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信州・ひとREPORT ~N-gene発表記事~

H21~H23年、N-gene記者として記述した記事を再掲しています。
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心は体には囚われない〜風子、その1〜<’10年5月掲載>

春まだ浅い3月のある日。長野市篠ノ井にある額縁店2階のギャラリーで、会場から流れるキーボードの音楽。個展+ミニコンサート「春へのつぶやき」。そこでキーボードを奏でるのは「手」ではなくて「足」。奏でているのは、個展で「絵手紙」ならぬ「絵足紙」を含めたたくさんの作品を披露している「風子」さん。

「千の風になって」、「G線上のアリア」。
しっとり聞かせたかと思ったら突然に「トッカータとフーガ」。

「いやぁ、やっちゃったよ。」
演奏が終わるとそういって会場を笑わせる。

豪快で繊細。大胆で優しい。
彼女の持ち味は昔からまったく変わらない。

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「風子」。本名は冨永房枝。
長野県長野市に生まれる。生まれて半年後に風邪のための高熱が元で「脳性小児マヒ」を発症。それにより体幹の機能障害が残る。養護学校の高等部を卒業後、詩作、詩の朗読、キーボードの演奏などでボランティア活動を続ける。

1996年に「絵足紙」を始める。絵だけでなく、書など描き続けた作品は多数にのぼる。
(詳細は彼女のHPを参照のこと)

演奏会でも、話をしている最中にしょっちゅう汗をかく。(その汗も、足でタオルを持って拭き取る。)からだが常に緊張して突っ張っているうえに思いもよらない動きが常に止まることがない。ひとこと話すごとに体中が突っ張って、息が荒くなり顔がこわばるので話し声に集中しないと聞き取りにくい。

それは、小児マヒによる体のマヒと、緊張と、それから不随意運動のせいだ。
この状態にある人たちは、だから見た目はある意味「異様」だ。ゆがんだ体と顔。それは意識があって脳が働いている間はどうにもならないのだ。彼女らの緊張のない状態が見られるのは、脳が休んでいる「眠っているとき」だけだ。

こういう「機能障害」を持った人は、私たちの周りに普通に居るのだが……しかし、町でその姿を見かけることはほとんど無い。たいていの人は施設に入ってしまうか、「差別」「好奇」の視線が苦しくて家に引きこもってしまうか、あまり外には出てこない。

けれど、彼女はどんどん外に出て行く。
明るい笑顔と大きな笑い声と共に。

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わたしが彼女と「再会」したのは、2007年の5月。
再会のきっかけはネットのSNSだった。

「再会」と書いたのは、彼女との出会いはもう20年以上も前にさかのぼるからだ。

「なんかねぇ、久しぶりなのにそんな気がしないね。」
そう笑う彼女は、その時ふとわたしのことを「みどりちゃん」と呼んだ。
その呼び方が昔の二人の状態を的確に表しているようで妙に笑えた。

彼女の活動は展覧会やコンサート、講演を通じて今やかなり多くの人が知っている。支援者も多く、そういう人たちと共に彼女は自分の道を歩んでいる。けれど、わたしはそういう人たちが彼女を知る以前の姿を知っていて、そしてある意味、彼女との出会いでわたしの考え方も大きく変わった。

だから、今回の演奏会の取材記事を書こうと思ったときに、ただ単にみんなが知っている彼女の姿だけではなく、その頃の彼女を描きたい……とそう思ったのだった。

「風子」以前の「富永房枝」の姿。まずはそこから、入りたいと思う。

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「肢体不自由養護学校の高等部3年生 冨永房枝さん」。

それが、わたしが最初に出会ったときの彼女の肩書き。
そして、その時のわたしの肩書きは「その学校の新卒一年目の新米先生」だった。当時、採用されたぺーぺーの先生だったわたしは、特殊教育(当時の呼び名)の免許もないのに養護学校に配属されて途方に暮れていた。

もともとは音楽の免許を持っていたので、高等部に所属したわたしは音楽のクラスを二つ担当した。そのひとつのクラスにいたのが房枝さんだ。

「先生」とは呼ばれても、まだ養護学校について何も知らなかった私と、小さい頃からずっとこの養護学校で学んでいた彼女。学校のキャリアからいったら彼女の方がずっと慣れたもので、おまけに新卒のわたしと高三の彼女では実質いくつも年は違わない。

途方に暮れてあたふたしていたわたしからしたら、ある意味この学校では「先輩」とも言える彼女は体に緊張があって手が自由に使えないけれど、字を書くのも絵を描くのも、ランチルームで給食を食べるのでも、なんでもまったく手でやるのと変わらぬ出来映えでやってしまっていた。

驚いたことに、彼女の足は手よりもずっと器用に動いた。編み物……特に一番細かいレース編みでさえも……彼女はみんな足の指を駆使してやってのけたのだ。その足さばきは、わたしにとって本当に驚異的で器用さには舌を巻いた。

また一方で、専門である音楽の授業でもわたしは途方に暮れていた。
生徒たちは房枝さんだけでなく、みんなからだが思うように動かない。のどに緊張が走るから、歌を歌うのにも声を振り絞って必死だし、楽器を奏でるにもテンポやリズムの通りには行かない。

みんな音楽は大好きなのに……どうしたらいいんだろう?

その頃に、「文明の利器」が有志の方から学校に寄贈された。ヤマハの「ポータートーン」というキーボードだ。今は、簡単なものだったら1万円もせずに買えてしまうポータブルキーボードだが、当時はン十万もする高価なもの。

その登場のおかげで、思いもかけない展開が待っていた。

「先生、やろうよ。」

昼休みになると、わたしの教室に房枝さんがやってきた。
最初は片足でメロディーを奏でる。こちらの方は、足さばきはもう手慣れたもので(じゃない、足慣れたもの、だな。)楽譜を一緒に読めば割合すんなりと演奏が出来た。

彼女の技能をひろげたのは、今こそ当たり前のようにキーボードについている「ワンフィンガー和音演奏」機能だ。

左の指一本でキーを押すと、設定された「リズムパターン」に乗って「和音」がなる。コード進行に合わせて一本指でキーを押すだけで、重厚な和音伴奏がつけられるのだ。ワルツ、ポップス、ロックンロール、マーチ、ボサノバ、16ビート。それがたった一本の指で和音演奏と同時にパーカッションとして鳴ってくれる。

手の10本指では右も左も簡単にできる「和音演奏」だが、足の指は短くてとても無理だ。けれど、この「ワンフィンガー」機能だと、その一本指がありさえすれば立派なリズム伴奏になるのだ。

……と簡単そうに書いたけれど、当然右足でメロディーを弾きながら、テンポ変わらず流れているリズムパターンにのせて左足でコード進行を追うのは、普通の人でも大変なこと。

それに彼女は挑戦したのだ。毎日毎日、休みなく教室にやってきては練習する。曲は今でも忘れない。さだまさしの「天までとどけ」だ。

「あの曲ね、もう、さんざんやったから今はもう飽きちゃったよ。」

そういって彼女は笑う。確かにそうだろうね、そのくらいほんとに毎日何回も練習したものね。

もともと右足でメロディーを弾くことは出来ていても、この曲のさびの部分は16分音符が連続してどんどん音が上昇していくので手の五本指でも大変。メロディーがなんとか出来ても、それに合わせて左でのコード演奏がついていかない。いったいどのくらいの期間、練習したのだろう?今は華麗な足さばきでレパートリーもたくさんになった彼女のキーボード演奏の基本は、この時の必死な練習の積み重ねの結果なのだ。

そうして、「天までとどけ」が形になって、2曲くらい演奏が可能になった頃に、彼女は卒業して社会へと飛び立っていった。

この時のキーボードとの出会いが彼女のライフワークのひとつとして存在している。それは大きな出会いだったろう。でも、同時に、「この学校でこの生徒たちとどう音楽に向かい合ったらいいのだろう?」と悩んでいたわたしにとっても、彼女が毎日教室にやってきて練習し、仕上がっていく段階を一緒に悩み、工夫しながら味わった経験が「そうか、音楽って教科書や楽譜を教えるだけじゃない、その人なりに表現することなんだな」という大きな収穫と音楽指導の確信へとつながったのだった。

「あのね、最初にあったときにわたしが何考えていたかっていうとね………。」
「わたし楽譜読めないしさ、この音楽の先生、ニコニコして人が良さそうだから利用してやれ~って思ったんだ。」

そういって彼女は朗らかに笑った。
この取材のために改めて会って話していたときに、この頃を想い出して不意に彼女が口にした二十何年目の事実。

目標を持つ。それに向かって何が必要で、どんなふうに学び深めるのかを自ら考えて選ぶ。
そしてそこに向かってくり返し投げ出さずに進んでいく。

そのくり返しと積み重ねが今の彼女を創り上げ、この笑顔と自信を支えているのだ。こともなげに見えるその影では流した汗や苦労などは当然のことと受け止めて、前向きに進んでいく彼女の姿があるのだ。

わたしもね。利用してもらえてよかったよ。おかげで、あの頃一緒に練習していた思いは大切な経験のひとつになって私の中に蓄積されているのだから。おたがいさまだね。

そういってわたしも、一緒に笑った。

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たぶん。障害とか、先生と生徒とか、そんなものはどうでもよかったんだろうと思う。
人と人とのつながりや、関わり合い、出会いというのはこういうものなんだろうと、そう思う。

『障害者としてではなく、ひとりの社会人として世に問うていく「風子の絵足紙キャラバン」に、今後ともより一層のご理解とご支援をお願いいたします。』

今回行われたつぶやきコンサートでもらったパンフレットにこんな一文が載っている。これは絵足紙キャラバン実行委員会という彼女の支援者の会の挨拶文だ。彼女に出会った人たちは、みな、「障害なんか関係ないや」と、きっとそう思うに違いない。

彼女は「冨永房枝」というひとりの人間として生きてきているのだから。人と人との関係の中で、ただ生を与えられたものとして同じように悩みもし、苦しみもし、喜びや感動を得ながら生きているだけなのだから。

そんな彼女がここに来るまでの「からだとのつきあい方」「生きざま」を通しながら、彼女の「絵足紙展」についてこのあと記述していこうと思う。

心は体には囚われない~風子、その2~へ続く。)

HP「風子の絵足紙キャラバン」

(写真、文:駒村みどり)

「ことだま」が飛び交うところ〜オープンマイクatネオンホール<'10年4月掲載>

月に一度、第4金曜日の夜に行われているイベントがある。

「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」。

2時間ほどのその時間の中には、凝縮された言葉たちが集う。
あつい言葉。
やさしい言葉。
さびしい言葉。
きびしい言葉。
たのしい言葉。

どの言葉も、ステージの一本のマイクから会場内に生き生きと飛び出していく。
言葉を発する者あり、それを受け止める者あり、受け止めてまた発するものあり。

命を持った言葉を、どんな形でどんな想いで受け止めるのも、それぞれ次第。
参加費は無料。いつ来ても、いつ帰っても自由。
受け止め方も、発し方も……すべてが、この空間では……自由。

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「オープンマイク」というものの起こりを調べていくうちに、つきあたった言葉がありました。それが「スポークンワード」です。

スポークンワードとはどういうものかというと……
『ラップやポエトリーリーディング(詩の朗読)など、喋り言葉によって表現するようなパフォーマンスの総称。またはそのような芸術のこと。政治的なテーマや社会的なテーマが題材にされることも多く、音楽との融合も多く見られる。』

スポークンワードは1930年代~40年代にかけて、黒人解放運動の中で行われた街頭演説が起源とも言われる。
*1950年代のビートニク文化の中で、ポエトリーリーディングの手法が発達。
*1980年代以降のヒップホップ文化の中で、ラップの手法が発達。
*現在では、喋り言葉を総括的に扱う芸術ジャンルとしての“スポークンワード”が確立しつつある。

「表現」のひとつの形として成立してきた「スポークンワード」。私たちに馴染みのラップもそのひとつの形。確かに、言葉がリズムに乗ってはずむラップを聞くと、自然と体全体で言葉を受け止めてしまうのです。言葉の持つ力が、リズムとイントネーションなどのさまざまな要素と絡んで最大限に発揮されているような気がします。

そして、近年、日本でもスポークンワードを呼び物としたイベントが行われるようになって、そのひとつの形が「オープンマイク」でした。
日本では1997年頃から東京のカフェやクラブで「飛び入り参加OK」という誰がマイクを使ってもかまわないイベントとして盛んに行われ、そこからリーディング・ブームに火がついたようです。

この「オープンマイク」を今、長野県で毎月行っているのが、以前の記事「言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)」でも取材させていただいたGOKU氏です。

GOKU氏とオープンマイクとの出会いは、2003年のネオンホールで行われたオープンマイクに主催者の方に誘われたのが最初だそうです。

GOKU氏は、朗読(詩だけではなく「言葉」はなんでも朗読するそうです)をライフワークにしている詩人さんです。お仕事のかたわら、詩作し、それを朗読し、また最近ではご自身が声の場で出会った詩人たちの詩を集めた詩集「読みたい詩人」を自費出版もしました。

そのGOKU氏が、以前のオープンマイクが終わることになって、新しい「声と言葉の場」を作ろうと思ってネオンホールの小川さん、農家で詩人の植草四郎さんに声をかけて始めたのが、現在毎月行われている「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」です。

「声を出す場であると同時に、言葉と戯れる場にもしたくて、毎回、言葉を使った 企画を考えるようにしています。」

GOKU氏のこの思いの元に行われている「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」。
わたしも、ふとしたきっかけで12月と2月の2回の企画に参加してみたのです。
マイクを前に、どんな人がどんなパフォーマンスをするのか、とても興味があったからでした。

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正直なことを言うと、この長野県で「オープンマイク」が成立するのか実は半信半疑だった。

数年前までずっと音楽の教員をやっていたわたしにとって、この長野県ではどの学校に行っても子供たちが大人に近づけば近づくほど「人前でのパフォーマンス」を避けるようになり、さらに、それは大人である教員や親御さんたちにその傾向はもっと強い……そういう認識があったから。

そんな想いを持ちながらネオンホールに行った。
クリスマスが過ぎ、年の瀬のあわただしい夜、会場にはすでに、数名のお客さんがいた。ドリンクを注文して席に着くと、しばらくたってGOKU氏がステージで開会宣言。

オープンマイクの「ルール説明」。

~マイクの前に立った人は、持ち時間5分で何をやってもよい。
~5分でまだ途中の時は、その先4分59秒まで延長が可能。
~聞くだけでもいいし、途中でやりたくなったら飛び入り大歓迎。

そして、「今日ここでやる人?」とのGOKU氏の問いに手を挙げた人は、4名。

一人、二人とまずは常連らしき人がステージでパフォーマンスを繰り広げる。
最初は詩の朗読、次の人も詩。そしてそのあと、この日のバックの文字を書いた人が一年の「感謝」を込めて書いた文字について話す。そうかと思えば、次の人は思いつくままに話をする。……そこまでで、4人だったのだが………

4人では終わらなかった。

GOKU氏は、ステージの1人1人が終わるたびに心こもった講評を贈る。それぞれの人の持ち味を最大限引き出す講評は、とても温かい。
そして、そのGOKU氏の講評の言葉のぬくもりが、会場の「自分もやろうかな」という想いにつながって………
結局、最終的には11名がステージに立った(!)。

実は、私も……最初はそのつもりがなかったのだが、MCのGOKU氏と、ステージに立つ人々の雰囲気と勢いに乗っかるように「やります!」と手を挙げてしまった。

即興劇あり、語りあり、朗読あり。
12月のオープンマイクは、こうして2時間以上の間にたくさんの人の言葉と想いを放つ濃密な時間となった。

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この12月のオープンマイクの印象がかなり強烈だったので、改めて取材という形で2月のオープンマイクにも顔を出してみました。

この日のステージでは、開幕のGOKU氏のあいさつおよび詩の朗読から始まるのは12月と同じだったのですが、ステージの幕開け……突然赤い鼻の「変な日本語を話す外人」さんが登場。

この「変な外人」さんは、GOKU氏のパートナーとしてこの「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」を最初から支えてきた詩人の植草四郎氏です。

オープニングのステージ15分を任された植草氏、ひと月前の1月のオープンマイクのゲームで優勝し、15分の特別テージ出演権をGETしたのです。

植草氏とGOKU氏の出会いは詩のボクシングだったそうです。

「なぜ、植草氏とやろうと思ったのですか?」との問いにGOKU氏はこう答えました。

「彼の言葉が好きだったからでしょうね。
言葉って人柄だから
言葉が好き=発してる人が好き
みたいなこともあります。」

言葉を通じてつながった二人。
わたしは2月のオープンマイクに行って、GOKU氏のMCと植草氏のステージを見てなぜこのオープンマイクでたくさんの人が気負い無くステージに立つのか、何となく感じたことがありました。

主催者側であるお二人が、何よりも一番このステージやこの企画を楽しんでいるんじゃないか……とそう思ったのです。

「そうですね、自分もあの場がとても好きですよ。そして、あの場は人の非難なんかはもちろんNGだけど、それ以外は何でもありなんですよ。」
「だからね、GOKUさんも自分も、なんのこだわりもなくあそこにいるんです。
このタイトルの『ななしのぜろ』の『0』はそういう意味もありますね。
そして、0の環は大きくもなり小さくもなり、いろんな世界をそこに含んでいるんですよ。」

(植草氏談)

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押しつけも、なんにもない。どんな世界でもそのままを受け止める。
ステージに立つ人のカラーを大切にし、上手い下手にもこだわらない。

その人の発する言葉とそこにある想いをしっかり受けとめる人がそこにいる。
それが、この『名もなきオープンマイク0(ぜろ)』というオープンマイクのあり方。
そして、そのあり方を愛する人々が、毎月ここに集ってくる。

2月のこのステージでもまた、様々な言葉が会場に放たれた。

詩の朗読をする人。日常語りをする人。
携帯電話のメールのやりとりを読み上げる人。
難病研究の署名のお願いをする人。
ピアノの演奏。
(ちなみに、この日ピアノを演奏したブルースピアニスト、コイケさんのステージについても、このあと取材しましたので記事を掲載しました。→記事
『聴き屋』をこれから権堂でやりますから来てください、という宣伝。

それぞれの人の放つ言葉は、先にGOKU氏が植草氏を語るときに表現したように、そのままその人の人柄を表している。

温かい言葉。
力強い言葉。
朴訥な言葉。
やさしい言葉。

一本のマイクを通じてそれらが会場の人々とステージの人とをつないでいく。

そして、この日のGOKU氏のステージ。
突然、ステージでクロールを始めるGOKU氏。

この日、小さな紙の上に書きとめられたたくさんの短い言葉たちが、一枚一枚と会場にちりばめられていった。GOKU氏の声と動きと、リズムの中で生き生きときらめきながら。

「人前で朗読するという経験は、2003年の3月に松本市で開催された「詩のボクシング」という朗読の大会でした。まず、自分で言葉を考えることが楽しかったし、それを声にすることが楽しかったですね。ただ、当時の僕は、詩という言葉に、「詩=メッセージを伝えるもの」という頭があって、いま読み返すとお説教のような詩で、つまらないんですよ(笑)。いまは、詩は言葉遊び。くらいの気持ちで、湧いてきたときに作っています。自分のことというよりも、言葉で感じてる世界を表す感覚ですね。 」

この詩のボクシングの全国大会で準優勝という経歴を持つ実力派のGOKU氏は、言葉と関わるようになったきっかけをそう話す。

その語りにあるように、彼の言葉は押しつけがましくない。
『0』という名を持つこのイベントのように、ただどんどんと湧き上がってひろがっていく。

言葉は、意味を持つものとしてではなく、命を持つものとして、彼の口から発せられていく。

「いまって、会話にしてもニュースにしても、 世知辛いですよね。言葉ってもっと優しかったはずだと思うんです。そもそもは、コミュニケーションのツールであって、人と繋がるための道具なわけですからね。でも現代ってそれが忘れられているような気がします。

世界が言葉によって、否定されていく。
人が言葉によって千切れていく。
絆を断ち切るために用いられる言葉。

 そういうマイナスの使われ方が多いような気がします。
たぶん言葉は泣いてるんじゃないかな。
だから、言葉っていいね。
ってことを伝えられる場になればいいんじゃないかな。 」

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人と人がつながるためにあったはずの「言葉」。
それは、時として人を傷つけてしまう凶器になることもある。

けれども、本来つながるためにあるその言葉にどんな命をのせて発するのか、どんな想いを込めて発するのか……、それを発する側の人間も、受け止める側の人間も、もっと気負わず自然に出来るようになったなら………。

人と人との間には、こんなにやわらかくやさしい空間がひろがっていくのだなぁ。

2回の『名もなきオープンマイク0(ぜろ)』を取材し、イベントが終わって会場を去る人々の穏やかな表情や、会場のしっとりとした空気を感じて、そんなことを思った。

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■名もなきオープンマイク0(ぜろ) Vol.30
~産獣・酸汁・参○ 声はどこに辿り着くのか~

と き:4月23日(金)午後8時スタート
ところ:ネオンホール(長野市)
料 金:無料 ※1ドリンク以上のオーダーをお願いします。
持ち時間:5分 (延長は最大4分59秒まで。合計9分59秒以内)
自作詩、演劇、歌、おしゃべり、早口言葉。絵本。紙芝居。
なんでもかんでも。沈黙もOK。
15分のゲストライブ×2本(4月は、即興劇とゲストの朗読)
過去のレポート等は公式ブログで。

(文・写真 駒村みどり)

ピアノのおいしさ、つまみ食い。〜ピアノ・ア・ラ・モードat佐久なんだ館〜<’10年4月掲載>

「面白いことをやるんですよ」

以前、この取材でお世話になったオギタカさんから、そんな声がかかりました。
(オギタカさん取材記事「届け、つながれ。 大地の鼓動・風の歌」)

新しい形の、ライブ。
その名も「ピアノ・ア・ラ・モード」。

……ピアノのアラモードって???
キャッチコピーが、こう。

「ちょっと大人な音楽デザート お好きなアペリティフを召し上がれ」

どうやら、ジャンルの違うピアニスト5人が集まってひとつのライブを構成するらしい。一粒で5度おいしいライブ???

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ピアノ・ア・ラ・モードの企画を考えて主催したのは、坂城に在住のジャズピアニスト、コイケテツヤ氏。

コイケテツヤ氏は、「ブルースピアニスト」としてライブ活動を行っている。
でもこの「ブルースピアノ」というジャンル。あまりメジャーではない。
そのため、コイケ氏は、とにかくいろんなブルースピアニストの演奏を聴き、ほぼ独学でブルースピアノの世界を身につけたそうだ。

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小学校3年ぐらいから中学3年生まで約6年間ピアノを続けました。
そのときは「習わされていた」といった感じです。

高校卒業、就職し、バンドをやっていなかった19歳のあるとき、「ジャケ買い」した一枚のブルースピアニスト「otis spann (オーティス・スパン)」のアルバムが、ブルースにのめり込むきっかけとなりました。

そのアルバムを聞きまくり、一所懸命真似しました。
そのときはブルースしか見えていませんでしたね。
他のジャンルにはまったく興味がありませんでした。

いまから6,7年前から、それまでやった事のなかった歌を歌い始めました。
自分で歌うと、選曲に歌詞の内容を重視するようになり、その頃からだったか、徐々にジャンルへのこだわりはなくなっていきました。

いろいろな音楽に興味がでてきて素直にいろいろな音が私の中に入ってくるようになりました。

(コイケ氏談)
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そんなコイケ氏が、この企画を思いついたきっかけ。
それは、「自分がいろんなピアノに触れてみたい」というところから始まったそうだ。

自らのブルースピアノの世界。それ以外に、ポップス、クラッシック、ジャズ……「ピアノの演奏」とひとことで言ってもいろんなジャンルがある。

そういう人たちの演奏を、いろいろ聞いてみたい。
みんなで一緒にやったら、良いかもしれない。

そんなところから、ピアノつながりで声をかけた人々。
その人たちもみな、コイケ氏のその意図に「乗って」今回の企画が実現した。
ひとり20分の持ち時間。その中で、それぞれのピアノの世界を展開する。
それが、「ピアノ・ア・ラ・モード」。

今回の企画に参加するピアニストの皆さんが東信地区の人が多いので、会場は新幹線佐久平駅近くの「なんだ館」のメインホールになった。

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当日のライブの様子を記述する前に、この「なんだ館」についてもちょっと触れておこうとおもう。

佐久市なんだ館。よ~く見ると、四角じゃない。「五角形」の建物だ。
(外から見るとよくわからないけど、中のホールで天井を見上げるとはっきりわかる)

北海道函館に「五稜郭」があることは、歴史の勉強した人はみんな知っている。けれども、日本にもう一つ「五稜郭」があることはほとんど知られていない。それが、この佐久市の臼田にあるのだ。

この「なんだ館」が五角形なのは、その五稜郭にちなんでいる。「もうひとつの五稜郭」を人の記憶にとどめようとこの「なんだ館」も五角形なのだ。

オーナーの渡辺さんは、そんな佐久の持つ歴史文化遺産に思いをはせ、そしてここから「文化発信」をしたいと考えた。

もともとは御代田でご自身の持つアパートの二階をミニコンサートに解放していたそうだが、きちんとしたホールで……という思いから佐久平駅に近く客の訪れやすいここに新たにオープンさせたのだそうだ。

なんだ館は中央にホール(コンコース)があり、その五角形の各辺からさらに五つのスペースが展開している。
このスペースは、ステージ・三つのテナントブース、喫茶室で構成されている。テナントブースでは、お店で販売、という状態までは手が届かない手作り品を販売できるよう、手作り発信の場として考えられたスペース。

プロ・セミプロの作家さんはもちろん、学校の生徒さんが販売用に作った作品なども、このスペースを活用して展示販売してもらえたら……とシンプルな作りとお手頃な使用料で提供している。
また、手作りサロンとして、申し込めば羊毛フェルトや陶芸などの講座が受けられるスペースもある。

中央のコンコースは最大100脚の椅子が用意されていて、普段は「多目的スペース」としての空間だが、椅子を並べるとあっという間にコンサート会場に早変わり。

ここのピアノはいい音がすると評判で、ピアノ教室の発表会にもよく利用されるらしい。

ホールの後ろにある螺旋階段を上ると、そこはギャラリー席としても活用できるスペース。ピアノの演奏を聴くには、なかなか特等席かもしれない。

そして、ホールの壁面や、ちょっとしたところにはちいさな花が飾られていた。
何とも言えない「手作り感」とぬくもりあるスペース。

立地的にも良い場所だし、こういうはっきりしたコンセプトを持った会場は、もっともっと活用されて根付いて欲しいなぁ、と思った。

(*「なんだ館」お問い合わせは0267-88−5010。詳細はHPをご覧ください。)

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いろいろな方の演奏が聴きたくなり、観たくなり、時間があればライブを観にいきました。次第にいろいろな方々との交流が増え、そんな中、ピアノを使って表現する人が意外と多いことに気がつきました。

同じピアノプレーヤーとして私にはない感覚を持った人がいることがとても新鮮で、
皆さんアーティストとして素晴らしい方々ばかり。

一緒に出来ればすばらしい!

こんなことがきっかけで、今回の企画が浮かんできました。
ジャンルを超えた「ピアノ・ア・ラ・モード」を企画した理由は、一台のピアノが、弾く人の感性で様々な音色に変化して、いろいろな世界が繰り広げられる、すべてが面白くて、興味深いものであって、そんなステージをおみせしたかったからです。

そしてなにより、私自身そんなステージを観たかった!

今回のこの企画を立ち上げたコイケテツヤ氏は、このイベントへの想いをこう語る。

こんなコイケ氏の想いに答える人がいて、それを迎える会場があって、そうして「ピアノ・ア・ラ・モード」は2月の最後の一日に実現した。

開演と共にそれまでは演奏を待つのどかな人々のサロン的な雰囲気だった会場の雰囲気が、一変した。

トップは主催者であるコイケテツヤ氏のブルースピアノ。

黒いピアノに、黒いコイケ氏の出で立ちでステージが一気に引き締まる。
軽やかな音符たちがピアノの上ではね回り、それにつられてからだが自然とリズムをきざみ出す。

この日、ステージにこのあと立つ他の出演者たちも、自分たちの出番以外はお客のひとり。コイケ氏のピアノに合わせて、オギタカ氏が手拍子を鳴らし始めると会場全体がそれに合わせて乗ってくる。

楽しい。カメラをかまえながら、ついリズムに乗ってしまう。

はずんだり、微笑んだり、歌ったり、聴き入ったり。
いろいろな音がステージから降り注いでくるたびに、お客さんの顔が輝いていく。

ひとり持ち時間20分というステージは、あっという間に終了。だけど、コイケ氏のはなった音は、会場の空間に満ちあふれている。もっと聞きたい、だけど、これだけでも満足。それだけこの20分が、濃密だったんだろう。

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続いては、POPピアノの俊智(しゅんち)氏の登場。
山口県生まれの俊智氏は、現在御代田在住。自らが御代田の空気を感じながら得た感覚を音にのせてオリジナルソングを発表している。

御代田の優しい風が、浅間山麓の林を吹き抜けるような染みこむメロディー。
そうかと思うと龍神祭の激しい鼓動。

緩急織り交ぜた俊智氏のオリジナルソングは、御代田の空気を聞くものに正確に届けていく。
佐久で育ったわたしは、龍神祭自体は見たことがないが、そのお寺には父に連れられて行ったことがある。お寺の庭にある池が諏訪湖とつながっていて、諏訪の国の神様として祀られている甲賀三郎が龍の姿となって地上に出てきた際、この池から出てきたという神話がある。
その池の神秘さや、清浄な感じが俊智氏のピアノによって記憶の奥からよみがえってきた。

浅間山を間近に感じる御代田の地に立っている気分になる不思議な20分間だった。

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続いてはクラッシックピアノの細井美来氏。
細井氏は4才からピアノを始め、現在は軽井沢で演奏活動と後進指導に当たっている。

出だしが「トロイメライ」。
個人的に、この曲にはちょっとした思い出があって、さらにその思い出に重なる細井氏の音がとてもやわらかく優しくて、思わずこみ上げそうなものをこらえた。

男性二人の骨太な演奏のあとで、女性らしい繊細な演奏が対照的で、そして聴かせる。
2曲目のショパンの「ノクターン第2番」では、ラストの細かい音符のきらめきが、ひとつひとつ明瞭に際だちながら鮮やかに奏でられ、一音も逃したくない気持ちになって細井氏の音に引き込まれてしまった。

最後の音が消えたその瞬間の余韻までも楽しむことが出来、ため息がでてしまった。

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休憩のティーブレイク終了後、オギタカ氏のステージ。

オギタカ氏の演奏はいつもながらにパワフルで、いつ聴いても元気になる。
20分という時間のせいか、最初からガンガンに飛ばしていくのであっという間に会場はハイテンションに盛り上がっていく。

そして、なんと、オギタカ氏のピアノにコイケ氏が参加してピアノのデュオを披露。

この二人の息のあった演奏は、どんどん熱を帯びて盛り上がる。
何よりも二人ともとても楽しそうで、二人の奏でる音が絡み合い、支え合い、刺激しあって新しい音が生まれていく様が何とも「Happy」なのだ。

今この場で生まれた音、この瞬間しか聴くことの出来ない音。
生き生きとした音の固まりがぶつかってくる感じが何とも嬉しい。

デュオのあとはオギタカ氏がしっとりと歌い込んでステージをしめる。

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ラストに登場したのがジャズピアノの武藤さとみ氏。

軽井沢町在住の武藤氏は、プロとして数多くのセッションに参加している実力派。
初っ端になんか聴いたことのあるメロディーだと思ったら、ブルグミュラーの練習曲。ピアノを習ったことのある人だったら多分みんなやったことがある曲。
それが、だんだんジャズ風に姿が変わっていって。「こんな曲あったよねぇ。」って思うようなジャズ曲に変身。

すごいなぁ。さすがだ。

それに、武藤氏オリジナルアレンジの曲が何曲か。
軽井沢の情景をイメージしたもので、から松林や軽井沢の乾いてちょっと涼しげな風を感じさせる曲。

軽井沢は、冬は厳しい気候のあとの芽吹きの新緑の喜びがひとしおな土地。そんな軽井沢の自然を見つめる武藤氏の感覚が、お母さんのような優しさと包容力を持って静かに流れ込んできた。

最後に、武藤氏のMCと笑顔でステージ終了……。
かと思ったら、今日の演奏者がステージに集結。なんと、アンコールでSMAPの「トライアングル」を全員で演奏。

歌詞にあるように、みんなの声(音)は異なっているけど、
表現方法も、ジャンルも、まったく異なっているけれど、
「音を愛する人たち」の想いは、生命は、ここでひとつに結びついた。

ステージの上の5名も、それを受け止めた観客も。
みなそういうひとつの想いの中に過ごした2時間あまりをかみしめたラストステージだったように思う。

もともと、人がその想いを伝えるひとつの手段として生まれたのが「音」。
人をつなぐために、喜びや悲しみを伝えるために、人とそういう想いを分かち合うために、様々な音が生まれてきた。

音楽に国境はない。

言語も、人種も、歴史も、伝統も。

「クラシック」とか「ポップス」とか。
そんなジャンルも関係ない。

そんなものはくそくらえで、その本来の「音」の持つ意味をもっともっと自由に感じとっていってもいいよねぇ。

それでこそ、「音楽」……音を楽しむこと、なんだから。

「来年もまた、やろうね」

打ち上げの時に、5人が笑顔でそう語っていた。
こんな風に、音楽の本来の楽しさをどんどん伝えてくれるステージが広まっていったらいい。この試みが、この先もさらにひろがって続いていったらいい。

そんなワクワクするビジョンが、どんどん湧き上がってきたステキなステージだった。

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【コイケ氏ブログ】  ライブ情報やまとめなどの情報がアップされるのはこちら。

コイケテツヤノオモウコト

【コイケ氏の今後の活動予定】←記事掲載’10年4月現在のもの。最新情報はコイケ氏のブログでご確認ください。

4月24日(土)
長野市「はくな・またた
オープン/19:00 スタート/20:00
チャージ/\1,000(1ドリンク付)

出演/
魂のギターデュオ
コイケテツヤ
こんこば

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5月22日(土)
「SUPER JAM NIGHT vol.2」
長野市 LIVE HOUSE J
オープン/17:30 スタート/18:00
\1,500(1ドリンク付)

出演/
SOUL BEAT(ソウルビート)
DEEP SOUTH GROOVE(ディープサウスグルーブ)
BEVA,SOUL BROTHERS(ビバ、ソウルブラザース)
BOOGIE WOOGIE SHACK(ブギウギシャック)Vo.:コイケ氏
飯山ガキデカJAG STOMPERS(イイヤマガキデカジャグストンパーズ)

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コイケ氏は、音楽活動のかたわら、腹膜偽粘液種(ふくまくぎねんえきしゅ)という疾患を難病として特定疾患に認定するための署名活動も行っています。
詳しくは、コイケ氏のブログ記事「腹膜偽粘液腫に関する署名のお願い」をお読みください。

(写真・文:駒村みどり)

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その5)【’11年5月掲載】

(注:本記事は、H23年5月11日に発表されたものの再掲です)

*本日5月11日で、震災から丸二ヶ月がたちます。改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしつつ、今なお避難生活にある人びとに一刻も早く安心した生活が戻りますことを重ねて心からお祈りしたいと思います。
なお、これだけの日々を経た今も、被災地からは大量の支援物資の要請が笑顔プロジェクトの方にも届いているそうです。この記事の一番最後に詳細を書きますので、可能な方はお力を貸していただければと思います。

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「自粛」と「不謹慎」という二つの言葉。

何かしたい、何かをしよう……と人々の心が被災地や自分たちの状況に集中した3月11日から日がたち、それぞれの受けとめや感覚や行動の差が次第に明らかになるにつれてこの2つの言葉が世の中に蔓延し、人びとの動きは停滞しはじめた。

「自粛」と「不謹慎」による自主規制の動きには、「こんなことやったら被災地には迷惑」とか「被災地の人が悲しんでいるのに自分たちが笑っちゃダメ」とかいう想い、さらに何もできない焦りから生まれた目立つ人に対してのあこがれやできない自分を卑下する、もしくは理由付けしようという想いが垣間見える気がする。

そうでなくても災害によって「日常」が停滞しているところにさらに自主規制がかかった世の中。でも、果たして「これから」のためにはそれでいいのだろうか?

「だからね、お金を動かさなくては。まず、昔から商業地だったこの小布施町でちゃんとお金を動かすことが大切なんです。」

そうして生まれたのがこの企画。「ラーメンフェスタin小布施」だ。

北信の人気ラーメン店8軒が出店、一杯500円のワンコインでラーメンが食べられる。でも、小布施でなぜ「ラーメン」??さらにラーメンのイベントだったら毎年地元テレビ局主催のものはじめすでに大きなものがいくつかある。

「ラーメンはね、小さいお子さんからお年寄りまで、みんなが笑顔で食べることのできるメニューだからですよ。」……と林さん。

「で、今回は皆さんと相談して他のラーメンフェスタと違い全部『新作ラーメン』で行こうと。お店に行ったらいつでも食べられるラーメンじゃなくて、ここでしか食べられないもの。そして赤になったら意味がないから黒字(収益)を出す。そのお金を支援活動に当てる。

みんながおいしいラーメンで笑顔になって、そのお金を使うことで被災地に笑顔が届けられて、自分の笑顔が被災地の笑顔につながる。」

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「正直ね、ラーメンとしたらほとんど収益無いですよ。」

そんな林さんの想いを受けた須坂の参加ラーメン店「旋風堂」の店長の田子さんに「500円って値段設定、正直どうなんですか?」と聞いたらこんな答えが返ってきた。

「せっかくいろんなラーメン食べられるんだからと、話し合って一杯の量は控えめで500円設定にしたけれど、それでも500円じゃとんとんぐらいかな。けどね……」

「今回の話を聞いて嬉しかったよ。だって、もし必要だったら実際現地に行って炊き出しでもなんでもする気はあったけど、行って邪魔になっても困るし1人でがんばるのは難しすぎる。せいぜい店で募金つのるしかできなかったところに今回のこの話が来た。こんな風に誰かが考えてくれてそこに乗れば自分も力になれる。『待ってましたぁ!』って感じだったよ。」

そんな田子さんは、「焼きラーメン」の新作メニューを考えている。

「これ今回のフェスタでしか絶対に作るつもり無いからね。フェスタ以外ではもう食べられない味になるよ。」

……つまりは、旋風堂の「幻の味」になるわけですね。

その幻の味が、他の7店でも全部一杯ワンコイン500円で味わえる。会場の小布施ハイウエイオアシスではこの日、ライブペインティングや太鼓の演奏などのイベントも盛りだくさん用意されている。そしてそこで1日楽しめばその笑顔は確実に笑顔プロジェクトメンバーが被災地に届けてくれるのだ。

用意されたのは3000食分のラーメン。だけどもしかしたら、足りなくなるのかもしれないなぁ……と、林さんや田子さんの笑顔を見ながらふとそう思った。

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「何かしたいけど、何もできなくてじれったかった」

旋風堂の田子さんの言葉にもあったけれど、実際そう想っている人が私の周りにもかなりいる。私も、そして私の周りの多くの人たちも、そういう思いを抱えつつ「できる事は?」と考えては募金をし、支援物資を提供してみても「届いている」「役だった」「力になれた」という実感はなく、現地では本当に足りているのか、何が必要なのか、という情報はほとんど入ってこない。

笑顔プロジェクトに係わった人たちは、笑顔のお返しをダイレクトに感じることができ、次にできる事は?と具体的に考えて動くことができる。小布施の近くにいる人や遊びに来ることが出来る人は、今回のラーメンフェスタでおいしいラーメンを食べる事で「協力できた」「力になれた」実感を得ることも出来る。

でも、それすら出来ない人は?それが出来ないと、やっぱり「何もできない自分」を恥じたり卑下したりして哀しい思いにいなくてはならないのだろうか?

……私は、そうは思わない。

では、いったい何をすればいいのだろうか?

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原発問題が起こり、電力の不足がささやかれて行われた計画停電。その時に想い出したことがある。

「こんな停電、昔はしょっちゅうあったなぁ……。」ってことを。

まだ、テレビが白黒だった時代。番組が盛り上がって「いよいよ」って時に、突然テレビが消えてしまうことがよくあった。夜、明日の宿題を必死でやっている最中にも、突然真っ暗になって何も見えなくなり、焦ることもあった。「停電」は予告もなくやって来て、いつまで続くのかもわからなかった。

けれど、誰ひとり怒らなかったしあわてなかった。家々に常備してあるろうそくをつけ、ろうそくの周りに集まって平気で食事や会話が続いていた。暗闇に揺れるろうそくの光はあたたかくて、いつもよりも隣の人を身近に感じ、暗闇はなんだか「秘密基地」を思わせてドキドキした。

夜になると暗くなるのは当然で、コンビニが生まれる前の時代、お店は19時というとみんな閉まってしまった。買い物はそれまでに済ませて人びとは家路につく。「夜は暗いのが当たり前」だった時代。

被災後の電力不足が懸念される今、「節電のため、明るさを控えています」とお詫びの貼り紙のある店に入っても、実は何も不便はない。節電状態でも充分だ。今までは「もっと目立つように、もっと買ってもらうように」という想いから必要ない電気が使われていたのだから。

それは何も、電気に限ったことではない。テレビもそうだ。どのチャンネルを見ても同じような情報しか流れてこなかった震災時。テレビを消して、新聞やラジオ、ウェブ上だけでも充分に情報を得ることが出来た。それも、テレビのように垂れ流され押しつけられる情報でなく、自分から求める事実を必要に応じて必要なだけ。

食べ物、灯油やガソリン、本……同じように振り返ってみると「無くても大丈夫なもの」がいかに多かったのかを震災後にものすごく感じる。

そうして「もっと」を望まずに無くて当然の状態で「無駄を省くこと」をみんなが行った結果、停電はかなり規模が縮小されたし、必要な物は被災地に届きやすくなった。

人びとが「もっと」を望まずあるものに感謝して大切に使う……それだけでちゃんと世の中の流れが自然になり、さらにそこには「ありがとう」と笑顔が生まれている。

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今回、笑顔プロジェクトのメンバーが支援活動で、子ども達がさぞや「もっと」を言うのかと思ったら、それどころかクッキー1枚、本一冊という「今ここにあるもの」をものすごく喜んだ姿を報告している。

たぶんその子達は、あきらめたわけでも我慢しているわけでもないと私は思う。そのクッキー1枚、本一冊を届けようとここまでやって来てくれた人たちの「想い」の温かさを感じ、「物があること」に対しての心からの感謝と喜びで満たされたからなのではないだろうか。だからその「ありがとう」が伝わると、届けた方も嬉しくなって「ありがとう」と笑顔になる。

家族がいること、仕事があること、食べるものがあること……生きていること。
当たり前だと思っていたそれらのことを振り返ったときに「あること」に対しての感謝と喜びの気持ちがわき、そして「ありがとう」と口に出すことで人びとが笑顔になる。

「わたしには何ができる?」そう思ったら、そんな風に感謝を持って「ありがとう」を口にしてみたらどうだろう。もし、それで自分も、それを聞いた人も「笑顔」になったら。それがあなたにできる、あなたにしかできない何よりも大きな事なのではないだろうか。あなたの想いが大きいほど、あなたの笑顔が人にもたらす笑顔も大きく拡がるはず。

それが拡がっていくことで、自分だけでなく周りの人々、そして地域の人たち、被災地の人びと、日本の人たち……さらには世界みんなの幸せへとつながっていくのではないのだろうか。

どんな小さな事でもみんなで積み重ねていけば……それは絶対にできるはずだ。

大げさな物言いかもしれない。
けれど、こうして「笑顔をつなげ、被災地に笑顔を」というところから始まり、被災地の人びとの必死で生きる姿に背中を押された人びとの小さな力がしだいにまとまり確実な力として被災地に届けようとしている、長野県小布施町の小さなお寺中心に拡がりつつある「笑顔プロジェクト」の試みから、そんな事を強く感じた。

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取材後、夕闇に埋もれつつある本堂を背に別れを告げ「本当は私も、行って力になりたかったんですけれど……」と小さくつぶやいた私に、林さんは満面の笑顔と共にこう言った。

「こうして取材に来て、いろいろなことを聞いてその事実を「伝えて」くれる人も必要です。被災地の皆さんの「この事実を記憶から消してしまわないで!」という叫びを届けるためにも……。」

その言葉と林さんの笑顔に、私は「ありがとうございます」と笑顔で返し、家路についた。

〔写真・文 駒村みどり)

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これまでの笑顔プロジェクトの詳しい情報や、これからの活動予定などはこちらから。
「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その4)【’11年5月掲載】

4月27日の訪問は日帰りという強硬日程で、現地での混乱や慌ただしさや困難があった。しかし、実はそこに至るまでの地元の準備段階でも、かなり大きな壁をたくさん乗り越えなくてはならなかったのだ。

「4月27日にうどん1000食を被災地の子どもたちに届けよう!」

笑顔プロジェクトの支援目標が決まった。では次に、支援に向かう先は?

先発隊のメンバーがすでに行ってその情況を目の当たりにしている宮城県へ。でもその先はまったくわからない。どこも大変だろうが、同じようにちゃんと支援が届いているのかと言ったらたぶんそれはないだろう。「学校」で一番支援が届いていないところに行こう。

そう考えて地元のボランティアセンターに問い合わせる。しかし、「学校は後回し、避難所が先」というボランティアセンターは「学校」への分配機能がなかった。その現状を全く把握もしていないので取り次ぎどころか紹介さえもしてくれない。社会福祉協議会や役所、公的機関もおなじ。どこも全く当てにはならなかった。

それなら、とみんなでいろいろな伝手を頼って「地元の人」を探した。地元水産業の平塚さんという方にやっとつながりをつけることができた。その方を通じて「支援が必要な学校」ということでようやくたどり着いたのが「女川第一中学校」だった。

一方うどん1000食を実際に「炊き出しに行く」ために必要な物……現地調達は無理だからすべてをこちらから持って行くことになる。

「ガス」。火をおこし、お湯を沸かし、うどんを茹でるのに必要。
1000食分というと相当なガスが必要になる。けれど、個人で運べるガスの量はたった8キログラム。小グループのキャンプだったらいいけれど、1000食はとても作れない。さらに大量のガスを運ぶにも扱うにも、「危険物取り扱い」の資格を持ったものがいないとダメだ。(実際に、ボランティアで行った人による「ガス事故」や「ボヤ騒ぎ」も報道されていないが多発しているようで地元でも神経をとがらせているそうだ。)

………どうしたらいいのだろう?みんなで必死に考える。

初っ端からの躓きに困惑しながらこちらもメンバーそれぞれの伝手をたどり、Web上でも必死で手立てを探っていたら中野の「北信ガス」という会社が協力を申し出てくれた。ガスの取り扱いの資格を持った人材と運搬車両を貸してくれることになった。

「水」。うどんのつゆなどで必要になるのは600キログラムの水。20リットル入りのポリタンクが30個必要になる。

「地元の給水車を借りられれば……」

そう思って小布施町に掛け合ってみた。だが、給水車は緊急時のもので、たとえ普段使ってはいなくても「もしも」のために地元から離すことが出来ない事になっているとのこと。隣の須坂市でも同じ答えだった。確かに時期が時期だから、地元だっていつ必要になるかわからない。またもやみんなであちこちに投げかけ、問い合わせる。

給水車を貸せない代わりに、とポリタンクを沢山貸してくれた自治体。そしてタンクを持っている……という個人の方の好意。最終的には北信ガスさんが大型の水用タンクを貸してくれることになり、ついに水600キログラムもなんとか持参可能になった。

行き先が決まり、支援物資も整って、材料もそろい、出発までにあと3日……。
そこまで来てアクシデントがまた起きた。

「排水は持ち帰って下さい。」との連絡が入る。

現場の混乱状況や処理雑務の多さを考えれば仕方がないこととはいえ、「排水タンクは充分だから排水の方は持ち帰らなくてもいい」という打合せだったはず。

持って行く水のタンクに排水を入れるわけにはいかず、あわてて処理の仕方を考える。またもやあちこちに投げかけて、直前に慌ただしいながらもようやくドラム缶を用意することができた。

そうして迎えた4月27日。夜中の0時の小雨降り注ぐ寒さの中、総勢24名、車7台のチームが出発。

(写真は公式ページ「笑顔の活動報告」 より転載)

結局現地でも、「避難所以外での調理行為禁止」とか「炊き出しは一品ではなく一食のメニューにしなくてはダメ」だとかいう様々な困難に突き当たって右往左往した。

けれど現地での支援活動に向けて、メンバーや沢山の協力者とそれらの多くの困難や積み上がったがれきの山を一回乗り越えてみて今、林さんはこう語る。

「支援物資を持ってきてくれる人や、車を見送ってくれた人たちはみんな『ありがとう』って言ってくれたのです。」

「何かしたい。自分たちも行って手伝いたい……。」
きっと辛い思いをして居るであろう被災者の方々への思いがあっても何もできない憤りの中にいた人びとが、「支援物資供出」で協力でき、その想いのこもった荷物の載った車を見送って実際に想いが届く状況を見ることが出来た。小さくても自分も力になれた。それが「ありがとう」に込められた想い。

一方で実際に支援活動を行う林さんたちメンバー自身も、最初はまったく何もないところからこんなに沢山の人たちの協力を得、その思いを受けとめて支援活動に向かうことができた。自分たちだけではできなかった。「ありがとう」と心から思う。

被災地ではいつまで続くかわからない深い悲しみや寒さや飢えや不自由さと今も毎日闘っている人びと……支援物資を届け、炊き出しのうどんを食べた人から、「ありがとう」の声を受け取ることができた。

「笑顔でそれぞれの想いや行為に心から『ありがとう』を口にする。みんながね、お互いに『ありがとう』なんですよ。ありがとうでつながっている。」

心からのありがとうという言葉に乗って、笑顔は確実に支援地につながった。
そして支援地でもらったありがとうが、笑顔と共に地元に戻ってきてさらに大きな「ありがとう」と笑顔につながっていく。

災害のあと、「何かをしたい」「何ができる?」と突き上げられる想いのままに、人びとは公的機関の支援物資集めに協力したり、義援金に募金したりした。私も募金箱と見ると手持ちのお金を募金した。

そこにあるのは、人として本当にシンプルな人を想う気持ち。けれど、そのシンプルな気持ちが実際にちゃんとした形で届いているのかどうかはまったくわからないままだ。

実際、自分が今入れたお金は、いったいどこの誰に、いつ役に立ったのだろうか?今現在、寒さや飢えや悲しみで苦しんでいる人たちのために「今すぐ」役に立ちたいのに、何もできない。せめて、と募金してみても、そのお金は「今すぐ」どころか、ちゃんと役に立ったのかどうかすらもわからない。

著名人がチャリティーで大金を寄付し、コンサートを行うニュースが流れる。なのに力のない自分には何もできない。実際に行くことができたら、と焦る。でも、実情はそう簡単にはいかない。……やっぱりもやもやした焦りが残ったままだ。

けれど、この「笑顔プロジェクト」に関われた人たちは自分の想いがちゃんと届き、被災地で受け取った笑顔と「ありがとう」が返ってくることが実感ができた。だからこその心からの「ありがとう」なのだ。人が人を想う気持ちがしっかりつながったときに生まれる、「ありがとう」なのだ。

「笑顔のデリバリー」である笑顔プロジェクトは、こうして沢山の人たちにダイレクトにありがとうをつなげ、笑顔を届けている。ただひたすらに、今辛い状況にある被災地の人びとのために何かがしたい、というその想いの積み重ねに動かされて。

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今月16日。今回縁のできた宮城に、再びメンバーは向かうことになっている。前回の困難を教訓に、今度は公的機関は通さずに行く。お寺や集会所といった私的な場所に避難している人びとに、ダイレクトに笑顔を届けに行く。

こういう「私的避難所」には、避難している人びとがいても毎日の食事も支援物資も届けてもらえない。だから、公的避難所まで取りに行くしかない。

けれど、毎日毎食、避難生活で疲弊した身体で、お年寄りにその生活が可能だろうか?その答えは誰でもすぐにわかるだろう。把握しきれないほど沢山ある、そんな私的な避難所に今度は笑顔を届けに行くのだ。

それから、訪問する学校では「筆あそび出張教室」も予定している。最初はライブをしようかと提案したが、ライブのできる場所の確保が無理だった。「筆遊びをやって下さい!」……学校からそう提案された。筆一本で表現できる自分の気持ち。きっと子ども達の豊かな感性ですばらしい作品が沢山生まれ、避難所生活にも笑顔が広がるに違いない。

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平行して5月29日にむけて「あるイベントの企画」が進行中だ。それによってもっと沢山の人たちに「自分にもできる事」を感じてもらうために……。みんなにありがとうと笑顔の輪が広がるように……。

(その5に続く)

写真・文 駒村みどり

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)【’11年5月掲載】

連日連夜流れる被災地からの目を覆わんばかりの映像。テレビやラジオ、どのチャンネルをまわしてもなすすべもなく流されていく家々や人びとの涙と叫び。そして絶え間なく続く大きな余震の恐怖。停電のため混乱した大都会。

「○○で人が助けを求めています!」

Twitterのタイムラインはそんな救助要請や家族を捜す悲痛な声で満たされ、一方で「何とかして!」「何ができる?」と支援をしたくてもどうして良いかわからずにとまどう声も。

3月11日。

「その日」を境にのどかな日々が一変した。次第に被害の大きさが明らかになるにつれて人々の心にできた大きな傷口からの痛みがそれぞれの人たちの心を重くしていった。やがてこんな呼びかけまでなされる事に。

「ニュース映像を見続ける人にも衝撃によるストレスが影響を及ぼします!テレビを見続けずにスイッチを切って下さい!」

そう。映像が苦しかったらテレビを消せばいい。ラジオを聴きたくなければラジオのスイッチをひねればいい。けれど……

毎日地震のニュースを見ていると具合が悪くなる、ニュースを見るのをやめたという大人がいる。何回も同じCMが流れて抗議をしたという人もいる。子供たちは、このような景色だけを毎日見ている。これが現実なんだと思ったら胸が苦しくなった。

(以下太字は笑顔プロジェクト横川玲子さんの「救援物資運搬・炊き出し」の記述より。)

そこに「現実」として目の前のがれきの山が広がったままの被災地の人びとは毎日その「事実」を突きつけられている。その事実の中に大切なものの命を奪われたものもいる。被災地の人びとは悲劇のスイッチを消すこともかなわないのだ。

そんな被災地に笑顔プロジェクトチームの代表メンバーは飛び込んでいった。

27日0時 天気は雨、すごく寒い。 総勢24名、7台の車が長野を出発する。 これから向かう先も雨が降り、寒いのであろうか。
私は支援物資を載せた車に乗った。支援物資・支援金を提供した人、仕分けや積み込みをした人の 「本当は一緒に行きたいけど、行かれない。どうか届けて欲しい!!」 温かく優しい気持ちがたくさん詰まった車に乗り込んだ。


(中略) 福島近くから高速道路がガタガタと道が悪くなり、車酔いとこれからどんな光景が目に飛び込んでくるのか。 そして、初めてのボランティアで迷惑をかけないか。 不安で胃が痛くなった。

3月11日の被害を受けた人と、そうでない自分たち。その実際もわからないし、何ができるのか、果たして自分たちが力になれるのかもわからない。大きな不安を抱えつつ、メンバーで支え合いながらここまで来た。それでもやっぱり胸が痛くなる。

現地に着いて女川第一中学校で物資を配る。
「クッキーをもらえる」という言葉に想像以上に大きな喜びを見せる子どもたち。

            (被災地に届けた手作りの「笑顔クッキー」)
女の子の3人が私のところに来て、
「私ね、クッキー大好きなの。本当に嬉しい、ありがとう。」
「久しぶりのおやつです。」
「おやつの中でクッキーが一番好き。」
クッキーでこんなに喜んでくれるのかって思った。もっと、あれが欲しかった、これが欲しかったって言われるかと思ったこの子たちの給食はパンと牛乳だけ。

「もっと」という言葉は、どの子からも聞くことがなかった。自分の与えられたものとそれを持ってきてくれた想いに、心から感謝する子どもたち。「もっとわがままになってもいいのに!」と思うけれど……子どもたちの喜ぶ姿に逆に胸がつまりあふれそうになる涙を抑えて笑顔を作るメンバー。

そうかと思えば生きるための「現実」もまた迫ってくる。
炊き出し用の別の会場で、うどんを作りデザート用のゼリーを配りはじめたときのこと。

仕切りのないところでゼリーを配り始めると列を作らず、四方から延びる手。一個ずつ配る私を差し置いて、すべてを持っていこうとする。
それが本能だ。 自分の身を守るための行動だ。 生きていくための手段だ。そう思ったけど、 遠くでこちらを見ている方の姿を見つけ、このままではいけないと思いっきり声を振り絞って 「少しでも多くの人に行き渡るようにご協力ください。」 その言葉で、元に戻してくれる人もいた。

多くを望む気持ちもわかる。生きていこうとする本能と、人としての助け合いと……どちらの立場もわかる。……本音と建て前と云々言っていたら「生きる」ということの前に力尽きるかもしれない。だけど……。

炊き出しをしている私たちを手伝ってくれた、おばさま二人と出会った。「自分たちは、家も仕事も失った。早く仕事をしたい」 そして「あなたたちは、いいわね。帰ったら仕事があるんでしょ?」

帰ったら「もとどおりの日常」が待っている自分たち。一方の目の前にいる人たちは「天災」という敵に傷つけられ突き落とされても、その怒りや悲しみをぶつける場もない。言葉を失う。返す言葉もない。あるのは「普段通りの日常」に感謝する気持ちと、この人たちに精一杯できる事を……の気持ち。

次の避難所に向かう。湊小学校体育館。
体育館の周りには、墓地があった。目に入ってきた光景は……。

墓石の上に車が・・・ 近づくと仏像も倒れ首が取れているものもあった。大人の私でも、恐ろしいものがあった。この墓地の向かいに体育館への入り口があった。

体育館に避難している人びとは、この「恐ろしい」光景を毎日目にして生活しているのだ……。

「欲しいもの」との問いに答える子どもたちの口から出るのは……フラフープ、投げ輪。読み飽きてしまったので違う絵本。……それから、おやつ。

子どもたちの望む物は、つい1ヶ月前までは当たり前のように身のまわりにあったもの。けれど避難所生活ではそれらの物すら手に入らず、まして多くの人が避難しているので体育館といえども走り回ると「走るな!」と注意の声が飛ぶ。
(欲しいというおもちゃが、大きく身体を動かさずに遊べるものだというのもそういう状況を理解して、の事なのだろうか?)

それでも、その状況の中で、「今」を素直にしっかり受けとめて子どもたちは生きている。忘れられない、忘れちゃいけない。

「また、来ます」……目の当たりにした震災の傷跡を受けとめたメンバーの答えが、これだった。

(その4に続く)

*今回の記事に引用させていただきました福島さんの写真と記述の全文は、笑顔プロジェクトHPの「活動報告」の救援物資運搬・炊き出し (2011,4,27) に記載されています。

現地に行ったメンバーの生の声と現地の事実が綴られています。是非全文お読み下さい。

被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その2)【’11年5月掲載】

「地震や津波の事だけだったらまだなんとか自分を保てたのに、原発の恐怖が加わったら自分がどうにかなってしまいそうでどうにもならなかった。」

震災後、小布施町の数人の集まりで小さなお子さんを持つお母さんが、あまりのショックでご主人にしっかりとハグしてもらわないと立ち直れなかったと語った。その声を受けとめた林さんは衝撃を受けた。

「物事の受け止め方にはこんなに人によって差がある。男性と女性でもこんなに認識の仕方が違う。こういう状況ではダメージを受けるのは被災した人たちだけではないのだ。」

被災者への支援は急務だ。しかし、支援する立場にある側も人に支えてもらわなくては苦しくなるほどダメージを受けている。その「支援側のケア」も必要だ……。支援者も元気にならねば、と強く感じた林さんが自分にできる事を考えた時に思い浮かんだことが「字を書くこと」だった。

林さんは浄光寺で「筆遊び教室」を開催している。その文字による表現を学びたいと常にキャンセル待ちが出ているほど林さんが書く文字には伝える「力」があり、それを求める人は多い。

書こうと思った文字は「笑顔」。

笑顔でみんなが元気になるように。何よりも自分がまず「笑顔」になれるように。……そうして書いた「笑顔」の文字がどんどんとその力をいろいろな人たちに繋げていった。

この文字に共感した人が人を呼び、3月19日「日本笑顔プロジェクト」が立ち上がり、浄光寺のHPに公式ページが開設された。同時にFacebookにプロジェクトのページが作られた。でも笑顔プロジェクトのアカウントを取得、Web上で投げられた小さな小石はその波紋をどんどん拡げていった。

東北とほぼ時を同じくして起きた長野県栄村の被災地。今年度で「閉校」が決まっていた栄村東部小学校では卒業式と閉校式が中止になった。林さんは3月24日、代わりに行われた「卒業証書を渡す会」にプロジェクトメンバー3名と参加し、この「笑顔」の文字を1人1人に手渡した。

(写真は公式ブログ「笑顔の活動報告」”栄村へ笑顔を“より転載)

この子どもたちをはじめ、「笑顔」の文字を掲げた人たちのフォトアルバムが公式ページに掲載されている。


文字を持った人々の心からの笑顔。その数は現時点(平成23年5月現在)で405点に達している。

現状の厳しさは、被災地も支援者も形こそ違え決して双方楽観の出来ない状況にある。けれど、この文字を持って微笑む人の笑顔は見るものの心に「希望」の光を含んで鮮やかな輝きとなって伝わってくる。

「400人を超えたし、そろそろいいかな」

元々は「支援者側のメンタルダウン対処」としてこのプロジェクトを立ち上げた林さんはそう思った。けれど、動き出した笑顔のパワーはこれでとどまることはなかったのだ。

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ある時、メンバーの1人が「東北に行きたい」と実際に現地に飛んだ。

宮城県に行ったそのメンバーが戻ってきて語った「宮城の事実」はあまりにも報道やそこから想像されるものとはかけ離れていた。現地は「そろそろいいかな」で終わりにできる状態ではなかった。いや、被災地の悲劇は終息するどころか「まだまだこれから」なのだ……。

「現地に行こう!自分たちでそれを受けとめてこよう!そして現地に笑顔を直接届けよう!」

「現実」を目の当たりにした「笑顔プロジェクト」はこうして新たな展開を迎えた。

その3に続く)

文・駒村みどり 写真提供・笑顔プロジェクト 写真加工・駒村みどり

被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その1) 【’11年5月掲載】

宮城県牡鹿郡女川町、女川第一中学校。
ここでは今、二つの小学校と一つの中学校の生徒400人あまりが集まって勉強している。

昼の「給食」は毎日牛乳一本とパン1個だけ。
(成長期の子どもたちが………だ。)

物資は「避難所」には届くが、「学校」は後回し。炊き出しや支援物資を届けたいとボランティアセンターに問い合わせてみても関連の機関に問い合わせても、どこも取り次いではくれなかった。

せめて、積んでいった230個のりんごを食べてもらいたい……と申し出たら「ごめんなさい、受け取れない」と言われた。

生徒が400人。りんごはその半分の数。
丸ごと1個はわたらないから半分に切って配ればいい……ずっと野菜もくだものも食べていない育ち盛りの子どもたちに食べさせたい……そういう思いからの申し出だったのに、なぜ?

答えは、「りんごを切ることができないから」……だった。

今、「調理行為」が許されているのは「公的に認可された避難所」でのみなのだ。それ以外の場所では、調理……当然炊き出しも含まれる……は、一切認められていない。消毒ができず食中毒の恐れがあるためなのだ。

りんごを切るのには包丁を使う。使った包丁を洗って消毒できる充分な設備がない。だから、りんご1個を半分に切り分ける行為さえも認められない。…..結局、生徒たちにりんごを配ることはかなわなかった。同様に、学校でやろうと考えていた「うどん1000食分の炊き出し」もかなわなかった。

「子どもたちに笑顔を」「子どもたちに食べさせたい」

そういう想いがいくらあっても、その想いが届くにはかなりの困難がある。
それが、報道では「物資もボランティアも足りている」と言われているはずの被災地の現実……。

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3月11日。

東北地方を震源とした群発地震は予想もできない大津波を引き起こし、そして想像もできないほどの多くの命を奪っていった。

その影響の大きさは2ヶ月たとうとする今でも……いや、ここから先なおのことその爪痕をあらわにしてきているが、その一方であの時点でみんなの気持ちが「被災地」に向き、「何かできることは?」という一つにまとまった気持ちは次第に「日常」の中に薄れつつあるのかもしれない、という感じがある。

けれど、今でもまだ被災地では捜索が続き、がれきの山は積み上がったまま。

冒頭に記述したように4月の末現在、いまだに子どもたちにも充分な栄養のある食事が行き渡っていないし入浴もままならない避難所生活の中にある人が大半だ。

(4/27女川第一中学校から見下ろす風景)

さらに、原発の恐怖。

放射能汚染(被曝)の恐怖に加えて風評被害という2次、3次、4次と続く被害、天災のみでなく人的被害までを直接被っている被災地の人びとにとって「これから」はまだまだ見えてこない。

被災地から遠く離れたここ長野県では、同時期に起こった栄村震源地となる地震による被害を受けた人びとも同じように復興の目処も立たずにいるが、それすらも「実態」「事実」はなかなか見えてこないし伝わってこない。

そんな中でも「自分たちにできる事を」と多くの人たちが想い、それぞれの場所、それぞれの立場でできる事を頑張っている人びとの支援活動もたくさんある。

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「笑顔プロジェクト」はWeb上で始まったそんな支援活動の一つ。

長野県小布施町浄光寺。
副住職の林映寿(はやしえいじゅ)さんを中心として始まったこのプロジェクト。林さんがその笑顔プロジェクトの仲間・協力者24名と4月27日訪れた被災地(宮城県石巻)の姿は、報道されているものとは全くかけ離れていました。そこで信じられない状況と現実を目の当たりにしてきたのです。

震災から間もなく2ヶ月を迎えようとする今、笑顔プロジェクトメンバーが現地の人たちから受けとめてきた「これを風化させないで、記憶から消さないで」という訴えを繋げるために、この林さんの活動を中心に見えてくる震災の事実を今日から11日まで5回に分けて記述していこうと思います。(その2に続く)

文・駒村みどり
*使用写真は林さんはじめ24名が4/27に被災地宮城県石巻市に行ったときのものです。
(石巻市での活動報告は→ こちら

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)<’10.2月掲載>

♪パパッパ、パ、パ、パ………(ジャマジャマ)
パパッパ、パ、ジャ、マ………(ジャマジャマジャマジャ)

会場が暗くなったとたんに始まったのは、「お母さんと一緒」でおなじみの「パジャマでおじゃま」のテーマソング。

その音に合わせてステージにでてきたなかがわよしの氏が、突然服を脱ぎ始めた。

………え???
なんだ、なんだ?

シャッターを切る手を思わず止めて、その先何が起こるのかとなかがわ氏の裸体……(結構筋肉質なんですね、写真とっておけば良かったと後悔。)に見入ってしまった。

上着を脱ぎ、おもむろにズボンも脱ぎ始め、ついにパンツだけになったなかがわ氏は、今度は逆に作業着らしき服を着こみ始めた。

そうして、「パ、ジャまたね♪」の音楽の終わりに合わせて(ちょっと間に合わなかったけど)ステージ衣装(?)に着替え終わった。

と、その瞬間に、なかがわ氏の声が静寂を突き破る。

「はだかのぼくを、見て欲しいと思ったから
すべてを脱いで、はだかになりました!」

それは、小さな爆発のように。吹き飛んだ言葉の破片が、体に突き刺さる。
痛い。
だけどそれは、苦痛の痛みではない。
心の奥に縮こまっているかくれんぼしている「自分」の手を引っ張られている痛み。
決して、不快な痛みではない。

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このN-geneで「なかがわよしのの400字」の連載を続けているなかがわよしの氏が主催する、「傘に、ラ」のレポート第2弾です。

第1弾の記事にも書きましたが、「今」という言葉をテーマにして、月に1~2回企画されるイベントです。

前回のレポートでは、この「傘に、ラ」のゲストとして共に「今」を語る企画に参加させていただいたのですが、今回は完全にイベントを観客の1人として受け止める立場で参戦しました。

第2弾で取材したのは、
2010年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」

ゲストにお二人の「詩の朗読パフォーマンス」をされている、GOKU氏、猫道氏を迎えて3人による「詩の朗読会」でした。

なかがわ氏と、GOKU氏、猫道氏とのそれぞれの出会いのきっかけになったのが「詩のボクシング」。

詩のボクシング(しのボクシング)は、ボクシングのリングに見立てた舞台の上で二人の朗読者が自作の詩などを朗読し、どちらの表現がより観客の心に届いたか、その表現力を競うイベント。キャッチコピーは「声と言葉のスポーツ」、「声と言葉の格闘技」。一般参加の大会は、これまでに35都道府県で開催されている。全国大会も年に1度開催される。(wikipediaより)

言葉や声を、生きた力を持つものとし、それを各人の表現によって人に伝える力を競うもの。

最初、これを聞いたときに、「ボクシング」と言うイメージと「詩」というイメージがなかなか結びつきませんでした。

私のイメージで行くと「詩」というのは「詩作にふける文学少女」が秋のセンチメンタルな枯れ葉舞う風景の中で静かに穏やかに読むもの………だったからです。

ところが。

そんなイメージでいたわたしは、のっけからカウンターパンチをくらってしまったわけです。

言葉が、こんな「力」を持って迫ってくるなんて、思いもしていなかったんです。
詩が、こんなに熱いものだなんて、イメージしたこともなかったんです。

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突然、ステージのなかがわ氏は脇に去ったかと思うと「卓上ガスコンロ」を手に再登場。

そして、おもむろに着火……が、なぜか火がつかない。

「着かない!!」
「こんな時に限って、着かない!!」

そういうアクシデントもまた、なかがわ氏の即興詩に読み込まれる題材になる。

「過去」は要らない。時と共に過ぎ去ってしまう「過去」は要らない。
そんなものは、燃やしてしまえ。
(そのためのガスコンロだったけど……火が着かなかった。)

「未来」を見るのは遠すぎる。
だから。だから、「今」なんだ。

彼の中に、脈々と流れ続けるテーマが強烈にうたいあげられる。
「今」という言葉が、彼の中で熟成されて、そうして熱い熱を帯びながら会場に放たれる。

やがて、そのなかがわ氏から発せられた「熱」は、さらに溶岩の固まりとなって次のGOKU氏に受け継がれた。

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GOKU氏。

東信在住の自作詩の詩人。
彼となかがわ氏の出会いは、「オープンマイク」というイベントによるものでした。

OPEN MIC(オープンマイク)と はアメリカやイギリスで一般的な、当日飛び入り参加形式の自由なパフォーマンスステージです。その名の通り、誰にでもオープンなマイクということで、参加自由のイベントです。弾き語り、バンド、詩、マジック、ラップ、コント、ただマイクの前でしゃべるだけ、などどんなパフォーマンスでもOKというものです。

東京などでは結構行われている「オープンマイク」。その長野版を自主的に行っているのがGOKU氏です。(いずれ、このN-gene記事としても取り扱いたいと思っています。)その、彼の主催するオープンマイクに、なかがわ氏が参加したことで二人のつながりが始まりました。

GOKU氏は、先に書いた詩のボクシングの2005年の全国大会では準優勝したという実力者でもあります。

なかがわ氏も、GOKU氏も、お互いに「友だちじゃない」といいます。
多分……友だちというだけじゃもったいない、表現における「ライバル」とか「敵」とかいう類の高め合う仲なのでしょう。

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GOKU氏は自作の詩人。

自らが紡ぎ出した言葉を乗せた詩を、体中使ってステージいっぱいに叫ぶかと思うと次の瞬間に泣き出しそうにささやく。

その緩急ある言葉の放ち方によって、思いが乗った重たい言葉が聞くものの胸にどかんとぶつかってくる。

犬の詩を読んだ。
野良犬の死を詠み込んだ詩を読んだ。

………………………・

~「ノラ犬のカラダ」より一部抜粋~

僕の記憶から、ノラ犬の死体は寂しそうに立ち去り、
僕の記憶には、畑を斜めに歩くノラ犬が棲みつきました。

「土に還りたい」
「空を飛びたい」
「静かに暮らしたい」
それら全ては僕が求めているものなのに
それらをひとつも求めていないであろうノラ犬は
その全てを叶えて
僕の記憶に棲みつきました。

………………………・

野良犬は、今、死によって放置され鎖の束縛から自由になった。
見ている自分は、その自由が欲しいのに、それが手元になく。
野良犬は、その自由を欲してはいなかったかもしれないのに、自由の元にある。

今、欲しいものは手には入らず、必要としていない者にそれが与えられる………。

ずきっと来る。

自作詩人のGOKU氏はまた、最近自費出版で詩集を出した。
この詩集にあるのは、すべて彼の詩ではない。
詩人である自分が「読みたい」と思った詩を集めて綴った小さな詩集。
そのひとつを、今度は切々と読み上げる。

入り口においてあったその詩集は、あっという間に多くの人の手元に旅立っていった。

なかがわ氏に触発されたのか。
GOKU氏も脱ぎ始める。

お色直し後のGOKU氏は、おもむろにスケッチブックを取り出して観客の前に拡げる。「宇宙ガール」というタイトルの詩を朗々と読み、次第に観客を巻き込む。

「ありんこの声で!」「ロケットのスピードで!」「地球の声で!」
彼の指示にしたがって、観客もいろいろな声をイメージしながら共に言葉を発する。

やがて高まった熱が、GOKU氏の中で爆発。
ステージ上を「小宇宙」という言葉を発しながら飛び跳ねる。
飛び散る汗が見えるほどの爆発ぶりだ。

「なかがわさんのパンツ一丁にはかなわないけど。」

そういいながら、3度目のお色直し。

そして、持ち時間の30分の間……
いったいいくつの言葉を発したのだろう?

そのきらめきの余韻をステージにまき散らして、GOKU氏のステージ終了。

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猫道氏。

彼は、「猫道一家」の座頭なのだそうです。

今までは、この「猫道一家」というクルーでお芝居を発表していたそうですが、2008年にお芝居をやめてポエトリーリーディングに転向し、2009年より自ら主催するスポークンワードのイベントを渋谷 道玄坂のBAR SAZANAMIで毎月開催しているそうです。

先にも書いたように、「詩のボクシング」に参戦、そこでなかがわ氏と出会い、どうやらお互いにいいライバル、刺激を与え合う関係がそこで生まれたようです。

かつて、芝居の音響・演出・脚本などを手がけていただけあって、彼のステージの上にはいろいろな道具も並んでいました。
何が出てくるのか???それを見ているだけで期待感が高まりました。


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登場と共に、そこはたちまち、歌舞伎の舞台になった。
大声で名乗りをあげ、見得を切る。

……かと思うと、次の瞬間にはいつの間にか「ラップ」になって言葉がぽんぽんとポップコーンのように飛び跳ねる。

ぐいぐいと、観客をステージの上の「言葉」に引き寄せていく。
その瞬間に、舞台はもう猫道氏の世界。

飛び跳ねる言葉。
飛び跳ねる音。
飛び跳ねる、猫道氏。

それをとらえようと必死にステージに吸い寄せられる観客たち。
その緊張感が高まる中で、次にホールの空間に投げつけられた言葉にはっとする。

………………………・

「素顔」より ~一部抜粋~

一皮剥けたら元には戻せないのは、
あの塩釜の海岸で散々日に焼けた20年前のナツヤスミに戻れないのと同じことで、
変わらないのは蚊取り線香の匂いばかりです。

(中略)

人間椅子になって隠れたりしたい。
タイガーマスクになって悪者をやっつけたりしたい。
途中で我慢できなくなって、タマネギみたく皮を剥いて、
涙目の素顔をさらしたい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
みんな涙目になって皮を剥いたらいい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
「髪の毛切った?」って言われるのは
みんなうれしいと思うから。

………………………・

一皮むけたら、戻れない。
あの夏に戻れないのと同じように。

「素顔」というタイトルのこの詩が、なかがわ氏のかかげるテーマである「今」にだぶった。

そして、それは、今の自分の想いにもどかんと乗っかってきて……胸に堪えた。
胸の奥にたまっていた何かが、堰を切ってあふれ出そうになってあわててこらえた。

緩急織り交ぜたステージ上で。
期待通りに、猫道氏もお色直し。

猫道氏3態。

3枚目、一番右の写真で彼が手にしているのは。
「ネオンホール特製マイク」なんだそうな。

この特製マイクを握って、彼はこうつぶやいた。

「溶け始める時間を、たべる。
おいしいは、のこる。」

3人の熱いステージは、こうして幕を閉じた。
会場のネオンホールの空間に、その空気の中に、いつまでもその熱が漂って。
しばらくの間、冷めることはなかった。

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なかがわ氏の持っているテーマは、「今」なのだけれども。
その「今」の中にはまた、様々な人間模様が織りなされている。

この3人の「今」の中には、「今」に至るまでの「過去」があり、その「過去」を踏み台にした「今」があり、その「今」を積み重ねていくのが「未来」。

この3人の織り交ぜた「今」は、彼らがステージから熱と共に撃ちまくった言葉のマシンガンの目にも止まらぬ弾となって、それに射抜かれた人々の中に何かを残す。
そしてその人たちの中にある「過去」をほじくり返しながらそれぞれの「今」を実感させ、そして「未来」を思うきっかけをくれる。

言葉の持つ力は、なんてすごいのだろう。
そして、それを放つ人の力が加わると、何という破壊力を持つのだろう。

言葉が発せられるのはほんの一瞬なのに、命を得た言葉が、どんな力を持って人に迫るのか。

この2時間強の時間の間に、それを目の前にたたきつけられた気分になった。

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ちなみに、ネオンホールの階段ギャラリーでは、28日までなかがわ氏の展示も行われています。↓

なかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、このあとも続きます。

10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~たかが芝居だ!~」
現代口語劇「餃子の なかみ」赤尾英二、司宏美、田中けいこ
アングラ劇「たかが芝居だ。」(脚本・演出・出演/なかがわよしの)、

10年3月7日(日)「傘に、ラ。 vol.9~たっちゃんと ゆかいな なかまたち~」
客人:田沢明善

10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.10~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」
ゲストライブ
オサカミツオSLOWLIE、なかがわよしの、bubblesweet ほか(50音順)

10年3月21日(日)「傘に、ラ。 vol.11 ~つぶやいて、なんになる~」
@twitter

10年7月3日(土)「傘に、ラ。~今に生まれて今に死ぬ~」
出演:outside yoshino  タテタカコ

(写真、文:駒村みどり)

届け、つながれ。〜大地の鼓動・風の歌〜<’10.2月掲載>

1月末のある晴れた日。
一台の車がある学校にやってきた。

車の中には、たくさんの楽器。
積みおろしを手伝う。

重たい大きな袋には……いっぱいの川原の石。
別の袋には……太い竹筒が何本も。

「それ、重たいでしょう?無理しないでね、千曲川の川原の石だから。」

そう言って笑うのは、東信地区を中心に活動を続ける音楽家のオギタカさん。
日に焼けたその顔に浮かぶ柔らかな笑顔から、大地の香りがした。

わたしはこの日、彼の音楽活動のひとつである、ある学校での「音あそび教室」にご一緒させてもらった。

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ここで、簡単にオギタカさんのプロフィールをご紹介します。

オギタカ

作曲家。シンガーソングライター(ボーカル・ピアノ・ギター・ジャンベ・バラフォン・スティールパンなど)
映画音楽、舞台音楽、プレステーション等のゲーム音楽、TVやイベントのBGM等の幅広いジャンルの作曲を手がけている。

1966年長野県小諸市生まれ
中学時代、ブリティシュサウンドにはまりバンドを始める。
高校卒業後上京、ソロ活動や作曲の仕事をしながら世界各地の民族音楽にのめり込んで行く。
2000年拠点を小諸に移し、風土に根ざした曲や詩の制作を始める。
2003年よりモンゴルより伝わった地元民謡「正調小室節」を歌い始め、現在準師範。
2004年「音あそびの会」を発足。
現在、「ライブ」と「音あそび」の2本柱により長野各地で活動中。

(音あそびの会HP、オギタカプロフィールより)

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「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」

オギタカさんがこの日、持っていた絵本「アフリカの音」の中の一節。

彼は、「音あそびの会」にいつもこの本を持っていくのです。
音あそびの会の中で、読み聞かせをすることもあります。

彼がなぜ、この本を持って歩いているのか、読み聞かせするのか……。
この本の中に彼が人々に音楽を通して伝えたい想いが詰まっているからかもしれません。

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「アフリカの音」はアフリカ人の思想(命や精神が循環していくことの大切さ)を音楽や祭りを通して表現している本だと思います。

「すべてが循環していくことの大切さ」・・・ここはキーポイントかな?

「アフリカの音」に「命のつらなり ありがとう」みたいのがあったと思うけど・・・
命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくると思うのです。

現代の日本社会が忘れてしまったこと・・・・
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。

それが希薄になって来ている現代は孤独な人や独善的な人が増えているように思えます。

みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたらもっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません。

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オギタカさんに、ご自分のもろもろの活動にむける想いをお聞きしたら、こういう答えが返ってきました。

一昨年、あるイベントをきっかけにオギタカさんと出会いました。
そして、オギタカさんの音を聴きました。

初めていったライブは室内のものでしたが、その次に聴いた音は飯綱高原の大座法師池の上に設置されたステージでのもの。

どちらのライブも素晴らしかったのですが、オギタカさんの音楽に対して持っている想い、人に伝えようとしている鼓動、それが、この野外ステージでのライブでびりびりと伝わり、飯綱の森の中に染みこんでいったその感覚が忘れられなかったのです。

アフリカの楽器を中心にして彼が放つ音は、まるで大地の鼓動や風の歌のように聞こえ、木々のゆらぎや水のさざめきがそれを彩っていました。
次第に暮れていく周りの景色全体が音楽の中にとけ込んでいく感じ。
自分もまた、その景色の中に組み込まれて一体化していく不思議な感覚がそこにありました。

アフリカの人々は、楽器を使って会話をします。
祭の中に、神への感謝、生きることの喜びを歌い上げるときにも、楽器をかき鳴らします。
音楽とは、単なる表現ではない。命の叫びです。歓喜の声です。

オギタカさんは、自分の音楽活動を通して、こういうものを人々に伝え、届け、感じてもらう活動をしているのだ……と、私はそう感じました。

そんなオギタカさんの音楽活動を、ここから少し追いかけてみたいと思います。

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オギタカさんの想いは、さらにこう続きます。

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音あそびは「ひと時の夢」なのだと思います。
でも参加者がその中で何か感じ取って、それが心のどこかにすこしでも残ってくれれば嬉しいです。
もちろん義務でやっているわけではないので一番楽しんでるのは僕自身なんですけねどね(笑)

ライブに関しては好き勝手にやってるだけです。
自己表現としてあまり色んな観念に縛られたくないと言うが本当のところです。
でも音あそびから得たグッドバイブレーションが自然にライブに反映されることは望みです。

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オギタカさんのライブは確かに、とても自由な感じです。
音楽の時間の勉強のように、音符や拍子にはずれないようにと頑張る感じではなくて。
そういうものにとらわれない、自分の中にある気持ちや心の動きをそのまま音にのせてお客さんに投げかける。

だから、それを受け止めるお客さんたちも、だんだん自分の中にある想いを手拍子や足拍子で一緒に表現し……時には踊り出す人もいて、にぎやかにみんなで音を共有する。

オギタカさんを中心に、「音」がさざ波となって会場全体にひろがっていく、そんな感じなのです。

そして、この日の音あそびでも……そんな様子があちこちに見られました。

まずは、ジャンベで「リズムでの会話」を楽しみます。
ジャンベというのはアフリカの太鼓。
この楽器の音の出し方、どんなふうに何を表現するのに使われるのか。
そんな簡単な説明のあとでみんなが一斉にたたきます。

最初はしかめっ面で、遠慮がちにたたいていた生徒の顔が……どんどん生き生きとしてくる。
「これでいいのかなぁ?」と困ったような顔が、リズムに集中しているうちに次第に和らいで、ほころんでくる。

二つのリズムの掛け合わせで、相手のリズムに答え、合わせてたたいているうちに、ほおが上気して、眼がキラキラして。

「楽しい!!」という感じが教室に満ちあふれてくる。

硬かった体の動きも、だんだんリズムに乗って軽やかになり。
部屋の中は、飛び跳ねる音でいっぱいになります。

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オギタカさんが手に持っているのは……冒頭に書いた「千曲川の川原の石」。
オギタカさんにかかるとこれだって立派な「楽器」になるのです。

両手に持ってたたき合わせると鳴る音。
細かいリズム、ゆったりしたリズム。
こすり合わせてでるかすかな音、投げて床に落ちる音。
みんなそれも「音」………「音楽」なのです。

たたき方。
頭の上でたたいたり、背中に手を回してたたいたり。
それを見てみんな笑顔で真似をします。
あいさつがわりに隣の人と、軽く合わせて出す「コン」という音も。
みんな人と人とをつなぐ音です。

音の輪が、どんどん広がっていくのです。

木琴のような楽器は、あとでご紹介しますが「バラフォン」です。
まるで瞑想の世界に誘うような音がでます。

たくさん転がっている千曲川の石。
さっきまで、みんなしっかり握りしめて、いろいろな音を奏でていました。

そしてバラフォンと石の間にあるのは竹筒。
これもまた……ほんとにステキな楽器に変わります。

一人一本ずつ竹の筒を持って。
そうして何人かのグループになって、順番にならしていきます。
不思議な音のつながりが輪になって、あちこちのグループから聞こえてきます。

自分の順番をはずさないように。
強く、弱く。
いろんな表情でならします。

途切れることのない音の輪は、まるで音にのせた気持ちのリレーのようです。
みんなでグループの他の人の出す音を聴きながら、自分の音の順番を待ち、そうしてその「和」を崩さないように上手く次につなげる音を出すのです。

たまに失敗して笑い声が起こるのも、ご愛敬。
それもまた、他のグループの竹のメロディーに組み込まれて新しいハーモニーが生まれます。

そうして最初は緊張の中に始まった「音あそび」は、部屋いっぱいの笑顔があふれる中、オギタカさんからのプレゼントで終わるのです。

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オギタカさんのミニライブ。

しっとりした曲、手拍子しながらのノリノリの曲。
音楽を最後にみんなに贈って、この日の「音あそび」のプログラムは終わり。

でも………
プログラムが終わった後も、片付けまでまだまだ音あそびは続くのです。

音と笑顔でつながった生徒さんたちは………
片付けを待つバラフォンのバチを手にとって「これ、鳴らしてみてもいいですか?」と奏で始めました。

自由にいろいろな音を鳴らしながら。
友だちと向かい合って。

「気持ちいい~~~~。」
「楽しい~~~~~。」

この日、シメの笑顔とやさしいバラフォンの音色で音あそびが終了しました。

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オギタカさんの音でつながる活動は、このあともまだまだ続きます。

障害を持つ子供たちとつながったり、いろんなジャンルのピアニストとつながったり、
本当にいろいろな人々と、音でつながっていくのです。

そんなオギタカさんの活動を、この先ももうちょっと追いかけてみようと思います。

<「音あそびの会」HP> http://oto-asobi.main.jp/

<今後の活動予定>

2月28日(日)ピアノ・ア・ラ・モード  ~5人のピアニストによるジャンルMIXライブ~
会場:佐久市なんだ館(0267-88-5010)

4月24日(土)アースデイin佐久
会場:佐久ミレニアムパーク(佐久平駅蓼科口西)

(文・写真 駒村みどり)

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