「今」は進化し続ける。〜傘に、ラ。の試み(その3)<’10年6月掲載>

「長野市は川合新田からやってまいりました、なかがわよしのです。」

おなじみの前口上だけれども、聞く場所によってこんなに違うものなのか。

カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

今まで2回にわたって取材してきたなかがわよしの氏の「傘に、ラ」のシリーズ。
今回は、2月の末にネオンホールで行われた「芝居」の会(「傘に、ラ vol.8」と、先日6月始めに行われた田植え&田んぼでライブの会(「傘に、ラ vol.16」)のふたつの会を取り上げてみようと思う。

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なかがわよしの氏。
彼が「今」をキーワードに様々な試みをしている「傘に、ラ」。
詩の朗読や対談、音楽や芝居など様々なジャンルでいろいろなゲストと共にこれまでいろいろな場所で展開されてきた。

ナノグラフィカ、ネオンホール、そういった「会場」で行われたり、最近ではツイッターといったネットの上で展開されたり。

2月の「傘に、ラ」は、凍てついた空気の中、ネオンホールで行われた。
ちょっと遅れて入った会場のステージでは、女性二人がおしゃべりをしながら餃子を作っていた。そこにあるのは、ごく普通の「日常」を切りとっただけの一場面だった。

前半は赤尾英二氏脚本・演出による「餃子のなかみ」という現代口語劇。
激しい動きはない。ステージの上では餃子の具をきざみ、それを包み、「いただきます」というところまでの30分の展開。

ところが、「餃子を作って食べる」というその一連の流れの中で交わされる会話はかなりドラマティックだ。赤尾氏の演じる弟と、囲む姉二人(司宏美氏、田中けいこ氏)の3姉弟の間にはいろいろなわだかまりがあって、「親の死」という事実の前にお互いの想いがぶつかり合う。

妹弟を思うがゆえに口うるさくなる長姉。素直に受け止められない弟。間にはさまれる次姉。その3人の想いを紡ぎ、気持ちを繋げていくのがひとつのセリフだった。

「来た道を振り返ってはため息をつき、石橋をたたいては渡るのをためらう。」

先を見過ぎても、過去にこだわりすぎても進めない。せっかくのこの瞬間を見失ってしまう。そのセリフは出来上がった餃子から立ち上る湯気のようにステージ上の3人を包み込み、餃子の香ばしい香りと共に会場にも広がり、さらにはなかがわ氏の一人芝居へと引き継がれていく。

(ちなみにこの餃子、前半の劇終了後の休憩時間に会場のみなにふるまわれた。写真を撮っていてわたしは食べ損なったがおいしそうだった………残念。)

続くなかがわ氏の一人芝居。彼が演じるのは、売れない脚本家。

売れない彼は、ある日「声」を聞く。
~「今」をわたしにおくれ。おまえはすばらしい過去と未来を手に入れる。地位や、名誉はおまえのものだ。~

そうして彼はその声にしたがって「今」を捨て去る。
あっという間に売れっ子の脚本家に変貌した彼の「過去」には華やかな名誉ある足跡が刻まれ、「未来」は光にあふれて輝く。金も、地位も、女も、栄光も……彼は「すべて」を手に入れる。たったひとつ「今」をのぞいたすべては彼の思いのままだった。

しかし、彼には「今」がない。だから、「今を生きている」実感がない。
どんな名誉が過去にあっても、その名誉を受けたその瞬間の実感がない。この先必ずすばらしい成功が来るのは約束されている。だから今、そこに向かう緊張感もない。

ちやほやされても賞賛を浴びても。彼はその「瞬間」の記憶がない。

「さみしい」「むなしい」「悲しい」

次第に彼の心は、華やかな実情とはまったく別の感情に占領されていく。
そして彼は、かつて自らの「今」を明け渡した「声」に、再び乞い願う。
「お願いです、僕の今を返してください」………と。

声は答える。
「それなら、おまえの命とひきかえに『今』を返そう。」

彼は、今……その「一瞬」を手に入れ、その瞬間にすべては「無」に……。

ネオンホールの真っ暗な空間に、沈黙が流れる。
「今」というテーマがぎゅっと凝縮され、一瞬の光を放って、消えた。

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6月に入ったばかりの日差しまぶしい小川村の田んぼ。
白馬に向かうオリンピック道路に向かって登っていくのぼり道をすこしあがると、歓声が聞こえてきた。

道から一枚の田んぼが見える。その手前の広場には軽トラや自転車が停めてあり、祖田んぼ沿いの空き地にはテントとビールケースをひっくり返した即席テーブル。

小さな煙突つきのストーブからは煙が上がり、その上で豚汁がおいしそうに湯気を上げている。そこに田植えをしている人がいなかったら、それはさながらキャンプの光景。

「傘に、ラ。vol.16~田植え的ピクニック~」

なかがわ氏からいつも送られてくる「傘に、ラ」の告知メールにはこう書いてあった。

田植えやります! 当日苗がどんくらい集まるかわからんので、「え!? もう終わりっ」とかいうこともなきにしもあらずだけど、豚汁食ったり、談笑したり、誰かが歌ったり、あっちで即興芝居はじまったり、ラジカセからなんかいいカンジの音楽流したりして、またりーと過ごす予定。「ピクニック、ときどき田植え」な催しです。 

なかがわ氏、奥さんに誘われて姨捨の田んぼの農作業を経験、それで田んぼの面白さに目覚めたそうなのだけれども、今回それが「ピクニック」という発想につながったのはナノグラフィカの高井綾子さんとの会話がきっかけだそう。
(ちなみに、高井さんは昨年松代で田んぼ作業を経験、その模様はこちらから。
皆神山の麓の田んぼで…・ 桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?

高井さんから小川村で田んぼをやっている大沢さんを紹介してもらって今回のこの田植えイベントになったということ。

この田んぼは、小川村に移住してきた大沢さんと、お友達のジョンさんの家族が借り受けてやっている田んぼだそうで、大沢さんも田んぼや農業に関わりたくて長野県にやってきた人。小川村では農業就業者の年齢が高齢化して、今ではあき田んぼが増え、大沢さんやジョンさんのように借りる希望者がいても、それよりもあき田んぼの数の方が多いのが実態。

けれど、そんな中でも「田んぼ」を受け継いでやっていこうとする人がいる。
なかがわ氏も、それから今回ここに集まったなかがわ氏の友人の多くの人も、何らかの形で田んぼに関わっていた人たち。

その人たちが今回、なかがわさんの呼びかけで集まってみんなでワイワイと田植えをしちゃおう、ということなのだ。

家族ぐるみで参加している人が多く、小さい子供もたくさん。水位を下げているとはいえ田んぼのどろどろの中、膝の上まで泥にはまって田んぼのかえるやオタマジャクシと戯れながら、ひとしきりお田植え。

2時をまわった頃には、田んぼの端までしっかりと苗が植えられて、せき止められていた取水口から勢いよく水が流れ込み始めた。
そして田んぼの横に停めてあった軽トラが、一転ステージに変貌する。お田植え会場は、あっという間にライブ会場に変身。なかがわ氏の詩の朗読がはじまった。

田んぼに水の注ぐ音。空の高いところを吹き抜ける風の音。なかがわ氏が「今」を紡ぐ音。それらが頭の上にひろがった閉ざされることのない空間に広がっていった。

続いてステージに登場したのは地元小川村のデュオ、「やくばらい」のおふたり。
オリジナルソングを中心に、10分ほどのミニミニライブを展開。

ちょうど、田んぼの上の道を通りかかったおばあちゃんがその歌声を聞きながら、「いや、おんがくこういうところで聞くのって、なかなかいいもんだね。」と笑顔を浮かべてゆっくりと畑に向かっていった。

やくばらいミニライブのラストナンバーはメンバー紹介ソングだったのだけど、ここでジャンベをやっているという大沢氏が臨時参戦。けれど、ジャンベがそこにあるわけではなく、転がっていた長い塩ビのパイプをたたいての即席パーカッション。

やくばらいのお二人のデュエットに絶妙に絡んだ“パイプカッション”のセッション。
今、この時、この瞬間だから生まれた音が静かな田んぼの上を渡る風に乗ってのんびりと流れていった。

軽トラの即席ステージで、なかがわ氏の即興詩の朗読と、塩ビパイプの即席セッションが加わった田んぼライブが終わる頃、みんなが田植えで踏み込んで泥で濁っていた田んぼの水も、すっかり澄み渡って静かに青い空を映し出していた。

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暗く閉ざされた空間で、その空間の中に凝縮され、発表の場に向かってぐーっと焦点化されていった「今」があれば、どこまでも広がっていく無限の空間の中に、その瞬間にふと生まれてどんどん広がっていく「今」がある。

どちらもまぎれもなく「今」であり、その表現の形。

「なんかね、最近はテーマとかジャンルとかあまり気にしないで『これやりたい』と思うことをとりあげるようになってますね。」

田植えをなぜ『傘に、ラ』で取り上げたのかを聞いたとき、なかがわ氏はそう答えた。

なかがわ氏がこの「傘に、ラ」というイベントで持っている「今」というテーマ。
どうやらそれは、すでになかがわ氏だけのものではなくなっているようだ。なかがわ氏が取り上げるジャンルや会場、そういうものに影響を受けその場を共有したものたちの中に、しっかりと「今」が息づいて広がり始めているのではないか。

いろいろな形の「今」があり、いろいろな人の「今」がある。
それはみな違うものだし、その先がどこに向かっているのかもわからないけれども、そういうたくさんの「今」が出会い、触れあい、輝きあって「明日」に向かっていくのだろう。

始まって半年のなかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、そうしてこれからも様々な「今」を織りなしながら進化していく。

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今後の「傘に、ラ」
(注:記事掲載時2010年6月時点の情報)

10年7月3日(土)
「傘に、ラ。 vol.18 ~今に生まれて今に死ぬ~」@ネオンホール
出演:outside yoshino・ タテタカコ
料金/前売・予約3500円、当日4000円
問い合わせ/026-237-2719(ネオンホール)

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.19 ~果樹園で朗読会。~」@丸長果樹園
詳細後日発表
10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」@ネオンホール
詳細後日発表

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写真、文 駒村みどり

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)<’10.2月掲載>

♪パパッパ、パ、パ、パ………(ジャマジャマ)
パパッパ、パ、ジャ、マ………(ジャマジャマジャマジャ)

会場が暗くなったとたんに始まったのは、「お母さんと一緒」でおなじみの「パジャマでおじゃま」のテーマソング。

その音に合わせてステージにでてきたなかがわよしの氏が、突然服を脱ぎ始めた。

………え???
なんだ、なんだ?

シャッターを切る手を思わず止めて、その先何が起こるのかとなかがわ氏の裸体……(結構筋肉質なんですね、写真とっておけば良かったと後悔。)に見入ってしまった。

上着を脱ぎ、おもむろにズボンも脱ぎ始め、ついにパンツだけになったなかがわ氏は、今度は逆に作業着らしき服を着こみ始めた。

そうして、「パ、ジャまたね♪」の音楽の終わりに合わせて(ちょっと間に合わなかったけど)ステージ衣装(?)に着替え終わった。

と、その瞬間に、なかがわ氏の声が静寂を突き破る。

「はだかのぼくを、見て欲しいと思ったから
すべてを脱いで、はだかになりました!」

それは、小さな爆発のように。吹き飛んだ言葉の破片が、体に突き刺さる。
痛い。
だけどそれは、苦痛の痛みではない。
心の奥に縮こまっているかくれんぼしている「自分」の手を引っ張られている痛み。
決して、不快な痛みではない。

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このN-geneで「なかがわよしのの400字」の連載を続けているなかがわよしの氏が主催する、「傘に、ラ」のレポート第2弾です。

第1弾の記事にも書きましたが、「今」という言葉をテーマにして、月に1~2回企画されるイベントです。

前回のレポートでは、この「傘に、ラ」のゲストとして共に「今」を語る企画に参加させていただいたのですが、今回は完全にイベントを観客の1人として受け止める立場で参戦しました。

第2弾で取材したのは、
2010年1月24日(日)「傘に、ラ。 vol.6 ~荒ぶる言霊~」

ゲストにお二人の「詩の朗読パフォーマンス」をされている、GOKU氏、猫道氏を迎えて3人による「詩の朗読会」でした。

なかがわ氏と、GOKU氏、猫道氏とのそれぞれの出会いのきっかけになったのが「詩のボクシング」。

詩のボクシング(しのボクシング)は、ボクシングのリングに見立てた舞台の上で二人の朗読者が自作の詩などを朗読し、どちらの表現がより観客の心に届いたか、その表現力を競うイベント。キャッチコピーは「声と言葉のスポーツ」、「声と言葉の格闘技」。一般参加の大会は、これまでに35都道府県で開催されている。全国大会も年に1度開催される。(wikipediaより)

言葉や声を、生きた力を持つものとし、それを各人の表現によって人に伝える力を競うもの。

最初、これを聞いたときに、「ボクシング」と言うイメージと「詩」というイメージがなかなか結びつきませんでした。

私のイメージで行くと「詩」というのは「詩作にふける文学少女」が秋のセンチメンタルな枯れ葉舞う風景の中で静かに穏やかに読むもの………だったからです。

ところが。

そんなイメージでいたわたしは、のっけからカウンターパンチをくらってしまったわけです。

言葉が、こんな「力」を持って迫ってくるなんて、思いもしていなかったんです。
詩が、こんなに熱いものだなんて、イメージしたこともなかったんです。

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突然、ステージのなかがわ氏は脇に去ったかと思うと「卓上ガスコンロ」を手に再登場。

そして、おもむろに着火……が、なぜか火がつかない。

「着かない!!」
「こんな時に限って、着かない!!」

そういうアクシデントもまた、なかがわ氏の即興詩に読み込まれる題材になる。

「過去」は要らない。時と共に過ぎ去ってしまう「過去」は要らない。
そんなものは、燃やしてしまえ。
(そのためのガスコンロだったけど……火が着かなかった。)

「未来」を見るのは遠すぎる。
だから。だから、「今」なんだ。

彼の中に、脈々と流れ続けるテーマが強烈にうたいあげられる。
「今」という言葉が、彼の中で熟成されて、そうして熱い熱を帯びながら会場に放たれる。

やがて、そのなかがわ氏から発せられた「熱」は、さらに溶岩の固まりとなって次のGOKU氏に受け継がれた。

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GOKU氏。

東信在住の自作詩の詩人。
彼となかがわ氏の出会いは、「オープンマイク」というイベントによるものでした。

OPEN MIC(オープンマイク)と はアメリカやイギリスで一般的な、当日飛び入り参加形式の自由なパフォーマンスステージです。その名の通り、誰にでもオープンなマイクということで、参加自由のイベントです。弾き語り、バンド、詩、マジック、ラップ、コント、ただマイクの前でしゃべるだけ、などどんなパフォーマンスでもOKというものです。

東京などでは結構行われている「オープンマイク」。その長野版を自主的に行っているのがGOKU氏です。(いずれ、このN-gene記事としても取り扱いたいと思っています。)その、彼の主催するオープンマイクに、なかがわ氏が参加したことで二人のつながりが始まりました。

GOKU氏は、先に書いた詩のボクシングの2005年の全国大会では準優勝したという実力者でもあります。

なかがわ氏も、GOKU氏も、お互いに「友だちじゃない」といいます。
多分……友だちというだけじゃもったいない、表現における「ライバル」とか「敵」とかいう類の高め合う仲なのでしょう。

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GOKU氏は自作の詩人。

自らが紡ぎ出した言葉を乗せた詩を、体中使ってステージいっぱいに叫ぶかと思うと次の瞬間に泣き出しそうにささやく。

その緩急ある言葉の放ち方によって、思いが乗った重たい言葉が聞くものの胸にどかんとぶつかってくる。

犬の詩を読んだ。
野良犬の死を詠み込んだ詩を読んだ。

………………………・

~「ノラ犬のカラダ」より一部抜粋~

僕の記憶から、ノラ犬の死体は寂しそうに立ち去り、
僕の記憶には、畑を斜めに歩くノラ犬が棲みつきました。

「土に還りたい」
「空を飛びたい」
「静かに暮らしたい」
それら全ては僕が求めているものなのに
それらをひとつも求めていないであろうノラ犬は
その全てを叶えて
僕の記憶に棲みつきました。

………………………・

野良犬は、今、死によって放置され鎖の束縛から自由になった。
見ている自分は、その自由が欲しいのに、それが手元になく。
野良犬は、その自由を欲してはいなかったかもしれないのに、自由の元にある。

今、欲しいものは手には入らず、必要としていない者にそれが与えられる………。

ずきっと来る。

自作詩人のGOKU氏はまた、最近自費出版で詩集を出した。
この詩集にあるのは、すべて彼の詩ではない。
詩人である自分が「読みたい」と思った詩を集めて綴った小さな詩集。
そのひとつを、今度は切々と読み上げる。

入り口においてあったその詩集は、あっという間に多くの人の手元に旅立っていった。

なかがわ氏に触発されたのか。
GOKU氏も脱ぎ始める。

お色直し後のGOKU氏は、おもむろにスケッチブックを取り出して観客の前に拡げる。「宇宙ガール」というタイトルの詩を朗々と読み、次第に観客を巻き込む。

「ありんこの声で!」「ロケットのスピードで!」「地球の声で!」
彼の指示にしたがって、観客もいろいろな声をイメージしながら共に言葉を発する。

やがて高まった熱が、GOKU氏の中で爆発。
ステージ上を「小宇宙」という言葉を発しながら飛び跳ねる。
飛び散る汗が見えるほどの爆発ぶりだ。

「なかがわさんのパンツ一丁にはかなわないけど。」

そういいながら、3度目のお色直し。

そして、持ち時間の30分の間……
いったいいくつの言葉を発したのだろう?

そのきらめきの余韻をステージにまき散らして、GOKU氏のステージ終了。

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猫道氏。

彼は、「猫道一家」の座頭なのだそうです。

今までは、この「猫道一家」というクルーでお芝居を発表していたそうですが、2008年にお芝居をやめてポエトリーリーディングに転向し、2009年より自ら主催するスポークンワードのイベントを渋谷 道玄坂のBAR SAZANAMIで毎月開催しているそうです。

先にも書いたように、「詩のボクシング」に参戦、そこでなかがわ氏と出会い、どうやらお互いにいいライバル、刺激を与え合う関係がそこで生まれたようです。

かつて、芝居の音響・演出・脚本などを手がけていただけあって、彼のステージの上にはいろいろな道具も並んでいました。
何が出てくるのか???それを見ているだけで期待感が高まりました。


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登場と共に、そこはたちまち、歌舞伎の舞台になった。
大声で名乗りをあげ、見得を切る。

……かと思うと、次の瞬間にはいつの間にか「ラップ」になって言葉がぽんぽんとポップコーンのように飛び跳ねる。

ぐいぐいと、観客をステージの上の「言葉」に引き寄せていく。
その瞬間に、舞台はもう猫道氏の世界。

飛び跳ねる言葉。
飛び跳ねる音。
飛び跳ねる、猫道氏。

それをとらえようと必死にステージに吸い寄せられる観客たち。
その緊張感が高まる中で、次にホールの空間に投げつけられた言葉にはっとする。

………………………・

「素顔」より ~一部抜粋~

一皮剥けたら元には戻せないのは、
あの塩釜の海岸で散々日に焼けた20年前のナツヤスミに戻れないのと同じことで、
変わらないのは蚊取り線香の匂いばかりです。

(中略)

人間椅子になって隠れたりしたい。
タイガーマスクになって悪者をやっつけたりしたい。
途中で我慢できなくなって、タマネギみたく皮を剥いて、
涙目の素顔をさらしたい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
みんな涙目になって皮を剥いたらいい。
その時、そっちのほうが素敵だって言ってくれる人が一人いたらいい。
「髪の毛切った?」って言われるのは
みんなうれしいと思うから。

………………………・

一皮むけたら、戻れない。
あの夏に戻れないのと同じように。

「素顔」というタイトルのこの詩が、なかがわ氏のかかげるテーマである「今」にだぶった。

そして、それは、今の自分の想いにもどかんと乗っかってきて……胸に堪えた。
胸の奥にたまっていた何かが、堰を切ってあふれ出そうになってあわててこらえた。

緩急織り交ぜたステージ上で。
期待通りに、猫道氏もお色直し。

猫道氏3態。

3枚目、一番右の写真で彼が手にしているのは。
「ネオンホール特製マイク」なんだそうな。

この特製マイクを握って、彼はこうつぶやいた。

「溶け始める時間を、たべる。
おいしいは、のこる。」

3人の熱いステージは、こうして幕を閉じた。
会場のネオンホールの空間に、その空気の中に、いつまでもその熱が漂って。
しばらくの間、冷めることはなかった。

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なかがわ氏の持っているテーマは、「今」なのだけれども。
その「今」の中にはまた、様々な人間模様が織りなされている。

この3人の「今」の中には、「今」に至るまでの「過去」があり、その「過去」を踏み台にした「今」があり、その「今」を積み重ねていくのが「未来」。

この3人の織り交ぜた「今」は、彼らがステージから熱と共に撃ちまくった言葉のマシンガンの目にも止まらぬ弾となって、それに射抜かれた人々の中に何かを残す。
そしてその人たちの中にある「過去」をほじくり返しながらそれぞれの「今」を実感させ、そして「未来」を思うきっかけをくれる。

言葉の持つ力は、なんてすごいのだろう。
そして、それを放つ人の力が加わると、何という破壊力を持つのだろう。

言葉が発せられるのはほんの一瞬なのに、命を得た言葉が、どんな力を持って人に迫るのか。

この2時間強の時間の間に、それを目の前にたたきつけられた気分になった。

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ちなみに、ネオンホールの階段ギャラリーでは、28日までなかがわ氏の展示も行われています。↓

なかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、このあとも続きます。

10年2月21日(日)「傘に、ラ。 vol.8 ~たかが芝居だ!~」
現代口語劇「餃子の なかみ」赤尾英二、司宏美、田中けいこ
アングラ劇「たかが芝居だ。」(脚本・演出・出演/なかがわよしの)、

10年3月7日(日)「傘に、ラ。 vol.9~たっちゃんと ゆかいな なかまたち~」
客人:田沢明善

10年3月14日(日)「傘に、ラ。 vol.10~僕たちはフィッシュマンズを聴いて育った~」
ゲストライブ
オサカミツオSLOWLIE、なかがわよしの、bubblesweet ほか(50音順)

10年3月21日(日)「傘に、ラ。 vol.11 ~つぶやいて、なんになる~」
@twitter

10年7月3日(土)「傘に、ラ。~今に生まれて今に死ぬ~」
出演:outside yoshino  タテタカコ

(写真、文:駒村みどり)