日の丸の記事

わたしは、君が代を指導する立場の音楽教師として、当時の校長に「こういう問題が起こっているので、この曲の背景を是非、校長講話として全校の生徒に語ってもらえないでしょうか。」とお願いしたことがあります。

けれども、その願いも一笑に付され、鼻にもかけてもらえませんでした。
ですから私は自分の音楽の時間に、教えている子ども達に語りました。

「君が代や、日の丸は、とても美しい曲でデザインで、日本の誇りですよね。でも、この曲や、この旗を見ると悲しい思いや苦しい思いを想い出す人たちが世界にはいるのです。」

「残念ながら戦争という乱暴な行為の中で、日本は世界にひどいことをしてしまいました。その時に「日本の象徴」として使われていた日の丸は、そういう人たちから憎まれてしまったのです。君が代も同じです。だから、この曲を歌うときにはそういう悲しい思いをさせてしまった人たちがいることを考えながら、軽々しい気持ちでは歌わないでください。
廊下でふざけて歌っている人がいるけれど、そういう時にこの曲がどういう歴史を背負ってきたのかをちょっと考えてみてください。」

……子ども達は、真剣な表情で聴き入っていました。子ども達にもちゃんとわかるのです。

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今、日本は世界から注目されています。いい意味でも、そして最悪の意味でも。

震災によって未曾有の被害を受け、そこから立ち直ろうとしている日本人を世界は心から応援してくれています。その一方で、日本は世界で初めての被曝国でありながら、この地球に対して放射能汚染という最大の罪を犯すことになってしまいました。

それに対しての議論は今はしませんが、「日の丸」「君が代」を、世界に誇れる旗と歌にできるのかどうかを試されているときなのではないかと私は思います。

条例で不起立の人間を処分します……なんて正直くだらないことをいっているときでしょうか?そんな事よりも、なぜ不起立の人間がいるのか、考えてみてください。

そんな世の中になって「強制反対」という言葉さえも言えなくしてしまう社会だったから……日本に原発が存在してこんな状況になってしまったんじゃないのか……日の丸君が代の「強制」と、それに対しての処分という実はまったく視点の違う対立問題は、ある意味原発の建設についてもきっと賛成派反対派で似たような視点の食い違いや情報操作のようなことが起こっていたのではないかと思うのです。

君が代、日の丸、に何も罪はありません。これが国旗、国歌であることに反対する人はたぶんほとんどいないんです。反対するのはその「強制」に対して。

そのあたりの視点を一つ持って日本という国のあり方について見直してみたら、原発問題にしても、天下り問題にしても、政治の問題にしても、「本当にこの国が進むべき道」がどこにあるのかが見えてくるのではないのでしょうか。

そうして日本が、世界に胸を張って歩ける国になったとしたら……この震災を通してみんなの心がそこに向かって一つになっていくのだとしたら……世界の平和の象徴として、この国が存在することができるようになったら、きっと「強制」などしなくても、みんなが胸を張って日の丸を仰ぎ、君が代を大きな声で歌う時が来るに違いないのです。

震災を乗り越えて、悲しみの上に立って、胸を張って世界の平和を真剣に考え、世界の先に立って平和に向かうことができる国、日本。その象徴として「君が代・日の丸」……あの美しいメロディーが流れ、シンプルでも印象深いデザインの旗が青い空にはためいたとしたら……それはとても美しい情景に違いないと、皆さんイメージできるのではないでしょうか?

けれど、そうしていくら現場の教員が声を上げても結局「国旗及び国歌に関する法律」は1999に制定・施行されることになるのです。……運動会の旗が、どう頑張っても日の丸に変えられてしまったように……そこには「議論」も「討論」も成り立たなかったように……。

新聞の報道を見ていると、「教員が国旗・国歌〔日の丸君が代〕に反対している」という印象をどの記事からも感じます。けれどそれはたぶん大間違いなのです。不起立をするのも、歌わないのも、日の丸君が代に反対しているわけではない。それを「強制」する立場に……無言の圧力に……有無を言わさない力に対しての反対なのです。

けれど、報道ではそれを決して明かしません。そこまできちんと「反対する教師の言い分」を明記してあるものはほとんとありません。だから世間から見たら「教師はなぜ、日の丸君が代に反対するのだ?」という感想しか出てこない。

怖いと思いませんか?「強制」という事実がそこにあるのに、報道によってそれが「情報操作」されて「日の丸君が代のどこが悪いのだ?なぜ反対するのだ」という世論にすり替えられていってしまっているのです。

そしてそれはまさに、軍国主義に突入していくときの国や上層部のやり方でもあったのです。

この「イメージの操作」は非常に恐ろしいものです。反対している人たちの頑張りを逆手にとって、自分たちの想いに添う世論にすり替える。正論をうやむやにして不当な抗議に置き換えることによって社会を思うようにコントロールする。

「何で学校の先生は君が代日の丸に反対するの?見苦しい」
「国の歌や旗を敬うのは当たり前じゃない。それが出来ない人はやめればいい。」

こんな意見も目にします。非常に恐ろしいのです。「やめればいい」という世論が「当然の意見」となってしまったら、必死でこの危険と闘っている人たちを、世の中を守るために闘っている人たちを、その世の中が見捨てることになるのです。

この記事の最初に掲載させていただいた写真は「レイバーネットジャパン」の『根津公子さんのメッセージ~「日の丸・君が代」の強制について考えてみませんか?』という記事から引用させていただきました。

根津さんのメッセージには、そのことが詳しく書いてあります。この方はずっと闘い続けています。大好きな「君が代」「日の丸」を悪用されないために、利用されないために……そして本当の意味での「国歌」「国旗」となるように……。

その5に続く)

「君が代」と「日の丸」を国歌、国旗として使ってきたのは明治時代からです。日本が開国し、世界の国の仲間入りをするという上でもそれは必要なことだったのだろうと思います。

けれど、やがて日本が世界の中に自らの力を誇示し、「軍事国家」として肩を並べていくほどに、この国旗と国歌は「強い日本」を作り上げるためにその柱として……利用されるようになっていったわけです。つまり、日本は天皇の国であり、天皇陛下=日本のためにあなたたちは働きなさい、戦争に行って国のために命を惜しむ事なかれ……と「刷り込み」をし、その象徴として君が代や日の丸が使われたわけです。

つまりは国民にとっての「踏み絵」でもあったわけですよね。キリスト教徒にとってキリスト像を踏むことが罪であったように、日本の国民たる者、その象徴である天皇に逆らうべからず、ひいては国歌・国旗である日の丸君が代に対しても敬意を表して直立不動で向かうべし……。

「強い日本」「神国日本」の象徴として戦争で「外国の侵略」の旗印としても使われた日の丸ですから、当然その旗を「憎む」人やその旗に対して「深い苦しみ」「大きな傷の痛み」を持つ人だっているわけです。それは、いまだにいるわけです。

けれどそれは決して「日の丸」や「君が代」の罪ではありません。それを「神国日本」の象徴だと刷り込み、直立不動で敬うことを「強制」した時代と社会の罪なのです。

「義務化」という言葉から、その歴史を知り、教える立場にある教師たちが「疑問」を持ち考えて反対すること……それは当然の成り行きなのではないでしょうか?戦争に向かう時代、上層部はまずどこから手をつけたか、といったら「教育」です。未来を担う子ども達にそういう「イメージの刷り込み」を行うのです。すでにしっかりとイメージを持ったおとなの考えを変えるよりもずっと楽に「軍国主義」を植え付けることができるのです。

1990年代、というのはバブルが崩壊しつつある不安定な時代でした。けれど社会はいまだにバブルの後遺症から抜け出せず、日本は世界の中でもいまだに強い立場にあると思いこんでいました。時代背景は大正から昭和にかけての世界の強豪と張り合ったあの頃に似ていました。

そこに来て「日の丸君が代」の強制が教育現場に忍び寄ってきたわけです。

(その4に続く)

〔続き〕
職員会の討論のきっかけになったのは、「運動会に例年は来入児の旗として、その年の一年生が描いた絵を使っていたけれども、今年の運動会からは日の丸にします。」という提案からでした。〔もう20年以上前のことなので、記憶は不確かですけれど〕

毎年一年生が、次の年にやってくる「後輩」のために描いていた絵を日の丸に変える理由とは何でしょう?来入児が初めて「小学校」に係わる行事で、お兄さん、お姉さんが「元気で学校においで、待ってるよ」と描いてくれた旗を手にするのが恒例だったのです。その旗で迎えられる来入児が、一年生になったときにまた次の来入児のために絵を描く。想いのリレーだったそれをやめてまで、なぜ日の丸、なのでしょうか?

職員会で議論が起こりました。「なぜ?」と聞いても「こうします」と言うだけでその理由は明らかになりませんでした。結局それはそのまま「押し切られ」て訳のわからないままにずっと続いていた一年生の旗作りは消えてみんな同じ「日の丸」になりました。

そして卒業式での君が代強制。……そう、「強制」という文字が付くのです。それまでも当たり前のように歌っていたのです。それが「歌いなさい」となったわけです。それがどういうことを表すのか……教員たちは考えたのです。

その3につづく)

「レイバーネットジャパン」より転載

大阪府の地域政党「大阪維新の会」代表の橋下徹知事は17日午前、君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案の他に教員の処分基準を定める条例案を9月府議会に提出する方針を明らかにした。教員が不起立を繰り返せば、懲戒免職処分にできるルール化を目指す。

という記事を目にしました。この記事をきっかけにWeb上でいくつか「日の丸・君が代」についての議論を目にしたけれど、なぜこの議論がいつまでもやむことがないのでしょう。じつは、どうもこの議論については「賛成派」「反対派」の観点がずれている……もしくは、報道の仕方によってゆがめられているようにしか思えないのです。そこに潜む「危険性」について「イメージ」という視点から考えてみたいのです。

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「日の丸の掲揚と君が代の儀式における斉唱を義務化します。」

そういう話が上ったときに、学校の職員の間では議論が巻き起こりました。もともと、国旗日の丸、国歌君が代、ということ自体については何の疑問も持っていなかったわたしですけれど、強い懸念を持ったのはこの「義務化」という言葉に対して、でした。

音楽の教師だったわたしは当然、「君が代」を全校の前で指導することが「義務付け」られるわけです。けれど私の中の感覚は、「なぜ、そんな事をいまさら言うの?」でした。

卒業式では今までも歌っていましたし、子供のころからテレビを観ているときに国技である相撲でも、日本が世界の強豪と競う競技……オリンピックや世界選手権などでも、君が代が流れ、メダルを首にかけて胸を張った選手が上っていく日の丸を感慨深く仰ぎ見る姿をテレビの画面で見て感動をもらっていました。

卒業式の練習で、沢山練習した「卒業式の歌」の中でも、君が代は歌いやすさと馴染みのあることで子ども達は廊下でも歌っているくらいにみんなが気軽に歌っていました。日の丸も、旗、というと白い紙に赤いまるをぐるぐる描くだけの日の丸は、小さな子どもにもかけるもの。お子様ランチの旗にも、マンガにも登場していました。

そのくらい「浸透」していたのです……君が代も、日の丸も。

それを「義務化」という言葉が出てきて、そこに「強制」が発生したのです。確認してみるとこの義務化が始まったのは1990年、そして国旗国歌法という条例化をされたのが1999年です。けれど、学校現場で最初に「義務化」という言葉を聞いたのはわたしがまだ子どもを産む前のことでしたから1990年よりもさらに2〜3年前のことだったはずです。

その2につづく)

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PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
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  信州あそびの学園

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     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

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WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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