第3章「イメージ」の根っこの上に花開く"今"。

風子2

Photo : Midori Komamura

けれど、彼女は気が付いたのです。
「死んでも、自分は障害者のまま。死んでも何も変わらない。だったら生きたい……。」

そうして彼女は、その足にペンを持ちました。……詩を書きました。
その足に、絵筆を握りました。……たくさんの「絵」や「絵足紙」が生まれました。
その足で、キーを叩きました。……キーボードからたくさんの音を奏でました。

そして、その中で……自らの「人とは違う」=「障害のある」身体さえも、胸を張って受けとめ、人の前にでて講演をし、その想いや願いや感覚を人に伝える活動に取り組みはじめたのです。

冒頭に描いたように、彼女の言葉はとても聞き取りにくいものです。自分の思惑とは逆に、「話をしよう」と思うと脳から余計な緊張の「命令波」が出て、体中が硬直してしまうからです。

それ以上に、ひとめ見た時に明らかに異なった外見は、時に好奇の目を誘います。

けれど、たとえば学校の講演で……「何でそんなヘンな格好なの?」という子どもたちの素朴な質問を、彼女は押しとどめようとはしません。

「普通の」「常識ある」大人は、顔色を変えてその言葉を止めて隠そうとする中で、「そうでしょ、おかしいでしょ?」と彼女は笑顔で答えるのです。

「見た目がおかしい」「自分たちとは違う」……そう素直に感じた子どもが発する言葉を、「止めなさい」と押しとどめること自体がすでに、「そう言うことは思っても言ってはいけない」という常識の中で、「障害に対して興味を持つことはいけないこと」というマイナスのイメージを植え付けてしまっていることにそういう大人たちは気が付いていないのです。

むしろ、風子さんのように、「おかしいものはおかしいよね」と認め、だけどそこには「こういう理由があって、こういう苦労があって、だけどこんな風にがんばっているんだよ」という赤裸々な事実を正直に、ストレートに、伝えてあげる。

そうすることで「おかしい、なぜ違うの?」というイメージを「違うことの理由や違うことで発生する事実」を認識して正しいイメージにつなげていく事の出来る人を創り出すことが出来るのです。

風子さんは、自分の姿を人前に出すことを厭いません。その胸を張った姿に、「障害」という言葉を「差別」の線ひきで使うことの愚かさを、人は言葉よりも文章よりもダイレクトに心で受けとめて理解することが出来るのです。

それによって「人は違って当たり前」というほんとうに「当然のイメージ」を人は再確認することができるのです。

彼女の様々なものを生み出すその足のつま先に小さな火のようにともったようも輝く赤いペディキュアと、それから文字通り彼女を支え続けて来た手入れされた美しい足の動き。

誰よりも輝いて自分を生きている風子さん。その笑顔の前には「障害」とか「人と違う」などという「区別」の意味のなさを実感するのです。

風子さんが笑うと、周りの人も心から笑う。
その笑顔の連鎖を生み出すイメージは、彼女が様々なものを乗り越えたその上に成り立つところから来ています。

常識とか、正しいこととか、そんな事はどうでもいい。

自分が自分であり、自分が自分として与えられたものの中で必死で生きている。
その「事実」は、何よりも生きることについて強く明るく希望のあるイメージ。

……それが、彼女の笑顔のもたらしてくれるものなのです。

詳細N-gene記事:
心は体には囚われない〜風子、その1〜
心は体には囚われない〜風子、その2〜

(3) 「イメージ」がつま先からほとばしる 風子の絵足紙&トーク

ライブのステージの上で、彼女はものすごく汗をかく。
汗をかくと、ひょいと近くに置いてあるタオルを足でつまみ上げ身体をぐっと折り曲げて額の汗をふく。

そうしてまた背筋を伸ばすと、屈託のない笑顔でお客さんに話しかける。その笑顔……周りの人間も思わず巻き込まれてしまうその笑い声は、時に豪快ですらある。

「彼女」の名は、風子。

彼女は足でつまんだタオルを横に置くと、「それじゃ、次はこの曲ね。」そういってキーボードを足で奏ではじめる。

残念ながら、ちょっと慣れないと彼女の言葉はとても聞き取りにくい。だけど、周りの人間はそんな事は気にしていない。言葉は聞き取りにくくても、ちゃんと「通じて」いることが人びとの表情からは見て取れる。

風子さんは、その足でまた絵を描き、詩を紡ぐ。時に編み物もし、クッキーも焼く。
彼女の両手は、ほとんど動かない。「小児マヒ」……幼い頃発熱した。高熱が続き、その熱が下がったときに、彼女の身体は自分の想うようには動かなくなっていた。

この第三章の2節に記述したように、今までは「はみ出した」人たちを主に取り上げてきました。けれど、この第三章の終わりに取り上げる風子さんは、「有無を言わさずはみ出させられた」人です。つまり、自分の意志ではみ出したわけではなく、偶発的に与えられた状況からそこに追いやられた人、です。

一般的に「障害者」といわれる人たちは、その「障害」が先天性であろうが後発的なものであろうが、「普通の人とは違う」という観点から「区別」されます。そしてその「区別」のための線ひきは、そのまま「差別」の目印として機能します。

私たちは自分のことを「普通」に思いたい。だから、自分とは違うという「区別する存在」を見つけることで、自分は普通なんだ……という安心感の中に浸りたい。そこに生まれるのが「差別」という認識なのだと思います。

そして、その区別された人びとは、相手の安心感のために自分の存在を時に否定され、正しい認識の無いままに傷つけられて多くのものは「世の中」と離れたところで生きるしか無くなるのです。

けれど、風子さんは、その「障害」という区別の中に置かれ、「出来ない人」という認識に子供のころから追いつめられて来たけれど、そこに留まっていることはなかったのです。

きっかけは、好奇心を満たそうとする欲求。
小さな子どもが自分の手を使っていたずらも出来ない事でつのるイライラが、自分の「可能性」を開くきっかけになったのです。手が出ないから足を使った。自分の想いが、それでかなった……。

「足が使える」「手よりも思うように動かせる」

そう思って、手の代わりに足を使った。たったそれだけのことなのです。だけどそれは、「手を使うのが当たり前」の世の中で、「足は地面に触れるから汚い」という常識の中で、「肯定」されることは難しいことでした。

外に出ることが怖いと想い、ひとの言葉がまるで機関銃やマシンガンのように心を射貫く。自分が生まれてきたことの意味さえもわからない。

「死」をいう言葉も何回も頭をよぎる……。

(その2に続く)

風子1

Photo : Midori Komamura

時にはオギタカさんの朗読を聞くときもあります。

「大地のめぐみに ありがとう」「いのちのつらなりに ありがとう」「環になって 和になって おどろう」……「アフリカの音」という絵本です。

この本が与えてくれるイメージ。それは「すべてが循環していくことの大切さ」。

音あそびの会に持って行くこの本。会場の人たちは目をつぶって朗読をじっと聞き、受けとめます。時によっては様々な楽器の音がそこに「色」を添えることがあります。

そうして鮮やかに彩られた循環のイメージは、その場にいる人たち1人1人の中で、自分の周りにいる人たち、家族、友人、そういう人たちとのつながりだけでなく、大地、自然、地球とのつながりのイメージにまで拡がっていくのです。

「命だけでなくすべての事はつながっていて、つながることで大きな意味が出てくる。
昔で言えば子供は友だちとの遊びを通して自然に身に付いてきたものや、大人も地域とのつながりによって育んできたものがある。


 それが希薄になって来ている現代。 みんながどんな壁も関係なくフラットに付き合えたら、もっと楽しく、もっと豊かな世の中になると思います。
それは僕が障害のある子供を持ったからより強くそう思うのかもしれません……。 」

オギタカさんはこの想いを持ちながら様々な人たちと、様々な音を重ね、つながっていく……それがこの「音あそびの会」。そこには、大人とか子どもとか、男とか女とか、教える方と教えられる者とか、音楽の上手い下手とか、障害のあるなしなんてまったく関係のない世界が拡がります。

それは音楽活動を続ける中で様々な人たちとの出会いや、アスペルガー症候群といういわゆる「障害児」とされるお子さんとの毎日から受け取ってきた豊かなものたちが集結した、オギタカさんの一つの「実り」の形でもあります。

こうして、様々な場所で、様々な形で「命」や「大地の鼓動」と言ったイメージが音に乗って拡がっていき、そこにいる人たちとつながることで生まれる彩りをさらに重ねながら、オギタカさんと人たちとの間でどんどん循環し、さらにあたらしい生き生きとしたイメージを生みだしていくのです。

まるで人を創る細胞が細胞分裂してあたらしい細胞に生まれ変わっていくように……。

もしも、このイメージによってつながりあった人びとでこの社会や地球が満たされていったら……この世界はそれは色鮮やかで豊かな、人と人とが優しく寄り添いあえる世の中になって行くに違いありません。

N-gene詳細記事:
届け、つながれ。〜大地の鼓動・風の歌〜

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」がつなげる大地のパワー オギタカ・音あそびの会

「大地のめぐみに ありがとう」
「いのちのつらなりに ありがとう」
「環になって 和になって おどろう」

音ひとつないしーんとした静寂の中で、ちょっと低くやわらかい声が言葉を紡ぐ。彼を取り囲むたくさんの視線は、真剣にその声の主を射貫く。さっきまで笑顔と様々な打楽器の音であふれた教室と同じものとはとても思えない。だけど、そのどちらもが人の持っている本質の表出なのだろうと思う。

声の主は、オギタカさん。彼は作曲家として数々のゲーム音楽を手がける一方で、シンガーソングライターとしても精力的なライブ活動を続けています。

そのライブで彼が奏でるのはピアノと、「ジャンベ」や「バラフォン」といったアフリカの楽器です。

オギタカさんはライブの時に首に提げたジャンベをたたきながら楽しそうに歌うので、お客さんもいつの間にかいっしょに歌い踊っている……自然とからだが動き、リズムの波に揺られてあふれる音に身体をゆだね、その場が一つの大きな輪に包まれる……そんな感じなのです。

アフリカでは、ジャンベやバラフォンのような楽器は「会話」のために使われているそうです。その音を聞いていると、リズムと音の強弱と、さらに高低と……様々な要素が絡み合って、人の叫びやささやき……魂の鼓動に聞こえてくるから不思議です。

もともと、音楽というものは人がその想いやイメージを人に伝えるために生まれてきたもの。そういう意味でアフリカの楽器たちはシンプルに、ストレートにその楽器本来の意味や命を果たしているのかもしれません。

それを強く感じることが出来るのが、オギタカさんがもう一つ想いを注いでいる「音あそびの会」です。

何回か、オギタカさんの「音あそびの会」に同席させてもらいました。

どの場面でも、最初その場にいる人たち(子どもだったり、大人だったり様々です)は、物珍しい楽器と「音楽」を目の前にかなり緊張の面持ちで始まりますが、オギタカさんに導かれながらジャンベに触れ、たたき、その音の「表情」を感じ始めるとまるで子どものような無邪気な笑顔が拡がりはじめます。

アフリカの楽器に限らず、オギタカさんは川原の石や竹筒まで、みんな楽器にしてしまいます。オギタカさんのリードでそれらを使って周りの人たちと音による「会話」を楽しみます。上手い、下手なんかなく、とにかく表現して伝える。その表現がたくさんの人に「伝わる」と、笑顔や感動の輪が拡がっていくのです。

そこにいる人たちは、自分の表現を伝えようと気持ちを注ぎます。だから、聞く方も全身を耳にして受けとめます。音を奏でる手先に注目し、その音を一つも逃さないように身を乗り出します。すると、発する方はさらに心を込めて奏でます。そこにはちゃんと音を通じた「コミュニケーション」が成り立っているのです。

(2に続く)

音あそびの会

Photo : Midori Komamura

次から次へとステージでマイクの前で展開されるパフォーマンス。

どの人も、自分なりの気持ちや想いを、自分なりの表現を持って、自由にマイクの前で放ちます。それを受けとめる人たちは、そこに展開する様々な情景や言葉やイメージの中に遊び、それを感じて楽しんだり拡げたり味わったり。それもまた、聞く方の自由です。

そして、聞いているうちに何かが生まれたら、その人もまた、マイクの前に立ってそれを放つ。

……そんな「イメージの連鎖」がこの会場では行われているのです。

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「言葉ってもっと優しかったはずだと思うんです。そもそもは、コミュニケーションのツールであって、人と繋がるための道具なわけですからね。でも現代ってそれが忘れられているような気がします。

世界が言葉によって、否定されていく。 人が言葉によって千切れていく。 絆を断ち切るために用いられる言葉。……そういうマイナスの使われ方が多いような気がします。


たぶん言葉は泣いてるんじゃないかな。 だから、言葉っていいね。 ってことを伝えられる場になればいいんじゃないかな。 」

そう、GOKUさんは語ってくれました。

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言葉は、人とつながるためのもの。そのために命を持って生まれてきた。

そのイメージのもとに展開されるオープンマイクに集まってくる人たちは、2時間ほどの時間の中でその命を感じ、受けとめて、それぞれの場所でまた自分のイメージをそこに乗せて放つのです。

優しく温もりのある言葉が、こうしていろいろな場所で放たれて、それが拡がっていったのなら。人の心を伝えるという、本来の命を持った言葉がこの世界にどんどん拡がっていったら。

……世界は、もっともっと優しく体温を持ったものになって行くに違いありません。

N−gene関連記事:
「ことだま」が飛び交うところ~オープンマイクatネオンホール
言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」は長野市ネオンホールにて毎月開催中。
(日程はネオンホールHP参照)

オープンマイク名なしのゼロ

Photo : Midori Komamura

(1) 「イメージ」で言葉は生きて動き出す GOKUのオープンマイク

「今日、ステージでやってくれる人?」

開始早々マイクの前で問いかけがある。その声に応じて数名の手が上がる。
手を挙げたものは一人、二人とマイクの前に立っていくけれど、その手は時間と共に減るどころか増えていく。

ルールは簡単。

持ち時間は一人5分。5分でまだ途中の時は、その先4分59秒まで延長が可能。マイクの前に立った人は、そこで何をするのも自由。もちろん、会場にいる人間にも参加の強制はしない。やりたい人はやる。聞きたい人は聞く。

そのルールに従って、あるものは朗読し、あるものは寸劇をやり、あるものは歌い、奏で、あるものはいろいろ宣伝し、あるものはただその場で思うがままに語る。「マイク」という一つの表現の「場」を通じて、自らの思いや感覚をそこに載せて会場に拡げる。

それが、「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」。主催しているのは、詩人のGOKUさんです。

彼は、朗読をライフワークにしています。だけどメランコリックに語る人ではないのです。

言葉の持つイメージを自らの中で熟成し、そうして生み出した言葉のつながりを自分の体全体で……時には汗だらけになって飛び跳ねながら、時には声も枯れんばかりに絶叫し、時には今にも泣きそうな消えそうな声で……「表現」するのです。

彼の発する言葉は皆、生きています。彼は「朗読」もするけれど、彼の中に取り込まれた言葉は、皆命を持って彼の中から飛び出していきます。その勢いは時に聞くものの胸を貫くのです。

「詩のボクシング」という朗読の大会があって、そこに出場したGOKUさんはそのあたりから「言葉を発する」事を意識しはじめたと言います。

言葉はなにも、メッセージ性のあるものばかりではない、言葉で感じて、言葉で表す……もっともっと言葉遊び的な感覚を大事にしたい。

言葉の意味よりも命を大切に……だから、彼が発する言葉は一つ一つがちゃんと「生き生きと」命を持っているのでしょう。

そんなGOKUさんが出会った「オープンマイク」。

その起こりはラップやポエトリーリーディングのような言葉による表現パフォーマンスによるスポークンワードという芸術ジャンルです。アメリカに始まったそれが、日本で「オープンマイク」として一つの形として拡がってきたのです。

こんな言葉と音との表現の場を自分も作ろう。自らが誘われて体験したそれを、協力者たちの支えの中で月に一度続けているのが「名もなきオープンマイク0(ぜろ)」なのです。

(2へ続く)

ななしのぜろ

Photo : Midori Komamura

東京での山本さんのお仕事は、広告会社のプランナー。取りかかったのは実家のりんごジュースの「ラベル作り」。お友達に協力を仰ぎながらラベルのデザイン、ジュースのネーミングを考え、屋号をブランド化してデザインに組み込んで……と、まさに、彼の日頃の仕事はそのままご実家の実りへとつながっていきました。

この山本さんの取り組みは、ちょうどその頃セガレプロジェクトの取材に入っていたNHKでも番組として取り上げられ、ラベルが完成してはじめてセガレのマーケットで販売された「山本園のりんごジュース」は試飲した人たちから好評でたくさんの人が購入、それを体験した山本さんは、感激で涙が出そうだったといいます。

一方、NHKの放映の影響もあってその後もご実家のりんごジュースの売れ行きは好調。ご実家の両親の喜びようもひとしおで、それによって何より山本さん自身が「実家のために自分も役に立てた」という充実感を得る事が出来たのです。

親と子のつながり、農家のあり方。いろいろな形があって、いろいろなつながり方があって。無理をして家に戻って家で働くこともひとつかもしれないけれど、こんな形もあるのかもしれない。そういうイメージを持つことが出来た今は、以前の後ろめたさは消え去って、自分に出来ることを無理せず自分らしくやっていこう……と東京で今日も自分の仕事に、セガレプロジェクトの活動に、自分が出来ることを出来る範囲で「楽しく」取り組む毎日を送っているのです。

セガレプロジェクトのメンバーは、山本さんだけではなく皆、そんな風に「自分に出来ることを楽しみながら」無理せずやっています。自分の想いや自分の現状を曲げてまで無理して継ぐことばかりが親孝行ではなく。ほんとうの意味で、「楽しく豊かに」暮らす、ということを考えたらいろいろな形が見えてくる……。

セガレプロジェクトが今の世の中に発信しているイメージは、そういうあたらしい親と子の絆や、農家のあり方へのアイディアを日々さまざまなセガレ、セガールたちだけでなく、大都市志向、消費社会・流通社会の中で翻弄されて疲れはじめた日本の社会に提供してくれているように思います。

昨夏のバーベキューでは、そんな都会のセガレたちと長野県で実際に今、試行錯誤をしている農家のセガレたちが交流を持ったのです。都会のセガレと田舎のセガレがつながって、あたらしい何かが生まれそうな可能性で満たされた当日の会場でした。ここから先、どんなイメージからどんなアイディアが生まれていくのでしょう。このつながりが拡がって、何が生まれてくるのでしょう。

会場の熱気は、バーベキューコンロの熱や、夏の暑さからのものだけではない……とても明るくたくましい熱の高まりが、日本はまだまだこれからだよ!と教えてくれているような気がしました。

N-gene詳細記事:
「なから」がもたらす可能性(1)~セガレとセガレのBBQ
「なから」がもたらす可能性(2)~セガレとセガレのBBQ

セガレBBQ

Photo : Midori Komamura

(3) 「イメージ」がつなげる親子のきずな 「セガレプロジェクト」

「ずっと、実家の両親には申し訳ないという後ろめたさがありました。」

そう語ったのは、昨年の夏の初めに菅平高原で出会った山本圭介さんです。この日、菅平では40名ほどの若者たちがバーベキューを囲んでにぎやかに交流しました。

この集まりは「セガレ」メンバーの集まり。「セガレ」とは何かといったら……いわゆる農家の二代目世代たち……要するに、農家のセガレたちのグループです。

大都会東京に出ていって、実家でそれまで当たり前のように触れていた「農」と切り離れた生活をしていたけれど、「実家で何作っているの?」という会話をきっかけにつながった3人の「農家のセガレ」。

ちょうど当時、「食の安全」に対しての社会の認識が強まっていたこともあってその3人で「都会では農に関してプロ並みの自分たち。実家で丹精している作物をそういう自分たちが売ったらどうなるだろう?」と思って有楽町の「市」で販売してみたら、完売。

「これはいけるのかもしれない」

そうして始まったのが「セガレプロジェクト」。3人の周りには、同じように実家が農家で、でも都会の大学や会社にでてきて実家とは離れていて、帰りたいけど帰れなかったり、迷っていたり、という「セガレ」や「セガール」たちがどんどん集まって、今では50〜70名ものメンバーが参加しています。

山本さんは、そのうちの一人。実家は志賀高原の麓でりんごと巨峰を作っています。
3人兄弟の真ん中で、お兄さんも東京。実家の農家は一番下の弟さんが手伝っていて、ずっと「弟や実家に申し訳ない」という後ろめたさを抱えていました。

そんな時に友人に教えられてこのセガレプロジェクトのHPを見た山本さん。

「自分と同じような立場の人たちが自分と同じ境遇で実家を継がずに東京で働いているにも関わらず、マーケットで実家の野菜を売ったり商品をブランド化したり、東京で働きながらでもちゃんとアクションを起こしている人がいる。自分も今の環境のままで実家に対して何かできることがあるんじゃないか」。

その“なにか自分もできるかもしれない”という「イメージ」は、山本さんをこのプロジェクトへの関わりへと駆り立てました。

2010年の4月、セガレのホームページに自由大学でセガレの講義(セガレ日和)開催の案内を見て参加。実際に活動しているセガレメンバーに加わって交流するうちにふくらんできた想い。

五回目のセガレ日和、自分だったらどんなアクションが出来る?というテーマの「自分プロジェクト」の発表で、山本さんは自分の出来ることとして「実家と東京をつなげ、実家を楽しくするために」……というイメージのもとに考えたのが「山本園ブランド化計画」。

☆実家(山本園)の作物をブランド化。
☆実家からの直販ではできない“付加価値”をつけて作物をより魅力ある商品に仕立てる。
☆ブランド化した“付加価値”を実家に還元する。

という3つの柱をもとに、実家で作っているりんごジュースのブランド化を企画します。それまでは実家のりんごジュースの売り先は知り合いからの受注だけで、どこかに卸しているわけでもなく、ラベルのない瓶そのままで販売していたそうです。

農作物を「作ること」にはこだわりがあってもそれを「売ること」は視野になく、農協に卸してそれでおしまい、どこの誰が食べているのかもわからない、そんなご実家の状況を見ていて疑問を感じていた山本さん。

きちんとブランド化して直接販路を開拓したら多少高くも売れるだろうし、食べてくれる人の顔も見えるし、買う方からしても安心感がある。日本の農業はそういう方向へ向かうべき……とずっと持ち続けていたイメージが、ここで実際の形として動き始めたのです。

「観光」という言葉は、「国の光を見る」という意味から生まれた言葉。

その土地に行った人が、その土地の人・地脈に触れて感じ、学ぶのが観光の本来の意味です。けれど「観光」を目指すことによっておもてなしをする土地の人々にとっても、それは大きな宝になる。

大久保さんはほっとステイのみならず、菅平に合宿に来る人々に対しても、またそこに生きる人々に対しても、その「光」を放とうと様々な試みをしています。

たとえば「爆音バス」で大久保さんは自分のホテルに泊まっている選手たちを激励しますが、そのバスは同時に菅平の道を歩く人々にむけての「おもてなし」の心の表れでもあります。

そんな風にもてなした人びとを、大久保さんはまるで家族のように大切にしています。

取材で訪れたときにちょうど合宿していた関西学院のラガーマンたちを「この子たちは強いよ!」と自分の子どものように嬉しそうに紹介してくれました。先日も花園で行われたラグビーの全国大会で彼らが上位進出を果たすと、自ら関西まで応援に出向きました。

会場で選手を激励するために何と「法螺貝」を吹いて審判に注意を受けてしまったそうですが、この法螺貝を聞いた別の方からは「興奮度が上がった」との好意的な声も。

大久保さんは、決して自分や自分のホテルだけのことを思って行動しているわけでも、菅平のことだけを思って行動しているわけでもありません。彼が出会った人々にかたむける想い、おもてなしの心は、ほっとステイでも、菅平を訪れるラガーマンたちにも、血のつながりはなくても心のつながる「第二のふるさと」を実現しているのです。

この「第二のふるさと」……帰ったら温かく迎えてくれる人がいる、というイメージは、菅平という土地を大久保さんと触れ合った人たちにとっては特別で忘れられない場所として色鮮やかに心に残ることでしょう。

そうして、大久保さんがつなげた人の輪は、高齢化や過疎化で担い手の減り始めている農村の皆さんにも、また観光という面で様々な見直しや試みを求められる菅平にも、この先どんどん力強く温かいイメージをもたらしてくれるに違いありません。

大久保さんの「家族」が増えるほどに。
菅平高原は人々の心の「第二のふるさと」として、生まれ変わって行くに違いありません。

詳細:N-gene記事
菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(1)
「第二の故郷」は土の匂い〜ほっとステイin真田(2)

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

(2) 「イメージ」でよみがえる、心の故郷 ほっとステイ菅平と真田町

長野県の東部、上田市の根子岳、四阿山の裾に拡がる菅平高原は、冬はスキー、夏はラグビーのメッカとしての観光や高原野菜で成り立つ土地です。

地球温暖化の影響で降雪量が減り、またバブル時代に最高潮だったスキーも今はスキー人口が減少し、客足は衰える一方。そのため、経営が成り立たずに閉鎖されたスキー場も長野県内には数多くあります。それは菅平高原でも同様で、冬のシーズンはかつてのようなにぎやかさがありません。

「夏のラグビー合宿があるので、まだ他のスキー場よりはいいけれど……」

そんな時代背景をいち早く察し、この菅平高原の観光のあり方を見直そうと頑張っているのが、菅平プリンスホテルの大久保寿幸さんです。

観光地としては、決して「有名どころ」ではないし、スキー場としたら志賀高原や白馬の方とは規模的に比べものにならない。ラグビーの合宿も、それだけで観光地として成り立つものでもないし、夏のシーズンだけのもの。これから先、観光地としてちゃんと成り立つためには「春・秋」といったオフシーズンや、菅平高原を支えるもう一つの要素である「農業」についてきちんと考えていかなくては……そのためには、どうしたらいいのだろう?

大久保さんの視点は、「今」の菅平をしっかり見つめつつ、その先を見据えています。かつてのスキーブームをいつまでもイメージしていたら、この先はない。菅平を元気にするには……と考えた大久保さんが、今取り組んでいることの一つが「ほっとステイ」です。

ほっとステイとは、菅平の麓にある真田町の農家に子どもたちが1日滞在し、農業や農家の生活を体験するというもの。それは、単なる農業体験ではなく、農家の人々の生活を通じて食べ物を作ることや土に触れること、それを軸にした食文化や生活の知恵・工夫を知り、体感することによるいわゆる「文化交流」のプログラムです。

今の子どもたちは、他人との交流が下手だとか、クールだとか言われます。
けれど、1日このほっとステイで時を共に過ごした生徒たち、農家の人々、それぞれの表情を見ていると、たぶんそれは今の社会の中で子どもたちが表現しにくい部分であって、人の根本はやはり時の流れがどうあっても変わらないものなのだ、ということを感じさせてくれるのです。

「おばあちゃんとお別れがさびしい」と泣く女子生徒。「ここは、第二のふるさとだ……。」とつぶやく男子生徒。彼らが帰るバスに向かって、見えなくなるまで手を振る農家の人々。

彼らの表情にはたった1日、という時間など関係なく、その時間の中でお互いの心の琴線がどんなに触れ合って響き合ったのかが伝わってきます。

そこで見、聞き、学んだものは確かに日頃得ることの出来ない貴重なものでしょう。けれど、それ以上に、それらのことを通じて人と人とのつながりの温かさ、強さというものがどこから生まれてくるのか、それはもともと人の中にあって、人を想う気持ちもちゃんと人の中にはあって、それらはお互いのものを温め合い、拡げ合うことが出来るものだということをそれぞれの表情から感じることが出来るのです。

このほっとステイは、生徒たちだけのものでも、また農家の方々だけのためのものでもありません。菅平という土地のためのものだけでもありません。人が人として生きていく上で、こういうものがあるのだ、という大切なものを関わるすべての人たちに伝える……イメージをもたらすものなのだ、と思えるのです。

ほっとステイ

Photo : Midori Komamura

本を探したいときには、「連想検索システム“想”」。自分の知りたいことについての言葉一つでそれに関連する本がぱっと表示される。今までのような本のタイトルや著者からの検索では見つからない、意外な本が引っかかる可能性、そこからどんどん検索が拡がっていく可能性。検索一つとっても、かなり楽しい作業が可能になります。

その他、国立情報学研究所との共働によるデジタルアーカイブの研究。小布施の直接は手に取れない古い貴重な文書が誰でも読めるようにデジタルアーカイブ化が進められています。これによって江戸時代に日本全国の文化人と交流のあった高井鴻山が集めた鴻山文庫も、立派な活用できる資料としてよみがえりつつあるのです。

また、iPod,iPhone用のアプリ「小布施ちずぶらり」、このアプリがあると小布施町の現在の地図だけではなく、「いにしえの小布施」(江戸時代の地図)を持ちながら小布施の町を散策することも出来るのです。

花井氏・まちとしょテラソを中心にして生まれてきたそれらの動きは、小布施という町の持つ立派な歴史と、町に活きた人々が積み重ねてきたすばらしい文化を今に受け継ぎ、生かすもの。単に「懐古主義」とかメランコリックな思いのものではなく、きちんと「今」に歴史の流れを受け継ぎ、つなげるもの。そしてそれが、小布施町の未来とその可能性へとつながっていくのです。

歴史と、その積み重ねが生み出す力強い未来への展望「イメージ」が、小布施の町を作っています。そして、その歴史が育んできた「人を愛し、人を育てる」気風が、花井氏をはじめとする多くの人々を小布施という小さな町に惹きつけ、引き寄せる。

小布施を愛する人々が自らの生きる場所を「人の住む街」として作り上げ、その心が感じられる町並みを訪れる人々をまた魅惑するのです。

そのため、北信濃のほんの小さな町に過ぎない小布施町は、平日でも観光客の姿が絶えることはありません。そしてそんな「人の生きる、人の住む街」小布施では、まちとしょテラソの取り組みだけではなく、あちこちでいろいろな試みが日々積み重ねられていくのです。(記事参照)

小布施町の躍動。それはそこに住む人々の力強い未来にむかって進む足音でもあり、心の高鳴りでもあるように思います。歴史に支えられ、それを今に繋ぐことが出来ると、こんなにも未来への明るいイメージを描き出す事が出来るのです。

一度小布施町を訪れてみてください。一歩その町並みに降り立ったら、それは実感として……力強いイメージとして、あなたの中に湧き上がってくるはずだと思います。

詳細:
☆オーディオバイオグラフィー【羅針盤】
第3巻 市村次夫
☆N-gene小布施関連記事
商業の町、小布施に受け継がれるいにしえの心〜「安市」
「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(1)(2) 〜境内アート小布施×苗市〜
原点に立ってめざす「先進」の姿〜小布施、まちとしょテラソ〜
寄り道、みちくさ、まわり道 〜たどり着いた“小布施の花井”〜
ちりも積もれば宝になる〜まちとしょテラソ1周年

小布施

Photo : Midori Komamura

(1)「イメージ」の連鎖が作ったまちなみ 住む人が作るまち、小布施

今年のN-geneでは小布施に関して四回ほど取り上げています。

二月には「安市」を、五月には「境内アート小布施×苗市」を取材する中で見えてきたこと。それは小布施という町はかつて高井鴻山を中心とした旦那文化が盛んな土地で、豪商がその財力を文化や地域のために惜しげなく提供し、葛飾北斎をはじめこの小布施を訪れた文化人・著名人によって常に磨かれてきた小布施の文化の歴史のなか、信州の中では珍しく「外のものを積極的に受け入れる」という気風を育ててきたこと。

その気風や歴史は今でも大切に受け継がれ、その精神やそれを生かした町並み作りに取り組んだ【羅針盤】の市村氏との出逢いをひとつのきっかけに「小布施」に惹かれ、やって来た人がいます。それが現在、小布施の町の図書館「まちとしょテラソ」の館長である花井裕一郎氏です。

東京で映像作家をしていた花井氏は、仕事の関係で小布施町を訪れてそこに活きる人々や、町並みを作り上げているいにしえから受け継がれる心に感じるものがあり、ついにはこの小布施町に移り住み、さらにちょうどその頃に全国に公募されたこの町の図書館の館長に応募。2008年に館長就任以来、まちとしょテラソの館長として様々な取り組みを続け、全国から注目されつつあります。

このまちとしょテラソは、まさにイメージの固まりと言ってもいいのではないでしょうか。映像作家でもある花井氏の思い描く図書館のイメージは、「コミュニケーションスペース」。静かで厳粛な、と言う今までの図書館のイメージを見事に突き破ったこのまちとしょテラソは、しかし実は本来の図書館のあり方……原点に立ち返ったものなのです。

情報の集積所であり、また発信地でもある。そういう文化的なものを発信しつつ、そこで人々の交流も生まれ、発展していく。情報や文化を「享受」されるのではなく、自ら探り、体感できるペース。それがまちとしょテラソのイメージです。

まちとしょテラソ

Photo : Midori Komamura

村の一員としての仕事をやり遂げる実感が、子供たちの得る収穫です。

子供たちの世界の中で年上のもは誇りを持ってその「祭の心」を守り、それを見た年下の子達は守るべきものをやり遂げるために必要な厳しさややり遂げたことの満足を自ら感じることで「社会の一員」としての生きるあり方のモデルをイメージとして積み上げていくのです。

それはこの地区の子供たちだけではありませんでした。

南信州遠山郷で冬の寒いさなかに行われる「霜月祭」。八百万の神が集まってくるとされるこの祭で奉納される神楽の面をつけるためにはその土地に根ざしている人々が練習を積んでようやく許されることですが、保存会の指導を仰いでその面をつけての舞いの習得に学校を挙げて取り組んでいたのが今はもう廃校となってしまった上村中学校でした。

神に捧げる舞いは神聖なもの。面をつけることの「意味」を子供のころからちゃんと受けとめてきた生徒たちは、面を生かすために真剣に舞い踊り、「神さまなんてばかばかしい」などという子は1人もいません。

そうして真剣に舞う姿の中に「かっこよさ」を感じることができる生徒たちがこの神楽を受け継ぎ、同時に神をあがめ、感謝を捧げる精神も受け継ぎ、その土地の人々が流してきた汗や誇りをも受け継いで、故郷上村を愛する子供たちはやがて大学、就職などで土地を離れてもこの祭には帰ってくるのです。

寒空の中で、白い息を吐きながら大きななべに豚汁を作っておにぎりと共に訪れる人にふるまうのは高校生。大人たちに混ざって、背筋を伸ばして横笛を吹く男の子。赤い火を噴く大きな竈を取り囲んで祈りを捧げるその周りで、笛太鼓に合わせて飛び跳ねるはっぴを着た若い衆。

子供たちはその中でちゃんと「地区の一員」として位置づけられ、その土地の命をしっかり感じて育ちます。土地の命を受けとめて成長するのです。「祭」というひとつの「イメージ」が、社会の一員としての自覚と責任と、それを担うことのできる誇りと喜びを、子供たちの中にちゃんと形作っているのです。

過疎化、高齢化、そういう現実のなかでこれらの村々から育った子供たちがどんな花を咲かせていくのか。

それはこれからのことにはなりますが、少なくとも今、ここで育まれているイメージは、子供たちの中にけっしてくらい影を落とすものではないことは、その表情から明らかに見て取れたのです。

関連本文:フォーラム南信州「祭の流儀」(1),(2)

詳細:
フォーラム・南信州「祭の流儀」第1回
フォーラム・南信州「祭の流儀」第2回「ことの神送りを追いかける」
N−gene記事 (いずれも文:宮内俊宏・写真:駒村みどり)
「事の神送り」を追いかける」1〜4
遠山郷・上村中学校のこと

南信濃の子ども

Photo : Midori Komamura

(3) 「イメージ」が支える子供たちは強い 南信濃で出会った子供たち

「ダメだダメだ。今笑ったやつがいた。坂の下からやり直しだ!」

大きな太鼓を背負った(たぶんかなり重たいだろう)リーダーの厳しい声が飛ぶ。一瞬「えー」と言いたそうな表情をすぐに引き締めて、小さい子達は急坂の遥か下に戻っていく。

「ことの神送り」という祭があります。事の神、というのは風邪や厄という「寄りついて欲しくない」神の存在。毎年2月に南信州の飯田上久堅地方で行われているこの祭は、そういう「厄の神」を各家から集めて村の外れの深いヤブに捨てに行く祭。

それを取り仕切るのはすべて子供たち。大人は見守るだけで、寒い冬の空気に顔も手も真っ赤になった子供たちが広い村中をまわって訪れるとぼた餅をふるまってねぎらったり、温かい豚汁で迎えたりする以外は一切手出しをしないのです。

小学3年から中学2年までの地区の子供たちが念仏を唱えて広い村中の家々をすべて訪れます。身体の大きいリーダーの中学生たちは、小さい子供たちを労りつつ、けれど祭のルールや約束事を破ることは許さないからどんなに坂がきつくても、やり直しはやり直し、できるまで何回も繰り返すのです。

息が切れてもそうしてルールを身につけて、小さい子供たちは一緒になって地区の一員として、子供の一員としての「役割」を果たします。家々からはそういう子供たちに「お礼」が手渡されます。集計して祭りの後に均等に配分する、その会計の係も子供たちの役目です。

唱えて歩く念仏は、日が落ちて「夜」になってからは昼間と言葉が変わります。時計はないから空を見上げて「一番星」を探します。見落とさないようにしっかりみんなで探し、一番星を見つけたら夜の念仏にきり変えます。

夜遅くまで、身を切りのどの奥を突き刺す空気の中、各家からの「厄」を集めた子供たちは、翌朝今度は日の昇る前にその「厄の神」を乗せた大きな笹を村はずれに捨てに行くのです。そこでも何回もやり直し。途中での「遊びの時間」には、鬼ごっこのような遊びの中でチームに分かれてほっぺたを真っ赤にしながら子供たちは道路の真ん中で飛び回ります。

そうしてようやくたどり着いた村はずれのうっそうと茂るヤブの奥に、この先の一年の安泰を祈りながら厄の神を捨て、後ろを振り返らずに走って帰る子供たち。その表情に浮かぶのは「満足感」。何回やり直しをしても、それは自分たちが守るべきルールであって、押しつけられたものではないからリーダーがやり直しと言ったらきっちりやり直し、そうしてそういう「大変さ」を感じるから最後まで「やり遂げた」充実感が喜びで顔を輝かすのです。

詳細:
フォーラム・南信州「祭の流儀」第2回「ことの神送りを追いかける」
N−gene記事 (いずれも文:宮内俊宏・写真:駒村みどり)
「事の神送り」を追いかける」1〜4

ことの神送り

Photo : Midori Komamura

(2)「イメージ」の魔法が作る不思議空間 さくらびアートプロジェクト

「教室に海を作りたい」「クジラを泳がせよう」「花嫁さんになりたい」「ファッションショーしたいな」

子供たちのアイディアは、「そんなの無理だ」という概念にはとらわれません。できない、という思いにさえぎられることなく、「そのために何をどうしたらいいのか」という検討が毎月重ねられ、必要な材料や準備を授業だけでなく休み時間や放課後、土日などの家の時間まで使ってどんどん進めていく中学生。

「美術なんてかったるい」「作品作りめんどくさい」……そういう言葉が当たり前になってしまった今の中学の美術の時間は、受験やテストには関係ない(必要ない)教科という感覚のもと、そういう教科学習への時間を増やすためにどんどん削減されています。

美術という教科が学校から消える危険性もある。けれど「表現の喜び」や「夢の実現」は、テストや教科学習では得られにくい実情の中、「自己実現」というテーマにおいて美術教育はじめとする芸術教科のしめる役割はとても大きいのです。

それが削減されることで、子供たちは「無茶できる」場がどんどん削られることになる。その危機を訴え続けているのが長野市の桜ヶ岡中学校の中平千尋教諭です。

中平教諭は、「美術教育の中で生徒たちに育つ力は教科指導の中では得られにくいもので、かつ教科の学びには必要な力である」というイメージのもと、中学生という思春期の心を育てる時期に少しでも多くの「アート」に触れ、イメージを蓄積し、自らが表現することによって「脱皮する」事例をたくさん生み出してきました。

そのひとつの形がこの「さくらびアートプロジェクト」。学校を美術館に変身させてしまおう、という試みです。自分たちのイメージを形にしていく活動をする中でアートに触れ、生みだし、はぐくみ、育てるという過程を経る。

自らの生み出したアートを愛し、人のアートへの思いを理解し、お互いに認め合い高め合う。学校を一日美術館という形で利用し、来てくれる人たちに自分の表現を見てもらい、想いを伝え、喜びを感じる。総合学習の中でこれを取り上げて、学年やクラスの枠を飛び越えて協力し合う生徒たちが学校という無機質な建物を一日心温まる空間に変身させたのです。

階段の上からも下からもデザインしたTシャツを恥ずかしそうに披露する生徒が目の前に笑顔の花を咲かせます。「まわって!」の声に応え、スカートを拡げてくるくる回って恥ずかしそうに逃げていくけどすごく嬉しそう。ファッションショーの会場は学校のはじっこの普段は薄暗い階段。この日は笑い声と笑顔があふれていました。

教室の真ん中に、巨大なクジラのしっぽ。周りにはその動きのせいで崩れた机が積み上がり、天井からたくさんの魚がつり下げられて教室は海の中に変身しています。説明する生徒の目には、ちゃんとそこに生きて動いているクジラの姿があるのです。

その隣の教室には砂浜に波がうねった海が登場。波と戯れることもできます。天井には海を映し出すアルミホイル。ちゃんと空の演出もされる細かい表現。

「空を飛びたい」と思っても羽も飛行機もない中学生は考えました。空から地上を見下ろした情景を、それも教室を4つに区切って四季すべて表現し、真ん中に高台を作ってそれをさらに上から見下ろせるようにたらどうだろう。……台の上から周りを見下ろすと、雲がちゃんと遥か下方に浮かんでいて、その雲の下には町並みや湖などの情景が四季折々の彩りで拡がりました。いったい自分はどのくらいの高さにいるのかな?そんな錯覚を起こすような不思議な教室。

「ありえない学校」というテーマのもと、様々な不思議感覚に満ちあふれた生徒たちの表現=アートが訪れる人たちの五感すべてに働きかけます。普段はありえない学校のそんな表情が、いたずらっぽい生徒の表情を引き立てます。

「アートは、自分の気持ちを形にする手段」「人に感動を与えられるもの」「生きるための命」「人の心を左右する麻薬」……今年のプロジェクトを終えた後、生徒たちが「アート」について持ったイメージ。

「本当はもっと、大勢の人たちに見に来て感じて欲しかったですね」という中平教諭は、自らの実践と活動の成果を持って日本中を駆け巡っています。

美術教育の火を消さないために。1人でも多くの中学生がこの感受性豊かな多感な時期にちゃんとイメージを形にすることができる力をつけ、社会に出ていくことができるように。生徒たちの中に確かにある花の芽吹きを見つめながら、学び、伝え、拡げる歩みを中平教諭自身が今日も止める事はないのです。

詳細:N-gene記事
生きるための力、生きるための学び〜さくらびの挑戦1〜3
アリエナイ学校って、アリ?〜さくらび1〜4

さくらび

Photo : Midori Komamura

(1) 「イメージ」で拡げるぼくたちの未来 開智小学校6年生の映画製作

「映画を作りたい!」5年生の時、総合学習のテーマに「映画」が上がったとき、担任の麻和正志教諭は「無理だ」と思ったそうです。

担任した生徒たちははさみやのりの使い方もなっていない。ぞうきんの絞り方もなっていない。(これは麻和教諭のクラスの生徒に限ったことではありません)。

そんな子供たちがセットや衣装、小道具を作り、演技をし、カメラワークや演出を考えてすべて自分たちでできるはずがない。そうは思うのだけれど結局子供たちにおしきられ「やるならやって見ろ」となったのが昨年のことでした。

麻和教諭は、元々は漫画家を目指していました。美術が勉強したくて入った国立大学、それが教育学部の美術科で、気が付いたら先生になっていました。大学の時に映画作りの経験をし、それ以来映像作りをいろいろな学校の行事や学びの中に取り入れてきました。

「映画の先生」として松本では知られていたこともあって、新しく受け持ったこのクラスでの子供たちの「映画作りたい」という思いはそういうところからも来ていました。

映画作りに当たって、麻和教諭は子供たちと決めごとをしました。

「映画を逃げ道にしない」「時間を守る」。

学校という学びの場では、たくさんの生徒が他にもいます。他のクラスに迷惑かけたり自分たちだけが目立って浮き上がったりすることはできません。何よりも「映画作り」にはものすごく手間も時間もかかります。けれどだからといって「小学生として」やるべきことをおろそかにすることはできません。

いくら撮影に熱が入ってこれから、といえ、周りが掃除の時間に自分たちだけ映画製作するのは自分勝手な行動です。学ぶことをおろそかにするのは、本来の学生としてのあり方からは外れています。だから、子供たちはどんなに映画作りで忙しくても、ちゃんと宿題を忘れません。時間になると「おい、やめろ」などと注意されずともぱっと撤収に入ります。

そうして一年かけて一つの映画を子供たちと先生だけで作り上げたとき。その映画を大勢の会場があふれるお客さんに見てもらえたとき。その「自分たちで成し遂げた」実感がさらに子供たちを「より高みへ」と駆り立てました。

クラス変えがなく同じメンバーで6年のクラスになることが決まった時点ですでにもう「今年も映画」という方針がクラス一致で決まっていました。昨年一年間の経験がちゃんと「次のイメージ」を描き出し、いつまでに何にどんなふうに取り組むのか、もう麻和教諭が声をかけなくても生徒たちは自分たちで三月のうちにシナリオの案を出し合い、必要な係や役柄を考えはじめていたのです。

5年生の一年間で身につけた技術。はさみやのりがうまく使えないと宿題に出さずとも子供たちは小道具をどんどん創り出します。映画製作にお金がかかるからと、学校のバザーでは自分たちでお店を出していらないものを持ち寄って射的の屋台をだしてお金を稼ぎました。

「映画を作る」ことは「自分たちの夢の実現」ですから、誰に強制されることもなくどんどん自分たちで考えて動きます。

身のまわりにあるものは、すべてが「何かに使えないかなぁ」という感覚での材料となるので、要らなくなった銀の紙皿は時にUFOになり、日頃生徒が見向きもしない廊下の突き当たりの倉庫が宇宙船の内部になる。子供たちの発想はどんどん拡がっていき、その実現のために必要な力をつけるためにそれぞれがどんどんパワーアップしていくのです。

一昨年は、映画と同時に「ふるさとCM大賞」で予選を突破。本選のステージに立ちましたが、残念ながら受賞はできませんでした。

「今年こそは!」というみんなの思いが一つになった今年、再び予選を突破したCMは、本当に子供の作った物?と思うほどの出来映えです。それが何と、本選でも県知事賞を受賞しました。昨年の映画もすばらしかったけれど、さらに腕を上げ磨きがかかった作品です。

クラスの子供たちはけれどそれに驕ることなくごく普通の小学生として元気に毎日過ごしています。でも勉強はちゃんとやります。「やりなさい」なんていわれる子はいません。そんな事いわれたら、映画作りの足並みを乱すから。そういう決まりがあるから仕方なくやっているわけではありません。

そうして今年も、2月の上映会に向かって子供たちは夏の暑さにも負けることなく真剣に映画作りに取り組んでいたのです。

その子供たちを見守りながら誰よりも汗を流していた麻和教諭。教諭自体が表に立つことはほとんどありません。けれど、子供たちの中には麻和教諭という柱がしっかり立っているから、それぞれが自信を持って、前に向かって進んでいくことができるのです。さらにそれは、先生と生徒だけでなく、親と子、親と学校も強く結びつけています。

「やればできる、きっとできる。」

麻和教諭が子供たちに常に言う言葉。その信念と思いがしっかりとしたイメージとなって子供たちに伝わったとき、それに答えようとする子供たちも力をつけてのびていきます。本来の「学び」の姿がここに鮮やかによみがえっているのです。

三月に卒業して中学に巣立つときに、この子供たちはどんな大輪の花を咲かせていることでしょう。本当に楽しみです。

詳細:N-gene記事「みんなの夢をみんなで描く〜6年3組の映画製作

映画

Photo : Midori Komamura

2 イメージの花を育て、咲かせる人々。

そういう「一歩はみ出した人々」にもう一つ共通することがありました。それは「物事の全体像をイメージできる」ということです。

木を見て森を見ず、ということわざがあります。

大きな森の中にいるとその森がどんな大きさで、どんな場所にあって、どんなものがそこに住んでいて、という森全体の「様子」はまったくわかりません。そしてその森が大きければ大きいほど、鬱蒼として空さえも覆われてしまったら、森の外でどんなことが起こっているのかもわかりません。

自分の目の前や周りにある木ばっかり見ていて、森の外に出ることも、森を外から眺めることもしないと目の前のことにしか気が付かないですよ、という視野・視点の狭さや思考の固定化を戒めていることわざです。

そういう意味では、「灯台もと暗し」も似たようなニュアンスがあるように思います。見えるものばっかり見ていると、自分のすぐ手元にあるものさえも気が付かなくなるのです。こちらも視野や思考の固定化や狭さを戒めているものです。

つまり、視野や思考が固定化して、考えることや学ぶことを忘れてしまい、「今のままでいい」というところに陥ってしまうと、森の中から外にでることもしないから森全体のことにも森の周りのことにも気が付かず、明るいところばっかりに目をやるばかりで手元の暗さにも気が付かず、「見ているけれど見えていない」状態に陥ってしまうわけです。

私の出会った「はみ出した人々」に共通するのは、はみ出すこと……それは自らの場合もありますし、偶然そういうことになった場合もありますが……によって、「外から」「別の立場から」全体も、手元も、しっかり見つめている人たちなのだ、ということでした。

花を育てて咲かせるには、ただ種をまいて見ているだけでは育ちません。水をやり、栄養を与えるにも季節・気候、天気や空気の流れ、花の状態や土の様子、花を置く場所、病気や虫がつかないように……本当にいろいろなことを見て、聞いて、感じて、考えて、そして何よりも愛おしんで、そうして初めて咲かせることが出来ます。むろん、そうしたからと言って絶対に思うような花が咲くとは限りませんし、一生懸命に育てたにもかかわらず、枯れてしまうことだってあります。

けれど、それでがっかりしてあきらめて、放置したり種をまいたりすることさえも忘れてしまったらその先には当然次の花さえも咲かなくなります。失敗して悲しいけれど、そこにいつまでも留まらず「悔しい」と立ち上がり、「同じ失敗しないようにどうしたらいいのか」と必死で考えることで次の花への可能性は広がっていくのです。

自分のイメージ(目指すもの)をしっかり持っている人たちは、根っこにそれを持って、常にそこに水をやり、栄養を与え、しっかりおひさまの光を当てて育てています。イメージという根っこに与え続ける栄養は、「学び」を続ける姿であり、人とつながり、常に「じゃぁどうしようか?」と考えることをやめない姿でもあります。

そうして常に、全体を見てイメージを育て続け、自分の手元の暗さに気付いて手元を照らす工夫をする。「人の笑顔があふれる社会」を目指すために、一歩踏み出した外から社会全体をきちんと見極めつづける。

だからこそ自分の周りや住んでいる地域、仕事、出来事をしっかり見つめて何とかしようと努力を続ける必要性に気が付くことが出来るのです。

次の項では、実際にそうして“花を育てている人々”をとりあげます。

(なお、これらの人々についてはエッセンスのみをとりあげます。個々の事例についてはN-geneをご覧下さい)

サギ

Photo : Midori Komamura

さらに学校は今、非常事態のベルが鳴っているのにその音が聞こえないような状態になっている。非常ベルが鳴っているのに、誰も気が付かないし逃げ出しもしない。不登校の生徒たちは、気が付いて逃げ出した子供たちなのに、そういう子供たちは「はみ出した」生徒としてその声を聴いてもらえないのです。

そういうことを、学校の中からなんとか伝えようと思いました。けれど、とても難しいことでした。学校の中にいる状態のままでは絶対に気が付けない・見えないものがあることは、私自身がそういう状態にあったからよくわかりました。

私は、「この先をになう子供たちが、希望を持って進むための力をつけさせたい」から教師になったけれど、それは自分一人ではけっしてできることではありません。学校が一つになって、お互いに補い声を掛け合いながら生徒1人1人をしっかり見つめていかねば出来ない事です。

けれど、今の学校ではそれは無理でした。「古くからの体制」や「今までの流れを作ってきたルール」「先輩と若輩との世代の断絶」「より良いものを目指すためのモデルの不足」……そういったものが学校というものをがっちり固めてしまっていて、たった1人で声を張り上げようともどうにもなるものではなかったのです。

このままいても中から変えることは無理なんだ。そしてこぼれ落ちてしまった生徒は中からは救えない。

そう思った私は、25年間の教職生活にピリオドを打ちました。そしてこぼれ落ちた生徒たちの居場所作りや、うつ病のような心の闇に落ちた人たちが笑顔を取り戻すために出来ることをしていこう、と考え「スマイルコーディネーター」としての活動を開始、子供たちの個別学習指導を軸にして、これまでに記述してきた宮内氏とのプロジェクトに取り組んだり、うつ病理解のための活動を続けたりしてきたのです。

「どの人も、目指すものは同じで、そこに立ちはだかる壁も同じだ。」

ここまでの私自身のそういうもろもろに、ここまで出会った人々のそれが重なってきたのです。学校の中にも闘っている人はちゃんといました。N-ex Talking Over、羅針盤、N-geneの取材。みんな目指すもののもとにあるのは同じものでした。

「人の笑顔があふれる社会」

みな、自分のためだけに活動しているわけではありませんでした。自分の周りの人、家族、友人、地域、それから未来を担う子供たち、社会………そういうものに目をやって、そういうものの笑顔をイメージしつつ、私利私欲に囚われずにそれを目指していました。

そしてその人々に「立ちはだかる壁」は、警報が鳴っているのに気が付かない学校、社会、地域、家庭、形骸化した様々な決まり事や伝統、固定観念。

町づくりや観光の再生に取り組む人々の取材で教育問題に突き当たる。文化やアートの取り組みで社会の決まりや仕組みからの抵抗に突き当たる。そうして必死で「ほほえんで暮らせる毎日」を目指す人々は、みなどこか「はみ出したもの」であること。つまり、今の社会からはみ出して一歩外から眺める人々という点で、実はみんなつながっていたのです。

さらにこれは、第3章でも少し触れましたが、【羅針盤】で取り上げた人々にも共通する点でした。

thinking

Photo : Midori Komamura

第3章 「イメージ」という根っこの上に花開く”今”。

1 すべての根っこは同じ。

【羅針盤】によって新たに進むべき方向をおぼろげに掴んで、次に取り組んだのがエヌ[N]のプロジェクトの一つであるWebマガジン、N-geneの特派員としての取材でした。

そもそもエヌ[N]のコンセプトは、長野県の面白くて役立つ情報の蓄積、交換。特に文化・アートを軸にした講演会や公演なども行われ、積極的に長野の文化を取り上げることを詠っています。そのため交流の場であるSNSにWebマガジンを併設する、というちょっと変わったシステムをとっていました。

ですから、N-gene記事として取材する題材自体はそれまでN-ex Talking Overから羅針盤までの流れの中、次第に自分の中ではっきりしてきたこの「イメージ」というものを柱にした活動や、それをしている人たちを取り上げる、というテーマとぴったり重なっていました。自分のめざし追求するテーマに沿った人々や活動を取り上げて紹介することが出来るので、これを引き受けて仕事の合間を縫って様々なイベントに駆け付け、人と出会い、そういう人たちが目指すビジョンを受け取って1人でも多くの人に伝えようと取材活動を1年以上続けてきました。

そうして自らの中にしっかりとした想いを持って活動している人々を知り、その想いに直に触れるにつれてあることに気が付いたのです。

「どの人も、目指すものは同じで、そこに立ちはだかる壁も同じだ。」……ということに。

もともと私は、学校の教師をしていました。先生として生徒と対する毎日の中で様々なものにぶち当たり、それを解決しようと必死な毎日でした。その中で次第に「教育」とか「学校」とか「学びのあり方」に違和感を感じるようになりました。教室で騒ぎ言うことをきかない子供たち。先生を困らせる子供たち。学校に来なくなる子供たち。そしてその親御さんたちの姿。それに対しての学校のあり方。

「何か変だなぁ」と思いつつも多忙な毎日に翻弄されているうちに、私自身が「うつ病」になって学校に行かれなくなりました。さらに、中学1年の冬に、それまで「言うことは全くありません。」と担任から優等生認定を受けていた息子が不登校に陥りました。

そうして今まで「当たり前」だと思っていた学校の中でのもろもろのことを「外」からながめたときに、いかに自分が何も見えていなかったのか、ということがよくわかったのです。

教師としての常識が、親としての自分にとっては辛いものだったり、親として学校に向かったとき、教師としては苦しい状況に陥ったり。心の闇に苦しんだものとして学校に戻って同じように辛い不登校生と向かい合ったとき、いかに今の学校の仕組みというものが生徒と教師を遠ざける状態にあるのかも、教師同士の情報交換や支え合いが出来にくい状態にあるのかも。

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Photo : Midori Komamura

目次

記事

PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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