数学の文章問題でもそうです。問題を解く材料としての公式や計算をたくさんドリル学習します。そして応用の文章問題に行くと、もうそこで挫折です。つまり、その問題文章にどの公式を使い、どういう計算をして答えを導いたらいいのかが全くイメージできない。
同じ事がすべての教科に言えるのです。
さらに、先にも述べましたが「教科制」ということの弊害がそのイメージへの障壁を大きくしています。
たとえば、時間の計算や速さの計算、圧力や密度などは数学でも理科でも出てきます。けれど、数学の問題では普通に出来ても、理科の問題になると出来ない。わからなくなる。英語も国語も「言葉の組み立て」を学ぶ教科なのだけれど、英単語や漢字・熟語は単なる記号にしか見えないから文章に組み立てることが出来ない。
「学び」を細分化し、それぞれを関連させることもリンクさせることもないままでそれぞれの教科・単元ごとに内容を「教える」だけの状態では、学びとしてそれぞれがタコの足のようにバラバラに動いている状態で、それを一つにまとめる「イメージ」がない限りはまとまった動き(思考)には決してつながらないのです。
このタコ足学習である教科制を、クモの巣状態に張り巡らされた一つのネットワークの学びに変えるのが「総合学習」であって、そのクモの巣の材料として絡み合い、つなげる役目をするのが「イメージ」です。いかにそれをしっかりと密に絡めるのか、そのために必要なのがたくさんの「経験」「体験」です。
イメージが出来ない子供たちは、この経験や体験というものがとても限定されている場合が多いのです。
たとえば。あなたは子供のころに泥団子を作ったことがあるでしょうか。
泥が出来るのは、雨がふった後のくぼみ。砂地では無理で、砂よりももっと粒が細かい粘土状の土が必要です。雨がふった水たまりには、時にミズスマシが水の輪を作ります。雨のあとの空の青さを映し出します。雲の動きも映し出します。やがて、その雲があかね色に染まる。影が長く伸びて時の流れを感じ日の沈むのを見る。
手や、目や、鼻や、耳……身体の五感を使って、周りの空気や音や泥の感触、時に口に入ってしまってじゃりじゃりした感触と苦い味に顔をしかめ、こねる手から水の冷たさを感じます。どんなふうに丸めたらきれいな丸い団子になるのか。どのくらいの大きさだとうまくできるのか。力加減、形のバランス。泥と水の調合具合。
競い合って工夫し、勝てたときの喜び。頑張ったけど負けちゃった悔しさ。うまく作れず壊れてしまって競争に参加さえできない悲しさ。友だちに手伝ってもらって一緒に作る楽しさ。
春には水たまりに小さな蛙が飛び込む。秋にはトンボが飛んできて卵を産み付ける。夏の暑さには泥団子はあっという間にひびが入り、乾燥してしまう。冬の水たまりには氷が張る。泥に手などつけたら、あかぎれが出来るほど体温が奪われて切れるように痛い。
いかにたくさん作るのか。数を人と比べたり、教えあい協力して作りしながら学びあうことを「感じ」ます。
(3に続く)
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