3 フォーラム南信州「祭の流儀」 (文化庁事業)
同じく2008年。文化庁・平成20年度「文化芸術による創造のまち」支援事業として宮内氏と取り組んだもう一つの企画。それが「フォーラム南信州“祭の流儀”」でした。
飯田・伊那を中心とする南信州という土地は、どちらかというと同じ県というよりも「独立した場所」という感覚が強いところです。諏訪湖から流れ出す天竜川が削り取った山と山に囲まれた谷と河岸段丘に細長く拡がった町。
今でこそ長野から名古屋に抜ける高速道路が通っているものの、それ以前は飯田線が外部につながる唯一の長距離交通網であり、さらに飯田線はローカル線であるので時間はかかるし本数は少ないし、東京に行くのにはいったん辰野まで北上せねばならないし、県庁所在地である長野に行くにはなんと半日以上の時間を要するといった有様でした。
県内のニュース、ということで南信濃の土地名が出てきても、そこがいったいどこにあるのかすぐに思い浮かべることの出来る人間はたぶん少ないでしょう。
そうでなくても南北に長い長野県。長野から高速道を利用して飯田に行くのと関東圏(埼玉あたり)に行くのと、ほぼ距離的には同じで、一方南信州からは県庁のある長野に行くよりも高速を使って名古屋に行く方が早い……とイメージするといかに南信濃という土地が長野県の中で「独立状態」にあるのかは伝わるでしょうか。
けれどそれは今の状態。かつて都が京にあった時代の南信州は信州の玄関口に当たる場所。
今でこそ長野県は高速道路や新幹線でだいぶ開かれたもののそれはまだ歴史に浅いことであって、「陸の孤島」と呼ばれていた時代、南信州は実は「文化の入口」であり「最先端」の土地であったのです。
今では交通網の関係でかなり取り残された感がある南信州ですが、もっと歴史をさかのぼるとそこにはかなり磨かれた文化が根付いていて、「独立状態」になってその独自の文化は逆に、いわゆる高度成長期の急激な変化の波をかぶることなく守られるかたちになりました。
「急成長」という呼び声のもと、日本各地ではその波に乗った人々によって古くからの伝統や決まりが形骸化していってしまったのに比べ、南信州のそれはきちんと「中身」=精神・意義・経験を伴ったものとして受け継がれて来ていたのです。その一つの形が「祭」でした。