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信州・ひとREPORT ~N-gene発表記事~

H21~H23年、N-gene記者として記述した記事を再掲しています。
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商業の町、小布施に受け継がれるいにしえの心〜「安市」<’10.1月掲載>

小布施の町では、毎年町を挙げて行われる祭りがあります。
それが「安市」です。

12月頃から小布施の町中を通りかかると、あちこちで赤いポスターが目につきはじめました。

「先生、14日と15日は、学校お休みだから。」
「え?何故?」
「だって、安市だもの。」

去年、仕事で家庭教師をしていた小学生の言葉にちょっと驚いた記憶がよみがえりました。

学校が休みになるのかぁ……。町のお祭りで。
そういう話は、あちこちの学校を知っているけれど最近はあまり聞かなくなりました。

だけど、小布施町ではちゃんと休みになるのです。
1月の14日、15日。

成人式。敬老の日、体育の日………。

「ハッピーマンデー」などという言葉が生まれるように、国の祝祭日が「第◯月曜日」に変更されることが多くなってから、何となくもともとの祝祭日の意味も薄れてしまったような気分。
もともとの意味のある日からかけ離れたそういう休みの取り方になって、かつては「小正月」に当たるこの日に行われていたどんど焼きも今や別の日になってしまいました。

そんな「祭」や「季節の行事」への意識が薄れると共に、町のお祭りにあわせて「お休み」になる学校もなくなったのに。

お祭りで、学校が休みになる。
お祭りのワクワクと、それから学校のお休みの嬉しさで「地域の祭」は子供たちにとって特別な日でした。そういう意識も最近ではなくなってて、なんだかさびしいなぁ、と思っていたのだけれど。

ここ、小布施では残っているんだなぁ。

小布施町。
平日の昼間でも、訪れる人が絶えることのない北信の小さな観光地。

この町は、「古いもの」を大切にし、その息づかいを生かした町作りがなされています。
「小布施方式」といわれたその町作りの手法は、遠くから視察に来る人々もいるほどなのです。
古い建物や蔵、それから町の財産である歴史や特産の栗を生かした町並みが、来る人の心と目を休めるのです。

その小布施町がさらに活気にあふれるのがこの「安市」の日。
あちこちの文献を調べるとその起こりは江戸時代で、次のような由来があるようです。

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北国街道と谷街道の分岐にある小布施では、江戸時代初期の寛永6年(1625)から月に6回(三と八のつく日が市日)市を開く六斎(ろくさい)市が立ち、日常欠かせない穀物や実綿・太物・荒物・金具・塩・紙類・茶・鎌・肴(さかな)類などが取り引きされていた。また北信濃の米麦相場を定める場ともなっていた。文化年代 (1804~18)頃の地図に小布施は「市」と記されるほど、北信濃の中心的な市だった。

(ちなみに中野市では 1・4・7・11・14・17・21・24・27日に市が開かれたことから「九斎市」、善光寺や松代では「十二斎市」の名称で同様の市が開かれていた。)

しかし、明治時代になってからは、北信濃における物資の集散地として賑わった小布施も、交通上の理由などからその座を善光寺を中心とする長野に渡すこととなり、「六斎市」は次第に衰退。これに危機感を感じた伊勢町・中町・上町・横町の町組商人は六斎市の伝統を引き継ぎ、 毎年1月14 日・15 日の安市を起こし定着させてきた。

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なるほど。
小布施の町の歴史は、町に住む人たちの創り上げた歴史。
それはこの安市にも現れているんですねぇ。

安市の会場は、小布施町の中心にある「皇大神社」境内と、そこに続く参道です。
天照大御神を祀った「皇大神社」へは伊勢神宮の御師が出張し、ここを中心に伊勢信仰が広まりました。

参道には、両側にたくさんの屋台が建ちます。商売繁盛の祈願のだるまや「福飴」といわれる飴。色とりどりの縁起物が所狭しと並びます。

そして、その中心の「皇大神社」で行われるのは大正時代からはじまったとされる「火渡り神事」。安市行事最大の呼び物とされています。そのほか、薪積みの儀式・だるまのお焚き上げなども行われます。

火渡り神事の時間が近づいたので、屋台は気になるけど境内に急ぎました。
ちょうど神事が始まったところでした。

白い装束に赤いチョッキ(?)をまとった行者さんたちが、中央に積み上げられた薪に火をつけ、その周りを祈祷しながらぐるぐると回ります。

その火の勢いは、かなりのもの。
周りを回る行者さんたちはしかし、熱さをみじんも感じさせず、祈祷の言葉をつぶやきながら厳しい表情で回り続けます。そして、その周りを4方向、4人の行者さんが固めてこちらも印を結びながら祈祷し、それから一番の修験者が、東西南北、それぞれの位置に移動してそこでまた、印を結んで祈祷します。

この祈祷は、何の意味かわからなかったのですが、どうやら厄除けとか病気・悪魔払い、豊作などを祈るもののようです。

中央の薪がほとんど燃えて炭になり始めた頃、長い太い竹の棒で二人の行者さんが中央に「火渡り」用の道を作り始めました。

そして、火渡りの儀式の始まりです。

まずは、修験者のリーダーの人がたびとわらじを脱いで、雪の上からまだ熱い炭の上を渡ります。そして、祭壇に祈祷をすると他の行者さんたちも渡りはじめました。

行者さんたちがみなさん渡ったあとには、何と、町長さんがよばれます。
靴を脱いで裸足になった町長さんも、それからその後、町をリードする人たち(消防署長さんとか、警察署長さんとか……)も次々と渡ります。

さらに、一般の人たちの中からも希望の人が渡りました。
みんな渡って、祭壇に一礼して。

……熱くないのかなぁ……と思ってみていたら、最後の男性が渡り終わったあとで、近くの知人と思われる人に「熱かったぞぉ。」と言っていたので納得。

だって、みんな表情ひとつ変えずに渡っていくんですもの。熱くないのかと思った。

そうして、小布施町の発展を祈る火渡りの神事は終了。
すべて終わったあと、人々が立ち去る中、最後に行者さんたちが残って祭壇にみなで祈祷を捧げていた姿が印象的でした。

今年一年、いい年になるといいなぁ。
凛とした行者さんたちの祈祷の姿に、そんな想いを持ちました。

(余談ですが。
この安市の資料が欲しくて神社で聞いたら「商工会議所にあるんじゃない?」といわれ、商工会議所にいってみたら「そんなのはないから、ネットで調べて」と言われて……。
実は、この取材に当たってネットで事前に調べたのですが、安市や火渡りの神事、小布施の皇大神社についての資料がほとんどなかったので、地元で手に入れられないかと聞いてみたのですが……。
せっかくのにぎやかなお祭り、由来とかいわれなどを知る場所や資料があったらいいのになぁ……と、ちょっと残念に思いました。)

さて。
「火渡りの神事」が終わると、とたんに境内も屋台も人の姿が減りました。
わたしは毎年、この安市で買い物するのが楽しみなので、あわててお店巡り。

一番多いのはだるまを売るお店。
この近くのだるま作りの職人さんたちが、自作のだるまを持ち寄って売っています。
祭も終わりに近いので、「まけるよ~、みてって!!」とかける声も一段と大きくなっています。

しばし、参道の賑わいをお楽しみください。

みな、それぞれに味のあるだるまの顔を見ているのは、それだけでも楽しいです。

最近は、赤いだるまだけじゃなく、黒とか黄色とか金とかむらさきとか……。
いろいろな「御利益」によって色分けしているお店もあります。

神社では、まゆだまを売っていました。

だるまと一緒に目立つのが、「福飴」を売るお店。
色とりどりできれいな飴が、たくさんの縁起物と並んでいるお店で「写真を撮ってもいいですか?」と撮らせてもらったのですが……。

「どうですか?今年の売れ行きは?」とそのお店の人にお聞きしたら。
「いや、ダメだねぇ、この景気でほとんど売れないよ。」

他のだるまや縁起物のお店の人も、みんなそんな答えで。
色とりどり、華やかなお店にも、景気の悪さが影響しているんだなぁ……。
でも、お店のみなさんは「まぁ、今年はそんなもんさ。」とみなさん元気でした。

そうだね。今年は、少しは元気な年になるといいな。
行者さんたちも真剣に祈祷してくれたんだし………。

毎年立ち寄るお店のいつも元気なおばちゃんから「張り子のトラ」を購入して、おまけでカバンにつけてもらったひょうたんの鈴がちりちりと鳴る音を聴きながら、雪の舞う小布施をあとにしました。

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みなさん、あけましておめでとうございます。
小布施の町が、こうして元気に祭を続けていくように、みなさんの今年も元気で幸せな一年になるように、張り子のトラくんと一緒に祈念したいとおもいます。

(写真、文:駒村みどり)

カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)<’09.12月掲載>

~そして、それでも、こうしてわたしたちは生きている。~

12月6日、日曜日。
師走の最初の日曜日の逢魔が時。

長野市善光寺の門前町にある「ナノグラフィカ」で、あるイベントが開催された。

「傘に、ラ。 vol.4 ~怪シイ会ニ誘ワレテ気分ハ憂鬱~」

時間になると、突然朗々とした声が会場に響きはじめた。
その声は、「彼」というひとりの人間のある時の生きざまをとうとうと語り続けた。

「彼」はうつになり、「彼」は仕事を投げ出して失踪し、「彼」は苦悩する。

だけれども……「彼」は生きている。今でも、生きている。

「彼」は、それを語る「ぼく」であり、それを語っているのはこのイベントを企画している「なかがわよしの」氏である。

このN-geneにも「なかがわよしのの400字」というタイトルで、短い日常の一コマを描いた文面で、読んだ者に何とも言えないいろいろな気持ちを呼び覚ます、そういう連載を続けている彼だ。

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わたしの元に、一通のメッセージが届いたのは、10月の末のこと。
「出演のご相談」というタイトルで届いたそのメッセージには、こう書いてあった。

ええと、
最近、即興朗読のイベントを
はじめました。
自分は即興で
ポエトリーリーディングをやります。
ただ、ひとりでは物足りなくて
「この人と面白いことがしたい!」
と思う人といっしょにイベントが
できたらなーと
考えています。

自分もうつ病経験者で
今も通院しているし、
薬も飲んでいます。
ただやはりまわりの反応が怖くて
おおっぴらには告白できないでいます。
偏見をなくしたい、というよりも
うつでも生きていけるさってことを
コマちゃんと伝えられたらと思います。

ちょうど、この10月、わたしは自分の住んでいる地域の主催する講演会で、うつについての講演を頼まれていた。自らのうつの体験を元に、うつについて知ってもらうことで「人ってみんな一生懸命に生きてるんだよ」ってことを伝えたい、それをテーマに講演を組み立てていたわたしは、この「うつでも生きていけるさ、ってことを・・・」の一文にとてもひかれた。

やります。

すぐにそう返事を返しつつ、ひとつなかがわさんに質問した。
「傘に、ラ」って一体どういう意味ですか?……と。

その返事として帰ってきたのが、これだった。

傘にラ
というのは
「今」という意味です。
「今」の
上の部分が「傘」で
下の部分が「ラ」です。

「今」………そうか、「今」かぁ。

わたし自身、心にいつも持っているテーマが「今を大切に生きる」ということ。なので、なかがわさんが「今」というテーマを持ってやっているこのイベントに声をかけてもらえたのが嬉しく、とても楽しみになった。

11月の末、当日を前にした打合せの時は、それぞれのうつの体験を語りながら、来てくれた人に何を持ち帰ってもらおうか、という話で討論し、気がついたら3時間近くも話し込んでしまっていた。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

なかがわさんの「詩の朗読」では、彼の自らのうつに対したときの赤裸々な思いを、その「彼」を横で見つめている「ぼく」という人物がとうとうと語る。

時に重く、時に軽妙に、流れ出すその言葉の力。
それはまた、わたし自身のうつの体験とも重なって、心にどかんとぶつかってきた。

詩の朗読からそのまま、わたしとのトークセッションにはいる。

「スマイルコーディネーターって、なんですか?」

それは、わたしの肩書きとして名刺にも書いてあることば。わたしが2度のうつ体験から立ち上がったときに、心に浮かび上がった自分の方向を示すことば。

それが何かと問うなかがわさんの言葉につられて、わたしも自然に自らのうつの体験を語りはじめた。

それはもう、数分じゃ語れない。
「スマイルコーディネーター」という肩書きで自らの道を歩こうと決めるまでには、2回のうつの体験と、そこに至るまでの仕事での学びと、苦しみと……から始まっていることだから、結局25年という間の自分の教職生活をかいつまんで話すことになる。

できるだけ簡潔に、必要な部分だけ……そう思いつつも、「だから、スマイルコーディネーターなんですよ」っていうところに行き着くまでには30分以上もかかってしまった。

けれども、そこに至るまでに、自分の体験となかがわさんの体験とをお互いに語りあい、絡ませながら進んでいて、多分、その場にいる人たちには「うつってこういうことなんだ」ということが伝わったんじゃないのかな、と思っている。

そして、2人で決めた、この日来た人に知って欲しかった想い、

「うつ病だっていって、特別扱いする必要も、特別視する必要もない。
うつという病気にかかった『人間』がそこにいるという事実があるだけ。
みんな同じ人間で、その人がうつだとか、今朝の寝起きが悪くてつらいんだとか、ものすごく良いことがあってうきうきしているとか、そういう『状態』がそこにあるだけ。みんな、『生きている』ってことでは同じなんだ。」

……と、その部分に流れを持って行かれたのかどうかは、実はわたしもなかがわさんも、結構テンパっていたりしたのでちょっとわからない。

でも、なかがわさんのこの『傘に、ラ。』企画全体に流れる柱であり、わたし自身も自らの柱として持っている共通のテーマ、「『今』を必死で『生きている』」ということ、それは1時間半という間のお互いの話の中、自分たちの経験を通した想いの中に織り込んで、できるだけ伝えたつもりだ。

そんなこのイベントに参加していたひとりの方に、どんな感じだったのかをこっそりお聞きしてみた。

・・・・・・
まるで、「昨日ね~こんなことがあったのよ~」というように、軽妙に語られてはいましたが、それはまさしく体験した者しか語ることのできない、辛く、苦しい、体験談でした。でもお二人とも、沢山の笑顔と、ユーモアで、その辛い過去を明るく話してくださっていたのが、印象的でした。

二人とも、真面目で、ユーモアがあり、能力が高く、でもだからこそ、鬱病になったのではないかな?と何度も思いました。

「あぁ、鬱病って、よいひと がなる病気なんだ。」って。

でも、お二人とも、内服や、環境を変えることで、それを完全に克服し、その上で、自分たちのようにならないために、自分たちが体験した辛さの中にいる人たちに、どう接したらいいのかを語ってくださっていました。

中川さんの
「鬱になってよかった、なんて絶対に思えない」
と言う言葉。
スマイル・コーディネータ、コマちゃん自身の笑顔が、
いまでも忘れられません。

・・・・・・・・・……
このイベントが終わった後、わたしはこの記事を書こうと思っていたので、なかがわさんにちょっとだけ取材をした。その時に、改めて「なんでこの企画をしていこうと思ったのですか?」という質問をしたのだが、その時の答えは、この先にまだ続くなかがわさんの他のイベントの記事で書かせてもらうことにして、もう一つ、翌日になかがわさんから届いたメールの一節を、ここに転載させてもらおうと思う。

うつ病への理解とか
うつの人を助けたいとか
自分にはそういう使命感もないのですが、
昨日のトークセッションで
思い出したことがあります。

傘にラを始めた根本の根本には
自分が病気になって
迷惑や心配を掛けた人たちに
「僕はそれでも生きてます」
ということを伝えたい
という気持ちがありました。

それは大切なことなのに
忘れてました。
思い出すことができたのは
昨日のイベントのおかげです。
一緒におはなししてくれて
ありがとうございました。

なんかうまく言えんですが
とにかく、ありがとうありがとうありがとう。
ってことです。

人それぞれに、必死で生きて「今」がある。
それぞれの「今」が出会い、絡み合って新しい「明日」が生まれていく。

なかがわさんとのイベントを通して、お互いの「今」を持ち寄ることで、「明日」への可能性がより大きく広がるんだ、ということを感じさせてもらった。

わたしからも、ありがとうありがとうありがとう。

※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*

なかがわさんの「傘に、ラ。」のイベントは、この後も続きます。
このイベントを、数回かけて追っていってみようと思っています。

今後の予定は、以下の通り。
10年1月10日(日)「傘に、ラ。 vol.5 ~本当に好きな人は手に入らなかった~」
10年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」
10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.7 ~たかが芝居だ!~」
10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」

(詳細は、なかがわよしのの400字のページの左枠のなかをご覧ください)

メールマガジン配信中
【うつのくれた贈り物】~「うつ」からもらった、幸せの法則~

写真協力:なかがわさんのお友達 文:駒村みどり

権堂村に、咲き乱れるは笠の花。<'09.9.30掲載>

え?……なんで、権堂で「国定忠治」なのよ!?

国定忠治といったら、「赤城の山も今宵限り」というセリフで有名な江戸時代の侠客です。赤城の山と言ったら、今の群馬県のど真ん中にある山です。

………???????

という疑問は、あとに置いておいて。
N-ex7「国定忠治まつり」が9月26日、権堂秋葉神社前の特設ステージを中心に繰り広げられました。

当日は快晴。土曜日の昼下がりの権堂イトーヨーカ堂前の広場には、いろいろな出店が並んでにぎやかです。そして、その真ん中に設置されていたのが「特設ステージ」。


ステージの上では開会式の準備が進んでいて、何人かの「国定忠治」が開会式の打合せをしていました。それを見て、権堂の人通りが少しずつステージ前に集結しはじめます。

やがて、どこからか笛や太鼓のにぎやかな音が。

ちんどんを先頭に、その後を……

おお!たくさんの忠治たちがやってきました。

突如現れたコスプレ軍団(笑)に、道行く人はビックリ。坊やも目を白黒。
50名強の国定忠治たちがステージ前に集結。お祭りの開会です。

開会宣言として、この日の舞台で国定忠治役を務める劇団13月のエレファントの斉藤正彦さんがみごとな口上を述べ、みんなで仁義を切るポーズ。

これだけの国定忠治がいっせいにやると、かなりの迫力で圧倒されます。

たくさんの人が足を止めて、この圧倒的な光景に見入っていました。

開会式が終了すると、一同は再び列をなして権堂のモールを練り歩き、さらに長野駅まで大行進。

植木商店の二宮金次郎さんの前を通り過ぎる一行。中には、踊り出す忠治まで出現。
長野駅前で再び口上を述べたあと、権堂に戻って一行は解散したそうな。

一方、ステージの方では、このあとパフォーマンスが続きました。
夕闇が迫りはじめたころも、ステージ前の観客の数は減りません。

快楽亭狂志さんの落語のステージ。
皆さん話に引き込まれ、とてもなごやかな表情です。

あっ………こんな所にも、忠治が………。

続いて、13月のエレファントの舞台「国定忠治」に。

もう辺りはかなり暗く、ステージを照らすライトがまぶしく光ります。

野外のせいか、ややセリフが聞き取れない部分が残念だったのですが、そんな状態でもお客さんはみんな乗り出すように舞台に見入っていました。

しかし……こんなアレンジもあるんですねぇ。なぜに、人形!?

小さなお客さんも見守る中、名台詞「赤城の山も……」の場面。

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実は権堂には「国定忠治」のお墓が存在しているのだそうです (正確には、分骨されたもの)。 大学時代に、友だちと徘徊……じゃなかった、さんざん通った権堂。買い物に、飲み会に、しょっちゅう訪れている権堂。

なのに……今までまったく知りませんでした。
地元のことなのに、知らないことが結構ある。なんだかもったいないことだと思いながら、その一方でこういうことを知るきっかけになったこのイベントに感謝です。

「赤城の山も………」という有名なセリフは、この国定忠治を題材に描かれた劇の中にでてきます。そして、実はなんと、長野の権堂もこの劇の中に登場しているのです。忠治は、生活苦のためやむなく娘を身売りさせた権堂村の百姓を助けるのです。

そんな忠治の逸話を持った権堂は、以前は忠治にちなんだまつりや催し物をしょっちゅう行っていたそうです。今回の50名の忠治たちのための衣装は、以前同じような催し物を行った昭和40年代のものなのだそうです。

国定忠治は天保の大飢饉で飢餓にあった民百姓を救済した、という話から始まって、権堂にまつわる話にもあるようにケンカが強くて負け知らず、人情に厚く人望深く、従う子分は200以上とも言われた大親分。それ故に、人々にとっては神にも等しい伝説の人。

時代の流れの中で、何度となく訪れる人々の苦しい時代。こういう人物を求める想いは人々の中に常にあり、忠治が「講談」や「劇」の中でずっと生き続けてきているのもわかるような気がします。

祭りの後の権堂。ぐるっと見回しました。

さっきまでいたお客さんたちはあっという間に姿を消し、土曜日の夜の人通りは、かつての権堂からしたらやっぱりさびしいものがあります。

会場の後ろにあたる場所にも、駐車場になった空間。
店と店との間にぽっかりと空いたその空間から、月がのぞいていました。

忠治が見上げた月と、今の月とは同じ「月」ですが、かつて善光寺の精進落としの花街としてにぎわった権堂と、シャッターが目立つ駐車場で穴だらけになった今の権堂。

今の権堂を国定忠治が見たら、一肌脱いでくれるかなぁ………。

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(写真、文:駒村みどり)

桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?<'09.9.28掲載>

<<2009.09.28 N-gene掲載記事>>

実りの秋です。

先日、近くにある青果市場から「巨峰」と書かれた箱を山ほど積んだトラックが出てくるのを見ました。そういえば、この前通りかかった畑でも、野菜を箱詰めしてはトラックに積み込んでいる様子を見かけました。

秋は、豊かな実りをもたらしてくれる季節です。そして、その実りは、あちらこちらの田んぼにも………。

 

ナノグラフィカの高井綾子さんが、松代にある小川さんのうちの田んぼのお手伝いをする模様を5月&7月と訪れてレポートした記事「皆神山の麓の田んぼで…」の続報です。

そうなのです、高井さんがお手伝いしていた田んぼでも、先日ついに稲刈りが行われたのです。その情報を得て、さっそくおじゃましてきました。

「シルバーウイーク」って、誰がいつから言いはじめたのか知りませんが、その秋の連休後半の9月22日。天気は、薄曇り。松代にバイクで向かいましたが、風を切るのでもう長袖+ウインドブレーカーでも寒いくらいです。

連休の後半と言うことで、松代の町中は結構な渋滞。しかし、田んぼのあるあたりはほとんど人通りも車通りもなく、静かなもの。

小川さんの田んぼに着くと、すでにもう稲刈りは始まっていました。 そういえば。昔はこの時期、「農繁休業(稲刈り休み)」っていうのがあったっけなぁ。周りに農家が多かったので友だちはみんな稲刈りのお手伝いにかり出されて日焼けしてた……記憶が。

そう、農業はごく当たり前の生活の一場面で。生活にあわせて学校もお休みになって。そうしてもろもろの農作業が一段落つくときに、一年の労働の慰労も兼ねて地域をあげて「運動会」を家族で楽しむ……という流れがありました。

そうそう、稲刈りの時期に忘れてはいけないお方と久しぶりにご対面しました。

そうなのです、イナゴくんです。このイナゴくん、稲を食い荒らす害虫とされていて、でもその一方で山の地方のタンパク源としては貴重なもので。中学生のころには、農繁休みの宿題で「イナゴを茶碗2杯分持ってくること」が課題に出たりしていたのです。生徒会で全校分を集めて業者に売って、貴重な生徒会の予算源にもなっていたのでした。(私の学校だけかなぁ)

いつの間にか田んぼからイナゴが減って(農薬の影響?)農繁休業もなくなり、今はもうそんな課題が出せなくなっちゃっているんでしょうね。この日も、出会ったイナゴくんはこの写真の3匹……じゃない、2匹と1ペアだけでした。

さて、そうこうしているうちに、高井さんと7〜8名の集団が車でやってきました。簡単に打合せをしたかと思うと、あっという間に手際よくはぜかけの作業に取り組みはじめました。

手慣れているのもそのはずです。このメンバー、毎年ここに田んぼ作りの手伝いにやってきている人たちです。皆さん、すでにもう3年とか5年とか、田植えと稲刈りをここに来てやっている方々で、遅れてきたのはここに来る前に別の田んぼでの作業をしていたからです。

いわば、そんな「先輩諸氏」の間に入って、高井さんも笑顔で作業をしていました。そんな高井さんの仕事姿。一年目とはいえ様になっているような……。

黄色い稲がまだ残っている部分と、すでに刈り取られてはぜかけしている部分。すでに稲刈りが終わって切り株だけが整列して残る田んぼ。

「秋の色」の織りなす模様は美しい……秋の田んぼを見るといつもそう思います。
先ほどまでは数名での作業でなかなか進まなかったはぜかけも、あっという間にすすみました。

そういえば、この田んぼでは「バインダー」で稲を刈ってはぜかけをしていますが。周りを見渡すとなぜかはぜかけが見あたらない田んぼが。

「最近はねぇ、機械で稲刈りから脱穀まで一気に全部、やっちゃう所も多いからねぇ。」

すみません、私、よく知りませんでした。「コンバイン」という機械は知っていたけど、はぜかけしないで脱穀まで一気に!?

「あの、日に干さなくても大丈夫なんでしょうか?」「うん、やっぱりね、味は違うみたいね。ちゃんとはぜかけで日に当たったお米は長期保存しても味が落ちないけど、コンバインで脱穀しちゃったお米は一年たつと味が落ちるらしいわよ。」

おひさまの力は、偉大です。そして、それをちゃんと「はぜかけ」という形で美味しい米作りに生かしてきた日本の農家も偉大です。

それにしても、今年はちょっと青い稲が気になるなぁ。出来はどうだったんだろう?と高井さんに聞くと。

「そうねぇ、どうも今年の実りは今ひとつみたい。稲も軽いようだしね。夏の雨が影響したみたい。」

冷夏だった今年、たしかに実りが心配です。

そうして、一年間、田植えからずっと見守ってきた田んぼ。この先も、脱穀〜新米賞味会(?)〜しめ縄作り、と続いていくのですが、田んぼ自体との関わりはこれで一段落です。

「でもね、実はあまり顔出せなかったんだ。それに、言葉が通じないんだよ。」「通じない?」「うん、みんなの会話が『そろそろあれだから』とか『もういい時期だろう?』とか、主語がないんだよね。でもちゃんとみんなわかってて通じちゃうの。 この会話がわからないとちゃんと田んぼの作業に入れないし。また、来年はもうちょっと会話に加われるように、田んぼにも顔出せるようにしたいなぁ。」「……ということは、来年もやるの?」「そうね、3年くらいはちゃんとやらないとやったって言えるようにはならないよ、きっと。」

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「桃栗三年柿八年」という言葉があります。種をまき、芽吹いてから実りの時期を迎えるまでにはそのくらいかかる。何か事に当たってそれが実るには時間がかかる、すぐには実りを手に入れられない……そういう意味のこの言葉。

高井さんにとっては、今年は「種をまいて芽吹いた」年だったんですね。

こうして田んぼの一年が終わっていきますが、高井さんにとっての田んぼとの関わりはここがスタート。来年、再来年とやっていくことによって「稲作り」における高井さんの「実り」に近づいていくのでしょう。

「桃栗三年柿八年」のあとには、「柚は九年で花盛り梅はすいとて十三年。」とかいろいろな言葉がくっついてくるようですが。

桃栗三年柿八年。高井さんの田んぼはあと何年?高井さんの挑戦は、まだまだこの先も続いていくようです。

そんなわけで。この記事もまだまだ続く……。(かな?)

(写真・文 駒村みどり)

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