3-5心・表情を「イメージ」でつなげて輝かせる。

風子2

Photo : Midori Komamura

けれど、彼女は気が付いたのです。
「死んでも、自分は障害者のまま。死んでも何も変わらない。だったら生きたい……。」

そうして彼女は、その足にペンを持ちました。……詩を書きました。
その足に、絵筆を握りました。……たくさんの「絵」や「絵足紙」が生まれました。
その足で、キーを叩きました。……キーボードからたくさんの音を奏でました。

そして、その中で……自らの「人とは違う」=「障害のある」身体さえも、胸を張って受けとめ、人の前にでて講演をし、その想いや願いや感覚を人に伝える活動に取り組みはじめたのです。

冒頭に描いたように、彼女の言葉はとても聞き取りにくいものです。自分の思惑とは逆に、「話をしよう」と思うと脳から余計な緊張の「命令波」が出て、体中が硬直してしまうからです。

それ以上に、ひとめ見た時に明らかに異なった外見は、時に好奇の目を誘います。

けれど、たとえば学校の講演で……「何でそんなヘンな格好なの?」という子どもたちの素朴な質問を、彼女は押しとどめようとはしません。

「普通の」「常識ある」大人は、顔色を変えてその言葉を止めて隠そうとする中で、「そうでしょ、おかしいでしょ?」と彼女は笑顔で答えるのです。

「見た目がおかしい」「自分たちとは違う」……そう素直に感じた子どもが発する言葉を、「止めなさい」と押しとどめること自体がすでに、「そう言うことは思っても言ってはいけない」という常識の中で、「障害に対して興味を持つことはいけないこと」というマイナスのイメージを植え付けてしまっていることにそういう大人たちは気が付いていないのです。

むしろ、風子さんのように、「おかしいものはおかしいよね」と認め、だけどそこには「こういう理由があって、こういう苦労があって、だけどこんな風にがんばっているんだよ」という赤裸々な事実を正直に、ストレートに、伝えてあげる。

そうすることで「おかしい、なぜ違うの?」というイメージを「違うことの理由や違うことで発生する事実」を認識して正しいイメージにつなげていく事の出来る人を創り出すことが出来るのです。

風子さんは、自分の姿を人前に出すことを厭いません。その胸を張った姿に、「障害」という言葉を「差別」の線ひきで使うことの愚かさを、人は言葉よりも文章よりもダイレクトに心で受けとめて理解することが出来るのです。

それによって「人は違って当たり前」というほんとうに「当然のイメージ」を人は再確認することができるのです。

彼女の様々なものを生み出すその足のつま先に小さな火のようにともったようも輝く赤いペディキュアと、それから文字通り彼女を支え続けて来た手入れされた美しい足の動き。

誰よりも輝いて自分を生きている風子さん。その笑顔の前には「障害」とか「人と違う」などという「区別」の意味のなさを実感するのです。

風子さんが笑うと、周りの人も心から笑う。
その笑顔の連鎖を生み出すイメージは、彼女が様々なものを乗り越えたその上に成り立つところから来ています。

常識とか、正しいこととか、そんな事はどうでもいい。

自分が自分であり、自分が自分として与えられたものの中で必死で生きている。
その「事実」は、何よりも生きることについて強く明るく希望のあるイメージ。

……それが、彼女の笑顔のもたらしてくれるものなのです。

詳細N-gene記事:
心は体には囚われない〜風子、その1〜
心は体には囚われない〜風子、その2〜

(3) 「イメージ」がつま先からほとばしる 風子の絵足紙&トーク

ライブのステージの上で、彼女はものすごく汗をかく。
汗をかくと、ひょいと近くに置いてあるタオルを足でつまみ上げ身体をぐっと折り曲げて額の汗をふく。

そうしてまた背筋を伸ばすと、屈託のない笑顔でお客さんに話しかける。その笑顔……周りの人間も思わず巻き込まれてしまうその笑い声は、時に豪快ですらある。

「彼女」の名は、風子。

彼女は足でつまんだタオルを横に置くと、「それじゃ、次はこの曲ね。」そういってキーボードを足で奏ではじめる。

残念ながら、ちょっと慣れないと彼女の言葉はとても聞き取りにくい。だけど、周りの人間はそんな事は気にしていない。言葉は聞き取りにくくても、ちゃんと「通じて」いることが人びとの表情からは見て取れる。

風子さんは、その足でまた絵を描き、詩を紡ぐ。時に編み物もし、クッキーも焼く。
彼女の両手は、ほとんど動かない。「小児マヒ」……幼い頃発熱した。高熱が続き、その熱が下がったときに、彼女の身体は自分の想うようには動かなくなっていた。

この第三章の2節に記述したように、今までは「はみ出した」人たちを主に取り上げてきました。けれど、この第三章の終わりに取り上げる風子さんは、「有無を言わさずはみ出させられた」人です。つまり、自分の意志ではみ出したわけではなく、偶発的に与えられた状況からそこに追いやられた人、です。

一般的に「障害者」といわれる人たちは、その「障害」が先天性であろうが後発的なものであろうが、「普通の人とは違う」という観点から「区別」されます。そしてその「区別」のための線ひきは、そのまま「差別」の目印として機能します。

私たちは自分のことを「普通」に思いたい。だから、自分とは違うという「区別する存在」を見つけることで、自分は普通なんだ……という安心感の中に浸りたい。そこに生まれるのが「差別」という認識なのだと思います。

そして、その区別された人びとは、相手の安心感のために自分の存在を時に否定され、正しい認識の無いままに傷つけられて多くのものは「世の中」と離れたところで生きるしか無くなるのです。

けれど、風子さんは、その「障害」という区別の中に置かれ、「出来ない人」という認識に子供のころから追いつめられて来たけれど、そこに留まっていることはなかったのです。

きっかけは、好奇心を満たそうとする欲求。
小さな子どもが自分の手を使っていたずらも出来ない事でつのるイライラが、自分の「可能性」を開くきっかけになったのです。手が出ないから足を使った。自分の想いが、それでかなった……。

「足が使える」「手よりも思うように動かせる」

そう思って、手の代わりに足を使った。たったそれだけのことなのです。だけどそれは、「手を使うのが当たり前」の世の中で、「足は地面に触れるから汚い」という常識の中で、「肯定」されることは難しいことでした。

外に出ることが怖いと想い、ひとの言葉がまるで機関銃やマシンガンのように心を射貫く。自分が生まれてきたことの意味さえもわからない。

「死」をいう言葉も何回も頭をよぎる……。

(その2に続く)

風子1

Photo : Midori Komamura

時にはオギタカさんの朗読を聞くときもあります。

「大地のめぐみに ありがとう」「いのちのつらなりに ありがとう」「環になって 和になって おどろう」……「アフリカの音」という絵本です。

この本が与えてくれるイメージ。それは「すべてが循環していくことの大切さ」。

音あそびの会に持って行くこの本。会場の人たちは目をつぶって朗読をじっと聞き、受けとめます。時によっては様々な楽器の音がそこに「色」を添えることがあります。

そうして鮮やかに彩られた循環のイメージは、その場にいる人たち1人1人の中で、自分の周りにいる人たち、家族、友人、そういう人たちとのつながりだけでなく、大地、自然、地球とのつながりのイメージにまで拡がっていくのです。

「命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくる。
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。


 それが希薄になって来ている現代。 みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたら、もっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません……。 」

オギタカさんはこの想いを持ちながら様々な人たちと、様々な音を重ね、つながっていく……それがこの「音あそびの会」。そこには、大人とか子どもとか、男とか女とか、教える方と教えられる者とか、音楽の上手い下手とか、障害のあるなしなんてまったく関係のない世界が拡がります。

それは音楽活動を続ける中で様々な人たちとの出会いや、アスペルガー症候群といういわゆる「障害児」とされるお子さんとの毎日から受け取ってきた豊かなものたちが集結した、オギタカさんの一つの「実り」の形でもあります。

こうして、様々な場所で、様々な形で「命」や「大地の鼓動」と言ったイメージが音に乗って拡がっていき、そこにいる人たちとつながることで生まれる彩りをさらに重ねながら、オギタカさんと人たちとの間でどんどん循環し、さらにあたらしい生き生きとしたイメージを生みだしていくのです。

まるで人を創る細胞が細胞分裂してあたらしい細胞に生まれ変わっていくように……。

もしも、このイメージによってつながりあった人びとでこの社会や地球が満たされていったら……この世界はそれは色鮮やかで豊かな、人と人とが優しく寄り添いあえる世の中になって行くに違いありません。

N-gene詳細記事:
届け、つながれ。〜大地の鼓動・風の歌〜

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」がつなげる大地のパワー オギタカ・音あそびの会

「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」

音ひとつないしーんとした静寂の中で、ちょっと低くやわらかい声が言葉を紡ぐ。彼を取り囲むたくさんの視線は、真剣にその声の主を射貫く。さっきまで笑顔と様々な打楽器の音であふれた教室と同じものとはとても思えない。だけど、そのどちらもが人の持っている本質の表出なのだろうと思う。

声の主は、オギタカさん。彼は作曲家として数々のゲーム音楽を手がける一方で、シンガーソングライターとしても精力的なライブ活動を続けています。

そのライブで彼が奏でるのはピアノと、「ジャンベ」や「バラフォン」といったアフリカの楽器です。

オギタカさんはライブの時に首に提げたジャンベをたたきながら楽しそうに歌うので、お客さんもいつの間にかいっしょに歌い踊っている……自然とからだが動き、リズムの波に揺られてあふれる音に身体をゆだね、その場が一つの大きな輪に包まれる……そんな感じなのです。

アフリカでは、ジャンベやバラフォンのような楽器は「会話」のために使われているそうです。その音を聞いていると、リズムと音の強弱と、さらに高低と……様々な要素が絡み合って、人の叫びやささやき……魂の鼓動に聞こえてくるから不思議です。

もともと、音楽というものは人がその想いやイメージを人に伝えるために生まれてきたもの。そういう意味でアフリカの楽器たちはシンプルに、ストレートにその楽器本来の意味や命を果たしているのかもしれません。

それを強く感じることが出来るのが、オギタカさんがもう一つ想いを注いでいる「音あそびの会」です。

何回か、オギタカさんの「音あそびの会」に同席させてもらいました。

どの場面でも、最初その場にいる人たち(子どもだったり、大人だったり様々です)は、物珍しい楽器と「音楽」を目の前にかなり緊張の面持ちで始まりますが、オギタカさんに導かれながらジャンベに触れ、たたき、その音の「表情」を感じ始めるとまるで子どものような無邪気な笑顔が拡がりはじめます。

アフリカの楽器に限らず、オギタカさんは川原の石や竹筒まで、みんな楽器にしてしまいます。オギタカさんのリードでそれらを使って周りの人たちと音による「会話」を楽しみます。上手い、下手なんかなく、とにかく表現して伝える。その表現がたくさんの人に「伝わる」と、笑顔や感動の輪が拡がっていくのです。

そこにいる人たちは、自分の表現を伝えようと気持ちを注ぎます。だから、聞く方も全身を耳にして受けとめます。音を奏でる手先に注目し、その音を一つも逃さないように身を乗り出します。すると、発する方はさらに心を込めて奏でます。そこにはちゃんと音を通じた「コミュニケーション」が成り立っているのです。

(2に続く)

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

次から次へとステージでマイクの前で展開されるパフォーマンス。

どの人も、自分なりの気持ちや想いを、自分なりの表現を持って、自由にマイクの前で放ちます。それを受けとめる人たちは、そこに展開する様々な情景や言葉やイメージの中に遊び、それを感じて楽しんだり拡げたり味わったり。それもまた、聞く方の自由です。

そして、聞いているうちに何かが生まれたら、その人もまた、マイクの前に立ってそれを放つ。

……そんな「イメージの連鎖」がこの会場では行われているのです。

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「言葉ってもっと優しかったはずだと思うんです。そもそもは、コミュニケーションのツールであって、人と繋がるための道具なわけですからね。でも現代ってそれが忘れられているような気がします。

世界が言葉によって、否定されていく。 人が言葉によって千切れていく。 絆を断ち切るために用いられる言葉。……そういうマイナスの使われ方が多いような気がします。


たぶん言葉は泣いてるんじゃないかな。 だから、言葉っていいね。 ってことを伝えられる場になればいいんじゃないかな。 」

そう、GOKUさんは語ってくれました。

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言葉は、人とつながるためのもの。そのために命を持って生まれてきた。

そのイメージのもとに展開されるオープンマイクに集まってくる人たちは、2時間ほどの時間の中でその命を感じ、受けとめて、それぞれの場所でまた自分のイメージをそこに乗せて放つのです。

優しく温もりのある言葉が、こうしていろいろな場所で放たれて、それが拡がっていったのなら。人の心を伝えるという、本来の命を持った言葉がこの世界にどんどん拡がっていったら。

……世界は、もっともっと優しく体温を持ったものになって行くに違いありません。

N−gene関連記事:
「ことだま」が飛び交うところ~オープンマイクatネオンホール
言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」は長野市ネオンホールにて毎月開催中。
(日程はネオンホールHP参照)

オープンマイク名なしのゼロ

Photo : Midori Komamura

(1) 「イメージ」で言葉は生きて動き出す GOKUのオープンマイク

「今日、ステージでやってくれる人?」

開始早々マイクの前で問いかけがある。その声に応じて数名の手が上がる。
手を挙げたものは一人、二人とマイクの前に立っていくけれど、その手は時間と共に減るどころか増えていく。

ルールは簡単。

持ち時間は一人5分。5分でまだ途中の時は、その先4分59秒まで延長が可能。マイクの前に立った人は、そこで何をするのも自由。もちろん、会場にいる人間にも参加の強制はしない。やりたい人はやる。聞きたい人は聞く。

そのルールに従って、あるものは朗読し、あるものは寸劇をやり、あるものは歌い、奏で、あるものはいろいろ宣伝し、あるものはただその場で思うがままに語る。「マイク」という一つの表現の「場」を通じて、自らの思いや感覚をそこに載せて会場に拡げる。

それが、「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」。主催しているのは、詩人のGOKUさんです。

彼は、朗読をライフワークにしています。だけどメランコリックに語る人ではないのです。

言葉の持つイメージを自らの中で熟成し、そうして生み出した言葉のつながりを自分の体全体で……時には汗だらけになって飛び跳ねながら、時には声も枯れんばかりに絶叫し、時には今にも泣きそうな消えそうな声で……「表現」するのです。

彼の発する言葉は皆、生きています。彼は「朗読」もするけれど、彼の中に取り込まれた言葉は、皆命を持って彼の中から飛び出していきます。その勢いは時に聞くものの胸を貫くのです。

「詩のボクシング」という朗読の大会があって、そこに出場したGOKUさんはそのあたりから「言葉を発する」事を意識しはじめたと言います。

言葉はなにも、メッセージ性のあるものばかりではない、言葉で感じて、言葉で表す……もっともっと言葉遊び的な感覚を大事にしたい。

言葉の意味よりも命を大切に……だから、彼が発する言葉は一つ一つがちゃんと「生き生きと」命を持っているのでしょう。

そんなGOKUさんが出会った「オープンマイク」。

その起こりはラップやポエトリーリーディングのような言葉による表現パフォーマンスによるスポークンワードという芸術ジャンルです。アメリカに始まったそれが、日本で「オープンマイク」として一つの形として拡がってきたのです。

こんな言葉と音との表現の場を自分も作ろう。自らが誘われて体験したそれを、協力者たちの支えの中で月に一度続けているのが「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」なのです。

(2へ続く)

ななしのぜろ

Photo : Midori Komamura

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PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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