第4章「イメージ」出来たら勉強が楽しくなる。

学校ではテストのあとに、答えを言ってやり方を一斉指導したらそれで終わりです。それ以上の指導の時間がないからどんどん次の勉強に進みます。だから、出来ない問題を見直すことすら子ども達はしないことが多いのです。×になった問題は、1か2かも見分けのつかないままに「だめだった問題」として子どもの劣等感を増幅する原因になってしまうだけです。

ある程度自分で学び、自分でわかる「成績優秀な子」は、この見直しを自分でして、欠点を修正することも出来るのでしょうが、自分でそんな事が出来る子はほんの一握りなのです。

ですから、それを大人が一緒にやって上げるのです。
「あ……この問題、ここが惜しかったね!」
「あれ?マイナスがここ、落ちてるじゃん!」
「ここ、内容はあっているのにね〜。漢字で×されちゃってもったいないなぁ〜。」
そう言いながら、一緒に「なぜ間違えたのか」を見直し、「わかっていたのに間違えた」問題には、みんな◯をしていく。

……そうすると、多分、ほとんどの子どもは「うっかりミス」による減点が20点ほどもあるんです。

その「うっかりミス(わかっていたのに間違えた)」による減点を、本来点に足してやる。
つまり、子ども達に「実力点」を出して見せてあげるのです。

すると……
「え〜〜〜〜〜!、自分は、こんなにできたの?こんな点、とれるの?」
たいていの子はそう叫んで、目の色が変わってきます。

一例を挙げましょう。
Aちゃんは、家庭教師で教えているときは、とても出来がいいお子さんでした。
平均80とってもおかしくない力を持っているのですが……実際は平均60〜70の得点なのです。
教え始めてから最初のテストも、「これなら平均75は行くだろう」と思っていたのに、ふたをあけたら60点。

なんでだろうなぁ?
そう思って、一緒に見直しをしながら話をしました。
まず、見直しをしてテストの後半になると得点が落ちることに気が付きました。
「なんで?時間がなくなるの?」
「ううん、あのね、テストの後半になると、ものすごく眠くなっちゃうの。」
……そうか、後半になると集中力が切れちゃうんだ。

「そっか……でも、テストで必死になっているのに眠くなるって珍しいよなぁ。」
「う〜ん、なんか、自分は数学とか全然だめって思っているから……問題見るだけで眠くなるの。」

Aちゃんは、決して「だめ」じゃないんですが、妙に自己肯定感が低い子でした。その理由もよくわからなかったのですが……次の言葉でその理由がわかりました。

「テスト帰ってくるとね、ものすごく怒られるの、出来が悪いから。だから、お母さんに見つからないように隠しておくんだけど……。」

そっか。
この子は、点数でいつも判断されちゃっているんだ。
だから、「悪い点を取ること」に対しての恐怖感と緊張感が、逆暗示をかけちゃっているんだ。

お家の人の「何、この点?もっと頑張りなさい!」という気合いは……実は、いかに多くの子ども達に「自分は出来が悪いだめな子なんだ」という悪い暗示を掛けるキーワードになっていることに気が付いていない親御さんがとても多いのです。この言葉は、「悪いイメージ」を子ども達の中に植え付けていて、子ども達に意欲を持たせるどころか、ダメ人間だと教え込んでいるようなものなのです。

なんと、その子の数学のうっかりミスは「45点」もありました。
そうして出してあげた実力点は100点に近いのです。
その点を見た途端に、それまであきらめから失われていた目の輝きがぱっと戻り、表情の明るくなったその子はこう叫びました。

「え〜〜〜、なに、私、こんなに出来るんだ!やだ、もう一度テストやり直したい!」

「実力点」によって、「自分がここまで出来るんだ」というイメージを持つことの出来た子は、そこで自己評価を改めるのです。親や学校から与えられた「点数が悪いから出来が悪い」というイメージを払拭することが出来るのです。

そうしてその「実力点」に近づける努力をはじめます。自分に対しての悪いイメージを良いイメージに切り替えることで、「より良いイメージを目指せる可能性」を子ども達は得ることが出来るのです。

良いイメージを持ち、よりよい自分への目標が持てるようになればあとはそれをめざすために努力しはじめます。だって、お家の人に怒られているだけの自分よりも、そっちの方が誰だって嬉しいじゃないですか……。誰だって、怒られるよりも誉められたい。認められたいのです。わけわからないけど頑張って来たのに、わけわからないから出来なかった。けれど、「うっかりミス」に気をつければもっと出来るんだ、とわかり、そのイメージを持つことが出来たら、そこに向かう気持ちが当然わいてくるのです。

テストの点を見て怒る前に。
お家の方はどうか、その「中身」を見てあげてください。
ご自分のお子さんたちの「実力」を見てあげてください。

たったそれだけで、その「実力」を感じて励ますことで、お子さんたちは「よりよい自分」に向かうエネルギーを受け取ることが出来るはずなのです。多分、ただ叱っているより親も子どももよっぽど気持ちがいいはずだと言うことは、容易に「イメージ」できることだと思います。

「結果点」ではなく「実力点」で子ども達を見てあげてください。
それだけで、絶対に子ども達は変わってきます。

そしてそれは、テストのみならず、生きていくさまざまな場面で必要なことなのだと思います。

虹

Photo:Midori Komamura

shock

Photo:Midori Komamura

「しまった!」……何か失敗をしたとき、まず頭に浮かぶのは……

1*失敗をつくろう(もしくはごまかす)ためのいいわけ
2*この先に対しての不安や危機感
3*フォローの方法
4*失敗の原因さがし
5*現実逃避
6*真っ白になって何も考えられない
7*決定的失敗とわかるまでギリギリ何とかしようと考える
8*過去の失敗の苦い思い出
9*その他(何かユニークな解答があったら教えてください)

………さぁ、あなたはどれでしょうか?

無論、その失敗の質や量によっても違うでしょうが、いずれの解答にせよ、すべてに「イメージ」が作用していることはおわかりだと思います。

こういう「とっさの時」に働くイメージが貧困だと、5や6のパターンになってその先に進めなくなる状態が起きます。過去に失敗で痛い目にあったりトラウマになっていたりすると、そこには「悪いイメージ」が大きく作用しますから2や8……また、そこから逃げようと1になってしまうことになるでしょう。4になると、この失敗を突き詰めて新しいイメージへ結びつける材料探しという少し前向きのイメージの働きになり、それがさらに進むと3の「フォローして挽回」に向かうプラス思考のイメージになります。7の場合には同じ状態を「失敗」というイメージでは捉えていません。場合によっては、その状態を逆手にとってしまうことも可能かもしれません。

さて、あなたはこれを見た時に、「自分はどうありたい」と思いましたか?

……かつての私は、6番のタイプでした。
あ、しまった!そう思った瞬間に、頭が真っ白になって固まってしまいました。ピアノの発表会などでは、ステージに登る前から「失敗したらどうしよう」「間違えるかもしれない」と……マイナスのイメージにとらわれて、実際にステージに登ってその通りの状態にはまってしまうことが多々ありました。つまり、失敗する前にすでに「失敗のイメージ」に支配されてしまっていたのです。

自分のマイナスのイメージに支配される状態がわかったとき……「失敗の原因」がその前の「失敗のイメージ」にあることがわかってみると、失敗したくないときほどこの「失敗のイメージ」が大きくなってくることに気が付きました。どうでもいい、結果を気にしないことだとうまくいくのです。いつも通りにだと出来るのは、普段は失敗も成功も気にしないでいるからです。

この状態は、子ども達の「テスト」の時にも大きく現れてきます。
たいていの子どもはテストの前にものすごく緊張します。それは、その結果が「自分の将来」に影響するというイメージがインプットされていること、それからその点数の善し悪しでお父さんお母さんの態度が変わることを経験してきているので、「悪い点は許されない」という危機感に襲われること……などが理由です。

実際にテストに向かうと、そういう緊張感から勉強したはずのことがどこかに消えてなくなってしまったり、日頃は出来ていた計算をミスしたり……という「失敗」が起こり、結果、「思うような成績にならなかった」ことによってまたまた学校の先生やお家の人から「もっと頑張りなさい」と注意されます。

その「悪いイメージのループ」によって、子ども達は「自分は頭が悪い」というイメージを持ち、「テストは出来ない」という暗示にかかっていってしまうのです。

実際、私が家庭教師として指導に当たるお子さんのうちのほとんどは、この「親の叱咤激励」と「親の不安」から家庭教師を……と望まれてつくのですが、そういうお子さんはまた、ほとんどが「自分は勉強がだめ」というマイナスのイメージにとらわれているのです。

実際に一緒に勉強をはじめると、本当に「だめ」な子はほとんどいません。
計算がまったく出来ないわけではなく、英語の教科書をまったく読めないわけでもありません。むしろ、「このくらい出来ているのに、なんでこの点?」と思うお子さんがとても多いのです。

そういうお子さんたちを伸ばすのにやること。
それは「実力点」を出してやることです。

1,本当にまったくわからなくて出来なかった問題。
2,ちょっとしたミスで書き損なってしまっただけの問題。

1については、家庭教師でしっかりやり方や考え方を教えます。けれど2の方は……本来は出来たはずの「わかっている」問題。無論テスト終了後に「これ、わかってました」と言われても先生も困ってしまうけど……。

ちょっとした計算間違いや漢字のミス。記述上の問題……やり方がわかっているにもかかわらず、そういうものによる「減点」は意外と大きいものです。

(2に続く)

つまり、「よい成績」のために必要な「正しい活用」のところで「なぜ」がわかっていないとつまずいてしまうのです。これは、公式を丸暗記することでは無理なのです。いくら「教科書の公式をちゃんと覚えてきなさい」といっても、その「なぜ」の部分をイメージできないと応用の問題は決して解けるようにはならないのです。

速さとは。「ある単位時間に進む距離」のことです。
時速とは、1時間に進む距離のこと。分速、秒速、すべて同じ考え方になります。
「速さはどのくらいでしょう」という問いは、「この進み方だと1時間にどこまで行くことができますか」という問いなのです。だから2時間で5キロ進めるのだったらそれを半分にすればいいのです。

こういう文章問題を解くときに、「図や表に書いてみなさい」という指導はよくなされることです。けれど、この「図や表に書く」という指導をする前に、「なぜそうなるのか」がわかっていないと図も表も書けないのです。つまり「イメージ」が出来ないので、そのイメージの表出である図も表も書けるようにはならないのです。

今、中学生の学習指導をしていて強く感じるのがこの「なぜ」がちゃんとわかっていないと言うことなのです。計算はちゃんと出来る生徒なのに、文章問題がわからないから成績のなかなか上がらない生徒が結構います。問題文を読んでそれを「理解」し、「表や図に表現」することができず、その段階でつまずいている生徒がとても多いのです……。

それらの生徒のつまずきの根本にあるものは何か……といったら「その言葉が何を表しているのか」「なぜ、そういう計算式が成り立つのか」という本当に基本的な「イメージ力の欠如」。

それが小学生の低学年から培われていたら、今こんなにつまずくことがないのに……と見ていてものすごく残念に思います。高校入試を目前にして出会った中学生たちに、この「イメージと現実を結びつける力」……本来小学生で養って育ててくるべき力を、そこからつけるのはものすごく困難なことなので……。

けれど、「イメージできること」が「わかった」という感覚といったん結びついたら。
そこから先、学ぶことは面白くなります。そして自ら学ぶ気持ちが育ってくるのです。

「そうなんだ!そういうことなんだ!」……「なぜ」が見えると、子供たちはそう叫んでぱっと表情が明るくなります。

「なぜ」ということをイメージできるようになったら、「勉強しなさい」といわなくても自分から学べる子供になります。それはすぐには「点数」には結びつかないかもしれないが、そこから先「一生が学び」である人生において、子供たちには大きな力になり、宝物になることでしょう。

では、現実問題に立ち返ってみます。目の前にはもう高校を目前にした「イメージ力を養ってこなかった」中学生がいます。その子たちをどうしたらいいのか、どうしたら効果的に少しでも「出来る喜び」に近づけるのか……。

そこをここからあと、実際の例を元に記述していこうと思います。

学習

Photo:Midori Komamura

2「イメージ」は自ら学ぶ気持ちを育てる。
(1)「なぜ?→【イメージ】→そうか、わかった!

入学おめでとう

Photo:Midori Komamura

小学校に入学して、最初に教科書をもらいます。子ども達が最高ににこにこワクワクする瞬間です。
その教科書を開くと、一年生はまだ「ひらがなが読める」という状態ではないのが前提なので、言葉を書いていないのは当然なのですが、絵や写真の多さには驚きます。絵本でさえももう少し、文字が書いてあるのに……。

なぜ、絵や写真が多いのかと言ったらこれは「イメージを助けるため」なのです。

当然ながら、学校にはいろいろな経験値を持つ子供たちが集まってきています。だから、その「共通理解」を計るためには同じものを見てその経験値の差を補う説明をする必要性が出てくるのです。
そのための「絵」や「写真」。だから、同じ絵を見て、同じ資料の写真を見て、子供たちはそこから自らのイメージと「知識」とを重ね合わせる学びをはじめるのです。

低学年の教科書においてはこの「イメージ」を助ける教材が教科書に多用されています。しかし学年が上がるほどに、この「イメージ補助」の部分が削られていってしまうのです。算数の教科書でも、「言葉による説明」が増えてきて、「絵による解説」がどんどん減っていきます。それは「イメージする力がそこまで出来上がっている」という前提に基づいているからなのでしょう。

では、実際はどうかというと、低学年から「イメージ」と「教材」とを結びつける指導について「なぜそうなるのか」という「なぜ」の部分はじっくり指導している時間はなかなかありません。どちらかというと「この現象はこうなる」という、「なぜ」の部分を省かれたところの指導に時間をかけることになってしまいます。
(これについては、文科省の学習指導要領の記述も大いに関係することと思われますので、どこかで記述したいと思います。)

エジソンは「なぜ」を多発する子供だったから学校からはみ出した、という逸話を持つのですが、それは実はエジソンに限ったことではないのです。「なぜ」の部分は物事にとって一番重要な「真実」なのですが、指導の上では省略されてしまい、「これはこうなる」の部分をくり返しで覚え、「なぜ」は最初の導入の時に軽く触れる程度で終わりなので、そのあとは「これはこうなる」という法則や原則や公式をただ形のみ繰り返すだけになってしまうのです。

たとえば、子供たちがよくつまずく「速度の計算」。
速さは距離÷時間。テストで求められるのはこの計算式で、これを正しく覚え、正しく計算し、正しく活用できればOKなのです。

けれども、つまずく子供たちはこの「意味」が理解できないから頭に入らないのです。「なぜそうなるのか」の部分がちゃんと理解できない、「速さ」という言葉の意味自体もわからない。そこをちゃんと理解させることが出来たのだったら、様々な応用問題にも対応できるはずなのですが……。

(2につづく)

Photo:Midori Komamura

何も思い浮かぶイメージがなかったら、身体を動かしながら覚えるというのも効果的。

友だちと、歴史の問題を出し合いながらキャッチボールのまねごとをする。
他にも何かを覚えながらひたすら紙に書きとめる。

私はとにかく、紙に書きまくります。何回も何回も書きます。
これはとても効果的です。それについてはこの後の項で述べます。

それは絶対にひとから与えられたものではダメなのです。自分自身で体感し、自分の中にすぐによみがえらせるものでなくてはダメなのです。だからこそ、いっぱい遊んでその材料を蓄積する必要があるのです。

机に向かって本を読んだりノートに字を書いたり、というワンパターンの経験だけでは記憶はどんどんその中に埋もれていくだけ。

「自分の中に、特別な記憶や経験をいかにたくさん積み重ねていくことができるのか。」
……それが「記憶力」を育てるコツです。

それには日頃から「特別な記憶」を作る練習をしておきましょう。
夕日の赤さも日によって違います。雲の形は一刻たりとも同じではありません。
季節の風の中に漂ってくる匂い。その中で出会った人、その人と語りあった言葉。

五感のすべてを働かせて「今」を真剣に見つめ、「今」をじっくりと感じること。

それによって日頃見えていた風景も、新しく違った顔を見せてくれるでしょう。
そこにどんなあなたの「想い」を乗せることができるのでしょう?

その感動が、その想いの積み重ねがあなたのイメージをどんどん拡げ、その積み重ねによってあなたの中にはより鮮やかでより拡がるイメージの材料が蓄積されていくのです。

それと結びついた時、アルバムに写真を並べるよりもはっきりくっきりとあなたの記憶は彩られていくのです。

秘密基地プロジェクト

Photo:Midori Komamura

雑誌の裏によく「記憶術で成績アップ!」という広告を見かけます。あの記憶術について突き詰めたことはありませんが、一般的にいわれているのは「何か別の刺激と絡めて覚える」こと。

教科書に書いてあることは覚えないけどそこにのっている写真に落書きした記憶が残っていたり、先生の話も雑談の方が覚えていたり……と、本来覚えようとしていることではなく、必要でない雑談みたいな記憶の方が残りやすいということはいわれます。逆に「覚えよう」として、その言葉を何回繰り返しても、それだけでは記憶にとどめることはとても難しいのです。

先日テレビに、ものすごく長い数字を覚える人が出てきました。その人の記憶の仕方は数字にそれぞれ一つずつイメージを当てはめておいて、数字を聞きながらそのイメージを連ねて物語を作っていく……というもの。語呂合わせの発展形のようなものなのでしょうか。

ルート2を一夜一夜にひと見頃、ルート3を富士山麓にオウム鳴く、原子記号の順番も、水兵リーベぼくの船……ただひたすらにその語呂合わせを繰り返すだけではなかなか頭に定着しませんが、頭の中にはかわいい水兵さんがちっちゃくて白い船を浮かべて水兵帽で敬礼している様子が浮かべてみたら……その光景を頭に描いた瞬間に、それらの数字はしっかりと頭にこびりついて離れなくなりますよね。

いくら覚えやすい語呂合わせを先輩たちが作ってくれても、「イメージ」を持てないとちゃんと頭に刻み込むことはできません。

だからこそ、どんどんイメージを貯金する必要があります。それは「学びに必要」なイメージよりもむしろ「遊び」とか「雑学」のように一見役に立たないものの方が良いのです。自分の中に、より強烈な印象を植え付けられる色や形や温度を持った記憶だったらなおよいでしょう。

(2に続く)

オヤジカンガルーハッチ

Photo : Midori Komamura

子どもたち

Photo : Midori Komamura

「ダメです、服が汚れるから。汚いでしょ。」「そんなものに触るんじゃありません。」「危ないからやめなさい。」

そういうセリフにさえぎられて泥だらけの子供たちが減っていき、何より今は、「泥」に触れることの出来る水たまりさえも見あたらなくなりました。日がくれるまで集中し、時を忘れて熱中し、一番星を見て帰る時を想い出し、あわてて家に走って帰るという姿もどこにもなく。「今日は○○ちゃんと競争して、ぼくの方がいっぱいじょうずにつくったんだ」などとお母さんに夢中で報告することもなく。

「太陽は、東の空から昇って西に沈む」ことがわからない。(驚くかもしれませんが、そういう子どもはとても多いのです。)計算や知能テストのようなものは上手にできても、自分のことについて話すことや書くことの表現ができない。

嬉しい、悲しい、楽しい……感想文を書くのにすごく苦労する。「どっちの方がいくつ多いのか」プラスやマイナスの感覚がなかなかつかめない。中学生でいまだに掛けると足すの意味の違いがわからない。

柱の体積は底面積×高さ、だけどなんでそうなるかわかっていない。積み木を積み上げる感覚を思い出せばすぐわかるのに、なぜそうなるかわからないから公式を忘れちゃったら計算ができない。

今の子供たちを見ていると、そういう知識のアンバランスさを感じます。経験から来る学びが限られていて、教科書に書いてあることが実際の事象と結びつかない。

紙の上、机の上だけの学びは決して生きる力に結びつかないのです。それは五感を働かせることがないままに来てしまったからです。目で見るだけでなく、からだ全体で覚える訓練をしていない今の子供たちは、書いて覚えることも読んで覚えることも、「見る」という動作とつなげることもできない。だから「考える」という脳への指令を出すことができない。

結果「何で勉強なんか必要なの」と思う。その理由も見つからない。

脳はいかに知識や記憶を増やしていくか。脳の細胞と細胞を繋いで行くシナプスという枝の働きです。それがより多くより密に張り巡らされることによって脳細胞の動きが確立していきます。それにはより多くの刺激=経験や体験が必要で、机の上の学びだけでつながるのはごく限られたもの。片手落ちなのです。

頭の働きが良くなり、考える力を持つためには。いかに多くのシナプスをつなげるか。それには、いかに五感すべてをフル活用できるかにかかっています。それが出来るのが「遊び」なんです。

遊びを忘れた脳みそは、筋トレしない筋肉と同じ。衰えてゆくだけです。

大人になるまえの子供のうちに、いかに五感を総動員させて遊ぶか。そして経験や体験をどれだけ増やして蓄積できるか。「本当に頭の良い子」を育てたかったら子供のうちに、イメージ豊かな子供のうちに、たくさん外で遊ばせること。さらにその体験を子供と親が楽しく語りって増幅すること。そうしてイメージの貯金をすること。それが一番の早道なのです。

それこそが子供のころからできる本当の「英才教育」なのです。

数学の文章問題でもそうです。問題を解く材料としての公式や計算をたくさんドリル学習します。そして応用の文章問題に行くと、もうそこで挫折です。つまり、その問題文章にどの公式を使い、どういう計算をして答えを導いたらいいのかが全くイメージできない。

同じ事がすべての教科に言えるのです。
さらに、先にも述べましたが「教科制」ということの弊害がそのイメージへの障壁を大きくしています。

たとえば、時間の計算や速さの計算、圧力や密度などは数学でも理科でも出てきます。けれど、数学の問題では普通に出来ても、理科の問題になると出来ない。わからなくなる。英語も国語も「言葉の組み立て」を学ぶ教科なのだけれど、英単語や漢字・熟語は単なる記号にしか見えないから文章に組み立てることが出来ない。

「学び」を細分化し、それぞれを関連させることもリンクさせることもないままでそれぞれの教科・単元ごとに内容を「教える」だけの状態では、学びとしてそれぞれがタコの足のようにバラバラに動いている状態で、それを一つにまとめる「イメージ」がない限りはまとまった動き(思考)には決してつながらないのです。

このタコ足学習である教科制を、クモの巣状態に張り巡らされた一つのネットワークの学びに変えるのが「総合学習」であって、そのクモの巣の材料として絡み合い、つなげる役目をするのが「イメージ」です。いかにそれをしっかりと密に絡めるのか、そのために必要なのがたくさんの「経験」「体験」です。

イメージが出来ない子供たちは、この経験や体験というものがとても限定されている場合が多いのです。

たとえば。あなたは子供のころに泥団子を作ったことがあるでしょうか。
泥が出来るのは、雨がふった後のくぼみ。砂地では無理で、砂よりももっと粒が細かい粘土状の土が必要です。雨がふった水たまりには、時にミズスマシが水の輪を作ります。雨のあとの空の青さを映し出します。雲の動きも映し出します。やがて、その雲があかね色に染まる。影が長く伸びて時の流れを感じ日の沈むのを見る。

手や、目や、鼻や、耳……身体の五感を使って、周りの空気や音や泥の感触、時に口に入ってしまってじゃりじゃりした感触と苦い味に顔をしかめ、こねる手から水の冷たさを感じます。どんなふうに丸めたらきれいな丸い団子になるのか。どのくらいの大きさだとうまくできるのか。力加減、形のバランス。泥と水の調合具合。

競い合って工夫し、勝てたときの喜び。頑張ったけど負けちゃった悔しさ。うまく作れず壊れてしまって競争に参加さえできない悲しさ。友だちに手伝ってもらって一緒に作る楽しさ。

春には水たまりに小さな蛙が飛び込む。秋にはトンボが飛んできて卵を産み付ける。夏の暑さには泥団子はあっという間にひびが入り、乾燥してしまう。冬の水たまりには氷が張る。泥に手などつけたら、あかぎれが出来るほど体温が奪われて切れるように痛い。

いかにたくさん作るのか。数を人と比べたり、教えあい協力して作りしながら学びあうことを「感じ」ます。

(3に続く)

学び

Photo : Midori Komamura

(4) 頭が良くなる早道は「ちゃんと遊ぶこと」=「イメージの貯金」

教科制の学びのあり方でここまで来ている生徒たちや、これからその学びに入っていく生徒たちを見ていて、大きな懸念が私の中には打ち消せないままずっとあります。

私のような個人指導の教師のところに指導を求める生徒さんは、いわゆる「多人数学級」である学校のクラスや塾の一斉指導ではついて行かれず混乱している子が多いのです。そういう子たちを見ていると、まずみんなに共通するのが「勉強が嫌い」なこと。

勉強が出来ないで心配した親御さんに背中を押されてやってくるのでしょうか。初めて会うときはとても硬い表情で、テストを見せてもらうときはしかめっ面。下を向いて暗い表情の子が多いのです。

けれど、一緒にやっていて「出来た」「わかった」瞬間、どの子もぱっと表情と目が輝きます。嬉しくて笑ってしまう子もいます。「そうか、そうだったんだ」とみんなつぶやきます。

そういう子に共通して言えることは、「なぜ、そういう答えになるのか」がイメージできない、ということです。勉強が嫌いなのは、ちゃんとした学びと習い方を与えられずに周りから押しつけられる形で苦しいからなのです。

具体的には本章の第2節で記述しますが、問題と答えを結びつけるのには、まずイメージの力が必要です。与えられた問題や課題の文章を読む。そこから「答え」を導き出すのに必要な材料を選び出す。その段階ですでに、「何が材料として必要なのか」とイメージする必要が出てきます。

ところが、今の子供たちはこの「材料を選び出す」ことが出来ません。「作者はどんな気持ちでしょう」と問われたときに、その「気持ち」を表現する言葉を知りません。もっというと、そういう状況ではどんな気持ちになるのか、という経験が少ないので、状況と気持ちを結びつけるイメージがわかないのです。

イメージがない

Photo : Midori Komamura

もともと、学校は「教科・単元・領域ごと」の枠で仕切られた勉強が当たり前でした。この教科ではこういう内容について、この学年ではここまで、その次にはここまで教えなさい、ということがはっきりと決まっていました。つまり「学習指導要領」という「教えるべき内容の基準」をいうものが全国統一されてしっかりあって、それを身につけさせるのが学校の勉強でした。

まず、これを崩すことが大変でした。

数学や国語という教科を教えない。だから、内容の基準もはっきり決め出すことが出来ない。その時その時に必要な場面での学びがあるのがいいのであって、こちらから教材を用意して「教える」ことはNG。

けれども実は、学びの要素を生徒たちの意識や流れに上手に組み込むのかは教える側の創意工夫にゆだねられる。つまり、今までのように指導要領一冊持ってその「段階」に従った内容を教えるだけではダメで、生徒の見取りの力、学ぶ内容を組み込み課題に沿ってヒントを与える力、教科という枠を越えた膨大な知識、様々な技術……先生たちにもものすごい学びと実力が要求されます。

さらに「教える」という行為が一見すると無いわけで、「何もしていない」ように見えてしまう。「教える」プロであった先生たちが混乱するのは……それもずっとそれでやって来た先生方が混乱するのも無理からぬことでしょう。

さらに、先生方はそうして自分の専門教科の教え方を身につけているわけで、自らがこの「教科学習」での優秀な成績を収めて大学までの学びを終えた人たち。教科を越えた学びをイメージするのは、確かにものすごく難しかったことなのです。

私自身は「生活単元学習」について新卒で学ぶことが出来、それ以来自分の専門教科である音楽や英語の授業でもこの考えを取り入れて、数学や国語、社会などの他教科の要素を取り入れた学びを展開していました。けれど、養護学校から小学校に転任して最初の研究授業では、そういう私の授業は「教科らしからぬ」「養護学校的な指導」という「ご指導」をいただくことになり、やはり教科的な指導になれた先生方には理解してはもらえなかった経験があります。

「総合学習」の考え方が学校に入り始めた頃。これと同じような混乱が学校の中に起こっていました。それも降ってわいたように「これから総合学習というものが入ってきます。先生たち、それで教えてください」という「おふれ」が来た後で、先生たちはカリキュラムの組み直しとそれを身につけるための研修や研究会で必死。

けれど、自らがそういう学びをしてこなかった先生たちが、今までの教え方で毎日の授業を進めながら、研修・研究会でじっくり新しい学びである「総合学習」について身につけるだけの余裕が許されるものでしょうか。正直いって、かなりの混乱状態のままでこの「ゆとり教育」は見切り発車……という感が強かったように思います。

今現在、この総合学習の学びのあり方をしっかり「イメージ」することができ、その本当のあり方や意義を理解できた先生方は、第3章の実例のようにすばらしい成果を上げつつあります。しかし、どうあっても教科制という枠組みの呪縛から逃れることの出来ない大多数の「学校のあり方」から総合学習は見放され、削減の一途にあります。

イメージしてみてください。
このまま、教科制というベルトコンベヤー式の学びを続け、「頭に詰め込むだけ」の学びを続けること。
しっかりと総合学習本来の意義をしっかり見直し、見据えて教育の体質改善に真剣に取り組むこと。

どちらの方がこれからの社会や未来を担う子供たちにとって本当に必要な学びのあり方なのでしょう?

子供だけのミーティング

Photo : Midori Komamura

(3)ゆとり失敗の原因

もう一つ、この「ゆとり教育」の目玉である総合学習がなぜきちんと機能しなかったのか、という大きな理由は「教科単元制」にもありました。

私は、新卒の時に養護学校に赴任しました。ちょうどその翌年からその学校は文部省(当時)の研究校に指定され、全国区の研究校としての研究をすることになってそのテーマに据えられたのが「生活単元学習」というものでした。

    生活単元学習は,児童生徒の生活上の課題処理や問題解決のための一連の目的活動 を組織的に経験することによって,自立的な生活に必要な事柄を実際的・総合的に学習するものである。(盲学校,聾学校及び養護学校学習指導要領(平成11年3 月)解説(文部省)より)

つまり、身体に障害を持つ子供たちが自らの出来ることの可能性を増やし、生きる力をつけるために教科や領域に縛られない学びをする。それが生活単元学習です。

たとえば、生徒の意欲・関心に沿うようなテーマ設定をする。身体の自由がきかない生徒たちが工夫し協力して何か「製品作り」に取り組み必要な技術を学びながら、学校祭のバザーや町に出て販売活動をする。材料を購入するために畑で花や作物を育てて販売する。

その中でお金の数え方や計算を身につけたり、お客様に対しての言葉遣いや対応を学んだり、ポスターや招待状を作ることで文章を考えたりデザインを工夫したりする。材料費を払ってある程度の売上が出たら感謝祭のようなものを計画し、材料を買いに行くためにバスや電車の乗り方やチケットの買い方を知る。車内のマナーも考える。調理をしてみんなで感謝して食べる。その時にみんなで楽しむゲームや歌なども考えて練習する。

その中には当然、教科的な内容も入ってくるわけです。お金の計算……収支、予算の立て方。花を育てるのに理科の知識。招待状を書く文章力。誤字脱字に気をつけて、漢字を使って読みやすくすること……。そんなふうに「教科・領域を越えた」学びをするのが生活単元学習です。

これは、実は「総合学習」に通じる学びであることにお気づきでしょうか。障害を持つ生徒たちにとってはそれこそ「生きる力」は本当に自らの命に関わる部分でありますから、かなり「生活」に密着した学びになっています。それがもう少し教科的な色合いが濃くなっているのが総合学習……という風に私は感じています。

さて、先ほどの新卒の学校の話に戻ります。新卒の私はまだまだ経験が浅い中、この「生活単元学習」について学びました。この「経験が浅かった」というのが幸いしたのだと思います。「教科を越えた」という意味について割にすんなりと受けとめることが出来ました。

しかし、先輩の先生方にとってはだいぶ抵抗があったように感じました。つまり、「算数や数学、国語、理科などの教科を教えない」ということに対してのイメージを作るのにものすごく抵抗があったのです。

総合学習

Photo : Midori Komamura

日本の教育

Photo : Midori Komamura

ところが、この「ゆとり」という言葉から、そういう姿を想像できるでしょうか?

たとえば、このゆとりという言葉が浮上した頃、学校は土曜が休みになって週五日制になりました。それまで、土曜日も学校に行っていたのに、週に二日も家で子供たちが過ごす……教師は休みが増えて、子供たちを見てくれる場所がなくなった……。どうしてくれるのだ?そういう意見で週五日制には猛烈な反対意見が湧き上がりました。

つまり、まずは学校が休みになること=時間のゆとり、という認識。

時間の余裕を与えたら、子供は家ですることがないからゲームで遊んでいるだけだろう、勉強もせずに遊ぶ時間を増やしたら当然学力(この場合はテストの点数ですね)が落ちるに違いない。夏休みや冬休みがあるのに先生たちは土曜も休みになる。そんな余裕もゆるせない。そういう危惧が「ゆとり」という言葉によって強調されました。(学校現場にいるときは、そういう批判をものすごく感じました。)

けれども、本来ここでいう「ゆとり」とは、時間のゆとりではなく心のゆとり、考えるゆとり、学ぶための思考範囲の広がりという意味でのゆとりのことであったのです。その認識の違いは大きい間違いでした。

もう一つ、学習内容を整理して削減し、「詰め込み教育」からの脱却を図る、という方針も「勉強内容を減らしたら、出来ない事が増えるじゃないか」という考えから「ちゃんと教育がなされなかったバカ」という意味を持って「これだからゆとり世代は……。」などと揶揄されている現状が誤った「ゆとり」の認識を的確に表現しています。

確かに、教科書に掲載される内容は減ったかもしれません。けれど、先にも書いたように「教科書には載っていないけれど身につくこと」が山のようにあるのです。

さらにそれは「これを教えなさい」と上から押しつけられた勉強ではなく、テーマの実現を目指して自らの意志を持って取り組む学びですから、学びの内容だけでなく、学び方も自然に身についていきます。自らより高次のテーマにむかって進むことも出来るのです。

そして、そこで身につく学びは1人1人全く同じではありません。それぞれの生徒が自らの必要に応じて必要な学びを得る。だから、みんなで一斉に同じ問題に取り組む「ペーパーテスト」では計れない力、けれども、そんな問題にはおさまりきれない力=学びの力、考える力、解決する力=生きる力=イメージする確かな力、が身につく学習なのです。

それは上からの詰め込みのように簡単に得られる学びではありません。だから一年や二年で結果が出るものではない。本当にその意味が見えるのは5年、10年、もっと言うと社会に出て自分で生きるようになってから。それを最初から「ゆとりはダメだ」という世論がその「余裕」さえも与えてはくれなかったのです。

点数がとれない。だからダメだ。子供たちは遊んでいるようにしか見えない。ちゃんと黒板に向かってしっかり公式や法則を覚えなくては勉強じゃない。こんな甘ったるいことしていたらダメじゃないか。

その危惧が社会全体を覆い、その危惧にきちんとした学びのあり方を究明する余裕もなく、「ゆとり失敗」と言われてまたもや「詰め込み教育」に後退する、という愚行を日本の教育は行ってしまったのです。

こうして、詰め込み教育というカンフル剤のような即効性はあるけれど持続性のない教育を、「点数重視」の社会は選びました。

ゆとり教育の本当の狙い、総合学習で狙える力……それは一生の学びにつながる力であり、確実に身につくもの。いわゆる「体質改善による健康な力ある学び」を目指すことが出来たはずなのに、それをじっと見守ることも待つことも出来ないまま、より強力なカンフル剤を求めて迷走する状態に陥っているのが今の日本の教育です。

強い薬は、同時に強い毒でもあり、身体をむしばみ続けていることにも気が付かないままで。はたしていつまでこの身体(日本の教育)は持つのでしょうか?

もともと子供というのは「イメージする力」(夢を描く力)に長けています。この世の経験年数が少ない子供たちはそれがゆえに自由にイメージを拡げることが出来ますし、それをもとに生きています。

そういう「イメージの固まり」である子供たちに知識や経験というイメージ化を助ける材料を与え、その方法の学びをする場所……それが本来の「学校」の役割なのです。イメージを妨げる「点数重視、テスト重視、学歴重視」の今の学校制度の中ではそれがいつの間にか忘れ去られてしまっているようですが。

(だから、イメージが出来る子供たちほど苦しくなる。不登校やいじめの大きな要因の一つは、イメージできる子供をきちんと支えることが出来ない今の学校制度にあります。)

その最たる出来事が「ゆとり教育の失敗」なのです。

「ゆとりはダメだ」と口にする人々に私は言いたいのです。
「ゆとり教育を失敗に導いたのは、あなたたちなのですよ。」………と。

そもそも、日本を救うはずだったあれだけの教育へのてこ入れに対して「ゆとり」というネーミングで「間違ったイメージ」を植え付けた時点ですでに、この教育再生への大切な手立ては「失敗」したと言っても過言ではないのです。

「ゆとり教育」と一般的に呼ばれている教育の方向性は、先にも述べたように本来その柱が「総合学習」という学びのあり方を柱に組み立てられていました。

総合学習というのは、教科や単元という「枠」にとらわれず、その時その時に起こったことや発生した事件、ぶつかった問題点などに「どう当たっていくのか」を考えていく学びです。

だからその上で必要な計算の力をつけたり、身のまわりに起きる事象の科学的・歴史的説明について追求したり、その表現をするために文や音や絵などで伝える工夫をしたり……。つまり、学校という社会縮図の中で「生きる」ために必要な学びをその時々の必要に応じて先生と生徒が一緒に膝をつき合わせ、一緒に悩んだり考えたりしながら身につけていく、という学びなのです。

教科指導は「まず学習内容ありき」。この単元や指導項目を「どう教えるか」が問題になります。

一方の総合学習は、あるテーマに向かって「どう進むのか」、「どう組み立てるのか」、「どう考えるか」が問題になるので、学ぶ内容がついてくる形になります。学ぶ内容をそれぞれが探り出し、自分から求める形になるのが教科学習との大きな違いです。

ですから、実は、時間的な「ゆとり」などは全く許されないのが本来の総合学習のあり方です。生徒も先生も、たとえば第3章の事例で取り上げたように「映画作り」というテーマや「学校美術館」というテーマ、「祭の成功」というテーマを共通して持った上で、それをやり遂げるためにあらゆることを自分たちで組み立て、考えて取り組んでいくわけです。

取り組む生徒たちにとっては、何が起こるかわかりません。映画作りや美術館作りに必要な資金も、技術も、何が必要なのかもわからない。取り組む順番もわからない。

そういうわからない中、手探りで進む中で様々な「困難」が立ちはだかる。どうしたらいいのだろう?どう乗り越えよう?………必死です。テーマを実現するためには、立ち止まってはいられないのですから。さらに、そういう生徒たちの姿を見取りあらゆる場面や状況を想定しながら下調べや準備をし、生徒と共に取り組む先生はなおのこと、本当に息をつく暇もありません。麻和教諭も、中平教諭も、自分自身の時間を削っても「テーマの実現」を生徒と目指して奮闘しているのです。

(2につづく)

総合学習

Photo : Midori Komamura

なのになぜ、今の日本では「勉強すること」=学ぶことになってしまっているのでしょうか。学校ではちゃんと「学び」の方法を教えてあげているのでしょうか。「学ぶこと(内容)」を提示した後、それをちゃんと「習う」方法をろくに提示せず、テストで「理解度を確認」(とは言え点数の高い低いが判定基準になっている場合が明らかですが)して、点数が低いから「勉強しなさい」となる。

おかしいですよね。学校でちゃんと「学ぶこと」「習う方法」がわかったら、知識を得ることの楽しさを知った子供たちが自ら「もっと知りたい」「もっと出来るようになりたい」と「勉強」する……それが本来の姿であり、流れであるべきなのです。

ところが。今の学校では「この単元の主眼」というものが設定されていて、知識の取得が授業の最終目的です。「学びの方法」ではありません。それを取得したら、その力を次につなげる間もなく「次の単元の主眼」に取り組まねばなりません。

身についたかどうかの確認はあくまでも点数で。平均点の上か下か。それだけの判定で進んでいきます。その子がいったいどこに躓いてわからないのか。逆にもしかしたら偶然ヤマカンで良い点が取れただけなのか。その判別は点数だけでは絶対に出来ません。だから点数が悪いと「わかってない」から「ダメ」となって、先生からも親からも「もっと頑張れ」と怒られます。だけど「どうしたらわかるようになるのか」はだぁれも教えてはくれません。

「何だ、ぼくはどうせ出来ないダメなやつだ」「こんなのわけわかんね〜」……わからない生徒は、「わかりたい」「出来るようになりたい」という自分を押し殺し、そうやって自分を卑下するか笑ってごまかすかでその場をしのぐしかないわけです。それがずっと続くわけです……もしかしたらエジソンのように、徹底的に「学び」に集中し、「習い方」を教えてもらえればちゃんと自分で「勉強」出来るようになる子は山ほどいるのに。その子もごまかし笑いではなく「わかった!」という笑顔になれるはずなのに。

つまりそうやって子供たちの「可能性の芽」をつぶしているのが点数に左右される学校や親たちなのです。それに翻弄される子供たちがやがて力尽きて学ぶことの楽しさ、喜びも知ることがないままに「勉強嫌い」になるのは当然でしょう。いえ、「勉強嫌い」と言うよりも、「勉強がしたくても手も足も出ない」状況にある、と言った方が正しいでしょう。

今の日本の教育がなぜ落ち込んでいるのか。生徒の学力が落ちているのか。ここまで読んだら「それは仕方がない」と思いませんか?日本の教育がなぜ「ダメ」なのか……それは「勉強」と「学習」の区別もつけずに順序を間違え混乱している結果なのです。

その混乱を解消し、きちんとした学びを取り戻すための特効薬が実は「総合学習」です。そう、それこそがいわゆる「ゆとり教育」の柱とされた学習のあり方だったのです。

「ゆとり教育は失敗」といわれ、「ゆとりはダメだ」と揶揄されるあの「本来の学びを取り戻すための最後の手段」を失敗に導いたものは……何あろう、この「勉強」と「学習」とをまぜこぜにしか捉えることの出来ない日本の社会全体だったのです。

Photo : Midori Komamura

今、子供がテストの点のところを折って隠して持ち帰ってくるテスト。なぜ「点数」を隠しているのでしょうか?

それは、悪い点だと出来ないヤツの証明になり、進学先を決めるのにも、成績を決めるのにも、みんなその「点数」がものを言うからです。時に友だちづきあいにまでも影響する「点数」。

けれど、その点数にはいったいどのくらいの意味があるのでしょうか。

「先生……今回ダメでした。親に怒られました。」

そういって私にすまなそうにテストを手渡す生徒の答案を拡げます。ざっと見ると以前は全く計算問題さえも解けずに「当てずっぽう」で書いていた答えが、今回は間違えてはいてもかなりいいところまで行っています。

「ねぇ、今回のテストの手応えはどうだった?」
「先生、間違えたのだけど、ここは計算間違いしちゃって、ここは写し間違いしちゃって……ものすごく悔しいです。」

テストの点自体は全く変化がない同じ40点だとしても。まったくわからない40点の時にはこの生徒は自分のばつの悪さを隠すために笑ってごまかしていたけれど、同じ40点でも今回の表情は「悔しい」とにじみ出すもので、以前のごまかし笑いなどは全く浮かんでいません。

けれど、学校でもお家の人の評価でも、この40点は「変化がない」40点なのです。この子がいかに頑張って「わからない」ところから「わかっても間違えてしまって悔しい」ところまで進歩し、成長したのか……それを誰も認めてはくれないのです。変化がない「点数」しか見てもらえないせいです。

けれども。この生徒はすでに「わかる喜び」も「解くことが出来た快感」も体験しています。以前のように笑ってごまかさなくても、「ここが間違っていたから、次はここに気をつけよう」という道筋が自分の中で出来上がっているのです。つまり出来るというイメージが自分の中で確立したのです。

こうなると、後は自分で学ぶ喜びにむかって進みます。「勉強しなさい」などと言われなくても、自分からちゃんと学ぼうとするのです。

「勉強」という漢字を見つめてみてください。「勉めて(努力して)強くする」という二つの感じはどちらも「強化」する意味合いがあります。むち打って強くなること、それが「勉強」。つまり「学び」そのものを意味するのではなくて、「学ぶための方法・手段・姿勢」なのです。

一方の「学習」は、「学び習う」こと。学ぶという言葉の語源は「真似る」から来ています。つまり、お手本を見習ってその真似をして身につけること。習う、というのはそうして教わったことをくり返し練習して身につけること。

英語では勉強=study、学ぶこと=Learnと一般的に訳されていますが、確かにstudyというのは「強化する」という意味合いを持ちますし、learnというのは学ぶ、習う、などの意味の他にも「知る」という意味合いも含まれます。

学校でやるべきこと、生徒に対して行うことはまず「学び」があるべき。そして学習、という経験を積んだ生徒たちが自らそれを身につけるために頑張る行為、それが「勉強」なのです。

(3につづく)

まなび

Photo : Midori Komamura

1「ゆとり教育」はなぜ失敗したか。
(1)「勉強」と「学習」は全く違う。〜エジソン成功の理由

まなび

Photo : Midori Komamura

第1章でも触れたように、今でこそ発明王と称されるエジソンも幼い頃は「劣等生」でした。

どうやらエジソンは「学校の勉強」は得意でなかったし、科学理論に詳しかったわけでもなかったようです。けれど、なぜあれほど多くの発明で人に役立つことが出来たのでしょう。

彼が友人に残した言葉によると「自分は頭で(考えて)発明をしたのではなく、自然界のメッセージの受信機として宇宙という大きな存在からのメッセージを受け取り記録(=発明)していたに過ぎない」……のだそうです。

この彼の言葉からも、あの数多くの偉業は彼自身がいかに「イメージする力」と、それを「拡げる力」に支えられて成し遂げてきたのか、ということがわかります。

机の上でひたすら紙とペンを相手に計算していただけでは出来ない事だったのです。

彼は、幼い頃に学校からはみ出して教師からは劣等生扱い。だから彼の母親が彼を自らの手で学び導いたのだと伝えられます。(この真偽については様々な説があるようですが)

母親は、彼の好奇心に満ちあふれた「なぜ?」「どうして?」という質問の中に、彼がイメージしようとしていることを見取って、それを支え、拡げる教育をしたようです。

エジソンの母を伝える文では「いい点を取る子=いい子供」という感覚とは全く逆の理念を持ち、エジソンの力を見抜くことの出来なかった学校を「興味を持たせられない教え方が悪い」と辞めさせ、彼女自身がエジソンを教育しながら彼の「なぜ」「どうして」を解明しようとする姿に徹底的につきあった、といわれています。

(2に続く)

お勉強

Photo : Midori Komamura(my father)

1 「ゆとり教育」はなぜ失敗したか。

(1) 「勉強」と「学習」は全く違うもの。~エジソン成功の理由
(2) 「ゆとり」という間違ったイメージがぶち壊した教育再生への道
(3) ゆとり失敗の原因〜一番イメージできなかったのは教える側
(4) 頭が良くなる早道は「ちゃんと遊ぶこと」=「イメージの貯金」
(5)「記憶」を支えるのはイメージ。

2 「イメージ」は自ら学ぶ気持ちを育てる。

(1) なぜ?→【イメージ】→そうか、わかった!
(2) 「テストは楽しい」のイメージづくり〜実力点を出そう。
(3) 「学び」は究極の「遊び」
(4) 禁止から生まれるものは何もない。
(5) 「賢い子」を育てたいならまず親が学ぶ。
(6) 「イメージノート」を一冊持つ
(7) 「コマちゃん」誕生秘話

3 「イメージ」で国語の力をつける。

(1) 漢字はひとりひとりの人間と同じ。
(2) 文章を書くには「役者」になろう。
(3) 毎日の生活で国語の勉強は出来る。
(4) 「固まりトレーニング」

4 「イメージ」で数学(さんすう)の力をつける。

(1) 計算がわからなかったら数字に置き換えて考えよう
(2) 文章問題は「数学語」に訳して考えよう
(3) 頭で考えないで紙と鉛筆に考えさせる。
(4) 等式は上皿天秤
(5) 分数ってとっても便利

5 「イメージ」で英語の力をつける。

(1) 英語に訳す前に、まず日本語を英語的日本語に訳そう
(2) 並び替え問題は、プラモデル作りと同じ。
(3) 長文問題は比べっこ。
(4) リスニングは必死で聞かない。
(5) 英語が上達したかったら音楽を学ぼう。

6 「イメージ」でテストの点をアップさせる。

(1) テストはパズルと同じ。
(2) テストはかくれんぼと同じ。
(3) テストは根比べと同じ。

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記事

PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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