笑顔の記事

学校ではテストのあとに、答えを言ってやり方を一斉指導したらそれで終わりです。それ以上の指導の時間がないからどんどん次の勉強に進みます。だから、出来ない問題を見直すことすら子ども達はしないことが多いのです。×になった問題は、1か2かも見分けのつかないままに「だめだった問題」として子どもの劣等感を増幅する原因になってしまうだけです。

ある程度自分で学び、自分でわかる「成績優秀な子」は、この見直しを自分でして、欠点を修正することも出来るのでしょうが、自分でそんな事が出来る子はほんの一握りなのです。

ですから、それを大人が一緒にやって上げるのです。
「あ……この問題、ここが惜しかったね!」
「あれ?マイナスがここ、落ちてるじゃん!」
「ここ、内容はあっているのにね〜。漢字で×されちゃってもったいないなぁ〜。」
そう言いながら、一緒に「なぜ間違えたのか」を見直し、「わかっていたのに間違えた」問題には、みんな◯をしていく。

……そうすると、多分、ほとんどの子どもは「うっかりミス」による減点が20点ほどもあるんです。

その「うっかりミス(わかっていたのに間違えた)」による減点を、本来点に足してやる。
つまり、子ども達に「実力点」を出して見せてあげるのです。

すると……
「え〜〜〜〜〜!、自分は、こんなにできたの?こんな点、とれるの?」
たいていの子はそう叫んで、目の色が変わってきます。

一例を挙げましょう。
Aちゃんは、家庭教師で教えているときは、とても出来がいいお子さんでした。
平均80とってもおかしくない力を持っているのですが……実際は平均60〜70の得点なのです。
教え始めてから最初のテストも、「これなら平均75は行くだろう」と思っていたのに、ふたをあけたら60点。

なんでだろうなぁ?
そう思って、一緒に見直しをしながら話をしました。
まず、見直しをしてテストの後半になると得点が落ちることに気が付きました。
「なんで?時間がなくなるの?」
「ううん、あのね、テストの後半になると、ものすごく眠くなっちゃうの。」
……そうか、後半になると集中力が切れちゃうんだ。

「そっか……でも、テストで必死になっているのに眠くなるって珍しいよなぁ。」
「う〜ん、なんか、自分は数学とか全然だめって思っているから……問題見るだけで眠くなるの。」

Aちゃんは、決して「だめ」じゃないんですが、妙に自己肯定感が低い子でした。その理由もよくわからなかったのですが……次の言葉でその理由がわかりました。

「テスト帰ってくるとね、ものすごく怒られるの、出来が悪いから。だから、お母さんに見つからないように隠しておくんだけど……。」

そっか。
この子は、点数でいつも判断されちゃっているんだ。
だから、「悪い点を取ること」に対しての恐怖感と緊張感が、逆暗示をかけちゃっているんだ。

お家の人の「何、この点?もっと頑張りなさい!」という気合いは……実は、いかに多くの子ども達に「自分は出来が悪いだめな子なんだ」という悪い暗示を掛けるキーワードになっていることに気が付いていない親御さんがとても多いのです。この言葉は、「悪いイメージ」を子ども達の中に植え付けていて、子ども達に意欲を持たせるどころか、ダメ人間だと教え込んでいるようなものなのです。

なんと、その子の数学のうっかりミスは「45点」もありました。
そうして出してあげた実力点は100点に近いのです。
その点を見た途端に、それまであきらめから失われていた目の輝きがぱっと戻り、表情の明るくなったその子はこう叫びました。

「え〜〜〜、なに、私、こんなに出来るんだ!やだ、もう一度テストやり直したい!」

「実力点」によって、「自分がここまで出来るんだ」というイメージを持つことの出来た子は、そこで自己評価を改めるのです。親や学校から与えられた「点数が悪いから出来が悪い」というイメージを払拭することが出来るのです。

そうしてその「実力点」に近づける努力をはじめます。自分に対しての悪いイメージを良いイメージに切り替えることで、「より良いイメージを目指せる可能性」を子ども達は得ることが出来るのです。

良いイメージを持ち、よりよい自分への目標が持てるようになればあとはそれをめざすために努力しはじめます。だって、お家の人に怒られているだけの自分よりも、そっちの方が誰だって嬉しいじゃないですか……。誰だって、怒られるよりも誉められたい。認められたいのです。わけわからないけど頑張って来たのに、わけわからないから出来なかった。けれど、「うっかりミス」に気をつければもっと出来るんだ、とわかり、そのイメージを持つことが出来たら、そこに向かう気持ちが当然わいてくるのです。

テストの点を見て怒る前に。
お家の方はどうか、その「中身」を見てあげてください。
ご自分のお子さんたちの「実力」を見てあげてください。

たったそれだけで、その「実力」を感じて励ますことで、お子さんたちは「よりよい自分」に向かうエネルギーを受け取ることが出来るはずなのです。多分、ただ叱っているより親も子どももよっぽど気持ちがいいはずだと言うことは、容易に「イメージ」できることだと思います。

「結果点」ではなく「実力点」で子ども達を見てあげてください。
それだけで、絶対に子ども達は変わってきます。

そしてそれは、テストのみならず、生きていくさまざまな場面で必要なことなのだと思います。

虹

Photo:Midori Komamura

つまり、「よい成績」のために必要な「正しい活用」のところで「なぜ」がわかっていないとつまずいてしまうのです。これは、公式を丸暗記することでは無理なのです。いくら「教科書の公式をちゃんと覚えてきなさい」といっても、その「なぜ」の部分をイメージできないと応用の問題は決して解けるようにはならないのです。

速さとは。「ある単位時間に進む距離」のことです。
時速とは、1時間に進む距離のこと。分速、秒速、すべて同じ考え方になります。
「速さはどのくらいでしょう」という問いは、「この進み方だと1時間にどこまで行くことができますか」という問いなのです。だから2時間で5キロ進めるのだったらそれを半分にすればいいのです。

こういう文章問題を解くときに、「図や表に書いてみなさい」という指導はよくなされることです。けれど、この「図や表に書く」という指導をする前に、「なぜそうなるのか」がわかっていないと図も表も書けないのです。つまり「イメージ」が出来ないので、そのイメージの表出である図も表も書けるようにはならないのです。

今、中学生の学習指導をしていて強く感じるのがこの「なぜ」がちゃんとわかっていないと言うことなのです。計算はちゃんと出来る生徒なのに、文章問題がわからないから成績のなかなか上がらない生徒が結構います。問題文を読んでそれを「理解」し、「表や図に表現」することができず、その段階でつまずいている生徒がとても多いのです……。

それらの生徒のつまずきの根本にあるものは何か……といったら「その言葉が何を表しているのか」「なぜ、そういう計算式が成り立つのか」という本当に基本的な「イメージ力の欠如」。

それが小学生の低学年から培われていたら、今こんなにつまずくことがないのに……と見ていてものすごく残念に思います。高校入試を目前にして出会った中学生たちに、この「イメージと現実を結びつける力」……本来小学生で養って育ててくるべき力を、そこからつけるのはものすごく困難なことなので……。

けれど、「イメージできること」が「わかった」という感覚といったん結びついたら。
そこから先、学ぶことは面白くなります。そして自ら学ぶ気持ちが育ってくるのです。

「そうなんだ!そういうことなんだ!」……「なぜ」が見えると、子供たちはそう叫んでぱっと表情が明るくなります。

「なぜ」ということをイメージできるようになったら、「勉強しなさい」といわなくても自分から学べる子供になります。それはすぐには「点数」には結びつかないかもしれないが、そこから先「一生が学び」である人生において、子供たちには大きな力になり、宝物になることでしょう。

では、現実問題に立ち返ってみます。目の前にはもう高校を目前にした「イメージ力を養ってこなかった」中学生がいます。その子たちをどうしたらいいのか、どうしたら効果的に少しでも「出来る喜び」に近づけるのか……。

そこをここからあと、実際の例を元に記述していこうと思います。

学習

Photo:Midori Komamura

「あ……私、これだったらわかる。」

娘が選んだのは小さなクリのような形をしたバッヂで、お地蔵さんのように胸の前で手を合わせていた。
このバッヂは「希望のたね」という。

今回の東日本大震災が起きた3月11日以降、娘と2人でずっとラジオなどで情報を得ながら「出来る事をしていきたい」と思い、募金箱を見るたび募金をし、支援物資を募集している情報には自分たちで提供できる物はないかと聞き耳を立てた。

私が所属しているバンドでもライブで募金を集めて送ったし、取材活動や地域のボランディア団体への参加など、 さまざまな形で「応援の気持ち」を表してきた。また、支援活動に取り組む人や団体があるとその活動を応援する気持ちで色々なグッズを購入もした。

そういう被災地を応援する時によく見られるのが「頑張ろう」という言葉。
「頑張れ」じゃ人ごとみたいだし上から目線。それだったら一緒に、という気持ちを込めて「頑張ろう」かな……というそんな思いがこもっているのだろうけれど、娘はそれもやっぱりあまり気に入らないようだった。

「だってね、あまりに仰々しいもの。」

気合いを込めて頑張る、という感じはあまり好きではないという。その気持ちはよくわかった。いかにも応援しています、というそういう「気張り」は何となく肩が凝る。だけど、このバッヂが生まれた背景と、その想いを読んだ時にわたしもものすごく共感し、そして目の前に迫る東北行きにこれを持っていこうと思ったのだ。

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娘も、たぶん同じ思いだったのだろう。「うん、これだったら私もつけるよ。」そういって1つ手にとると自分のバッグにそっとつけた。

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このバッヂをデザインしたのは、イラストレーターの「ゆきつぼ」さんです。
彼女は、長野県栄村の出身です。

長野県栄村。ここはあの3月11日の東日本大震災のわずか半日後……3月12日の午前3時59分に発生した震度6強(M6.7)の地震に襲われたのです。「長野県北部地震」と命名されたこの直下型の地震は、あの東北がなかったら衝撃的な災害として報じられたに違いありません。

参考:長野地震(M)6.7被害の様子【3.12栄村大震災】
   津南町・十日町市の地震被害【栄村大震災 震度6弱】

けれど、東日本大震災のあまりの被害と衝撃度の大きさに、ほとんど取り上げられることがないままに 「忘れられた被災地」となってしまいました。事実、今回の被災地巡りで出会った人たちは「長野県北部地震」のことも「栄村」のこともまったく知りませんでした。

けれど、この「過疎地」栄村は忘れられた状態を嘆くことなく、淡々と地域が力を合わせて復興に向けて動いています。このゆきつぼさんの「希望のたね」もそんな中から生まれたのです。(ゆきつぼさんのご実家も、栄村で今回被災しているのです。)

わたしがこの「希望のたね」のことを知ったのは、被災地巡りを計画してその準備を進めていた9月はじめのことでした。Facebookのお友達がこの話題を紹介していて、気になってゆきつぼさんのブログを見に行ったことがきっかけでした。

そこには、この「希望のたね」が生まれたきっかけ、そしてゆきつぼさんの想い、それから「希望」についてがやさしく静かな言葉で語られていました。

kibounotane.jpeg「希望のたね」のキャラクターを作るとき、本当に一生懸命考えたのです。
それは、自分自身の実家も被災しているということ。
当たり前だと感じていた故郷の姿が、一変したということ。

このつらい気持ちを、ただつらいと吐き出すだけではなく、
何かにしたい。

だって、本当につらいのは、そこに住んでいる当事者たちだから。
自分も実家が被災した被災者だ、つらいんですとは、到底言えない。
私には、私の家が、他にある。

だからこそ、このどっちつかずの気持ちを、
だからこそ、そんな自分こそができる何かを、
カタチにしていくべきではないのか。
そう思いました。

(「ゆきつぼの想うツボ」8月7日「希望のたねに込めた想い」より抜粋)

私も……今回の震災に当たって、本当にやるせなかったのです。自分は被災したわけではありません。でも、その地にいる人たちの想いはイメージできました。自分の今までの経験や体験に重ねても、とても追いつかないくらいに哀しい気持ちなのだろう……辛い気持ちなのだろう。

だけど、自分にはお金も力もありませんから、何もできません。それどころか、自分自身の生活に追われて精一杯生きるだけの毎日でした。

それでも。人として、哀しい思い、辛い状況、苦しいところにいる人たちのために何かがしたい。それはしかし、娘が言うように「頑張れ、頑張ろう、一緒に歩むから!」という激励とか励ましではなくて……どちらかというと、心を寄せる、そっと寄り添いたい……そんな思いでした。

確かに、被災地は今大きな被害を受けて大打撃の中にいます。けれど……生きる、ということにおいては誰もがそれぞれに必死なのです。生きるのに精一杯で、お金も時間も知識も力も何もない自分が、「人のために力を貸す」ことなどは出来ません。

被災地への想いは、この先の日本への想いにつながりました。それはまた、ここから先の明らかに厳しくなる情勢の中に生きる子ども達への想いにつながりました。子ども達の未来に希望を持ちにくくなっていたのは震災の前からのことでした。子どもだけではなく、大人たちもだいぶ諦めていたように想います。諦めて投げ出して、変わらない、どんなに頑張っても未来に夢など持てない……そんな人たちはかなり多かったのではないでしょうか。

それが今回の「震災」という、明らかに未来に大きな影響を及ぼす「被害」が目の前にひろがった。この危機は……尋常じゃなく、無くしたものは大きく、そしてみんなで踏ん張らないときっとつぶれてしまうに違いない……日本の「未来」は。

多くの人が被災地に心を傾け、さまざまな形でその支援のために動き始めました。「頑張れ」「頑張ろう」……その想いはしかし、被災地にむけての激励だけではなかったのじゃないかと私は想うのです。

これまで、未来を諦めかけていた大人たち。もうこの先変わりっこない。未来に夢など無い。そう想っていた人たちが、被災地の惨状とそこからの「復興」という具体的な目標を目の前に突きつけられた時に「頑張らなくては!」と思ったのではないでしょうか……。

つまり、「頑張れ」「頑張ろう」は、被災地にむけての言葉と同時に本当は未来を諦めたくなかった自分への激励の言葉でもあったのではないのでしょうか?

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こういうやるせない状況に陥った時に、「頑張らなくちゃ」と気持ちに活を入れることは、1つ前に進むための手立てです。けれど、あまり「頑張って」進むことは、長続きしません。

私が被災地の人たちと「共に頑張って」未来を作りあげよう、という気持ちにならなかったのは、これまで日本という国全体がとにかく「頑張って」ここまで来たからでした。頑張っても頑張って、もっともっとよい未来になってきたかというと、実はそうではない。逆に頑張ることに意味を感じられないような社会、政治、国の有様に諦めムードが漂っていたように想います。

だから私は、今回の被災地に対しても、気持ち的に応援したいと想いましたが、「頑張って」何かをしようとは思いませんでした。日本の未来、私たちの明日、そういう面で考えた時に、一瞬即発的にエネルギーを爆発させて頑張るよりも、自分が自分のままで気張らずに力を入れずに出来る事、しかもずっと続けられる事をやっていこう、とそう想ったのです。

それは、うつ病や息子の不登校、親の介護問題などが一気に自分にのしかかってきた時期に……頑張っても頑張っても先が見えず、どんどん力も気力も失われていった自分の姿と今の日本の姿が重なったからかもしれません。本当に苦しかった時、自分のこの先を思い描けなかったあの頃に、私が掴んだ「次の一歩」への道は……「私は私でいいんじゃないか」ということでした。

今、自分のまわりには大切な子ども達がいて、自分は生きていて、ちゃんと生かされている。
まわりの人のためとか、社会のためとか、学校のためとか生徒のためとか、ものすごく頑張ってみても自分自身がきちんと自分の足で立って笑顔でいられなければ、必死になっている自分をまわりは心配して結局はみんなが苦しくなるだけなんだ……。私が自分の子ども達の笑顔に救われ、明日に向かう力をもらえるように……私もまた、自分の笑顔で感謝と喜びとともに生きて周りの人たちと一緒に幸せになっていくのじゃないだろうか。

今その時を自分の足で立って、自分らしく生きる事。
それが何よりも「明日」につながっていく一番の力になるんじゃないだろうか。

私自身の身に起こったこと、それは震災と比べようがないのかもしれませんが、今回の被害に限らず人は生きていく上でものすごく大きな波や自分の足場がぐらつくような想いや、やりようのない深い悲しみの胸の痛みを感じて行きます。それを1人1人が乗り越えて、毎日をしっかり生きること……生きていること、生かされていることの幸せを受けとめて、それに感謝して、自分なりに生きる事……それが何よりも「明日」への大きなかけはしになるのではないのでしょうか。

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「希望のたね」のデザインを見た時にものすごく心惹かれたのは、胸の前で両手を合わせて静かに微笑むお地蔵さんのような穏やかさでした。力みも気張りも全くなく、ただ静かにそこにいるイメージでした。そしてその頭のてっぺんから小さな芽。やがてそこからは葉が出て伸びて、花が咲くかもしれないし、大きな木に育っていくかもしれません。「小さな芽」は、この先を予感させる「希望」なのです……。

自分で出来る事をやりながら、自分のままで生きる事。
今を生きて、そうしてそんな「今」がつながっていったら……「もっともっと」と先ばかり見ず、充実した今を生きて、それが「笑顔」につながっていったら。

まっかな夕日が翌日また、朝日としてのぼってくるように「今」は必ず明日につながっています。
今を生きる事で明日の希望が芽を出し、葉を茂らせ、やがてたくさんの花を咲かせ、実を結ぶことになっていくのだと……そう想うのです。

今を生きる事……それは明日のために、日本のこれからのために、さらにそれは子ども達の未来のためにとつながっていきます。

それぞれの人が毎日を生きて、そして生かされていることに感謝すること。
それが明日への「希望」を育てることになるのです。

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被災地をめぐっての三日間の記録のまとめ、長い文章におつきあいくださりありがとうございました。
私はこのあと、10月の連休を使って長野県栄村と十日町……長野県北部地震の被災地を子ども達と訪れる予定です。そこにまた、感じるところがありましたらお伝えしようと想います。

この文の中から少しでも、皆さんの「明日」につながる希望が見つかりますように……。

*なお、「希望のたね」は現在も販売中です。ゆきつぼさんのブログに販売しているところが書いてあります。もし、あなたも「希望」を手にしたいと想ったら。そしてその種を誰かと育ててみたいと想ったら。どうぞ是非手にとってみて下さい……きっと優しい気持ちになれると思います。

今年の夏休み。地元のお祭りと花火に合わせて、姉妹都市である会津若松と、そこで避難生活を送っている大熊町の子ども達に「夏休みをプレゼントしよう」というプロジェクトを行いました。

お祭りの大通りで一緒に踊ったり、特等席で目の前に上がる花火を見たり。
会津の子ども達も、大熊町の子ども達も、来たばかりの緊張した表情がどんどんほぐれてたくさんの笑顔の花が咲きました。

けれど、その子ども達を乗せたバスを見送るとき、とても複雑な気持ちでした。
「大熊町に帰りたい」「福島大好き!」
……あなたの夢は?という質問への答え。ふるさと福島への想い。
福島で待つ家族に、「食べるもの」をおみやげに抱えて帰って行った子ども達。

大熊町の子ども達は、原発の影響でいまだに家に帰ることすら出来ず。
会津若松では、放射能の影響のほとんど無い地区にも限らず今年の観光はかなり落ち込んだと聞きました。
今回の旅の復路に、会津に寄って帰ろう……そう思ったのは夏休みの子ども達の面影が残っていたからでした。

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帰路

仙台空港をぐるっと回って、仙台空港のインターから高速に乗り、仙台とは別れを告げました。
被災地をめぐる旅の3日目、この日は二日かけて走り回った距離を一気に戻らなくてはなりません。ですから本当はもっともっと行きたかったところ、会いたかった人がいたのですが、帰ることに専念するように走りました。

けれど、帰りには会津若松に寄ろうということだけは決めていました。
仙台空港をでたのが11時半頃。そこから高速道路を走って仙台を横切り、東北道に入って来たときと同じルートを南下し、そして郡山の手前の郡山JCTから今度は磐越道新潟方面へのルートに入りました。

山あいの道を進んでいくとやがて左手に開けた場所。そして黄金色の稲穂が見事なその向こうには猪苗代湖。そして右側には会津磐梯山。美しい秋の光景です。
磐梯山に向かっていた磐越自動車道が大きく左にカーブを描き、目の前に会津の町が開けていきます。天気は快晴、空の青さと稲の黄色、そして山々のみどりの色が秋の色を鮮やかに描いていました。

会津若松のインターチェンジをでて会津の町の中に入って会津城を目指しました。お城に向かう通りは整備されていてこぎれいな町並み。大震災の時には会津は震度5だったようだが、道路に若干陥没などあった以外は内陸部で津波の被害もなく、原発から離れているから放射線の影響もなく、福島の中では被害はほとんど無い地域だったようです。

この会津若松が被害を逃れ、ほぼ無傷に近い状態であるのだったら、福島県の復興の先駆けになれるはずの力を持っていたはずでした。けれど、会津若松もまた大きな被害を受けることになったのです。

「風評被害」

これは、天災ではありません。地震でも津波でもないのです。地震と津波という天災によって原発が爆発し、放射線がひろがりました。天災が引き金になったとはいえこの原発の爆発は「人災」です。それこそ「想定外」といってひたすら東電が逃げの姿勢でいたことによってその被害や影響はどんどん拡がってしまいました。

けれど、原発から100キロ離れたここ会津若松はその影響すらほとんど及ばず測定値も問題ない程度のものでした。だから会津若松が盛り上がることで福島県も元気になれたはずなのです。

ところが。こんな記事があります。

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キャンセル相次ぐ観光地からの悲痛な叫び【福島・会津若松】

2011/4/22 17:52

会津からのお願い

3月11日以降、会津から観光客の姿が全くといっていいほど見られなくなってしまいました。

年間350万人の観光客をお迎えする会津若松市は、観光が主要産業といってもいいほどの重要な位置を示しています。しかし全国的に有名な「鶴ヶ城」、白虎隊で名の知れる「飯盛山」さらに、東山温泉・芦ノ牧温泉はキャンセルが続いています。そして、観光施設や土産物屋などからは、閑古鳥が鳴いて悲痛な叫び声が連日のように聞こえてきます。

今さら言うまでもなく、すべて原発による風評被害です。地震と津波だけであれば、次のステップに進むことができますが、この原発の影響は、簡単に乗り越えることができない大きな魔物なのです。(以下略)

全文はこちらから→4/22 Jcastニュース

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焦点/修学旅行 東北離れ/原発事故影響・余震を不安視
2011年05月25日

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修学旅行生の姿が見られない「会津藩校日新館」=17日、会津若松市

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修学旅行が激減し、空きスペースが目立つ駐車場=19日、会津若松市の鶴ケ城会館

 東日本大震災の影響で、修学旅行の「東北離れ」が進んでいる。北東北を訪れる中学校が多い北海道では、多くの学校が道内旅行に切り替えた。余震と福島第1原発事故による影響が大きな理由で、福島県内で予定されていた修学旅行は軒並みキャンセル。東北の中でも行き先を変更する学校が数多く出るなど、事情が一変している。

◎例年の1割未満?/回避の動き、被災地以外も……

(以下略 全文はこちら→河北新報社 5/25記事

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風評被害 観光直撃

参道ガラガラ 会津若松

「客戻したい」懸命の努力

 東京電力福島第1原発事故による放射能汚染の風評被害で、年間350万人にのぼる福島県会津若松市の観光客が激減しています。観光が基幹産業の一つの同市にとって大きな打撃で、賠償要求とともにお客を取り戻そうと懸命な努力がつづいています。

 白虎(びゃっこ)隊自刃の地、市の中心部東にある飯盛山の参道には、観光客の姿がほとんど見られません。土産物店を経営する社長は、「ここはゴーストタウンだ。例年の2割しか客がこない。私の店も売り上げガタ落ちです。店員を6人使っていたが、今は自宅待機させている」と肩を落とします。

 その一方で、固定資産税や消費税が重くのしかかり、業務用で基本料金が高いガスや水道料金は節約しても大きな負担です。

 同地の土産物店や関連業者などでつくる飯盛山商店会はこの間、「地域経済活動は壊滅的だ」として、東電に損害賠償請求に応じるよう要求。県や市に小中学生の教育旅行(修学旅行や体験学習、林間学校など)の推進、税の減免などを陳情しました。

修学旅行中止

 「修学旅行先として会津若松市に32年間ずっときていた首都圏のある中学校が、父母の一部から『今なぜ会津なのか』と異論が出て、変更になった。がく然としました」

 こう語るのは、会津若松観光物産協会(258会員)の渋谷民男統括本部長です。

 同市観光の軸となっている教育旅行の受け入れは、昨年1081校、約8万人だったのが今年は激減し、4~6月に県外27校、秋の予約44校、全部で70~80校と1割にも届きません。

 市観光公社の会津鶴ケ城天守閣グループリーダー、新井田信哉さんによると、例年だと鶴ケ城の観光客100万人のうち60万人が天守閣(有料)まで上ります。しかし、大震災・原発事故直後から1カ月ぐらいは7割減、その後、重要文化財などを一挙公開する「歴代城主展」など企画展も充実させる努力を重ね、やっと3割減まで戻しました。

(以下略 全文はこちらから→2011年7月27日(水)「しんぶん赤旗」

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私たちが訪れたのは9月12日、月曜日。平日のせいかと思ったのですが、それにしても会津城(鶴が城)の駐車場はがらがらで、設備は整っているし地震の被害も影響もほとんど無いのに他の被災地よりも寂しい感じでした。

会津に着いたのが14:30。仙台を出てからお昼も食べずにここまで来たので、おなかがすいて「まず何かお腹に入れよう」と鶴が城の休憩所で軽食を食べることにしました。

食べたのは会津ラーメン。しょうゆ味で和風のだしがきいてあっさりした美味しいラーメンでした。そのラーメンを食べながら、見るとはなしにそこで流れる鶴が城の紹介ビデオを観ていました。その歴史を語るビデオを観ているうちに、私は何となく、この会津のお城や地域の人々の今が、江戸時代の最後の闘いに重なってくるように思えてきたのです。

会津城(鶴が城)は、その前身が黒川城といい、伊達政宗や上杉景勝、保科正之などの名だたる名将が治めてきました。江戸時代末に幕府軍として闘い、あの白虎隊の悲劇などは今も語り継がれる物語です。

幕府軍と政府軍は、ずっと小競り合いを続けて来たものの、慶喜の大政奉還と江戸城の無血開城とによって大きな戦が起こることなく政権は静かに天皇の元に戻りました。けれど、結局双方それではおさまらず、会津での決戦となったわけです。新政府軍の最新兵器による攻撃にもこの城とそれを守る人たちは1ヶ月も堪えました。

その江戸時代の最後の闘いでぼろぼろに傷ついたものの、会津の象徴としてこの鶴が城は地域の人々に愛され、再建され整備されて今もなおその姿を美しく保っています。

天守閣にのぼれる入場券を買うと、特別記念展をやっているということで美しいお箸を記念にいただきました。赤と黒のグラデーションが美しく紋の入った立派なお箸です。「赤と黒」の色もお城にちなんでいます。入った中の展示は、とても充実していて見やすくわかりやすいものでした。5層の天守閣のてっぺんで、会津の地が一望できました。
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明るい秋の日に照らされて、山のみどり、町並みの色が輝いていました。静かでした。そして何よりもこの町には温かさと誇りと美しさがありました。

途中で私はカメラのレンズキャップを落としてしまい、半分諦めながらも入場券売り場で聞いて見ると、「それはさっき私が拾ったのだと思います。入口の観光案内所に届けておきました。」丁寧な対応に感謝して案内所に取りに行くと「ああ、これですよ、どうぞ。あってよかったですね。」と笑顔で手渡してもらえてすごく気持ちがよかったこと。

息子が会津名産の絵ろうそくで、欲しい絵柄があったのでそれをを探して販売元を訪ねてみたら、そこは小さなお家。家族で製作して出しているようだったのですが、そこにも欲しい柄がなかったのですが「じゃぁ、ここに行ったらあるかもしれないよ」といろいろと丁寧に教えてくださったこと。

風評被害で観光客もまばらでしたが、そこにいる人たちの優しさと温かさに触れるたびに会津の町並みがなぜこんなにも美しいのかがわかったような気がしました。

江戸の末期の闘いでぼろぼろに傷つき廃城となったこの鶴が城。けれど町並みはその城をよみがえらせそれを中心に広がり、その城を誇りにして人びとは生活してきました。その闘いと、風評といういわれのない攻撃に対して戦っている会津の人びとの姿は何となく重なってきます。そして、幕末から明治の動乱期を乗り越えて今の世に堂々とたっているこの鶴が城のように、風評被害になど負けずに会津はまたちゃんと立ち上がるんだ……という想いをこのお城が象徴しているように思えてきたのです。
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お昼の時に見たビデオ。それからお城の中の展示。お城や町で出会った人々の想い。
会津にいた時間は本当に短かったのですが、その短い時間にも「会津は負けない、会津は立ち上がるから」というこの土地からのエネルギーのようなものをあちらこちらから感じたのです。

そう、まるであの小さな起き上がり小坊師のように………。

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会津のパワーを見せてくれる一つの資料があります。会津若松市のHPからの転載です。

会津若松市風評対策キャラバン隊があなたのまちに参上します!!
最終更新日:平成23年7月26日

東日本大震災からの復旧・復興のため、会津若松市の農産物や、民芸品、加工食品を展示・即売したり、会津地域の観光PRを行う会津若松市風評対策キャラバン隊が東京をはじめとするみなさまのまちに伺います。

「会津を応援したい!」皆様、お近くにキャラバン隊が参りますので、どうか応援をよろしくお願いいたします。
※本事業は福島県緊急雇用創出基金事業「風評対策キャラバン隊活動事業」により運営しています。

実施期間  平成23年7月1日から平成24年3月31日

(映像が表示されない場合はこちらから)→会津若松市風評対策キャラバン隊出発式

記事全文はこちらから→会津若松市風評対策キャラバン隊

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三日間の旅で訪れたい場所はすべてまわりました。本当は、時間に余裕があったら帰り道で高速を降りて、3月12日に日を一日またいで大地震に見舞われた長野県北部の栄村を通って帰ろうか……という気持ちもありました。
(最初にアップしてある地図参照)

栄村の被害については、東北の大震災の影であまり報道されず、今回も出会った人たちほとんど知らなかったのが現実でした。けれど、東北各地をめぐるうちに息子や娘と一緒に語ったのが、「じゃぁ、私たちの長野県の栄村の今はどうなのだろう?」という想いでした。

様々な被災地の様々な被害の形を見てきました。そこに生きる人たちの生活の一部を感じて来ました。そして、そこから被災地がこの先どうあったらいいのか、私たちがどう支援をしていったらいいのか、という部分が少しずつ見えてきました。それは、今回の被災地だけではなく、「日本の社会」のこれからにもつながるとても大切なもののような気がしています。

そう思ってきたときに、栄村の姿やあり方からも、大きなヒントを得られそうなそんな気持ちがしています。

「10月になったら今度は、栄村とその周辺にも行ってみよう」

帰りの車の中で、ちょうど上りはじめた「中秋の名月」を眺めて帰路をひた走りながら、三人でそう決めました。

(この区間の写真はこちらから→東北の旅ラスト〜会津若松9/12
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被災地をめぐっての3日間~6「見えてきたもの」 に続きます。

8月15日……今日は「終戦記念日」ですね。
明治の開幕と共に、日本は「鎖国」による世​界の中での遅れ(鎖国の時代のものが必ずしもすべて「遅れている」とは私は思っていませんが)を帝国主義、富国強兵を唱​えながらあっという間に取り戻し、世界に名だたる強国として列強に肩を並べながら突っ走ってきた日本が、決定的な打撃を受けて敗れた日​。

それは、日本が生まれ変わる一つの大きなきっかけの日でもありま​した。

敗戦後にも幸いにして他国の支配下に置かれることなく立ち上がって生まれ変わり、世界に誇る「平和憲法」を生み出した日本は、敗戦後、ふたたびめ​ざましい復興を遂げました。人と人との絆、ものを大切にする心……日本人の持つよい気質を最大限に発揮して日本は高度成長を遂げました。
けれどふたたび世界の頂点に近づいてきたところで、いつの間にかそこに「驕​り」が生まれ、大切なものを置き去りにしはじめていた日本。
人の絆・ものを想う心。季節の移り変わりを愛おしむ心、自然とともに生きる力、そして大地や人やものに感謝する心、畏敬の念。ひたすら上を目指す毎日の中で、そういうものに気持ちをむける余裕を失ってしまって、心を病む人、自ら命を絶つ人が増えていく状態に対して為す術もなくなってしまっていました。

今年、日本はふたたび大きなきっかけをもらいました。

未曾有の災害に見舞われ、多くの命……人やものの命が失われました。生活が破壊され、故郷を失い、その一方で高度成長の驕りの固まりである「原発」によって日本は私たちを育んでくれているこの世界や地球に対して「加害者」にもなってしまいました。

これは、ある意味「戦争」による痛手と似たように思います。
戦争では多くの被害者がでます。その一方で戦い、人やものを踏みにじる加害者ともなるのです。戦争のあとには何も残りません。それは勝っても負けても「財産」になるものは何もない。そして今年の3.11の災害と、その後に起こってきた物事からも同じむなしさや悲しさを感じます。

けれど、そのどん底の状態に陥った時に、私たちは多くのものを失って、そして同時にその哀しみの涙によって自分たちの目や心を覆っていた「傲慢さ」も共に取り払われたのではないかと思うのです。

生きる、という事に対して余計なものを今まで負いすぎていた私たちは、いつの間にか「命」がもっとシンプルで美しく、何よりも大切な宝物であることを見失っていたように思います。生きる事、それ自体が私たちに与えられた最高の名誉であり、特権であること。それを感謝して受けとめ、享受すること。…・そのシンプルで何よりも大切な事を、あの哀しみとその後に続くここからの不安の中で思い起こす人がとても増えてきたように思います。

photo:Midori Komamura

写真は古い​きり株の上に芽吹いた新しい芽です。今の日本はこの状態なのだと​私は思います。今生きている私たちは、この過去の復興のイメージ​を持ちながら新しい復興の時に関わることができるのです。

失われたたくさんのものを、その犠牲を犠牲のままにしないこと。過去の事例を思い起こしながら、この先まだまだ続くたくさんの困難に立ち向かう勇気を持ち、たくさんの犠牲を私たちの心のエネルギー源として、この先の世界をふたたび笑顔と喜びと感謝に充ちたものに育てていくこと。

私たちには今、その事に関わる権利が与えられているのです。
この先の世界を創りあげるのは、私たちなのです。
それは私たちに与​えられた最高の特権だと私は思います。

3月11日。
終戦記念日が平和を目指す第一歩の日になったように、この日を哀しみの日で終わらせず、いつの日か振り返った時に、復興の歩みの第一歩を記した日である「復興の日」とできるような日本であればいい………。

終戦記念日の朝、そんなイ​メージがふと浮かびました。

・*:..。o○☆*゚¨゚゚・*:..。o○☆*゚¨゚゚・*:..。o○☆*゚¨゚

付記:あの3.11以来、この連載本編はストップしたままです。あの衝撃とこのあとのことをイメージした時に、わたしもものすごくいろいろなことを考えて本編の続きを書くどころではなくなっていたのです。けれど、私の書いてきたことがこの先にも必要であることが見えてきて、また少しずつエネルギーをもらいはじめた今、少しずつ続きにむけての新しいアイディアを持ちつつありますので、再び書きはじめられそうです。再開後はまたよろしくお願いいたします。

Photo提供:「笑顔プロジェクト」HPより 女川第一中学校から見下ろした光景

Webマガジン【N-gene】ライターとして5回に分けて掲載し続けていた「笑顔プロジェクト」の記事の5回目を先ほどアップしました。

長野県小布施町にあるお寺、浄光寺副住職の林さんの取材をしてから「これは書かなくては、伝えなくては」という衝動に押されて記事自体はあっという間に書き上がりました。

いろいろあったけれど、とにかく、震災から丸2ヶ月後の今日、最終の5つめをあげて、「何ができるの?」と焦りの中にいる人たちや「今どうなっているの?」とわからないなか次第に忘れてしまいつつある人たちに、改めてその実際を知って欲しいと強く思って書いた記事です。

もしもこの文を読んで、共感したり何か考えるところがありましたら。
どうか、周りの人たちにも投げかけてみてください。

「自分たちは、被災地の人に背中を押されて必死でやっているだけです。」

そういう笑顔プロジェクトの人たちは、やっぱり同じように「自分には何もできない」と口にしていました。被災地の人たちの想いや辛さを解消することは、たぶんどんなにお金を積んでもどんなにものがあってもできないことなんだと思います。

でも、こんな風に「想うこと」……被災地の人たちに想いをよせること、忘れないでいること……それだけでも、1人1人のできるすごく大切な事なんだと、わたしは災害後のもろもろを見ながらそう想います。

そうして、災害で失われた命に学び、教えられたことを風化させないことが、被災地の人の心を明るくし、被災地だけではなく私たちの生きるこの社会全体を明るく元気に……正直、災害前にはかなりねじ曲がった状態だった世の中を少なくとも「おかしいところはおかしい」と気がつける状態にするきっかけになるのではないかと強く想います。

無くなった命は取り戻せない。
でも、心に残すことでその命は永遠を手に入れます。

数え切れないほどの被害者の命を私たちは受けとめて、そうしてこの先を生きる事。

それが私たちに出来るただ一つのことなのだと想います。

偉そうなことを言えるほど、わたしは何もできません。
けれど、こうして自分の想いを記述して提案し、それについてを「考える」こと……わたしにできる事はそれだけですが、それしかできませんが、それをし続けたいと想います。

本当に、自分の力の小ささを思い知らされた今回でした。
いろいろな意味で、自分には何も力がない。
けれど、できる事は……小さくてもできることは、自分にしかできないことは、絶対にあるはずだ。
それをしていくことだけはあきらめたくない。

……そう、強く感じました。

どうか、よろしかったら最初から最後まで読んでやってください。

【N-gene】記事
被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」
その1 その2 その3 その4 その5

(4) 頭が良くなる早道は「ちゃんと遊ぶこと」=「イメージの貯金」

教科制の学びのあり方でここまで来ている生徒たちや、これからその学びに入っていく生徒たちを見ていて、大きな懸念が私の中には打ち消せないままずっとあります。

私のような個人指導の教師のところに指導を求める生徒さんは、いわゆる「多人数学級」である学校のクラスや塾の一斉指導ではついて行かれず混乱している子が多いのです。そういう子たちを見ていると、まずみんなに共通するのが「勉強が嫌い」なこと。

勉強が出来ないで心配した親御さんに背中を押されてやってくるのでしょうか。初めて会うときはとても硬い表情で、テストを見せてもらうときはしかめっ面。下を向いて暗い表情の子が多いのです。

けれど、一緒にやっていて「出来た」「わかった」瞬間、どの子もぱっと表情と目が輝きます。嬉しくて笑ってしまう子もいます。「そうか、そうだったんだ」とみんなつぶやきます。

そういう子に共通して言えることは、「なぜ、そういう答えになるのか」がイメージできない、ということです。勉強が嫌いなのは、ちゃんとした学びと習い方を与えられずに周りから押しつけられる形で苦しいからなのです。

具体的には本章の第2節で記述しますが、問題と答えを結びつけるのには、まずイメージの力が必要です。与えられた問題や課題の文章を読む。そこから「答え」を導き出すのに必要な材料を選び出す。その段階ですでに、「何が材料として必要なのか」とイメージする必要が出てきます。

ところが、今の子供たちはこの「材料を選び出す」ことが出来ません。「作者はどんな気持ちでしょう」と問われたときに、その「気持ち」を表現する言葉を知りません。もっというと、そういう状況ではどんな気持ちになるのか、という経験が少ないので、状況と気持ちを結びつけるイメージがわかないのです。

イメージがない

Photo : Midori Komamura

なのになぜ、今の日本では「勉強すること」=学ぶことになってしまっているのでしょうか。学校ではちゃんと「学び」の方法を教えてあげているのでしょうか。「学ぶこと(内容)」を提示した後、それをちゃんと「習う」方法をろくに提示せず、テストで「理解度を確認」(とは言え点数の高い低いが判定基準になっている場合が明らかですが)して、点数が低いから「勉強しなさい」となる。

おかしいですよね。学校でちゃんと「学ぶこと」「習う方法」がわかったら、知識を得ることの楽しさを知った子供たちが自ら「もっと知りたい」「もっと出来るようになりたい」と「勉強」する……それが本来の姿であり、流れであるべきなのです。

ところが。今の学校では「この単元の主眼」というものが設定されていて、知識の取得が授業の最終目的です。「学びの方法」ではありません。それを取得したら、その力を次につなげる間もなく「次の単元の主眼」に取り組まねばなりません。

身についたかどうかの確認はあくまでも点数で。平均点の上か下か。それだけの判定で進んでいきます。その子がいったいどこに躓いてわからないのか。逆にもしかしたら偶然ヤマカンで良い点が取れただけなのか。その判別は点数だけでは絶対に出来ません。だから点数が悪いと「わかってない」から「ダメ」となって、先生からも親からも「もっと頑張れ」と怒られます。だけど「どうしたらわかるようになるのか」はだぁれも教えてはくれません。

「何だ、ぼくはどうせ出来ないダメなやつだ」「こんなのわけわかんね〜」……わからない生徒は、「わかりたい」「出来るようになりたい」という自分を押し殺し、そうやって自分を卑下するか笑ってごまかすかでその場をしのぐしかないわけです。それがずっと続くわけです……もしかしたらエジソンのように、徹底的に「学び」に集中し、「習い方」を教えてもらえればちゃんと自分で「勉強」出来るようになる子は山ほどいるのに。その子もごまかし笑いではなく「わかった!」という笑顔になれるはずなのに。

つまりそうやって子供たちの「可能性の芽」をつぶしているのが点数に左右される学校や親たちなのです。それに翻弄される子供たちがやがて力尽きて学ぶことの楽しさ、喜びも知ることがないままに「勉強嫌い」になるのは当然でしょう。いえ、「勉強嫌い」と言うよりも、「勉強がしたくても手も足も出ない」状況にある、と言った方が正しいでしょう。

今の日本の教育がなぜ落ち込んでいるのか。生徒の学力が落ちているのか。ここまで読んだら「それは仕方がない」と思いませんか?日本の教育がなぜ「ダメ」なのか……それは「勉強」と「学習」の区別もつけずに順序を間違え混乱している結果なのです。

その混乱を解消し、きちんとした学びを取り戻すための特効薬が実は「総合学習」です。そう、それこそがいわゆる「ゆとり教育」の柱とされた学習のあり方だったのです。

「ゆとり教育は失敗」といわれ、「ゆとりはダメだ」と揶揄されるあの「本来の学びを取り戻すための最後の手段」を失敗に導いたものは……何あろう、この「勉強」と「学習」とをまぜこぜにしか捉えることの出来ない日本の社会全体だったのです。

Photo : Midori Komamura

お勉強

Photo : Midori Komamura(my father)

1 「ゆとり教育」はなぜ失敗したか。

(1) 「勉強」と「学習」は全く違うもの。~エジソン成功の理由
(2) 「ゆとり」という間違ったイメージがぶち壊した教育再生への道
(3) ゆとり失敗の原因〜一番イメージできなかったのは教える側
(4) 頭が良くなる早道は「ちゃんと遊ぶこと」=「イメージの貯金」
(5)「記憶」を支えるのはイメージ。

2 「イメージ」は自ら学ぶ気持ちを育てる。

(1) なぜ?→【イメージ】→そうか、わかった!
(2) 「テストは楽しい」のイメージづくり〜実力点を出そう。
(3) 「学び」は究極の「遊び」
(4) 禁止から生まれるものは何もない。
(5) 「賢い子」を育てたいならまず親が学ぶ。
(6) 「イメージノート」を一冊持つ
(7) 「コマちゃん」誕生秘話

3 「イメージ」で国語の力をつける。

(1) 漢字はひとりひとりの人間と同じ。
(2) 文章を書くには「役者」になろう。
(3) 毎日の生活で国語の勉強は出来る。
(4) 「固まりトレーニング」

4 「イメージ」で数学(さんすう)の力をつける。

(1) 計算がわからなかったら数字に置き換えて考えよう
(2) 文章問題は「数学語」に訳して考えよう
(3) 頭で考えないで紙と鉛筆に考えさせる。
(4) 等式は上皿天秤
(5) 分数ってとっても便利

5 「イメージ」で英語の力をつける。

(1) 英語に訳す前に、まず日本語を英語的日本語に訳そう
(2) 並び替え問題は、プラモデル作りと同じ。
(3) 長文問題は比べっこ。
(4) リスニングは必死で聞かない。
(5) 英語が上達したかったら音楽を学ぼう。

6 「イメージ」でテストの点をアップさせる。

(1) テストはパズルと同じ。
(2) テストはかくれんぼと同じ。
(3) テストは根比べと同じ。

こどもの可能性

Photo : Midori Komamura

さて。

「何でみんなこんなに勉強が嫌いなんだろう、ほんとうはもっと楽しいのに。」

このブログを書きはじめるそもそものきっかけが、これでした。

わたしは勉強、好きでした……、とは言ってもそれは中学生になってからです。「先生になりたい」という夢は両親が教師だったせいか子供のころからあったけれど、それを本気で考えたのも中学生のことがあったからです。

昨日、娘と話をしたのですが、実は、小学校の頃は自分は劣等生だと思っていました。

身体が弱くて、学校を休みがち。体力がないから体育が苦手で、見るのはみんなの背中ばかり。給食も全部食べられなくて、お掃除の時間になっても教室の後ろで残されて最後まで食べさせられました。(残すことは許されなかったのです。)最初で最後の「0点」をとったのもこの頃でした。学校を休んだ時にさんすうで「速さ」の勉強があり、それについて学ばずまったくわからないままテストを受けた結果でしたが、子供心に「0点」の与えた衝撃は大きかったのです。

そしてまた小学校高学年の担任は、わたしを理解してくれていたとは思えませんでした。

「動作がのろい」

小学校の通知表に書かれたこのひとことは、今でもわたしの心に突き刺さっています。母が支えてくれていなかったら、私は不登校になっていたかもしれないと自分が教師になって思うことがたびたびありました。

中学生になった時の担任は、音楽の教師でした。

大人になってから聞いたのですが、その先生は「この子どもは小学校の時にどんな扱いを受けていたのだろう?なぜ、こんなに小さく縮こまっているのだろう?」……と感じて、わたしを見守ってくれたようです。

音楽教師だったので、わたし自身の持っている音楽的な素養を見つめて伸ばしてくれただけでなく、人間としての頑張りや人のために出来ることをしたい……という私の頑張りを理解し、ルーム長などの責任ある立場で必死で迷いながらやっているわたしを支えてくれました。

その先生の支えや各教科担任の「学び」の本質にそった教科指導で、わたしは「勉強(というよりも“学ぶこと”)って面白い!」と感じるようになったのです。

これが、単なる「点数重視」の指導をしていた先生方だったら、わたしはたぶん小学校の時の延長で中学でも「学ぶこと」の楽しさを知らないまま劣等感のなかに今に至っていたのかもしれません。

「先生になりたい」という思いは、たぶん小さな子供のころから持っていたのでしょうが、本気で「先生を目指そう!」と思ったのはこの中学時代のことからです。

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そういう観点から世の中をずっと見てきた時に、今の社会はほんとうに苦しいと想います。

わたしはそういう多くの先生方の支えがあったからこそ今日に至っているし、わたし自身がそういう教師になりたいと想い、その想いに添って進んできたのですが、そのわたし自身が「教師」をしていて苦しくなった。うつに陥って「学校」という世界は苦しくなった。同じように、学校でも家庭でも子どもたちも苦しんでいて、「不登校」や「いじめ」が後を絶たない状況です。

自分が学校という制度の中に生き、そこで生徒たちや同僚たちと関わり、さらに自分の息子が不登校に陥り、一方で娘は学校というものの理不尽さを感じながらもがいていて……。

そんな状況の中で、うつが原因で仕事を辞めてから、わたしは家庭教師として何人かの子どもたちと関わってきました。そこでもやっぱり子どもたちはみんな「勉強が嫌い」なのです。

だけど、わたしが「勉強ってほんとは面白いんだよ?」と心の中で呼びかけながら共に学ぶ時間の中で、子どもたちは皆「わかった!」「そうか!」と叫んで笑顔になる瞬間が増えていって……「先生、今まで、学校の授業の時間って、ほんとつまんなかったよ」とさいしょは自分が「劣等生だ」と思いこんで下を向いていた子どもたちが語りはじめるのです。その姿は、中学に入って「学ぶ事って楽しい!」と心から感じて嬉しかった時のわたしのようでした。

本来、子どもの可能性を伸ばすはずの学校が、ものすごく才能や可能性を持っているはずの多くの子どもたちをつぶしている。

それが日本の現実です。
それを何とかしたいのです。

わたしが社会を見つめる観点は、「子ども」です。

子どもたちが輝くことの出来ない社会は、未来のない社会。まず、子どもが輝ける社会にならないと、人に優しいもありえません。活力ある社会もありえません。子どもたちを輝かせることこそが、日本の社会……いえ、この地球全体が「生き生きと輝く」ための必須条件なんだと想っています。

……このブログを書こうと思ったきっかけが、そこでした。
その観点で社会を見た時に。
今の社会はとても悲しい事実が山積みです。
子どもの虐待。自殺。不登校、いじめ。

それがなぜ起こってくるのかと言ったら、子供のころに「あなたにはちゃんと可能性があるんだよ」という声をかけてもらえなかった多くの子どもたちが大人になり、その大人たちが作った社会の結果なのです。

すべての子どもには、それぞれに伸ばすべき才能がちゃんとあります。
すべての子どもには、あふれんばかりの可能性と未来があります。子ども自身がみずからそれを探り、見つけ出し、磨く力をつけてやること。
それが大人のするべき事です。

そしてそれが、実は「明るい活力ある日本の未来」への一番の近道なのです。

第4章は、そこについてわたしの感覚からはじめて、具体的にどうしたらいいのかをわかりやすく記述していこうと想います。

お読みになって、「こんな時はどうしたら?」とか「こういう子供はどう考えたらいいの?」というご質問、「これはこうした方が良いのでは?」というご意見がありましたら、このブログを拡げる上でどんどんお寄せ下さい。本文中やこのコラム欄で、取り上げていきたいと想います。

皆さんにとって、たぶん一番身近なテーマになると想います。
だからこれからのこのブログは、皆さんと一緒に作っていきたいと思うのです。

風子2

Photo : Midori Komamura

けれど、彼女は気が付いたのです。
「死んでも、自分は障害者のまま。死んでも何も変わらない。だったら生きたい……。」

そうして彼女は、その足にペンを持ちました。……詩を書きました。
その足に、絵筆を握りました。……たくさんの「絵」や「絵足紙」が生まれました。
その足で、キーを叩きました。……キーボードからたくさんの音を奏でました。

そして、その中で……自らの「人とは違う」=「障害のある」身体さえも、胸を張って受けとめ、人の前にでて講演をし、その想いや願いや感覚を人に伝える活動に取り組みはじめたのです。

冒頭に描いたように、彼女の言葉はとても聞き取りにくいものです。自分の思惑とは逆に、「話をしよう」と思うと脳から余計な緊張の「命令波」が出て、体中が硬直してしまうからです。

それ以上に、ひとめ見た時に明らかに異なった外見は、時に好奇の目を誘います。

けれど、たとえば学校の講演で……「何でそんなヘンな格好なの?」という子どもたちの素朴な質問を、彼女は押しとどめようとはしません。

「普通の」「常識ある」大人は、顔色を変えてその言葉を止めて隠そうとする中で、「そうでしょ、おかしいでしょ?」と彼女は笑顔で答えるのです。

「見た目がおかしい」「自分たちとは違う」……そう素直に感じた子どもが発する言葉を、「止めなさい」と押しとどめること自体がすでに、「そう言うことは思っても言ってはいけない」という常識の中で、「障害に対して興味を持つことはいけないこと」というマイナスのイメージを植え付けてしまっていることにそういう大人たちは気が付いていないのです。

むしろ、風子さんのように、「おかしいものはおかしいよね」と認め、だけどそこには「こういう理由があって、こういう苦労があって、だけどこんな風にがんばっているんだよ」という赤裸々な事実を正直に、ストレートに、伝えてあげる。

そうすることで「おかしい、なぜ違うの?」というイメージを「違うことの理由や違うことで発生する事実」を認識して正しいイメージにつなげていく事の出来る人を創り出すことが出来るのです。

風子さんは、自分の姿を人前に出すことを厭いません。その胸を張った姿に、「障害」という言葉を「差別」の線ひきで使うことの愚かさを、人は言葉よりも文章よりもダイレクトに心で受けとめて理解することが出来るのです。

それによって「人は違って当たり前」というほんとうに「当然のイメージ」を人は再確認することができるのです。

彼女の様々なものを生み出すその足のつま先に小さな火のようにともったようも輝く赤いペディキュアと、それから文字通り彼女を支え続けて来た手入れされた美しい足の動き。

誰よりも輝いて自分を生きている風子さん。その笑顔の前には「障害」とか「人と違う」などという「区別」の意味のなさを実感するのです。

風子さんが笑うと、周りの人も心から笑う。
その笑顔の連鎖を生み出すイメージは、彼女が様々なものを乗り越えたその上に成り立つところから来ています。

常識とか、正しいこととか、そんな事はどうでもいい。

自分が自分であり、自分が自分として与えられたものの中で必死で生きている。
その「事実」は、何よりも生きることについて強く明るく希望のあるイメージ。

……それが、彼女の笑顔のもたらしてくれるものなのです。

詳細N-gene記事:
心は体には囚われない〜風子、その1〜
心は体には囚われない〜風子、その2〜

(3) 「イメージ」がつま先からほとばしる 風子の絵足紙&トーク

ライブのステージの上で、彼女はものすごく汗をかく。
汗をかくと、ひょいと近くに置いてあるタオルを足でつまみ上げ身体をぐっと折り曲げて額の汗をふく。

そうしてまた背筋を伸ばすと、屈託のない笑顔でお客さんに話しかける。その笑顔……周りの人間も思わず巻き込まれてしまうその笑い声は、時に豪快ですらある。

「彼女」の名は、風子。

彼女は足でつまんだタオルを横に置くと、「それじゃ、次はこの曲ね。」そういってキーボードを足で奏ではじめる。

残念ながら、ちょっと慣れないと彼女の言葉はとても聞き取りにくい。だけど、周りの人間はそんな事は気にしていない。言葉は聞き取りにくくても、ちゃんと「通じて」いることが人びとの表情からは見て取れる。

風子さんは、その足でまた絵を描き、詩を紡ぐ。時に編み物もし、クッキーも焼く。
彼女の両手は、ほとんど動かない。「小児マヒ」……幼い頃発熱した。高熱が続き、その熱が下がったときに、彼女の身体は自分の想うようには動かなくなっていた。

この第三章の2節に記述したように、今までは「はみ出した」人たちを主に取り上げてきました。けれど、この第三章の終わりに取り上げる風子さんは、「有無を言わさずはみ出させられた」人です。つまり、自分の意志ではみ出したわけではなく、偶発的に与えられた状況からそこに追いやられた人、です。

一般的に「障害者」といわれる人たちは、その「障害」が先天性であろうが後発的なものであろうが、「普通の人とは違う」という観点から「区別」されます。そしてその「区別」のための線ひきは、そのまま「差別」の目印として機能します。

私たちは自分のことを「普通」に思いたい。だから、自分とは違うという「区別する存在」を見つけることで、自分は普通なんだ……という安心感の中に浸りたい。そこに生まれるのが「差別」という認識なのだと思います。

そして、その区別された人びとは、相手の安心感のために自分の存在を時に否定され、正しい認識の無いままに傷つけられて多くのものは「世の中」と離れたところで生きるしか無くなるのです。

けれど、風子さんは、その「障害」という区別の中に置かれ、「出来ない人」という認識に子供のころから追いつめられて来たけれど、そこに留まっていることはなかったのです。

きっかけは、好奇心を満たそうとする欲求。
小さな子どもが自分の手を使っていたずらも出来ない事でつのるイライラが、自分の「可能性」を開くきっかけになったのです。手が出ないから足を使った。自分の想いが、それでかなった……。

「足が使える」「手よりも思うように動かせる」

そう思って、手の代わりに足を使った。たったそれだけのことなのです。だけどそれは、「手を使うのが当たり前」の世の中で、「足は地面に触れるから汚い」という常識の中で、「肯定」されることは難しいことでした。

外に出ることが怖いと想い、ひとの言葉がまるで機関銃やマシンガンのように心を射貫く。自分が生まれてきたことの意味さえもわからない。

「死」をいう言葉も何回も頭をよぎる……。

(その2に続く)

風子1

Photo : Midori Komamura

時にはオギタカさんの朗読を聞くときもあります。

「大地のめぐみに ありがとう」「いのちのつらなりに ありがとう」「環になって 和になって おどろう」……「アフリカの音」という絵本です。

この本が与えてくれるイメージ。それは「すべてが循環していくことの大切さ」。

音あそびの会に持って行くこの本。会場の人たちは目をつぶって朗読をじっと聞き、受けとめます。時によっては様々な楽器の音がそこに「色」を添えることがあります。

そうして鮮やかに彩られた循環のイメージは、その場にいる人たち1人1人の中で、自分の周りにいる人たち、家族、友人、そういう人たちとのつながりだけでなく、大地、自然、地球とのつながりのイメージにまで拡がっていくのです。

「命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくる。
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。


 それが希薄になって来ている現代。 みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたら、もっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません……。 」

オギタカさんはこの想いを持ちながら様々な人たちと、様々な音を重ね、つながっていく……それがこの「音あそびの会」。そこには、大人とか子どもとか、男とか女とか、教える方と教えられる者とか、音楽の上手い下手とか、障害のあるなしなんてまったく関係のない世界が拡がります。

それは音楽活動を続ける中で様々な人たちとの出会いや、アスペルガー症候群といういわゆる「障害児」とされるお子さんとの毎日から受け取ってきた豊かなものたちが集結した、オギタカさんの一つの「実り」の形でもあります。

こうして、様々な場所で、様々な形で「命」や「大地の鼓動」と言ったイメージが音に乗って拡がっていき、そこにいる人たちとつながることで生まれる彩りをさらに重ねながら、オギタカさんと人たちとの間でどんどん循環し、さらにあたらしい生き生きとしたイメージを生みだしていくのです。

まるで人を創る細胞が細胞分裂してあたらしい細胞に生まれ変わっていくように……。

もしも、このイメージによってつながりあった人びとでこの社会や地球が満たされていったら……この世界はそれは色鮮やかで豊かな、人と人とが優しく寄り添いあえる世の中になって行くに違いありません。

N-gene詳細記事:
届け、つながれ。〜大地の鼓動・風の歌〜

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」がつなげる大地のパワー オギタカ・音あそびの会

「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」

音ひとつないしーんとした静寂の中で、ちょっと低くやわらかい声が言葉を紡ぐ。彼を取り囲むたくさんの視線は、真剣にその声の主を射貫く。さっきまで笑顔と様々な打楽器の音であふれた教室と同じものとはとても思えない。だけど、そのどちらもが人の持っている本質の表出なのだろうと思う。

声の主は、オギタカさん。彼は作曲家として数々のゲーム音楽を手がける一方で、シンガーソングライターとしても精力的なライブ活動を続けています。

そのライブで彼が奏でるのはピアノと、「ジャンベ」や「バラフォン」といったアフリカの楽器です。

オギタカさんはライブの時に首に提げたジャンベをたたきながら楽しそうに歌うので、お客さんもいつの間にかいっしょに歌い踊っている……自然とからだが動き、リズムの波に揺られてあふれる音に身体をゆだね、その場が一つの大きな輪に包まれる……そんな感じなのです。

アフリカでは、ジャンベやバラフォンのような楽器は「会話」のために使われているそうです。その音を聞いていると、リズムと音の強弱と、さらに高低と……様々な要素が絡み合って、人の叫びやささやき……魂の鼓動に聞こえてくるから不思議です。

もともと、音楽というものは人がその想いやイメージを人に伝えるために生まれてきたもの。そういう意味でアフリカの楽器たちはシンプルに、ストレートにその楽器本来の意味や命を果たしているのかもしれません。

それを強く感じることが出来るのが、オギタカさんがもう一つ想いを注いでいる「音あそびの会」です。

何回か、オギタカさんの「音あそびの会」に同席させてもらいました。

どの場面でも、最初その場にいる人たち(子どもだったり、大人だったり様々です)は、物珍しい楽器と「音楽」を目の前にかなり緊張の面持ちで始まりますが、オギタカさんに導かれながらジャンベに触れ、たたき、その音の「表情」を感じ始めるとまるで子どものような無邪気な笑顔が拡がりはじめます。

アフリカの楽器に限らず、オギタカさんは川原の石や竹筒まで、みんな楽器にしてしまいます。オギタカさんのリードでそれらを使って周りの人たちと音による「会話」を楽しみます。上手い、下手なんかなく、とにかく表現して伝える。その表現がたくさんの人に「伝わる」と、笑顔や感動の輪が拡がっていくのです。

そこにいる人たちは、自分の表現を伝えようと気持ちを注ぎます。だから、聞く方も全身を耳にして受けとめます。音を奏でる手先に注目し、その音を一つも逃さないように身を乗り出します。すると、発する方はさらに心を込めて奏でます。そこにはちゃんと音を通じた「コミュニケーション」が成り立っているのです。

(2に続く)

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

「観光」という言葉は、「国の光を見る」という意味から生まれた言葉。

その土地に行った人が、その土地の人・地脈に触れて感じ、学ぶのが観光の本来の意味です。けれど「観光」を目指すことによっておもてなしをする土地の人々にとっても、それは大きな宝になる。

大久保さんはほっとステイのみならず、菅平に合宿に来る人々に対しても、またそこに生きる人々に対しても、その「光」を放とうと様々な試みをしています。

たとえば「爆音バス」で大久保さんは自分のホテルに泊まっている選手たちを激励しますが、そのバスは同時に菅平の道を歩く人々にむけての「おもてなし」の心の表れでもあります。

そんな風にもてなした人びとを、大久保さんはまるで家族のように大切にしています。

取材で訪れたときにちょうど合宿していた関西学院のラガーマンたちを「この子たちは強いよ!」と自分の子どものように嬉しそうに紹介してくれました。先日も花園で行われたラグビーの全国大会で彼らが上位進出を果たすと、自ら関西まで応援に出向きました。

会場で選手を激励するために何と「法螺貝」を吹いて審判に注意を受けてしまったそうですが、この法螺貝を聞いた別の方からは「興奮度が上がった」との好意的な声も。

大久保さんは、決して自分や自分のホテルだけのことを思って行動しているわけでも、菅平のことだけを思って行動しているわけでもありません。彼が出会った人々にかたむける想い、おもてなしの心は、ほっとステイでも、菅平を訪れるラガーマンたちにも、血のつながりはなくても心のつながる「第二のふるさと」を実現しているのです。

この「第二のふるさと」……帰ったら温かく迎えてくれる人がいる、というイメージは、菅平という土地を大久保さんと触れ合った人たちにとっては特別で忘れられない場所として色鮮やかに心に残ることでしょう。

そうして、大久保さんがつなげた人の輪は、高齢化や過疎化で担い手の減り始めている農村の皆さんにも、また観光という面で様々な見直しや試みを求められる菅平にも、この先どんどん力強く温かいイメージをもたらしてくれるに違いありません。

大久保さんの「家族」が増えるほどに。
菅平高原は人々の心の「第二のふるさと」として、生まれ変わって行くに違いありません。

詳細:N-gene記事
菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(1)
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(2)

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」でよみがえる、心の故郷 ほっとステイ菅平と真田町

長野県の東部、上田市の根子岳、四阿山の裾に拡がる菅平高原は、冬はスキー、夏はラグビーのメッカとしての観光や高原野菜で成り立つ土地です。

地球温暖化の影響で降雪量が減り、またバブル時代に最高潮だったスキーも今はスキー人口が減少し、客足は衰える一方。そのため、経営が成り立たずに閉鎖されたスキー場も長野県内には数多くあります。それは菅平高原でも同様で、冬のシーズンはかつてのようなにぎやかさがありません。

「夏のラグビー合宿があるので、まだ他のスキー場よりはいいけれど……」

そんな時代背景をいち早く察し、この菅平高原の観光のあり方を見直そうと頑張っているのが、菅平プリンスホテルの大久保寿幸さんです。

観光地としては、決して「有名どころ」ではないし、スキー場としたら志賀高原や白馬の方とは規模的に比べものにならない。ラグビーの合宿も、それだけで観光地として成り立つものでもないし、夏のシーズンだけのもの。これから先、観光地としてちゃんと成り立つためには「春・秋」といったオフシーズンや、菅平高原を支えるもう一つの要素である「農業」についてきちんと考えていかなくては……そのためには、どうしたらいいのだろう?

大久保さんの視点は、「今」の菅平をしっかり見つめつつ、その先を見据えています。かつてのスキーブームをいつまでもイメージしていたら、この先はない。菅平を元気にするには……と考えた大久保さんが、今取り組んでいることの一つが「ほっとステイ」です。

ほっとステイとは、菅平の麓にある真田町の農家に子どもたちが1日滞在し、農業や農家の生活を体験するというもの。それは、単なる農業体験ではなく、農家の人々の生活を通じて食べ物を作ることや土に触れること、それを軸にした食文化や生活の知恵・工夫を知り、体感することによるいわゆる「文化交流」のプログラムです。

今の子どもたちは、他人との交流が下手だとか、クールだとか言われます。
けれど、1日このほっとステイで時を共に過ごした生徒たち、農家の人々、それぞれの表情を見ていると、たぶんそれは今の社会の中で子どもたちが表現しにくい部分であって、人の根本はやはり時の流れがどうあっても変わらないものなのだ、ということを感じさせてくれるのです。

「おばあちゃんとお別れがさびしい」と泣く女子生徒。「ここは、第二のふるさとだ……。」とつぶやく男子生徒。彼らが帰るバスに向かって、見えなくなるまで手を振る農家の人々。

彼らの表情にはたった1日、という時間など関係なく、その時間の中でお互いの心の琴線がどんなに触れ合って響き合ったのかが伝わってきます。

そこで見、聞き、学んだものは確かに日頃得ることの出来ない貴重なものでしょう。けれど、それ以上に、それらのことを通じて人と人とのつながりの温かさ、強さというものがどこから生まれてくるのか、それはもともと人の中にあって、人を想う気持ちもちゃんと人の中にはあって、それらはお互いのものを温め合い、拡げ合うことが出来るものだということをそれぞれの表情から感じることが出来るのです。

このほっとステイは、生徒たちだけのものでも、また農家の方々だけのためのものでもありません。菅平という土地のためのものだけでもありません。人が人として生きていく上で、こういうものがあるのだ、という大切なものを関わるすべての人たちに伝える……イメージをもたらすものなのだ、と思えるのです。

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

さらに学校は今、非常事態のベルが鳴っているのにその音が聞こえないような状態になっている。非常ベルが鳴っているのに、誰も気が付かないし逃げ出しもしない。不登校の生徒たちは、気が付いて逃げ出した子供たちなのに、そういう子供たちは「はみ出した」生徒としてその声を聴いてもらえないのです。

そういうことを、学校の中からなんとか伝えようと思いました。けれど、とても難しいことでした。学校の中にいる状態のままでは絶対に気が付けない・見えないものがあることは、私自身がそういう状態にあったからよくわかりました。

私は、「この先をになう子供たちが、希望を持って進むための力をつけさせたい」から教師になったけれど、それは自分一人ではけっしてできることではありません。学校が一つになって、お互いに補い声を掛け合いながら生徒1人1人をしっかり見つめていかねば出来ない事です。

けれど、今の学校ではそれは無理でした。「古くからの体制」や「今までの流れを作ってきたルール」「先輩と若輩との世代の断絶」「より良いものを目指すためのモデルの不足」……そういったものが学校というものをがっちり固めてしまっていて、たった1人で声を張り上げようともどうにもなるものではなかったのです。

このままいても中から変えることは無理なんだ。そしてこぼれ落ちてしまった生徒は中からは救えない。

そう思った私は、25年間の教職生活にピリオドを打ちました。そしてこぼれ落ちた生徒たちの居場所作りや、うつ病のような心の闇に落ちた人たちが笑顔を取り戻すために出来ることをしていこう、と考え「スマイルコーディネーター」としての活動を開始、子供たちの個別学習指導を軸にして、これまでに記述してきた宮内氏とのプロジェクトに取り組んだり、うつ病理解のための活動を続けたりしてきたのです。

「どの人も、目指すものは同じで、そこに立ちはだかる壁も同じだ。」

ここまでの私自身のそういうもろもろに、ここまで出会った人々のそれが重なってきたのです。学校の中にも闘っている人はちゃんといました。N-ex Talking Over、羅針盤、N-geneの取材。みんな目指すもののもとにあるのは同じものでした。

「人の笑顔があふれる社会」

みな、自分のためだけに活動しているわけではありませんでした。自分の周りの人、家族、友人、地域、それから未来を担う子供たち、社会………そういうものに目をやって、そういうものの笑顔をイメージしつつ、私利私欲に囚われずにそれを目指していました。

そしてその人々に「立ちはだかる壁」は、警報が鳴っているのに気が付かない学校、社会、地域、家庭、形骸化した様々な決まり事や伝統、固定観念。

町づくりや観光の再生に取り組む人々の取材で教育問題に突き当たる。文化やアートの取り組みで社会の決まりや仕組みからの抵抗に突き当たる。そうして必死で「ほほえんで暮らせる毎日」を目指す人々は、みなどこか「はみ出したもの」であること。つまり、今の社会からはみ出して一歩外から眺める人々という点で、実はみんなつながっていたのです。

さらにこれは、第3章でも少し触れましたが、【羅針盤】で取り上げた人々にも共通する点でした。

thinking

Photo : Midori Komamura

二つのプロジェクトから見えたもの、掴んだ可能性の未来について宮内氏と語るうちに、ひとつのぼんやりとしたイメージが浮かび上がってきました。

今の社会・世の中は、まるで嵐の海のようなもの。先は見えないし、それがいつおさまるともわからない。その荒れた海で避難する場所も見えずもみくちゃで息もつけない。時に嵐は、がっしりした大きな船でもたちまち飲み込んでしまう。ニュースを賑わせる大企業の突然の破産や倒産、経営危機。みんなが必死に嵐と戦っていて、どうしたらいいのかわからなくて。みんなが嵐を乗り越えるために必死でいろいろな手段を講じているけれど……なすすべもなく抗う力も失いつつある。

それを乗り越えるためにはどうしたらいいのだろう。

自分たちも、まだそれが見えない。実際にいろいろ無我夢中で取り組んではいるけれど、どうしたらそれがちゃんと実を結ぶのか、何を目指してどんなふうにしたらいいのかわからない。……その「イメージ」がない……。「乗り越えるイメージ」が欲しい……。

今の時代にありながら、ちゃんと苦難を乗り越えてしっかり立っている人々がいる。そこにはきっと、乗り越えるためのヒントになる「何か」があるに違いない。そういう人たちに会って話を聞いて、その「何か」を集めてみたらどうだろう?

今この時に必要なのは、「乗り越えるためのイメージ」……そしてそれは、嵐にも負けずにしっかり立つことができる人々の持っている「何か」。それこそが訳のわからない苦しい状態を抜け出し、この先進む方角を示してくれるための「羅針盤」になるのではないだろうか。

いろんな人に会って、話を聞こう。そこから何かが見つかるかもしれない。その人々の言葉を集めて、自分たちだけでなく、おなじようにもみくちゃになっている人々にも伝えられるような“何かの形”にしてみたらどうだろう?

こうして、二つのプロジェクトから見えた可能性をより確かなイメージへつなげる手立ての一つとして、オーディオバイオグラフィー【羅針盤】の構想が生まれたのです。

かりがわたる

Photo : Midori Komamura

2-4そして【羅針盤】へ 〜社会という荒波を進むための指針〜

こうして、「日本の社会は大丈夫」というイメージを得、可能性を見つめるエネルギーを得ることが出来たのですが、一方で「現実」「現状」が持つ大きな課題もはっきりと目の前に山積みになりました。

日本は大丈夫、という要素も可能性もありますが、しかし逆をいうと「大丈夫ではない現実」が立ちはだかるからその可能性を探らねばならないわけです。

たとえば、一番切実なのはお金の問題。何をやるのにもお金がかかります。実際、N-ex Talking Overを半年で休止しなくてはならなかったのもそれが大きな理由でした。

同じく、若い世代がなぜ情熱を持ちながらそれを実際に生かすことができないか、という理由にも重なってきます。まだ財力の余裕がない若い世代は、活動にお金をかけることが出来ないし、自分の生活を維持するためには収入を得ることも必要で、収入を得るための仕事の時間が本当に目指すものにかける時間を圧迫する。これも現実のことです。

それから、年代や立場の差。

世代や立場を超えて交流できる場が消滅し、「異なった環境から生まれた意見」が討論される場がないことのほか、少子化・核家族化による年代バランスの崩れ、発展のために急激に進んだ競争社会、失敗が許されにくくなった環境、固定化・形骸化された決まりや伝統、もしくは増え続ける規則による思考の停止状態……。様々な要因が絡み合って、年配と若者、土地のものと外からの者、収入の多少、などの立場の二分化・二極化を創り出し、それによって意見もまた良いか悪いか、あっち派かこっち派か、という歩み寄りのない「対立」の構造を創り出していました。

結果、力のない者、権威のない者、実績のない者、資金のない者、といった「無い者」の挑戦は取り上げられなかったり、孤立したり、という状態がおこるのです。

そこで「可能性」を掘り起こすだけではなく、それをつなげてわかりやすいイメージにすることが必要でした。

実際に、小さい動きですが「活動」して頑張っている人はたくさんいました。けれど、それを取り上げてつなげる機能を持つ機関がないのです。だから、頑張っている人たちは孤独でした。「自分だけ頑張っていてもなぁ」というむなしさや、「こう考えるのは自分だけなんだろうか」という孤独感を持った人。N-ex Talking Overや文化庁の事業で出会った人々の中に見え隠れするそういう想い。

せっかくの可能性を未来につなげるためには、そういう想いを何とかするべきだろう、どうしたらいいのだろうか?
「この先」を考えたときに、何が出来るのだろう?

荒れた海を見つめるカモメたち

Photo : Midori Komamura

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PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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