2011年 2月

子どもたち

Photo : Midori Komamura

「ダメです、服が汚れるから。汚いでしょ。」「そんなものに触るんじゃありません。」「危ないからやめなさい。」

そういうセリフにさえぎられて泥だらけの子供たちが減っていき、何より今は、「泥」に触れることの出来る水たまりさえも見あたらなくなりました。日がくれるまで集中し、時を忘れて熱中し、一番星を見て帰る時を想い出し、あわてて家に走って帰るという姿もどこにもなく。「今日は○○ちゃんと競争して、ぼくの方がいっぱいじょうずにつくったんだ」などとお母さんに夢中で報告することもなく。

「太陽は、東の空から昇って西に沈む」ことがわからない。(驚くかもしれませんが、そういう子どもはとても多いのです。)計算や知能テストのようなものは上手にできても、自分のことについて話すことや書くことの表現ができない。

嬉しい、悲しい、楽しい……感想文を書くのにすごく苦労する。「どっちの方がいくつ多いのか」プラスやマイナスの感覚がなかなかつかめない。中学生でいまだに掛けると足すの意味の違いがわからない。

柱の体積は底面積×高さ、だけどなんでそうなるかわかっていない。積み木を積み上げる感覚を思い出せばすぐわかるのに、なぜそうなるかわからないから公式を忘れちゃったら計算ができない。

今の子供たちを見ていると、そういう知識のアンバランスさを感じます。経験から来る学びが限られていて、教科書に書いてあることが実際の事象と結びつかない。

紙の上、机の上だけの学びは決して生きる力に結びつかないのです。それは五感を働かせることがないままに来てしまったからです。目で見るだけでなく、からだ全体で覚える訓練をしていない今の子供たちは、書いて覚えることも読んで覚えることも、「見る」という動作とつなげることもできない。だから「考える」という脳への指令を出すことができない。

結果「何で勉強なんか必要なの」と思う。その理由も見つからない。

脳はいかに知識や記憶を増やしていくか。脳の細胞と細胞を繋いで行くシナプスという枝の働きです。それがより多くより密に張り巡らされることによって脳細胞の動きが確立していきます。それにはより多くの刺激=経験や体験が必要で、机の上の学びだけでつながるのはごく限られたもの。片手落ちなのです。

頭の働きが良くなり、考える力を持つためには。いかに多くのシナプスをつなげるか。それには、いかに五感すべてをフル活用できるかにかかっています。それが出来るのが「遊び」なんです。

遊びを忘れた脳みそは、筋トレしない筋肉と同じ。衰えてゆくだけです。

大人になるまえの子供のうちに、いかに五感を総動員させて遊ぶか。そして経験や体験をどれだけ増やして蓄積できるか。「本当に頭の良い子」を育てたかったら子供のうちに、イメージ豊かな子供のうちに、たくさん外で遊ばせること。さらにその体験を子供と親が楽しく語りって増幅すること。そうしてイメージの貯金をすること。それが一番の早道なのです。

それこそが子供のころからできる本当の「英才教育」なのです。

数学の文章問題でもそうです。問題を解く材料としての公式や計算をたくさんドリル学習します。そして応用の文章問題に行くと、もうそこで挫折です。つまり、その問題文章にどの公式を使い、どういう計算をして答えを導いたらいいのかが全くイメージできない。

同じ事がすべての教科に言えるのです。
さらに、先にも述べましたが「教科制」ということの弊害がそのイメージへの障壁を大きくしています。

たとえば、時間の計算や速さの計算、圧力や密度などは数学でも理科でも出てきます。けれど、数学の問題では普通に出来ても、理科の問題になると出来ない。わからなくなる。英語も国語も「言葉の組み立て」を学ぶ教科なのだけれど、英単語や漢字・熟語は単なる記号にしか見えないから文章に組み立てることが出来ない。

「学び」を細分化し、それぞれを関連させることもリンクさせることもないままでそれぞれの教科・単元ごとに内容を「教える」だけの状態では、学びとしてそれぞれがタコの足のようにバラバラに動いている状態で、それを一つにまとめる「イメージ」がない限りはまとまった動き(思考)には決してつながらないのです。

このタコ足学習である教科制を、クモの巣状態に張り巡らされた一つのネットワークの学びに変えるのが「総合学習」であって、そのクモの巣の材料として絡み合い、つなげる役目をするのが「イメージ」です。いかにそれをしっかりと密に絡めるのか、そのために必要なのがたくさんの「経験」「体験」です。

イメージが出来ない子供たちは、この経験や体験というものがとても限定されている場合が多いのです。

たとえば。あなたは子供のころに泥団子を作ったことがあるでしょうか。
泥が出来るのは、雨がふった後のくぼみ。砂地では無理で、砂よりももっと粒が細かい粘土状の土が必要です。雨がふった水たまりには、時にミズスマシが水の輪を作ります。雨のあとの空の青さを映し出します。雲の動きも映し出します。やがて、その雲があかね色に染まる。影が長く伸びて時の流れを感じ日の沈むのを見る。

手や、目や、鼻や、耳……身体の五感を使って、周りの空気や音や泥の感触、時に口に入ってしまってじゃりじゃりした感触と苦い味に顔をしかめ、こねる手から水の冷たさを感じます。どんなふうに丸めたらきれいな丸い団子になるのか。どのくらいの大きさだとうまくできるのか。力加減、形のバランス。泥と水の調合具合。

競い合って工夫し、勝てたときの喜び。頑張ったけど負けちゃった悔しさ。うまく作れず壊れてしまって競争に参加さえできない悲しさ。友だちに手伝ってもらって一緒に作る楽しさ。

春には水たまりに小さな蛙が飛び込む。秋にはトンボが飛んできて卵を産み付ける。夏の暑さには泥団子はあっという間にひびが入り、乾燥してしまう。冬の水たまりには氷が張る。泥に手などつけたら、あかぎれが出来るほど体温が奪われて切れるように痛い。

いかにたくさん作るのか。数を人と比べたり、教えあい協力して作りしながら学びあうことを「感じ」ます。

(3に続く)

学び

Photo : Midori Komamura

(4) 頭が良くなる早道は「ちゃんと遊ぶこと」=「イメージの貯金」

教科制の学びのあり方でここまで来ている生徒たちや、これからその学びに入っていく生徒たちを見ていて、大きな懸念が私の中には打ち消せないままずっとあります。

私のような個人指導の教師のところに指導を求める生徒さんは、いわゆる「多人数学級」である学校のクラスや塾の一斉指導ではついて行かれず混乱している子が多いのです。そういう子たちを見ていると、まずみんなに共通するのが「勉強が嫌い」なこと。

勉強が出来ないで心配した親御さんに背中を押されてやってくるのでしょうか。初めて会うときはとても硬い表情で、テストを見せてもらうときはしかめっ面。下を向いて暗い表情の子が多いのです。

けれど、一緒にやっていて「出来た」「わかった」瞬間、どの子もぱっと表情と目が輝きます。嬉しくて笑ってしまう子もいます。「そうか、そうだったんだ」とみんなつぶやきます。

そういう子に共通して言えることは、「なぜ、そういう答えになるのか」がイメージできない、ということです。勉強が嫌いなのは、ちゃんとした学びと習い方を与えられずに周りから押しつけられる形で苦しいからなのです。

具体的には本章の第2節で記述しますが、問題と答えを結びつけるのには、まずイメージの力が必要です。与えられた問題や課題の文章を読む。そこから「答え」を導き出すのに必要な材料を選び出す。その段階ですでに、「何が材料として必要なのか」とイメージする必要が出てきます。

ところが、今の子供たちはこの「材料を選び出す」ことが出来ません。「作者はどんな気持ちでしょう」と問われたときに、その「気持ち」を表現する言葉を知りません。もっというと、そういう状況ではどんな気持ちになるのか、という経験が少ないので、状況と気持ちを結びつけるイメージがわかないのです。

イメージがない

Photo : Midori Komamura

もともと、学校は「教科・単元・領域ごと」の枠で仕切られた勉強が当たり前でした。この教科ではこういう内容について、この学年ではここまで、その次にはここまで教えなさい、ということがはっきりと決まっていました。つまり「学習指導要領」という「教えるべき内容の基準」をいうものが全国統一されてしっかりあって、それを身につけさせるのが学校の勉強でした。

まず、これを崩すことが大変でした。

数学や国語という教科を教えない。だから、内容の基準もはっきり決め出すことが出来ない。その時その時に必要な場面での学びがあるのがいいのであって、こちらから教材を用意して「教える」ことはNG。

けれども実は、学びの要素を生徒たちの意識や流れに上手に組み込むのかは教える側の創意工夫にゆだねられる。つまり、今までのように指導要領一冊持ってその「段階」に従った内容を教えるだけではダメで、生徒の見取りの力、学ぶ内容を組み込み課題に沿ってヒントを与える力、教科という枠を越えた膨大な知識、様々な技術……先生たちにもものすごい学びと実力が要求されます。

さらに「教える」という行為が一見すると無いわけで、「何もしていない」ように見えてしまう。「教える」プロであった先生たちが混乱するのは……それもずっとそれでやって来た先生方が混乱するのも無理からぬことでしょう。

さらに、先生方はそうして自分の専門教科の教え方を身につけているわけで、自らがこの「教科学習」での優秀な成績を収めて大学までの学びを終えた人たち。教科を越えた学びをイメージするのは、確かにものすごく難しかったことなのです。

私自身は「生活単元学習」について新卒で学ぶことが出来、それ以来自分の専門教科である音楽や英語の授業でもこの考えを取り入れて、数学や国語、社会などの他教科の要素を取り入れた学びを展開していました。けれど、養護学校から小学校に転任して最初の研究授業では、そういう私の授業は「教科らしからぬ」「養護学校的な指導」という「ご指導」をいただくことになり、やはり教科的な指導になれた先生方には理解してはもらえなかった経験があります。

「総合学習」の考え方が学校に入り始めた頃。これと同じような混乱が学校の中に起こっていました。それも降ってわいたように「これから総合学習というものが入ってきます。先生たち、それで教えてください」という「おふれ」が来た後で、先生たちはカリキュラムの組み直しとそれを身につけるための研修や研究会で必死。

けれど、自らがそういう学びをしてこなかった先生たちが、今までの教え方で毎日の授業を進めながら、研修・研究会でじっくり新しい学びである「総合学習」について身につけるだけの余裕が許されるものでしょうか。正直いって、かなりの混乱状態のままでこの「ゆとり教育」は見切り発車……という感が強かったように思います。

今現在、この総合学習の学びのあり方をしっかり「イメージ」することができ、その本当のあり方や意義を理解できた先生方は、第3章の実例のようにすばらしい成果を上げつつあります。しかし、どうあっても教科制という枠組みの呪縛から逃れることの出来ない大多数の「学校のあり方」から総合学習は見放され、削減の一途にあります。

イメージしてみてください。
このまま、教科制というベルトコンベヤー式の学びを続け、「頭に詰め込むだけ」の学びを続けること。
しっかりと総合学習本来の意義をしっかり見直し、見据えて教育の体質改善に真剣に取り組むこと。

どちらの方がこれからの社会や未来を担う子供たちにとって本当に必要な学びのあり方なのでしょう?

子供だけのミーティング

Photo : Midori Komamura

目次

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PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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