なのになぜ、今の日本では「勉強すること」=学ぶことになってしまっているのでしょうか。学校ではちゃんと「学び」の方法を教えてあげているのでしょうか。「学ぶこと(内容)」を提示した後、それをちゃんと「習う」方法をろくに提示せず、テストで「理解度を確認」(とは言え点数の高い低いが判定基準になっている場合が明らかですが)して、点数が低いから「勉強しなさい」となる。
おかしいですよね。学校でちゃんと「学ぶこと」「習う方法」がわかったら、知識を得ることの楽しさを知った子供たちが自ら「もっと知りたい」「もっと出来るようになりたい」と「勉強」する……それが本来の姿であり、流れであるべきなのです。
ところが。今の学校では「この単元の主眼」というものが設定されていて、知識の取得が授業の最終目的です。「学びの方法」ではありません。それを取得したら、その力を次につなげる間もなく「次の単元の主眼」に取り組まねばなりません。
身についたかどうかの確認はあくまでも点数で。平均点の上か下か。それだけの判定で進んでいきます。その子がいったいどこに躓いてわからないのか。逆にもしかしたら偶然ヤマカンで良い点が取れただけなのか。その判別は点数だけでは絶対に出来ません。だから点数が悪いと「わかってない」から「ダメ」となって、先生からも親からも「もっと頑張れ」と怒られます。だけど「どうしたらわかるようになるのか」はだぁれも教えてはくれません。
「何だ、ぼくはどうせ出来ないダメなやつだ」「こんなのわけわかんね〜」……わからない生徒は、「わかりたい」「出来るようになりたい」という自分を押し殺し、そうやって自分を卑下するか笑ってごまかすかでその場をしのぐしかないわけです。それがずっと続くわけです……もしかしたらエジソンのように、徹底的に「学び」に集中し、「習い方」を教えてもらえればちゃんと自分で「勉強」出来るようになる子は山ほどいるのに。その子もごまかし笑いではなく「わかった!」という笑顔になれるはずなのに。
つまりそうやって子供たちの「可能性の芽」をつぶしているのが点数に左右される学校や親たちなのです。それに翻弄される子供たちがやがて力尽きて学ぶことの楽しさ、喜びも知ることがないままに「勉強嫌い」になるのは当然でしょう。いえ、「勉強嫌い」と言うよりも、「勉強がしたくても手も足も出ない」状況にある、と言った方が正しいでしょう。
今の日本の教育がなぜ落ち込んでいるのか。生徒の学力が落ちているのか。ここまで読んだら「それは仕方がない」と思いませんか?日本の教育がなぜ「ダメ」なのか……それは「勉強」と「学習」の区別もつけずに順序を間違え混乱している結果なのです。
その混乱を解消し、きちんとした学びを取り戻すための特効薬が実は「総合学習」です。そう、それこそがいわゆる「ゆとり教育」の柱とされた学習のあり方だったのです。
「ゆとり教育は失敗」といわれ、「ゆとりはダメだ」と揶揄されるあの「本来の学びを取り戻すための最後の手段」を失敗に導いたものは……何あろう、この「勉強」と「学習」とをまぜこぜにしか捉えることの出来ない日本の社会全体だったのです。