Photo : Midori Komamura
ところが、この「ゆとり」という言葉から、そういう姿を想像できるでしょうか?
たとえば、このゆとりという言葉が浮上した頃、学校は土曜が休みになって週五日制になりました。それまで、土曜日も学校に行っていたのに、週に二日も家で子供たちが過ごす……教師は休みが増えて、子供たちを見てくれる場所がなくなった……。どうしてくれるのだ?そういう意見で週五日制には猛烈な反対意見が湧き上がりました。
つまり、まずは学校が休みになること=時間のゆとり、という認識。
時間の余裕を与えたら、子供は家ですることがないからゲームで遊んでいるだけだろう、勉強もせずに遊ぶ時間を増やしたら当然学力(この場合はテストの点数ですね)が落ちるに違いない。夏休みや冬休みがあるのに先生たちは土曜も休みになる。そんな余裕もゆるせない。そういう危惧が「ゆとり」という言葉によって強調されました。(学校現場にいるときは、そういう批判をものすごく感じました。)
けれども、本来ここでいう「ゆとり」とは、時間のゆとりではなく心のゆとり、考えるゆとり、学ぶための思考範囲の広がりという意味でのゆとりのことであったのです。その認識の違いは大きい間違いでした。
もう一つ、学習内容を整理して削減し、「詰め込み教育」からの脱却を図る、という方針も「勉強内容を減らしたら、出来ない事が増えるじゃないか」という考えから「ちゃんと教育がなされなかったバカ」という意味を持って「これだからゆとり世代は……。」などと揶揄されている現状が誤った「ゆとり」の認識を的確に表現しています。
確かに、教科書に掲載される内容は減ったかもしれません。けれど、先にも書いたように「教科書には載っていないけれど身につくこと」が山のようにあるのです。
さらにそれは「これを教えなさい」と上から押しつけられた勉強ではなく、テーマの実現を目指して自らの意志を持って取り組む学びですから、学びの内容だけでなく、学び方も自然に身についていきます。自らより高次のテーマにむかって進むことも出来るのです。
そして、そこで身につく学びは1人1人全く同じではありません。それぞれの生徒が自らの必要に応じて必要な学びを得る。だから、みんなで一斉に同じ問題に取り組む「ペーパーテスト」では計れない力、けれども、そんな問題にはおさまりきれない力=学びの力、考える力、解決する力=生きる力=イメージする確かな力、が身につく学習なのです。
それは上からの詰め込みのように簡単に得られる学びではありません。だから一年や二年で結果が出るものではない。本当にその意味が見えるのは5年、10年、もっと言うと社会に出て自分で生きるようになってから。それを最初から「ゆとりはダメだ」という世論がその「余裕」さえも与えてはくれなかったのです。
点数がとれない。だからダメだ。子供たちは遊んでいるようにしか見えない。ちゃんと黒板に向かってしっかり公式や法則を覚えなくては勉強じゃない。こんな甘ったるいことしていたらダメじゃないか。
その危惧が社会全体を覆い、その危惧にきちんとした学びのあり方を究明する余裕もなく、「ゆとり失敗」と言われてまたもや「詰め込み教育」に後退する、という愚行を日本の教育は行ってしまったのです。
こうして、詰め込み教育というカンフル剤のような即効性はあるけれど持続性のない教育を、「点数重視」の社会は選びました。
ゆとり教育の本当の狙い、総合学習で狙える力……それは一生の学びにつながる力であり、確実に身につくもの。いわゆる「体質改善による健康な力ある学び」を目指すことが出来たはずなのに、それをじっと見守ることも待つことも出来ないまま、より強力なカンフル剤を求めて迷走する状態に陥っているのが今の日本の教育です。
強い薬は、同時に強い毒でもあり、身体をむしばみ続けていることにも気が付かないままで。はたしていつまでこの身体(日本の教育)は持つのでしょうか?