伝える者と受け継ぐ者と~中沢小の炭焼き行事【’11年5月掲載記事】
「別に楽しみじゃないよ。大変だし。だけど嫌いじゃないし、無くなるときっと寂しいと思う。」
そう答えてくれたのは、6年生の男の子。
「う~ん、そう、大変。楽しいってわけじゃない。」
列の先頭で下級生の班長として並んでいた女の子もこう答える。
ここは、駒ヶ根市立中沢小学校。5月16日、朝から全校が校庭の隅に作られた立派な炭焼き窯のまわりに集まって、年間の恒例行事となっている「炭焼き」に取り組んでいた。作業中結構楽しそうに見えたので、「炭焼きの行事、楽しみだった?」と発したその問いに対しての子ども達の答えは「楽しみじゃない」だった。普通「楽しい!」という答えを期待する。だけど、どの子も取材むけに理想の答えをしてくれない。何でだろう?
その答えは、取材を進めていくうちに見つかってきた……。
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「いやぁ、来たかね。来るかどうか心配してたんだよ。」
そう言って、子ども達の炭焼きの指示を出しながらこちらに笑顔を向けてくれたのは、4月に「平成の花咲おじいさん」の記事に登場した宮下秀春さん。そこでも紹介した宮下さんの多彩な顔の一つに「炭焼き指導員」があります。朝から全校の炭焼きの指導にあたっているのです。
駒ヶ根市中沢地区は、かつてはナラの木に覆われた山あいの村でした。この中沢地区を支えていたのが養蚕と林業。その地区にある130年の歴史を持つ中沢小学校の校歌(大正5年制定)にも「かまどのけぶり豊かにて」と歌われているように特に林業で古くから炭焼きの技術が発達し、かつて炭が熱源として大いに活用されていた時代に良質の炭を産出し、地元を潤していました。
「車も炭で走っていたんだよ。木炭自動車って言ってね、炭を細かくしたものを使ったんだ。」
「だけど炭が使われなくなって、炭焼きのものがどんどんいなくなって。炭の材料になるナラの木も植林でどんどん杉の林に取って代わって、今では手に入りにくくなったよ。」
そう言いながら宮下さんが見回すまわりの山々一帯は「常緑樹」を植林され黒に近い緑色をしていました。けれど分杭峠に続く奥の方を見ると遠くの山肌には新緑のみずみずしい若葉色が……。「私にはよくわからないんですが、たぶん向こうのいろいろな緑のある方が元々のこの地区の森の様子だったんでしょうね。」と、橋枝教頭先生が教えてくださいました。
「特色ある学校を作りたいのだけれど、炭焼きを子ども達に教えてくれませんか。」
平成3年3月、炭焼きの煙や炭焼き窯が地域から次第に姿を消す中、炭焼きを続けていた宮下さんのもとに当時の中沢小学校のPTA会長さんがやって来たそうです。その声をきっかけにして平成4年に体育館の裏手に炭焼き窯を作り、毎年子ども達が炭焼きに取り組むようになりました。
平成17年には宮下さんの指導とPTAの皆さんの作業によって新たに「これはあと、30年は使えるよ」と宮下さんの保証付きの大きく立派な炭焼き窯が誕生。そうして積み重ねてきた中沢小学校の炭焼きの歴史は、今年でなんと19年になるのです。
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「はい、重たいからね!気をつけて持ってね!」
炭焼きはまず、炭になる材料のナラの薪を窯にまんべんなく詰め込むところから始まります。
見るからにずっしりとした大きな薪。それを縦割りのグループで運びます。
中沢小学校に通うのは1年から6年までの約120名(各学年20名前後の単級)と、伊那養護学校の分教室のおともだち。その子ども達がみんな混ざった縦割り班で行動します。ですから薪運びも小さな薪は1人ずつ、大きな薪は大きな子と小さな子が組になり、お互いの力加減を工夫しながら協力しての作業。みんなが一緒になって窯に隙間なく薪を詰めていきます。
やがて、全校の協力で薪がすべて詰め込まれると、今度は入り口にみんなでレンガを運んで積み上げ、さらに土を詰め順番に木で押さえて厳重に密閉して準備が完了。今度は「火付け係」の6年生が2人、竈の方から火をつけます。火が勢いよく燃えはじめると全校からわぁっと歓声が上がり、思わず拍手をする子どももいます。
勢いよくもうもうと黒い煙が立ちこめあたりは煙で霞む中、この日の全校の生徒の仕事はここまでで、みんなは宮下さんにお礼をいって教室に戻っていきました。
けれど、宮下さんと学校の職員はまだその場に残って「ここから」の打合せ。いい炭に焼き上げるためにはここからの温度管理や観察が大切。宮下さんの指示と説明を先生方が真剣な表情で受けとめていたのが印象的でした。
「炭が焼き上がるのはいつですか?」そう宮下さんにお聞きすると、「いやぁ、いつとは言えないよ」との答え。
ここからの気温、天気、火の燃え方。そういういろいろな状態をずっと観察し続けて、最後は「今だ」という状態を見極めるのは長年の経験と感覚なのだそうです。およそこのくらい、とは予想はしても予想通りに行くとは限らない。だから、この先一週間ほどは毎日何回もここにやってきて様子を見て、「窯と相談しながら」焼き上がりを決めるとのこと。窯の入口は厳重に密閉されて中は見えません。見えない中の様子を様々な状況から予測して判断するしかないのです。
「煙が出なくなったら炭化終了だけどね、火を止めるタイミングが難しいんだよ。ここで焦ってのぞいちゃったりしてちょっかい出すといい炭ができないんだ。」
宮下さんが眼を細めながら話すその言葉を聞いて、炭焼きと人を育てることとはなんだかちょっと似ているかもしれないなぁ……と感じました。
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生徒たちの作業の合間に、長嶋校長先生が「炭の展示コーナー」を案内して下さいました。
このコーナーは児童玄関を入った正面の壁の真ん中にあります。学校に来てまず最初に目に入るところにきれいに展示された炭焼きの活動の様子と、できた炭で作られた製品。いかにこの学校で「炭焼き活動」が大切にされ、学校の中に位置付いているかが感じられます。
中沢小学校では、一年生から六年生までが全校で取り組む活動の他に、この「炭焼き」を柱に据えた学年ごとの活動もしています。出来上がった炭を使ってバーベキューをしたり、炭を販売して収益で本を購入したり。窯を使う炭焼きの他に、ドラム缶やオイル缶を使った炭焼きもします。
炭に使うナラの木は、ここ数年はここから分杭峠につながる道の途中にある「大曽倉の市有林」から切りだしたナラの木を使っています。切り出しでは毎年6年生も作業の手伝いをします。「倒れるぞ!」という呼びかけと共に大きな木がどさっと切り倒される様を、6年生は皆で見るのです。その切り倒された木が薪になって炭になる。こうして炭ができるその行程のすべてと、その炭の活用まで含めて6年生までのうちに子ども達は皆経験するのです。
「子ども達は、毎年やっているので中には煙の匂いとか加減で火の様子などを感じとる子ども達も出てきているんですよ。」
作業中の何人かの先生方の言葉にもあるように、子ども達はただ炭を柱にした活動をこなすだけではなく、宮下さんの炭焼き職人としての熟練した感覚までも受け継いできているのかもしれません。それはとても貴重なもの。マニュアルに書けるものではなく、マニュアルを読んでわかるものでもありません。長い年月経験を積まなければ生まれない貴重な技なのです。
「……ですけれど……。」
来年、20年目の節目をきっかけに、宮下さんは炭焼き指導から引退することになっているそうです。中沢の里で唯一炭焼きの技術を今につないでいる宮下さんの引退は中沢小学校にとって大きな転換でしょう。後継者のいない炭焼き窯の火をどう受け継いでいくのか……。
実は、今回の炭焼きに宮下さんの横でずっと一緒に作業をしていた方がいます。中沢地区で喫茶店を経営している岡庭さんです。宮下さんの後継者としてこの炭焼きの指導に当たることになっているとのこと。岡庭さんご自身は炭焼きの経験は無いけれど子供のころにおじいさんが炭焼きをしているのを見て育っていて、宮下さんから話があったときに「炭焼きの活動を絶やしたくない」とあとを引き受ける決意をされたそうです。
どうやら中沢の炭焼きの煙は、「30年は大丈夫」な炭焼き窯と共にまだまだ受け継がれていくことになるようです。
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「面白くはないけど、でもつまらなくはないよ。」
「別に楽しみじゃない」と答えたあとで、ふみきくんはこう言葉を続けました。彼は窯に火を入れた「火つけ係」2人のうちの1人です。
「火をつけるのは怖くない?マッチするのも大丈夫?」ときくと「1年の頃から炭でバーベキューやってたりしたから別に大丈夫。」と答えてくれました。
今は、ボタン一つ押せばすぐに火がつく時代。学校の理科や家庭科の時間、またキャンプの飯盒炊さんの時などにマッチをすれない子ども達が当たり前になってきています。けれど中沢小の子ども達は一年生から炭焼きとそれを柱にした活動をしてくる中で、ちゃんと火のつけ方も扱い方も身につけているのです。
この記事の冒頭に書いたように、「楽しみじゃない」「面白くない」という言葉を最初は意外に思った私でしたが、しかしそれはどうやら「炭焼きの否定」の意味ではなかったのです。
この学校の子ども達にとっては、炭焼きは「行事」じゃない、「日常生活」なんだ、ということ。炭と、炭焼きを柱にして人がちゃんとそこに生活を成り立たせているのです。日常と切り離された遠足や運動会のように、年に一度のお楽しみとして指折り数える行事ではなく、自分たちの生活を成り立たせる一場面。だから面白くはないけどつまらなくもなく、楽しみではないけどなくなると寂しい………。
竈から上がる煙と燃えさかる火を見守る人たちの想いや、木を切り倒す音、薪の匂い、炭の感触などとともに、それは子ども達の生活の場面として染みこんでいるのだろうとおもいました。
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「炭をもっと見直して山も元気にしなくてはね。」
一旦家に戻ってまた来るから、と別れを告げる宮下さんがつぶやいた言葉です。
長野県はかつて豊かな山と共にあり、山の幸を得て人びとは生活していました。林業で山を整え、炭を焼き、エネルギー資源として大きな需要を持っていた炭で潤っていた時代。しかし石油に頼るようになって炭は廃れ、山は荒れ、手を入れる者が減り、ナラの木の森は植林によって次第に針葉樹林に変化していきました。今は炭の材料になるナラの木を手に入れるのもなかなか思うにまかせません。
一度使わなくなった炭焼き窯は、復活させるのにはものすごく大変なのだそうです。それは炭焼きの技術も同じ。木も、山も。そして人も……みんな同じ事が言えるのではないでしょうか。
炭焼きの技術とそれを伝える者があり、それを受け継ごうとする者がいて。そこにある人の想いを感じとって受け止める子ども達がいて。そうしてこの中沢小学校の炭焼き窯はこれからも毎年こうしてもくもくと元気な煙を吐いて炭を焼き上げ続ける。
沢山の人たちに見守られながら行われる炭焼きは、同時にこの中沢地区に学ぶ子ども達の心もまた豊かに育んでいるのだ……ということを強く感じた一日でした。
駒ヶ根市立中沢小学校
〒399-4231 長野県駒ヶ根市中沢4036
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