被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その1) 【’11年5月掲載】

宮城県牡鹿郡女川町、女川第一中学校。
ここでは今、二つの小学校と一つの中学校の生徒400人あまりが集まって勉強している。

昼の「給食」は毎日牛乳一本とパン1個だけ。
(成長期の子どもたちが………だ。)

物資は「避難所」には届くが、「学校」は後回し。炊き出しや支援物資を届けたいとボランティアセンターに問い合わせてみても関連の機関に問い合わせても、どこも取り次いではくれなかった。

せめて、積んでいった230個のりんごを食べてもらいたい……と申し出たら「ごめんなさい、受け取れない」と言われた。

生徒が400人。りんごはその半分の数。
丸ごと1個はわたらないから半分に切って配ればいい……ずっと野菜もくだものも食べていない育ち盛りの子どもたちに食べさせたい……そういう思いからの申し出だったのに、なぜ?

答えは、「りんごを切ることができないから」……だった。

今、「調理行為」が許されているのは「公的に認可された避難所」でのみなのだ。それ以外の場所では、調理……当然炊き出しも含まれる……は、一切認められていない。消毒ができず食中毒の恐れがあるためなのだ。

りんごを切るのには包丁を使う。使った包丁を洗って消毒できる充分な設備がない。だから、りんご1個を半分に切り分ける行為さえも認められない。…..結局、生徒たちにりんごを配ることはかなわなかった。同様に、学校でやろうと考えていた「うどん1000食分の炊き出し」もかなわなかった。

「子どもたちに笑顔を」「子どもたちに食べさせたい」

そういう想いがいくらあっても、その想いが届くにはかなりの困難がある。
それが、報道では「物資もボランティアも足りている」と言われているはずの被災地の現実……。

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3月11日。

東北地方を震源とした群発地震は予想もできない大津波を引き起こし、そして想像もできないほどの多くの命を奪っていった。

その影響の大きさは2ヶ月たとうとする今でも……いや、ここから先なおのことその爪痕をあらわにしてきているが、その一方であの時点でみんなの気持ちが「被災地」に向き、「何かできることは?」という一つにまとまった気持ちは次第に「日常」の中に薄れつつあるのかもしれない、という感じがある。

けれど、今でもまだ被災地では捜索が続き、がれきの山は積み上がったまま。

冒頭に記述したように4月の末現在、いまだに子どもたちにも充分な栄養のある食事が行き渡っていないし入浴もままならない避難所生活の中にある人が大半だ。

(4/27女川第一中学校から見下ろす風景)

さらに、原発の恐怖。

放射能汚染(被曝)の恐怖に加えて風評被害という2次、3次、4次と続く被害、天災のみでなく人的被害までを直接被っている被災地の人びとにとって「これから」はまだまだ見えてこない。

被災地から遠く離れたここ長野県では、同時期に起こった栄村震源地となる地震による被害を受けた人びとも同じように復興の目処も立たずにいるが、それすらも「実態」「事実」はなかなか見えてこないし伝わってこない。

そんな中でも「自分たちにできる事を」と多くの人たちが想い、それぞれの場所、それぞれの立場でできる事を頑張っている人びとの支援活動もたくさんある。

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「笑顔プロジェクト」はWeb上で始まったそんな支援活動の一つ。

長野県小布施町浄光寺。
副住職の林映寿(はやしえいじゅ)さんを中心として始まったこのプロジェクト。林さんがその笑顔プロジェクトの仲間・協力者24名と4月27日訪れた被災地(宮城県石巻)の姿は、報道されているものとは全くかけ離れていました。そこで信じられない状況と現実を目の当たりにしてきたのです。

震災から間もなく2ヶ月を迎えようとする今、笑顔プロジェクトメンバーが現地の人たちから受けとめてきた「これを風化させないで、記憶から消さないで」という訴えを繋げるために、この林さんの活動を中心に見えてくる震災の事実を今日から11日まで5回に分けて記述していこうと思います。(その2に続く)

文・駒村みどり
*使用写真は林さんはじめ24名が4/27に被災地宮城県石巻市に行ったときのものです。
(石巻市での活動報告は→ こちら

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

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