2011年 9月 30日

ref=dp_image_z_0.jpeg「次の日から食べ物がほとんど無く、食パンを4分の1にしたものが1人分でいつもおなかがすいている状態でした。そんな日が何日か続いていました。」(石巻 小6)

「その時はすごくおなかがすいて死にそうでした。ぼくの友だちもすごくおなかがすいてもう死んでんじゃないかと思うくらいだら~としていました。そうしている間におにぎり1個ずつわたされとてもうれしくて十分くらいかけてたべました。」(南三陸町 小6)

「震災の前、大好きな私の家で家族みんなで生活していたこと。お母さんと一緒にご飯を作ったこと。家族みんなで食べたこと。いつでも電気がついて蛇口をひねれば水が出たこと。当たり前のように思えていたことその1つが決してあたりまえなのではなくて、とても大切で幸せで何よりも宝ものだと思うのです。」(南三陸町 小6)

「よるになるとさむくてみんなでくっついて、ねました。カーテンをかけてねました。おなかがすいてさみしくて、はやくかぞくにあいたかったです。でも先生たちがずっとおきててくれてうれしかったです。」(気仙沼市 小1)

「私は、この震災で多くの物を失いました。唯一残ったのは、命です。この命は、今まで以上に大切にし、亡くなった人の分まで一生懸命に生きようと思います。」(気仙沼市 中2)

「1ヶ月たった。ご飯もだいぶよくなり、ご飯・おかず・みそ汁が出るようになった。この頃になると店も開店して、買い物もできるようになった。母に、『何か買ってあげる』と言われても、今なにがほしいのか?前は、ほしい物がたくさんあったのに、今は何がほしいのか、わからないぼくがいた。」(釜石市 小4)

>>>文藝春秋社8月臨時増刊号「つなみ」~被災地の子ども80人の作文集~より引用<<< :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: 震災後に、たくさんの人びとが現地に支援物資を運ぶ活動に取り組んでいました。当時自身で動くことができなかった私は、出来る事……と考えた時にそういう支援活動を取材で取り上げ、記事としてWeb上に掲載することで支援活動を応援すると共に『被災地の現実』を伝えて知ってもらう活動に取り組みました。 その活動の第一歩になったのが長野県小布施町の浄光寺を中心に今でも活発な支援活動を行っている「笑顔プロジェクト」の取材記事でした。五回連載の三回目の記事では、メンバーの1人が最初の支援活動に女川を訪れたときの報告記録を取り上げました。 『女の子の3人が私のところに来て、
「私ね、クッキー大好きなの。本当に嬉しい、ありがとう。」
「久しぶりのおやつです。」
「おやつの中でクッキーが一番好き。」

クッキーでこんなに喜んでくれるのかって思った。もっと、あれが欲しかった、これが欲しかったって言われるかと思ったこの子たちの給食はパンと牛乳だけ。

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「もっと」という言葉は、どの子からも聞くことがなかった。自分の与えられたものとそれを持ってきてくれた想いに、心から感謝する子どもたち。「もっとわがままになってもいいのに!」と思うけれど……子どもたちの喜ぶ姿に逆に胸がつまりあふれそうになる涙を抑えて笑顔を作るメンバー。』

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)より

冒頭に引用した子ども達の言葉にも、「もっと」という言葉はひとことも登場しないのです。その一方で子ども達が何回も何回も記述したり口にしたりする言葉があったのです。それが「ありがとう」……でした。

子ども達は、「無いこと」「無い状態」に陥ってはじめて、自分のまわりに「あるもの」が見えたのです。家族がいること。毎日米のご飯が食べられること。住むところ、寝る場所、身体を包む温かいもの。そして「未来」。

当たり前に目の前にあったものを失って何もなくなったその時に、はじめて何が本当に必要なものなのか、が見えたのです。だから「もっと」とより多くを望まなくなり、そして今ある物に感謝して喜びに変わったのです……だから心からみんな発するのです。「ありがとう」と。

しかし、その子ども達の一方で「現実」は美しい物ばかりではありませんでした。先に引用した笑顔プロジェクトの取材記事から。東北を訪れたメンバーたちが炊き出し活動を行っていたときのこと。

仕切りのないところでゼリーを配り始めると列を作らず、四方から延びる手。一個ずつ配る私を差し置いて、すべてを持っていこうとする。
それが本能だ。 自分の身を守るための行動だ。 生きていくための手段だ。そう思ったけど、 遠くでこちらを見ている方の姿を見つけ、このままではいけないと思いっきり声を振り絞って 「少しでも多くの人に行き渡るようにご協力ください。」 その言葉で、元に戻してくれる人もいた。

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)より

当時、マスコミの報道は一斉に「日本ではこれだけの災害でも盗難はまったく起こらない。我慢強く潔癖な国民だ」という「美しさ・我慢強さ」アピールをしていました。けれど、現実はまったく違ったのです。この記事にあるような姿、店に押し入る暴動が起きたこと、津波が来た途端に一斉に被災地入りした窃盗者、そして自衛官が目を背ける首や手のない死体の山……せっかく残った自宅の2階で寝泊まりしていた人が壁の無くなった1階をあさっていた泥棒と出くわして殺害された、という話も聞きました。……それはすべて、メディアの報じなかった「人が生きるための姿」であり、事実です。日本人は決して美しくも立派でもない。「人間」なのです。

被災地の人たちがみんな、協力し合ってひたすら苦境に耐えているわけではないのです。けれど、メディアが報じる綺麗事に隠れて見えなくなっていたこれらの姿の方が「ありえること」……そして、これがここに至るまでの「日本社会の姿」を具現化しているような気がするのです。

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(4、私たち一般の人間がすること。)
(3) 「もっと」をやめて「ありがとう」と生きる。

突然の夕立。激しい雷雨におびえていると、バチッと音がして当たりが真っ暗になる。
見ていたテレビも部屋のあかりも消えてしまい、何も見えなくなる。

いつ復旧するともわからず不安になっていると「ご飯ですよ~」と声がかかりホッとする。食卓に向かうと、そこにはろうそくの光。静かに揺れるその灯火を囲んで、家族が肩を寄せ合って食事をする。

どのお店も7時になると閉まってしまうから人びとは買い物を済ませて家路を急ぐ。だから夜7時を過ぎるとほとんど人通りはなくなり、当たりは夜のとばりに包まれて、見上げる空には星がきらめいているのが見える。

……実は、これ、災害時のことでもなんでもなくごく日常によく見られた光景でした。どこの家にもろうそくは常備されていて、停電は当たり前。傘や腕時計、みんな高級品。だから一度買ったら大切に使い、故障したら修理。
でも、テレビもラジオも、故障して困ってお願いすると近所の馴染みの電気やさんがひょいと来てさっと直してくれた………。「ありがとう!」「いや、またどうぞ!」そう言って帰る電気屋さんはものすごく頼もしかった。家電は貴重品。毎日の食事は残さず大切に食べないと目の玉が飛び出るほど親から怒られた。

昭和30年代~40年代に子ども時代を過ごした今の4~50代の年齢層が生きてきた時代は、そんな時代でした。

ものがないので、無くしたり残したり壊したりすることは「もったいない」。人びとは物と共に生きていた毎日でした。

やがて高度成長時代からバブルに突入すると、人びとは「ものの命」についてを考える事があまりなくなりました。壊れたら新しい物を買う方が安上がりだし便利。食べるものはいくらでもあるからお腹がいっぱいになったら残して捨ててしまうことに抵抗が無くなり、傘や時計などは使い捨て。電気をつけっぱなしでも「もったいない」という言葉が聞こえなくなり、かわりに聞かれるようになったのは「もっと」でした。

「もっと遅くまで」「もっと明るく」「もっと便利に」「もっと多くのものを」「もっと速く」

次から次に出る新商品。もっと便利でもっと格好良い物が修理するより安く手に入るから人はそちらに向かうのはしょうがないのかもしれませんね。でもそうして大量生産するために多量の原材料が必要で、大量の電気や燃料(石油)が必要で、古いものはどんどん捨てられて多量のゴミが発生して……。

「もっと」とより多くを望むようになったことで地球はどんどん削られていったのです。そしてゴミの山が積み上がっていき、人は物に対しての想いや感謝を忘れていきました。その「使い捨て」文化はやがて、物だけでなく人にも及びはじめました。「人の命」の重ささえも見失いかけていたのが、震災前の私たちの社会の姿でした。

そして起きた、未曾有の災害。人も、物も、多くの物を失いました。私たちはさらにこの先、「放射能」によってさらに多くの物を失っていくことでしょう。

物がない。人もいなくなった。
けれど私たちは明日にむかって進まなくてはなりません。ここから先をどう描いたら、私たちは失った物の重みを忘れずに新しい未来を築くことができるのでしょうか?

それは、本当に、たった1つの想いを切り捨てて、たった1つの言葉を想い出すだけなのです。

切り捨てるべきは「もっと」。
そして想い出すのは「ありがとう」。

……それはまさしく、被災地の子ども達の作文にあふれているまったくそのままのことなのです。

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「節電」を声高に人びとが叫んだ時、私は自分の子供のころのことを想い出しました。

「節電中なのでご不便かけます」と書いてあるチラシのお店の中で不便を感じることなど一度もありませんでした。夜の街灯。深夜まで明るいネオン。「本当にこれが必要なの?」……そういう目で自分のまわりを見回せば、色々が見えてくるのだと思います。

太陽の下で活動し、夜になったら休むという自然の摂理を曲げて「もっと」を望むから余計な電気を食い、余計なエネルギーが必要になるのです。

「原子力発電がなければ電気が足りない」……本当にそうでしょうか?こんなに世の中夜遅くまで明るくする必要はあるのか?こんなに必死で電気を生み出して、それを大量に使うのはどこでしょう?それは決して個人の家ではなく……「電気が足りない」と言っているのは一般の人びとではなく……「企業」なのじゃないでしょうか?

なければないで、やっていられるのです。
ただ今までは「あること」が当たり前だったから、無い状態を知らない。知らないから怖い。今、ここまで来た社会が突然それをやるには大変かもしれません。「無理だ」という人もいるかもしれません。

けれど、幸いにして「そういう時代を生きた人たち」が今まだたくさんいるのです。物がなかった時代。今よりももっと、人の技術も進んでいないから災害から受ける被害も今の比ではなかった時代の人たちが……。戦争。ヒロシマ・ナガサキ。戦後の荒廃の時代。そして何回も日本を襲ったたくさんの災害。それらの物を生き抜いて今に生きる人たちが、そして、そういう時代の「歴史」という記録が、まだちゃんと私たちには残されているのです。

まわりを見回せば、そういう時代があって、そういう人たちがいる。そういう人たちが「もっと」と望まず「ありがとう」と感謝して生きてきた時代の話・その時代の知恵を、過去が私たちに残してくれた大切な蓄積・記録として紐解いて今に生かすことができたら。

私たちはきっと、また立ち直ることができるはずです。より良い明日を見つけること、その手がかりを掴むことができるはずです。「また、再建しましょう」と救助された疲れも見せずに笑顔で語ることのできる、こういう人びとに学びながら。

さいごに。
この被災地巡りの旅に、わたしがもっていって現地の人びとに手渡した物があります。
それは「希望」です。

希望は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか?

長い長い記録のまとめの一番最後に、その事を書きたいと思います。

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被災地をめぐっての3日間~7希望が生まれる時 に続く。

9月11日の仙台、夜。
セキスイハイムスーパーアリーナのまわりは煌々と活気にあふれていた。

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この日は桑田佳祐さんの宮城ライブ「明日へのマーチ!!」の2日目で。
アリーナを取り囲む敷地にはたくさんの提灯が飾られ、広場の真ん中には櫓が組まれ、さらにたくさんの屋台が出ていた。まるで盆踊りの会場のようなにぎやかさ。この屋台に出店しているのは東北の人びとのお店。そして広場の数カ所には被災地を支援するメッセージボードなどの展示。

その模様からもわかるように、このライブは桑田佳祐さん自らが命に関わるような病気から立ち上がるのにたくさんの応援をもらったことに対しての感謝の想いを込め、東北を元気づけるため、日本が元気になるため、という想いを込めて開催したライブ。

私が仙台9月11日、という訪問日程を決めた理由の1つにこれがあった。このライブを1つの旗印として、仙台に人と意識とが集まってきていたのだ。

「まさか、本当に会えるなんて思わなかったけれど、会えて嬉しい。乾杯!」

4人のささやかな飲み会&慰労会。この4人が4人とも、普通の時だったら顔を合わせる可能性もないような離れた場所から集まったメンバーだった。

ヒロコさんは、普段はエジプトで生活している。ふるさとが岩手。今回の震災では、遠く離れた自分に何ができるのかと考えてエジプトからの支援活動をしてきた。岩手県の復興のシンボル、「がんだるま」くんをデザインしたTシャツを作成、販売し、そしてその売上げを岩手に支援金として送った。

アキちゃんは、神奈川在住だ。彼女は日頃、子ども達が元気に学ぶことのできる環境を考えた活動を目指しているが、募金活動をし、集めたお金で被災地の子ども達を思い切り遊ばしてあげるためにディズニーランドに連れて行こうという支援活動に今も取り組んでいるところだ。

カツオさん(と呼ばれているけど本当はヤスヒロさん。)は、仙台在住。自分自身も地震で被害を受けた被災地の人間だけれど、避難所や仮設住宅に物資が行き渡らなかったり滞っていたりする状況を見て、その流れを作ろうと自ら動いて様々な物資の流れを作って支援活動に取り組んでいる。

写真2

そして私は長野県。自分にできる事は情報の収集と発信と、それから人を繋げること。それをするために今回被災地巡りを計画し、その2日目に石巻を見に行ったときにヤスヒロさんが忙しい時間をぬってアキちゃんと私たち親子のガイドをしてくれた。石巻の地に立っていろいろ感じた息子がぶつける質問を真剣に受けとめてくれたおかげで、息子はその場で大切な情報を得ることが出来た。

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4人が知り合った場所は、Facebookでした。

4人とも、この3月の震災を受けとめてそれぞれに「何かしよう」「何ができる?」と考えていました。そうしてその情報を得る場として選んだのがFacebookでした。

ヒロコさんは「地元岩手の情報を知りたい」という想いと、それから故郷を襲ったこの震災の被害の大きさにやりきれないきもちをもっていました。ヤスヒロさんは地元の支援活動を進めるために情報収拾と効率のよい連絡手段と言うことで選んだのがFacebookでした。アキちゃんも同様で、実際に活動しようと思ったときにFacebookでの情報と意見交換が大きな助けとなっていました。

その意見交換の場となったのが、宮城ライブを開催した桑田佳祐さんのファンの集まるウオールだったのです。桑田さんは震災直後から被災地支援のために応援ソングを作り、支援のための音楽活動や発言を続けていて、宮城ライブもその一環。ファンの集まるウオールでも当然のように「被災地支援」も1つのテーマとして加わっていて、そこに意識を持つ人たちが集まってきていました。

被災地の被害の様子、そして支援活動の模様。復興の進行度合い。福島への風評被害や原発問題のきっかけとなった東電への怒り。……Facebookに集まるメンバーは全世界の人びとなので、ヒロコさんのように遠い海外のエジプトから日本への想いを馳せる人も参加していました。桑田さんやSASのファンである、という共通点を持った世界中の人たちがそのウオールで意見交換し、被災地の人びとは自分たちの様子や想いを語るなど、あちこちから様々な情報が入るのです。

やがて協調するもの同士がフレンドリンクによってダイレクトにつながり、それによって情報のネットワークはそれぞれのウオールでどんどん拡がっていきました。

震災の緊急事態の時に、Twitterが発信したものは膨大な情報でした。
私もはじめはTwitterのタイムラインを泳ぎ回って情報を集めました。けれど、Twitterの性質上、情報を蓄積したりリンクして深めたりすること、それはとても難しいことでした。さらに匿名制のTwitterは誰がどこから発信したか追いにくい。

一方実名登録が決まりのFacebookでは情報の出所もかなり明確で、お互いの立場からそれをれが持つネットワークの情報を発信しシェアしあう事によって世界各地からのさまざまな視点からの多様な情報が、それもより正確で信憑性のある情報が手に入りやすくなっていたのです。

この「より正確で信憑性のある情報のリンク」が、この4人それぞれの情報収拾や支援活動とその拡がり、新たなつながりに大きな力となってくれたのです。私自身もそれまでほとんど活用していなかったFacebookを見直しし、自らのウオールとFaceBookページを活用して情報活動をはじめて現在に至ります。この被災地巡りを思い立ったのはFacebook上で「被災地の今を、自分の見たままに伝えたい」という情報発信を目標として持ったからでもありました。

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(4、私たち一般の人間がすること。)

(2) コミュニティーでつながり、「会話」で情報共有。

さて、ここまで書いたように「正しい情報収拾」のためにFacebookやTwitterのようなWebにおけるコミュニケーションツールは大きな力を発揮してくれています。そして、テレビや新聞といった既存のメディアに頼らずとも情報を持つ個人がじょうずに発信していくこと、そしてその発信を繋げて積み重ねることで信憑性や確実性をどんどんあげていくことが出来る事もわかりました。

しかし……メディアの劣化が明らかで、「既存のメディアに頼らない」事がWebの利用で可能になることがわかっても、日本全体に広めることは現状不可能です。ネット人口は日本の全体で2011年、一億を突破したと言われていますが、それはTwitterやmixiで日記を書いたり単につぶやくだけの人数を含めていると思われ、その中で「自分から発信し、情報収集が可能」なユーザーはとなると、果たしてそのうちの半分に行くのでしょうか?

さらにスマートフォンや携帯でのネットユーザーは、かなり若年層が多いのでしょうが、日本の社会を今現在動かしている年齢層はかなり高くなります。そして、年齢層が高くなるほどにネット人口は減少していくと思われます。……となると。日本の人口分布で逆ピラミッドの上方を構成し、現在社会を実際に動かしている中・高年層のある割合は「Webから情報得ること」が困難であったりWebに触れることがない可能性が大きく、そしてそういう層は子供のころから新聞やテレビからの情報を主に情報を収拾している可能性が大きいと言うことなのです。

では。Web上の情報を得にくい人たちにはどうやって「Web上で収拾できる情報」を伝えることが出来るのでしょうか?このNet世代とそうでない世代との格差・溝を埋めることが、情報伝達における当面の課題かもしれません。けれど、そのあたりを解決するのもやはり「情報のリンクの仕方」なのでしょう。つまり、情報を繋げるには「コミュニティー」が必要です。ネット上でもそこにあるコミュニティーでつながりあう人と人との間を情報が流れていきます。それが実際の社会でも行われればいいわけです。

実際に人が活動するときには「実際の知り合い」「現実のコミュニティー」の中での活動が主になってきます。Webのつながりと現実のコミュニティーを繋げていけばいいわけです。……と難しいことを言っているようですが、要するにWeb上で情報収拾できる人は、それを現実の「茶飲み友だち」や「家族・親戚」「ご近所さん」「ママ友」などの集まりでそれぞれが茶飲み話の話題にでも気軽にすればいい、ということなのです。本来はWeb上よりももっともっと身近な知り合いの方が信頼も厚いでしょう。テレビや新聞が流す報道よりも、そういう身近な人たちから得られる情報の方がずっと伝わりやすいでしょう。そうして多種多様な人びとによって構成される多種多様なコミュニティーを身近なところからつなげていく事でWeb上の情報をリアルにもつなげていく事はじゅうぶんにできると思うのです。

そうしたら……信頼感ある仲間内でそういう会話と話題を続けていくことで、正しい情報を皆に伝えて役立てることは十分可能になるんだと思います。……まずは今、この文を読んでいるあなたがそれをすることで。周りの人たちとそれを共有にしようと想いを持つことで。そういう人が1人でも増えることにより、情報伝達において「もう、テレビや新聞(上から与えられる情報)は要りませんよ」と言えて、正しい情報を得ることが出来、日常会話の中でみんなでその正しさを審議し、活用方法を工夫し合うことのできる世の中になっていくとは思えませんか?

また、一方で。
個々の力が小さくても「コミュニティー」でさまざまな人や別のコミュニティー・プロジェクトなどとつながりひろがって行くことで、それぞれの活動をより大きく広く強く……と成長させることも可能なのです。

「ひとりの手」という歌があります。

ひとりの小さな手 何もできないけど
それでもみんなの手と手が合わされば 何かできる 何かできる………

この歌詞に歌われたことそのままに、コミュニティーを発展・リンクさせていくことによって日本中……時に世界中を繋げて想いや活動を展開していくことは十分可能なのです。Webの世界と現実とをリンクさせることさえ出来たら……。

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さて、そんな世の中になっていくとしたら、そこで一番にみんなで伝えあって欲しいことがあるのです。それも、かつての日本を知る人たちに、是非とも大きな声で伝えて欲しいことがあるんです。それもまた、「未来を開く」ために大きなヒントになることなんですが………。

その話題は……
被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(4)  に続きます。

目次

記事

PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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