8月15日……今日は「終戦記念日」ですね。
明治の開幕と共に、日本は「鎖国」による世界の中での遅れ(鎖国の時代のものが必ずしもすべて「遅れている」とは私は思っていませんが)を帝国主義、富国強兵を唱えながらあっという間に取り戻し、世界に名だたる強国として列強に肩を並べながら突っ走ってきた日本が、決定的な打撃を受けて敗れた日。
それは、日本が生まれ変わる一つの大きなきっかけの日でもありました。
敗戦後にも幸いにして他国の支配下に置かれることなく立ち上がって生まれ変わり、世界に誇る「平和憲法」を生み出した日本は、敗戦後、ふたたびめざましい復興を遂げました。人と人との絆、ものを大切にする心……日本人の持つよい気質を最大限に発揮して日本は高度成長を遂げました。
けれどふたたび世界の頂点に近づいてきたところで、いつの間にかそこに「驕り」が生まれ、大切なものを置き去りにしはじめていた日本。
人の絆・ものを想う心。季節の移り変わりを愛おしむ心、自然とともに生きる力、そして大地や人やものに感謝する心、畏敬の念。ひたすら上を目指す毎日の中で、そういうものに気持ちをむける余裕を失ってしまって、心を病む人、自ら命を絶つ人が増えていく状態に対して為す術もなくなってしまっていました。
今年、日本はふたたび大きなきっかけをもらいました。
未曾有の災害に見舞われ、多くの命……人やものの命が失われました。生活が破壊され、故郷を失い、その一方で高度成長の驕りの固まりである「原発」によって日本は私たちを育んでくれているこの世界や地球に対して「加害者」にもなってしまいました。
これは、ある意味「戦争」による痛手と似たように思います。
戦争では多くの被害者がでます。その一方で戦い、人やものを踏みにじる加害者ともなるのです。戦争のあとには何も残りません。それは勝っても負けても「財産」になるものは何もない。そして今年の3.11の災害と、その後に起こってきた物事からも同じむなしさや悲しさを感じます。
けれど、そのどん底の状態に陥った時に、私たちは多くのものを失って、そして同時にその哀しみの涙によって自分たちの目や心を覆っていた「傲慢さ」も共に取り払われたのではないかと思うのです。
生きる、という事に対して余計なものを今まで負いすぎていた私たちは、いつの間にか「命」がもっとシンプルで美しく、何よりも大切な宝物であることを見失っていたように思います。生きる事、それ自体が私たちに与えられた最高の名誉であり、特権であること。それを感謝して受けとめ、享受すること。…・そのシンプルで何よりも大切な事を、あの哀しみとその後に続くここからの不安の中で思い起こす人がとても増えてきたように思います。
写真は古いきり株の上に芽吹いた新しい芽です。今の日本はこの状態なのだと私は思います。今生きている私たちは、この過去の復興のイメージを持ちながら新しい復興の時に関わることができるのです。
失われたたくさんのものを、その犠牲を犠牲のままにしないこと。過去の事例を思い起こしながら、この先まだまだ続くたくさんの困難に立ち向かう勇気を持ち、たくさんの犠牲を私たちの心のエネルギー源として、この先の世界をふたたび笑顔と喜びと感謝に充ちたものに育てていくこと。
私たちには今、その事に関わる権利が与えられているのです。
この先の世界を創りあげるのは、私たちなのです。
それは私たちに与えられた最高の特権だと私は思います。
3月11日。
終戦記念日が平和を目指す第一歩の日になったように、この日を哀しみの日で終わらせず、いつの日か振り返った時に、復興の歩みの第一歩を記した日である「復興の日」とできるような日本であればいい………。
終戦記念日の朝、そんなイメージがふと浮かびました。
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付記:あの3.11以来、この連載本編はストップしたままです。あの衝撃とこのあとのことをイメージした時に、わたしもものすごくいろいろなことを考えて本編の続きを書くどころではなくなっていたのです。けれど、私の書いてきたことがこの先にも必要であることが見えてきて、また少しずつエネルギーをもらいはじめた今、少しずつ続きにむけての新しいアイディアを持ちつつありますので、再び書きはじめられそうです。再開後はまたよろしくお願いいたします。