2 イメージの花を育て、咲かせる人々。
そういう「一歩はみ出した人々」にもう一つ共通することがありました。それは「物事の全体像をイメージできる」ということです。
木を見て森を見ず、ということわざがあります。
大きな森の中にいるとその森がどんな大きさで、どんな場所にあって、どんなものがそこに住んでいて、という森全体の「様子」はまったくわかりません。そしてその森が大きければ大きいほど、鬱蒼として空さえも覆われてしまったら、森の外でどんなことが起こっているのかもわかりません。
自分の目の前や周りにある木ばっかり見ていて、森の外に出ることも、森を外から眺めることもしないと目の前のことにしか気が付かないですよ、という視野・視点の狭さや思考の固定化を戒めていることわざです。
そういう意味では、「灯台もと暗し」も似たようなニュアンスがあるように思います。見えるものばっかり見ていると、自分のすぐ手元にあるものさえも気が付かなくなるのです。こちらも視野や思考の固定化や狭さを戒めているものです。
つまり、視野や思考が固定化して、考えることや学ぶことを忘れてしまい、「今のままでいい」というところに陥ってしまうと、森の中から外にでることもしないから森全体のことにも森の周りのことにも気が付かず、明るいところばっかりに目をやるばかりで手元の暗さにも気が付かず、「見ているけれど見えていない」状態に陥ってしまうわけです。
私の出会った「はみ出した人々」に共通するのは、はみ出すこと……それは自らの場合もありますし、偶然そういうことになった場合もありますが……によって、「外から」「別の立場から」全体も、手元も、しっかり見つめている人たちなのだ、ということでした。
花を育てて咲かせるには、ただ種をまいて見ているだけでは育ちません。水をやり、栄養を与えるにも季節・気候、天気や空気の流れ、花の状態や土の様子、花を置く場所、病気や虫がつかないように……本当にいろいろなことを見て、聞いて、感じて、考えて、そして何よりも愛おしんで、そうして初めて咲かせることが出来ます。むろん、そうしたからと言って絶対に思うような花が咲くとは限りませんし、一生懸命に育てたにもかかわらず、枯れてしまうことだってあります。
けれど、それでがっかりしてあきらめて、放置したり種をまいたりすることさえも忘れてしまったらその先には当然次の花さえも咲かなくなります。失敗して悲しいけれど、そこにいつまでも留まらず「悔しい」と立ち上がり、「同じ失敗しないようにどうしたらいいのか」と必死で考えることで次の花への可能性は広がっていくのです。
自分のイメージ(目指すもの)をしっかり持っている人たちは、根っこにそれを持って、常にそこに水をやり、栄養を与え、しっかりおひさまの光を当てて育てています。イメージという根っこに与え続ける栄養は、「学び」を続ける姿であり、人とつながり、常に「じゃぁどうしようか?」と考えることをやめない姿でもあります。
そうして常に、全体を見てイメージを育て続け、自分の手元の暗さに気付いて手元を照らす工夫をする。「人の笑顔があふれる社会」を目指すために、一歩踏み出した外から社会全体をきちんと見極めつづける。
だからこそ自分の周りや住んでいる地域、仕事、出来事をしっかり見つめて何とかしようと努力を続ける必要性に気が付くことが出来るのです。
次の項では、実際にそうして“花を育てている人々”をとりあげます。
(なお、これらの人々についてはエッセンスのみをとりあげます。個々の事例についてはN-geneをご覧下さい)