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そうだ、「くりちゃんの小布施」へ行こう~進化するおぶせくりちゃん【’11年7月掲載記事】

現在、日本のユーザー数が1466万人といわれているTwitter。そこであるキーワードをつぶやくと、即座に反応を返してくれるキャラがいる。あるキーワードとは「小布施」。そしてリプライの語尾には必ず「クリ~」のひと言。

「まずは小布施に行きまする。北斎の天井絵があるそうな。」「まずは小布施、ありがとクリ~」
「小布施でお抹茶と栗かのこ!幸せ!」「小布施にきてくれてありがとクリクリ~♪」
「おはよー さて小布施に向かって出発しますかいなぁーと!」「気を付けてきておクリ~」

彼の名は、おぶせくりちゃん。
昨年4月にTwitterに登場したときは「リサイクリちゃん」で、まだ手も足もなかった。それが今や、手が出て足がでて、Twitter上で少しずつ人気もでて……ちょっとした「有名人」になりつつある。その人気の秘密を探りたくて、Twitterでアポをとってみたのだ……「くりちゃんの取材、したいんだけど……」と。

そうしたら、きました……お返事が。「上司に相談したら、取材OKだそうクリ~。」
………どうやらクリちゃんには上司さんがいるらしい。

とにもかくにも、キャラクターにインタビューなんて初めてなのでどきどきしながら小布施に突撃した。

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町に入ると、独特の匂いがしてきました。知っているものはすぐにわかる「栗の花の匂い」です。ここは信州小布施町。折しも栗の花が満開です。

「栗花落」という言葉があります。これは「つゆ」もしくは「つゆり」と読む当て字なのですけれど、この字は栗の花が落ちる季節とつゆの時期が重なるために生まれてきたそうです。

小布施町は葛飾北斎が滞在し、八方睨みの鳳凰図で有名です。それから昔から市が立って栄えた商業の町。さらに、江戸時代からとても良質の栗の産地としても有名で、小布施の町並みを歩くと「栗菓子」のお店が軒を連ねているのです。

ご覧のように、町中至るところに栗の木があり、どの木も花が満開でした。
写真の右にあるのが栗の木で、もさもさした黄色いのが栗の花です。

栗の花の匂いが充ちた小布施の道を走り、小布施の駅の近くにある町役場に到着しました。入口を入って、受付の人に「すみません……おぶせくりちゃんの取材に来たのですが」と心の中で(これでわかってもらえるのかしら?)とおそるおそる聞くと、「ああ、奥の方にどうぞ。」と言われたので、「行政改革グループ」という札がかかったカウンターに行ってふたたび「おぶせくりちゃんの……」と声をかけると、「ああ、お待ちしていました。」と立ち上がって案内してくれたのが「くりちゃんの上司」高野さんでした。

「すみませんね。くりちゃん今はまだ、Twitterから外には出られないんですよ。それに毎日みんなへのリプライが忙しいので、私がくりちゃんについてお話しさせていただきます。」

そういえば、くりちゃんのTwitterページの自己紹介文にはこう書いてあったなぁ……。

おぶせくりちゃん
場所: 長野県小布施町
自己紹介: 「おぶせくりちゃん」はTwitter(ツイッター)での「小布施つぶやきキャラ」です。小布施町のごみゼロ・リサイクル促進イメージキャラクター「リサイくりちゃん」から新しく生まれました。みなさん、かわいがってあげてくださいね。(時間帯によってはつぶやきが多く、タイムラインがいっぱいになってしまいますので気をつけてね)

……あの、くりちゃんって、一体1日にどのくらいつぶやいているんですか?
「そうですね……だいたい1日平均200から、多い時には300位みたいですね。5分に一回つぶやいている計算になります。」

200!!5分に一回!!私が時々衝動的につぶやき続けて「うわ~、今日は多すぎたかな」と感じる時で40~50程度。その5~6倍ものつぶやきを1日で???
「そうですね~、なんだか一日中つぶやいていますよね。でも、彼はそれが楽しくて仕方がないみたいですよ。休日もなく、毎日つぶやき続けていますけれど。」

くりちゃんの活動時間を見ていると、朝は7時くらいにみんなと「おはクリ~」と挨拶を交わし、「ねもねもクリ~、おやすみクリ~」と夜の挨拶でおしまいにするのが23時くらい。それも休日なく毎日16時間労働で頑張っているので、大変だろうと思ったのに。彼はどうやらそれを楽しんじゃっているそうです。

きっと小布施を楽しんでいる人のつぶやきを見ると嬉しくなって返事したくなっちゃうんでしょうね……。

確かに、くりちゃんのつぶやきはとてもテンポがよく、楽しいのです。だから、くりちゃんに「クリ~」って声をかけてもらうとこっちも「ありがとクリ~」って返事したくなってしまうのです。小布施が大好きなんだな、くりちゃん。その愛情に脱帽……。

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……高野さんが上司さんと言うことは、くりちゃんは小布施町役場に勤めているのですか?
「そうですね~、そういう事になりますね~。」

……どんな経緯でクリちゃんが働くことになったんですか?
「私たちの部署、行政改革グループというのは、この町役場の組織活性化や町の情報発信などをする部署なんですよ。昨年、Twitterによる発信をしようと思ったときにまわりの行政の発信を見ていたのですが、今ひとつ堅苦しくて面白くない。」

……ああ、確かに。いかにも「お知らせ」って感じであまり読む気になれません。
「それじゃ意味がないし、せっかくTwitterという双方向のメディアなので、発信だけでなく反応も返したらいいかもしれない、と思ったんですね。」

「そこでもうちょっと見ていると地方に関してのつぶやきをキャラがやっているのがいくつか目について。たとえば北海道長万部町のまんべくんとか、米子のねぎたくんとか。」

……なるほど。同じつぶやきでもキャラがいることで「対話」になりますものね。
「そうなんです。そこで、Twitterの応援をしてくれそうなキャラを小布施で探したところ、それまであまり活躍の場のなかったリサイくりちゃんが名乗りをあげてくれたのです。」

彼が「リサイくりちゃん」です。

それまでの彼は、小布施のゴミを減らすための文書に印刷されて登場する程度でした。でも、きっと、小布施を愛する彼はそれだけではもの足りずに何かしたいと思っていたのでしょう。自主的に名乗りをあげたリサイくりちゃんは、Twitterの世界の中で生き生きと活動をはじめたのです。

彼はまず、小布施の情宣活動に取り組みました。小布施町の情報をどんどん流すと共に、Twitterの中で「小布施」というつぶやきがあったら即座に拾い上げて反応する。小布施についてつぶやいてくれる事への感謝、それから小布施をつぶやいてくれる人の応援。そんなつぶやきを毎日毎日、本当にこつこつと積み上げていったら、いつの間にか彼の「クリ~」という語尾の楽しさやまろやかさが受けて、彼との対話ではクリ~と反応を返す人もでてきました。

「くりちゃんとお話をする」事が目的で、小布施をつぶやく人が登場し、くりちゃんにつぶやきを拾ってもらうために小布施のそばを通っただけでも「小布施なう」とつぶやく人が登場し、やがて、小布施には直接関係なくてもくりちゃんと話がしたくて声をかけてくる「くりちゃんファン」が登場するようになりました。そして、ファンからは「くりちゃんグッズが欲しい!」という声も届くようになりました。

そんなある日。
リサイくりちゃんは、みんなともっと仲良くなるために「進化」したのです。手足のなかったリサイくりちゃんに、突然手足がはえてきて、名前も「おぶせくりちゃん」に変わりました。

「彼がね、自分ではやしたんですよ。昨年の9月30日の事でした。もっとみんなと仲良くなりたいと、外に出る準備を始めたようですね。」

@obusekuri: 今日から、Twitterでの小布施つぶやきキャラとして、新しく「おぶせくりちゃん」として生まれ変わったクリ~
@komacafe: クリちゃんに足がはえた!!(9月30日10:50)

……この日のことは、覚えています。朝起きてTwitterのぞいていたら、くりちゃんに足が!!と思わず私も上のように叫んでしまったんですから。ファンのために進化するキャラクター。まるでポケモンのようです。
「みんながくりちゃんを好きになってくれればくれるほど、くりちゃんはみんなのために成長するんです。そんなくりちゃんを好きなってくれて、くりちゃんを通して小布施を知るだけでなく、くりちゃんに会うために小布施を知ろうとする人も増えて来ています。」

……それは、くりちゃん嬉しいでしょうね。
「はい、だから彼はきっと、そんなみんなのためにそのうちTwitterの中から飛び出すかもしれませんね。」

高野さんはそう言うと、意味ありげな笑いを浮かべました。

実際、この日帰ってTwitter見ていたら、くりちゃんも何人かとこんな会話をしていましたよ。(@obusekuriの太字がくりちゃんの発言です)

@ruirui0238: 今日くりちゃんにそっくりな人見たけど気のせいかな…(*´ω`*)くりちゃんは人じゃなくて栗だしなぁ…。
@obusekuri: びびびっクリ~
@ruirui0238: 目が合ったけど気のせいだよね…クリ…
@obusekuri: おぶせくりはまだTwitterの中だけクリ~
@ruirui0238: 早くツイッターの中から出てきておクリ~♪
@obusekuri: もうちょっと待ってておクリ~
@noa72: ええっ!もうちょっとで?o(゚θ゚)oワクワク♪
@obusekuri: ふふふクリ~
@_mikaeru: おぉゲコ♪

どうやら、くりちゃんがTwitterから飛び出すかもしれないという情報は、かなり確かなもののようです。

小布施では、7月17日に小布施見にマラソンが行われます。このマラソンでは毎年いろいろなコスプレで走る人もいるのですが、もしかしたら今年は「おぶせくりちゃん」に扮して走る人も出てくるかもしれません。

そして、小布施見にマラソンには間に合わないようですが(くりちゃんグッズは登場するかも??)、高野さんやくりちゃんの様子を見ると、なんだか今年の秋頃の小布施のイベントがくりちゃん登場のXデイの可能性が高そうです。

くりちゃんファンの皆さんは、小布施見にマラソンの 7月17日や、秋頃の小布施のイベントでのくりちゃんのつぶやきを見落とさないようにね!

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さて。
今はまだTwitterの中から出て来ることのできないくりちゃんですが、Twitterの中ではいつでもお話しすることができます。

上司の高野さんからたくさんお話しを聞いてだいぶくりちゃんのことがわかってきましたが、くりちゃん本人にはお話ができなかったので、お礼も兼ねてTwitterでつぶやいてみました。

@komacafe: 今日は、小布施に取材に行ってきました。今日の取材の相手はなんと!Twitterで活躍している小布施のアイドルおぶせくりちゃんでした~。(^_^) クリちゃんファンの皆様のために、クリちゃんのお話をいっぱい聞いて来ました。

でも、クリちゃんはまだTwitterの外には出られないし、みんなへのレスが忙しいそうなのでクリちゃんの話を聞かせてくれたのはクリちゃんの上司さんでした。クリちゃん、取材に応じてくれてありがとう。上司さんにもお世話になりました~。よろしくお伝えくださいね。(^_^)

そうしたら、くりちゃんからは返事が返ってきたんですが……そのあとすぐに、くりちゃんファンの人からも声がかかったんです。

「父と二人でクリちゃんのファンです、首都圏の人間ですが、こちらでも記事読めますか?」……って。そして、「楽しみにしています。ステキな記事になると良いですね。」と温かい励ましのお言葉もいただきました。


(その日のTwitterのやりとりです。新しい発言が上に来ますので、下から順に読んでみてください。)

小布施の町は、何回も取材していますが、町に住む人みんな小布施が大好きです。そしてたくさんの人が小布施に集まってきます。毎日楽しく小布施のつぶやきに答えるおぶせくりちゃんもまた、小布施が大好き。

そんなくりちゃんとの対話を楽しみながら、くりちゃんが好きになって、そして小布施もすきになる。おぶせくりちゃんが大好きな人が増えるにつれて、小布施の町が大好きな人もまた増えていくのです。

「くりちゃんに会いに、小布施に行こう!」

もし、くりちゃんがTwitterの中から飛び出したら……きっとそういう人がもっともっと増えるに違いないのでしょうね。

こうして魅力的な町、小布施にどんどん人々が集まって、ますます小布施は楽しくステキな町になっていくのです。おぶせくりちゃんは、そんな小布施のために今日もまたつぶやき続けているのです。

余談ですが。
くりちゃんは、去年の12月に彼の仕事を手伝うお友達、「おぶせまろんちゃん」を高野さんのもとに連れてきたそうです。まろんちゃんは、くりちゃんが忙しくなってきたら町の情報をつぶやくお手伝いをする予定らしいですが、まだのんびりとマイペースで活動しているようです。

くりちゃんが外に飛び出すようになったら、まろんちゃんの活躍も始まるのかもしれませんね……。今後の二人の動向をお楽しみに!

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おぶせくりちゃんTwitterページ

小布施町HP http://www.town.obuse.nagano.jp/
小布施見にマラソン公式サイト http://www.obusemarathon.jp/

☆この記事は、昨年の7月に掲載したものの再掲です。
そして今年、ついに「おぶせくりちゃん」と「おぶせまろんちゃん」がWebから飛び出すことになりました!
詳細はこちらから!→ゆるキャラ(R)大集合in小布施 おぶせくりちゃん・おぶせまろんちゃんお披露目イベント開催決定!

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菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦<’10年8月掲載記事>

風に乗って何やら派手な音楽が聞こえてきた。その音はこちらに向かってどんどん近づいて来る。やがて1台の送迎バスの姿。バスからはただならぬ音量で音楽があふれ出している。かなり離れているのに低音が下腹に響く。
あ。これが噂の「爆音バス」か………。それは想像以上の衝撃だった。

「爆音バス」と名づけられたのは、ラガーマンたちをグランドに送迎するためのバス。運転するのは「菅平プリンスホテル」の2代目大久保寿幸さん。送迎の道すがら音楽を大音量でかけて「激励」しているのだ。彼が「すがだいらぷりんす」というTwitter名でつぶやくのは兄貴のような温かいまなざしで見つめる、菅平を訪れるスポーツマンたちへの励ましの言葉。

そんな彼が今挑戦していること。それはある意味、菅平のみでなく信州の……あるいは、社会全体への大きな一石となるのかもしれないと思う。

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「菅平の爆音バス、って名物になるといいね。そう思ってやっているけど、周りとの関係もあってこれ以上はあまり派手には出来ないかなぁ。」
「いやすでに充分に派手だと思う……昔から変わってないよね、そういうところ。」

大久保さんの言葉に反応したのは今野さん。お二人は子供のころからずっと菅平で育ち、この地を見て感じてきた。

大久保寿幸さんは、7月はじめ菅平高原で行われた「セガレとセガレのBBQ」~様々な職種の「セガレ(2代目、3代目の跡継ぎたち)」たちの集まり~に菅平の観光ホテルの2代目として参加、そこで菅平の「これから」について語ってくれた。

それをBBQの記事に記述したところ、1人の女性がTwitterで声をかけてくれた。

【anuka_angela】 おはようございます! 私も菅平を故郷とするセガールです。友人が頑張ってるのを見ると嬉しくなりますね!素敵な記事にして読ませてくださって、ありがとうございます。

それがanuka_angelaこと今野真由美さんだった。菅平で育った彼女は長野を離れて大学進学し、卒業後長野県に教師として戻ってくる。けれど、教職のいろいろで体調を崩し退職、再び地元を離れ大学院に学ぶ。その後、結婚して今は菅平を遠く離れた秋田県で子育てしながらも故郷の菅平を想っている。

【anuka_angela】来月帰省しますよ。では菅平プリンスホテルで(笑)
【suga59】スゲー!つながってる!! 神様がくれた出会いだわ(^_^) 

……というわけで、今野さんのお盆帰省に合わせて菅平での「初対面」と大久保さんとの「取材再会」が成立した。

「小学校の時の担任の先生はめちゃくちゃだったよね。伊代ちゃんが大好きで、教室で毎日でっかい音で伊代ちゃんかけてた。」
「そうそう、カセットテープ二つ入れられるラジカセ買ってきて、それでみんな毎日聞いてたよな。『二つも入るなんて、なんか今までよりいい音する感じ?先生スゲー』なんて言ってたっけな。」

……もしかして、爆音バスのルーツはここにあるのだろうか?

2人は、幼稚園から中学校までずっと同級生だった。菅平には小中単級の学校がひとつあるだけ。だから同じ学年だと9年間は必然的に「同級生」になるわけだ。

「小学校の時には、山に入って遭難しそうになったこともあったよな。」
「最後は川に沿ってくだって、やっと出てこられたときに『あー良かった』って……。」
「先生自体が道わからなくなってたんだよな、あれって。」
「わたしたちの今ってあの先生の影響大きいのかもね。」
「あの先生好きだったよ。めちゃくちゃやったけどしめるところはしめてたよな。」

授業時間に山を歩き回る生徒と先生、めちゃくちゃだけど人間味あふれる先生、そんな先生の元で小学生時代を過ごして彼らの“今”がある。

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彼らが生まれ育った菅平高原は大笹街道が通り、太平洋と日本海を結ぶ重要な交通の拠点でもあった。江戸時代に本格的に始まった農地の開拓のため各地から移住してきた人々によって今の菅平がある。

夏のラグビーのメッカ。そのはじまりは法政大学のラグビー部を昭和6年に誘致してからのこと。一方、ウインターシーズンはスキーのコース数36、80年を超えるという規模・歴史的には申し分のないスキー場だ。けれど、その「申し分のないスキー場」「夏のスポーツのメッカ」である菅平が抱える問題はとても大きい。

たとえば菅平まで30分というところに住んでいる私が「スキーに行く」とき菅平は視野には入らない。私の関東・関西のスキー仲間も同じ。彼らは「長野でスキー」といえば白馬・志賀高原・野沢温泉。それはなぜか。

かつて、菅平に隣接する須坂市の野球少年たちが菅平でスキー合宿をした時、私は請われて指導者として参加したことがある。

野球少年とはいえ、3~4年の子達はまだスキーが上手くないので初心者コースを利用するのだが、リフト1本分しかない短さなのであっという間に滑り降りてしまう。
あきてしまって別のコースに移動するとゲレンデの連絡がとても悪く、子供たちはスキーで「歩く」のが大変。ようやく別のコースに出たらそこもまた短くあっという間に終了。ちょっと滑れるようになった子供には物足りない。初心者には移動が辛い。

せっかくたくさんのコースを抱えているのに、なんでもっと連絡良くしないんだろう?志賀高原の方がもっと広範囲に拡がっているけれど、「全リフト制覇特典」のように楽しみがあるから移動が気にならないのに比べ、菅平の一体感のなさってなんだろう?

「これだけのスペースに6つもの会社が入っていて……みんなそれぞれバラバラなんだよな……。」……と大久保さん。

あの時「菅平っていいな」にならなかったその理由が、その大久保さんのひとことでやっとわかった。そしてそれは、スキーの話に限らない。夏のスポーツでも同じようなことが起きていた。

菅平の「グランドマップ」(写真はその一部分)。夏のシーズン、スポーツ観戦に訪れる人のためのものだけど、菅平の「観光地図」として使われることも多い。

この地図を見るとグランドには番号がふってあって、それぞれが「どの宿泊施設のものか」わかるようになっている。ほぼ真ん中に1のグランド、そのあと2は?3は?と番号で追っていこうとすると2は見つかるけど3はそばにない。1の周りに60台、70台の番号が並ぶ。色分けされているけれど、その意味もよくわからない。

「これね、番号は『グランドの出来た順番』になっているんですよ。」と大久保さん。

「おまけにこの地図、グランド持っている宿泊施設しか載ってない。そこに泊まる選手は宿泊施設がバスで送迎するから地図は要らない。これ使うのは試合を見に来る親御さんや外部の人達で、必ずしもここに載っている宿に泊まるわけじゃない。番号の不規則さ、目印のなさ。使う人にとってとても見にくいものになっているんです。」

確かにそうだ。私も菅平はよく通るので道は知っている方だけれど、この地図もらったときに目印を捜してしばらく考え込んだ。ましてやまったく土地勘のない人にはすごくわかりづらいものだ。

「この地図のこと、いつも言っているんだけどね。作っている人間は“自分たちはわかっているから大丈夫”と言ってこれがなかなか改善されなくて。」

……だけど、菅平って「開拓者」が入ってきて出来た土地ですよね?伝統とか歴史とかにはあまりこだわりがなさそうな気がするんだけど?

「元々あちこちからの開拓組が集まって出来た土地なんだけど、『自分たちが切り開いてきたんだ』という自負というか、誇りというか、そういうものすごく強いものがあるんです。バブル期にうまくいっていたので自分たちの親世代には特にそれが強い。菅平を離れるとそれがよく見えます。」と今野さん。

大久保さんや今野さんの視点は外から菅平を訪れる人達のもの。けれど、菅平で人を迎える立場の多くの人が「自分たちにはわかっているからいい」という視点であちこちを考えていたら……私のように30分という至近距離にいながら「スキーは菅平」にならないのだから、遠くからわざわざ訪れる人にとったらなおのことだろう。

そうでなくても、今、スキー産業は落ち込み続けている。かつてバブルの頃、都会からスキーに殺到してリフト待ちが1時間2時間だったあの時代はもう過去のこと。

「菅平は、まだ夏のスポーツがあるから落ち込みがひどくない。でも、今この時に何とかしなかったら……春や秋、そこも視野に入れた菅平を考えなかったら手遅れになる。」という大久保さんの懸念は強くなるばかりだ。

しかし……「かつての華やかな頃」を知る親世代と、「未来に危機感を持つ」子世代との意識の差は……簡単には埋められない。

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「日本に『国技』ってあるでしょ?あれと同じように菅平の学校には『校技』ってのがある。スキーがそれ。」と大久保さん。

子供のころから当然のようにスキー。選手も大勢輩出したろうし、今の菅平にいるスキーの指導員は地元の人間が大多数。

「だけど私はスキーは大嫌い。なんでこんなことしなくちゃいけないかってずっと思ってたし、すごくいやだった。」と今野さん。

スキーは中学の部活にも大きな影響を持っていた。ゲレンデに雪のないシーズンは男子はサッカー、女子はバスケ。シーズンになると全員が「スキー部員」になる。
本来、一般の中学生は部活を「選択」して入部する。スポーツが好きな子だけじゃない。音楽や美術をめざしたい子もいるだろう。今野さんのように「スキー嫌い」という子もいるだろう。しかし菅平の中学生はみんな一緒。「それが常識」だった。

さらに数年前のこと。部活を一年中「スキーに統一する」という通達が学校から家庭にあった。これに対して、PTAからはいろいろな声が上がった。大久保さんもOBとして、PTAとして、声を上げた。

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思い起こせば、自分が生徒だった頃は「何のために勉強をするのか?」「何のためにスキーをするのか?」を自間自答しながら、自分が生まれる以前から始まっていた校技スキーの意義・概念を理解できないまま、受け入れる事ができないままに、ただ何となく活動に取り組んでいたように思います。(中略)

今回の中学生夏部活の件において、子供たちを取り巻く状況を一変させてしまったスキー活動の運営方針については、校技スキーの行く末を憂慮せざるを得ません。このような現状が、校枝スキーを「負の連鎖」に導くのではないかと危惧してならないのです。

現在の子供たちに対する教育・指導の内容は、次の世代の未来を創り、さらに、この世代の子供たちが親になって、そのまた次の世代を育ててゆきます。「教育は国家百年の計」と言われる所以です。

今回の件で、勇気を持って主張した生徒の意見が却下され、「大人に何を言つても無駄」と言葉を飲み込んでいる子供達が多数存在しています。意志が尊重されず、校技スキー活動に疑間を感じながら取り組まざるを得ない現在の生徒達が、菅平・峰の原の親となった時に『負の連鎖』が具現化され、校技スキーは衰退の一途を辿るのではないでしょうか。      (大久保さんのPTA文集原稿「思うこと」より抜粋)

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結局、通年スキー部はなくなったが、今まで秋までやっていたサッカーとバスケは春の地区大会までになり、その後夏からスキーシーズンの間は全員スキー部に……という「改変」が実施された。

けれど……。子供たちの夢は、スキーだけで実現するものじゃない。たとえ1人でもボールが蹴りたい子がいたらサッカーの機会を与えたい。速い球を投げられる子がいたら、甲子園夢見るかもしれない………。

実際、当時の中学生にはものすごく速い球を投げる生徒がいたし、サッカーの上手な女の子もいた。本来だったら「やりたいこと」の機会を与えるのは学校。けれど、菅平の学校でそれはかなわない。大久保さんは「菅平の子供の未来」を考えてひとつの行動を起こした。

サッカー少女と野球少年。2人のために「大人」を集めて一緒にゲームをする環境を作った。「菅平野球軍」「フリースタイルフットボールおしゃれ組」……そして、それらのために補助金をとり、菅平高原を拠点にしたスポーツクラブ設立をめざした。

メンバー集めから難航。地元の協力はなかなか得られない。スキーを推進する人達からは歓迎されない。体育協会への報告書作成もお役所仕事に翻弄される。
が、「地元の子供たちのために」という思いに突き動かされて活動は3年目に入った。

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「菅平は、夏、スポーツの選手が集まってきている。けれど昔に比べてスポーツマンの質も変化していて。」

「夏の菅平」も今の菅平を支えているのは確かな事実だ。しかし、そこにもただ喜んでばかりいられない「現実」がある。
かつてのようにスポーツの技術と同時に先輩後輩の関係から人やものに対しての「精神性」を育成されたスポーツマンばかりではなくなった。菅平のメイン通りだけでなく、グランドや宿のそばの細い道までも拡がって歩く。近くの畑の農家の人々がトラクターで通りかかろうとお構いなしに。当然、メインストリートでも車は大渋滞。

「家の近くで夜遅くまで、大声で騒いでいる人も多いですよ。狭い道なのに、そして農家は朝早いから夜は早く休まなくちゃいけないのに、その騒ぎで寝られないこともあります。」「そういう人達がいるから子供のころは夕方になると道を歩くのがこわかった。」と、実家が農業を営む今野さん。

「そう、菅平を支えているのは観光だけじゃない。農家の人達だって大切な存在。だけど、夏の誘客を考えたときにスポーツマンが来てくれることも必要。観光と農業の関係性がとても難しい………。」大久保さんがそれに言葉を添える。

「菅平の農家は冬はゲレンデの食堂などで稼いでいるんだけど、スキーが落ち込んだら夏に頑張るしかない。夏、農業で稼げなかったら冬の食堂の設備投資のための借金返せないし………。」今野さんが語る菅平の農業の問題点は深刻だ。

菅平の抱えている課題は大きい。「冬」と「夏」のあり方、「農業」と「観光」のあり方、「親世代」と「子世代」の感覚の違い………。そしてさらに、それぞれの思惑や願いが渦巻く中、そのバランスを考えた上での「菅平」のこれから。

けれど、それらのひとつひとつを見ていくと、これは菅平だけの課題ではないように思える。たとえば、「町並みづくり」「学校教育」「地域おこし」そして「社会のあり方」……。今までの伝統と新しいものとのバランスや融合、様々な立場の人達がそれぞれに主張するものをどうまとめていくのか。

今の社会全体が抱えている、様々な問題の根っこにあるものが、この「菅平高原」のあり方に凝縮されているように思う。

この日。あっという間に時間はすぎ、それぞれの場所に戻ってお互いに尽きない想いをTwitterでつぶやき合った。
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【anuka_angela】駒村さん(@komacafe)と、旧友菅平プリンス(@suga59)と会った!すごいエネルギーをもらって帰ってきた。異業種間交流はすっごく楽しかった。
【anuka_angela】……で思ったのは、儲けることは決して悪いことではないんだが、もう個々の利潤だけ追求してても発展はないってこと。全体の発展を考えて初めて、個々が潤う時代だな。
【suga59】このような情報交換が菅平内で出来れば面白いんだけどね~
【komacafe】「全体最適」の考え方。社会全体で考えていくべき問題なんですよね。
【suga59】そう!ウチのホテルだけ生き残っても、他が淘汰されれば菅平の集客力が落ちるってことだし、そうなればリフト会社の経営がより厳しくなるし、リフトが動かなくなったら菅平は壊滅する
【komacafe】それをみんなで考えるようになるためにはどうしたらいいのかなぁ。
【suga59】うーん、今は、いろんな活動を通して活躍することでミンナに認めてもらって、賛同者を増やして…と考えています(´∀`)そのためには稼業を揺るぎないものにしなければいけませんね!
【komacafe】私はそういう人を見つけて繋げて、拡げるお手伝いを……それぞれが出来ることをするってことかな。
【suga59】いろいろ教えてください!!ミンナが笑えるように
【komacafe】合言葉は「ミンナの笑顔」。
【anuka_angela】「最大多数の最大幸福」、社会全体の課題だよね。良いモノやサービスを提供するのは大事なこと。例えばホテルが良くても、スキー場のサービスが悪ければお客様は来ない。夏も同じ。みんなで協力することが不可欠だよなー。

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この話には「結論」はないし、まだ先も見えない。けれどこれは菅平の中で、そしてもっと言うと社会全体至るところでこの先「尽きることなく」討論されていくべきなのだろうと思う。「今」から生まれる「明日」のために………。

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観光(かんこう)とは、一般には、楽しみを目的とする旅行のことを指す。語源は『易経』の、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節による。「tourism」の訳語として用いられるようになった。(ウィキペディアより)

「国の光を観る」ということは、「その国の王の立派な人徳と、その王による国民の教化の美しさをみる」(これが、観光の意味)ということであり、「用て王に賓たるに利し」とは、「それだけの知力を持った人物であればこそ、王の賓客として遇せられる臣となることができる」(これが、観光の目的)ということ。

つまりは、その地にある光を見、その地の人々の徳に触れ、それによってその人も学ぶ。土地ばかりでなくそこの人々もまた「光」であるべきで、訪れたものが「また来たい」と思うような経験をそこですること。それが本来の「観光」だ。

最初に登場した「爆音バス」は、大久保さんが放つ光のひとつ。

【suga59】バスでAKB流してたら、違うグランドに送ってしまい、選手達はそこから走って移動しました…。しかしラガーマンは「いいアップになりました!!」と言ってくれた

大久保さんのツイッターにはこんな風に爆音バスで送迎したラガーマンたちの姿が登場する。彼らにはきっと、違ったグランドから走って移動することさえもいい「思い出」となったに違いない。爆音バスを知る人に聞くと、大久保さんはバスの子達だけでなく、信号待ちの時にもバスのドアを開けて道ばたのスポーツマンたちにも声をかけ続けているという。

「AKBで爆音バス楽しかった\(^^)/帰りのテンションなら最高に楽しいですww」

これはそんなラガーマンのつぶやきのひとつ。彼にとっても大久保さんの「おもてなし」は心から嬉しく楽しい思い出のひとつに刻まれたのだろう。→ 爆音バスの様子(Youtube)*ボリュームにご注意

帰るとき、ホテル前のベンチに3人のラガーマンが座っていた。日に焼けてたくましい筋肉を持つその青年たちは、私たちが前を通るとさっと立って「こんにちは!」と笑顔で挨拶してくれた。

「この子たちは今年の優勝候補だよ、強いんだよほんとに。」

そういって3人を紹介する大久保さんは、自分のことのように嬉しそうだった。

夏の合宿、冬のスキー修学旅行……「すがだいらぷりんす」に出会った人達は、ここに菅平の「光」を見、そしていつかまたきっとこの地を訪れて大久保アニキと語り合いたい……と思うに違いない。

菅平に生まれ、菅平に育った「すがだいらぷりんす」の想いはこの地を訪れる人達に菅平の光を届けること。そのためにはまず自分が光となり、輝いてちゃんと人を照らせるようになること。その光を菅平のみんなと共有し、「みんなの笑顔」があふれる事。

まだまだ越えなければならない山はたくさんある。 “プリンスの挑戦”はまだまだこれからも続いていく。「できるひと」が「できること」を。みんなのために力出し合う菅平をめざしてその輪を少しずつ拡げながら。

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菅平プリンスホテル→HP

写真・文 駒村みどり

「日本で最も美しい村」が直面する現実〜大鹿村の今とこれから【’11年6月掲載記事】

細い山道のかたわらに、おい菜のおかみさんから聞いた「クリンソウ」の看板。わずかな空き地に車を停めて、坂道を下っていくと……そこはまるでおとぎの国の世界だった。

木立に囲まれたその向こうには大池の静かな水面。そして、手前にはピンクのじゅうたんを敷き詰めたようにクリンソウの花畑。

夢中になって写真を撮って、時間がおしているので次へ向かおうと立ち上がった時、木立の向こうに何か白いものの影。ぱっと見あげると、そこには……白鷺の群れ。

何物にも染まらない純白の大きな鳥が、それも5~6羽飛び交っている。長野県では田園地帯の田んぼや川辺に1羽で佇んでいる光景は見かけることがある。けれど、こんなにたくさんの野生の鷺を見るのは初めて。まるで舞を舞うようにくるくると……最初は池の水面ギリギリを飛び回り、次第に高度を上げて空高く小さくなっていき、やがて青空に吸い込まれるように消えていった。

それはまるで、ひととき夢の中か物語の中に飛び込んだかのようで、しばらく私はそこを動くことができなかった。

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「ああ、大池のクリンソウ、見てきたんですか。
実は、あの花、かつてはあの池のまわりにびっしりと咲いていたのですが、持ちかえる人が出てしまって、だいぶ減ってしまったんです。ですから今は、吹いて飛ぶような種を採取し、それを11月にまいて保護活動をしているのです。」

そう教えてくれたのはこの大鹿村の旅館、赤石荘のご主人の多田 聡さん。この言葉にかなりの衝撃を感じました。さっき見てきたあの夢のような世界が、実は大鹿村の人びとの手によって守られているものであって、もっというと守らなくてはならない状況がそこにある……つまり、あの美しい光景を自分だけのために破壊する人がいるのだ……というその事実。

タイトルに揚げた「日本で最も美しい村」。これはNPO法人「日本で最も美しい村」連合に参加している村々のことです。この活動の概要はHPでこう説明されています。

近年、日本では市町村合併が進み、小さくても素晴らしい地域資源を持つ村の存続や美しい景観の保護などが難しくなっています。私たちは、フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスで最も美しい村」活動に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る活動をはじめました。名前を「日本で最も美しい村」連合と言います。

「失ったら二度と取り戻せない景観・文化を守る活動」。つまり、この活動に参加している村々は、「日本で最も美しい自分たちの村を誇りに思い、大切に守り、そして後世にその美しさを引き継いでいく決意表明をした」村々、ということになります。

多田さんのクリンソウの花の保護活動の話を聞いて想い出しました。青いケシの記事に登場した中村さんも、実は中村農園のHPを見るとその美しさを守る苦労をされているのです。

※花を摘んだり地面から抜いて持ち去る方がいますが、ご自宅へ持ち帰ってもすぐに枯れてしまいます。最低限のマナーを守り楽しい時間をお過ごし下さい。

太字で2行のこの文章に、中村さんはどんな想いを込められていたのでしょうか。かなりの困難の末にあそこまで丹精し、見に来る人びとのためにと心を砕いてきたのに、心ない人のためにその心と貴重な花が失われてしまうのです……。

クリンソウも、青いケシも。どちらも訪れる人たちの目を楽しませてくれます。それは「大鹿村」という場所にあるからこそ美しいのです。そこにいる人びとが心を込めて慈しんできたからこそ、美しいのです……。

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さて、多田さんと、先ほど中村さんのところで話題になった「大鹿村騒動記」の映画の話になりました。中村さんは、歌舞伎役者として出演されるそうですけど、多田さんも出たんですか?とお聞きすると……

「あ、出ましたけど、本当に一瞬ですよ~。ぼくの出番は村のリニアモーターの賛否についての討論会の場面でしたよ。ぼくの後ろから松たかこさんがお茶を渡してくれるんですけど、振り返りたくても振り向くわけに行かなくてねぇ……。」

いやぁ、それは大変でしたね!といった後で、「リニア」という言葉に引っかかりました。現在、国やJRを中心に東京と大阪を結ぶリニア新幹線の計画が進められています。そして、そのルートとして大鹿村をトンネルで縦断することがほぼ決まっている……らしいのですが。

「いや、じつは、村の者のほとんどがちゃんと説明受けていなくて。どうやらこの赤石荘のすぐそばを走るらしいんですが……まったく情報が入ってこないで、僕らも新聞の記事でようやくいろいろと解るといった有様なんです。」

その言葉にふたたび私は衝撃を受けました。リニアのルートについては大鹿村を通るということで、村を見守る山のどてっぱらに風穴を開けるという行為について、何とかならないものなのだろうか?と思っていた私は、もう少し詳しくその話をお聞きしてみました。

……なぜ、誰にも説明がないままにルートが決まってしまっているのですか?

「実は、トンネルが通るあたりの一帯は個人の土地なんですね。それもリニア賛成派の議員さんの。その人がその土地を売るといえば、誰も文句は言えません。誰に説明がなくてもそれで話が進んでしまうんですよ。」

確かに、その土地の持ち主が売るといったら、文句は言えないでしょう。けれど、売った土地にトンネルが開いて毎日そこを新幹線が通る。ずっとトンネルなら振動があっても騒音はそんなにないでしょうが、予定地は山と山の間に川が通る谷あいの場所。トンネルから一旦外に出てふたたびトンネルに入ることになるため、その騒音は谷に響いて村に襲いかかることは容易に予想されます。

それは、たった1人だけの問題ではありません。村全体に関わって来ることのはず。なのに、それについて村全体には何も知らされず、知らない間にルートが決まっているのです……そんなことが行われているなんて……。

「………たぶん、トンネルが通ったら、トンネルの影響を受ける釜沢地区の人びとは村を出て行ってしまうでしょうね。」

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釜沢地区と聞いて、私は2年前に見た光景を想い出していました。文化庁の支援プログラムの一環で大鹿歌舞伎について取りあげた時、赤石岳を間近で見たくて大鹿村の中心部からさらに4~50分のところにある釜沢地区に早朝、車を走らせたことがあるのです。

(これはその2年前の3月に撮った写真です。リニアのトンネルは、この右側の山を貫通するのです。)

まだ午前中の早い時間にそこに行ったにもかかわらず、そして、かなり山の奥深くの場所に踏みいったにもかかわらず、なにやら遠くの方から工事の音らしきものが聞こえてきていました。そのあたりではダンプカーやショベルカーが何台か作業をしていたのです。

「ああ、それは、ちょうどその頃に試験掘削が行われていたんでそれでしょう。実は、あの時の騒音がもとですでに一軒、大鹿から出て行ってしまったご家族があるんです。」

山に囲まれ、町から隔離されたかのようなこの村。村の面積的には長野県で三番目に大きいけれど、そのうちの98%が山林で、人が住んでいるのは残りのたった2%。それも山のあちこちに小さな家の固まりがぽつぽつと点在しているこの村には、会社や企業はありません。

かつては林業が主幹産業であったけれど、もはやそれでは生計が成り立たず、職を求める者は村を出るしかありません。残っている人びとは農業を中心にほぼ自給自足に近い生活をしながら、周りの人々と助け合って静かに暮らしているのです。

「日本で最も美しい村」の活動に加盟し、その豊かな自然や静けさ、遙か昔から受け継がれてきた大鹿歌舞伎の伝統を守りながら静かに生きてきた村に、大きな機械が何台も乱入して山肌を削る。想像するとそれはかなり痛々しいこと。

村の人びとに情報がなにも入らないままにこういうことが起きていて、映画にも描かれたように、「リニアが通る」ということに対して危惧の声があったにもかかわらず、それは音もなく静かに進められています。それでは一体なぜ、そんな理不尽が認められているのでしょう?

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大鹿村は、「限界集落」です。限界集落というのは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって社会的共同生活の維持が困難になった集落のこと。

「実際、ぼくと同じ年代のものはほとんどいません。子育て世代が村にあるかどうか。」

豊かな自然を守って、大鹿の生活を支えているのはほとんどが高齢の方。先のクリンソウの保護活動に当たっているのは、ケシを育てている中村さんや、おい菜のおかみさんや、OBの協力を得て活動する大鹿村の「商工会青年部」。

村の40才までが所属する青年部の部員は今、多田さんたった1人です。そして多田さんが40を迎える2年後には、 “無期限休止状態”になるのです。

「そうですね、工事が始まったら……村には仕事ができて、人が入ってくる、という『メリット』もあって、それに対しては……反対派も何も言えないんです。」

実際工事が始まったら。この山奥の村にも「仕事」ができる。そしてその仕事をするために工事の期間は人が増える。少なくとも「肉体労働」をする年齢層の人びとが村に入ってきて、しばらくの間そこで生活をする。食事を取り、宿を必要とし、それは村をある期間、活気づかせることになる。

つまり「限界集落」として子育て世代や働き手世代が少ないこの大鹿村が一時期であれ活気づくのは、確かなことに違いありません。

リニアの工事はある一定期間で終了し、やがて山を貫いて新幹線が走ります。村に残るものは、リニアの振動と騒音だけ。駅ができるのは山をくだった遥か遠くの飯田市街地。東京と大阪を1時間で結ぶことをうたい文句にしているリニアが1日にいったい何本飯田に停まるのでしょう?飯田という「田舎」に停まる利点はほとんど無い。さらにそこから客足がこの大鹿村に向かうこと自体、まったく考えられないことになります。

大鹿村を訪れる人びとは、その村の美しい自然と静寂に惹かれてやって来ています。工事で人が増えたとしても、工事が終わったあと、大きな穴があいて騒音と振動がやって来る大鹿村を、以前の常連さんが同じように訪れてくれるでしょうか?

それに対して、説明がないため村全体の意志統一や意志確認もできず、討論の場も与えられず訳のわからないままに、水面下でリニアの計画だけが着々と進行している。

それが今、大鹿村の直面している大きな問題なのです。……そしてそれはある意味、原発問題にも共通するところがあるのかもしれないと、ふと思ったのでした。

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赤石荘には、目の前に大鹿村の山々が迫る露天風呂があります。日帰り入浴が可能です。気持ちよさそうなその温泉に入る時間は残念ながら無かったので、そのまま多田さんにお礼をいうと赤石荘をあとにしました。

「あちこち工事中で大変で……生活するのには本当に困ります。」

赤石荘に着いた時、多田さんの奥さんがつぶやいていましたが、村の中心から赤石荘につながる道も、実は今「通行止め」です。青いケシを見に行く時にもあちこち通行止めだったのですが、大鹿村は古より崩落との闘いを繰り広げていました。

そういう崩落の危険性のある細い山道をようやく拡げ、飯田や宮田村からのルートが確保されました。けれど、私が帰りにそちらのルートを行こうとしたら、そこもまた工事中や崩落修理で通行止め。

大鹿村に至る道は困難を極めます。それが都市部から切り離された美しい自然や、伝統ある文化が守られている大きな理由でしょう。でもそれがゆえに都会の利便性からもまた切り離され、だから若い人手が流れ出ていくことになる。

理想と、生きる事による現実と。
たぶんこの問題は、今までもこれからも、日本のあちこちで途絶えることなく討論し続けられていくことなのでしょう。その「正解」は……繰り返される過去の歴史を見返すことでしか見つけられないのではないでしょうか。

1つだけ私にできることは、この問題を「対岸の火事」、「知らない土地の関係無い出来事」と思わず、自然と闘い、その豊かさ・美しさに心を砕いて守る人びとが、しかしそれゆえに生きるため、村の存続のための闘いも続ける宿命にある人びとがいる、ということを心に留めて行くこと。

美しい自然は、決してただでは得られません。豊かな自然は、一度破壊されたら元には戻りません。なくなった村に人が戻ることも容易ではありません。美しい自然はそれを愛する人たちの思いの上に守られてきたことを……そして都会の利便性はこうして失われたものの上に成り立っていることを……私たちは決して、忘れてはならない……そんな思いを胸に抱きながら、新緑の大鹿村をあとにしました。

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大鹿村HP http://www.vill.ooshika.nagano.jp/
日本で最も美しい村 HP http://www.utsukushii-mura.jp/
赤石荘 HP http://www.akaishisou.com/

地上にひろがるヒマラヤの空のかけら~大鹿村の青いケシ【’11年6月掲載記事】

「こっちですよ」

案内の声に導かれて、受付から一段高台にある畑に着いた時、まるで青い空のかけらがこぼれ落ちてちりばめられているのかと思った。

それは、青いケシ。
青いケシが何株も目の覚めるようなさわやかな花びらを拡げてそこに咲いていた。
「ヒマラヤンブルー」という名を持つ、ケシの花の畑だった。

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駒ヶ根の市街地を抜けて細い山道をぐんぐん登り、パワースポットとして注目のゼロ磁場、「分杭峠」を越えると今度は長い細い山道を下ります。それはかつての「杖突街道」。今は国道152号線ですが、国道とはいえ、横には中央構造線に添って鹿塩川が流れ、反対側には切り立った山がひろがるこの道は、所々で車のすれ違いさえも困難な細い山道なのです。

突然、右の川の方から車の前を横切る大きな影。「危ない!」と急ブレーキを踏んでみると、大きなシカが道を横切ってあっという間に左の山の中へ消えていきました。

ここは、南信州にある「日本でもっとも美しい村」の1つ、大鹿村です。
その名にあるように、山あいの道を走るとたくさんのシカに遭遇します。……そのくらいの、山道なのです。

そして、ようやく少し開けた場所に出てくると、道のまわりに畑や田んぼが拡がり人家もちらほら見え始めます。この国道沿いに点々と散らばる人家や学校。やっと開けた場所にでてきてホッとしたのもつかの間。今日の目的地は、ここが終点ではありません。

カーナビの示す道をさらに山の方に上ろうとしたら「崩落により現在通行止め」の看板。あきらめてぐるっと山に添ってまわり、もう一つ次の道へ向かうと、そこもまた「崩落により………」。
もしかしたら、目的地に到達できないの?とおそるおそる次の道へ向かうとそこは何とか登ることができそうです。

そこから車はまた天をめざします。
ここからは片側が険しいがけ。所々ガードレールもない場所があり落ちたらひとたまりもないのでしょう。車のすれ違いも難しい細い道で、対向車が来ないことを祈りながらひたすら上を目指します。

そうして延々30分も上った頃でしょうか。要所要所の小さな看板が案内してくれていたその場所にようやく到着しました。
「青いケシ」……その小さな看板にはこう書いてありました。

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「はじめて青いケシが咲いてから、今年で17年目になるよ。」

ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原にある中村農園。そのご主人である中村元夫さんは、ここで様々な花を育てて東京や大阪に卸す仕事をしていました。

青いケシとの出会いは切り花のカタログを見て。普通は標高2000メートルから3000メートルの、気温が25度以上に上がらない、しかし適度な雨の降る土地でしか育たないこの青いケシに興味を持った中村さんは、ここ大鹿村の自分の農園でもなんとかできるかもしれない、と日本では不可能といわれた青いケシの栽培に取り組んだのです。

青いケシは、種をまいて1週間ほどで発芽します。そして本葉がでるまでの約一ヶ月間に温度と水分の管理でものすごく手をかけねばなりません。初めての時に中村さんがまいた種は3000で、そのうちきちんと苗として育ったものは300未満……たったの1割だけでした。

さらに、その1割の苗を植えて大切に守り育て、花が咲くのは翌年の6月……1年以上の時を経て、ようやく「開花」を迎えることが出来るのです。その初めての花が開いてから今年で17年。中村さんが慈しみ育てた青いケシは今や5000株に増え、毎年梅雨の時期に当たる6月はじめから7月はじめまでの一ヶ月間、一斉にその青い花を開いてたくさんの人たちの目を楽しませてくれるようになっています。

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この青いケシは先にも書きましたが、高温に弱く、気温が25度以上に上がるところでは育ちません。ここ標高1500メートルの大鹿村大池高原はギリギリで、昨年の暑さで弱ったりダメになったりしてしまった株もあるそうです。そこに加えて今年は春の天候不順で、例年は一気に5000株が開くのがだいぶばらついてしまったそうです。

「でもね、ばらついてくれた方が逆に長く花が楽しめるので、たくさんの人に見てもらえるしね。」

中村さんは1人でも多くの人たちが楽しめるように……と、そう言います。

以前は株や切り花の販売もしていたそうですが、5000株もの開花を一度に見ることのできるのは日本……いえ、世界でもここだけかもしれないという専門家のお言葉にもあるように、ここ以外の場所ではこんなに生き生きと育つどころかあっという間に花がダメになってしまいます。「見に来てくれる人」のためもあって今は外には出していません。

中村さんの農園で17年間かけて育てられてきたケシの花の中には10年以上も咲き続けている株があり、1つの株に10輪も咲く株がここにはいくつもあるのです。それもこのケシの専門家の方にいわせると本当に珍しい(奇跡に近い)ことだそうです。

「前はね、種まきをして芽がでてから苗を作るまでも全部自分でやっていたのだけれど、管理を仕切れなくて、5000株のケシの花を維持していくためにもいまは中川村にある育苗センターにお願いしてやっているんだよ。それでようやく、苗になるのが2倍に増えてね。」

中村さんが育てているのは青いケシだけではありません。もともと花の卸しで東京や大阪にたくさんの花を卸しているのですから、他の花も温度や日照など気をつけながら育てています。そのかたわらの青いケシ、なかなか苗に付きっきりで育てるわけにも行かず……2倍とはいっても、もともと種から苗になるのは1割だったのが2割になったというだけ。貴重で難しいことにはかわりありません。外部に苗を依頼するようになってその分費用がかかるようになったので、ケシの花の入園料500円はその「協力金」なのだそうです。

中村さんは、展示会などで一輪見るだけでも貴重なこの”花の宝石”の青いケシ5000株の維持を、見に来てくれる人たちのために毎年丹精込めてしています。ですから、実際毎年見に来るファンも多いようです。私がケシの写真を撮っていると、同じようにカメラを持った年配の男性が「今年はね、ちょっと色ノリが悪いみたいだよ。例年はもっと青が深いんだ。」と教えてくれました。多い時には1日1000人ものお客さんが押し寄せる事もあるとか……この深い山奥に……想像しただけでものすごいことです。

協力金500円を払うともらえる入園券を3年分まとめて提示すると入園料はただになるそうですから、もし見に行くのでしたらチケットは捨てずに記念にとっておいてくださいね。

今年は、先にも書いたように花のばらつきはありますが開花が遅かったので、7月終わりくらいまでまだまだお花が楽しめるという中村さんのお話でした。もし、機会があったら是非ヒマラヤの青いケシの神秘な姿を見に訪れてみてください。

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さて、この青いケシを育てている中村さんには、もう一つの顔があります。それは「大鹿歌舞伎の女形役者」です。中村農園のHPを見ると、中村さんの舞台写真が掲載されていますが、そのやわらかい笑顔を浮かべた横顔を見ると、なるほど、と納得します。

実は、今年の夏……この大鹿歌舞伎を題材にした映画が全国で公開される事になっています。「大鹿村騒動記」というその映画は、「大鹿村の歌舞伎に取り組む」原田芳雄さんが主演で、昨年の大鹿村の秋の歌舞伎公演の収録も含めて大鹿村の光景や、村の人びとがたくさん画面に登場します。

中村さんもその1人。実際に白塗りの顔で舞台に立ち、セリフもちゃんとあるそうです。

「日本でもっとも美しい村」大鹿村の美しい自然や長い間受け継がれてきた大鹿歌舞伎の様子がふんだんに盛り込まれたこの「大鹿村騒動記」。7月16日から全国で公開されるそうですので、是非皆さん見に行ってみてください……そして、中村さんも探してみてください。(「白塗りの顔だから、わかんないとは思うけどね」と中村さんはおっしゃっていましたけれど。)

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中村さんに別れを告げて次に向かったのは、中村農園から数分くだったところにある「おい菜」というお食事処です。実は、「青いケシが6月に見られるのよ!」という情報をくれたのが、ここのおい菜のおかみさんだったのです。(ちなみに、「おい菜」というお店の名は、「おいな=おいでなさい」という大鹿の言葉から来ているそうです。)

帰りがけにおい菜に寄ってみると、ちょうど客足が途切れたところで、一番の特等席に案内してもらうことができました。

店の外のテラスです。やわらかい木のテーブル。正面には中央アルプスの雪をかぶった頂が連なり(千畳敷カールがよく見えました)、左手には遠く飯田の市街地が見えます。高台に張り出したテラスから下を見ると、パラグライダーの発着場で緑の芝生がひろがっています。そして……出てきたのはかりっと揚がった山菜たっぷりのコシの強いおそば(「皿そば」というそうです)。歯ごたえが全然違います。

ここ、おい菜のおかみさんがとってきた山ほどの山菜。「これのおかげで、ほんと腰が痛いわ~」と笑うおかみさん。おい菜にはその他にコロッケ、ラーメン、エビカツなどのメニューがそろっています。また、お店の入口には「鹿肉」や「猪肉」など「ジビエ」も冷凍されて売っています。

おい菜のご主人蛯沢さんはもともとはこの地元の方ではありません(北海道生まれ東北育ち)。大鹿に来る前は埼玉で居酒屋をやっていらっしゃったそうですが、「眠らない都会」から「お日さまと共に起きてお日さまと共に休む」生活がしたいと15年前、大鹿村にやってきて、このお店を始めたそうです。

ご覧のように、大鹿村の山の幸がふんだんに盛り込まれたおそばのコシの強さは、信州そばの味と香りに東北の粘り強さが混じっているからなのかもしれない……とそんな事を感じました。

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【Guide】

中村農園 HP  http://www.osk.janis.or.jp/~aoikeshi/index.html

大鹿そばの店 おい菜
住所:大鹿村鹿塩2459-1
電話:0265−39−2860
大鹿そば ¥1000
営業:4月29日~11月3日(6月は無休)
定休日:火・水・木(祭日は除く)

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「クリンソウ、見てきた?」

ここでまたまたおい菜のおかみさん情報。ここ大鹿村大池高原にある大池のほとりには、ちょうど今「クリンソウ」が花盛りなのだそうです。

「ここからすぐだから、見に行って良い写真とってきてね!」

おかみさんの声に送られて、大池にいって驚きました。
池の畔がピンクで彩られてまるで童話の中の世界のよう……。「日本で最も美しい村」である大鹿村の様々な美しさに感動し、堪能して……しかし、その次に訪れた場所で、その美しさの裏側にある「現実」を私は突きつけられることになったのです。

大鹿村が今、面している様々な変化と大きな波……それは、この次の記事に記述していこうと思います。

平成の花咲かおじいさん~中沢の花桃の里【’11年4月掲載】

どこまでも細く続く山道をうねうねと上っていく。

「本当に、こんなところにあるんだろうか?道間違えたのかなぁ?」と、思わず不安になったその時。

小さな川に架かった橋を渡るその直前に、橋の向こうの道に沿った日の当たる山の斜面に目を奪われた。

「うわぁぁぁぁ……すごい………。」

思わず絶句した三年前の春。

駒ヶ根に住むお友達が教えてくれた駒ヶ根市中沢の「花桃の里」。「桃源郷」という言葉があるけれど、それはきっとこういう場所のことなのだろう……と思わず納得してしまったほどに、そこは美しかったのです。

山と山に囲まれた狭くて日影の細い道が、川端で開けて日当たりの良いその場所に、赤、白、ピンク……色鮮やかな花桃が咲き乱れていました。

訪れたその時は、ちょうど満開。さらに快晴で青空が拡がり、花桃たちは春の日を浴びながらきらきらと輝いて咲き誇っていました。花桃だけではありません。芝桜が川岸を覆いつくし、レンギョウや水仙といった春の花々が皆一斉にお日さまに向かって花開いていたのです。その有様はとても印象的でした。

それまで「花桃」という花の存在自体を知らなかったのですが(果実用の桃の花は見たことがあるのですが)その「花桃」の可憐さやあでやかさに魅了され、それ以来春の光景というと桜と並んでここの「花桃」を思い浮かべるようになりました。

その花桃の里についての「ある情報」が耳に入ったので、3年ぶりのこの春、再び訪れてみようと思い立ったのです。

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実は……この花桃の里を作りあげたのは「たったひとりのおじいちゃん」なのです。

宮下秀春さん。

花桃に包まれた「休み処 すみよしや」のご主人です。

「ここはもともと家が持っていた土地なんだけど、この急斜面に小さな棚田が7枚あっただけでね。川も荒れてた。退職のちょっと前から定年後の楽しみに……と思って、子どもや孫が遊べるようにと川の整備をはじめたのが平成3年だったな。」

「花桃を植えだしたのはその翌年の平成4年だったよ。で、店の建物を建てたのも同じ年。どうせやるならお店をやった方がいいのでは?と勧められてね。」

そうして定年後の楽しみとして整備をした川には、毎年夏になると駒ヶ根中の保育園の子どもたちが、順番にバスに乗って水遊びにくるそうです。

「管理が大変だけどね、特に夏は。だけど子どもたちの声がきこえてくるのが楽しみでねぇ。」

……と、日焼けした顔で瞳を細くして笑う顔はとても優しいおじいちゃん。

花桃は、平成4年から毎年30本〜50本を植え続け、今や800本という数。周り中どこを見てもかわいらしいお花が。不思議なことに、同じ木に白い花と赤い花、ピンクと白、など違う色の花が咲くのです。

「親の木を見れば、その種を育てるのでだいたい花の色もわかるよ。」

桃の花は種をまいて育てるそうです。9月半ばに種をとってまくと次の5月には芽が出て3ヶ月で苗になる。さらに3年たつと花が咲く。それを繰り返して今の花桃の里があります。去年は新聞でも紹介され、駒ヶ根市の「花巡りバス」のコースの一つにもなっていて、各地から訪れる人も増え時によっては渋滞が起こるほど。

ひとくちに「800本」と言っても平成4年から19年。たった1人で、山の急なところにも、川の水のせせらぎの近くにも、この谷のあちこちにある花桃を植え続ける。それは簡単なことではなかったでしょうに、宮下さんの笑顔からは「子どもたちや孫たちが喜んでくれたら」という張りが感じられます。

花桃の他にも、レンギョウや芝桜を植え、育て、そしておととしからは水仙を植え始めたそうです。水仙は年に1500本植えるとか……。本当に……想像を絶する数なのですけど……。

頑張ったんだ、とかすごいだろう、なんて感じは微塵もなくただただ沢山の人が見に来るのが楽しくて仕方がない、こうして人が見に来てくれるのが何よりも嬉しいんだ……という感じです。

その宮下さんがこの花桃の里で奥さんとやっている「休み処すみよしや」さん。
お団子と珈琲のセット。500円です。
ピンクのかわいらしいお団子の中にはあんこではなくみたらしが入っていて、口の中にとろっと溶け出しそれが何ともいい感じでおいしかったです。
(このお団子は、12個ひと箱700円、お土産で買えます。その名も「花よりだんご」というお団子。みたらしでなくごまが入っているのもあります。)

このお休みどころでは、春はイワナのお料理(庭にある池にいっぱいいるんだそうです)、夏はこれもまた敷地内に宮下さんがご自分で建てたBBQ場で炭火の焼き肉、秋には県のキノコの指導員を務めていた宮下さんが山で採ってくるキノコを使った松茸料理を楽しめるとのこと!

一年中、花桃の時期以外にも沢山の楽しみがありそうです。

花桃の里の花咲かおじいさん、お休みどころのご主人、キノコの指導員、などいろいろな顔を持つ宮下さんには、もう一つの顔も。

この地区の小学校中沢小学校では年3回全校での炭焼き行事がありそれを販売するという活動をしているそうで、その炭焼き指導も宮下さんの大切な仕事の一つ。

実は、宮下さんの一番下の内孫さんがこの中沢小学校の5年生なのだとか。
「でもね、おじいちゃんが来るのは照れて恥ずかしいみたいです。」…とお団子販売を手伝っていた宮下さんの娘さんが教えてくれました。

けれど、小さい頃から身近にあるこの花桃の里はお孫さんたちにとっても「残していきたい大切な場所」のようです。

「二番目の息子がね、今、調理師学校に通っていてね……。」と娘さん。

どうやら、このお休みどころには将来若い料理人が入ることになるのでしょう。おじいちゃんが慈しんだ花桃は、その心は。こうして若い世代の夢にもなって引き継がれていくのでしょう。

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南信濃には、こんな風に「個人が作りあげた花桃の里」がいくつか存在しているようです。二年前に訪れた泰阜村にも、それから大鹿村にも有名な個人宅の花桃スポットがあるようです。

こうして美しい景観をさらに美しく整えて次の世代に残していく。
そんな心が、ここ、南信濃にはあちこちに色濃く受け継がれているように思いました。

(写真・文 駒村みどり)

※中沢の花桃の里は、こちらです。

大きな地図で見る

さわやか信州旅.net(長野県観光公式ウエブサイト)での情報ページ

なお、例年よりも花が咲くのが遅れているので、このゴールデンウイークに満開になりそうです。是非訪れてみてください。苗木も販売していますよ。

「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2)〜境内アート小布施×苗市〜<’10年5月掲載>

北信濃の小さな町、小布施町。その南西に位置する玄照寺で4月17,18日の2日間にわたって行われた「境内アート小布施×苗市」。

最初の目的を忘れて思わずあちこちに見入ってしまったそのにぎやかで楽しいイベントの様子は(1)に記述したが、では、このイベントがここまで盛り上がってきたのはなぜか。
その仕掛け人のひとりとして名前の挙がった中村仁氏。
わたしがこの日玄照寺を訪れたのはこの人に出会うためだった。あまりの楽しさに、目的を忘れて思わずイベント自体に引き込まれてしまったのだ。

そこで、改めて目的を果たすべく中村氏を捜して境内に出た。

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ふたたび境内に出て最初に出会ったのが、もともとこの日にここに中村氏が来ることをわたしに教えてくれた人、花井裕一郎氏だった。

花井裕一郎氏は、昨年小布施町にオープンしたばかりの町の図書館、「まちとしょテラソ」の館長だ。
この日は、この境内で「一箱古本市~まちとしょテラソ市~」を開催していて、わたしはその取材を兼ねて中村氏を紹介していただく予定だったのだ。
花井氏については、別の機会に「まちとしょテラソ」の記事できちんとご紹介したいと思う。

「一箱古本市」。
そのルーツは東京の「不忍ブックストリート」にある。
参加者が一箱に売りたい本を持ち寄って、販売しながら交流を楽しむ日本初のネットワーク型の古本市だ。

それを、この小布施のアート展に花井氏が昨年から持ち込んだ。
三門の回廊がその会場だ。

「せっかくやるなら、小布施らしさを出したいと思ってね。」

古本市には、どんな箱でもいいから「一箱」に本を入れて売るのだが、その「一箱」を探したら近隣の農家からたくさん見つかったのが「りんご箱」。
言われて見ると「ふじ」と箱の横にはっきり書かれたりんご箱がそこに。

おお………確かに良い味だしてる。東京には絶対ないね。これ。

「どう?売れてますか?」

あちこちのイベントでよく顔を見る知り合いがいたので声をかけてみた。
回廊は、日影。日があたらない上に風通しがいいので、前日雪が降った小布施の風は冷たい。古本市出店の人はみな、厚いジャケットに身を包んでいる。

「売れないよ~。でもね、周りの人やのぞきに来る人と、他の人の箱をのぞき込んで本の話するのが楽しいよ。」

凍えながらも笑顔でそんな答えが返ってきた。
本を通じての交流。そうか、これがネットワーク型の古本市か。

三門の反対側では、こんな風に「ご自由にどうぞ」の本のコーナーもあった。
来年は、わたしも一箱出してみようかなぁ………。

さて、で、紹介いただくはずの中村氏はいずこに?

「う~ん、あの人さっきまでここにいたんだけど、今どこにいるかなぁ。会場内のどこかにはいるはずなんだけど。」

「また会ったら声かけますよ。」

そういうわけで、花井氏から声がかかるまで再度会場内をうろつくことにした。
で、ここまでほとんど全部見回っていたんだけど、ふと目についた看板。

ダンボールの看板に書かれた文字は「絵・映像パフォーマンス」。
あ、まだこれ、見てないや。待っている間に、これ見てみよう。

会場は三門入ってすぐの左にある「講堂」。
ここは屋内なので靴を脱いであがる。

……なんだか懐かしいこの雰囲気。
そうか、学校の文化祭で体育館に展示してあるあの感じだ。

四隅の壁に作品が展示されていて真ん中があいていて。子供がかけっこしたりして。
肩肘張らずにゆる~く、展示物を楽しんでいるのだ。

ぐるっと見回したら一番奥に映像のコーナーがあって、扉の奥でやっているようなのでそちらに向かうと、扉手前で見たことのあるペンギンの絵。(写真右下)

あ。
N-geneでも紹介されているたかはしびわ氏だ。
ちょうどお客さんが途切れていたので、声をかけてみた。

びわ氏も、このアート展が始まった頃からずっとこうして参加しているそうで。

「前に外で展示してみたんですけどね、クラフトと違って絵だからホコリや光の影響がどうしてもあって。」

で、日があたらなくて寒いけど、この屋内でいつも展示しているそう。
しばらくびわ氏とお話しをしていたら、中村氏の話になって。
「今日は、中村さんに会いに来たんですけど。」
「え?今そこで写真とっている人が中村さんですよ。」

見ると、カメラ片手に今から外に行こうとしている背の高い人影が。
あわててびわさんにお礼を言うと、中村氏に声をかけた。

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中村仁氏。御代田在住の「美術家」。アーティスト。グラフィックデザイナー。
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略歴(小布施との関わり中心に抜粋)
1959 長野県生まれ
1984 信州大学教育学部美術科工芸研究室卒(主に鋳造による現代金属工芸を研究)
1987 JACA’87日本イラストレーション展入選(伊勢丹美術館)
8th 日本グラフィック展協賛企業賞受賞(渋谷パルコPART3)

※以降、国内外で作品を発表、個展、企画展への参加など多数

1999 「中村仁の仕事展 ・ 絵本の世界から」(千曲川ハイウェイミュージアム)
2007「オブセコンテンポラリー」アーティストネットワークによる企画プロデュースを1年間手がける(小布施)
2004 “境内アート「苗市」in 玄照寺 vol.1”企画・参加(以後毎年,小布施)

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そもそも取材しようと思ったきっかけは、中村氏がデザインしたまちとしょテラソのキャラクター「テラソくん」に興味があって、その生みの親に会ってみたいなぁ、と思ったから。

そういう理由で花井氏に紹介してもらう手はずだったから、知らなかったのだ。
このアート展に出展していること。……それも、さっきまで見ていたびわ氏のお隣に。
さらに、中村氏がこのイベントの重要人物であることも。
(ちなみに、このアート展のチラシ・ポスターの図案も中村氏の作品だ。)

本当に、なんの予備知識もないままに飛び込んで来ちゃったなぁ。ちょっと出展者の名前調べたら、花井氏に紹介してもらうまでもなくちゃんとここにたどり着けたはずなのに。

ようやく偶然巡り会えた中村氏と、その場に座り込んで話を聞き始めた。

現在、御代田在住の中村氏。その中村氏がなぜ、小布施のこのイベントに「アート」を持ち込んだのですか?

「7年前、玄照寺さんから文屋・木下豊氏を通して、その頃次第に人出が減り始めていた苗市を再興する手だてがないか、クラフトフェアのような企画はどうだろう?と相談を受けました。しかしその時点ですでに、クラフトをテーマにしたフェアは有名なものが数多く存在していました。同じような企画の後ノリでは面白くない。そこで木下氏と二人で『小布施ならではの形』を考えた。で、どうせやるなら志を“アート”にしようと、それで「境内アート」。単純なんですけどね。」

「じつは、自分自身がいろんなクラフトフェアに触れて来た中で、それまで“アート”という言葉はどちらかというと“クラフト”の価値を高めるようなかたちで使われることが多く、“アートそのもの”にちゃんと向き合ったフェアはあまりなかったように感じていたのです。
でも、“アート・芸術”といっても取っつきにくい。そこで この苗市という“市”の持っている活気とか迫力とかをアートに活かせないかと思ったわけです。」

「 “クラフト作品”は何かの役に立つものです。でもアート作品って“飾って楽しむ”以外には多分何の使い道もありません。“役に立たないもの”にお金をかける事って勇気がいりますし、日本人はあまり慣れてもいません。

でも海外では道ばたにアート作品を並べて売っていたり、お客さんも自分の身の丈に合ったアートを家具やインテリアのような感覚で購入したりして上手に付き合っています。自分のお気に入りのクリエーターの作品をちょっと勇気を出して買って日常の中で楽しむきっかけやそういう体験の場に出来たらいいな、と思ったのです。

美術館やギャラリーでスポットライトをあびているモノだけがアートではありませんからね。」

……でも、なぜそれが小布施だったのですか?

「小布施の人たちは、これはダメかも、というラインからは入らないんですよ。どうせだったらちゃんとやってみて考える、という意識にある。」

やるんだったらやってみよう。小布施だったら出来る。そういう想いでアート展をここに持ち込んだ。さらに……

「住職さんにはこの企画をやるのであればどんなにお客さんがこなくても10年は我慢して続けてくださいとお願いしました。」

ご住職はそれを快諾し、そしてその想いに共鳴した地元の人たちやアーティストの協力の輪が広がって、今年7年目を迎えるアート展はますます盛況だ。

「アート、アートといっても“クラフト”だってやっぱり楽しい。使って楽しむ魅力もありますよね。そこで昨年から、町で秋に開催されていたクラフトフェアと合流しました。」

「僕はただきっかけを持ち込んだだけですよ。僕の力じゃないんです。ここに来るまでに、いろんな人を巻き込んできた、ただそれだけです。」

といって中村氏は穏やかに笑う。

けれど、このひとがそれだけの想いを持ってここに来なかったら、このアート展は始まらず、その想いを受け止める人もいなかったのだ。

こうして話をしている間にも、中村氏のもとにやってきた新しいつながり。
「長野・門前暮らしの会」のメンバー。今年の境内アートに参加した人たちだ。

「結局こういうものはごちゃごちゃ言わないで楽しんだもの勝ち。お客さんにも、参加者やスタッフも「境内アート小布施×苗市」を心から楽しんでもらいたい。毎回新しい試みにみんなでチャレンジしています。」

小布施の魅力が、人を引き寄せる。
そして、魅力ある人のもとにまた人が集まる。
このイベントはそうして成長し続け、より魅力ある町が、生活が、生まれて育っていく。

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そういえば、今までいろいろなアートの展覧会やクラフト展、境内のお祭りやイベントを見てきたが、この小布施で特別に感じたことがある。

「子供の多い空間」だなぁ………ということ。

古いお寺をめぐるときには、小さい子供の姿はほとんど見かけない。
クラフト展やアート展でも目立つほど多い、とは感じない。
ところが、このお寺を歩き回っている間、子供の姿のないところがなかった。
それも、みんなのびのびと子供らしい表情で、人のいる場所でよく見かける「静かにしなさい」とか「そんなに飛び回らないの」とか大人に怒られている場面にまったく出くわさなかった。
(さっきも、中村さんの展示物のある講堂で子供が走り回っていたし。)

かつてあった、町の路地で近所の仲良しが集まってそこがたちまち「遊び場」になったような、そんな感じ。子供たちも「アート」「クラフト」に囲まれてそこにいるのだ。

あちこちで見られるその「子供のいる風景」は、クラフト展というよりもごく普通の生活の一場面を切りとったよう。

そう。
ここは、特別な空間ではない。小布施という町の生活の一コマなのだ。

そして、この空間で目立つのは子供たちばかりではない。

ちょっと気軽に散歩に……といった風体のお年寄りも。うららかな春の光や桜を楽しみながら起伏のある道を歩き回る姿。ブースの若い人たちと交流する姿。
日頃縁のないようなバンドのライブをBGMに、アートを楽しむ境内の姿。

中村さんから教えていただいたのだが、この日は小布施町で他にもたくさんのイベントが行われていたそうだ。
そんな中で、これだけたくさんのいろいろな年齢層の人がここに集まっている、その事実はものすごいことなんだと思う。それだけまちの人々にこのイベントが受け入れられ、創り上げた人たちの想いを受け止める人がいるのだ、ということだから。

「それはとても嬉しいことですね。」

そう言って、中村氏はまたにっこりと笑った。

境内という磁場と縁日という祝祭の空気感のなかで何かを表現できたら、作家も見に来てくれる人たちもどんなにか楽しいだろうとはじめたフェス。その想いは全て「境内アート」という名前に込めました。毎年4月北信濃桜咲き誇る季節、さまざまなジャンルのクリエーターたちが全国から集まります。老若男女・善男善女どんな出会いがあるかお楽しみ。是非小布施へ足を運んでみてください。」(中村仁氏)

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「あのね、これは聞くべきですよ。ちょうど今、やっているから。」

中村氏にそう言われてお礼と別れを告げるとわたしは本堂に向かった。
これは多分……どんなアート展でもクラフト展でも体験できないここならではのメインイベント。

この間、本堂前で行なわれていたライブはお休みで、境内は厳かな空気に包まれる。
本堂で行われているのは「大般若法要」。

ご住職の静かだが張りのある読経の声が本堂に満ちていく。

これもまた、すごい「ライブ」であり「アート」の形だなぁ………。

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小布施の町の南西にある普段は静寂の中にあるお寺、玄照寺。

その境内がすべて一大テーマパークに変わる。
それは、小布施の町や生活を作る人、愛するひとが集って創り上げたもの。

そこにはその土地に住む、その土地に息づく人たちが集まってくる。
人が集まり、その空気を共有するものに伝わり、ひろがってそしてまたつながっていく。

そうして、この町の空気は作られていく。ひとも作られていく。

このイベントを、もっと多くのひとに知って欲しい。
もっと多くのひとに感じて欲しい。心から、そう思った。

ここに来ればきっと、ひとのためにある思いがひとを集め、町を作るその事実を感じられるはずだから。

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境内アート小布施×苗市 HP
玄照寺 HP
中村仁 HP

+++++ 境内アート小布施×苗市 その背景とここまでの流れ +++++++

そもそもは戦後約50年ほどつづいた曹洞宗・玄照寺縁日「苗市」の“再興”(歴史はあったものの当時は足を運ぶ人が年々減少傾向)を目指して葦澤住職、現事務局の木下氏(出版編集「文屋」代表・小布施在住)、そして中村仁氏らが中心になり、2004年にお寺で開催するアートフェス「境内アート」の企画・構想を立ち上げる。
運営母体は同寺若手檀家衆「玄照寺奉賛会」であり、現在もその仕組みは変わらず、開催・運営にあたって彼ら地元小布施人の尽力によるところは大きい。その後、回を重ねるごとに運営にかかわる人たちが増え、実行委員会を組織し2009年より本格的に小布施町の協力を得て、事務局も役場・行政改革グループ内に設けている。
尚、同年より毎年秋に開催されていた「おぶせアート&クラフトフェア」と企画統合し、正式名称も「境内アート小布施×苗市」(毎年4月第三土・日開催)とし、アート部門・クラフト部門・飲食部門の公募の他、歴史ある「苗市」を存続させ、参道にて骨董市を開催。さらに2010年より同町立図書館「まちとしょテラソ」企画による「一箱古本市」も共催するなど、他に類を見ない複合型フェスに発展している。
資料協力:中村仁氏

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(文・写真 駒村みどり)

「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(1)〜境内アート小布施×苗市〜<’10年5月掲載>

4月の第3週末である17日・18日。
この日、わたしはある人に会うために小布施町の玄照寺を訪れた。

ところが、玄照寺に行き着く手前で車は特設駐車場にはいるように誘導された。
駐車場はいっぱいでビックリ。

……いったい、ここで何が起きているのだろう?

お寺までの道は静かな田舎の生活道路なのだが、お寺の真ん前に立って参道を見たときにまたビックリ。

この人出は、どうしたこと?
まるでここだけ別世界。
参道にはずらりと屋台が軒を並べ、人がどんどん奥へ奥へと吸い込まれている。

屋台といったら、お祭り。お祭り……楽しそう………。
最初の目的を忘れて、わたしも参道の奥に引き込まれていくひとりになった。

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信州小布施町の曹洞宗陽光山玄照寺。
小布施町の南西部にある普段は静かなお寺。お寺の前の道路を通っても、ここにお寺があることは気が付かないくらい。

けれども、どうやらこの日は違う。

参道に足を踏み入れる。
両側ににぎやかな屋台が並ぶ。
その屋台を過ぎるとそこには「骨董市」ののぼり。

着物の古着。古い道具。ブリキのおもちゃ。
タープを張って、その下に人の手のぬくもりの染みこんだ「骨董品」たちが所狭しと並んでいる。

面白そうだけど……
横目で見ながら、さらに奥へ。

すると今度は、鮮やかな「色彩」が飛び込んできた。
三門の手前の「苗市」のブースだ。

「苗市」。
春の香りがあたりに満ちている。

けれど、先を急いでここも通り過ぎる。

すると、三門前には案内看板。
右に曲がると「クラフトエリア」、直進して三門をくぐると「アートエリア」。

山門の向こうからは、なにやら歌声も聞こえてくる……ライブをやっているらしい。
ここまで来ると、この先に何があるのか早く見たくて小走りになる。

三門をくぐると……

桜の花がちょうど満開の境内。
本堂に向かう参道の両側に様々な「アート」が展示されていた。
いや、よく見ると、参道の両脇だけではなく、庭にも、本堂の回廊にも……。

気が付くとそこに何か作品が「ある」。
境内のあちこちに、普段は物静かなお寺の庭や建物と一緒に、今、人が歩いているその場所に「ある」。

こういう「アート」っていいよなぁ。
「芸術」って言ってかしこまっていたり、高値で取引されていたりするものばかりが「アート」なわけじゃない。
足元の小さな石ころの中に、どうぶつの姿や人の顔を思い浮かべる……そんなのも「アート」。人の日常の中に、日常の中から生まれてくる表現がアート。
自分の周りの景色がいつもと違って見えるとか、その中に何かを感じること。
それがアート。

余談だけど、artという単語の語源はラテン語のL.ars 。技、芸術という意味がある。関連語彙にartifice(工夫)なんて言葉もある。日常の些細な風景や感覚を違った形で工夫したり創り上げたり、組み立てたり……もっと言うと、「おばあちゃんの知恵」だってアート。

境内には、そういう「生まれたてのアート」があっちこっちにかくれんぼしている。
そして、ごく自然にその周りで子供が遊んだりお年寄りが憩ったりしている。
……いいな、いいな、これ。

正面の本堂の周りも、すごいことになっている。

わたしにとっては「お寺さん」って言うと「荘厳」で「侵すべからざるもの」というイメージがある。お寺さんの敷地内では静かに瞑想にふけって煩悩から切り離されたところにいなくちゃ、なんて気分になる場所……だと思ってた。

それが、どうだろう。

……うわ、本堂の真ん前でライブやっちゃってる。
それも、なんか「荘厳」って言葉とはかけ離れたけだるい雰囲気だったり「煩悩」の固まりのような曲だったり……。(笑)

でも、かしこまってえらそうにしているお寺よりもずっとこの方が、いいなぁ。

そして本堂の周りの縁。通路に沿って歩くだけでも、こんなにいろいろ。

縁の上、下。柱。すべて有効活用されている。
縁の上では展示の他にもゆっくり座ってのんびりと庭を眺めたりお茶を飲んだりする人の姿も。

日頃はひっそり静かなお寺の本堂も、まるで孫が来たときのおじいちゃんのように心なしか華やいで嬉しそうな感じ。

本堂に沿う石の通路は、そのままクラフトエリアへの道になる。
にぎやかな本堂の裏手に回り、見事な庭園の池庭(ここにも展示物がある)を見ながらさらに進むと、お寺を取り囲む林へつながっていくのだが……

小さなせせらぎを越えるとそこは「どんぐり千年の森」。
雰囲気がまたがらっと変わったクラフト展の会場だ。

ごらんの通り、桜が満開。
桜並木の下に、今年は何と150ものブースが登場した。

ぐるっと会場を歩いてみる。

わたしは、二日目に行ったのだけど、1日目の土曜日は、4月に珍しい積雪のあった日でとても寒かった。そのため、このクラフト展会場の通路はぐちゃぐちゃになってしまって泥まみれになるから、急遽スタッフが畳を並べて臨時通路を造ったという。

それがまた、あったかいのだ。
畳の感触が、足に優しい。

臨時通路だから決して歩きやすいとは言えないけれど、かえってそれが子供たちには魅力みたいで、一生懸命にでこぼこを笑顔で歩く姿がかわいい。
ベビーカーを押して歩く人の姿も多い。

頭の上には満開の桜。

クラフトを楽しみ、お花見も楽しめ、花より団子の人は飲食ブースでいろいろな味を楽しむ。焼きそばやお好み焼きのようなおなじみのメニューに混じって東御市から来た永井農園の「焼き餅」の香ばしい匂いも………。

クラフト展の会場を歩いていて感じた。

ただの林の中に、それぞれが好きにタープを立ててやっているので、まるでキャンプ場にいる気分。敷地は塀や柵で囲われていない、外から遮断されていないオープンな会場。なので、どこからでも会場に入り込んで行かれるし、中でなんかにぎやかだなぁ、と、偶然通りがかっただけでもついふらっと気楽に入り込める。
やわらかい草地。落ち葉のじゅうたんがふかふかで、「区画」や「線ひき」のない会場構成は、まるで「小布施方式」と言われて全国から注目されている小布施の町並みと同じ感覚なのだ。

……小布施ならでは、なのかもしれない。この光景は。

しかし、すごいなぁ。
入り口の屋台から始まって、骨董市、苗市、アート展、クラフト展。飲食も出来て花見も出来て、散歩も出来てライブも聴くことが出来て。
お寺全体がひとつの「テーマパーク」のようになっているのだ。

わたしの持っていた「お寺」というイメージとはかなり異なっている。

このお寺の住職さんは、どんな方なんだろう?
そういう疑問が湧き上がって、ものすごくお会いしてみたくなった。

「ああ、住職さんや奥さんだったらあそこから行けばいいよ、みんな自由に出入りしてるから。」
そういわれて、「お話をお聞きしたいのですが」と突撃取材。

忙しいのにご住職は笑顔で迎えてくれた。

玄照寺23世住職、葦澤義文氏。

玄照寺は今からおよそ450年ほど前に開かれたお寺。現在の場所に移転したのが江戸時代の1704年だという。

その玄照寺で「苗市」が始まったのが今から50年前の1960年。
地域の人々に春を運ぶその行事は、毎年多くの人が訪れていたが、今や「苗」は近くの花屋、スーパー、ホームセンターなどで一年中手にはいる。

「そこでね、7年前から以前はハイウエイオアシスで町主催でやっていたアート展を苗市と合体させたんです。」
「その後、昨年からはクラフト展も一緒にやるようになりました。今年はアート展を始めた頃の出展数の2倍以上、150の出展数になりましたよ。」

町でやっていたことを、ひとつのお寺が請け負うというのはすごい。
お寺さんはどういう立場で?

「そうですね、場所の提供と、あとは、檀家さんなどの協力ももらって運営費を一部捻出しています。でも、いろいろ実行にあたっては寺の若い人や役所の人、クラフト展実行委員会の人たちがみんなで頑張っています。」

話をしていたら、住職の奥様がお昼に、と牛丼を持ってきてくださった。
話をしている場所は関係者の休憩場所で、入れ替わり立ち替わりいろいろな人が心づくしの食事を食べに来る。

「昨日の夜は関係者みんなで交流会やりました。150人くらいいたかな。」

「通路に畳を敷きながら話したんですよ。来年は、もうちょっとこの林を整備したらもっとたくさん出展できるかもね、って。」

そう言ってご住職は、穏やかに微笑んだ。

小布施という北信濃の小さな町。その小さな町の片隅の、静かなお寺。
そこにそれだけの「人」が集まって、このイベントを創り上げている。
毎年毎年、新しい人がやってきて新しいつながりを作り、新しい人を巻き込んでどんどん発展しているこのイベント。

苗市の衰退とともに、ご住職がどうにかしたいと小布施の仕掛け人 文屋・木下豊氏に声をかけ、その木下氏が、美術家・中村仁氏を住職に紹介し、この3人に、お寺の檀家衆が加わり、境内アートが始まって。

そして、昨年からハイウエイオアシスで町も加わった実行委員会でやっていたアート&クラフト展が一緒になったそうだ。

ここでご住職の口から出た「中村仁」という人の名前。
それはこの日、わたしが当初の目的として会うはずの人の名だった。

わたしはご住職にお礼を言い、中村氏を捜して再び外にでた。

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「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2) へつづく。

(文・写真:駒村みどり)

商業の町、小布施に受け継がれるいにしえの心〜「安市」<’10.1月掲載>

小布施の町では、毎年町を挙げて行われる祭りがあります。
それが「安市」です。

12月頃から小布施の町中を通りかかると、あちこちで赤いポスターが目につきはじめました。

「先生、14日と15日は、学校お休みだから。」
「え?何故?」
「だって、安市だもの。」

去年、仕事で家庭教師をしていた小学生の言葉にちょっと驚いた記憶がよみがえりました。

学校が休みになるのかぁ……。町のお祭りで。
そういう話は、あちこちの学校を知っているけれど最近はあまり聞かなくなりました。

だけど、小布施町ではちゃんと休みになるのです。
1月の14日、15日。

成人式。敬老の日、体育の日………。

「ハッピーマンデー」などという言葉が生まれるように、国の祝祭日が「第◯月曜日」に変更されることが多くなってから、何となくもともとの祝祭日の意味も薄れてしまったような気分。
もともとの意味のある日からかけ離れたそういう休みの取り方になって、かつては「小正月」に当たるこの日に行われていたどんど焼きも今や別の日になってしまいました。

そんな「祭」や「季節の行事」への意識が薄れると共に、町のお祭りにあわせて「お休み」になる学校もなくなったのに。

お祭りで、学校が休みになる。
お祭りのワクワクと、それから学校のお休みの嬉しさで「地域の祭」は子供たちにとって特別な日でした。そういう意識も最近ではなくなってて、なんだかさびしいなぁ、と思っていたのだけれど。

ここ、小布施では残っているんだなぁ。

小布施町。
平日の昼間でも、訪れる人が絶えることのない北信の小さな観光地。

この町は、「古いもの」を大切にし、その息づかいを生かした町作りがなされています。
「小布施方式」といわれたその町作りの手法は、遠くから視察に来る人々もいるほどなのです。
古い建物や蔵、それから町の財産である歴史や特産の栗を生かした町並みが、来る人の心と目を休めるのです。

その小布施町がさらに活気にあふれるのがこの「安市」の日。
あちこちの文献を調べるとその起こりは江戸時代で、次のような由来があるようです。

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北国街道と谷街道の分岐にある小布施では、江戸時代初期の寛永6年(1625)から月に6回(三と八のつく日が市日)市を開く六斎(ろくさい)市が立ち、日常欠かせない穀物や実綿・太物・荒物・金具・塩・紙類・茶・鎌・肴(さかな)類などが取り引きされていた。また北信濃の米麦相場を定める場ともなっていた。文化年代 (1804~18)頃の地図に小布施は「市」と記されるほど、北信濃の中心的な市だった。

(ちなみに中野市では 1・4・7・11・14・17・21・24・27日に市が開かれたことから「九斎市」、善光寺や松代では「十二斎市」の名称で同様の市が開かれていた。)

しかし、明治時代になってからは、北信濃における物資の集散地として賑わった小布施も、交通上の理由などからその座を善光寺を中心とする長野に渡すこととなり、「六斎市」は次第に衰退。これに危機感を感じた伊勢町・中町・上町・横町の町組商人は六斎市の伝統を引き継ぎ、 毎年1月14 日・15 日の安市を起こし定着させてきた。

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なるほど。
小布施の町の歴史は、町に住む人たちの創り上げた歴史。
それはこの安市にも現れているんですねぇ。

安市の会場は、小布施町の中心にある「皇大神社」境内と、そこに続く参道です。
天照大御神を祀った「皇大神社」へは伊勢神宮の御師が出張し、ここを中心に伊勢信仰が広まりました。

参道には、両側にたくさんの屋台が建ちます。商売繁盛の祈願のだるまや「福飴」といわれる飴。色とりどりの縁起物が所狭しと並びます。

そして、その中心の「皇大神社」で行われるのは大正時代からはじまったとされる「火渡り神事」。安市行事最大の呼び物とされています。そのほか、薪積みの儀式・だるまのお焚き上げなども行われます。

火渡り神事の時間が近づいたので、屋台は気になるけど境内に急ぎました。
ちょうど神事が始まったところでした。

白い装束に赤いチョッキ(?)をまとった行者さんたちが、中央に積み上げられた薪に火をつけ、その周りを祈祷しながらぐるぐると回ります。

その火の勢いは、かなりのもの。
周りを回る行者さんたちはしかし、熱さをみじんも感じさせず、祈祷の言葉をつぶやきながら厳しい表情で回り続けます。そして、その周りを4方向、4人の行者さんが固めてこちらも印を結びながら祈祷し、それから一番の修験者が、東西南北、それぞれの位置に移動してそこでまた、印を結んで祈祷します。

この祈祷は、何の意味かわからなかったのですが、どうやら厄除けとか病気・悪魔払い、豊作などを祈るもののようです。

中央の薪がほとんど燃えて炭になり始めた頃、長い太い竹の棒で二人の行者さんが中央に「火渡り」用の道を作り始めました。

そして、火渡りの儀式の始まりです。

まずは、修験者のリーダーの人がたびとわらじを脱いで、雪の上からまだ熱い炭の上を渡ります。そして、祭壇に祈祷をすると他の行者さんたちも渡りはじめました。

行者さんたちがみなさん渡ったあとには、何と、町長さんがよばれます。
靴を脱いで裸足になった町長さんも、それからその後、町をリードする人たち(消防署長さんとか、警察署長さんとか……)も次々と渡ります。

さらに、一般の人たちの中からも希望の人が渡りました。
みんな渡って、祭壇に一礼して。

……熱くないのかなぁ……と思ってみていたら、最後の男性が渡り終わったあとで、近くの知人と思われる人に「熱かったぞぉ。」と言っていたので納得。

だって、みんな表情ひとつ変えずに渡っていくんですもの。熱くないのかと思った。

そうして、小布施町の発展を祈る火渡りの神事は終了。
すべて終わったあと、人々が立ち去る中、最後に行者さんたちが残って祭壇にみなで祈祷を捧げていた姿が印象的でした。

今年一年、いい年になるといいなぁ。
凛とした行者さんたちの祈祷の姿に、そんな想いを持ちました。

(余談ですが。
この安市の資料が欲しくて神社で聞いたら「商工会議所にあるんじゃない?」といわれ、商工会議所にいってみたら「そんなのはないから、ネットで調べて」と言われて……。
実は、この取材に当たってネットで事前に調べたのですが、安市や火渡りの神事、小布施の皇大神社についての資料がほとんどなかったので、地元で手に入れられないかと聞いてみたのですが……。
せっかくのにぎやかなお祭り、由来とかいわれなどを知る場所や資料があったらいいのになぁ……と、ちょっと残念に思いました。)

さて。
「火渡りの神事」が終わると、とたんに境内も屋台も人の姿が減りました。
わたしは毎年、この安市で買い物するのが楽しみなので、あわててお店巡り。

一番多いのはだるまを売るお店。
この近くのだるま作りの職人さんたちが、自作のだるまを持ち寄って売っています。
祭も終わりに近いので、「まけるよ~、みてって!!」とかける声も一段と大きくなっています。

しばし、参道の賑わいをお楽しみください。

みな、それぞれに味のあるだるまの顔を見ているのは、それだけでも楽しいです。

最近は、赤いだるまだけじゃなく、黒とか黄色とか金とかむらさきとか……。
いろいろな「御利益」によって色分けしているお店もあります。

神社では、まゆだまを売っていました。

だるまと一緒に目立つのが、「福飴」を売るお店。
色とりどりできれいな飴が、たくさんの縁起物と並んでいるお店で「写真を撮ってもいいですか?」と撮らせてもらったのですが……。

「どうですか?今年の売れ行きは?」とそのお店の人にお聞きしたら。
「いや、ダメだねぇ、この景気でほとんど売れないよ。」

他のだるまや縁起物のお店の人も、みんなそんな答えで。
色とりどり、華やかなお店にも、景気の悪さが影響しているんだなぁ……。
でも、お店のみなさんは「まぁ、今年はそんなもんさ。」とみなさん元気でした。

そうだね。今年は、少しは元気な年になるといいな。
行者さんたちも真剣に祈祷してくれたんだし………。

毎年立ち寄るお店のいつも元気なおばちゃんから「張り子のトラ」を購入して、おまけでカバンにつけてもらったひょうたんの鈴がちりちりと鳴る音を聴きながら、雪の舞う小布施をあとにしました。

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みなさん、あけましておめでとうございます。
小布施の町が、こうして元気に祭を続けていくように、みなさんの今年も元気で幸せな一年になるように、張り子のトラくんと一緒に祈念したいとおもいます。

(写真、文:駒村みどり)

権堂村に、咲き乱れるは笠の花。<'09.9.30掲載>

え?……なんで、権堂で「国定忠治」なのよ!?

国定忠治といったら、「赤城の山も今宵限り」というセリフで有名な江戸時代の侠客です。赤城の山と言ったら、今の群馬県のど真ん中にある山です。

………???????

という疑問は、あとに置いておいて。
N-ex7「国定忠治まつり」が9月26日、権堂秋葉神社前の特設ステージを中心に繰り広げられました。

当日は快晴。土曜日の昼下がりの権堂イトーヨーカ堂前の広場には、いろいろな出店が並んでにぎやかです。そして、その真ん中に設置されていたのが「特設ステージ」。


ステージの上では開会式の準備が進んでいて、何人かの「国定忠治」が開会式の打合せをしていました。それを見て、権堂の人通りが少しずつステージ前に集結しはじめます。

やがて、どこからか笛や太鼓のにぎやかな音が。

ちんどんを先頭に、その後を……

おお!たくさんの忠治たちがやってきました。

突如現れたコスプレ軍団(笑)に、道行く人はビックリ。坊やも目を白黒。
50名強の国定忠治たちがステージ前に集結。お祭りの開会です。

開会宣言として、この日の舞台で国定忠治役を務める劇団13月のエレファントの斉藤正彦さんがみごとな口上を述べ、みんなで仁義を切るポーズ。

これだけの国定忠治がいっせいにやると、かなりの迫力で圧倒されます。

たくさんの人が足を止めて、この圧倒的な光景に見入っていました。

開会式が終了すると、一同は再び列をなして権堂のモールを練り歩き、さらに長野駅まで大行進。

植木商店の二宮金次郎さんの前を通り過ぎる一行。中には、踊り出す忠治まで出現。
長野駅前で再び口上を述べたあと、権堂に戻って一行は解散したそうな。

一方、ステージの方では、このあとパフォーマンスが続きました。
夕闇が迫りはじめたころも、ステージ前の観客の数は減りません。

快楽亭狂志さんの落語のステージ。
皆さん話に引き込まれ、とてもなごやかな表情です。

あっ………こんな所にも、忠治が………。

続いて、13月のエレファントの舞台「国定忠治」に。

もう辺りはかなり暗く、ステージを照らすライトがまぶしく光ります。

野外のせいか、ややセリフが聞き取れない部分が残念だったのですが、そんな状態でもお客さんはみんな乗り出すように舞台に見入っていました。

しかし……こんなアレンジもあるんですねぇ。なぜに、人形!?

小さなお客さんも見守る中、名台詞「赤城の山も……」の場面。

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実は権堂には「国定忠治」のお墓が存在しているのだそうです (正確には、分骨されたもの)。 大学時代に、友だちと徘徊……じゃなかった、さんざん通った権堂。買い物に、飲み会に、しょっちゅう訪れている権堂。

なのに……今までまったく知りませんでした。
地元のことなのに、知らないことが結構ある。なんだかもったいないことだと思いながら、その一方でこういうことを知るきっかけになったこのイベントに感謝です。

「赤城の山も………」という有名なセリフは、この国定忠治を題材に描かれた劇の中にでてきます。そして、実はなんと、長野の権堂もこの劇の中に登場しているのです。忠治は、生活苦のためやむなく娘を身売りさせた権堂村の百姓を助けるのです。

そんな忠治の逸話を持った権堂は、以前は忠治にちなんだまつりや催し物をしょっちゅう行っていたそうです。今回の50名の忠治たちのための衣装は、以前同じような催し物を行った昭和40年代のものなのだそうです。

国定忠治は天保の大飢饉で飢餓にあった民百姓を救済した、という話から始まって、権堂にまつわる話にもあるようにケンカが強くて負け知らず、人情に厚く人望深く、従う子分は200以上とも言われた大親分。それ故に、人々にとっては神にも等しい伝説の人。

時代の流れの中で、何度となく訪れる人々の苦しい時代。こういう人物を求める想いは人々の中に常にあり、忠治が「講談」や「劇」の中でずっと生き続けてきているのもわかるような気がします。

祭りの後の権堂。ぐるっと見回しました。

さっきまでいたお客さんたちはあっという間に姿を消し、土曜日の夜の人通りは、かつての権堂からしたらやっぱりさびしいものがあります。

会場の後ろにあたる場所にも、駐車場になった空間。
店と店との間にぽっかりと空いたその空間から、月がのぞいていました。

忠治が見上げた月と、今の月とは同じ「月」ですが、かつて善光寺の精進落としの花街としてにぎわった権堂と、シャッターが目立つ駐車場で穴だらけになった今の権堂。

今の権堂を国定忠治が見たら、一肌脱いでくれるかなぁ………。

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(写真、文:駒村みどり)