2011年 1月

(3)ゆとり失敗の原因

もう一つ、この「ゆとり教育」の目玉である総合学習がなぜきちんと機能しなかったのか、という大きな理由は「教科単元制」にもありました。

私は、新卒の時に養護学校に赴任しました。ちょうどその翌年からその学校は文部省(当時)の研究校に指定され、全国区の研究校としての研究をすることになってそのテーマに据えられたのが「生活単元学習」というものでした。

    生活単元学習は,児童生徒の生活上の課題処理や問題解決のための一連の目的活動 を組織的に経験することによって,自立的な生活に必要な事柄を実際的・総合的に学習するものである。(盲学校,聾学校及び養護学校学習指導要領(平成11年3 月)解説(文部省)より)

つまり、身体に障害を持つ子供たちが自らの出来ることの可能性を増やし、生きる力をつけるために教科や領域に縛られない学びをする。それが生活単元学習です。

たとえば、生徒の意欲・関心に沿うようなテーマ設定をする。身体の自由がきかない生徒たちが工夫し協力して何か「製品作り」に取り組み必要な技術を学びながら、学校祭のバザーや町に出て販売活動をする。材料を購入するために畑で花や作物を育てて販売する。

その中でお金の数え方や計算を身につけたり、お客様に対しての言葉遣いや対応を学んだり、ポスターや招待状を作ることで文章を考えたりデザインを工夫したりする。材料費を払ってある程度の売上が出たら感謝祭のようなものを計画し、材料を買いに行くためにバスや電車の乗り方やチケットの買い方を知る。車内のマナーも考える。調理をしてみんなで感謝して食べる。その時にみんなで楽しむゲームや歌なども考えて練習する。

その中には当然、教科的な内容も入ってくるわけです。お金の計算……収支、予算の立て方。花を育てるのに理科の知識。招待状を書く文章力。誤字脱字に気をつけて、漢字を使って読みやすくすること……。そんなふうに「教科・領域を越えた」学びをするのが生活単元学習です。

これは、実は「総合学習」に通じる学びであることにお気づきでしょうか。障害を持つ生徒たちにとってはそれこそ「生きる力」は本当に自らの命に関わる部分でありますから、かなり「生活」に密着した学びになっています。それがもう少し教科的な色合いが濃くなっているのが総合学習……という風に私は感じています。

さて、先ほどの新卒の学校の話に戻ります。新卒の私はまだまだ経験が浅い中、この「生活単元学習」について学びました。この「経験が浅かった」というのが幸いしたのだと思います。「教科を越えた」という意味について割にすんなりと受けとめることが出来ました。

しかし、先輩の先生方にとってはだいぶ抵抗があったように感じました。つまり、「算数や数学、国語、理科などの教科を教えない」ということに対してのイメージを作るのにものすごく抵抗があったのです。

総合学習

Photo : Midori Komamura

日本の教育

Photo : Midori Komamura

ところが、この「ゆとり」という言葉から、そういう姿を想像できるでしょうか?

たとえば、このゆとりという言葉が浮上した頃、学校は土曜が休みになって週五日制になりました。それまで、土曜日も学校に行っていたのに、週に二日も家で子供たちが過ごす……教師は休みが増えて、子供たちを見てくれる場所がなくなった……。どうしてくれるのだ?そういう意見で週五日制には猛烈な反対意見が湧き上がりました。

つまり、まずは学校が休みになること=時間のゆとり、という認識。

時間の余裕を与えたら、子供は家ですることがないからゲームで遊んでいるだけだろう、勉強もせずに遊ぶ時間を増やしたら当然学力(この場合はテストの点数ですね)が落ちるに違いない。夏休みや冬休みがあるのに先生たちは土曜も休みになる。そんな余裕もゆるせない。そういう危惧が「ゆとり」という言葉によって強調されました。(学校現場にいるときは、そういう批判をものすごく感じました。)

けれども、本来ここでいう「ゆとり」とは、時間のゆとりではなく心のゆとり、考えるゆとり、学ぶための思考範囲の広がりという意味でのゆとりのことであったのです。その認識の違いは大きい間違いでした。

もう一つ、学習内容を整理して削減し、「詰め込み教育」からの脱却を図る、という方針も「勉強内容を減らしたら、出来ない事が増えるじゃないか」という考えから「ちゃんと教育がなされなかったバカ」という意味を持って「これだからゆとり世代は……。」などと揶揄されている現状が誤った「ゆとり」の認識を的確に表現しています。

確かに、教科書に掲載される内容は減ったかもしれません。けれど、先にも書いたように「教科書には載っていないけれど身につくこと」が山のようにあるのです。

さらにそれは「これを教えなさい」と上から押しつけられた勉強ではなく、テーマの実現を目指して自らの意志を持って取り組む学びですから、学びの内容だけでなく、学び方も自然に身についていきます。自らより高次のテーマにむかって進むことも出来るのです。

そして、そこで身につく学びは1人1人全く同じではありません。それぞれの生徒が自らの必要に応じて必要な学びを得る。だから、みんなで一斉に同じ問題に取り組む「ペーパーテスト」では計れない力、けれども、そんな問題にはおさまりきれない力=学びの力、考える力、解決する力=生きる力=イメージする確かな力、が身につく学習なのです。

それは上からの詰め込みのように簡単に得られる学びではありません。だから一年や二年で結果が出るものではない。本当にその意味が見えるのは5年、10年、もっと言うと社会に出て自分で生きるようになってから。それを最初から「ゆとりはダメだ」という世論がその「余裕」さえも与えてはくれなかったのです。

点数がとれない。だからダメだ。子供たちは遊んでいるようにしか見えない。ちゃんと黒板に向かってしっかり公式や法則を覚えなくては勉強じゃない。こんな甘ったるいことしていたらダメじゃないか。

その危惧が社会全体を覆い、その危惧にきちんとした学びのあり方を究明する余裕もなく、「ゆとり失敗」と言われてまたもや「詰め込み教育」に後退する、という愚行を日本の教育は行ってしまったのです。

こうして、詰め込み教育というカンフル剤のような即効性はあるけれど持続性のない教育を、「点数重視」の社会は選びました。

ゆとり教育の本当の狙い、総合学習で狙える力……それは一生の学びにつながる力であり、確実に身につくもの。いわゆる「体質改善による健康な力ある学び」を目指すことが出来たはずなのに、それをじっと見守ることも待つことも出来ないまま、より強力なカンフル剤を求めて迷走する状態に陥っているのが今の日本の教育です。

強い薬は、同時に強い毒でもあり、身体をむしばみ続けていることにも気が付かないままで。はたしていつまでこの身体(日本の教育)は持つのでしょうか?

もともと子供というのは「イメージする力」(夢を描く力)に長けています。この世の経験年数が少ない子供たちはそれがゆえに自由にイメージを拡げることが出来ますし、それをもとに生きています。

そういう「イメージの固まり」である子供たちに知識や経験というイメージ化を助ける材料を与え、その方法の学びをする場所……それが本来の「学校」の役割なのです。イメージを妨げる「点数重視、テスト重視、学歴重視」の今の学校制度の中ではそれがいつの間にか忘れ去られてしまっているようですが。

(だから、イメージが出来る子供たちほど苦しくなる。不登校やいじめの大きな要因の一つは、イメージできる子供をきちんと支えることが出来ない今の学校制度にあります。)

その最たる出来事が「ゆとり教育の失敗」なのです。

「ゆとりはダメだ」と口にする人々に私は言いたいのです。
「ゆとり教育を失敗に導いたのは、あなたたちなのですよ。」………と。

そもそも、日本を救うはずだったあれだけの教育へのてこ入れに対して「ゆとり」というネーミングで「間違ったイメージ」を植え付けた時点ですでに、この教育再生への大切な手立ては「失敗」したと言っても過言ではないのです。

「ゆとり教育」と一般的に呼ばれている教育の方向性は、先にも述べたように本来その柱が「総合学習」という学びのあり方を柱に組み立てられていました。

総合学習というのは、教科や単元という「枠」にとらわれず、その時その時に起こったことや発生した事件、ぶつかった問題点などに「どう当たっていくのか」を考えていく学びです。

だからその上で必要な計算の力をつけたり、身のまわりに起きる事象の科学的・歴史的説明について追求したり、その表現をするために文や音や絵などで伝える工夫をしたり……。つまり、学校という社会縮図の中で「生きる」ために必要な学びをその時々の必要に応じて先生と生徒が一緒に膝をつき合わせ、一緒に悩んだり考えたりしながら身につけていく、という学びなのです。

教科指導は「まず学習内容ありき」。この単元や指導項目を「どう教えるか」が問題になります。

一方の総合学習は、あるテーマに向かって「どう進むのか」、「どう組み立てるのか」、「どう考えるか」が問題になるので、学ぶ内容がついてくる形になります。学ぶ内容をそれぞれが探り出し、自分から求める形になるのが教科学習との大きな違いです。

ですから、実は、時間的な「ゆとり」などは全く許されないのが本来の総合学習のあり方です。生徒も先生も、たとえば第3章の事例で取り上げたように「映画作り」というテーマや「学校美術館」というテーマ、「祭の成功」というテーマを共通して持った上で、それをやり遂げるためにあらゆることを自分たちで組み立て、考えて取り組んでいくわけです。

取り組む生徒たちにとっては、何が起こるかわかりません。映画作りや美術館作りに必要な資金も、技術も、何が必要なのかもわからない。取り組む順番もわからない。

そういうわからない中、手探りで進む中で様々な「困難」が立ちはだかる。どうしたらいいのだろう?どう乗り越えよう?………必死です。テーマを実現するためには、立ち止まってはいられないのですから。さらに、そういう生徒たちの姿を見取りあらゆる場面や状況を想定しながら下調べや準備をし、生徒と共に取り組む先生はなおのこと、本当に息をつく暇もありません。麻和教諭も、中平教諭も、自分自身の時間を削っても「テーマの実現」を生徒と目指して奮闘しているのです。

(2につづく)

総合学習

Photo : Midori Komamura

なのになぜ、今の日本では「勉強すること」=学ぶことになってしまっているのでしょうか。学校ではちゃんと「学び」の方法を教えてあげているのでしょうか。「学ぶこと(内容)」を提示した後、それをちゃんと「習う」方法をろくに提示せず、テストで「理解度を確認」(とは言え点数の高い低いが判定基準になっている場合が明らかですが)して、点数が低いから「勉強しなさい」となる。

おかしいですよね。学校でちゃんと「学ぶこと」「習う方法」がわかったら、知識を得ることの楽しさを知った子供たちが自ら「もっと知りたい」「もっと出来るようになりたい」と「勉強」する……それが本来の姿であり、流れであるべきなのです。

ところが。今の学校では「この単元の主眼」というものが設定されていて、知識の取得が授業の最終目的です。「学びの方法」ではありません。それを取得したら、その力を次につなげる間もなく「次の単元の主眼」に取り組まねばなりません。

身についたかどうかの確認はあくまでも点数で。平均点の上か下か。それだけの判定で進んでいきます。その子がいったいどこに躓いてわからないのか。逆にもしかしたら偶然ヤマカンで良い点が取れただけなのか。その判別は点数だけでは絶対に出来ません。だから点数が悪いと「わかってない」から「ダメ」となって、先生からも親からも「もっと頑張れ」と怒られます。だけど「どうしたらわかるようになるのか」はだぁれも教えてはくれません。

「何だ、ぼくはどうせ出来ないダメなやつだ」「こんなのわけわかんね〜」……わからない生徒は、「わかりたい」「出来るようになりたい」という自分を押し殺し、そうやって自分を卑下するか笑ってごまかすかでその場をしのぐしかないわけです。それがずっと続くわけです……もしかしたらエジソンのように、徹底的に「学び」に集中し、「習い方」を教えてもらえればちゃんと自分で「勉強」出来るようになる子は山ほどいるのに。その子もごまかし笑いではなく「わかった!」という笑顔になれるはずなのに。

つまりそうやって子供たちの「可能性の芽」をつぶしているのが点数に左右される学校や親たちなのです。それに翻弄される子供たちがやがて力尽きて学ぶことの楽しさ、喜びも知ることがないままに「勉強嫌い」になるのは当然でしょう。いえ、「勉強嫌い」と言うよりも、「勉強がしたくても手も足も出ない」状況にある、と言った方が正しいでしょう。

今の日本の教育がなぜ落ち込んでいるのか。生徒の学力が落ちているのか。ここまで読んだら「それは仕方がない」と思いませんか?日本の教育がなぜ「ダメ」なのか……それは「勉強」と「学習」の区別もつけずに順序を間違え混乱している結果なのです。

その混乱を解消し、きちんとした学びを取り戻すための特効薬が実は「総合学習」です。そう、それこそがいわゆる「ゆとり教育」の柱とされた学習のあり方だったのです。

「ゆとり教育は失敗」といわれ、「ゆとりはダメだ」と揶揄されるあの「本来の学びを取り戻すための最後の手段」を失敗に導いたものは……何あろう、この「勉強」と「学習」とをまぜこぜにしか捉えることの出来ない日本の社会全体だったのです。

Photo : Midori Komamura

今、子供がテストの点のところを折って隠して持ち帰ってくるテスト。なぜ「点数」を隠しているのでしょうか?

それは、悪い点だと出来ないヤツの証明になり、進学先を決めるのにも、成績を決めるのにも、みんなその「点数」がものを言うからです。時に友だちづきあいにまでも影響する「点数」。

けれど、その点数にはいったいどのくらいの意味があるのでしょうか。

「先生……今回ダメでした。親に怒られました。」

そういって私にすまなそうにテストを手渡す生徒の答案を拡げます。ざっと見ると以前は全く計算問題さえも解けずに「当てずっぽう」で書いていた答えが、今回は間違えてはいてもかなりいいところまで行っています。

「ねぇ、今回のテストの手応えはどうだった?」
「先生、間違えたのだけど、ここは計算間違いしちゃって、ここは写し間違いしちゃって……ものすごく悔しいです。」

テストの点自体は全く変化がない同じ40点だとしても。まったくわからない40点の時にはこの生徒は自分のばつの悪さを隠すために笑ってごまかしていたけれど、同じ40点でも今回の表情は「悔しい」とにじみ出すもので、以前のごまかし笑いなどは全く浮かんでいません。

けれど、学校でもお家の人の評価でも、この40点は「変化がない」40点なのです。この子がいかに頑張って「わからない」ところから「わかっても間違えてしまって悔しい」ところまで進歩し、成長したのか……それを誰も認めてはくれないのです。変化がない「点数」しか見てもらえないせいです。

けれども。この生徒はすでに「わかる喜び」も「解くことが出来た快感」も体験しています。以前のように笑ってごまかさなくても、「ここが間違っていたから、次はここに気をつけよう」という道筋が自分の中で出来上がっているのです。つまり出来るというイメージが自分の中で確立したのです。

こうなると、後は自分で学ぶ喜びにむかって進みます。「勉強しなさい」などと言われなくても、自分からちゃんと学ぼうとするのです。

「勉強」という漢字を見つめてみてください。「勉めて(努力して)強くする」という二つの感じはどちらも「強化」する意味合いがあります。むち打って強くなること、それが「勉強」。つまり「学び」そのものを意味するのではなくて、「学ぶための方法・手段・姿勢」なのです。

一方の「学習」は、「学び習う」こと。学ぶという言葉の語源は「真似る」から来ています。つまり、お手本を見習ってその真似をして身につけること。習う、というのはそうして教わったことをくり返し練習して身につけること。

英語では勉強=study、学ぶこと=Learnと一般的に訳されていますが、確かにstudyというのは「強化する」という意味合いを持ちますし、learnというのは学ぶ、習う、などの意味の他にも「知る」という意味合いも含まれます。

学校でやるべきこと、生徒に対して行うことはまず「学び」があるべき。そして学習、という経験を積んだ生徒たちが自らそれを身につけるために頑張る行為、それが「勉強」なのです。

(3につづく)

まなび

Photo : Midori Komamura

1「ゆとり教育」はなぜ失敗したか。
(1)「勉強」と「学習」は全く違う。〜エジソン成功の理由

まなび

Photo : Midori Komamura

第1章でも触れたように、今でこそ発明王と称されるエジソンも幼い頃は「劣等生」でした。

どうやらエジソンは「学校の勉強」は得意でなかったし、科学理論に詳しかったわけでもなかったようです。けれど、なぜあれほど多くの発明で人に役立つことが出来たのでしょう。

彼が友人に残した言葉によると「自分は頭で(考えて)発明をしたのではなく、自然界のメッセージの受信機として宇宙という大きな存在からのメッセージを受け取り記録(=発明)していたに過ぎない」……のだそうです。

この彼の言葉からも、あの数多くの偉業は彼自身がいかに「イメージする力」と、それを「拡げる力」に支えられて成し遂げてきたのか、ということがわかります。

机の上でひたすら紙とペンを相手に計算していただけでは出来ない事だったのです。

彼は、幼い頃に学校からはみ出して教師からは劣等生扱い。だから彼の母親が彼を自らの手で学び導いたのだと伝えられます。(この真偽については様々な説があるようですが)

母親は、彼の好奇心に満ちあふれた「なぜ?」「どうして?」という質問の中に、彼がイメージしようとしていることを見取って、それを支え、拡げる教育をしたようです。

エジソンの母を伝える文では「いい点を取る子=いい子供」という感覚とは全く逆の理念を持ち、エジソンの力を見抜くことの出来なかった学校を「興味を持たせられない教え方が悪い」と辞めさせ、彼女自身がエジソンを教育しながら彼の「なぜ」「どうして」を解明しようとする姿に徹底的につきあった、といわれています。

(2に続く)

お勉強

Photo : Midori Komamura(my father)

1 「ゆとり教育」はなぜ失敗したか。

(1) 「勉強」と「学習」は全く違うもの。~エジソン成功の理由
(2) 「ゆとり」という間違ったイメージがぶち壊した教育再生への道
(3) ゆとり失敗の原因〜一番イメージできなかったのは教える側
(4) 頭が良くなる早道は「ちゃんと遊ぶこと」=「イメージの貯金」
(5)「記憶」を支えるのはイメージ。

2 「イメージ」は自ら学ぶ気持ちを育てる。

(1) なぜ?→【イメージ】→そうか、わかった!
(2) 「テストは楽しい」のイメージづくり〜実力点を出そう。
(3) 「学び」は究極の「遊び」
(4) 禁止から生まれるものは何もない。
(5) 「賢い子」を育てたいならまず親が学ぶ。
(6) 「イメージノート」を一冊持つ
(7) 「コマちゃん」誕生秘話

3 「イメージ」で国語の力をつける。

(1) 漢字はひとりひとりの人間と同じ。
(2) 文章を書くには「役者」になろう。
(3) 毎日の生活で国語の勉強は出来る。
(4) 「固まりトレーニング」

4 「イメージ」で数学(さんすう)の力をつける。

(1) 計算がわからなかったら数字に置き換えて考えよう
(2) 文章問題は「数学語」に訳して考えよう
(3) 頭で考えないで紙と鉛筆に考えさせる。
(4) 等式は上皿天秤
(5) 分数ってとっても便利

5 「イメージ」で英語の力をつける。

(1) 英語に訳す前に、まず日本語を英語的日本語に訳そう
(2) 並び替え問題は、プラモデル作りと同じ。
(3) 長文問題は比べっこ。
(4) リスニングは必死で聞かない。
(5) 英語が上達したかったら音楽を学ぼう。

6 「イメージ」でテストの点をアップさせる。

(1) テストはパズルと同じ。
(2) テストはかくれんぼと同じ。
(3) テストは根比べと同じ。

こどもの可能性

Photo : Midori Komamura

さて。

「何でみんなこんなに勉強が嫌いなんだろう、ほんとうはもっと楽しいのに。」

このブログを書きはじめるそもそものきっかけが、これでした。

わたしは勉強、好きでした……、とは言ってもそれは中学生になってからです。「先生になりたい」という夢は両親が教師だったせいか子供のころからあったけれど、それを本気で考えたのも中学生のことがあったからです。

昨日、娘と話をしたのですが、実は、小学校の頃は自分は劣等生だと思っていました。

身体が弱くて、学校を休みがち。体力がないから体育が苦手で、見るのはみんなの背中ばかり。給食も全部食べられなくて、お掃除の時間になっても教室の後ろで残されて最後まで食べさせられました。(残すことは許されなかったのです。)最初で最後の「0点」をとったのもこの頃でした。学校を休んだ時にさんすうで「速さ」の勉強があり、それについて学ばずまったくわからないままテストを受けた結果でしたが、子供心に「0点」の与えた衝撃は大きかったのです。

そしてまた小学校高学年の担任は、わたしを理解してくれていたとは思えませんでした。

「動作がのろい」

小学校の通知表に書かれたこのひとことは、今でもわたしの心に突き刺さっています。母が支えてくれていなかったら、私は不登校になっていたかもしれないと自分が教師になって思うことがたびたびありました。

中学生になった時の担任は、音楽の教師でした。

大人になってから聞いたのですが、その先生は「この子どもは小学校の時にどんな扱いを受けていたのだろう?なぜ、こんなに小さく縮こまっているのだろう?」……と感じて、わたしを見守ってくれたようです。

音楽教師だったので、わたし自身の持っている音楽的な素養を見つめて伸ばしてくれただけでなく、人間としての頑張りや人のために出来ることをしたい……という私の頑張りを理解し、ルーム長などの責任ある立場で必死で迷いながらやっているわたしを支えてくれました。

その先生の支えや各教科担任の「学び」の本質にそった教科指導で、わたしは「勉強(というよりも“学ぶこと”)って面白い!」と感じるようになったのです。

これが、単なる「点数重視」の指導をしていた先生方だったら、わたしはたぶん小学校の時の延長で中学でも「学ぶこと」の楽しさを知らないまま劣等感のなかに今に至っていたのかもしれません。

「先生になりたい」という思いは、たぶん小さな子供のころから持っていたのでしょうが、本気で「先生を目指そう!」と思ったのはこの中学時代のことからです。

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そういう観点から世の中をずっと見てきた時に、今の社会はほんとうに苦しいと想います。

わたしはそういう多くの先生方の支えがあったからこそ今日に至っているし、わたし自身がそういう教師になりたいと想い、その想いに添って進んできたのですが、そのわたし自身が「教師」をしていて苦しくなった。うつに陥って「学校」という世界は苦しくなった。同じように、学校でも家庭でも子どもたちも苦しんでいて、「不登校」や「いじめ」が後を絶たない状況です。

自分が学校という制度の中に生き、そこで生徒たちや同僚たちと関わり、さらに自分の息子が不登校に陥り、一方で娘は学校というものの理不尽さを感じながらもがいていて……。

そんな状況の中で、うつが原因で仕事を辞めてから、わたしは家庭教師として何人かの子どもたちと関わってきました。そこでもやっぱり子どもたちはみんな「勉強が嫌い」なのです。

だけど、わたしが「勉強ってほんとは面白いんだよ?」と心の中で呼びかけながら共に学ぶ時間の中で、子どもたちは皆「わかった!」「そうか!」と叫んで笑顔になる瞬間が増えていって……「先生、今まで、学校の授業の時間って、ほんとつまんなかったよ」とさいしょは自分が「劣等生だ」と思いこんで下を向いていた子どもたちが語りはじめるのです。その姿は、中学に入って「学ぶ事って楽しい!」と心から感じて嬉しかった時のわたしのようでした。

本来、子どもの可能性を伸ばすはずの学校が、ものすごく才能や可能性を持っているはずの多くの子どもたちをつぶしている。

それが日本の現実です。
それを何とかしたいのです。

わたしが社会を見つめる観点は、「子ども」です。

子どもたちが輝くことの出来ない社会は、未来のない社会。まず、子どもが輝ける社会にならないと、人に優しいもありえません。活力ある社会もありえません。子どもたちを輝かせることこそが、日本の社会……いえ、この地球全体が「生き生きと輝く」ための必須条件なんだと想っています。

……このブログを書こうと思ったきっかけが、そこでした。
その観点で社会を見た時に。
今の社会はとても悲しい事実が山積みです。
子どもの虐待。自殺。不登校、いじめ。

それがなぜ起こってくるのかと言ったら、子供のころに「あなたにはちゃんと可能性があるんだよ」という声をかけてもらえなかった多くの子どもたちが大人になり、その大人たちが作った社会の結果なのです。

すべての子どもには、それぞれに伸ばすべき才能がちゃんとあります。
すべての子どもには、あふれんばかりの可能性と未来があります。子ども自身がみずからそれを探り、見つけ出し、磨く力をつけてやること。
それが大人のするべき事です。

そしてそれが、実は「明るい活力ある日本の未来」への一番の近道なのです。

第4章は、そこについてわたしの感覚からはじめて、具体的にどうしたらいいのかをわかりやすく記述していこうと想います。

お読みになって、「こんな時はどうしたら?」とか「こういう子供はどう考えたらいいの?」というご質問、「これはこうした方が良いのでは?」というご意見がありましたら、このブログを拡げる上でどんどんお寄せ下さい。本文中やこのコラム欄で、取り上げていきたいと想います。

皆さんにとって、たぶん一番身近なテーマになると想います。
だからこれからのこのブログは、皆さんと一緒に作っていきたいと思うのです。

風子2

Photo : Midori Komamura

けれど、彼女は気が付いたのです。
「死んでも、自分は障害者のまま。死んでも何も変わらない。だったら生きたい……。」

そうして彼女は、その足にペンを持ちました。……詩を書きました。
その足に、絵筆を握りました。……たくさんの「絵」や「絵足紙」が生まれました。
その足で、キーを叩きました。……キーボードからたくさんの音を奏でました。

そして、その中で……自らの「人とは違う」=「障害のある」身体さえも、胸を張って受けとめ、人の前にでて講演をし、その想いや願いや感覚を人に伝える活動に取り組みはじめたのです。

冒頭に描いたように、彼女の言葉はとても聞き取りにくいものです。自分の思惑とは逆に、「話をしよう」と思うと脳から余計な緊張の「命令波」が出て、体中が硬直してしまうからです。

それ以上に、ひとめ見た時に明らかに異なった外見は、時に好奇の目を誘います。

けれど、たとえば学校の講演で……「何でそんなヘンな格好なの?」という子どもたちの素朴な質問を、彼女は押しとどめようとはしません。

「普通の」「常識ある」大人は、顔色を変えてその言葉を止めて隠そうとする中で、「そうでしょ、おかしいでしょ?」と彼女は笑顔で答えるのです。

「見た目がおかしい」「自分たちとは違う」……そう素直に感じた子どもが発する言葉を、「止めなさい」と押しとどめること自体がすでに、「そう言うことは思っても言ってはいけない」という常識の中で、「障害に対して興味を持つことはいけないこと」というマイナスのイメージを植え付けてしまっていることにそういう大人たちは気が付いていないのです。

むしろ、風子さんのように、「おかしいものはおかしいよね」と認め、だけどそこには「こういう理由があって、こういう苦労があって、だけどこんな風にがんばっているんだよ」という赤裸々な事実を正直に、ストレートに、伝えてあげる。

そうすることで「おかしい、なぜ違うの?」というイメージを「違うことの理由や違うことで発生する事実」を認識して正しいイメージにつなげていく事の出来る人を創り出すことが出来るのです。

風子さんは、自分の姿を人前に出すことを厭いません。その胸を張った姿に、「障害」という言葉を「差別」の線ひきで使うことの愚かさを、人は言葉よりも文章よりもダイレクトに心で受けとめて理解することが出来るのです。

それによって「人は違って当たり前」というほんとうに「当然のイメージ」を人は再確認することができるのです。

彼女の様々なものを生み出すその足のつま先に小さな火のようにともったようも輝く赤いペディキュアと、それから文字通り彼女を支え続けて来た手入れされた美しい足の動き。

誰よりも輝いて自分を生きている風子さん。その笑顔の前には「障害」とか「人と違う」などという「区別」の意味のなさを実感するのです。

風子さんが笑うと、周りの人も心から笑う。
その笑顔の連鎖を生み出すイメージは、彼女が様々なものを乗り越えたその上に成り立つところから来ています。

常識とか、正しいこととか、そんな事はどうでもいい。

自分が自分であり、自分が自分として与えられたものの中で必死で生きている。
その「事実」は、何よりも生きることについて強く明るく希望のあるイメージ。

……それが、彼女の笑顔のもたらしてくれるものなのです。

詳細N-gene記事:
心は体には囚われない〜風子、その1〜
心は体には囚われない〜風子、その2〜

(3) 「イメージ」がつま先からほとばしる 風子の絵足紙&トーク

ライブのステージの上で、彼女はものすごく汗をかく。
汗をかくと、ひょいと近くに置いてあるタオルを足でつまみ上げ身体をぐっと折り曲げて額の汗をふく。

そうしてまた背筋を伸ばすと、屈託のない笑顔でお客さんに話しかける。その笑顔……周りの人間も思わず巻き込まれてしまうその笑い声は、時に豪快ですらある。

「彼女」の名は、風子。

彼女は足でつまんだタオルを横に置くと、「それじゃ、次はこの曲ね。」そういってキーボードを足で奏ではじめる。

残念ながら、ちょっと慣れないと彼女の言葉はとても聞き取りにくい。だけど、周りの人間はそんな事は気にしていない。言葉は聞き取りにくくても、ちゃんと「通じて」いることが人びとの表情からは見て取れる。

風子さんは、その足でまた絵を描き、詩を紡ぐ。時に編み物もし、クッキーも焼く。
彼女の両手は、ほとんど動かない。「小児マヒ」……幼い頃発熱した。高熱が続き、その熱が下がったときに、彼女の身体は自分の想うようには動かなくなっていた。

この第三章の2節に記述したように、今までは「はみ出した」人たちを主に取り上げてきました。けれど、この第三章の終わりに取り上げる風子さんは、「有無を言わさずはみ出させられた」人です。つまり、自分の意志ではみ出したわけではなく、偶発的に与えられた状況からそこに追いやられた人、です。

一般的に「障害者」といわれる人たちは、その「障害」が先天性であろうが後発的なものであろうが、「普通の人とは違う」という観点から「区別」されます。そしてその「区別」のための線ひきは、そのまま「差別」の目印として機能します。

私たちは自分のことを「普通」に思いたい。だから、自分とは違うという「区別する存在」を見つけることで、自分は普通なんだ……という安心感の中に浸りたい。そこに生まれるのが「差別」という認識なのだと思います。

そして、その区別された人びとは、相手の安心感のために自分の存在を時に否定され、正しい認識の無いままに傷つけられて多くのものは「世の中」と離れたところで生きるしか無くなるのです。

けれど、風子さんは、その「障害」という区別の中に置かれ、「出来ない人」という認識に子供のころから追いつめられて来たけれど、そこに留まっていることはなかったのです。

きっかけは、好奇心を満たそうとする欲求。
小さな子どもが自分の手を使っていたずらも出来ない事でつのるイライラが、自分の「可能性」を開くきっかけになったのです。手が出ないから足を使った。自分の想いが、それでかなった……。

「足が使える」「手よりも思うように動かせる」

そう思って、手の代わりに足を使った。たったそれだけのことなのです。だけどそれは、「手を使うのが当たり前」の世の中で、「足は地面に触れるから汚い」という常識の中で、「肯定」されることは難しいことでした。

外に出ることが怖いと想い、ひとの言葉がまるで機関銃やマシンガンのように心を射貫く。自分が生まれてきたことの意味さえもわからない。

「死」をいう言葉も何回も頭をよぎる……。

(その2に続く)

風子1

Photo : Midori Komamura

時にはオギタカさんの朗読を聞くときもあります。

「大地のめぐみに ありがとう」「いのちのつらなりに ありがとう」「環になって 和になって おどろう」……「アフリカの音」という絵本です。

この本が与えてくれるイメージ。それは「すべてが循環していくことの大切さ」。

音あそびの会に持って行くこの本。会場の人たちは目をつぶって朗読をじっと聞き、受けとめます。時によっては様々な楽器の音がそこに「色」を添えることがあります。

そうして鮮やかに彩られた循環のイメージは、その場にいる人たち1人1人の中で、自分の周りにいる人たち、家族、友人、そういう人たちとのつながりだけでなく、大地、自然、地球とのつながりのイメージにまで拡がっていくのです。

「命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくる。
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。


 それが希薄になって来ている現代。 みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたら、もっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません……。 」

オギタカさんはこの想いを持ちながら様々な人たちと、様々な音を重ね、つながっていく……それがこの「音あそびの会」。そこには、大人とか子どもとか、男とか女とか、教える方と教えられる者とか、音楽の上手い下手とか、障害のあるなしなんてまったく関係のない世界が拡がります。

それは音楽活動を続ける中で様々な人たちとの出会いや、アスペルガー症候群といういわゆる「障害児」とされるお子さんとの毎日から受け取ってきた豊かなものたちが集結した、オギタカさんの一つの「実り」の形でもあります。

こうして、様々な場所で、様々な形で「命」や「大地の鼓動」と言ったイメージが音に乗って拡がっていき、そこにいる人たちとつながることで生まれる彩りをさらに重ねながら、オギタカさんと人たちとの間でどんどん循環し、さらにあたらしい生き生きとしたイメージを生みだしていくのです。

まるで人を創る細胞が細胞分裂してあたらしい細胞に生まれ変わっていくように……。

もしも、このイメージによってつながりあった人びとでこの社会や地球が満たされていったら……この世界はそれは色鮮やかで豊かな、人と人とが優しく寄り添いあえる世の中になって行くに違いありません。

N-gene詳細記事:
届け、つながれ。〜大地の鼓動・風の歌〜

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」がつなげる大地のパワー オギタカ・音あそびの会

「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」

音ひとつないしーんとした静寂の中で、ちょっと低くやわらかい声が言葉を紡ぐ。彼を取り囲むたくさんの視線は、真剣にその声の主を射貫く。さっきまで笑顔と様々な打楽器の音であふれた教室と同じものとはとても思えない。だけど、そのどちらもが人の持っている本質の表出なのだろうと思う。

声の主は、オギタカさん。彼は作曲家として数々のゲーム音楽を手がける一方で、シンガーソングライターとしても精力的なライブ活動を続けています。

そのライブで彼が奏でるのはピアノと、「ジャンベ」や「バラフォン」といったアフリカの楽器です。

オギタカさんはライブの時に首に提げたジャンベをたたきながら楽しそうに歌うので、お客さんもいつの間にかいっしょに歌い踊っている……自然とからだが動き、リズムの波に揺られてあふれる音に身体をゆだね、その場が一つの大きな輪に包まれる……そんな感じなのです。

アフリカでは、ジャンベやバラフォンのような楽器は「会話」のために使われているそうです。その音を聞いていると、リズムと音の強弱と、さらに高低と……様々な要素が絡み合って、人の叫びやささやき……魂の鼓動に聞こえてくるから不思議です。

もともと、音楽というものは人がその想いやイメージを人に伝えるために生まれてきたもの。そういう意味でアフリカの楽器たちはシンプルに、ストレートにその楽器本来の意味や命を果たしているのかもしれません。

それを強く感じることが出来るのが、オギタカさんがもう一つ想いを注いでいる「音あそびの会」です。

何回か、オギタカさんの「音あそびの会」に同席させてもらいました。

どの場面でも、最初その場にいる人たち(子どもだったり、大人だったり様々です)は、物珍しい楽器と「音楽」を目の前にかなり緊張の面持ちで始まりますが、オギタカさんに導かれながらジャンベに触れ、たたき、その音の「表情」を感じ始めるとまるで子どものような無邪気な笑顔が拡がりはじめます。

アフリカの楽器に限らず、オギタカさんは川原の石や竹筒まで、みんな楽器にしてしまいます。オギタカさんのリードでそれらを使って周りの人たちと音による「会話」を楽しみます。上手い、下手なんかなく、とにかく表現して伝える。その表現がたくさんの人に「伝わる」と、笑顔や感動の輪が拡がっていくのです。

そこにいる人たちは、自分の表現を伝えようと気持ちを注ぎます。だから、聞く方も全身を耳にして受けとめます。音を奏でる手先に注目し、その音を一つも逃さないように身を乗り出します。すると、発する方はさらに心を込めて奏でます。そこにはちゃんと音を通じた「コミュニケーション」が成り立っているのです。

(2に続く)

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

次から次へとステージでマイクの前で展開されるパフォーマンス。

どの人も、自分なりの気持ちや想いを、自分なりの表現を持って、自由にマイクの前で放ちます。それを受けとめる人たちは、そこに展開する様々な情景や言葉やイメージの中に遊び、それを感じて楽しんだり拡げたり味わったり。それもまた、聞く方の自由です。

そして、聞いているうちに何かが生まれたら、その人もまた、マイクの前に立ってそれを放つ。

……そんな「イメージの連鎖」がこの会場では行われているのです。

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「言葉ってもっと優しかったはずだと思うんです。そもそもは、コミュニケーションのツールであって、人と繋がるための道具なわけですからね。でも現代ってそれが忘れられているような気がします。

世界が言葉によって、否定されていく。 人が言葉によって千切れていく。 絆を断ち切るために用いられる言葉。……そういうマイナスの使われ方が多いような気がします。


たぶん言葉は泣いてるんじゃないかな。 だから、言葉っていいね。 ってことを伝えられる場になればいいんじゃないかな。 」

そう、GOKUさんは語ってくれました。

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言葉は、人とつながるためのもの。そのために命を持って生まれてきた。

そのイメージのもとに展開されるオープンマイクに集まってくる人たちは、2時間ほどの時間の中でその命を感じ、受けとめて、それぞれの場所でまた自分のイメージをそこに乗せて放つのです。

優しく温もりのある言葉が、こうしていろいろな場所で放たれて、それが拡がっていったのなら。人の心を伝えるという、本来の命を持った言葉がこの世界にどんどん拡がっていったら。

……世界は、もっともっと優しく体温を持ったものになって行くに違いありません。

N−gene関連記事:
「ことだま」が飛び交うところ~オープンマイクatネオンホール
言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」は長野市ネオンホールにて毎月開催中。
(日程はネオンホールHP参照)

オープンマイク名なしのゼロ

Photo : Midori Komamura

(1) 「イメージ」で言葉は生きて動き出す GOKUのオープンマイク

「今日、ステージでやってくれる人?」

開始早々マイクの前で問いかけがある。その声に応じて数名の手が上がる。
手を挙げたものは一人、二人とマイクの前に立っていくけれど、その手は時間と共に減るどころか増えていく。

ルールは簡単。

持ち時間は一人5分。5分でまだ途中の時は、その先4分59秒まで延長が可能。マイクの前に立った人は、そこで何をするのも自由。もちろん、会場にいる人間にも参加の強制はしない。やりたい人はやる。聞きたい人は聞く。

そのルールに従って、あるものは朗読し、あるものは寸劇をやり、あるものは歌い、奏で、あるものはいろいろ宣伝し、あるものはただその場で思うがままに語る。「マイク」という一つの表現の「場」を通じて、自らの思いや感覚をそこに載せて会場に拡げる。

それが、「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」。主催しているのは、詩人のGOKUさんです。

彼は、朗読をライフワークにしています。だけどメランコリックに語る人ではないのです。

言葉の持つイメージを自らの中で熟成し、そうして生み出した言葉のつながりを自分の体全体で……時には汗だらけになって飛び跳ねながら、時には声も枯れんばかりに絶叫し、時には今にも泣きそうな消えそうな声で……「表現」するのです。

彼の発する言葉は皆、生きています。彼は「朗読」もするけれど、彼の中に取り込まれた言葉は、皆命を持って彼の中から飛び出していきます。その勢いは時に聞くものの胸を貫くのです。

「詩のボクシング」という朗読の大会があって、そこに出場したGOKUさんはそのあたりから「言葉を発する」事を意識しはじめたと言います。

言葉はなにも、メッセージ性のあるものばかりではない、言葉で感じて、言葉で表す……もっともっと言葉遊び的な感覚を大事にしたい。

言葉の意味よりも命を大切に……だから、彼が発する言葉は一つ一つがちゃんと「生き生きと」命を持っているのでしょう。

そんなGOKUさんが出会った「オープンマイク」。

その起こりはラップやポエトリーリーディングのような言葉による表現パフォーマンスによるスポークンワードという芸術ジャンルです。アメリカに始まったそれが、日本で「オープンマイク」として一つの形として拡がってきたのです。

こんな言葉と音との表現の場を自分も作ろう。自らが誘われて体験したそれを、協力者たちの支えの中で月に一度続けているのが「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」なのです。

(2へ続く)

ななしのぜろ

Photo : Midori Komamura

東京での山本さんのお仕事は、広告会社のプランナー。取りかかったのは実家のりんごジュースの「ラベル作り」。お友達に協力を仰ぎながらラベルのデザイン、ジュースのネーミングを考え、屋号をブランド化してデザインに組み込んで……と、まさに、彼の日頃の仕事はそのままご実家の実りへとつながっていきました。

この山本さんの取り組みは、ちょうどその頃セガレプロジェクトの取材に入っていたNHKでも番組として取り上げられ、ラベルが完成してはじめてセガレのマーケットで販売された「山本園のりんごジュース」は試飲した人たちから好評でたくさんの人が購入、それを体験した山本さんは、感激で涙が出そうだったといいます。

一方、NHKの放映の影響もあってその後もご実家のりんごジュースの売れ行きは好調。ご実家の両親の喜びようもひとしおで、それによって何より山本さん自身が「実家のために自分も役に立てた」という充実感を得る事が出来たのです。

親と子のつながり、農家のあり方。いろいろな形があって、いろいろなつながり方があって。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そういうイメージを持つことが出来た今は、以前の後ろめたさは消え去って、自分に出来ることを無理せず自分らしくやっていこう……と東京で今日も自分の仕事に、セガレプロジェクトの活動に、自分が出来ることを出来る範囲で「楽しく」取り組む毎日を送っているのです。

セガレプロジェクトのメンバーは、山本さんだけではなく皆、そんな風に「自分に出来ることを楽しみながら」無理せずやっています。自分の想いや自分の現状を曲げてまで無理して継ぐことばかりが親孝行ではなく。ほんとうの意味で、「楽しく豊かに」暮らす、ということを考えたらいろいろな形が見えてくる……。

セガレプロジェクトが今の世の中に発信しているイメージは、そういうあたらしい親と子の絆や、農家のあり方へのアイディアを日々さまざまなセガレ、セガールたちだけでなく、大都市志向、消費社会・流通社会の中で翻弄されて疲れはじめた日本の社会に提供してくれているように思います。

昨夏のバーベキューでは、そんな都会のセガレたちと長野県で実際に今、試行錯誤をしている農家のセガレたちが交流を持ったのです。都会のセガレと田舎のセガレがつながって、あたらしい何かが生まれそうな可能性で満たされた当日の会場でした。ここから先、どんなイメージからどんなアイディアが生まれていくのでしょう。このつながりが拡がって、何が生まれてくるのでしょう。

会場の熱気は、バーベキューコンロの熱や、夏の暑さからのものだけではない……とても明るくたくましい熱の高まりが、日本はまだまだこれからだよ!と教えてくれているような気がしました。

N-gene詳細記事:
「なから」がもたらす可能性(1)~セガレとセガレのBBQ
「なから」がもたらす可能性(2)~セガレとセガレのBBQ

セガレBBQ

Photo : Midori Komamura

(3) 「イメージ」がつなげる親子のきずな 「セガレプロジェクト」

「ずっと、実家の両親には申し訳ないという後ろめたさがありました。」

そう語ったのは、昨年の夏の初めに菅平高原で出会った山本圭介さんです。この日、菅平では40名ほどの若者たちがバーベキューを囲んでにぎやかに交流しました。

この集まりは「セガレ」メンバーの集まり。「セガレ」とは何かといったら……いわゆる農家の二代目世代たち……要するに、農家のセガレたちのグループです。

大都会東京に出ていって、実家でそれまで当たり前のように触れていた「農」と切り離れた生活をしていたけれど、「実家で何作っているの?」という会話をきっかけにつながった3人の「農家のセガレ」。

ちょうど当時、「食の安全」に対しての社会の認識が強まっていたこともあってその3人で「都会では農に関してプロ並みの自分たち。実家で丹精している作物をそういう自分たちが売ったらどうなるだろう?」と思って有楽町の「市」で販売してみたら、完売。

「これはいけるのかもしれない」

そうして始まったのが「セガレプロジェクト」。3人の周りには、同じように実家が農家で、でも都会の大学や会社にでてきて実家とは離れていて、帰りたいけど帰れなかったり、迷っていたり、という「セガレ」や「セガール」たちがどんどん集まって、今では50〜70名ものメンバーが参加しています。

山本さんは、そのうちの一人。実家は志賀高原の麓でりんごと巨峰を作っています。
3人兄弟の真ん中で、お兄さんも東京。実家の農家は一番下の弟さんが手伝っていて、ずっと「弟や実家に申し訳ない」という後ろめたさを抱えていました。

そんな時に友人に教えられてこのセガレプロジェクトのHPを見た山本さん。

「自分と同じような立場の人たちが自分と同じ境遇で実家を継がずに東京で働いているにも関わらず、マーケットで実家の野菜を売ったり商品をブランド化したり、東京で働きながらでもちゃんとアクションを起こしている人がいる。自分も今の環境のままで実家に対して何かできることがあるんじゃないか」。

その“なにか自分もできるかもしれない”という「イメージ」は、山本さんをこのプロジェクトへの関わりへと駆り立てました。

2010年の4月、セガレのホームページに自由大学でセガレの講義(セガレ日和)開催の案内を見て参加。実際に活動しているセガレメンバーに加わって交流するうちにふくらんできた想い。

五回目のセガレ日和、自分だったらどんなアクションが出来る?というテーマの「自分プロジェクト」の発表で、山本さんは自分の出来ることとして「実家と東京をつなげ、実家を楽しくするために」……というイメージのもとに考えたのが「山本園ブランド化計画」。

☆実家(山本園)の作物をブランド化。
☆実家からの直販ではできない“付加価値”をつけて作物をより魅力ある商品に仕立てる。
☆ブランド化した“付加価値”を実家に還元する。

という3つの柱をもとに、実家で作っているりんごジュースのブランド化を企画します。それまでは実家のりんごジュースの売り先は知り合いからの受注だけで、どこかに卸しているわけでもなく、ラベルのない瓶そのままで販売していたそうです。

農作物を「作ること」にはこだわりがあってもそれを「売ること」は視野になく、農協に卸してそれでおしまい、どこの誰が食べているのかもわからない、そんなご実家の状況を見ていて疑問を感じていた山本さん。

きちんとブランド化して直接販路を開拓したら多少高くも売れるだろうし、食べてくれる人の顔も見えるし、買う方からしても安心感がある。日本の農業はそういう方向へ向かうべき……とずっと持ち続けていたイメージが、ここで実際の形として動き始めたのです。

「観光」という言葉は、「国の光を見る」という意味から生まれた言葉。

その土地に行った人が、その土地の人・地脈に触れて感じ、学ぶのが観光の本来の意味です。けれど「観光」を目指すことによっておもてなしをする土地の人々にとっても、それは大きな宝になる。

大久保さんはほっとステイのみならず、菅平に合宿に来る人々に対しても、またそこに生きる人々に対しても、その「光」を放とうと様々な試みをしています。

たとえば「爆音バス」で大久保さんは自分のホテルに泊まっている選手たちを激励しますが、そのバスは同時に菅平の道を歩く人々にむけての「おもてなし」の心の表れでもあります。

そんな風にもてなした人びとを、大久保さんはまるで家族のように大切にしています。

取材で訪れたときにちょうど合宿していた関西学院のラガーマンたちを「この子たちは強いよ!」と自分の子どものように嬉しそうに紹介してくれました。先日も花園で行われたラグビーの全国大会で彼らが上位進出を果たすと、自ら関西まで応援に出向きました。

会場で選手を激励するために何と「法螺貝」を吹いて審判に注意を受けてしまったそうですが、この法螺貝を聞いた別の方からは「興奮度が上がった」との好意的な声も。

大久保さんは、決して自分や自分のホテルだけのことを思って行動しているわけでも、菅平のことだけを思って行動しているわけでもありません。彼が出会った人々にかたむける想い、おもてなしの心は、ほっとステイでも、菅平を訪れるラガーマンたちにも、血のつながりはなくても心のつながる「第二のふるさと」を実現しているのです。

この「第二のふるさと」……帰ったら温かく迎えてくれる人がいる、というイメージは、菅平という土地を大久保さんと触れ合った人たちにとっては特別で忘れられない場所として色鮮やかに心に残ることでしょう。

そうして、大久保さんがつなげた人の輪は、高齢化や過疎化で担い手の減り始めている農村の皆さんにも、また観光という面で様々な見直しや試みを求められる菅平にも、この先どんどん力強く温かいイメージをもたらしてくれるに違いありません。

大久保さんの「家族」が増えるほどに。
菅平高原は人々の心の「第二のふるさと」として、生まれ変わって行くに違いありません。

詳細:N-gene記事
菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(1)
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(2)

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」でよみがえる、心の故郷 ほっとステイ菅平と真田町

長野県の東部、上田市の根子岳、四阿山の裾に拡がる菅平高原は、冬はスキー、夏はラグビーのメッカとしての観光や高原野菜で成り立つ土地です。

地球温暖化の影響で降雪量が減り、またバブル時代に最高潮だったスキーも今はスキー人口が減少し、客足は衰える一方。そのため、経営が成り立たずに閉鎖されたスキー場も長野県内には数多くあります。それは菅平高原でも同様で、冬のシーズンはかつてのようなにぎやかさがありません。

「夏のラグビー合宿があるので、まだ他のスキー場よりはいいけれど……」

そんな時代背景をいち早く察し、この菅平高原の観光のあり方を見直そうと頑張っているのが、菅平プリンスホテルの大久保寿幸さんです。

観光地としては、決して「有名どころ」ではないし、スキー場としたら志賀高原や白馬の方とは規模的に比べものにならない。ラグビーの合宿も、それだけで観光地として成り立つものでもないし、夏のシーズンだけのもの。これから先、観光地としてちゃんと成り立つためには「春・秋」といったオフシーズンや、菅平高原を支えるもう一つの要素である「農業」についてきちんと考えていかなくては……そのためには、どうしたらいいのだろう?

大久保さんの視点は、「今」の菅平をしっかり見つめつつ、その先を見据えています。かつてのスキーブームをいつまでもイメージしていたら、この先はない。菅平を元気にするには……と考えた大久保さんが、今取り組んでいることの一つが「ほっとステイ」です。

ほっとステイとは、菅平の麓にある真田町の農家に子どもたちが1日滞在し、農業や農家の生活を体験するというもの。それは、単なる農業体験ではなく、農家の人々の生活を通じて食べ物を作ることや土に触れること、それを軸にした食文化や生活の知恵・工夫を知り、体感することによるいわゆる「文化交流」のプログラムです。

今の子どもたちは、他人との交流が下手だとか、クールだとか言われます。
けれど、1日このほっとステイで時を共に過ごした生徒たち、農家の人々、それぞれの表情を見ていると、たぶんそれは今の社会の中で子どもたちが表現しにくい部分であって、人の根本はやはり時の流れがどうあっても変わらないものなのだ、ということを感じさせてくれるのです。

「おばあちゃんとお別れがさびしい」と泣く女子生徒。「ここは、第二のふるさとだ……。」とつぶやく男子生徒。彼らが帰るバスに向かって、見えなくなるまで手を振る農家の人々。

彼らの表情にはたった1日、という時間など関係なく、その時間の中でお互いの心の琴線がどんなに触れ合って響き合ったのかが伝わってきます。

そこで見、聞き、学んだものは確かに日頃得ることの出来ない貴重なものでしょう。けれど、それ以上に、それらのことを通じて人と人とのつながりの温かさ、強さというものがどこから生まれてくるのか、それはもともと人の中にあって、人を想う気持ちもちゃんと人の中にはあって、それらはお互いのものを温め合い、拡げ合うことが出来るものだということをそれぞれの表情から感じることが出来るのです。

このほっとステイは、生徒たちだけのものでも、また農家の方々だけのためのものでもありません。菅平という土地のためのものだけでもありません。人が人として生きていく上で、こういうものがあるのだ、という大切なものを関わるすべての人たちに伝える……イメージをもたらすものなのだ、と思えるのです。

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

小布施には高井鴻山という文人がいました。

造り酒屋の豪商である高井家は、八代目の時の天明の飢饉時に蔵を開放して人民の救済をし、そのため名字帯刀を許されたとされています。

その十一代目である鴻山は、京都に遊学して書・画・朱子学などを学び、幕末の様々な文化人との交流も深めています。小布施においては天保の大飢饉に際して八代目同様倉を開放して人民の救済を行い、塾を開いて地域の人民の教育にも力を注ぎました。

また、葛飾北斎を招き、彼をパトロンとして支援したのです。このつながりから北斎が何度も小布施を訪れ、「八方睨み」と言われる鳳凰画を完成させています。

鴻山はしかし、単なる資金援助をしただけではありませんでした。北斎の芸術・感性を大切にし、自らもその弟子として学んだのです。北斎の鳳凰図へのアドバイス、相談にも乗ったとも言われています。

鴻山のように、単に資金面での支援・援助のみでなく、文化や感性のような「心」の部分に至るまで、自らのもっているものを人々と共有し、それを支える姿勢やその仕組み。それが「旦那文化」です。

これはつまり、財産〜金銭〜だけの共有ではなく、思想や感覚の共有にまで及ぶものです。
さらに……それを時の政府という「公的なもの」がやるのではなく、「民が主体的に」行っているのです。ソ連や中国の「共産」がうまくいかなかったのは、民ではなく官主導で行ったという要素があるのに対し、小布施がなぜ、その豊かさを今まで絶えることなく受け継いでいるのかといえば、官主導ではなく民による自発的な「共産」が行われたから……なのだと思うのです。

高井鴻山の末裔である市村氏をはじめ、小布施に生き、小布施を愛する人々が主導して進めてきた小布施の町並み作りは「小布施方式」と言われて全国から注目されていますが、その根本に流れているものは「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という町民の意識。

すなわち「共有」という感覚で町が組み立てられているせい。さらに、外から持ち込まれる文化や物産、さらには人材までも分け隔て無く受け入れ、それもまた皆の財産として共有し、町の財産として分配されているのです。

小布施の町は、人が作っているのです。そこに住む人々が、それぞれの立場でそれぞれのもっているものを町のために共有し、分配しあうのです。だから、小布施の町はみんなが幸せで、みんなが豊かに生き生きしているのだろうと思うのです。

こう考えると……今、マルクスの思想が改めて見直されつつあることと、小布施の町に観光客の客足が途絶えないこととは何か通じるものがあるような気がしてきませんか?

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*なお、小布施町の市としての名残を感じることが出来る「安市」が今週末(14,15日)に開かれます。このコラム(1)(2)で使用した写真は安市のものです。お近くの方は、是非小布施に賑わいを体感しに行ってみて下さい。

小布施安市

Photo : Midori Komamura

共産党宣言を掲げたマルクスと、小布施。

この2つに共通点がある……といったら、「なにそれ!?」とあやしまれたりいぶかしがられたりするのかもしれませんね。

実はこの文章を書いている間、わたしはあるきっかけでマルクスの社会経済への提言について少し学んだのです。それまでは社会の教科書やら政治・経済のなかで「共産党や社会主義国の基礎を築いた人」というくらいにしか認識がなかったマルクスなのですが。

彼の「共産党宣言」のもとにあるのは資本主義を成立させ、さらに現在の経済の混乱を招いている「搾取の構造」……「労働力に対して正当な報酬がなされていない状態」のみなおし。

つまり、今、人々が「なぜこんなに働いても貧乏なままなのか、生活が苦しいのか」という疑問に陥っているその部分についての考察だったのです。

資本主義の社会は、結局マルクスの訴えているとおりの状態に陥り世界的な不況。かといって社会・共産主義国がうまくいっているのかと言ったら、こちらはマルクスの目指す思いをきちんとくみ取らないからソ連は崩壊し、中国はあやしげな方向へ暴走しています。

市村氏の取材、小布施の昨年数回にわたる取材、日頃通る町並みの観光客の多さなどから感じた「小布施の豊かさ」。これがどこから来ているのだろう、と、今回この原稿を書き進めているうちに浮かび上がってきたのはマルクスの訴える「共産」の思想と、小布施の市村氏の言葉でした。

【羅針盤】の対論で、現在の小布施の町並みを作り上げた一人である市村次夫氏の言葉に、こんな言葉がありました。

「ゾウの背中で、このゾウはオレのものだとアリが争っているようなもの。」

この言葉は、羅針盤を紹介するメルマガでも取り上げました。(〜共有が生み出す新しい町並み〜 市村次夫vol.1)もともと土地の所有権も社会の権力も、この地球の上の小さな世界のこと。人間がその浅い歴史の中で勝手に決めたことであって、歴史の流れからしたらほんの些細なこと。

そんな事でお互いの権利を争うのは、まるでゾウの背中で争うアリのように端から見ていたら滑稽なものだ、という意味です。

小布施町はもともと商業のまち。外から入ってきたものを取り入れることで発展してきました。そうして築いた富を一部のものが独占し、一部のものだけが肥えることなく様々な形でまちに還元していたのです。

その最たるものが「旦那文化」でした。

……(2)につづく。

安市

Photo : Midori Komamura

目次

記事

PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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