農業
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7月11日、日曜日。天気は、あいにくの小雨模様。
菅平の裾の須坂でさえ肌寒い……さぞかし上は寒いだろうと長袖を着こんで会場に向かった。
けれど、会場に着いたときに思った。
どうやら長袖の必要はなかったのかもしれない……と。
※ここまでのことは「なから」がもたらす可能性(1)をご覧下さい。
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会場は菅平高原グリーンパーク。会場併設のグランドでは夏のシーズンの菅平名物、ラガーマンの練習風景が雨にもかかわらず展開している。
屋内のBBQコーナーは、すでに材料が並び始めて準備が整っていた。そして感じたのがそこの熱気。まだBBQの鉄板に火が入ってもいないのに、なんだかすでに熱いのだ。
「何かが、ここで起こりそう」……そんな予感がびりびりとしてくる。
そして、その予感が的中したことは、そのあとすぐに判明した。
「乾杯!」
間島さんの音頭で乾杯したあと、代表の児島さんの挨拶。それからメンバー自己紹介。
まずはこのイベントの関係者。東京から来たセガレメンバー5名。つづいて長野側の間島さん関係者。みんな話が面白い。というか、つい耳をかたむけて聴き入ってしまう話ばかり。……まだ、ほんの自己紹介なのに。
その感じは、多分わたしだけのものじゃない。だって、目の前にあるごちそうや飲みものを手にとりながら、誰一人として自分勝手に騒ぐ人なんかいない。話す人を見て真剣にその言葉を聞く。40人もの人たちがほそなが~く座っているから決して聞きやすい状況じゃないのに。
「みんなやってたら時間かかるだけだよね、それぞれで話をしながら自己紹介してください~。」
自己紹介はそこで中断。そしてたくさんの「セガレ(とセガール)」たちはたちまち入り交じってとけ合っていった。
参加メンバーの職業は本当に多彩だったし、活動地域もバラバラ。
地元観光地の旅館やホテルのセガレ、レタス農家の方、プロスノーボーダーの方、山野草などの花卉を栽培・通販している方、ステンレス創作をしている方、横浜でシステム開発をしている方、小谷村の写真を撮り続けて発信している方、印刷会社のセガレ、地元の広告代理店の方、などなど。中には遠く南信の阿南町から駆け付けた写真屋のセガレも。
まずは横浜のSEの沓掛さんとセガレメンバーの静岡のミカン農家のセガレ、わたるさんに話を聞く。ネットでこのイベントを知ってわざわざ横浜から駆け付けた沓掛さんは、実家が青木村で農業を営む、まさにどんぴしゃの「セガレ」。
「そうですね、家に戻るのには迷いがあるけどいずれは考えなくちゃならない……。」
田舎に引っ込むとSEの仕事は激減する。しかし都会から仕事を受けようと思うと費用の面で避けられる。今は国内よりも海外に発注した方がずっと安上がりだから。では家の仕事を手伝うか……というと生活の面でもかなり不安だ。
その迷いは、多分「セガレ」たち共通の悩み。東京のセガレたちはそういう悩みについての勉強会や意見交換会を開くこともしている。
そういう沓掛さんを「メンバーにいつでも歓迎しますよ!セガレは会社じゃない、サークルのようなものだし。」と受けとめるわたるさんは、東京で経営コンサルタントをしている。自分の実家だけでなく、農家の人たちがちゃんと生活できる、生活するだけの収入を得られるようになる手助けがしたい、と語る。
「でも、自分が出来るのはアドバイスだけです。自分たちは作っていればいい、というだけの農家じゃ手助けは無理。」
自分の家だけもうかるようにするのは多分すぐ出来る。でもそれじゃぁ「農」を考えたときに意味がない。“日本の農業”がきちんと成立するようにしなくては。そう語るミカン農家のセガレは、誇りある「日本の農家のセガレ」でもあるのだなぁ。
セガレつなぎに身を包むあつしさんは、酒米作りの農家のセガレ。代表の児玉さんが、東北の酒蔵の「セガレ」と縁があり、その縁をあつしさんに結びつけた。あつしさんの実家の造る酒米と、酒蔵のセガレとがコラボして出来上がったのは「オヤジナカセ」という名のお酒。父の日に向けてかなり売れたようだ。
「父の日が過ぎたら売れなくなりましたけどね、でも、父の日用のお酒、という位置づけでいいじゃないか、と思うんですよ。オヤジとセガレを結びつけるきっかけになるようなお酒になったらいいなぁ、と。」
久しぶりの帰省に、オヤジと飲もうとセガレがみやげに持ち帰る、もしくは久々に家に帰る息子と飲もうとオヤジが用意して待っている。帰れないけど感謝の気持ちを込めてオヤジに贈る、などそんな時に、この酒を……とあつしさんは言う。そんなメッセージ性(物語)のあるお酒、素敵だよなぁ。
間島さんとこの企画を盛り上げようとがんばってきたのが同じデザイン会社に勤める関さん。なんでこの企画に関わったのか?と聞いたらこういう答えが返ってきた。
「広告って、人を元気にするためのものじゃないですか。自分はそう思って仕事している。うちの会社は社長始めそういう人が集まってて、間島さんもそう。
広告ってものすごくいろんなことにつながることが出来る仕事。結局、人を元気にすることやそういう集まりの中から情報がどんどん集まってくる。こっちから発信するとまた集まってくる。そうしていろんなところとつながって、どんどんみんなが元気になったらいいじゃないですか。」
……広告は人を元気にするためにある。あったかい言葉だなぁ。
同じく上田セガレチームの大久保さんは、菅平プリンスホテルのセガレ。日本のダボスと言われる菅平はスキーのメッカだけれど、スキー人口は減少、各地のスキー場はどんどん苦しくなっている。
「菅平はまだ、夏のラガーマンの合宿があるからいい。他のスキー場と比べたら落ち込みは緩やか。けれど、この先を思ったら「春」や「秋」も考える必要がある。」
そう語る大久保さんが今取り組んでいることは、“ほっとステイ”。真田町と協力し、都会の子供たちを菅平に泊めて、真田町の農業体験&お年寄りとの交流を組み込んだ体験ツアーだ。このほっとステイ、セガレ代表の児玉さん出身地の武石村がやっていたことで、それを見に行った大久保さんが、都会のクールに見える子供たちが帰るときにお年寄りとの別れに涙を流す様子を見て「これだ!」と思って取り組みはじめたそうだ。
最初は「儲け」のことが頭にあった。採算を考えてがんばったときもあった。けれど、大久保さん自身が「お年寄りの無償の善意」に触れて考えが変わった。この企画は「信州しあわせ村」という団体でやっている。団体自体の儲けなどはほとんど無い。けれど、これを続けることで何か見えてくるはずだ。その手応えは確かに感じている。
現在、このほっとステイは長野県内で武石と真田町の他、青木村、立科、長和村、茅野が「長野県ほっとステイ協会」として横のつながりを持ち、フランチャイズ形式でお互いに支え合いながら活動を続けている。
その大久保さんに、「ここで何が起こっているのか」もよくわからずに引っ張ってこられたのが伊藤さん。「自然回帰線」という名のペンションのセガレだ。伊藤さんは元、自転車のレーサーだったが腰を痛めて菅平に帰ってきた。
彼とはあまりゆっくり話も出来なかったけれど、最初は周りの熱気に押されっぱなしだった彼が、帰った翌日Twitterでつぶやいた言葉は印象的だ。
「一晩開けても興奮冷めやまぬ。それは、きっと自分の中で何かが変わり始めた証拠だと思う。」
間島さんつながりで、カメラの仕事と兼ねてこの集まりに参加した南信、阿南町の写真館のセガレ、後藤さんもこう語る。
「離れて気が付く地元の良さって、ありますよね。自分も、この先写真を通して地元の南信州、阿南(新野の雪祭り・盆踊りで有名)の魅力を伝えていきたいと思っています。こういうイベントがまた開かれるのだったら、都合がつけば遠くても是非参加したいですね!」
セガレたちの集まりの持つ熱は、こうしてまた新たな熱を呼び覚ましたのだ。
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こんな風にたくさんの人たちの話を聞いてまわっているうちに、これだけたくさんの業種、職種、地区の人たちの集まりであるにもかかわらず、あるひとつの「共通点」があるように思えてきた。なんだろう?もうちょっと話を聞いてみる。
「セガレメンバー」の一人、湯田中のりんご農家のセガレ山本さん。彼はやはり幼い頃からりんご農家の大変さを感じて、兄に続き自らも地元を離れた。今、弟が家を手伝っている。「家を継ぐ」事について親は何も言わないし、責められているわけでもない。けれど、かえってそれが辛かった。自分の中では「何も出来ない、何もしていない」後ろめたさがずっとあった。
そんな時に東京で「セガレプロジェクト」に参加するようになった。
メンバーはみな「セガレ」である後ろめたさを持ちながらも、決して後ろ向きにはとらえていない。むしろそれぞれが出来ることをそれぞれの立場でやること、それを「楽しむ」感じ。
地元でりんごの手伝いをするのは、今の自分には出来ない。それじゃ、自分に出来る事って何だ?……そう考えた山本さんは、実家が作って売っているりんごジュースに目をつけた。ただ何もラベルのない瓶に詰めて売っているだけ。ここにちゃんとデザインしてラベルをつけたらどうだろう?
広告プランナーの山本さんは、友人のデザイナーの協力を得てラベルを作った。貼って売り出した実家のりんごジュースの売上げは、今までとはぜんぜん違った。自分も家の役に立った。親も喜んでくれた。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そう思えるようになった。
橋詰さんは旧武石村(現上田市)で、豚とトマトをやっていた農家のセガレ。やっぱり農業のつらさがあって、「継ぐ」という気持ちはなかった。兄は地元にいるが、別の仕事に就き、実家の農業は一回途切れた。
母親がずっと、花作りをしていた。花を育てながらいろいろ苦心する母の役に立ちたかった。そこで橋詰さんは花作りの専門学校に進学するためにいったん地元を離れた。その間いろいろ考えた。
自分の地元の武石村も、若い人たちが離れてどんどん寂れている。それはなんだかいやだった。実家はトマトもブタもやめてしまったけど、農地や設備は残っている。無からの出発ではなく「ある」ところから出来る。……「あるもの」で何が出来る?
そう思って地元に戻り、地元の花屋で働きながら実家の畑で今いろいろな野菜作りに取り組んでいる。彼は農協には入っていない。農協にはいると最低価格は保証されて、安定感はある。けれどそのためにはある程度の量産をしなくてはならない。今の状態で量産を考えたら人手も時間も足りない。そのために無理を重ねるのは何かおかしい。
計画的には出来ないけれど、代わりに自由度はある。自分でやることによって、お金で買えないものが手にはいる。自分が作った物を直接近くの店やレストランに卸して食べてもらう。「おいしかった」とまた買いに来る子供の感想を聞く。
「無理してやることはない。」
今ある農地で、今得られる力で、どのくらいあげられるのかが課題、と彼は言う。
その彼の言葉に同意するのは菅平で有機レタスを作っているまる文農場の小林さん。彼の祖父は上田から菅平の開拓史としてやってきて、その畑を守る3代目セガレだ。
JAは保証があるけれど、そのために量産が必要だ。それにある程度以上には高値で売れない。自分で直接売ったらもうちょっと高値でも売れる。そうして手塩にかけた野菜の販売網を自らで開拓し、自ら積んで配達しに行く。販売地域は主には上田から軽井沢まで。須坂からも売りに来て欲しい、とオファーがあったがそこまでは手が回らないから、と断った。
配達してくれる人を捜したら?というと彼もまた、こう口にした。
「無理はしない、無理をさせないのがいいんです。」
自分の手で運ぶのが大切なんだ、自分たちでやるからいいのだ、そのためには身の丈以上のことはしないのだ………と。
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長野県には、「なから」という言葉がある。
自分に出来ること(やりたいこと)を出来る範囲で、「楽しく」やるのがスタンスのセガレプロジェクト。一方、この集まりにやってきた長野県のセガレたちもまた、みなそこにあるものの範囲で、自分に出来ることを考えて決して「無理をしない」でやっていくスタンス。どちらもみんな、この「なから」な感じ。
今回、この菅平のイベントを取材してみてセガレたちから感じた共通点。それははじめて児玉さん・間島さんと話した日の想いと重なった。
彼らの親御さんたちは、ものすごく大変だった。彼らは小さい頃からその作業の手伝いにかり出された。そして物作りの大変さを身にしみて感じたからそこから離れたいと思った。けれども、親の作り出す物の温かさや大切さもまた、彼らの中には染みこんでいた。親のようにがんばりすぎるつもりはないけれど、でも、大切なものを伝えることはしたい。
そんなセガレたちの想いの行き着くところがこの「なから」なあり方だったのかもしれない。無理しない。多くを望まない。ある物、できることでやれる範囲でやっていく。
がむしゃらに収入を上げるために働く「エコノミックアニマル」と呼ばれたかつての日本人。高度成長の呼び声に踊らされて家族よりも社会、会社、国のために「24時間働きづめ」だった時代。その時代のツケが押し寄せて日本全体が混迷の状態にある今、そのセガレたちが人間らしく生きるために見つけた答えが「なから」なあり方なのかもしれない。
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イベントの最後は、みんなでの記念写真。
参加者の中に何人もカメラマンがいて、それぞれ交代でシャッターを押した。記念写真といったら、みんなで瞬きも我慢しながら緊張してシャッターが押されるのを待つ……のだと思ってた。
最後の一枚は、関さんがカメラの「横」に立った。みんなに声をかけて笑わせる。そしてその笑いの瞬間に、ファインダーものぞかずに、シャッターを押した。
「はい、お疲れ様~!!」(え~?いつ撮ったの???)
最後の記念撮影も、また、なからに終了。
そんな“なから”なセガレたちの集まり(つながり)はこれからの大きな可能性を秘めて幕を閉じた。
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セガレHP
写真・文 駒村みどり
0 comments admin | 地域おこし, 生き方, 農業
大都会で。ネット上で。
偶然の出会いが拡がってそれが重なり合い、そしてひとつの熱い固まりになった。
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2年ちょっと前、東京のとある勉強会で偶然出会った3人の若者たち。
きっかけの言葉は、「実家では、何作ってるの?」
都会では、ずっと口にすることのなかったそのセリフ。
新鮮だった。そしてなんだか嬉しかった。こんな話が出来ると思わなかった。
一緒に会って飲みながら語りあうようになった。
かすかに感じていた後ろめたさ、そのマイナスの想いを「モチベーション」に換えて「行動」した。好評だった。後ろめたさが薄れて、さらに「楽しく」なった。
………それが、「はじまり」。
代表の児玉光史さんは、「はじまりの3人」のうちの一人。
長野県上田市(旧武石村)出身で、現在は東京でサラリーマンをしている。高校・大学と野球を続けていた。見上げるように背が高いので「大きいですね」と言ったら「大学の野球部では普通の方ですよ」とのこと。
そんな児玉さんのご実家は、アスパラと米を作る農家だった。
子供のころから家の手伝いをして、感じた農家の大変さ。野球中心の毎日、さらに東京に進学しそのまま就職して、実家の農業とは遠く離れて行きつつある都会の日々にも、「農家のせがれ」であるという意識はどこかにずっとこびりついていた。
何となく、後ろめたい気持ち。家の大変さはわかっている、でも……。
そんな中で参加した、東京での「農を考える」勉強会。そこで出会った他の二人も「同じ思い」を抱えていた。緑少ないコンクリートジャングルで実家の話が通じ、そればかりではなく実家の話題で盛り上がるという新鮮な感覚。
飲み仲間として3人でよく集まっているうちに、ふと思った。
「都会で“農”を考えたら、俺たちはプロじゃないか。この話題に関したら都会では誰にも負けない。」
ちょうどその頃、中国製の餃子の問題があって、「食の安全」について大きな話題になっていた。自分たちの実家には親が丹精し、安心して食べてきた新鮮で誇れる農産物がある。誰よりもその価値を知っている自分たちがそれを売ったら……。
実家に行って、実家の作物を車に積み込んだ。東京有楽町でやっている月に一回の「市」に持ち込んだ。すべて自分たちでやったので、ものすごく大変だった。「売れるんだろうかなぁ」という懸念ものしかかってきたけれど……。
「完売」
すべて売り終えたあとでそれまでとは違った想いが頭を持ち上げてきた。
……この考え方は、この方法は、「あり」だ。
そこからはじめたこのプロジェクト。今は、月に1回第3日曜日に自由が丘で野菜の販売をする活動をメインに、多彩なプログラムが行われている。活動を展開していくうちに、大都会に埋もれていた“せがれ”たちがだんだん集まってきた。
スタートは3人の出会いだった。
それが今年の9月で3年目を迎える今、メンバーはどんどん増えている。農家の伜という共通点を持った彼らは、自らを「セガレ」(女性はセガール)と称し、その活動を「セガレプロジェクト」と呼ぶ。
「だけどあくまでも“サークル”のようなもの、草野球のノリなんですよ、これは。」
今のメンバーの数は?と聞くと、答えは50人から70人とのこと、ずいぶんとおおざっぱだ。それもそのはず、入会規約があるわけじゃなく、会費があるわけじゃなく、なにか義務や責任が発生するわけでもない。コンセプトは「楽しく」。各個人が、好きなことを好きなようにやる。やりたいと思ったことを提案する人がいれば、それに参加したい人は参加し、手伝いたい人が手伝う。
「先日初めての有料講座を企画したんですよ。で、そこに集まったのが5人。」
「え?それだけ?」……“5”という数字をきいて、わたしは一瞬そう思った。けれど、続いて出た児玉さんの言葉は、「5人“も”集まったんです。」だった。心から満足そうな笑顔を浮かべて。
児玉さんは続ける。
「有料の講座だとしたら、もしかしたらひとりもいないって可能性だってあるんですよ。ひとりもいなかったら、何も始まらない。だけど、5人来てくれたんです。ひとりでもいたら、何かがはじまる。それが5人も、ですよ。すごいことですよ。」
「草野球」……そうか、草野球だ。
規則に則った試合なら最低9人は必要な野球。けれども、野球が好きでやりたいのだったらボールを握って飛び出せば、壁に向かって投げてとって一人練習も出来る。そこに誰かもう1人来たならば、2人でキャッチボールも出来る。3人いれば、落ちている枝を拾ってバットにしてでも投げる、打つ、受ける……ゲームも成立する。そう考えたら、5人いたらすごいじゃない………。確かに「5人も」と思うよね。
まず枠があって、その枠に何人足りない、という引き算の発想じゃなくて、一人よりも二人、二人よりも三人の方が可能性が増える、という足し算の発想。
さっき「草野球のようなもの」だと表現したこのセガレプロジェクトのあり方は、こんな児玉さんの想いが根底に流れているからこそ成立しているのかもしれない。
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「高校の時、武石村からどうやって通っていたんですか?」
現在は上田市武石地区となっている旧武石村。上田と小諸と美ヶ原を頂点に結ぶ三角形のほぼ真ん中に位置する。美ヶ原に隣接、といったら交通の便がいい?……と思うが実際は上田と松本を結ぶ三才山トンネルを通る道と、佐久と諏訪を結ぶ和田峠を越える道とにはさまれたど真ん中にあり、どちらも武石村は通らない。上田の高校に通っていたという児玉さんだけれど、鉄道は?バスは?と考えてみると、かなり不便だったろう。
「ああ、高校の時には同じ野球部に武石村から3人行っていましたので、3人の親が交代で送り迎えしてくれたんですよ。」
………武石村から上田までは、少なくとも40分以上はかかる。余裕を見て往復で2時間近く。練習時間もきっと朝早くから夜遅く。ご家族は朝は5時くらいに出て送って行き、武石に戻って農作業し、夕方の仕事が終わったら上田に迎えに行き、暗い道を汗と泥にまみれた高校生3人乗せて帰ってくる……。3家族で交代、とはいえ3日に一度上田までの2往復をやる。それも高校の3年間。
それをやってしまう武石村の親御さんたち……話を聞いただけでパワーに圧倒された。
でも、この話を聞いて悲壮感を感じないのはなぜかなぁ。「大変ですねぇ。」と同情するよりも、「いいなぁ、そうやってみんなでやり遂げちゃうの」という、エネルギーの強さに感動した。それは多分、児玉さんから武石村のもろもろのことを聞いたからだろう。「いいなぁ、武石村」……そう思ってしまう前向きなパワーがそこにはあった。
たとえば、地元の野菜や肉を使った「武石丼」というごまみそ味のメニューがある。「武石特産品検討委員会」が地域おこしのためのレシピ公募でグランプリに輝いた武石地域生活改善グループのレシピをもとに考えられた。この武石地域生活改善グループの代表が児玉さんのお母さんだ。(彩りも工夫、地元食材で「武石丼」 グランプリ決定~信州Live on)
「なんだかね、地域の人と一緒になってやってましたよ。こんな風にみんなを盛り上げるの、得意みたいですね。」とお母さんについて語る児玉さんだけど、セガレプロジェクトを立ち上げて盛り上げている児玉さんはそんなお母さんゆずりの血を絶対濃くひいている……。
その他、今は約80農家が協力して「体験学習」を行っているが、そのまとまりはしっかりしていて、みんなで盛り上げもり立てる空気が武石にはあるらしい。
「秋のね、地区住民の運動会は武石を離れた同級生たちも帰ってきますよ。僕も毎年参加です。あれは続けたいですね。ぼく一人になっても絶対に続けますよ。」
上田の高校までの毎日の送り迎えは3家族の協力体制。体験学習をみんなで盛り上げる力。地元の運動会に帰省するセガレたち。地域おこしのためにみんなでレシピを開発するパワー。
わたしは武石の実情は知らない。だけれど、この日児玉さんから聞いた故郷のあり方は……そのまま、この児玉さんを育てた気風で、そしてその気風が大都会でもたくましく受けとめられる「セガレプロジェクト」につながっているんだな、と……ふとそんなことを考えた。
そうして児玉さんが2人の仲間とはじめた「セガレプロジェクト」は新聞や雑誌・テレビでも取り上げられて今やメディアの注目株。様々な追い風もあって、どんどん拡がっている。
その拡がりが、長野にも飛び火した。7月11日の日曜日、長野の菅平高原。
セガレパワーの火が、ここでもまた熱く燃え上がった。
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「セガレとセガレのBBQ、やります」
今話題のTwitterでふと目についたその文字に興味をひかれてたどったリンク先にあったのがこのチラシ。
このチラシを作ったのは、上田市のデザイン会社に勤める間島賢一さん。
記載されたリンクをクリックしてたどり着いたのは間島さんのブログ「間島の仕事」の1ページ。そこにど~んと載っていたのがこのチラシだった。
「若い頃は世間知らずでしたよ。」と笑うその表情からはまったくそんなことは想像できない。けれど、このあとのBBQで間島さんを昔から知る仕事仲間からも「昔はね、怖かったんです」という言葉が聞かれたから実際そうだったのだろう。ぎらぎらしていた。仕事をとるために、ガンガン突き進んだ。「ライバル」は山ほどいて、一歩でも先んじることばかりを考えていた。
けれど今回、間島さんの仲間はみな「こんなに人が集まったのは間島さんの人柄ですよ」……BBQで、予想を遙かに上回るメンバーが集まったのを受けて、口をそろえてこう言った。
間島さんは、自身のブログでこう綴る。
「今、企画デザインの仕事をお客さまと直接お取引しているなかで、ライバルと感じる感情が一切ない。(高飛車な意味じゃないですよ)
何でだろう?? そんな会話を聞いていた当社の代表が一言。
『見ているところがお客さんだからだよ!』
ライバルに勝つ負けるばかりを考えていると、肝心なお客様の為に何をすべきか
を怠ってしまいます。 (中略) お客様の視点になって考える。」
印刷会社の営業の仕事から今のデザイン会社に移った。そこでの新しい同僚やお客さんとの出会い。それが間島さんの視点に影響を与えた。肩の力が抜けた。
そんな中で「農家」の方の仕事を請け負う機会が増えた。「物作り」のプロである農家の人たち。だけど日本では今、農業は「職業」としては成立していない。おまけに農家の人たちは「伝えること」がすごく下手。農村では若い作り手はどんどん減っていて、都会では「農業ブーム」が起きているけど、ブームとは裏腹の「現実」がここにある。
農業ブームって何だ?それって変じゃないのか?
そんな中で、東御市にある「永井農場」の仕事に関わった。そこでは誇りを持っていい作物を作る人(おやじ)と、それからそれを上手くコンサルテーションして「伝える」部分を考える人(せがれ)がいた。二人のコンビネーションが、この農場を成功に導いた。
「ブーム」ではない別の「渦」(動き)が、あってもいいのじゃないだろうか?「農」がちゃんと生活するために必要なものを得られる職業、仕事、として成立するための何かがあるはず。
そんな想いを持った間島さんと児島さんの出会いもまた、Web上だった。
セガレプロジェクトや、それについてのHP、ブログなどを通じてつながった二人が「会いませんか?」ということになったのは、今年のゴールデンウイークだった。
実家の野菜を都会で売る。活動基盤は東京だ。けれどいずれは長野に戻ろうと思う。長野ともっとつながりたい。……そういう児玉さんの想い。
東京で農をメインに据えた活動を展開し、成り立っているセガレプロジェクトと交流できたら、地元も大きな影響を受けるかもしれない。……そういう間島さんの想い。
二つの想いが重なり合って、勢いづいたこの企画が動き出した。
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長野県の方言のひとつに「なから」という言葉がある。
「なから」は中くらい、という意味ではない。中途半端、という意味でもない。大概、大体、おおよそ……そんな感じの言葉だ。
できることを、「5人しか」ではなく「5人も」と足し算思考で実践している児玉さん。
自分視点からお客さん視点に変わって力みが抜けて、自然体でやっている間島さん。
がんばって完璧をめざすんじゃない。だけど無責任で中途半端なことはしない。
そんな二人のあり方を見て、なんだかみょうに「いろいろ“なから”なんだよなぁ、そんなあり方っていい感じだなぁ。」と思えた帰り道だった。
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「10人も集まればいいかなぁ。」間島さんがそんな軽い気持ちではじめたこのBBQ企画。同じ会社の仲間たちや、菅平の観光を考える人たちの協力を得て、口コミに加えTwitterでの呼びかけの効果が大きく、蓋をあけてみたら総勢40人の名前が参加者名簿に並んだ。
……BBQ当日の模様は、「なから」がもたらす可能性(2)に続く………。
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写真・文 駒村みどり
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「長野市は川合新田からやってまいりました、なかがわよしのです。」
おなじみの前口上だけれども、聞く場所によってこんなに違うものなのか。
カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)
言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)
今まで2回にわたって取材してきたなかがわよしの氏の「傘に、ラ」のシリーズ。
今回は、2月の末にネオンホールで行われた「芝居」の会(「傘に、ラ vol.8」と、先日6月始めに行われた田植え&田んぼでライブの会(「傘に、ラ vol.16」)のふたつの会を取り上げてみようと思う。
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なかがわよしの氏。
彼が「今」をキーワードに様々な試みをしている「傘に、ラ」。
詩の朗読や対談、音楽や芝居など様々なジャンルでいろいろなゲストと共にこれまでいろいろな場所で展開されてきた。
ナノグラフィカ、ネオンホール、そういった「会場」で行われたり、最近ではツイッターといったネットの上で展開されたり。
2月の「傘に、ラ」は、凍てついた空気の中、ネオンホールで行われた。
ちょっと遅れて入った会場のステージでは、女性二人がおしゃべりをしながら餃子を作っていた。そこにあるのは、ごく普通の「日常」を切りとっただけの一場面だった。
前半は赤尾英二氏脚本・演出による「餃子のなかみ」という現代口語劇。
激しい動きはない。ステージの上では餃子の具をきざみ、それを包み、「いただきます」というところまでの30分の展開。
ところが、「餃子を作って食べる」というその一連の流れの中で交わされる会話はかなりドラマティックだ。赤尾氏の演じる弟と、囲む姉二人(司宏美氏、田中けいこ氏)の3姉弟の間にはいろいろなわだかまりがあって、「親の死」という事実の前にお互いの想いがぶつかり合う。
妹弟を思うがゆえに口うるさくなる長姉。素直に受け止められない弟。間にはさまれる次姉。その3人の想いを紡ぎ、気持ちを繋げていくのがひとつのセリフだった。
「来た道を振り返ってはため息をつき、石橋をたたいては渡るのをためらう。」
先を見過ぎても、過去にこだわりすぎても進めない。せっかくのこの瞬間を見失ってしまう。そのセリフは出来上がった餃子から立ち上る湯気のようにステージ上の3人を包み込み、餃子の香ばしい香りと共に会場にも広がり、さらにはなかがわ氏の一人芝居へと引き継がれていく。
(ちなみにこの餃子、前半の劇終了後の休憩時間に会場のみなにふるまわれた。写真を撮っていてわたしは食べ損なったがおいしそうだった………残念。)
続くなかがわ氏の一人芝居。彼が演じるのは、売れない脚本家。
売れない彼は、ある日「声」を聞く。
~「今」をわたしにおくれ。おまえはすばらしい過去と未来を手に入れる。地位や、名誉はおまえのものだ。~
そうして彼はその声にしたがって「今」を捨て去る。
あっという間に売れっ子の脚本家に変貌した彼の「過去」には華やかな名誉ある足跡が刻まれ、「未来」は光にあふれて輝く。金も、地位も、女も、栄光も……彼は「すべて」を手に入れる。たったひとつ「今」をのぞいたすべては彼の思いのままだった。
しかし、彼には「今」がない。だから、「今を生きている」実感がない。
どんな名誉が過去にあっても、その名誉を受けたその瞬間の実感がない。この先必ずすばらしい成功が来るのは約束されている。だから今、そこに向かう緊張感もない。
ちやほやされても賞賛を浴びても。彼はその「瞬間」の記憶がない。
「さみしい」「むなしい」「悲しい」
次第に彼の心は、華やかな実情とはまったく別の感情に占領されていく。
そして彼は、かつて自らの「今」を明け渡した「声」に、再び乞い願う。
「お願いです、僕の今を返してください」………と。
声は答える。
「それなら、おまえの命とひきかえに『今』を返そう。」
彼は、今……その「一瞬」を手に入れ、その瞬間にすべては「無」に……。
ネオンホールの真っ暗な空間に、沈黙が流れる。
「今」というテーマがぎゅっと凝縮され、一瞬の光を放って、消えた。
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6月に入ったばかりの日差しまぶしい小川村の田んぼ。
白馬に向かうオリンピック道路に向かって登っていくのぼり道をすこしあがると、歓声が聞こえてきた。
道から一枚の田んぼが見える。その手前の広場には軽トラや自転車が停めてあり、祖田んぼ沿いの空き地にはテントとビールケースをひっくり返した即席テーブル。
小さな煙突つきのストーブからは煙が上がり、その上で豚汁がおいしそうに湯気を上げている。そこに田植えをしている人がいなかったら、それはさながらキャンプの光景。
「傘に、ラ。vol.16~田植え的ピクニック~」
なかがわ氏からいつも送られてくる「傘に、ラ」の告知メールにはこう書いてあった。
田植えやります! 当日苗がどんくらい集まるかわからんので、「え!? もう終わりっ」とかいうこともなきにしもあらずだけど、豚汁食ったり、談笑したり、誰かが歌ったり、あっちで即興芝居はじまったり、ラジカセからなんかいいカンジの音楽流したりして、またりーと過ごす予定。「ピクニック、ときどき田植え」な催しです。
なかがわ氏、奥さんに誘われて姨捨の田んぼの農作業を経験、それで田んぼの面白さに目覚めたそうなのだけれども、今回それが「ピクニック」という発想につながったのはナノグラフィカの高井綾子さんとの会話がきっかけだそう。
(ちなみに、高井さんは昨年松代で田んぼ作業を経験、その模様はこちらから。
→皆神山の麓の田んぼで…・ 桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?)
高井さんから小川村で田んぼをやっている大沢さんを紹介してもらって今回のこの田植えイベントになったということ。
この田んぼは、小川村に移住してきた大沢さんと、お友達のジョンさんの家族が借り受けてやっている田んぼだそうで、大沢さんも田んぼや農業に関わりたくて長野県にやってきた人。小川村では農業就業者の年齢が高齢化して、今ではあき田んぼが増え、大沢さんやジョンさんのように借りる希望者がいても、それよりもあき田んぼの数の方が多いのが実態。
けれど、そんな中でも「田んぼ」を受け継いでやっていこうとする人がいる。
なかがわ氏も、それから今回ここに集まったなかがわ氏の友人の多くの人も、何らかの形で田んぼに関わっていた人たち。
その人たちが今回、なかがわさんの呼びかけで集まってみんなでワイワイと田植えをしちゃおう、ということなのだ。
家族ぐるみで参加している人が多く、小さい子供もたくさん。水位を下げているとはいえ田んぼのどろどろの中、膝の上まで泥にはまって田んぼのかえるやオタマジャクシと戯れながら、ひとしきりお田植え。
2時をまわった頃には、田んぼの端までしっかりと苗が植えられて、せき止められていた取水口から勢いよく水が流れ込み始めた。
そして田んぼの横に停めてあった軽トラが、一転ステージに変貌する。お田植え会場は、あっという間にライブ会場に変身。なかがわ氏の詩の朗読がはじまった。
田んぼに水の注ぐ音。空の高いところを吹き抜ける風の音。なかがわ氏が「今」を紡ぐ音。それらが頭の上にひろがった閉ざされることのない空間に広がっていった。
続いてステージに登場したのは地元小川村のデュオ、「やくばらい」のおふたり。
オリジナルソングを中心に、10分ほどのミニミニライブを展開。
ちょうど、田んぼの上の道を通りかかったおばあちゃんがその歌声を聞きながら、「いや、おんがくこういうところで聞くのって、なかなかいいもんだね。」と笑顔を浮かべてゆっくりと畑に向かっていった。
やくばらいミニライブのラストナンバーはメンバー紹介ソングだったのだけど、ここでジャンベをやっているという大沢氏が臨時参戦。けれど、ジャンベがそこにあるわけではなく、転がっていた長い塩ビのパイプをたたいての即席パーカッション。
やくばらいのお二人のデュエットに絶妙に絡んだ“パイプカッション”のセッション。
今、この時、この瞬間だから生まれた音が静かな田んぼの上を渡る風に乗ってのんびりと流れていった。
軽トラの即席ステージで、なかがわ氏の即興詩の朗読と、塩ビパイプの即席セッションが加わった田んぼライブが終わる頃、みんなが田植えで踏み込んで泥で濁っていた田んぼの水も、すっかり澄み渡って静かに青い空を映し出していた。
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暗く閉ざされた空間で、その空間の中に凝縮され、発表の場に向かってぐーっと焦点化されていった「今」があれば、どこまでも広がっていく無限の空間の中に、その瞬間にふと生まれてどんどん広がっていく「今」がある。
どちらもまぎれもなく「今」であり、その表現の形。
「なんかね、最近はテーマとかジャンルとかあまり気にしないで『これやりたい』と思うことをとりあげるようになってますね。」
田植えをなぜ『傘に、ラ』で取り上げたのかを聞いたとき、なかがわ氏はそう答えた。
なかがわ氏がこの「傘に、ラ」というイベントで持っている「今」というテーマ。
どうやらそれは、すでになかがわ氏だけのものではなくなっているようだ。なかがわ氏が取り上げるジャンルや会場、そういうものに影響を受けその場を共有したものたちの中に、しっかりと「今」が息づいて広がり始めているのではないか。
いろいろな形の「今」があり、いろいろな人の「今」がある。
それはみな違うものだし、その先がどこに向かっているのかもわからないけれども、そういうたくさんの「今」が出会い、触れあい、輝きあって「明日」に向かっていくのだろう。
始まって半年のなかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、そうしてこれからも様々な「今」を織りなしながら進化していく。
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今後の「傘に、ラ」
(注:記事掲載時2010年6月時点の情報)
10年7月3日(土)
「傘に、ラ。 vol.18 ~今に生まれて今に死ぬ~」@ネオンホール
出演:outside yoshino・ タテタカコ
料金/前売・予約3500円、当日4000円
問い合わせ/026-237-2719(ネオンホール)
10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.19 ~果樹園で朗読会。~」@丸長果樹園
詳細後日発表
10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式 たとえば僕が死んだら~」@ネオンホール
詳細後日発表
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写真、文 駒村みどり
<<2009.09.28 N-gene掲載記事>>
実りの秋です。
先日、近くにある青果市場から「巨峰」と書かれた箱を山ほど積んだトラックが出てくるのを見ました。そういえば、この前通りかかった畑でも、野菜を箱詰めしてはトラックに積み込んでいる様子を見かけました。
秋は、豊かな実りをもたらしてくれる季節です。そして、その実りは、あちらこちらの田んぼにも………。
ナノグラフィカの高井綾子さんが、松代にある小川さんのうちの田んぼのお手伝いをする模様を5月&7月と訪れてレポートした記事「皆神山の麓の田んぼで…」の続報です。
そうなのです、高井さんがお手伝いしていた田んぼでも、先日ついに稲刈りが行われたのです。その情報を得て、さっそくおじゃましてきました。
「シルバーウイーク」って、誰がいつから言いはじめたのか知りませんが、その秋の連休後半の9月22日。天気は、薄曇り。松代にバイクで向かいましたが、風を切るのでもう長袖+ウインドブレーカーでも寒いくらいです。
連休の後半と言うことで、松代の町中は結構な渋滞。しかし、田んぼのあるあたりはほとんど人通りも車通りもなく、静かなもの。
小川さんの田んぼに着くと、すでにもう稲刈りは始まっていました。 そういえば。昔はこの時期、「農繁休業(稲刈り休み)」っていうのがあったっけなぁ。周りに農家が多かったので友だちはみんな稲刈りのお手伝いにかり出されて日焼けしてた……記憶が。
そう、農業はごく当たり前の生活の一場面で。生活にあわせて学校もお休みになって。そうしてもろもろの農作業が一段落つくときに、一年の労働の慰労も兼ねて地域をあげて「運動会」を家族で楽しむ……という流れがありました。
そうそう、稲刈りの時期に忘れてはいけないお方と久しぶりにご対面しました。
そうなのです、イナゴくんです。このイナゴくん、稲を食い荒らす害虫とされていて、でもその一方で山の地方のタンパク源としては貴重なもので。中学生のころには、農繁休みの宿題で「イナゴを茶碗2杯分持ってくること」が課題に出たりしていたのです。生徒会で全校分を集めて業者に売って、貴重な生徒会の予算源にもなっていたのでした。(私の学校だけかなぁ)
いつの間にか田んぼからイナゴが減って(農薬の影響?)農繁休業もなくなり、今はもうそんな課題が出せなくなっちゃっているんでしょうね。この日も、出会ったイナゴくんはこの写真の3匹……じゃない、2匹と1ペアだけでした。
さて、そうこうしているうちに、高井さんと7〜8名の集団が車でやってきました。簡単に打合せをしたかと思うと、あっという間に手際よくはぜかけの作業に取り組みはじめました。
手慣れているのもそのはずです。このメンバー、毎年ここに田んぼ作りの手伝いにやってきている人たちです。皆さん、すでにもう3年とか5年とか、田植えと稲刈りをここに来てやっている方々で、遅れてきたのはここに来る前に別の田んぼでの作業をしていたからです。
いわば、そんな「先輩諸氏」の間に入って、高井さんも笑顔で作業をしていました。そんな高井さんの仕事姿。一年目とはいえ様になっているような……。
黄色い稲がまだ残っている部分と、すでに刈り取られてはぜかけしている部分。すでに稲刈りが終わって切り株だけが整列して残る田んぼ。
「秋の色」の織りなす模様は美しい……秋の田んぼを見るといつもそう思います。
先ほどまでは数名での作業でなかなか進まなかったはぜかけも、あっという間にすすみました。
そういえば、この田んぼでは「バインダー」で稲を刈ってはぜかけをしていますが。周りを見渡すとなぜかはぜかけが見あたらない田んぼが。
「最近はねぇ、機械で稲刈りから脱穀まで一気に全部、やっちゃう所も多いからねぇ。」
すみません、私、よく知りませんでした。「コンバイン」という機械は知っていたけど、はぜかけしないで脱穀まで一気に!?
「あの、日に干さなくても大丈夫なんでしょうか?」「うん、やっぱりね、味は違うみたいね。ちゃんとはぜかけで日に当たったお米は長期保存しても味が落ちないけど、コンバインで脱穀しちゃったお米は一年たつと味が落ちるらしいわよ。」
おひさまの力は、偉大です。そして、それをちゃんと「はぜかけ」という形で美味しい米作りに生かしてきた日本の農家も偉大です。
それにしても、今年はちょっと青い稲が気になるなぁ。出来はどうだったんだろう?と高井さんに聞くと。
「そうねぇ、どうも今年の実りは今ひとつみたい。稲も軽いようだしね。夏の雨が影響したみたい。」
冷夏だった今年、たしかに実りが心配です。
そうして、一年間、田植えからずっと見守ってきた田んぼ。この先も、脱穀〜新米賞味会(?)〜しめ縄作り、と続いていくのですが、田んぼ自体との関わりはこれで一段落です。
「でもね、実はあまり顔出せなかったんだ。それに、言葉が通じないんだよ。」「通じない?」「うん、みんなの会話が『そろそろあれだから』とか『もういい時期だろう?』とか、主語がないんだよね。でもちゃんとみんなわかってて通じちゃうの。 この会話がわからないとちゃんと田んぼの作業に入れないし。また、来年はもうちょっと会話に加われるように、田んぼにも顔出せるようにしたいなぁ。」「……ということは、来年もやるの?」「そうね、3年くらいはちゃんとやらないとやったって言えるようにはならないよ、きっと。」
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「桃栗三年柿八年」という言葉があります。種をまき、芽吹いてから実りの時期を迎えるまでにはそのくらいかかる。何か事に当たってそれが実るには時間がかかる、すぐには実りを手に入れられない……そういう意味のこの言葉。
高井さんにとっては、今年は「種をまいて芽吹いた」年だったんですね。
こうして田んぼの一年が終わっていきますが、高井さんにとっての田んぼとの関わりはここがスタート。来年、再来年とやっていくことによって「稲作り」における高井さんの「実り」に近づいていくのでしょう。
「桃栗三年柿八年」のあとには、「柚は九年で花盛り梅はすいとて十三年。」とかいろいろな言葉がくっついてくるようですが。
桃栗三年柿八年。高井さんの田んぼはあと何年?高井さんの挑戦は、まだまだこの先も続いていくようです。
そんなわけで。この記事もまだまだ続く……。(かな?)
(写真・文 駒村みどり)
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