることは一目でわかります。たぶんこれは、それぞれのスタッフが書きためている仕事の記録なのでしょう。

菓匠Shimizuのシェフパティシエは、日本やフランスの各地のお菓子作りの権威のもとで修行を積んできた方でものすごくお菓子作りには厳しい方と聞いています。朝礼のあのノリで、意気をあげてその勢いだけで突っ走るのではなく、朝礼のあとはあっという間に仕事について張り詰めた空気を作りあげるのはたぶん、この「技術的」にも皆さんが菓匠Shimizuの味として責任持って胸を張れるものを生み出す努力も怠っていないから……さりげなく積み重ねられたノートのふくらみ方を見てもそれを感じることができました。

その確かな技術と、それから仲間同士の強い支え合いと真心の成果は、この菓匠Shimizuで行われている「夢ケーキ」というイベントが毎年「大成功」を積み重ねてきている実績にも表れています。

この「夢ケーキ」というイベントは、2006年、5年前から菓匠Shimizuで行われているイベントです。2005年に今の場所に今のお店をオープンし、その一周年企画で開催されたこのイベントは、「家族みんなで一つの夢を語ってもらい、その夢をケーキの上に描いてプレゼントする」というものです。

みんなでサッカーをしているケーキ、ロケットで宇宙に飛び立とうとするケーキ……様々な家族の夢を描いたケーキを形にして、その家族に無料でプレゼント……家族に夢を送ろう、子ども達に夢が叶う喜びを届けよう、という思いの元に開催されているこのイベントは、第一回目に6台申込みがあってから年を重ねるごとにその応募数を増やし、第8回には850台ものデコレーションケーキを応募者に届けるという、偉業を成し遂げています。

この夢ケーキの構想は、今や日本の各地に飛び火して共感したお菓子屋さんがそれぞれの想いを乗せた夢ケーキのイベントを始めて来ていて、2010年には8月8日を「夢ケーキの日」とし、さらに今年度はNPO法人「Dream Cake Project」を設立、このお店から発信された「夢ケーキ」の構想が「8月8日世界夢ケーキの日」制定に向けて確実にそのあゆみを進めています。

このイベントがここまで定着し、拡がり続けているのはまぎれもなくこの菓匠Shimizuの「夢に向かって突き進む力」であり、それを現実に叶える技術力でもあります。

デコレーションケーキは生ものですから、作り置きができません。日頃の業務はきちんとこなしつつ、数日の間に何百というデコレーションケーキを作りあげること。それはスタッフがあきらめず、できると信じて心を一つに協力してここに向かうからなのだと思います。

「お客様の夢を叶える」という喜びのために、みんなが一つになって、数が多いからと手抜きをすることなく、むしろ妥協を許さない厳しさと、時間や費用などの制約に負けないあきらめない心とで毎年成功しているこの夢ケーキ。ケーキを受け取るお客様の笑顔をエネルギーに、夢が叶うものだという喜びを送り続ける菓匠Shimizuの真心は、世界一の真心。

その真心のエッセンスがたっぷり含まれたお菓子。それはこのお菓子を食べた人たちにこれからも伝わり続けていくことでしょう。

いつかきっと。カレンダーに書かれる日が来るに違いありません。
「8月8日 世界夢ケーキの日」………と。

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さて。
この朝礼でお会いできなかった方がいます。

この菓匠Shimizuのオーナーシェフであり、朝礼を提案し、夢ケーキを進めてきた清水慎一さん……菓匠Shimizuの三代目です。

厳しさの中にも本気の笑顔でお菓子を作り続けるスタッフとこのお店を引っ張る清水さんとは……一体どんな方なのでしょうか?改めてこの次の記事で取り上げたいと思います。

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢」へつづく)

 

どこまでも細く続く山道をうねうねと上っていく。

「本当に、こんなところにあるんだろうか?道間違えたのかなぁ?」と、思わず不安になったその時。

小さな川に架かった橋を渡るその直前に、橋の向こうの道に沿った日の当たる山の斜面に目を奪われた。

「うわぁぁぁぁ……すごい………。」

思わず絶句した三年前の春。

駒ヶ根に住むお友達が教えてくれた駒ヶ根市中沢の「花桃の里」。「桃源郷」という言葉があるけれど、それはきっとこういう場所のことなのだろう……と思わず納得してしまったほどに、そこは美しかったのです。

山と山に囲まれた狭くて日影の細い道が、川端で開けて日当たりの良いその場所に、赤、白、ピンク……色鮮やかな花桃が咲き乱れていました。

訪れたその時は、ちょうど満開。さらに快晴で青空が拡がり、花桃たちは春の日を浴びながらきらきらと輝いて咲き誇っていました。花桃だけではありません。芝桜が川岸を覆いつくし、レンギョウや水仙といった春の花々が皆一斉にお日さまに向かって花開いていたのです。その有様はとても印象的でした。

それまで「花桃」という花の存在自体を知らなかったのですが(果実用の桃の花は見たことがあるのですが)その「花桃」の可憐さやあでやかさに魅了され、それ以来春の光景というと桜と並んでここの「花桃」を思い浮かべるようになりました。

その花桃の里についての「ある情報」が耳に入ったので、3年ぶりのこの春、再び訪れてみようと思い立ったのです。

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実は……この花桃の里を作りあげたのは「たったひとりのおじいちゃん」なのです。

宮下秀春さん。

花桃に包まれた「休み処 すみよしや」のご主人です。

「ここはもともと家が持っていた土地なんだけど、この急斜面に小さな棚田が7枚あっただけでね。川も荒れてた。退職のちょっと前から定年後の楽しみに……と思って、子どもや孫が遊べるようにと川の整備をはじめたのが平成3年だったな。」

「花桃を植えだしたのはその翌年の平成4年だったよ。で、店の建物を建てたのも同じ年。どうせやるならお店をやった方がいいのでは?と勧められてね。」

そうして定年後の楽しみとして整備をした川には、毎年夏になると駒ヶ根中の保育園の子どもたちが、順番にバスに乗って水遊びにくるそうです。

「管理が大変だけどね、特に夏は。だけど子どもたちの声がきこえてくるのが楽しみでねぇ。」

……と、日焼けした顔で瞳を細くして笑う顔はとても優しいおじいちゃん。

花桃は、平成4年から毎年30本〜50本を植え続け、今や800本という数。周り中どこを見てもかわいらしいお花が。不思議なことに、同じ木に白い花と赤い花、ピンクと白、など違う色の花が咲くのです。

「親の木を見れば、その種を育てるのでだいたい花の色もわかるよ。」

桃の花は種をまいて育てるそうです。9月半ばに種をとってまくと次の5月には芽が出て3ヶ月で苗になる。さらに3年たつと花が咲く。それを繰り返して今の花桃の里があります。去年は新聞でも紹介され、駒ヶ根市の「花巡りバス」のコースの一つにもなっていて、各地から訪れる人も増え時によっては渋滞が起こるほど。

ひとくちに「800本」と言っても平成4年から19年。たった1人で、山の急なところにも、川の水のせせらぎの近くにも、この谷のあちこちにある花桃を植え続ける。それは簡単なことではなかったでしょうに、宮下さんの笑顔からは「子どもたちや孫たちが喜んでくれたら」という張りが感じられます。

花桃の他にも、レンギョウや芝桜を植え、育て、そしておととしからは水仙を植え始めたそうです。水仙は年に1500本植えるとか……。本当に……想像を絶する数なのですけど……。

頑張ったんだ、とかすごいだろう、なんて感じは微塵もなくただただ沢山の人が見に来るのが楽しくて仕方がない、こうして人が見に来てくれるのが何よりも嬉しいんだ……という感じです。

その宮下さんがこの花桃の里で奥さんとやっている「休み処すみよしや」さん。
お団子と珈琲のセット。500円です。
ピンクのかわいらしいお団子の中にはあんこではなくみたらしが入っていて、口の中にとろっと溶け出しそれが何ともいい感じでおいしかったです。
(このお団子は、12個ひと箱700円、お土産で買えます。その名も「花よりだんご」というお団子。みたらしでなくごまが入っているのもあります。)

このお休みどころでは、春はイワナのお料理(庭にある池にいっぱいいるんだそうです)、夏はこれもまた敷地内に宮下さんがご自分で建てたBBQ場で炭火の焼き肉、秋には県のキノコの指導員を務めていた宮下さんが山で採ってくるキノコを使った松茸料理を楽しめるとのこと!

一年中、花桃の時期以外にも沢山の楽しみがありそうです。

花桃の里の花咲かおじいさん、お休みどころのご主人、キノコの指導員、などいろいろな顔を持つ宮下さんには、もう一つの顔も。

この地区の小学校中沢小学校では年3回全校での炭焼き行事がありそれを販売するという活動をしているそうで、その炭焼き指導も宮下さんの大切な仕事の一つ。

実は、宮下さんの一番下の内孫さんがこの中沢小学校の5年生なのだとか。
「でもね、おじいちゃんが来るのは照れて恥ずかしいみたいです。」…とお団子販売を手伝っていた宮下さんの娘さんが教えてくれました。

けれど、小さい頃から身近にあるこの花桃の里はお孫さんたちにとっても「残していきたい大切な場所」のようです。

「二番目の息子がね、今、調理師学校に通っていてね……。」と娘さん。

どうやら、このお休みどころには将来若い料理人が入ることになるのでしょう。おじいちゃんが慈しんだ花桃は、その心は。こうして若い世代の夢にもなって引き継がれていくのでしょう。

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南信濃には、こんな風に「個人が作りあげた花桃の里」がいくつか存在しているようです。二年前に訪れた泰阜村にも、それから大鹿村にも有名な個人宅の花桃スポットがあるようです。

こうして美しい景観をさらに美しく整えて次の世代に残していく。
そんな心が、ここ、南信濃にはあちこちに色濃く受け継がれているように思いました。

(写真・文 駒村みどり)

※中沢の花桃の里は、こちらです。

大きな地図で見る

さわやか信州旅.net(長野県観光公式ウエブサイト)での情報ページ

なお、例年よりも花が咲くのが遅れているので、このゴールデンウイークに満開になりそうです。是非訪れてみてください。苗木も販売していますよ。

7月11日、日曜日。天気は、あいにくの小雨模様。
菅平の裾の須坂でさえ肌寒い……さぞかし上は寒いだろうと長袖を着こんで会場に向かった。

けれど、会場に着いたときに思った。
どうやら長袖の必要はなかったのかもしれない……と。

※ここまでのことは「なから」がもたらす可能性(1)をご覧下さい。

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会場は菅平高原グリーンパーク。会場併設のグランドでは夏のシーズンの菅平名物、ラガーマンの練習風景が雨にもかかわらず展開している。

屋内のBBQコーナーは、すでに材料が並び始めて準備が整っていた。そして感じたのがそこの熱気。まだBBQの鉄板に火が入ってもいないのに、なんだかすでに熱いのだ。

「何かが、ここで起こりそう」……そんな予感がびりびりとしてくる。
そして、その予感が的中したことは、そのあとすぐに判明した。

「乾杯!」
間島さんの音頭で乾杯したあと、代表の児島さんの挨拶。それからメンバー自己紹介。
まずはこのイベントの関係者。東京から来たセガレメンバー5名。つづいて長野側の間島さん関係者。みんな話が面白い。というか、つい耳をかたむけて聴き入ってしまう話ばかり。……まだ、ほんの自己紹介なのに。

その感じは、多分わたしだけのものじゃない。だって、目の前にあるごちそうや飲みものを手にとりながら、誰一人として自分勝手に騒ぐ人なんかいない。話す人を見て真剣にその言葉を聞く。40人もの人たちがほそなが~く座っているから決して聞きやすい状況じゃないのに。

「みんなやってたら時間かかるだけだよね、それぞれで話をしながら自己紹介してください~。」

自己紹介はそこで中断。そしてたくさんの「セガレ(とセガール)」たちはたちまち入り交じってとけ合っていった。

参加メンバーの職業は本当に多彩だったし、活動地域もバラバラ。

地元観光地の旅館やホテルのセガレ、レタス農家の方、プロスノーボーダーの方、山野草などの花卉を栽培・通販している方、ステンレス創作をしている方、横浜でシステム開発をしている方、小谷村の写真を撮り続けて発信している方、印刷会社のセガレ、地元の広告代理店の方、などなど。中には遠く南信の阿南町から駆け付けた写真屋のセガレも。

まずは横浜のSEの沓掛さんとセガレメンバーの静岡のミカン農家のセガレ、わたるさんに話を聞く。ネットでこのイベントを知ってわざわざ横浜から駆け付けた沓掛さんは、実家が青木村で農業を営む、まさにどんぴしゃの「セガレ」。

「そうですね、家に戻るのには迷いがあるけどいずれは考えなくちゃならない……。」

田舎に引っ込むとSEの仕事は激減する。しかし都会から仕事を受けようと思うと費用の面で避けられる。今は国内よりも海外に発注した方がずっと安上がりだから。では家の仕事を手伝うか……というと生活の面でもかなり不安だ。

その迷いは、多分「セガレ」たち共通の悩み。東京のセガレたちはそういう悩みについての勉強会や意見交換会を開くこともしている。

そういう沓掛さんを「メンバーにいつでも歓迎しますよ!セガレは会社じゃない、サークルのようなものだし。」と受けとめるわたるさんは、東京で経営コンサルタントをしている。自分の実家だけでなく、農家の人たちがちゃんと生活できる、生活するだけの収入を得られるようになる手助けがしたい、と語る。

「でも、自分が出来るのはアドバイスだけです。自分たちは作っていればいい、というだけの農家じゃ手助けは無理。」

自分の家だけもうかるようにするのは多分すぐ出来る。でもそれじゃぁ「農」を考えたときに意味がない。“日本の農業”がきちんと成立するようにしなくては。そう語るミカン農家のセガレは、誇りある「日本の農家のセガレ」でもあるのだなぁ。

セガレつなぎに身を包むあつしさんは、酒米作りの農家のセガレ。代表の児玉さんが、東北の酒蔵の「セガレ」と縁があり、その縁をあつしさんに結びつけた。あつしさんの実家の造る酒米と、酒蔵のセガレとがコラボして出来上がったのは「オヤジナカセ」という名のお酒。父の日に向けてかなり売れたようだ。

「父の日が過ぎたら売れなくなりましたけどね、でも、父の日用のお酒、という位置づけでいいじゃないか、と思うんですよ。オヤジとセガレを結びつけるきっかけになるようなお酒になったらいいなぁ、と。」

久しぶりの帰省に、オヤジと飲もうとセガレがみやげに持ち帰る、もしくは久々に家に帰る息子と飲もうとオヤジが用意して待っている。帰れないけど感謝の気持ちを込めてオヤジに贈る、などそんな時に、この酒を……とあつしさんは言う。そんなメッセージ性(物語)のあるお酒、素敵だよなぁ。

間島さんとこの企画を盛り上げようとがんばってきたのが同じデザイン会社に勤める関さん。なんでこの企画に関わったのか?と聞いたらこういう答えが返ってきた。

「広告って、人を元気にするためのものじゃないですか。自分はそう思って仕事している。うちの会社は社長始めそういう人が集まってて、間島さんもそう。
広告ってものすごくいろんなことにつながることが出来る仕事。結局、人を元気にすることやそういう集まりの中から情報がどんどん集まってくる。こっちから発信するとまた集まってくる。そうしていろんなところとつながって、どんどんみんなが元気になったらいいじゃないですか。」

……広告は人を元気にするためにある。あったかい言葉だなぁ。

同じく上田セガレチームの大久保さんは、菅平プリンスホテルのセガレ。日本のダボスと言われる菅平はスキーのメッカだけれど、スキー人口は減少、各地のスキー場はどんどん苦しくなっている。

「菅平はまだ、夏のラガーマンの合宿があるからいい。他のスキー場と比べたら落ち込みは緩やか。けれど、この先を思ったら「春」や「秋」も考える必要がある。」

そう語る大久保さんが今取り組んでいることは、“ほっとステイ”。真田町と協力し、都会の子供たちを菅平に泊めて、真田町の農業体験&お年寄りとの交流を組み込んだ体験ツアーだ。このほっとステイ、セガレ代表の児玉さん出身地の武石村がやっていたことで、それを見に行った大久保さんが、都会のクールに見える子供たちが帰るときにお年寄りとの別れに涙を流す様子を見て「これだ!」と思って取り組みはじめたそうだ。

最初は「儲け」のことが頭にあった。採算を考えてがんばったときもあった。けれど、大久保さん自身が「お年寄りの無償の善意」に触れて考えが変わった。この企画は「信州しあわせ村」という団体でやっている。団体自体の儲けなどはほとんど無い。けれど、これを続けることで何か見えてくるはずだ。その手応えは確かに感じている。

現在、このほっとステイは長野県内で武石と真田町の他、青木村、立科、長和村、茅野が「長野県ほっとステイ協会」として横のつながりを持ち、フランチャイズ形式でお互いに支え合いながら活動を続けている。

その大久保さんに、「ここで何が起こっているのか」もよくわからずに引っ張ってこられたのが伊藤さん。「自然回帰線」という名のペンションのセガレだ。伊藤さんは元、自転車のレーサーだったが腰を痛めて菅平に帰ってきた。
彼とはあまりゆっくり話も出来なかったけれど、最初は周りの熱気に押されっぱなしだった彼が、帰った翌日Twitterでつぶやいた言葉は印象的だ。

「一晩開けても興奮冷めやまぬ。それは、きっと自分の中で何かが変わり始めた証拠だと思う。」

間島さんつながりで、カメラの仕事と兼ねてこの集まりに参加した南信、阿南町の写真館のセガレ、後藤さんもこう語る。

「離れて気が付く地元の良さって、ありますよね。自分も、この先写真を通して地元の南信州、阿南(新野の雪祭り・盆踊りで有名)の魅力を伝えていきたいと思っています。こういうイベントがまた開かれるのだったら、都合がつけば遠くても是非参加したいですね!」

セガレたちの集まりの持つ熱は、こうしてまた新たな熱を呼び覚ましたのだ。

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こんな風にたくさんの人たちの話を聞いてまわっているうちに、これだけたくさんの業種、職種、地区の人たちの集まりであるにもかかわらず、あるひとつの「共通点」があるように思えてきた。なんだろう?もうちょっと話を聞いてみる。

「セガレメンバー」の一人、湯田中のりんご農家のセガレ山本さん。彼はやはり幼い頃からりんご農家の大変さを感じて、兄に続き自らも地元を離れた。今、弟が家を手伝っている。「家を継ぐ」事について親は何も言わないし、責められているわけでもない。けれど、かえってそれが辛かった。自分の中では「何も出来ない、何もしていない」後ろめたさがずっとあった。

そんな時に東京で「セガレプロジェクト」に参加するようになった。
メンバーはみな「セガレ」である後ろめたさを持ちながらも、決して後ろ向きにはとらえていない。むしろそれぞれが出来ることをそれぞれの立場でやること、それを「楽しむ」感じ。

地元でりんごの手伝いをするのは、今の自分には出来ない。それじゃ、自分に出来る事って何だ?……そう考えた山本さんは、実家が作って売っているりんごジュースに目をつけた。ただ何もラベルのない瓶に詰めて売っているだけ。ここにちゃんとデザインしてラベルをつけたらどうだろう?

広告プランナーの山本さんは、友人のデザイナーの協力を得てラベルを作った。貼って売り出した実家のりんごジュースの売上げは、今までとはぜんぜん違った。自分も家の役に立った。親も喜んでくれた。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そう思えるようになった。

橋詰さんは旧武石村(現上田市)で、豚とトマトをやっていた農家のセガレ。やっぱり農業のつらさがあって、「継ぐ」という気持ちはなかった。兄は地元にいるが、別の仕事に就き、実家の農業は一回途切れた。

母親がずっと、花作りをしていた。花を育てながらいろいろ苦心する母の役に立ちたかった。そこで橋詰さんは花作りの専門学校に進学するためにいったん地元を離れた。その間いろいろ考えた。
自分の地元の武石村も、若い人たちが離れてどんどん寂れている。それはなんだかいやだった。実家はトマトもブタもやめてしまったけど、農地や設備は残っている。無からの出発ではなく「ある」ところから出来る。……「あるもの」で何が出来る?

そう思って地元に戻り、地元の花屋で働きながら実家の畑で今いろいろな野菜作りに取り組んでいる。彼は農協には入っていない。農協にはいると最低価格は保証されて、安定感はある。けれどそのためにはある程度の量産をしなくてはならない。今の状態で量産を考えたら人手も時間も足りない。そのために無理を重ねるのは何かおかしい。

計画的には出来ないけれど、代わりに自由度はある。自分でやることによって、お金で買えないものが手にはいる。自分が作った物を直接近くの店やレストランに卸して食べてもらう。「おいしかった」とまた買いに来る子供の感想を聞く。

「無理してやることはない。」

今ある農地で、今得られる力で、どのくらいあげられるのかが課題、と彼は言う。

その彼の言葉に同意するのは菅平で有機レタスを作っているまる文農場の小林さん。彼の祖父は上田から菅平の開拓史としてやってきて、その畑を守る3代目セガレだ。
JAは保証があるけれど、そのために量産が必要だ。それにある程度以上には高値で売れない。自分で直接売ったらもうちょっと高値でも売れる。そうして手塩にかけた野菜の販売網を自らで開拓し、自ら積んで配達しに行く。販売地域は主には上田から軽井沢まで。須坂からも売りに来て欲しい、とオファーがあったがそこまでは手が回らないから、と断った。

配達してくれる人を捜したら?というと彼もまた、こう口にした。

「無理はしない、無理をさせないのがいいんです。」

自分の手で運ぶのが大切なんだ、自分たちでやるからいいのだ、そのためには身の丈以上のことはしないのだ………と。

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長野県には、「なから」という言葉がある。

自分に出来ること(やりたいこと)を出来る範囲で、「楽しく」やるのがスタンスのセガレプロジェクト。一方、この集まりにやってきた長野県のセガレたちもまた、みなそこにあるものの範囲で、自分に出来ることを考えて決して「無理をしない」でやっていくスタンス。どちらもみんな、この「なから」な感じ。

今回、この菅平のイベントを取材してみてセガレたちから感じた共通点。それははじめて児玉さん・間島さんと話した日の想いと重なった。

彼らの親御さんたちは、ものすごく大変だった。彼らは小さい頃からその作業の手伝いにかり出された。そして物作りの大変さを身にしみて感じたからそこから離れたいと思った。けれども、親の作り出す物の温かさや大切さもまた、彼らの中には染みこんでいた。親のようにがんばりすぎるつもりはないけれど、でも、大切なものを伝えることはしたい。

そんなセガレたちの想いの行き着くところがこの「なから」なあり方だったのかもしれない。無理しない。多くを望まない。ある物、できることでやれる範囲でやっていく。

がむしゃらに収入を上げるために働く「エコノミックアニマル」と呼ばれたかつての日本人。高度成長の呼び声に踊らされて家族よりも社会、会社、国のために「24時間働きづめ」だった時代。その時代のツケが押し寄せて日本全体が混迷の状態にある今、そのセガレたちが人間らしく生きるために見つけた答えが「なから」なあり方なのかもしれない。

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イベントの最後は、みんなでの記念写真。
参加者の中に何人もカメラマンがいて、それぞれ交代でシャッターを押した。記念写真といったら、みんなで瞬きも我慢しながら緊張してシャッターが押されるのを待つ……のだと思ってた。

最後の一枚は、関さんがカメラの「横」に立った。みんなに声をかけて笑わせる。そしてその笑いの瞬間に、ファインダーものぞかずに、シャッターを押した。


                       (写真提供:関さん、間島さん)

「はい、お疲れ様~!!」(え~?いつ撮ったの???)

最後の記念撮影も、また、なからに終了。
そんな“なから”なセガレたちの集まり(つながり)はこれからの大きな可能性を秘めて幕を閉じた。

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セガレHP

写真・文 駒村みどり

大都会で。ネット上で。
偶然の出会いが拡がってそれが重なり合い、そしてひとつの熱い固まりになった。

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2年ちょっと前、東京のとある勉強会で偶然出会った3人の若者たち。
きっかけの言葉は、「実家では、何作ってるの?」

都会では、ずっと口にすることのなかったそのセリフ。
新鮮だった。そしてなんだか嬉しかった。こんな話が出来ると思わなかった。

一緒に会って飲みながら語りあうようになった。
かすかに感じていた後ろめたさ、そのマイナスの想いを「モチベーション」に換えて「行動」した。好評だった。後ろめたさが薄れて、さらに「楽しく」なった。

………それが、「はじまり」。

代表の児玉光史さんは、「はじまりの3人」のうちの一人。
長野県上田市(旧武石村)出身で、現在は東京でサラリーマンをしている。高校・大学と野球を続けていた。見上げるように背が高いので「大きいですね」と言ったら「大学の野球部では普通の方ですよ」とのこと。

そんな児玉さんのご実家は、アスパラと米を作る農家だった。
子供のころから家の手伝いをして、感じた農家の大変さ。野球中心の毎日、さらに東京に進学しそのまま就職して、実家の農業とは遠く離れて行きつつある都会の日々にも、「農家のせがれ」であるという意識はどこかにずっとこびりついていた。

何となく、後ろめたい気持ち。家の大変さはわかっている、でも……。
そんな中で参加した、東京での「農を考える」勉強会。そこで出会った他の二人も「同じ思い」を抱えていた。緑少ないコンクリートジャングルで実家の話が通じ、そればかりではなく実家の話題で盛り上がるという新鮮な感覚。

飲み仲間として3人でよく集まっているうちに、ふと思った。
「都会で“農”を考えたら、俺たちはプロじゃないか。この話題に関したら都会では誰にも負けない。」

ちょうどその頃、中国製の餃子の問題があって、「食の安全」について大きな話題になっていた。自分たちの実家には親が丹精し、安心して食べてきた新鮮で誇れる農産物がある。誰よりもその価値を知っている自分たちがそれを売ったら……。

実家に行って、実家の作物を車に積み込んだ。東京有楽町でやっている月に一回の「市」に持ち込んだ。すべて自分たちでやったので、ものすごく大変だった。「売れるんだろうかなぁ」という懸念ものしかかってきたけれど……。

「完売」

すべて売り終えたあとでそれまでとは違った想いが頭を持ち上げてきた。
……この考え方は、この方法は、「あり」だ。

そこからはじめたこのプロジェクト。今は、月に1回第3日曜日に自由が丘で野菜の販売をする活動をメインに、多彩なプログラムが行われている。活動を展開していくうちに、大都会に埋もれていた“せがれ”たちがだんだん集まってきた。


                             セガレHP

スタートは3人の出会いだった。

それが今年の9月で3年目を迎える今、メンバーはどんどん増えている。農家の伜という共通点を持った彼らは、自らを「セガレ」(女性はセガール)と称し、その活動を「セガレプロジェクト」と呼ぶ。

「だけどあくまでも“サークル”のようなもの、草野球のノリなんですよ、これは。」

今のメンバーの数は?と聞くと、答えは50人から70人とのこと、ずいぶんとおおざっぱだ。それもそのはず、入会規約があるわけじゃなく、会費があるわけじゃなく、なにか義務や責任が発生するわけでもない。コンセプトは「楽しく」。各個人が、好きなことを好きなようにやる。やりたいと思ったことを提案する人がいれば、それに参加したい人は参加し、手伝いたい人が手伝う。

「先日初めての有料講座を企画したんですよ。で、そこに集まったのが5人。」

「え?それだけ?」……“5”という数字をきいて、わたしは一瞬そう思った。けれど、続いて出た児玉さんの言葉は、「5人“も”集まったんです。」だった。心から満足そうな笑顔を浮かべて。

児玉さんは続ける。

「有料の講座だとしたら、もしかしたらひとりもいないって可能性だってあるんですよ。ひとりもいなかったら、何も始まらない。だけど、5人来てくれたんです。ひとりでもいたら、何かがはじまる。それが5人も、ですよ。すごいことですよ。」

「草野球」……そうか、草野球だ。

規則に則った試合なら最低9人は必要な野球。けれども、野球が好きでやりたいのだったらボールを握って飛び出せば、壁に向かって投げてとって一人練習も出来る。そこに誰かもう1人来たならば、2人でキャッチボールも出来る。3人いれば、落ちている枝を拾ってバットにしてでも投げる、打つ、受ける……ゲームも成立する。そう考えたら、5人いたらすごいじゃない………。確かに「5人も」と思うよね。

まず枠があって、その枠に何人足りない、という引き算の発想じゃなくて、一人よりも二人、二人よりも三人の方が可能性が増える、という足し算の発想。

さっき「草野球のようなもの」だと表現したこのセガレプロジェクトのあり方は、こんな児玉さんの想いが根底に流れているからこそ成立しているのかもしれない。

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「高校の時、武石村からどうやって通っていたんですか?」

現在は上田市武石地区となっている旧武石村。上田と小諸と美ヶ原を頂点に結ぶ三角形のほぼ真ん中に位置する。美ヶ原に隣接、といったら交通の便がいい?……と思うが実際は上田と松本を結ぶ三才山トンネルを通る道と、佐久と諏訪を結ぶ和田峠を越える道とにはさまれたど真ん中にあり、どちらも武石村は通らない。上田の高校に通っていたという児玉さんだけれど、鉄道は?バスは?と考えてみると、かなり不便だったろう。

「ああ、高校の時には同じ野球部に武石村から3人行っていましたので、3人の親が交代で送り迎えしてくれたんですよ。」

………武石村から上田までは、少なくとも40分以上はかかる。余裕を見て往復で2時間近く。練習時間もきっと朝早くから夜遅く。ご家族は朝は5時くらいに出て送って行き、武石に戻って農作業し、夕方の仕事が終わったら上田に迎えに行き、暗い道を汗と泥にまみれた高校生3人乗せて帰ってくる……。3家族で交代、とはいえ3日に一度上田までの2往復をやる。それも高校の3年間。

それをやってしまう武石村の親御さんたち……話を聞いただけでパワーに圧倒された。

でも、この話を聞いて悲壮感を感じないのはなぜかなぁ。「大変ですねぇ。」と同情するよりも、「いいなぁ、そうやってみんなでやり遂げちゃうの」という、エネルギーの強さに感動した。それは多分、児玉さんから武石村のもろもろのことを聞いたからだろう。「いいなぁ、武石村」……そう思ってしまう前向きなパワーがそこにはあった。

たとえば、地元の野菜や肉を使った「武石丼」というごまみそ味のメニューがある。「武石特産品検討委員会」が地域おこしのためのレシピ公募でグランプリに輝いた武石地域生活改善グループのレシピをもとに考えられた。この武石地域生活改善グループの代表が児玉さんのお母さんだ。(彩りも工夫、地元食材で「武石丼」 グランプリ決定~信州Live on

「なんだかね、地域の人と一緒になってやってましたよ。こんな風にみんなを盛り上げるの、得意みたいですね。」とお母さんについて語る児玉さんだけど、セガレプロジェクトを立ち上げて盛り上げている児玉さんはそんなお母さんゆずりの血を絶対濃くひいている……。

その他、今は約80農家が協力して「体験学習」を行っているが、そのまとまりはしっかりしていて、みんなで盛り上げもり立てる空気が武石にはあるらしい。

「秋のね、地区住民の運動会は武石を離れた同級生たちも帰ってきますよ。僕も毎年参加です。あれは続けたいですね。ぼく一人になっても絶対に続けますよ。」

上田の高校までの毎日の送り迎えは3家族の協力体制。体験学習をみんなで盛り上げる力。地元の運動会に帰省するセガレたち。地域おこしのためにみんなでレシピを開発するパワー。

わたしは武石の実情は知らない。だけれど、この日児玉さんから聞いた故郷のあり方は……そのまま、この児玉さんを育てた気風で、そしてその気風が大都会でもたくましく受けとめられる「セガレプロジェクト」につながっているんだな、と……ふとそんなことを考えた。

そうして児玉さんが2人の仲間とはじめた「セガレプロジェクト」は新聞や雑誌・テレビでも取り上げられて今やメディアの注目株。様々な追い風もあって、どんどん拡がっている。

その拡がりが、長野にも飛び火した。7月11日の日曜日、長野の菅平高原。
セガレパワーの火が、ここでもまた熱く燃え上がった。

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「セガレとセガレのBBQ、やります」

今話題のTwitterでふと目についたその文字に興味をひかれてたどったリンク先にあったのがこのチラシ。

このチラシを作ったのは、上田市のデザイン会社に勤める間島賢一さん。

記載されたリンクをクリックしてたどり着いたのは間島さんのブログ「間島の仕事」の1ページ。そこにど~んと載っていたのがこのチラシだった。

「若い頃は世間知らずでしたよ。」と笑うその表情からはまったくそんなことは想像できない。けれど、このあとのBBQで間島さんを昔から知る仕事仲間からも「昔はね、怖かったんです」という言葉が聞かれたから実際そうだったのだろう。ぎらぎらしていた。仕事をとるために、ガンガン突き進んだ。「ライバル」は山ほどいて、一歩でも先んじることばかりを考えていた。

けれど今回、間島さんの仲間はみな「こんなに人が集まったのは間島さんの人柄ですよ」……BBQで、予想を遙かに上回るメンバーが集まったのを受けて、口をそろえてこう言った。

間島さんは、自身のブログでこう綴る。

「今、企画デザインの仕事をお客さまと直接お取引しているなかで、ライバルと感じる感情が一切ない。(高飛車な意味じゃないですよ)    
 何でだろう?? そんな会話を聞いていた当社の代表が一言。

『見ているところがお客さんだからだよ!』

ライバルに勝つ負けるばかりを考えていると、肝心なお客様の為に何をすべきか
を怠ってしまいます。     (中略)   お客様の視点になって考える。」

印刷会社の営業の仕事から今のデザイン会社に移った。そこでの新しい同僚やお客さんとの出会い。それが間島さんの視点に影響を与えた。肩の力が抜けた。

そんな中で「農家」の方の仕事を請け負う機会が増えた。「物作り」のプロである農家の人たち。だけど日本では今、農業は「職業」としては成立していない。おまけに農家の人たちは「伝えること」がすごく下手。農村では若い作り手はどんどん減っていて、都会では「農業ブーム」が起きているけど、ブームとは裏腹の「現実」がここにある。

農業ブームって何だ?それって変じゃないのか?

そんな中で、東御市にある「永井農場」の仕事に関わった。そこでは誇りを持っていい作物を作る人(おやじ)と、それからそれを上手くコンサルテーションして「伝える」部分を考える人(せがれ)がいた。二人のコンビネーションが、この農場を成功に導いた。

「ブーム」ではない別の「渦」(動き)が、あってもいいのじゃないだろうか?「農」がちゃんと生活するために必要なものを得られる職業、仕事、として成立するための何かがあるはず。

そんな想いを持った間島さんと児島さんの出会いもまた、Web上だった。
セガレプロジェクトや、それについてのHP、ブログなどを通じてつながった二人が「会いませんか?」ということになったのは、今年のゴールデンウイークだった。

実家の野菜を都会で売る。活動基盤は東京だ。けれどいずれは長野に戻ろうと思う。長野ともっとつながりたい。……そういう児玉さんの想い。
東京で農をメインに据えた活動を展開し、成り立っているセガレプロジェクトと交流できたら、地元も大きな影響を受けるかもしれない。……そういう間島さんの想い。

二つの想いが重なり合って、勢いづいたこの企画が動き出した。

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長野県の方言のひとつに「なから」という言葉がある。
「なから」は中くらい、という意味ではない。中途半端、という意味でもない。大概、大体、おおよそ……そんな感じの言葉だ。

できることを、「5人しか」ではなく「5人も」と足し算思考で実践している児玉さん。
自分視点からお客さん視点に変わって力みが抜けて、自然体でやっている間島さん。

がんばって完璧をめざすんじゃない。だけど無責任で中途半端なことはしない。

そんな二人のあり方を見て、なんだかみょうに「いろいろ“なから”なんだよなぁ、そんなあり方っていい感じだなぁ。」と思えた帰り道だった。

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「10人も集まればいいかなぁ。」間島さんがそんな軽い気持ちではじめたこのBBQ企画。同じ会社の仲間たちや、菅平の観光を考える人たちの協力を得て、口コミに加えTwitterでの呼びかけの効果が大きく、蓋をあけてみたら総勢40人の名前が参加者名簿に並んだ。

……BBQ当日の模様は、「なから」がもたらす可能性(2)に続く………。

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写真・文 駒村みどり

「長野市は川合新田からやってまいりました、なかがわよしのです。」

おなじみの前口上だけれども、聞く場所によってこんなに違うものなのか。

カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

今まで2回にわたって取材してきたなかがわよしの氏の「傘に、ラ」のシリーズ。
今回は、2月の末にネオンホールで行われた「芝居」の会(「傘に、ラ vol.8」と、先日6月始めに行われた田植え&田んぼでライブの会(「傘に、ラ vol.16」)のふたつの会を取り上げてみようと思う。

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なかがわよしの氏。
彼が「今」をキーワードに様々な試みをしている「傘に、ラ」。
詩の朗読や対談、音楽や芝居など様々なジャンルでいろいろなゲストと共にこれまでいろいろな場所で展開されてきた。

ナノグラフィカ、ネオンホール、そういった「会場」で行われたり、最近ではツイッターといったネットの上で展開されたり。

2月の「傘に、ラ」は、凍てついた空気の中、ネオンホールで行われた。
ちょっと遅れて入った会場のステージでは、女性二人がおしゃべりをしながら餃子を作っていた。そこにあるのは、ごく普通の「日常」を切りとっただけの一場面だった。

前半は赤尾英二氏脚本・演出による「餃子のなかみ」という現代口語劇。
激しい動きはない。ステージの上では餃子の具をきざみ、それを包み、「いただきます」というところまでの30分の展開。

ところが、「餃子を作って食べる」というその一連の流れの中で交わされる会話はかなりドラマティックだ。赤尾氏の演じる弟と、囲む姉二人(司宏美氏、田中けいこ氏)の3姉弟の間にはいろいろなわだかまりがあって、「親の死」という事実の前にお互いの想いがぶつかり合う。

妹弟を思うがゆえに口うるさくなる長姉。素直に受け止められない弟。間にはさまれる次姉。その3人の想いを紡ぎ、気持ちを繋げていくのがひとつのセリフだった。

「来た道を振り返ってはため息をつき、石橋をたたいては渡るのをためらう。」

先を見過ぎても、過去にこだわりすぎても進めない。せっかくのこの瞬間を見失ってしまう。そのセリフは出来上がった餃子から立ち上る湯気のようにステージ上の3人を包み込み、餃子の香ばしい香りと共に会場にも広がり、さらにはなかがわ氏の一人芝居へと引き継がれていく。

(ちなみにこの餃子、前半の劇終了後の休憩時間に会場のみなにふるまわれた。写真を撮っていてわたしは食べ損なったがおいしそうだった………残念。)

続くなかがわ氏の一人芝居。彼が演じるのは、売れない脚本家。

売れない彼は、ある日「声」を聞く。
~「今」をわたしにおくれ。おまえはすばらしい過去と未来を手に入れる。地位や、名誉はおまえのものだ。~

そうして彼はその声にしたがって「今」を捨て去る。
あっという間に売れっ子の脚本家に変貌した彼の「過去」には華やかな名誉ある足跡が刻まれ、「未来」は光にあふれて輝く。金も、地位も、女も、栄光も……彼は「すべて」を手に入れる。たったひとつ「今」をのぞいたすべては彼の思いのままだった。

しかし、彼には「今」がない。だから、「今を生きている」実感がない。
どんな名誉が過去にあっても、その名誉を受けたその瞬間の実感がない。この先必ずすばらしい成功が来るのは約束されている。だから今、そこに向かう緊張感もない。

ちやほやされても賞賛を浴びても。彼はその「瞬間」の記憶がない。

「さみしい」「むなしい」「悲しい」

次第に彼の心は、華やかな実情とはまったく別の感情に占領されていく。
そして彼は、かつて自らの「今」を明け渡した「声」に、再び乞い願う。
「お願いです、僕の今を返してください」………と。

声は答える。
「それなら、おまえの命とひきかえに『今』を返そう。」

彼は、今……その「一瞬」を手に入れ、その瞬間にすべては「無」に……。

ネオンホールの真っ暗な空間に、沈黙が流れる。
「今」というテーマがぎゅっと凝縮され、一瞬の光を放って、消えた。

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6月に入ったばかりの日差しまぶしい小川村の田んぼ。
白馬に向かうオリンピック道路に向かって登っていくのぼり道をすこしあがると、歓声が聞こえてきた。

道から一枚の田んぼが見える。その手前の広場には軽トラや自転車が停めてあり、祖田んぼ沿いの空き地にはテントとビールケースをひっくり返した即席テーブル。

小さな煙突つきのストーブからは煙が上がり、その上で豚汁がおいしそうに湯気を上げている。そこに田植えをしている人がいなかったら、それはさながらキャンプの光景。

「傘に、ラ。vol.16~田植え的ピクニック~」

なかがわ氏からいつも送られてくる「傘に、ラ」の告知メールにはこう書いてあった。

田植えやります! 当日苗がどんくらい集まるかわからんので、「え!? もう終わりっ」とかいうこともなきにしもあらずだけど、豚汁食ったり、談笑したり、誰かが歌ったり、あっちで即興芝居はじまったり、ラジカセからなんかいいカンジの音楽流したりして、またりーと過ごす予定。「ピクニック、ときどき田植え」な催しです。 

なかがわ氏、奥さんに誘われて姨捨の田んぼの農作業を経験、それで田んぼの面白さに目覚めたそうなのだけれども、今回それが「ピクニック」という発想につながったのはナノグラフィカの高井綾子さんとの会話がきっかけだそう。
(ちなみに、高井さんは昨年松代で田んぼ作業を経験、その模様はこちらから。
皆神山の麓の田んぼで…・ 桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?

高井さんから小川村で田んぼをやっている大沢さんを紹介してもらって今回のこの田植えイベントになったということ。

この田んぼは、小川村に移住してきた大沢さんと、お友達のジョンさんの家族が借り受けてやっている田んぼだそうで、大沢さんも田んぼや農業に関わりたくて長野県にやってきた人。小川村では農業就業者の年齢が高齢化して、今ではあき田んぼが増え、大沢さんやジョンさんのように借りる希望者がいても、それよりもあき田んぼの数の方が多いのが実態。

けれど、そんな中でも「田んぼ」を受け継いでやっていこうとする人がいる。
なかがわ氏も、それから今回ここに集まったなかがわ氏の友人の多くの人も、何らかの形で田んぼに関わっていた人たち。

その人たちが今回、なかがわさんの呼びかけで集まってみんなでワイワイと田植えをしちゃおう、ということなのだ。

家族ぐるみで参加している人が多く、小さい子供もたくさん。水位を下げているとはいえ田んぼのどろどろの中、膝の上まで泥にはまって田んぼのかえるやオタマジャクシと戯れながら、ひとしきりお田植え。

2時をまわった頃には、田んぼの端までしっかりと苗が植えられて、せき止められていた取水口から勢いよく水が流れ込み始めた。
そして田んぼの横に停めてあった軽トラが、一転ステージに変貌する。お田植え会場は、あっという間にライブ会場に変身。なかがわ氏の詩の朗読がはじまった。

田んぼに水の注ぐ音。空の高いところを吹き抜ける風の音。なかがわ氏が「今」を紡ぐ音。それらが頭の上にひろがった閉ざされることのない空間に広がっていった。

続いてステージに登場したのは地元小川村のデュオ、「やくばらい」のおふたり。
オリジナルソングを中心に、10分ほどのミニミニライブを展開。

ちょうど、田んぼの上の道を通りかかったおばあちゃんがその歌声を聞きながら、「いや、おんがくこういうところで聞くのって、なかなかいいもんだね。」と笑顔を浮かべてゆっくりと畑に向かっていった。


やくばらいミニライブのラストナンバーはメンバー紹介ソングだったのだけど、ここでジャンベをやっているという大沢氏が臨時参戦。けれど、ジャンベがそこにあるわけではなく、転がっていた長い塩ビのパイプをたたいての即席パーカッション。

やくばらいのお二人のデュエットに絶妙に絡んだ“パイプカッション”のセッション。
今、この時、この瞬間だから生まれた音が静かな田んぼの上を渡る風に乗ってのんびりと流れていった。

軽トラの即席ステージで、なかがわ氏の即興詩の朗読と、塩ビパイプの即席セッションが加わった田んぼライブが終わる頃、みんなが田植えで踏み込んで泥で濁っていた田んぼの水も、すっかり澄み渡って静かに青い空を映し出していた。

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暗く閉ざされた空間で、その空間の中に凝縮され、発表の場に向かってぐーっと焦点化されていった「今」があれば、どこまでも広がっていく無限の空間の中に、その瞬間にふと生まれてどんどん広がっていく「今」がある。

どちらもまぎれもなく「今」であり、その表現の形。

「なんかね、最近はテーマとかジャンルとかあまり気にしないで『これやりたい』と思うことをとりあげるようになってますね。」

田植えをなぜ『傘に、ラ』で取り上げたのかを聞いたとき、なかがわ氏はそう答えた。

なかがわ氏がこの「傘に、ラ」というイベントで持っている「今」というテーマ。
どうやらそれは、すでになかがわ氏だけのものではなくなっているようだ。なかがわ氏が取り上げるジャンルや会場、そういうものに影響を受けその場を共有したものたちの中に、しっかりと「今」が息づいて広がり始めているのではないか。

いろいろな形の「今」があり、いろいろな人の「今」がある。
それはみな違うものだし、その先がどこに向かっているのかもわからないけれども、そういうたくさんの「今」が出会い、触れあい、輝きあって「明日」に向かっていくのだろう。

始まって半年のなかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、そうしてこれからも様々な「今」を織りなしながら進化していく。

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今後の「傘に、ラ」
(注:記事掲載時2010年6月時点の情報)

10年7月3日(土)
「傘に、ラ。 vol.18 ~今に生まれて今に死ぬ~」@ネオンホール
出演:outside yoshino・ タテタカコ
料金/前売・予約3500円、当日4000円
問い合わせ/026-237-2719(ネオンホール)

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.19 ~果樹園で朗読会。~」@丸長果樹園
詳細後日発表
10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」@ネオンホール
詳細後日発表

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写真、文 駒村みどり

小布施の町立図書館、まちとしょテラソ。
今までの「図書館」のイメージとはまったく離れた、しかし図書館の原点を基盤にしっかりふまえたそのスペースは、小布施の町の人々やその気風から生まれたものだ。

しかし、この「まちとしょテラソ」という形をイメージしてそれを提示し、そのイメージを「形」にするために、まとめ上げてリードしていく存在がないと無理なことだ。

今回、このまちとしょテラソを知りたい、知って欲しいと思って取材で館長の花井裕一郎氏と話をしているうちに、強く思ったこと。

「この人がいたからここまで来て、この人だからこそあるこの空間なんだ。」

多分、まちとしょテラソは小布施だからこそ生まれた場所だ。小布施の人々がいたからこそ実現した場所だ。そして、そこにこの人のイメージや思いがなかったら、多分形にならなかった場所だ。

今回、まちとしょテラソを取り上げるにあたって、この人について語ることも欠かせないのだろうと思う。
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花井裕一郎氏。
小布施町、まちとしょテラソ館長。演出家、映像作家。 OBUSERYTHM
福岡県 旧宮田町に生まれる。 1989年、ディレクターとしてフジテレビの番組を担当。その後、NHK、TBS、NTV、CSなどの番組を担当。2001年長野県小布施町に魅せられ移住。2008 年小布施町立図書館 館長に就任 2009 年まちとしょテラソ(小布施町立図書館)初代館長 小布施にて創作活動を続けている。

「はじめて小布施を訪れたとき、ものすごい大雪の日でしたねぇ。今でも覚えてます。」

1999年のことだった。
花井氏は、そのころフジテレビの「スーパーニュース」の土日の企画を担当していた。

それまでずっと、映像の世界で世界中を股にかけて飛びまわり、いろいろな国、いろいろな場所、いろいろな人と出会ってきた。その花井氏と小布施との出会いは、番組で担当しているミニドキュメンタリーで小布施のレストランを取り上げることになったことから。

そこで取り上げたレストランが「蔵部」。出会ったのが「白金」というお酒とその頃はまだ無名だったセーラ・マリ・カミングス氏。さらにそこから小布施堂の市村社長へとつながっていく。そこで小布施に魅せられた花井氏は、程なく月一回の小布施通いをはじめる。

当時、テレビの世界でも様々な番組を担当し、多忙な毎日だった花井氏の心の奥にあったひとつの想い。

「自分の生きるフィールドは、ここではない。」

若い頃に映像の世界に関わりたくて上京し、ずっとその世界で生きてきたけれど、テレビの世界には自分のめざす物はない。自分の「表現場所」はここではない。

そんな想いの中、東京での多忙な毎日を過ごすうちに、突発性難聴を起こしたり、事故に巻き込まれたりした花井氏が小布施に感じたもの。その「直感」にひかれて小布施通いをするうちに、次第に小布施に位置付きはじめた自分を実感しはじめる。

「通っているうちに、いろいろな人と出会い、そして小布施というこの土地で“議論を交わせる”人がどんどん増えていったんです。」

そうしてついに、小布施に住むことを決意。東京から小布施に移住して9年目を迎える。

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「思えば、ずいぶん遠くに来たもんです。」

というので、「お生まれはどちらなのですか?」と聞くと返ってきた答えは「福岡」。
………確かに、遠い。そして九州男児……なるほど、妙に納得する。生まれは九州福岡。「青春の門」の舞台となった炭坑で有名な筑豊地方。

「実はねぇ。僕はいろいろあって中学浪人しているんですよ。」

別に、高校に入れなかったわけではない。受ける学校によって差別されるようなそんな風潮に違和感を覚えて自分から「行かない」道を選んだ。「高校に流れのままに行くのは嫌だ」という思いを理解してくれた叔母の言葉……

「浪人は、大学だけじゃないんだよ、行かないという選択肢もあるんだよ。」

その声に後押しされて予備校に入学。一年間そこで学んで入った高校で「出会い」があった。仲間とバンドを結成、音楽の世界を仲間と楽しんでいるうちに当時はやりだした「音楽ビデオ」の作成に興味を持つ。それがきっかけで次第に「映像」の世界へと想いが向かっていった。

「映像の仕事をしたい」。そう思って大学は東京をめざした。とにかく、東京に出たかった。だから、東京の大学に合格して上京したあと、今度はテレビ局通いをはじめた。

その頃はテレビ局で、学生のバイト採用があったのでそれを狙った。何度も何度も空きが出るまで粘った。そして、ついにフジテレビに採用され、そのまま「3時のあなた」という番組のADに。テレビの世界での経験を積みはじめる。

やがて「学生」という肩書きが外れることになってバイトではなく「仕事」を得る必要が出、テレビ局の人に紹介されてあるプロダクションに入る。けれど、そこで任されたのは「バラエティー」。……”過剰な演出”の世界。
やりたかったのはドキュメンタリー、人間ドラマ。めざす世界とは違う。強い違和感を覚えた花井氏は、思い切ってプロダクションを辞める。

その会社からはもちろん、紹介してくれた人からも激しい非難を受ける。テレビや映像の世界には、もう戻れない……。

しばらくその世界から離れ、仕事を辞めて生活に困って花井氏が就いた仕事が「靴の販売店員」。店員募集のチラシにつられて飛び込んだその店で、花井氏は接客の毎日。まったく畑の違う仕事だったが、この“インターバル”が花井氏に与えてくれたものは大きかった。

「人間観察が出来るんですよ。いろんな人が毎日店に来る。相手の表情を見ながら、どんなものが欲しいのか、どんな言葉や表現をしたら相手が気持ちよく品物を買うのか。そういう“人を見る”スキルを身につけるのにあの頃の経験が本当に役に立ちましたね。」

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相手が望む要素、どんな要素を入れたら人が受け入れたり理解したりしてくれるのか。
「表現」を自分からするだけではない、受け止める相手の姿を見ることは実はとても大切だと思う。

どんなにいいと思う物事でも、ただ自分の想いのみを発信するだけでは、受け止める側へ想いのないそれはただの「垂れ流し」になってしまう。それは映像、音楽、情報、教育、販売、すべて「受け止め手」がある世界には共通のこと。

けれど、今の社会ではそのあたりがおろそかになっているように思う。中央からテレビを通して氾濫してくる情報。それは花井氏が過剰な演出の世界に違和感を感じたように、単に受けるため、視聴率や販売数を上げるためだけの垂れ流しに陥りがち。

発信側は、発信する責任がある。受け止め側も当然、それを取捨選択する必要がある。けれど今、そのバランスが崩れている。だからこそ発信側のこういう想いはとても必要なのだと思う。

花井氏のこういう経験が元になった表現のひとつの形である「まちとしょテラソ」がなぜ心地よいのか。そのあたりのヒントが、ここにあるように思う。

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靴(リーガルシューズ)の販売員をしながら販売スキルと共に対人スキルもアップした花井氏は、再び映像の世界への足がかりを持つ。

先生について、シナリオの勉強をはじめたのだ。シナリオの勉強は楽しく、そこでスキルアップした花井氏は以前プロダクションを辞めたときに出来てしまったわだかまりなどからあきらめていたテレビ局への関わりを、再び取り戻していった。

そして、自らのめざす「文化」「人のあり方」「音楽」「食」などに焦点を当てた番組作りなどに携わり……「小布施」に出会う。

月1回の小布施通いから、やがて小布施移住を決意した花井氏は、2001年から小布施の住民になる。まだ家族で一緒に動くのは難しかったので、一年間は自らが先に小布施に暮らし、「東京通い」をしつつ、単発での映像の仕事を請け負う。正直、東京の時よりは収入は減った。けれども、それよりもっと大きなものを花井氏は得た。

「東京にいた頃はね、○◯テレビのディレクター、という肩書きで呼ばれた。けれど、小布施に来たらね、『小布施の花井さん』っていうのが僕の肩書きになった。」

そうして「小布施」という町に積極的に関わり、町作りの話し合いや意見募集にはどんどんアイディアをぶつけ、そして今、「まちとしょテラソ」というひとつの「表現の場」に到達した花井氏。

彼の経歴は決して「図書館」に近づくものではなかった。けれど、映像の世界、テレビの世界、番組作り、演出や脚本、そして販売員として培った人を見る目……さらにさかのぼって「ただ流れにまかせて高校に行けばよい」という流れに乗らなかった自分。

そういう数々の「寄り道」「回り道」「みちくさ」とでも言える多くの要素やスキルが、今このまちとしょテラソの中のあちこちに、ちゃんと生かされているのだ。

「今まで僕は、いろんなドアを開けてきた。いろんな鍵を手に入れて。そして、ここでまたひとつ、大切な鍵を見つけたんです。」

人間、持っている引き出しはたくさんの方がいい。生きているその時その時で、今を含めてこの先、どの引き出しがいつ必要になるかなどとは誰にもわからない。だから、たくさんの引き出しにいろいろなものを詰め込んで持っていて、必要なときには必要な物をぱっと取り出せたらそれは素敵だ。

「対象は、乳幼児から高齢者の方まで」というまちとしょテラソがいろいろな年齢層の人に受け入れられ、町中の人ばかりでなく今、各地の人からも注目されはじめているのは、様々な要求や用途をちゃんと取り入れ、受け止め、答えるために花井氏が今までにあけてきたたくさんのドアや得たたくさんの鍵が大きな役割を果たしていることは確かな事実。

白か黒か、◯か×か、の世界ではなく、グレーゾーンを許容し、とにかくやってみて結果を見てまた進む、という小布施の空気がそれをあたたかく包み込み、だからこそまちとしょテラソは今、どんどんその魅力に磨きをかけて様々な人を惹きつけているのだろう。

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「なんだかよくわからなくてぶらっと立ち寄るわたしのような人間でも、すんなりと受け入れてもらえるこの雰囲気が嬉しい。これってきっと、館長さんのお人柄なんだろうなぁ。」

まちとしょテラソの一室は、その日小学生から中学生で満員だった。その会場に偶然居合わせた一年生の娘を連れた小布施在住の友人が、こうつぶやいた。

子供たちの目的は、小学生が子供だけで作った映画を観ること。花井氏から上映会のことを聞いて時間ぎりぎりに会場に飛び込んだわたしは、想像以上に子供たちであふれかえっているその様子に驚いた。1時間ちょっとの上映時間、満員の子供たちの目はずっと映画にそそがれ、ワクワク感がまわりでどんどん高まっていくのを感じていた。

けれど、その空気を誰よりも感じて一番目をきらきらさせていたのは、花井氏だった。

「こんなにたくさんの、それも子供たちが来てくれるとは思わなかった!」

そう語る花井氏の顔には、満面の笑顔。

この空気を作り出したのはこういうイベントを心から楽しんでいる花井氏と、それから会場の設営や受付を心込めて一生懸命にやった館員の皆さん。だからこそ、子供たちはその想いを素直に受け止めてイベントを楽しみ、子供たちにひかれて来る親たちにもその様子が伝わり、先に述べたような友人のひとことにつながっていくのだろう。

みちくさもあり、寄り道もあり、大きな回り道もあった。
けれども、そういういろいろな道程を経てたどり着いた小布施の地で、いろんな道程から学び、感じ、受け止めたことをもとに今、発信をはじめている花井氏。

小布施を、まちとしょテラソを、自分の行き着いた表現の場として心を注ぐ。花井氏のその想いは今、確かに人々に染みこんで伝わりはじめている。

「ここからは、人を育てたい。」

今、花井氏がめざしていることのひとつ。

自分がリードしながらすすめてきたイメージは、ここでひとつの形になりつつある。その想いは館員や周りの人々に伝わりつつある。だけど、この先それは自分だけではできない。ちゃんと人を育て、共にすすむ人、“その先”を任せられる力を育てないと。常に「協働」「共働」を頭に置く花井氏の想いがそこにある。

「この先」を強く見据える「小布施の花井」氏の目には、そういう人たちと共に紡ぎ出すはずの、さらに広がり輝く未来のイメージが次々と生まれてきているのだ。

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(注:以下の情報は、2010年記事掲載の当時の情報です)
まちとしょテラソ今後のイベント予定(http://machitoshoterrasow.com/

著者×まちとしょテラソ#5   鈴木中人さん講演会
■講 師 いのちをバトンタッチする会代表 鈴木中人氏
■テーマ 「いのちのバトンタッチ」
■日 時 7月1日(木) 18:00~19:00

第3回 紙芝居を楽しもう!
■7月10日(土) 10:30~12:00

お父さんによる読み聞かせ会
■次回 7月11日(日)

まちとしょテラソ開館一周年記念シンポジウム
「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~
■日 時 7月19日(海の日) 15:00~18:30

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「原点に立ってめざす「先進」の姿~小布施、まちとしょテラソ~」

写真・文 駒村みどり

そこにたどり着くまでに、今までこんな建物があるなんて気が付かなかった。
いや、実際、その建物は小布施の駅近くのちょっと奥まった場所にある。けれど、一度その外観を目にし、中に入ったら多分……「何だ、これ?」と虜になるに違いない。

実際、わたしがそうだった。
一見なんだかわからない建物。その外観よりもずっと広く感じる広々としたスペースにそびえる、目の前の大きな「木」……のような柱と、外の光を採り込む大きな窓。空間に静かに流れるBGM。それを聴きながら身を預けたくなるどっしりとしたソファーに、それから……近づいてすぐ手にとって見ることの出来る、たくさんの「本たち」。

そう、わたしが足を踏み入れたのは、「図書館」。なんだけど……。

なんだけど、その場所は「本も置いてある憩いのテラス」といった趣で、今までに知っていたような図書館特有の「張り詰めた空気」は、そこにはなかった。

小布施町の町立図書館「まちとしょテラソ」。

もうすぐ開館一周年を迎えるその建物とそこに集う人たちは、「今までの図書館」という概念とはまったくかけ離れていて、それにとても強く惹かれたわたしはもっとその奥をのぞいてみたくなった。

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「実はね」とはじまる内緒話。
それを聞く相手が驚いて「え~~~!!」と思わず声を上げると、周りから飛んでくる鋭い非難の目と「し~~~~っ!」という制御。

漫画やドラマで描かれるよくある「図書館」の光景。

図書館は、静かに。
図書館では、黙って勉強や読書。
図書館では、走ったり騒いだりはタブー。
図書館では、ものを飲んだり食べたりなどとんでもありません。

そうして今までのイメージを並べる“図書館”は、その「字面」からして堅苦しい。

わたしがはじめて出会った「図書館」は、小学校のもので。自分の背よりもずっと高い書棚に本がびっしり詰まって所狭しと並んでいて、その圧迫感は子供心に相当なものだった。

足を踏み入れるのにはちょっと勇気がいって、ドアを開ける前に深呼吸して息を止める。足音や、息をする音さえもひそめて、たくさんの壁のような書架から本を探り当てると手続きをして抜け出して、やっと息をつく。

だから、図書館に友だちと行って“楽しく過ごす”……というイメージは、残念ながらわたしにはない。

「いや、実はね、図書館法をちゃんと読むと、そのイメージとはちょっと違うんですね、本来の“図書館”がめざした物は。」

開口一番、「図書館」についてこう語りはじめたのはこの「まちとしょテラソ」の館長の花井裕一郎氏だ。

花井氏も正直、「図書館の館長」というイメージとはまったくかけ離れている。それもそのはず、普通「公共の施設」である図書館の館長といったら「公務員畑」の人がおさまることが多いのだが、この花井氏の肩書きは?と聞くと「館長ですけど、他に演出家でもあり、映像作家でもあり……。」という答え。
数年前までは東京に住み、テレビを中心とした映像の世界に生きていた方だ。

そんな花井氏の話に、さらに耳をかたむける。

「図書館法の最初に図書館の定義が書いてあるんですけどね、そこには図書館って本や資料を保有してそれを提供するだけではなく、文化的な活動やリクリエーションに資することをその目的としているんです。」
「つまり、図書館って、単に本を読む場所、勉強する場所、じゃないんですよ、積極的な文化発信や人と人との交流にも役に立てるべき場所なんですよね。」

それは、ものすごく意外な言葉だった。前述したように「本を提供し、本を読んだり勉強したりする場所」=図書館、だとわたしはずっと思っていた。

実際、図書館法をわたしも調べてみた。こう書いてあった。

(定義)
第2条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保有して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。

「レクリエーション」という言葉はやはり意外だった。学校で行事の時に「レク係」なんて作ったけど、わたしはよくこれになった。みんなでうたう歌を考えたり、ゲームを考えたり、いろんな人が仲良く楽しめるように工夫をこらすのが腕の見せ所。「お楽しみ係」なんて名前のつくこともあったっけ。

笑顔、笑い声、にぎやかさ。そんなものと密接な関わりのある「レクリエーション」という言葉は、正直今までの「図書館」のイメージとはかなりかけ離れやものだ。
それが、戦後間もない昭和25年に制定されたこの図書館法で明記されていたのだ。

「どういうわけか、いつの間にか図書館って本を読んで静かに勉強する場所、というイメージが定着しちゃった。でも、本来 “図書館”のめざす姿って、本や資料、むろんそれはCDや映像、といったものまで含めたあらゆるものを提供しつつ、それだけでなく「文化的な発信」やそれに基づいたコミュニケーションの場……それが最初からある図書館の姿なんですよ。」


「だから、このまちとしょテラソは、今までの図書館では“ダメ”とされてきたこともかなりの事が許されるんです。」

走っちゃダメ、食べ物を持ち込んじゃダメ……さらには、本を読む姿勢まで正さねばという雰囲気の漂う禁止事項の数々が頭をよぎるのが図書館だった。

「多少走るくらいだったら何も言いません。さすがに追いかけっことかはじまると止めますけどね。
それに、ここはペットボトル(ふた付きの飲みもの)も持ち込みOKです。食べ物も許可されるスペース(カフェコーナー席)がちゃんとあります。だってね、本、家に持って帰ったらそっちの方がよっぽど食べ物とか飲みものとかにさらされる危険な状態でしょ?そのくらいだったら図書館でちゃんとマナー守ってもらえばよっぽど本は安全だし。」

花井氏の話を聞きながら、ぐるっと図書館を見渡す。
そこには、様々な本を楽しむ姿が見られる。


おっきなクッションに身を預けて本に熱中する少年、清潔なカーペットで靴を脱いでその場に座り込んで楽しむ姿………。

「静かにしなさい」などといわれなくてもそこには自然な静寂が存在している。息をひそめた張り詰めた静寂ではなく、ごく自然な日常のやわらかい空気の中で誰一人他人の存在を気にすることなく自分の世界に没頭することで生まれる心地よい沈黙。~集中~の世界があちこちで生まれていた。

けれども。
館長からこうして直接話を聞いただけでも驚きの連続のこの図書館。
外観からはじまって、図書館の方針やイメージは、「今までの概念」とはかなりかけ離れている。正直「斬新」とも言うべきこの姿が生まれる前の段階では、イメージしにくい図書館のあり方だ。いくら許容範囲の広い「小布施」とはいえ……。

「そうですね、実際、開館するまでもしてからも、かなりいろいろありましたよね。」

この図書館の構想は、まず「建てる」か「建てない」か、というところからすでに激しい意見が交わされたそうだ。

文化の薫り高い小布施町。
このまちとしょテラソが開館する前は、町役場のエレベーターもない3階に小さな図書館があるのみだった。

「図書館構想」のきっかけは、行政からだった。現町長の公約であった“図書館”についてのあり方検討会が開かれ、さらに「図書館協議会」が町に作られた。そこで町の図書館について意見募集が行われ、町民として花井氏も意見を出した。それをきっかけに図書館委員会に参加。その後、図書館建設運営委員会が設立され、町民主体、協働の図書館建設が始まった。

そうしてすすめていく中、ようやく固まってきた図書館構想の上で「館長」と「建築家」を“公募”することになった。

普通は、こういう公共の施設はまず「箱」が作られ、そこに入れる「中身」が決まる。
けれど、小布施はまず「中身」から入った。それも「公募制」。そして、全国から集まった候補者の中から館長が花井さんに決まり、建築家は古谷誠章氏(アンパンマンミュージアム、茅野市民館など)のものに決まった。

最初から、みんなで一緒に創り上げてきた。
それがこの小布施のまちとしょテラソなのだ。

そうしてみんなで創りあげてくる過程でもたくさんぶつかり合いがあった。開館してからもわだかまりが残った部分もあった。

「今まで自分は、演出とか映像作家、という立場で100%自分の意図をかなえる人たちに囲まれて20年間やってきていたんですよね。けれど、ここはそうではない。ぶつかることから出発。」

最初は、そういう慣れない状況で違う意見を“排除”出来たら楽だ、という思いも正直あったそうだが、その思いは次第に花井氏の中でこう変わってきた。

「違う意見を出してくれる、そういう“あなた”がいたから実現した」

それは感謝の気持ち。
ぶつかり合い、意見を交わすことはものすごい抵抗を伴うが、そういう抵抗があるからこそ「成長」がある。新しい発見、新しいアイディア、そのバランスがとれたときに生まれてくるものはより「成長」した姿。

そういう中で花井氏を中心としたこの「まちとしょテラソ」創立への道筋によって築かれてきたものは、まちとしょテラソの建物や雰囲気だけではない……人と人との信頼関係やつながり……見えないたくさんの物がそこには積み重ねられてきたのだろう。

このまちとしょテラソは、構想段階からすでに“交流センター”というカッコ付きの概念があったように、交流、コミュニケーションも大きな目的として持っている。“交流と創造を楽しむ、文化の拠点”という理念からそれを強く物語っている。

花井氏がめざすのは、「行動する図書館」。“図書館は外に出よう”を合い言葉にどんどん外に出て町や人の話を聞いたり、デジタルアーカイブなど活用して外の風を運び込むことを柱にして勉強会を開いたり。

イベントも目白押しだ。開館イベントで登場した落合恵子氏はじめ、谷川俊太郎氏の講演や、松本の小学生が子供だけで創り上げた映画の上映会など魅力的な企画が次々に繰り広げられ、目が離せない。

そうした目的を持ったこの建物の中には、“連想検索”が出来るシステムを導入、学校一クラス分の生徒がすっぽり収まる多目的室、視聴覚コーナー、カフェコーナーや授乳室、オストメイト対応のトイレなど利用者の多様な目的や文化発信、コミュニケーションを想定したあらゆる活動に対応できる設備が充実している。

小布施の子供たちは、このまちとしょテラソのイメージキャラクターの「テラソくん」(生みの親は小布施アート展でご紹介した中村仁氏)をみんな知っているし、毎日ぶらりとここに立ち寄ったり待ち合わせ場所にしたりという町民も多い。

そこにあるのは、単なる冷たいコンクリートの「箱」ではない。人の血の通ったぬくもりのある居心地のいい“空間”なのだ。

正直、そのすべてをここで紹介するのは不可能なので、是非まちとしょテラソのHPをのぞいてみて欲しいと思う。

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(注:こちらは、掲載当時2010年時点の情報です。)
来月7月で、開館一周年を迎えるまちとしょテラソ。

いま、館長はじめ館に関わる人々はその記念イベントの開催準備にみんなで向かっている。それが7月19日に行われる「デジタルアーカイブシンポジウム」。(詳細情報

「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~

小布施にあるこの「進化した図書館の姿」は、しかし遙か昔の図書館の構想の基礎の上に立ち、いや、それよりもっとさかのぼった小布施の偉人、高井鴻山の足跡を受け継ぎつつ、そしてこの先を見据えて100年後、200年後にも残すべきものをいま次々に生み出して発信しはじめている。

「ここの真似をして欲しい、というつもりはないんです。でも、ここのあり方を通じて、『コミュニティーとはどうあるべきか』ってみんなに考えて欲しいんですよね。」

小布施の街を歩くと感じる古きものの息づかい。それを生かしつつ今の時代に人々を惹きつける力。その力はまた、この場所でもしっかりと生きて、生かされているのだ。

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さて。
このまちとしょテラソの館長である花井氏だが、東京からこの小布施にたどり着いて館長になるまでの足跡は、この「まちとしょテラソ」のイメージにとっても、ものすごく大きな影響を持っているように思う。

本来はこの記事の中で記述しようと思ったのだが、記述しきれないほどのものがあり、それをこの次の記事で改めて、取り上げようと思う。(つづく)

寄り道、みちくさ、まわり道 ~たどり着いた“小布施の花井”~

写真・文 駒村みどり

北信濃の小さな町、小布施町。その南西に位置する玄照寺で4月17,18日の2日間にわたって行われた「境内アート小布施×苗市」。

最初の目的を忘れて思わずあちこちに見入ってしまったそのにぎやかで楽しいイベントの様子は(1)に記述したが、では、このイベントがここまで盛り上がってきたのはなぜか。
その仕掛け人のひとりとして名前の挙がった中村仁氏。
わたしがこの日玄照寺を訪れたのはこの人に出会うためだった。あまりの楽しさに、目的を忘れて思わずイベント自体に引き込まれてしまったのだ。

そこで、改めて目的を果たすべく中村氏を捜して境内に出た。

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ふたたび境内に出て最初に出会ったのが、もともとこの日にここに中村氏が来ることをわたしに教えてくれた人、花井裕一郎氏だった。


花井裕一郎氏は、昨年小布施町にオープンしたばかりの町の図書館、「まちとしょテラソ」の館長だ。
この日は、この境内で「一箱古本市~まちとしょテラソ市~」を開催していて、わたしはその取材を兼ねて中村氏を紹介していただく予定だったのだ。
花井氏については、別の機会に「まちとしょテラソ」の記事できちんとご紹介したいと思う。

「一箱古本市」。
そのルーツは東京の「不忍ブックストリート」にある。
参加者が一箱に売りたい本を持ち寄って、販売しながら交流を楽しむ日本初のネットワーク型の古本市だ。

それを、この小布施のアート展に花井氏が昨年から持ち込んだ。
三門の回廊がその会場だ。


「せっかくやるなら、小布施らしさを出したいと思ってね。」

古本市には、どんな箱でもいいから「一箱」に本を入れて売るのだが、その「一箱」を探したら近隣の農家からたくさん見つかったのが「りんご箱」。
言われて見ると「ふじ」と箱の横にはっきり書かれたりんご箱がそこに。

おお………確かに良い味だしてる。東京には絶対ないね。これ。

「どう?売れてますか?」

あちこちのイベントでよく顔を見る知り合いがいたので声をかけてみた。
回廊は、日影。日があたらない上に風通しがいいので、前日雪が降った小布施の風は冷たい。古本市出店の人はみな、厚いジャケットに身を包んでいる。

「売れないよ~。でもね、周りの人やのぞきに来る人と、他の人の箱をのぞき込んで本の話するのが楽しいよ。」

凍えながらも笑顔でそんな答えが返ってきた。
本を通じての交流。そうか、これがネットワーク型の古本市か。


三門の反対側では、こんな風に「ご自由にどうぞ」の本のコーナーもあった。
来年は、わたしも一箱出してみようかなぁ………。

さて、で、紹介いただくはずの中村氏はいずこに?

「う~ん、あの人さっきまでここにいたんだけど、今どこにいるかなぁ。会場内のどこかにはいるはずなんだけど。」

「また会ったら声かけますよ。」

そういうわけで、花井氏から声がかかるまで再度会場内をうろつくことにした。
で、ここまでほとんど全部見回っていたんだけど、ふと目についた看板。


ダンボールの看板に書かれた文字は「絵・映像パフォーマンス」。
あ、まだこれ、見てないや。待っている間に、これ見てみよう。

会場は三門入ってすぐの左にある「講堂」。
ここは屋内なので靴を脱いであがる。

……なんだか懐かしいこの雰囲気。
そうか、学校の文化祭で体育館に展示してあるあの感じだ。

四隅の壁に作品が展示されていて真ん中があいていて。子供がかけっこしたりして。
肩肘張らずにゆる~く、展示物を楽しんでいるのだ。

ぐるっと見回したら一番奥に映像のコーナーがあって、扉の奥でやっているようなのでそちらに向かうと、扉手前で見たことのあるペンギンの絵。(写真右下)

あ。
N-geneでも紹介されているたかはしびわ氏だ。
ちょうどお客さんが途切れていたので、声をかけてみた。

びわ氏も、このアート展が始まった頃からずっとこうして参加しているそうで。

「前に外で展示してみたんですけどね、クラフトと違って絵だからホコリや光の影響がどうしてもあって。」

で、日があたらなくて寒いけど、この屋内でいつも展示しているそう。
しばらくびわ氏とお話しをしていたら、中村氏の話になって。
「今日は、中村さんに会いに来たんですけど。」
「え?今そこで写真とっている人が中村さんですよ。」

見ると、カメラ片手に今から外に行こうとしている背の高い人影が。
あわててびわさんにお礼を言うと、中村氏に声をかけた。

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中村仁氏。御代田在住の「美術家」。アーティスト。グラフィックデザイナー。
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略歴(小布施との関わり中心に抜粋)
1959 長野県生まれ
1984 信州大学教育学部美術科工芸研究室卒(主に鋳造による現代金属工芸を研究)
1987 JACA’87日本イラストレーション展入選(伊勢丹美術館)
   8th 日本グラフィック展協賛企業賞受賞(渋谷パルコPART3)

※以降、国内外で作品を発表、個展、企画展への参加など多数

1999 「中村仁の仕事展 ・ 絵本の世界から」(千曲川ハイウェイミュージアム)
2007「オブセコンテンポラリー」アーティストネットワークによる企画プロデュースを1年間手がける(小布施)
2004 “境内アート「苗市」in 玄照寺 vol.1”企画・参加(以後毎年,小布施)

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そもそも取材しようと思ったきっかけは、中村氏がデザインしたまちとしょテラソのキャラクター「テラソくん」に興味があって、その生みの親に会ってみたいなぁ、と思ったから。

そういう理由で花井氏に紹介してもらう手はずだったから、知らなかったのだ。
このアート展に出展していること。……それも、さっきまで見ていたびわ氏のお隣に。
さらに、中村氏がこのイベントの重要人物であることも。
(ちなみに、このアート展のチラシ・ポスターの図案も中村氏の作品だ。)

本当に、なんの予備知識もないままに飛び込んで来ちゃったなぁ。ちょっと出展者の名前調べたら、花井氏に紹介してもらうまでもなくちゃんとここにたどり着けたはずなのに。

ようやく偶然巡り会えた中村氏と、その場に座り込んで話を聞き始めた。

現在、御代田在住の中村氏。その中村氏がなぜ、小布施のこのイベントに「アート」を持ち込んだのですか?

「7年前、玄照寺さんから文屋・木下豊氏を通して、その頃次第に人出が減り始めていた苗市を再興する手だてがないか、クラフトフェアのような企画はどうだろう?と相談を受けました。しかしその時点ですでに、クラフトをテーマにしたフェアは有名なものが数多く存在していました。同じような企画の後ノリでは面白くない。そこで木下氏と二人で『小布施ならではの形』を考えた。で、どうせやるなら志を“アート”にしようと、それで「境内アート」。単純なんですけどね。」

「じつは、自分自身がいろんなクラフトフェアに触れて来た中で、それまで“アート”という言葉はどちらかというと“クラフト”の価値を高めるようなかたちで使われることが多く、“アートそのもの”にちゃんと向き合ったフェアはあまりなかったように感じていたのです。
でも、“アート・芸術”といっても取っつきにくい。そこで この苗市という“市”の持っている活気とか迫力とかをアートに活かせないかと思ったわけです。」

「 “クラフト作品”は何かの役に立つものです。でもアート作品って“飾って楽しむ”以外には多分何の使い道もありません。“役に立たないもの”にお金をかける事って勇気がいりますし、日本人はあまり慣れてもいません。

でも海外では道ばたにアート作品を並べて売っていたり、お客さんも自分の身の丈に合ったアートを家具やインテリアのような感覚で購入したりして上手に付き合っています。自分のお気に入りのクリエーターの作品をちょっと勇気を出して買って日常の中で楽しむきっかけやそういう体験の場に出来たらいいな、と思ったのです。

美術館やギャラリーでスポットライトをあびているモノだけがアートではありませんからね。」

……でも、なぜそれが小布施だったのですか?

「小布施の人たちは、これはダメかも、というラインからは入らないんですよ。どうせだったらちゃんとやってみて考える、という意識にある。」

やるんだったらやってみよう。小布施だったら出来る。そういう想いでアート展をここに持ち込んだ。さらに……

「住職さんにはこの企画をやるのであればどんなにお客さんがこなくても10年は我慢して続けてくださいとお願いしました。」

ご住職はそれを快諾し、そしてその想いに共鳴した地元の人たちやアーティストの協力の輪が広がって、今年7年目を迎えるアート展はますます盛況だ。

「アート、アートといっても“クラフト”だってやっぱり楽しい。使って楽しむ魅力もありますよね。そこで昨年から、町で秋に開催されていたクラフトフェアと合流しました。」

「僕はただきっかけを持ち込んだだけですよ。僕の力じゃないんです。ここに来るまでに、いろんな人を巻き込んできた、ただそれだけです。」

といって中村氏は穏やかに笑う。


けれど、このひとがそれだけの想いを持ってここに来なかったら、このアート展は始まらず、その想いを受け止める人もいなかったのだ。

こうして話をしている間にも、中村氏のもとにやってきた新しいつながり。
「長野・門前暮らしの会」のメンバー。今年の境内アートに参加した人たちだ。

「結局こういうものはごちゃごちゃ言わないで楽しんだもの勝ち。お客さんにも、参加者やスタッフも「境内アート小布施×苗市」を心から楽しんでもらいたい。毎回新しい試みにみんなでチャレンジしています。」

小布施の魅力が、人を引き寄せる。
そして、魅力ある人のもとにまた人が集まる。
このイベントはそうして成長し続け、より魅力ある町が、生活が、生まれて育っていく。

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そういえば、今までいろいろなアートの展覧会やクラフト展、境内のお祭りやイベントを見てきたが、この小布施で特別に感じたことがある。

「子供の多い空間」だなぁ………ということ。

古いお寺をめぐるときには、小さい子供の姿はほとんど見かけない。
クラフト展やアート展でも目立つほど多い、とは感じない。
ところが、このお寺を歩き回っている間、子供の姿のないところがなかった。
それも、みんなのびのびと子供らしい表情で、人のいる場所でよく見かける「静かにしなさい」とか「そんなに飛び回らないの」とか大人に怒られている場面にまったく出くわさなかった。
(さっきも、中村さんの展示物のある講堂で子供が走り回っていたし。)

かつてあった、町の路地で近所の仲良しが集まってそこがたちまち「遊び場」になったような、そんな感じ。子供たちも「アート」「クラフト」に囲まれてそこにいるのだ。


あちこちで見られるその「子供のいる風景」は、クラフト展というよりもごく普通の生活の一場面を切りとったよう。

そう。
ここは、特別な空間ではない。小布施という町の生活の一コマなのだ。

そして、この空間で目立つのは子供たちばかりではない。

ちょっと気軽に散歩に……といった風体のお年寄りも。うららかな春の光や桜を楽しみながら起伏のある道を歩き回る姿。ブースの若い人たちと交流する姿。
日頃縁のないようなバンドのライブをBGMに、アートを楽しむ境内の姿。

中村さんから教えていただいたのだが、この日は小布施町で他にもたくさんのイベントが行われていたそうだ。
そんな中で、これだけたくさんのいろいろな年齢層の人がここに集まっている、その事実はものすごいことなんだと思う。それだけまちの人々にこのイベントが受け入れられ、創り上げた人たちの想いを受け止める人がいるのだ、ということだから。

「それはとても嬉しいことですね。」

そう言って、中村氏はまたにっこりと笑った。

境内という磁場と縁日という祝祭の空気感のなかで何かを表現できたら、作家も見に来てくれる人たちもどんなにか楽しいだろうとはじめたフェス。その想いは全て「境内アート」という名前に込めました。毎年4月北信濃桜咲き誇る季節、さまざまなジャンルのクリエーターたちが全国から集まります。老若男女・善男善女どんな出会いがあるかお楽しみ。是非小布施へ足を運んでみてください。」(中村仁氏)

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「あのね、これは聞くべきですよ。ちょうど今、やっているから。」

中村氏にそう言われてお礼と別れを告げるとわたしは本堂に向かった。
これは多分……どんなアート展でもクラフト展でも体験できないここならではのメインイベント。

この間、本堂前で行なわれていたライブはお休みで、境内は厳かな空気に包まれる。
本堂で行われているのは「大般若法要」。

ご住職の静かだが張りのある読経の声が本堂に満ちていく。

これもまた、すごい「ライブ」であり「アート」の形だなぁ………。

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小布施の町の南西にある普段は静寂の中にあるお寺、玄照寺。

その境内がすべて一大テーマパークに変わる。
それは、小布施の町や生活を作る人、愛するひとが集って創り上げたもの。

そこにはその土地に住む、その土地に息づく人たちが集まってくる。
人が集まり、その空気を共有するものに伝わり、ひろがってそしてまたつながっていく。

そうして、この町の空気は作られていく。ひとも作られていく。

このイベントを、もっと多くのひとに知って欲しい。
もっと多くのひとに感じて欲しい。心から、そう思った。

ここに来ればきっと、ひとのためにある思いがひとを集め、町を作るその事実を感じられるはずだから。

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境内アート小布施×苗市 HP
玄照寺 HP
中村仁 HP

+++++ 境内アート小布施×苗市 その背景とここまでの流れ +++++++

そもそもは戦後約50年ほどつづいた曹洞宗・玄照寺縁日「苗市」の“再興”(歴史はあったものの当時は足を運ぶ人が年々減少傾向)を目指して葦澤住職、現事務局の木下氏(出版編集「文屋」代表・小布施在住)、そして中村仁氏らが中心になり、2004年にお寺で開催するアートフェス「境内アート」の企画・構想を立ち上げる。
 運営母体は同寺若手檀家衆「玄照寺奉賛会」であり、現在もその仕組みは変わらず、開催・運営にあたって彼ら地元小布施人の尽力によるところは大きい。その後、回を重ねるごとに運営にかかわる人たちが増え、実行委員会を組織し2009年より本格的に小布施町の協力を得て、事務局も役場・行政改革グループ内に設けている。
 尚、同年より毎年秋に開催されていた「おぶせアート&クラフトフェア」と企画統合し、正式名称も「境内アート小布施×苗市」(毎年4月第三土・日開催)とし、アート部門・クラフト部門・飲食部門の公募の他、歴史ある「苗市」を存続させ、参道にて骨董市を開催。さらに2010年より同町立図書館「まちとしょテラソ」企画による「一箱古本市」も共催するなど、他に類を見ない複合型フェスに発展している。
                            資料協力:中村仁氏

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(文・写真 駒村みどり)

4月の第3週末である17日・18日。
この日、わたしはある人に会うために小布施町の玄照寺を訪れた。

ところが、玄照寺に行き着く手前で車は特設駐車場にはいるように誘導された。
駐車場はいっぱいでビックリ。

……いったい、ここで何が起きているのだろう?

お寺までの道は静かな田舎の生活道路なのだが、お寺の真ん前に立って参道を見たときにまたビックリ。

この人出は、どうしたこと?
まるでここだけ別世界。
参道にはずらりと屋台が軒を並べ、人がどんどん奥へ奥へと吸い込まれている。

屋台といったら、お祭り。お祭り……楽しそう………。
最初の目的を忘れて、わたしも参道の奥に引き込まれていくひとりになった。

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信州小布施町の曹洞宗陽光山玄照寺。
小布施町の南西部にある普段は静かなお寺。お寺の前の道路を通っても、ここにお寺があることは気が付かないくらい。

けれども、どうやらこの日は違う。

参道に足を踏み入れる。
両側ににぎやかな屋台が並ぶ。
その屋台を過ぎるとそこには「骨董市」ののぼり。

着物の古着。古い道具。ブリキのおもちゃ。
タープを張って、その下に人の手のぬくもりの染みこんだ「骨董品」たちが所狭しと並んでいる。

面白そうだけど……
横目で見ながら、さらに奥へ。

すると今度は、鮮やかな「色彩」が飛び込んできた。
三門の手前の「苗市」のブースだ。


「苗市」。
春の香りがあたりに満ちている。

けれど、先を急いでここも通り過ぎる。

すると、三門前には案内看板。
右に曲がると「クラフトエリア」、直進して三門をくぐると「アートエリア」。

山門の向こうからは、なにやら歌声も聞こえてくる……ライブをやっているらしい。
ここまで来ると、この先に何があるのか早く見たくて小走りになる。

三門をくぐると……

桜の花がちょうど満開の境内。
本堂に向かう参道の両側に様々な「アート」が展示されていた。
いや、よく見ると、参道の両脇だけではなく、庭にも、本堂の回廊にも……。

気が付くとそこに何か作品が「ある」。
境内のあちこちに、普段は物静かなお寺の庭や建物と一緒に、今、人が歩いているその場所に「ある」。

こういう「アート」っていいよなぁ。
「芸術」って言ってかしこまっていたり、高値で取引されていたりするものばかりが「アート」なわけじゃない。
足元の小さな石ころの中に、どうぶつの姿や人の顔を思い浮かべる……そんなのも「アート」。人の日常の中に、日常の中から生まれてくる表現がアート。
自分の周りの景色がいつもと違って見えるとか、その中に何かを感じること。
それがアート。

余談だけど、artという単語の語源はラテン語のL.ars 。技、芸術という意味がある。関連語彙にartifice(工夫)なんて言葉もある。日常の些細な風景や感覚を違った形で工夫したり創り上げたり、組み立てたり……もっと言うと、「おばあちゃんの知恵」だってアート。

境内には、そういう「生まれたてのアート」があっちこっちにかくれんぼしている。
そして、ごく自然にその周りで子供が遊んだりお年寄りが憩ったりしている。
……いいな、いいな、これ。

正面の本堂の周りも、すごいことになっている。

わたしにとっては「お寺さん」って言うと「荘厳」で「侵すべからざるもの」というイメージがある。お寺さんの敷地内では静かに瞑想にふけって煩悩から切り離されたところにいなくちゃ、なんて気分になる場所……だと思ってた。

それが、どうだろう。


……うわ、本堂の真ん前でライブやっちゃってる。
それも、なんか「荘厳」って言葉とはかけ離れたけだるい雰囲気だったり「煩悩」の固まりのような曲だったり……。(笑)

でも、かしこまってえらそうにしているお寺よりもずっとこの方が、いいなぁ。

そして本堂の周りの縁。通路に沿って歩くだけでも、こんなにいろいろ。

縁の上、下。柱。すべて有効活用されている。
縁の上では展示の他にもゆっくり座ってのんびりと庭を眺めたりお茶を飲んだりする人の姿も。

日頃はひっそり静かなお寺の本堂も、まるで孫が来たときのおじいちゃんのように心なしか華やいで嬉しそうな感じ。

本堂に沿う石の通路は、そのままクラフトエリアへの道になる。
にぎやかな本堂の裏手に回り、見事な庭園の池庭(ここにも展示物がある)を見ながらさらに進むと、お寺を取り囲む林へつながっていくのだが……

小さなせせらぎを越えるとそこは「どんぐり千年の森」。
雰囲気がまたがらっと変わったクラフト展の会場だ。

ごらんの通り、桜が満開。
桜並木の下に、今年は何と150ものブースが登場した。

ぐるっと会場を歩いてみる。

わたしは、二日目に行ったのだけど、1日目の土曜日は、4月に珍しい積雪のあった日でとても寒かった。そのため、このクラフト展会場の通路はぐちゃぐちゃになってしまって泥まみれになるから、急遽スタッフが畳を並べて臨時通路を造ったという。

それがまた、あったかいのだ。
畳の感触が、足に優しい。


臨時通路だから決して歩きやすいとは言えないけれど、かえってそれが子供たちには魅力みたいで、一生懸命にでこぼこを笑顔で歩く姿がかわいい。
ベビーカーを押して歩く人の姿も多い。

頭の上には満開の桜。

クラフトを楽しみ、お花見も楽しめ、花より団子の人は飲食ブースでいろいろな味を楽しむ。焼きそばやお好み焼きのようなおなじみのメニューに混じって東御市から来た永井農園の「焼き餅」の香ばしい匂いも………。

クラフト展の会場を歩いていて感じた。

ただの林の中に、それぞれが好きにタープを立ててやっているので、まるでキャンプ場にいる気分。敷地は塀や柵で囲われていない、外から遮断されていないオープンな会場。なので、どこからでも会場に入り込んで行かれるし、中でなんかにぎやかだなぁ、と、偶然通りがかっただけでもついふらっと気楽に入り込める。
やわらかい草地。落ち葉のじゅうたんがふかふかで、「区画」や「線ひき」のない会場構成は、まるで「小布施方式」と言われて全国から注目されている小布施の町並みと同じ感覚なのだ。

……小布施ならでは、なのかもしれない。この光景は。

しかし、すごいなぁ。
入り口の屋台から始まって、骨董市、苗市、アート展、クラフト展。飲食も出来て花見も出来て、散歩も出来てライブも聴くことが出来て。
お寺全体がひとつの「テーマパーク」のようになっているのだ。

わたしの持っていた「お寺」というイメージとはかなり異なっている。

このお寺の住職さんは、どんな方なんだろう?
そういう疑問が湧き上がって、ものすごくお会いしてみたくなった。

「ああ、住職さんや奥さんだったらあそこから行けばいいよ、みんな自由に出入りしてるから。」
そういわれて、「お話をお聞きしたいのですが」と突撃取材。

忙しいのにご住職は笑顔で迎えてくれた。

玄照寺23世住職、葦澤義文氏。

玄照寺は今からおよそ450年ほど前に開かれたお寺。現在の場所に移転したのが江戸時代の1704年だという。

その玄照寺で「苗市」が始まったのが今から50年前の1960年。
地域の人々に春を運ぶその行事は、毎年多くの人が訪れていたが、今や「苗」は近くの花屋、スーパー、ホームセンターなどで一年中手にはいる。

「そこでね、7年前から以前はハイウエイオアシスで町主催でやっていたアート展を苗市と合体させたんです。」
「その後、昨年からはクラフト展も一緒にやるようになりました。今年はアート展を始めた頃の出展数の2倍以上、150の出展数になりましたよ。」

町でやっていたことを、ひとつのお寺が請け負うというのはすごい。
お寺さんはどういう立場で?

「そうですね、場所の提供と、あとは、檀家さんなどの協力ももらって運営費を一部捻出しています。でも、いろいろ実行にあたっては寺の若い人や役所の人、クラフト展実行委員会の人たちがみんなで頑張っています。」

話をしていたら、住職の奥様がお昼に、と牛丼を持ってきてくださった。
話をしている場所は関係者の休憩場所で、入れ替わり立ち替わりいろいろな人が心づくしの食事を食べに来る。

「昨日の夜は関係者みんなで交流会やりました。150人くらいいたかな。」

「通路に畳を敷きながら話したんですよ。来年は、もうちょっとこの林を整備したらもっとたくさん出展できるかもね、って。」

そう言ってご住職は、穏やかに微笑んだ。

小布施という北信濃の小さな町。その小さな町の片隅の、静かなお寺。
そこにそれだけの「人」が集まって、このイベントを創り上げている。
毎年毎年、新しい人がやってきて新しいつながりを作り、新しい人を巻き込んでどんどん発展しているこのイベント。

苗市の衰退とともに、ご住職がどうにかしたいと小布施の仕掛け人 文屋・木下豊氏に声をかけ、その木下氏が、美術家・中村仁氏を住職に紹介し、この3人に、お寺の檀家衆が加わり、境内アートが始まって。

そして、昨年からハイウエイオアシスで町も加わった実行委員会でやっていたアート&クラフト展が一緒になったそうだ。

ここでご住職の口から出た「中村仁」という人の名前。
それはこの日、わたしが当初の目的として会うはずの人の名だった。

わたしはご住職にお礼を言い、中村氏を捜して再び外にでた。

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「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2) へつづく。

(文・写真:駒村みどり)

(その1)よりつづき~

小児マヒによる緊張と硬直で動きにくい手の変わりに足を使いこなす風子こと冨永房枝さん。
彼女と話をしていると、まったくそういう「障害の壁」を感じない。なぜだろう?

ひとつに、彼女はいつも笑顔を絶やさない。もうひとつ、その屈託のない笑顔で話す言葉にはネガティブな感じが全くない。彼女は「障害があるから」という言葉を決して口にしない。

先日、取材のために一緒にランチでも、と迎えにいってお店に向かう車の中での会話。

「あのね、悪いけど今日、食べさせてね。」
「いやぁ~、悪いけどわたしも貧乏だからさ、おごるのはムリ。(笑)」
「そうじゃなくてさぁ~。」
「あははは、ちゃんとわかってるよ。大丈夫だよ、まかせてね。」

“食べさせて”という言葉の意味は「おごって」などではもちろんない。
レストランのようなお店では、椅子に座って食事をする。当然、足で食べる仕様にはなっていない。だから「食べ物を口に運んでね」という意味だ。

「足を使う」

その行為に対して、人は決して必ずしもいい感情を持たない。
何かをするのは“手が当たり前”だから。そして“足は汚い”という感覚が一般的だから。

手が使えない代わりに足でやる。今でこそ彼女の周りはそれを認めるけれど、子供のころからそうだったわけではない。実際、わたしも彼女の高等部時代に同じ学校の職員がこう話すのを聞いたことがある。

「彼女は、足でクッキーも作っちゃう。それはすごいけど、でも足で作ったクッキー食べる気にはなれないなぁ。」

もちろん彼女は足をいつもきれいにしている。今もキーボードを弾くその足のつめは手入れされてきれいにペディキュアが施されている。わたしは彼女がどんなに自分の足を大切にしているのか感じ、いつもきれいだなぁ、とその足に見とれてしまうのだ。

けれども“足は汚い”という感覚は一般的で、その中で子供のころから生きて来た彼女はその笑顔や明るさの裏に悲しみや苦しみもたくさん感じてきたことだろう。

“いたずらをしたい。触ったりぐちゃぐちゃにしてみたりしたい。”
それは好奇心の固まりの小さな子供にはごく当たり前の欲求だ。
けれども、周りの人間と同じようにやろうとしても、手が動かない。

動きたい、動かせない。
そのイライラが高まって、足を動かした。

「足の方が、じょうずにできる!」

そう思って足を使い始めた彼女だが、周りがそれを受け入れるのは難しかった。

「足で給食食べていい、って許してもらえたのは中学部になるときだったよ。それまでは、手の機能訓練ということでなんでも手でやるようにいわれたなぁ。『足の方がずっと速く、上手に出来るのになぁ』って思いながらやってたから訓練つまんなかったねぇ。」

笑顔でそう話すけど、食べることまですべて「訓練」にされるのはたまらなかったろう。みんなが美味しそうに食べているのに、お腹もすいているのに、手ではなかなか食べられず、時間もかかる。

「足で食べてもいい」と認められた(というよりは、「周りがあきらめたんだよ」と彼女は表現したが)ときには「やっと自分らしく出来る」という思いがあふれてきたそうだ。

「足でものをやる」ということひとつとっても、彼女を小さな頃から知る身近な者でもこれだけの抵抗がある。当然、彼女が受けてきた波は、それだけに留まらなかった。

わたしは彼女からメールをもらって再会の約束をしたが、その一方で久しぶりに会う「先生」という存在に対しての心の迷いや傷について彼女は自身のHPの日記に、こんな記述をしている。

養護学校の思い出は楽しいことよりも先に“辛いこと(当時の養護学校には障害児・者を理解できず“社会のお荷物”と口走り、生徒の心を無雑作に傷つける教師もいて、嫌な思いをしたこと)”を思い出してしまうからだ。教師と生徒だったことがあり「先生」と呼んでいたMさんに再会したら、私は平常心でいられるだろうか…?
(風子のきまぐれ絵日記 2007年5月「花香る風の中の再会は………」より)

同じように、彼女が1990年に出版した詩集「”女の子”のとき」にも障害のある自らに対する悩みや苦悩がこんな風に描かれている。

   なれているからこわくない
   いつも 口にするけれど
   うそです

   街を歩くのは こわいのです
   一人で歩く道は こわいのです
   いくら なれていても
   こわいものは やっぱりこわいのです

   家の一歩そとは
   心の戦場
   人の目は機関銃
   聞こえる声は大砲
   人の態度はミサイル
   わたしの心 殺そうとする
   わたし1人殺すのに 何十人、何百人

            (詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

が、彼女はそれを人前では臆面にも出さないのだ。「障害があるから」「手が使えないから」……彼女はそれを理由にしない。そして、その裏でどんなに汗や涙を流したのか、どんなに努力をしたのかも、ひけらかすことはない。

再会のとき、わたしはうつ病で学校に行かれなくなった休職中の教師で、彼女はボランティアでいろいろな学校にも講演に行くことがある立場から、「学校」の話になった。

彼女の“人目をひく姿”に対して、子供たちは当然興味を持つ。そういう人を見かける機会も少なければ、話をする機会などもっとない。だから、校長室やステージなどで話をしている彼女に子供たちは寄ってきて、時々こういう質問をする。

「ねぇ、なんでそんな変な恰好なの?」

その時に、周りの先生たちの対応はまっぷたつにわかれるそうだ。
「そんなこというのじゃない」と叱責し、彼女から遠ざけるパターン。
それを見守り、子供たちの疑問に対して彼女が答えるチャンスをくれるパターン。

自分の体について人がどう思うのか、彼女はいやというほど知っている。まだ経験の浅い子供たちならなおのことだ。そういう子供たちが「知る」機会を奪わないで欲しい、と彼女は言う。

「変な恰好」といわれたら、ちゃんと話をする。伝わるように、わかるように、きちんと話をする。そういう子供の好奇心をただ「言っちゃいけないこと」と押さえ、そういう対象から遠ざけたら、子供の中に残るのは「障害について口にするのは禁忌」……そんなマイナスのイメージ。知ろうともせず避けて通る人間が出来上がる。

だから、彼女は自分の体について知ろうとする子供やその好奇の目を遠ざけない。すごく落ち込んだり重い気持ちになることがあっても、そうして人とつながることをやめることはしない。

   こわいけど
   ミサイル・鉄砲 すごくこわいけど
   でも 歩く
   こわくなくなるまで歩く
   戦争が終わるまで歩きたい

   こわいけど やっぱり歩く
            (詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

  死んでもこの身体はなおらない と
  気付いたときから
  生きたい と思った

            (詩集“女の子”のとき「自殺」より抜粋)

それは、彼女の決意でもあり、覚悟でもあり、そして多分彼女が自分を受け入れた瞬間だったんだろう。再会したとき、高等部時代よりもずっと軽やかになった彼女の心をわたしは感じた。いつの間にか2時間も話し込んだ。そうして「また、会おうね」とわかれた。ごく普通に、お互い必死で生きている人間同士として。心から「また語りあいたい」と思った。

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「今回は、本当に久しぶりに新作を描いたんです。何を描こうか迷ったんだけど、紙一面を宇宙にたとえてみたんです。」

ミニコンサートの合間のMCで、今回の新作の話になった。
「銀河鉄道の夜」はあるけど、「銀河鉄道の朝」はどう?……そういわれて、ぱぁっとひろがったイメージ。1メートル×2メートルの紙を2枚繋げて約一週間で書き上げた。

野の花。とり。風、月、万華鏡。彼女の心の中にひろがる宇宙、銀河鉄道の朝にはいろいろなものが息づいている。寒くてしもやけに悩まされながら描ききった作品。

この中の「万華鏡」について彼女はこう語った。

「小さな穴をのぞくと、その中にひろがる大きなきれいな世界。
  それって人間とか宇宙とかに似ている。
  小さな人間が地球の上で動き回って悩みまくって
  あたふたしている様子のように思えたんですよね。」

さらに、この絵について内緒話をひとつ。

「実は、この絵の中に一カ所だけ塗り残したところがあるんですよ。
  これはね、まだ終わってないよ、これからも続くよ、ってそういう意味。」

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苦労も、悲しみも。悔しいことだってまだまだ山ほどある。
だけどそんなこと言っていてもしょうがない。

体が思い通りにならないから出来ることに制限もある。
だけど、それも自分の体。

そして、自分の体をしっかりと受け止め、自分も含めてあたふたしながらちっちゃいことでうだうだしつつそれでも生きていく人間の「生」を、万華鏡のきらめきのように愛おしむ。そしてまだまだ続くよ……と彼女の心はその歩みを止めることがない。

彼女の心はなにものにも囚われずに、自由に飛び回る。その自由な心が、彼女の笑顔に触れた物達に伝わって、そしてまたひろがっていく。

絵から、詩から、音楽から。彼女の足が生み出すすべてのものが、今日もまた輝いて“生きる”事の持つエネルギーを発信し伝え続けていくのだ。

もし、あなたの近くに「風子の絵足紙キャラバン」が訪れたら、そこに行ってぜひ一人の人間の命のきらめきと生きざまを感じて欲しいとそう思う。

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心は体には囚われない~風子、その1~) 

HP:「風子の絵足紙キャラバン
森の宿 林りん館 (長野県小川村「風子の絵足紙ギャラリー」併設宿泊施設)

(写真・文:駒村みどり)

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