観光再生の記事

今朝、目に止まった一つの記事があります。


Silenced by gaman」……「我慢という沈黙」

Japan: Silenced by gaman | The Economist より

すみません、これ、私が勝手に意訳したタイトルなのですけど、文面を読んでいて日頃強く感じていたことを思い起こしたので、こんな風に訳してみたのです。(もっと適切な役があったら是非教えてください)

記事の内容は、大約ですが「日本人は昔から我慢が美徳とされている。けれど、それが果たして『美徳』としてもてはやされていい物だろうか?」という投げかけから始まって、先週までに東北地方に投げかけられている三つの『課題』についてを考察しています。

一つ目は4月17日に東京電力の「当面収束に半年〜9か月」という発表について。

二つ目は4月14日に菅総理が行った「東日本大震災復興構想会議」について。

三つ目は、「エネルギー政策」に対する国のあり方について。

この三つの観点で考えた時に、日本の人は「我慢」という美徳の名の下にこれ以上沈黙を続けるべきなのだろうか?という投げかけの記事なのです。

この記事の最後にはこう記述してあります。
”If they are finally running out of gaman, it might be a healthy sign.”
(もしも彼ら(東北の人びと)が我慢の限界にきたら、それは正常なことなのではないでしょうか。)

私は常日頃から思っていたことがあります。「日本という国ではなぜ、革命が起きないのだろうか?」……と。

かなり過激なことだと言われるかもしれません。でも、ずっと人間…、日本やこの地球の歴史を見てきたときに、人びとは耐えられない圧力に対して「抵抗」という術を持っていました。それは時に暴力をともない、人を傷つけたり時に血を流し命を奪ったりという悪い形ででてしまう事もありました。

けれど、もしもそれがなかったら……「抵抗」という抗議の声がなかったら、私たちの今の幸せな「普通の生活」は成り立っていなかったんだろうと思います。

ここにあるのは「上」と「下」との関係。為政者と民衆との闘い。力のある者とそうでない一般の者との闘い。……というように、立場の違う者同士の間に起こる「不理解」がもとになって出来る「不整合面」の不自然だったり理不尽だったりする圧力からの解放……。つまりは、今回の災害の原因になっている「地震」の起こるメカニズムのようなものなのです。もっと言うと、「自然現象」の一つ。

ところが。
第二次世界大戦が終わり、日本が負け、そしてそこから立ち直ろうといわゆる「挙国一致」状態で日本が高度成長を遂げた頃から……いつの間にかこの「自然現象」は見あたらなくなりました。私が成長してくる過程で、東大の紛争・連合赤軍、そういうかなり衝撃的な「革命」の見出しが新聞記事に踊りました。

決してそれを肯定しようとは思いません。だけれども、そこにあった「エネルギー」は……「生きている人の力」を感じさせてくれる命の爆発は……強烈な印象を子供心に、そして社会全体に投げかけていたのは確かです。人の命を危ぶませ、暴力により世の中に一石を投じるという革命のあり方は推奨されません。けれど、「それしか訴える手段がなかった」状態に陥った社会にとってはこれほどの命の爆発が必要になっていたのは確かだろうと思います。

ところが、ここ数年。
日本という国とその社会全体は明らかにおかしな方向に迷走し、人や物の命の重さ・その熱さが忘れ去られ、かなりの「不整合面」があちこちで発生していたのにもかかわらず、「革命」は起きない。暴力に限らず、人びとはどうにも「あきらめ」てしまい、下を向き、そして自らの内面に向かって心を病み、命を絶つような状況が多発していることに対しても次第に「不感症」になりつつあった。

つまり……「怒っても当然」のことに対しての「怒り」さえも、失われつつあったように思います。

この記事を読んでいてそれを思いました。被災者の人たちは怒っていいんだと思います。それは、天の与えた災害に対してではなく、そこに至るまでの社会のあり方と、災害のあとの国のあり方に対して。

怒りは必要です。
「我慢するべき」怒りは当然ありますが、「我慢してはいけない」怒りもあるはずです。
その怒りが、社会や世の中を進めていくのですから。前進させるのですから。

かつては、人は力によってしかこの「訴える力」を持てなかった過去もありました。けれど、今は違います。ネットがあり、様々な表現手段が許されている今は、力に頼らずとも言葉や行動でそれを表すことができるはずです。下を向いているのではなく、正しい視点を持って正しい情報を集め、そしてそれをきちんと受けとめることができる人たちがどうしたら伝わるのか、どうしたらそれを形にできるのかを考えて集約することができるはずです。

エネルギー論争も、本来のこの日本の力を持っていたら原子力に頼らなくても太陽光などのクリーンで自然なエネルギーを大きなパワーに変えることが出来る力はあるはずだと思います。かつて日本がそれほど電気に頼っていなかった時代の状態を想い出してみたら、「電気が必要」な部分と「必要でない」部分をきちんと見分けて電気に頼らない社会が生み出せるはずです。

(実際、「節電状態」の今、真夜中が暗く星空が見える状態の快適さを想いだした人も多いのではないでしょうか)

人びとの応援の声が莫大な支援金となって形になっているのだから、それを「この先の復興」という大きな目標のために被災者の立場に立って、その目線や視点から有効に活用して行ったら、それが形になったら、失った物に心を寄せながらより温かく人の血の流れる町づくりが可能になっていくはずです。

たとえば、先日目にしたこの記事。
東日本大震災:家電6点セット購入に 赤十字社の義援金

果たしてこういう義援金の使い方が、寄付した人びとや、もっと言うと被災地の人びとの「本当の望み」にかなっているのかどうか?そういう観点で物を見たときに、「我慢」するべき事と「我慢しなくても良い」部分に対しての観点がどうにもずれているように私には思います。お金の使途を決めるのは、赤十字や国ではない。寄付した人たちの想いと、それを受けとめた被災地の人たちの本当の意味での「復興」……元気な世の中に戻るための力になる、という観点で考えるべき事なのではないでしょうか。

そのために、私たちは……自分の持っている「きちっと自分の足で立って歩いて行かれる社会」に必要な物、そのイメージを最大限に生かして拡げて、力にしていくことが大切なのではないかと思います。

確かな視点。
目先のことに囚われない、長い目で将来を見つめる目。

「我慢すること」は、人から押しつけられるのではありません。
「我慢」とは、自分の目標に向かい、明るい未来に向かうときにそれをかなえるためにすることであって、あきらめるためにする物ではありません。

我慢して下を向くのではなく、前を見つめて歯を食いしばって進む我慢。

自分と社会全体の進むべき方向の基準に基づいて「我慢すること」を自分で決め、確かな視点と方向性を持って今、力強い復活のイメージを目指してみんなで一緒に歩いて行くときなのではないでしょうか。

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最近、本編は休止状態でコラム「INTERMEZZO」ばかり書いていますが、このご時世と言うことでしばらくご容赦ください。たぶん、「イメージする事」の大切さや過去に学び、前に進むためにとても大切であることを「今この時」考え粘らない状態なのだと思います。だから、本編は一休みして、今この時に皆さんと考えたい事、考えるべき事をしばらく記述していこうと思います。

東京での山本さんのお仕事は、広告会社のプランナー。取りかかったのは実家のりんごジュースの「ラベル作り」。お友達に協力を仰ぎながらラベルのデザイン、ジュースのネーミングを考え、屋号をブランド化してデザインに組み込んで……と、まさに、彼の日頃の仕事はそのままご実家の実りへとつながっていきました。

この山本さんの取り組みは、ちょうどその頃セガレプロジェクトの取材に入っていたNHKでも番組として取り上げられ、ラベルが完成してはじめてセガレのマーケットで販売された「山本園のりんごジュース」は試飲した人たちから好評でたくさんの人が購入、それを体験した山本さんは、感激で涙が出そうだったといいます。

一方、NHKの放映の影響もあってその後もご実家のりんごジュースの売れ行きは好調。ご実家の両親の喜びようもひとしおで、それによって何より山本さん自身が「実家のために自分も役に立てた」という充実感を得る事が出来たのです。

親と子のつながり、農家のあり方。いろいろな形があって、いろいろなつながり方があって。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そういうイメージを持つことが出来た今は、以前の後ろめたさは消え去って、自分に出来ることを無理せず自分らしくやっていこう……と東京で今日も自分の仕事に、セガレプロジェクトの活動に、自分が出来ることを出来る範囲で「楽しく」取り組む毎日を送っているのです。

セガレプロジェクトのメンバーは、山本さんだけではなく皆、そんな風に「自分に出来ることを楽しみながら」無理せずやっています。自分の想いや自分の現状を曲げてまで無理して継ぐことばかりが親孝行ではなく。ほんとうの意味で、「楽しく豊かに」暮らす、ということを考えたらいろいろな形が見えてくる……。

セガレプロジェクトが今の世の中に発信しているイメージは、そういうあたらしい親と子の絆や、農家のあり方へのアイディアを日々さまざまなセガレ、セガールたちだけでなく、大都市志向、消費社会・流通社会の中で翻弄されて疲れはじめた日本の社会に提供してくれているように思います。

昨夏のバーベキューでは、そんな都会のセガレたちと長野県で実際に今、試行錯誤をしている農家のセガレたちが交流を持ったのです。都会のセガレと田舎のセガレがつながって、あたらしい何かが生まれそうな可能性で満たされた当日の会場でした。ここから先、どんなイメージからどんなアイディアが生まれていくのでしょう。このつながりが拡がって、何が生まれてくるのでしょう。

会場の熱気は、バーベキューコンロの熱や、夏の暑さからのものだけではない……とても明るくたくましい熱の高まりが、日本はまだまだこれからだよ!と教えてくれているような気がしました。

N-gene詳細記事:
「なから」がもたらす可能性(1)~セガレとセガレのBBQ
「なから」がもたらす可能性(2)~セガレとセガレのBBQ

セガレBBQ

Photo : Midori Komamura

「観光」という言葉は、「国の光を見る」という意味から生まれた言葉。

その土地に行った人が、その土地の人・地脈に触れて感じ、学ぶのが観光の本来の意味です。けれど「観光」を目指すことによっておもてなしをする土地の人々にとっても、それは大きな宝になる。

大久保さんはほっとステイのみならず、菅平に合宿に来る人々に対しても、またそこに生きる人々に対しても、その「光」を放とうと様々な試みをしています。

たとえば「爆音バス」で大久保さんは自分のホテルに泊まっている選手たちを激励しますが、そのバスは同時に菅平の道を歩く人々にむけての「おもてなし」の心の表れでもあります。

そんな風にもてなした人びとを、大久保さんはまるで家族のように大切にしています。

取材で訪れたときにちょうど合宿していた関西学院のラガーマンたちを「この子たちは強いよ!」と自分の子どものように嬉しそうに紹介してくれました。先日も花園で行われたラグビーの全国大会で彼らが上位進出を果たすと、自ら関西まで応援に出向きました。

会場で選手を激励するために何と「法螺貝」を吹いて審判に注意を受けてしまったそうですが、この法螺貝を聞いた別の方からは「興奮度が上がった」との好意的な声も。

大久保さんは、決して自分や自分のホテルだけのことを思って行動しているわけでも、菅平のことだけを思って行動しているわけでもありません。彼が出会った人々にかたむける想い、おもてなしの心は、ほっとステイでも、菅平を訪れるラガーマンたちにも、血のつながりはなくても心のつながる「第二のふるさと」を実現しているのです。

この「第二のふるさと」……帰ったら温かく迎えてくれる人がいる、というイメージは、菅平という土地を大久保さんと触れ合った人たちにとっては特別で忘れられない場所として色鮮やかに心に残ることでしょう。

そうして、大久保さんがつなげた人の輪は、高齢化や過疎化で担い手の減り始めている農村の皆さんにも、また観光という面で様々な見直しや試みを求められる菅平にも、この先どんどん力強く温かいイメージをもたらしてくれるに違いありません。

大久保さんの「家族」が増えるほどに。
菅平高原は人々の心の「第二のふるさと」として、生まれ変わって行くに違いありません。

詳細:N-gene記事
菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(1)
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(2)

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」でよみがえる、心の故郷 ほっとステイ菅平と真田町

長野県の東部、上田市の根子岳、四阿山の裾に拡がる菅平高原は、冬はスキー、夏はラグビーのメッカとしての観光や高原野菜で成り立つ土地です。

地球温暖化の影響で降雪量が減り、またバブル時代に最高潮だったスキーも今はスキー人口が減少し、客足は衰える一方。そのため、経営が成り立たずに閉鎖されたスキー場も長野県内には数多くあります。それは菅平高原でも同様で、冬のシーズンはかつてのようなにぎやかさがありません。

「夏のラグビー合宿があるので、まだ他のスキー場よりはいいけれど……」

そんな時代背景をいち早く察し、この菅平高原の観光のあり方を見直そうと頑張っているのが、菅平プリンスホテルの大久保寿幸さんです。

観光地としては、決して「有名どころ」ではないし、スキー場としたら志賀高原や白馬の方とは規模的に比べものにならない。ラグビーの合宿も、それだけで観光地として成り立つものでもないし、夏のシーズンだけのもの。これから先、観光地としてちゃんと成り立つためには「春・秋」といったオフシーズンや、菅平高原を支えるもう一つの要素である「農業」についてきちんと考えていかなくては……そのためには、どうしたらいいのだろう?

大久保さんの視点は、「今」の菅平をしっかり見つめつつ、その先を見据えています。かつてのスキーブームをいつまでもイメージしていたら、この先はない。菅平を元気にするには……と考えた大久保さんが、今取り組んでいることの一つが「ほっとステイ」です。

ほっとステイとは、菅平の麓にある真田町の農家に子どもたちが1日滞在し、農業や農家の生活を体験するというもの。それは、単なる農業体験ではなく、農家の人々の生活を通じて食べ物を作ることや土に触れること、それを軸にした食文化や生活の知恵・工夫を知り、体感することによるいわゆる「文化交流」のプログラムです。

今の子どもたちは、他人との交流が下手だとか、クールだとか言われます。
けれど、1日このほっとステイで時を共に過ごした生徒たち、農家の人々、それぞれの表情を見ていると、たぶんそれは今の社会の中で子どもたちが表現しにくい部分であって、人の根本はやはり時の流れがどうあっても変わらないものなのだ、ということを感じさせてくれるのです。

「おばあちゃんとお別れがさびしい」と泣く女子生徒。「ここは、第二のふるさとだ……。」とつぶやく男子生徒。彼らが帰るバスに向かって、見えなくなるまで手を振る農家の人々。

彼らの表情にはたった1日、という時間など関係なく、その時間の中でお互いの心の琴線がどんなに触れ合って響き合ったのかが伝わってきます。

そこで見、聞き、学んだものは確かに日頃得ることの出来ない貴重なものでしょう。けれど、それ以上に、それらのことを通じて人と人とのつながりの温かさ、強さというものがどこから生まれてくるのか、それはもともと人の中にあって、人を想う気持ちもちゃんと人の中にはあって、それらはお互いのものを温め合い、拡げ合うことが出来るものだということをそれぞれの表情から感じることが出来るのです。

このほっとステイは、生徒たちだけのものでも、また農家の方々だけのためのものでもありません。菅平という土地のためのものだけでもありません。人が人として生きていく上で、こういうものがあるのだ、という大切なものを関わるすべての人たちに伝える……イメージをもたらすものなのだ、と思えるのです。

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

小布施には高井鴻山という文人がいました。

造り酒屋の豪商である高井家は、八代目の時の天明の飢饉時に蔵を開放して人民の救済をし、そのため名字帯刀を許されたとされています。

その十一代目である鴻山は、京都に遊学して書・画・朱子学などを学び、幕末の様々な文化人との交流も深めています。小布施においては天保の大飢饉に際して八代目同様倉を開放して人民の救済を行い、塾を開いて地域の人民の教育にも力を注ぎました。

また、葛飾北斎を招き、彼をパトロンとして支援したのです。このつながりから北斎が何度も小布施を訪れ、「八方睨み」と言われる鳳凰画を完成させています。

鴻山はしかし、単なる資金援助をしただけではありませんでした。北斎の芸術・感性を大切にし、自らもその弟子として学んだのです。北斎の鳳凰図へのアドバイス、相談にも乗ったとも言われています。

鴻山のように、単に資金面での支援・援助のみでなく、文化や感性のような「心」の部分に至るまで、自らのもっているものを人々と共有し、それを支える姿勢やその仕組み。それが「旦那文化」です。

これはつまり、財産〜金銭〜だけの共有ではなく、思想や感覚の共有にまで及ぶものです。
さらに……それを時の政府という「公的なもの」がやるのではなく、「民が主体的に」行っているのです。ソ連や中国の「共産」がうまくいかなかったのは、民ではなく官主導で行ったという要素があるのに対し、小布施がなぜ、その豊かさを今まで絶えることなく受け継いでいるのかといえば、官主導ではなく民による自発的な「共産」が行われたから……なのだと思うのです。

高井鴻山の末裔である市村氏をはじめ、小布施に生き、小布施を愛する人々が主導して進めてきた小布施の町並み作りは「小布施方式」と言われて全国から注目されていますが、その根本に流れているものは「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という町民の意識。

すなわち「共有」という感覚で町が組み立てられているせい。さらに、外から持ち込まれる文化や物産、さらには人材までも分け隔て無く受け入れ、それもまた皆の財産として共有し、町の財産として分配されているのです。

小布施の町は、人が作っているのです。そこに住む人々が、それぞれの立場でそれぞれのもっているものを町のために共有し、分配しあうのです。だから、小布施の町はみんなが幸せで、みんなが豊かに生き生きしているのだろうと思うのです。

こう考えると……今、マルクスの思想が改めて見直されつつあることと、小布施の町に観光客の客足が途絶えないこととは何か通じるものがあるような気がしてきませんか?

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*なお、小布施町の市としての名残を感じることが出来る「安市」が今週末(14,15日)に開かれます。このコラム(1)(2)で使用した写真は安市のものです。お近くの方は、是非小布施に賑わいを体感しに行ってみて下さい。

小布施安市

Photo : Midori Komamura

共産党宣言を掲げたマルクスと、小布施。

この2つに共通点がある……といったら、「なにそれ!?」とあやしまれたりいぶかしがられたりするのかもしれませんね。

実はこの文章を書いている間、わたしはあるきっかけでマルクスの社会経済への提言について少し学んだのです。それまでは社会の教科書やら政治・経済のなかで「共産党や社会主義国の基礎を築いた人」というくらいにしか認識がなかったマルクスなのですが。

彼の「共産党宣言」のもとにあるのは資本主義を成立させ、さらに現在の経済の混乱を招いている「搾取の構造」……「労働力に対して正当な報酬がなされていない状態」のみなおし。

つまり、今、人々が「なぜこんなに働いても貧乏なままなのか、生活が苦しいのか」という疑問に陥っているその部分についての考察だったのです。

資本主義の社会は、結局マルクスの訴えているとおりの状態に陥り世界的な不況。かといって社会・共産主義国がうまくいっているのかと言ったら、こちらはマルクスの目指す思いをきちんとくみ取らないからソ連は崩壊し、中国はあやしげな方向へ暴走しています。

市村氏の取材、小布施の昨年数回にわたる取材、日頃通る町並みの観光客の多さなどから感じた「小布施の豊かさ」。これがどこから来ているのだろう、と、今回この原稿を書き進めているうちに浮かび上がってきたのはマルクスの訴える「共産」の思想と、小布施の市村氏の言葉でした。

【羅針盤】の対論で、現在の小布施の町並みを作り上げた一人である市村次夫氏の言葉に、こんな言葉がありました。

「ゾウの背中で、このゾウはオレのものだとアリが争っているようなもの。」

この言葉は、羅針盤を紹介するメルマガでも取り上げました。(〜共有が生み出す新しい町並み〜 市村次夫vol.1)もともと土地の所有権も社会の権力も、この地球の上の小さな世界のこと。人間がその浅い歴史の中で勝手に決めたことであって、歴史の流れからしたらほんの些細なこと。

そんな事でお互いの権利を争うのは、まるでゾウの背中で争うアリのように端から見ていたら滑稽なものだ、という意味です。

小布施町はもともと商業のまち。外から入ってきたものを取り入れることで発展してきました。そうして築いた富を一部のものが独占し、一部のものだけが肥えることなく様々な形でまちに還元していたのです。

その最たるものが「旦那文化」でした。

……(2)につづく。

安市

Photo : Midori Komamura

(1)「イメージ」の連鎖が作ったまちなみ 住む人が作るまち、小布施

今年のN-geneでは小布施に関して四回ほど取り上げています。

二月には「安市」を、五月には「境内アート小布施×苗市」を取材する中で見えてきたこと。それは小布施という町はかつて高井鴻山を中心とした旦那文化が盛んな土地で、豪商がその財力を文化や地域のために惜しげなく提供し、葛飾北斎をはじめこの小布施を訪れた文化人・著名人によって常に磨かれてきた小布施の文化の歴史のなか、信州の中では珍しく「外のものを積極的に受け入れる」という気風を育ててきたこと。

その気風や歴史は今でも大切に受け継がれ、その精神やそれを生かした町並み作りに取り組んだ【羅針盤】の市村氏との出逢いをひとつのきっかけに「小布施」に惹かれ、やって来た人がいます。それが現在、小布施の町の図書館「まちとしょテラソ」の館長である花井裕一郎氏です。

東京で映像作家をしていた花井氏は、仕事の関係で小布施町を訪れてそこに活きる人々や、町並みを作り上げているいにしえから受け継がれる心に感じるものがあり、ついにはこの小布施町に移り住み、さらにちょうどその頃に全国に公募されたこの町の図書館の館長に応募。2008年に館長就任以来、まちとしょテラソの館長として様々な取り組みを続け、全国から注目されつつあります。

このまちとしょテラソは、まさにイメージの固まりと言ってもいいのではないでしょうか。映像作家でもある花井氏の思い描く図書館のイメージは、「コミュニケーションスペース」。静かで厳粛な、と言う今までの図書館のイメージを見事に突き破ったこのまちとしょテラソは、しかし実は本来の図書館のあり方……原点に立ち返ったものなのです。

情報の集積所であり、また発信地でもある。そういう文化的なものを発信しつつ、そこで人々の交流も生まれ、発展していく。情報や文化を「享受」されるのではなく、自ら探り、体感できるペース。それがまちとしょテラソのイメージです。

まちとしょテラソ

Photo : Midori Komamura

さらに学校は今、非常事態のベルが鳴っているのにその音が聞こえないような状態になっている。非常ベルが鳴っているのに、誰も気が付かないし逃げ出しもしない。不登校の生徒たちは、気が付いて逃げ出した子供たちなのに、そういう子供たちは「はみ出した」生徒としてその声を聴いてもらえないのです。

そういうことを、学校の中からなんとか伝えようと思いました。けれど、とても難しいことでした。学校の中にいる状態のままでは絶対に気が付けない・見えないものがあることは、私自身がそういう状態にあったからよくわかりました。

私は、「この先をになう子供たちが、希望を持って進むための力をつけさせたい」から教師になったけれど、それは自分一人ではけっしてできることではありません。学校が一つになって、お互いに補い声を掛け合いながら生徒1人1人をしっかり見つめていかねば出来ない事です。

けれど、今の学校ではそれは無理でした。「古くからの体制」や「今までの流れを作ってきたルール」「先輩と若輩との世代の断絶」「より良いものを目指すためのモデルの不足」……そういったものが学校というものをがっちり固めてしまっていて、たった1人で声を張り上げようともどうにもなるものではなかったのです。

このままいても中から変えることは無理なんだ。そしてこぼれ落ちてしまった生徒は中からは救えない。

そう思った私は、25年間の教職生活にピリオドを打ちました。そしてこぼれ落ちた生徒たちの居場所作りや、うつ病のような心の闇に落ちた人たちが笑顔を取り戻すために出来ることをしていこう、と考え「スマイルコーディネーター」としての活動を開始、子供たちの個別学習指導を軸にして、これまでに記述してきた宮内氏とのプロジェクトに取り組んだり、うつ病理解のための活動を続けたりしてきたのです。

「どの人も、目指すものは同じで、そこに立ちはだかる壁も同じだ。」

ここまでの私自身のそういうもろもろに、ここまで出会った人々のそれが重なってきたのです。学校の中にも闘っている人はちゃんといました。N-ex Talking Over、羅針盤、N-geneの取材。みんな目指すもののもとにあるのは同じものでした。

「人の笑顔があふれる社会」

みな、自分のためだけに活動しているわけではありませんでした。自分の周りの人、家族、友人、地域、それから未来を担う子供たち、社会………そういうものに目をやって、そういうものの笑顔をイメージしつつ、私利私欲に囚われずにそれを目指していました。

そしてその人々に「立ちはだかる壁」は、警報が鳴っているのに気が付かない学校、社会、地域、家庭、形骸化した様々な決まり事や伝統、固定観念。

町づくりや観光の再生に取り組む人々の取材で教育問題に突き当たる。文化やアートの取り組みで社会の決まりや仕組みからの抵抗に突き当たる。そうして必死で「ほほえんで暮らせる毎日」を目指す人々は、みなどこか「はみ出したもの」であること。つまり、今の社会からはみ出して一歩外から眺める人々という点で、実はみんなつながっていたのです。

さらにこれは、第3章でも少し触れましたが、【羅針盤】で取り上げた人々にも共通する点でした。

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Photo : Midori Komamura

そして、その室賀氏の姿に重なってくるのが星野佳路氏のありかた。
子供のころから「古くさいなぁ」と思っていた自らの家は軽井沢の歴史ある温泉旅館。なぜこんな古いところに人が来るのだろう?という疑問は、やがて世界中のリゾートを見て回るうちに「そうか、これなんだ」というイメージと結びつくのです。

星野氏によって古い温泉旅館「星野温泉」は「星野リゾート星のや」として大胆に変わりました。訪れたそのたたずまいは、新しくて斬新で、「最先端」を各所に取り入れていましたが、けれどなぜかどこか懐かしい風が吹いていたのです。それはやはり、室賀氏と同じように新しいこと、アイディアをどんどん取り入れて、曰く「進化できるテーマ設定」をしながらも、「守るべき歴史の重み」はきちんとその根っこにしっかり流れているから……。

そして星野氏はそのテーマに、そこに働くものたちと見事に足並みをそろえて取り組んでいるのです。その手法のあれこれをお聞きしましたが、そこにあるのは「規律」とか「決まり」ではないのです。イメージの統一。みんなでひとつのイメージを持って、そこに向かう。やることはバラバラかもしれないけれど、ひとつのイメージに向かってそれぞれが自由に取り組むから全体の足並みはそろっていく。

室賀氏にしろ、星野氏にしろ、どんどん新しく進化するテーマを取り入れ、取り組んでいきながらもそのテーマのそこに流れているしっかりとした歴史に支えられたものが、人の心に安心や信頼といったイメージを伝えているから単なる「奇抜」なものではなくて新鮮で豊かに拡がるものとして、受け入れられてきたのでしょう。

新しいもの、面白いもの、驚きのあるアイディア。
こういうイメージを確かで安定したものにするのは「歴史」とのつながり。

歴史とはすなわち、そこに活きた人々の思いや心の温もりの集積であり、結果であり、学びの結果でもあります。そのイメージをしっかり持って新しいものを生み出す。その「つながり」が生み出すものが与えてくれる豊かさ……それはお二人の実績からも見て取れるかと思います。

鏑木武弥氏が土から受け取ったメッセージを飯田の市田柿のなかに見て、柿の歴史を徹底的に突き詰めた結果が、いまの「かぶちゃん農園」の基礎にあります。歴史や土地の力を受けとめた鏑木氏が柿をテーマにして生み出したものが、人々に伝わってどんどん拡がっていっています。

それはまた、小布施の町並みを作り上げた市村次夫氏の「歴史に学ぶ」という言葉にもつながってきます。小布施の今の町並み……町づくりのお手本として、多くの人が訪れる街、小布施を作り上げたその根本にあるのは「歴史に学ぶ」人々の姿でした。

六名の方々の収録の一回一回が終わるたびに感じたのは、自らの持つイメージをきちんと人に伝わる形にし、それを示すことの出来た人々から与えられる力がもたらすものの大きさです。そして、その力がどこから与えられるのだろうと改めて振り返ってみると、「歴史」というひとつのキーワードが浮かび上がって来るのです。

自らの夢……イメージを形にし、きちんと人に伝えることの出来た人たちの魂の言葉に「命」や「重み」……さらに「安心感」や「信頼感」を与えるもの……それは「歴史の重さや温もり」。

その土地に流れる時間や人々の思いをしっかり受けとめて、その歴史……その土地の「命の集大成」をエッセンスに加えたら、どんなに新しくて奇抜で、とてつもないと思われるアイディアさえも、しっかりとした形を持った「イメージ」として人に受けとめられ、伝わり、拡がっていく。

一方で、そのままでは時の流れの中に「古いもの」として忘れ去られてしまうはずの「歴史」に新しい命を吹き込むのが新鮮で奇抜なアイディアであるのです。その相互関係が是部妙なバランスの中で成立したときに、そこにあるイメージは豊かな香りを放って人々を魅了するのです。

そんな魔法の力が歴史と新しいアイディアにはあって、それを現実のイメージとして示すことのできたのが、この【羅針盤】の人々なのです。

アイディアのイメージを実らせる魔法は「歴史」。
歴史には魔法の力がある。
夢をあきらめないための後押しをしてくれるのも、歴史の力。

それぞれの人々の言葉の中には、実際にそれをどうするのかのヒントがたくさんつまっていたのです。

(*オーディオバイオグラフィー【羅針盤】については、六名各氏が語った言葉の中から大切なキーワードと思われるものを四つずつ選んで取り上げたメールマガジンが発行されています。また、CDの方はWebページにて紹介しています。)

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Photo : Midori Komamura

6 「イメージ」を実りに変える魔法 ~【羅針盤】の人々〜

「おいしいのは、おそばです」

このひとことは、善光寺を代表するお土産、七味の八幡屋礒五郎のCM。どんなに七味として人気が出ようとも、お土産として知名度が上がろうとも。あくまでも七味唐辛子は「薬味」であって、メインのごちそうではないのです。(そういいつつもちゃっかり存在アピールしていますが。)

それを表現したCMの一番最後に流れるのがこのコピー。もう一つのCMでは、他の調味料がどんどん人の手にとられていくのに、なぜか誰も使わない「七味」がクローズアップされて、「使われない日もあります」のひとこと。

……秀逸ですよね。

このCMが流れるようになったのは、【羅針盤】に登場した室賀豊氏が八幡屋礒五郎を背負って立つようになってのことでした。長野オリンピック、善光寺の御開帳。この10年前後に長野市をメインに繰り広げられた2大イベントで「お土産」としての知名度をさらに上げたばかりでなく、悲喜こもごもの観光業界の中でも八幡屋礒五郎の躍進は、端から見ても明白でした。

けれど、そうして八幡屋礒五郎の知名度がいくら上がっても、室賀豊氏自身は表舞台にはめったに登場しない。そう、「おいしいのは、おそばです」……七味はあくまでも引き立て役です……がまるで自分自身のそんな姿を表現しているように。

実際、この対論の収録におじゃました室賀氏の第一印象は「無口で物静か」。ここまで八幡屋礒五郎を躍進させた「やり手」のイメージとは正反対でした。創業280年という重いのれんを背負いながら、それをさらに躍進させるだけの力がどこから来ているのだろう?そう思いながら宮内氏との対論を聞いていました。すると、話が進んでいくうちに最初の印象とは違った室賀氏の表情がどんどん引き出されてきたのです。

室賀氏の持っているテーマのひとつが「面白いこと」。
どうせやるのだったら面白いことを……というコンセプトに基づいて様々な取り組みをしてきていた室賀氏。音楽缶。キットカットとのコラボ商品。

それからもう一つ、「あまり大きな声では言えませんが」と教えてくれたのが「脱・善光寺」。
善光寺のお土産物、という印象の強い八幡屋礒五郎が脱・善光寺って?と思うでしょうが、そのひとつの表現が「おいしいのは、おそばです」「使われない日もあります」のCMだったそうです。

室賀氏のあり方は、正直いって今までの流れからしたらかなり「奇抜」で「はみ出した」部分があるように思います。けれど、それがなぜ単なる「奇策」に終わらなかったのか……それは室賀氏の持っている絶妙なバランス感覚のなせる技。その根っこにあるのはやはり280年という歴史の重みと意味をきちっと踏まえた上での「面白さの追求」だったからなのです。

「どうせやるなら面白いことを。でも、面白いだけではダメ。」その目指す面白さの中には、単なる笑いをとるだけとか、その場の思いつき、という薄っぺらいものではない。そのアイディアに重みを加えているのが、子供のころからずっと身近に感じてきた280年の歴史によって積み上げられてきたものたちの実績とそこに心砕いてきた先達の温もりのなのです。

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Photo : Midori Komamura

実は、このオーディオバイオグラフィー【羅針盤】は、単なる一問一答式のインタビューではありません。

N-ex Talking Overや文化庁の事業を通じて目にした多くの可能性と、山のような課題。

それを目の当たりにしてきた宮内氏が自らの中にある問題意識を持って、その「可能性」を導くためのアイディアと課題を乗り越えるためのアイディアとを六名の人々から引き出していく「対論」。

つまり、宮内氏と向かい合う各氏、二人の会話の中からお互いの持っている経験や想い、アイディア、そういったものがぶつかり合い、絡み合ってどんどん拡がっていくものなのです。いわばTalking Overの根本の「立場や想いの異なる人たちの自由な討論」を基盤に置いたものなのです。

この「対論」形式による音声収録は、ものすごく面白い効果をもたらしてくれました。

この六名の皆さんは、長野県の中でも「よく知られた」存在。様々な講演会やインタビュー記事に登場することも多い方々です。収録当日にお会いするときにはそこからのイメージがあって、どちらかというと「雲の上の人々」という感覚で対するのですが、それはお会いした最初のうちだけ。

宮内氏との対論が進む上で、次第にその「人間味」のある部分がどんどん引っ張り出されてくるのです。いわば「よそ行き顔」で登場した各氏の表情が、まるで少年のようにきらきらしてくるのです。そうしてはずむ会話のやりとりの高揚感が、その場にいる私にも手にとるように伝わってきました。

それは、その場にいた私だけのものではなかったようです。

たとえば、この音声を編集して収録したCDの試作品を聞いた星野リゾートの広報担当の方から「お二人の話がどんどん盛り上がっていって、そのスピード感が楽しかったです。まるでジェットコースターに乗っているみたいな感じでした。」という言葉をいただきましたが、星野氏の日頃の語りとは何か違った感覚がこの対論から感じられたのでしょう。

対面する前は雲の上の存在だったこの「成功した人々」が、なぜ成功したのか……その答えがこの対論の中で見えてきたような気がしました。

ここで対論を交わした人々は何か特別なことができるわけでも、スーパーマンでも、仙人でもありませんでした。「観光カリスマ」といわれている星野氏も、「小布施町並み作り」が全国から注目されるところまで高めた市村氏も。この対論の中では肩肘張った“すごい人”というよりも、どちらかというと気さくな人々でした。

なぜ、この気さくな人たちが「やり遂げる」ことが出来たのか……。

何かをやり遂げるのは、特別な技術や才能が必要なわけではないのです。自分の身のまわりにあることをきちんと受けとめて、当たり前のことを当たり前と流さず、自分の持っているビジョンや信念としっかり絡めてより確実でしっかりした「イメージ」を持ち、それを人々にわかる形で、伝わる形で、表現することができる人々……。

つまり、「当たり前のことを、イメージに沿った信念を持ってあきらめずやり遂げる人々」だったのです。

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Photo : Midori Komamura

5 まるでジェットコースター。〜人間味を引っ張り出す対論〜

この【羅針盤】のを形にしていく上で大切にしたことが二つありました。

一つは、映像でも活字でもない「音声での収録」(それも、できるだけ編集はしないもの)にすること。
もう一つは、長野県という土地と、そこに住む人々をきちんと「イメージ」した事業を展開・成功させている人を選ぶこと。

今の世の中、映像があふれています。それはイメージを共有化し、情報をより正確に詳細に伝えるためにとても効果的な手段です。けれども、裏を返すとそれは「イメージの押しつけ」にもなるのです。

美しい風景としてテレビで映した画面のすぐ横には、ごみが落ちているかもしれない。泣いて悲しんでいる人の写真の裏側には、それを見て笑っている人がいるのかもしれない。

与えられた映像というのはそれを創り出したものの「イメージ」が介入したものであり、そこに良くも悪くもある「意図」が組み込まれます。つまり「事実そのもの」を伝えるものではないのです。

この【羅針盤】では、その「イメージの押しつけ」状態を極力排除しました。映像にすると、とったカットや場所によって見るものに「固定イメージ」を与えることになります。また、そこで得た情報を活字化し、本にしたら、話し言葉と書き言葉の与えるイメージも、文にまとめるものの「意図」がからまってきて本来の事実そのものと違ったイメージを与える可能性があります。

人の話す言葉には、「言霊」があって、その人の想いや命が載った言葉が体温を持って相手に届くもの。

それを出来るだけ正確に、その人が自身のアイディアやイメージを語る言葉をそのイントネーションや音の響き、さらにその場の空気感も丸ごと含めて人に届けたい。それを聞くこと、感じることで、その人の人柄や言葉の重みから生まれるイメージもあるはずだ……。

オーディオバイオグラフィーという発想は、そこから生まれました。

もう一つの観点である「人や土地を大切にした」という部分。

N-ex Talking Overや文化庁の事業を進める上で今の世の中がなかなか明るいイメージを持てないのはこの部分が足りないため。またそういう想いを持って人の笑顔を思い描いた活動をしている人々がぶち当たる厚くて大きな壁も、この部分への理解が得られず、それをイメージできない社会の事情に阻まれがちだからです。

その壁をぶち破って、自身の事業を展開し、成功に持っていくことの出来た人々の持っているパワーやアイディアは今なかなか進めない人々に何らかのイメージをもたらしてくれるでしょう。それだけの力を与えてくれる人々が、ちゃんと身近にいるのだ、ということを知るだけでも大きな力になるでしょう。

ジェットコースター

Photo : Midori Komamura

二つのプロジェクトから見えたもの、掴んだ可能性の未来について宮内氏と語るうちに、ひとつのぼんやりとしたイメージが浮かび上がってきました。

今の社会・世の中は、まるで嵐の海のようなもの。先は見えないし、それがいつおさまるともわからない。その荒れた海で避難する場所も見えずもみくちゃで息もつけない。時に嵐は、がっしりした大きな船でもたちまち飲み込んでしまう。ニュースを賑わせる大企業の突然の破産や倒産、経営危機。みんなが必死に嵐と戦っていて、どうしたらいいのかわからなくて。みんなが嵐を乗り越えるために必死でいろいろな手段を講じているけれど……なすすべもなく抗う力も失いつつある。

それを乗り越えるためにはどうしたらいいのだろう。

自分たちも、まだそれが見えない。実際にいろいろ無我夢中で取り組んではいるけれど、どうしたらそれがちゃんと実を結ぶのか、何を目指してどんなふうにしたらいいのかわからない。……その「イメージ」がない……。「乗り越えるイメージ」が欲しい……。

今の時代にありながら、ちゃんと苦難を乗り越えてしっかり立っている人々がいる。そこにはきっと、乗り越えるためのヒントになる「何か」があるに違いない。そういう人たちに会って話を聞いて、その「何か」を集めてみたらどうだろう?

今この時に必要なのは、「乗り越えるためのイメージ」……そしてそれは、嵐にも負けずにしっかり立つことができる人々の持っている「何か」。それこそが訳のわからない苦しい状態を抜け出し、この先進む方角を示してくれるための「羅針盤」になるのではないだろうか。

いろんな人に会って、話を聞こう。そこから何かが見つかるかもしれない。その人々の言葉を集めて、自分たちだけでなく、おなじようにもみくちゃになっている人々にも伝えられるような“何かの形”にしてみたらどうだろう?

こうして、二つのプロジェクトから見えた可能性をより確かなイメージへつなげる手立ての一つとして、オーディオバイオグラフィー【羅針盤】の構想が生まれたのです。

かりがわたる

Photo : Midori Komamura

INTERMEZZO4.「パワースポット」について。

ここで述べている「地脈」というのは昨今ブームになっている「パワースポット」のパワーに通じるものです。「パワースポット」が紹介されるとそこに人が殺到するけれど、この状況は非常に残念であると共に大きな懸念をもってしまうのです。

本来「土」にはどの土地でも「力」があったはず。地脈といわれるものはどの土地にもあるはずのもの。そもそも同じ地球の上で、大地はどこまでもつながっているわけで、地球はその内部に「核」を持ち、その核を中心に大地まで層をなしているのです。もともと一つのものから出来上がっているその地球で、源が同じであると考えればここだけ力があるとか無いとか騒ぐのはおかしなことではないでしょうか。

けれど、たとえばさっきも書いたが都会の真ん中に立っても大地の力を感じられない、長野で今人が殺到している戸隠の大地とは雲泥の差……。そういう「事実」はなぜ発生しているのでしょう。

都会のコンクリートで固められて、隔絶されて日も当たらない土からは、力を感じられないのは当然のこと。そういう状況を創りだしたのは、もともとちゃんと大地のパワーを感じとることも出来ないまま、自分たちの利便性のみを追求して自分勝手に環境を作りかえてしまった人間の仕業なのです。

そういう事実を踏まえずに、今、そういう間違った開発からかろうじて土地の人間が必死で守ってきた「パワーが残っている土地」に単なるブームだからと人が殺到しています。現に戸隠では例年の三倍の人間が押し寄せて、戸隠そばのお店は行列で一時間待ちはざらだそう。毎年ここを訪れる「常連」が今年は訪問をためらったり敬遠したり押しのけられたりする状態も発生しているらしいのです。

常連の人々は元々はちゃんとこの戸隠の地脈(パワー)を感じ、それを真に求めるからやってくる人々なのでしょう。一方で「パワースポットブーム」という形に乗せられ、一時期のうたい文句に踊らされてやって来た人たちがちゃんとパワーを感じて帰るのだったらまだいいけれど、果たしてどうなることでしょう?

交通の便が悪くて車で殺到し、排気ガスを例年の三倍まき散らされて人に三倍踏み荒らされて、普段は静寂に包まれた杉並木も物音が三倍増えて、駐車場やそばやの混雑で待ち時間にイライラする人々の負の気がどっとまき散らされたら……戸隠がここまで守ってきた「気」はどうなることでしょう。果たして耐えきれるのでしょうか。

願わくば、このブームによって土地の持つ本来の「気」をちゃんと受けとめられる人が一人でも増えて欲しいのです。そして、自分が毎日生活している土地にも、本来はちゃんと「気」があって、元気がなかったり弱められたりしている原因に目を止め、本来の気を取り戻そうという思いに結びつくことになっていったら、このブームがものすごく意味のあるものになるのだけれど……。

地脈は、日本だけでなく世界中を繋いでいる。地球上に本来は脈々とあまねく流れているもの。

その地脈を打ち消し、つぶす行為をするのはヒトだけなんです。ブームと騒ぐその前に、なぜ「一部の場所でしかパワーを感じ取れなくなってしまったのか」という問いに耳をかたむけ、真剣に頭をひねってイメージする人が1人でも増えてくれれば嬉しいなぁ、と思う今日この頃なのです。

米子

Photo : Midori Komamura

3 フォーラム南信州「祭の流儀」 (文化庁事業)

同じく2008年。文化庁・平成20年度「文化芸術による創造のまち」支援事業として宮内氏と取り組んだもう一つの企画。それが「フォーラム南信州“祭の流儀”」でした。

飯田・伊那を中心とする南信州という土地は、どちらかというと同じ県というよりも「独立した場所」という感覚が強いところです。諏訪湖から流れ出す天竜川が削り取った山と山に囲まれた谷と河岸段丘に細長く拡がった町。

今でこそ長野から名古屋に抜ける高速道路が通っているものの、それ以前は飯田線が外部につながる唯一の長距離交通網であり、さらに飯田線はローカル線であるので時間はかかるし本数は少ないし、東京に行くのにはいったん辰野まで北上せねばならないし、県庁所在地である長野に行くにはなんと半日以上の時間を要するといった有様でした。

県内のニュース、ということで南信濃の土地名が出てきても、そこがいったいどこにあるのかすぐに思い浮かべることの出来る人間はたぶん少ないでしょう。

そうでなくても南北に長い長野県。長野から高速道を利用して飯田に行くのと関東圏(埼玉あたり)に行くのと、ほぼ距離的には同じで、一方南信州からは県庁のある長野に行くよりも高速を使って名古屋に行く方が早い……とイメージするといかに南信濃という土地が長野県の中で「独立状態」にあるのかは伝わるでしょうか。

けれどそれは今の状態。かつて都が京にあった時代の南信州は信州の玄関口に当たる場所。

今でこそ長野県は高速道路や新幹線でだいぶ開かれたもののそれはまだ歴史に浅いことであって、「陸の孤島」と呼ばれていた時代、南信州は実は「文化の入口」であり「最先端」の土地であったのです。

今では交通網の関係でかなり取り残された感がある南信州ですが、もっと歴史をさかのぼるとそこにはかなり磨かれた文化が根付いていて、「独立状態」になってその独自の文化は逆に、いわゆる高度成長期の急激な変化の波をかぶることなく守られるかたちになりました。

「急成長」という呼び声のもと、日本各地ではその波に乗った人々によって古くからの伝統や決まりが形骸化していってしまったのに比べ、南信州のそれはきちんと「中身」=精神・意義・経験を伴ったものとして受け継がれて来ていたのです。その一つの形が「祭」でした。

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Photo : Midori Komamura

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PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

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     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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