もともと、学校は「教科・単元・領域ごと」の枠で仕切られた勉強が当たり前でした。この教科ではこういう内容について、この学年ではここまで、その次にはここまで教えなさい、ということがはっきりと決まっていました。つまり「学習指導要領」という「教えるべき内容の基準」をいうものが全国統一されてしっかりあって、それを身につけさせるのが学校の勉強でした。
まず、これを崩すことが大変でした。
数学や国語という教科を教えない。だから、内容の基準もはっきり決め出すことが出来ない。その時その時に必要な場面での学びがあるのがいいのであって、こちらから教材を用意して「教える」ことはNG。
けれども実は、学びの要素を生徒たちの意識や流れに上手に組み込むのかは教える側の創意工夫にゆだねられる。つまり、今までのように指導要領一冊持ってその「段階」に従った内容を教えるだけではダメで、生徒の見取りの力、学ぶ内容を組み込み課題に沿ってヒントを与える力、教科という枠を越えた膨大な知識、様々な技術……先生たちにもものすごい学びと実力が要求されます。
さらに「教える」という行為が一見すると無いわけで、「何もしていない」ように見えてしまう。「教える」プロであった先生たちが混乱するのは……それもずっとそれでやって来た先生方が混乱するのも無理からぬことでしょう。
さらに、先生方はそうして自分の専門教科の教え方を身につけているわけで、自らがこの「教科学習」での優秀な成績を収めて大学までの学びを終えた人たち。教科を越えた学びをイメージするのは、確かにものすごく難しかったことなのです。
私自身は「生活単元学習」について新卒で学ぶことが出来、それ以来自分の専門教科である音楽や英語の授業でもこの考えを取り入れて、数学や国語、社会などの他教科の要素を取り入れた学びを展開していました。けれど、養護学校から小学校に転任して最初の研究授業では、そういう私の授業は「教科らしからぬ」「養護学校的な指導」という「ご指導」をいただくことになり、やはり教科的な指導になれた先生方には理解してはもらえなかった経験があります。
「総合学習」の考え方が学校に入り始めた頃。これと同じような混乱が学校の中に起こっていました。それも降ってわいたように「これから総合学習というものが入ってきます。先生たち、それで教えてください」という「おふれ」が来た後で、先生たちはカリキュラムの組み直しとそれを身につけるための研修や研究会で必死。
けれど、自らがそういう学びをしてこなかった先生たちが、今までの教え方で毎日の授業を進めながら、研修・研究会でじっくり新しい学びである「総合学習」について身につけるだけの余裕が許されるものでしょうか。正直いって、かなりの混乱状態のままでこの「ゆとり教育」は見切り発車……という感が強かったように思います。
今現在、この総合学習の学びのあり方をしっかり「イメージ」することができ、その本当のあり方や意義を理解できた先生方は、第3章の実例のようにすばらしい成果を上げつつあります。しかし、どうあっても教科制という枠組みの呪縛から逃れることの出来ない大多数の「学校のあり方」から総合学習は見放され、削減の一途にあります。
イメージしてみてください。
このまま、教科制というベルトコンベヤー式の学びを続け、「頭に詰め込むだけ」の学びを続けること。
しっかりと総合学習本来の意義をしっかり見直し、見据えて教育の体質改善に真剣に取り組むこと。
どちらの方がこれからの社会や未来を担う子供たちにとって本当に必要な学びのあり方なのでしょう?