今年の夏休み。地元のお祭りと花火に合わせて、姉妹都市である会津若松と、そこで避難生活を送っている大熊町の子ども達に「夏休みをプレゼントしよう」というプロジェクトを行いました。
お祭りの大通りで一緒に踊ったり、特等席で目の前に上がる花火を見たり。
会津の子ども達も、大熊町の子ども達も、来たばかりの緊張した表情がどんどんほぐれてたくさんの笑顔の花が咲きました。
けれど、その子ども達を乗せたバスを見送るとき、とても複雑な気持ちでした。
「大熊町に帰りたい」「福島大好き!」
……あなたの夢は?という質問への答え。ふるさと福島への想い。
福島で待つ家族に、「食べるもの」をおみやげに抱えて帰って行った子ども達。
大熊町の子ども達は、原発の影響でいまだに家に帰ることすら出来ず。
会津若松では、放射能の影響のほとんど無い地区にも限らず今年の観光はかなり落ち込んだと聞きました。
今回の旅の復路に、会津に寄って帰ろう……そう思ったのは夏休みの子ども達の面影が残っていたからでした。
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仙台空港をぐるっと回って、仙台空港のインターから高速に乗り、仙台とは別れを告げました。
被災地をめぐる旅の3日目、この日は二日かけて走り回った距離を一気に戻らなくてはなりません。ですから本当はもっともっと行きたかったところ、会いたかった人がいたのですが、帰ることに専念するように走りました。
けれど、帰りには会津若松に寄ろうということだけは決めていました。
仙台空港をでたのが11時半頃。そこから高速道路を走って仙台を横切り、東北道に入って来たときと同じルートを南下し、そして郡山の手前の郡山JCTから今度は磐越道新潟方面へのルートに入りました。
山あいの道を進んでいくとやがて左手に開けた場所。そして黄金色の稲穂が見事なその向こうには猪苗代湖。そして右側には会津磐梯山。美しい秋の光景です。
磐梯山に向かっていた磐越自動車道が大きく左にカーブを描き、目の前に会津の町が開けていきます。天気は快晴、空の青さと稲の黄色、そして山々のみどりの色が秋の色を鮮やかに描いていました。
会津若松のインターチェンジをでて会津の町の中に入って会津城を目指しました。お城に向かう通りは整備されていてこぎれいな町並み。大震災の時には会津は震度5だったようだが、道路に若干陥没などあった以外は内陸部で津波の被害もなく、原発から離れているから放射線の影響もなく、福島の中では被害はほとんど無い地域だったようです。
この会津若松が被害を逃れ、ほぼ無傷に近い状態であるのだったら、福島県の復興の先駆けになれるはずの力を持っていたはずでした。けれど、会津若松もまた大きな被害を受けることになったのです。
「風評被害」
これは、天災ではありません。地震でも津波でもないのです。地震と津波という天災によって原発が爆発し、放射線がひろがりました。天災が引き金になったとはいえこの原発の爆発は「人災」です。それこそ「想定外」といってひたすら東電が逃げの姿勢でいたことによってその被害や影響はどんどん拡がってしまいました。
けれど、原発から100キロ離れたここ会津若松はその影響すらほとんど及ばず測定値も問題ない程度のものでした。だから会津若松が盛り上がることで福島県も元気になれたはずなのです。
ところが。こんな記事があります。
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キャンセル相次ぐ観光地からの悲痛な叫び【福島・会津若松】
2011/4/22 17:52
会津からのお願い
3月11日以降、会津から観光客の姿が全くといっていいほど見られなくなってしまいました。
年間350万人の観光客をお迎えする会津若松市は、観光が主要産業といってもいいほどの重要な位置を示しています。しかし全国的に有名な「鶴ヶ城」、白虎隊で名の知れる「飯盛山」さらに、東山温泉・芦ノ牧温泉はキャンセルが続いています。そして、観光施設や土産物屋などからは、閑古鳥が鳴いて悲痛な叫び声が連日のように聞こえてきます。
今さら言うまでもなく、すべて原発による風評被害です。地震と津波だけであれば、次のステップに進むことができますが、この原発の影響は、簡単に乗り越えることができない大きな魔物なのです。(以下略)
全文はこちらから→4/22 Jcastニュース
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焦点/修学旅行 東北離れ/原発事故影響・余震を不安視
2011年05月25日
修学旅行生の姿が見られない「会津藩校日新館」=17日、会津若松市
修学旅行が激減し、空きスペースが目立つ駐車場=19日、会津若松市の鶴ケ城会館
東日本大震災の影響で、修学旅行の「東北離れ」が進んでいる。北東北を訪れる中学校が多い北海道では、多くの学校が道内旅行に切り替えた。余震と福島第1原発事故による影響が大きな理由で、福島県内で予定されていた修学旅行は軒並みキャンセル。東北の中でも行き先を変更する学校が数多く出るなど、事情が一変している。
◎例年の1割未満?/回避の動き、被災地以外も……
(以下略 全文はこちら→河北新報社 5/25記事)
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風評被害 観光直撃
参道ガラガラ 会津若松
「客戻したい」懸命の努力
東京電力福島第1原発事故による放射能汚染の風評被害で、年間350万人にのぼる福島県会津若松市の観光客が激減しています。観光が基幹産業の一つの同市にとって大きな打撃で、賠償要求とともにお客を取り戻そうと懸命な努力がつづいています。
白虎(びゃっこ)隊自刃の地、市の中心部東にある飯盛山の参道には、観光客の姿がほとんど見られません。土産物店を経営する社長は、「ここはゴーストタウンだ。例年の2割しか客がこない。私の店も売り上げガタ落ちです。店員を6人使っていたが、今は自宅待機させている」と肩を落とします。
その一方で、固定資産税や消費税が重くのしかかり、業務用で基本料金が高いガスや水道料金は節約しても大きな負担です。
同地の土産物店や関連業者などでつくる飯盛山商店会はこの間、「地域経済活動は壊滅的だ」として、東電に損害賠償請求に応じるよう要求。県や市に小中学生の教育旅行(修学旅行や体験学習、林間学校など)の推進、税の減免などを陳情しました。
修学旅行中止
「修学旅行先として会津若松市に32年間ずっときていた首都圏のある中学校が、父母の一部から『今なぜ会津なのか』と異論が出て、変更になった。がく然としました」
こう語るのは、会津若松観光物産協会(258会員)の渋谷民男統括本部長です。
同市観光の軸となっている教育旅行の受け入れは、昨年1081校、約8万人だったのが今年は激減し、4~6月に県外27校、秋の予約44校、全部で70~80校と1割にも届きません。
市観光公社の会津鶴ケ城天守閣グループリーダー、新井田信哉さんによると、例年だと鶴ケ城の観光客100万人のうち60万人が天守閣(有料)まで上ります。しかし、大震災・原発事故直後から1カ月ぐらいは7割減、その後、重要文化財などを一挙公開する「歴代城主展」など企画展も充実させる努力を重ね、やっと3割減まで戻しました。
(以下略 全文はこちらから→2011年7月27日(水)「しんぶん赤旗」
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私たちが訪れたのは9月12日、月曜日。平日のせいかと思ったのですが、それにしても会津城(鶴が城)の駐車場はがらがらで、設備は整っているし地震の被害も影響もほとんど無いのに他の被災地よりも寂しい感じでした。
会津に着いたのが14:30。仙台を出てからお昼も食べずにここまで来たので、おなかがすいて「まず何かお腹に入れよう」と鶴が城の休憩所で軽食を食べることにしました。
食べたのは会津ラーメン。しょうゆ味で和風のだしがきいてあっさりした美味しいラーメンでした。そのラーメンを食べながら、見るとはなしにそこで流れる鶴が城の紹介ビデオを観ていました。その歴史を語るビデオを観ているうちに、私は何となく、この会津のお城や地域の人々の今が、江戸時代の最後の闘いに重なってくるように思えてきたのです。
会津城(鶴が城)は、その前身が黒川城といい、伊達政宗や上杉景勝、保科正之などの名だたる名将が治めてきました。江戸時代末に幕府軍として闘い、あの白虎隊の悲劇などは今も語り継がれる物語です。
幕府軍と政府軍は、ずっと小競り合いを続けて来たものの、慶喜の大政奉還と江戸城の無血開城とによって大きな戦が起こることなく政権は静かに天皇の元に戻りました。けれど、結局双方それではおさまらず、会津での決戦となったわけです。新政府軍の最新兵器による攻撃にもこの城とそれを守る人たちは1ヶ月も堪えました。
その江戸時代の最後の闘いでぼろぼろに傷ついたものの、会津の象徴としてこの鶴が城は地域の人々に愛され、再建され整備されて今もなおその姿を美しく保っています。
天守閣にのぼれる入場券を買うと、特別記念展をやっているということで美しいお箸を記念にいただきました。赤と黒のグラデーションが美しく紋の入った立派なお箸です。「赤と黒」の色もお城にちなんでいます。入った中の展示は、とても充実していて見やすくわかりやすいものでした。5層の天守閣のてっぺんで、会津の地が一望できました。
明るい秋の日に照らされて、山のみどり、町並みの色が輝いていました。静かでした。そして何よりもこの町には温かさと誇りと美しさがありました。
途中で私はカメラのレンズキャップを落としてしまい、半分諦めながらも入場券売り場で聞いて見ると、「それはさっき私が拾ったのだと思います。入口の観光案内所に届けておきました。」丁寧な対応に感謝して案内所に取りに行くと「ああ、これですよ、どうぞ。あってよかったですね。」と笑顔で手渡してもらえてすごく気持ちがよかったこと。
息子が会津名産の絵ろうそくで、欲しい絵柄があったのでそれをを探して販売元を訪ねてみたら、そこは小さなお家。家族で製作して出しているようだったのですが、そこにも欲しい柄がなかったのですが「じゃぁ、ここに行ったらあるかもしれないよ」といろいろと丁寧に教えてくださったこと。
風評被害で観光客もまばらでしたが、そこにいる人たちの優しさと温かさに触れるたびに会津の町並みがなぜこんなにも美しいのかがわかったような気がしました。
江戸の末期の闘いでぼろぼろに傷つき廃城となったこの鶴が城。けれど町並みはその城をよみがえらせそれを中心に広がり、その城を誇りにして人びとは生活してきました。その闘いと、風評といういわれのない攻撃に対して戦っている会津の人びとの姿は何となく重なってきます。そして、幕末から明治の動乱期を乗り越えて今の世に堂々とたっているこの鶴が城のように、風評被害になど負けずに会津はまたちゃんと立ち上がるんだ……という想いをこのお城が象徴しているように思えてきたのです。
お昼の時に見たビデオ。それからお城の中の展示。お城や町で出会った人々の想い。
会津にいた時間は本当に短かったのですが、その短い時間にも「会津は負けない、会津は立ち上がるから」というこの土地からのエネルギーのようなものをあちらこちらから感じたのです。
そう、まるであの小さな起き上がり小坊師のように………。
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会津のパワーを見せてくれる一つの資料があります。会津若松市のHPからの転載です。
会津若松市風評対策キャラバン隊があなたのまちに参上します!!
最終更新日:平成23年7月26日
東日本大震災からの復旧・復興のため、会津若松市の農産物や、民芸品、加工食品を展示・即売したり、会津地域の観光PRを行う会津若松市風評対策キャラバン隊が東京をはじめとするみなさまのまちに伺います。
「会津を応援したい!」皆様、お近くにキャラバン隊が参りますので、どうか応援をよろしくお願いいたします。
※本事業は福島県緊急雇用創出基金事業「風評対策キャラバン隊活動事業」により運営しています。
実施期間 平成23年7月1日から平成24年3月31日
(映像が表示されない場合はこちらから)→会津若松市風評対策キャラバン隊出発式
記事全文はこちらから→会津若松市風評対策キャラバン隊
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三日間の旅で訪れたい場所はすべてまわりました。本当は、時間に余裕があったら帰り道で高速を降りて、3月12日に日を一日またいで大地震に見舞われた長野県北部の栄村を通って帰ろうか……という気持ちもありました。
(最初にアップしてある地図参照)
栄村の被害については、東北の大震災の影であまり報道されず、今回も出会った人たちほとんど知らなかったのが現実でした。けれど、東北各地をめぐるうちに息子や娘と一緒に語ったのが、「じゃぁ、私たちの長野県の栄村の今はどうなのだろう?」という想いでした。
様々な被災地の様々な被害の形を見てきました。そこに生きる人たちの生活の一部を感じて来ました。そして、そこから被災地がこの先どうあったらいいのか、私たちがどう支援をしていったらいいのか、という部分が少しずつ見えてきました。それは、今回の被災地だけではなく、「日本の社会」のこれからにもつながるとても大切なもののような気がしています。
そう思ってきたときに、栄村の姿やあり方からも、大きなヒントを得られそうなそんな気持ちがしています。
「10月になったら今度は、栄村とその周辺にも行ってみよう」
帰りの車の中で、ちょうど上りはじめた「中秋の名月」を眺めて帰路をひた走りながら、三人でそう決めました。
(この区間の写真はこちらから→東北の旅ラスト〜会津若松9/12)
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被災地をめぐっての3日間~6「見えてきたもの」 に続きます。