社会の記事

9月11日。この日は、東日本大震災からちょうど半年後の日。
この日の各新聞の朝刊の見出し……一面のtop記事のタイトル。

鉢呂経産相が辞任 不適切発言などで引責(朝日新聞)
成長導く復興めざせ 東日本大震災から半年(日経新聞)
就任9日、鉢呂経産相辞任…官房長官が臨時代理(読売新聞)
震災で見えた国防の穴 (産経新聞)
鉢呂経産相が辞任/被災地 遠い復興 (毎日新聞)
鉢呂経産省が辞任/希望の光 迷い 守る~大震災きょう半年 (中日新聞)

震災半年 死者1万5781人、不明4086人 避難・原発 見えぬ収束 (河北新報・仙台の新聞社)
Six months on, few signs of recovery (The Japan times)

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私が調べた新聞8紙のうち、鉢呂氏の辞任がTOPだったものが4紙。震災の復興やその後についてを書いた記事が3紙。そして、震災関連かと思いきやそれをきっかけにして「国防の甘さ」についてを書いているのは産経新聞。なぜこの日に「国防」なのか……首をひねった。

震災復興についてを記述した3紙のうち、1紙はジャパンタイムズ、もう一紙は仙台の新聞社「河北新報」の新聞。全国紙で一面に扱ったのは日経新聞ただひとつだった。

TOP記事ではないにしろ、中日新聞は一面のど真ん中に赤子を抱く母の姿。放射能の不安に我が子の未来を迷う母の記事。毎日新聞は扱い的にTOPと同等の印象なので見出しに両方併記した。

この報道を見て、何を想うのかは個人個人の想いもあるだろうけれど、私は正直国内の扱いに対してはこれでいいのか?という想いを持った。鉢呂氏の辞任は、いったい国民のどれだけに影響のあることだろう?東日本大震災の被災状況を半年という区切りでしっかり考察することが、日本の社会のこれからにとってたった八日間の在籍の大臣が辞めることよりもずっと重要なことなのではないか?

対するジャパンタイムズの一面では津波・地震・そして原発という3つの「災害」からの検証と原発にからんでの食糧問題、そして遅々として進まない復興についてをかなりの紙面と図を使用して記述してある。

……このメディアの報道の偏り。そして、震災関連の情報の扱い。
日本がこれから、再建の道を歩んでいくときにこのあり方を見直すべきではないかとそう思う。

3月11日の大震災。
その大きな被害と派生する2次、3次、4次災害……今もなお不明者が数多く残り、遺体安置所が現地にはまだ存在し、職を得られぬもの、避難所生活のもの、その精神や身体の不安は消えてはいない。膨大な量のゴミ、つぶれた車。何より先の見えない、これからさらにその影響が心配される原発の問題。さらにそこから派生した風評被害。経済に及ぼす大きな影響。

半年たった9月11日にがれきの山に囲まれた石巻の地で、14:46に鳴り響くサイレンと共に黙祷を捧げたときに感じた「震災は終わっていない。まだこれからなんだ。」というあの想い。

いまだ先が見えない問題が山積みの今の状況で、私たちはそこから何を感じ、何を学び、そして未来にそれをどうつなげていったらいいのだろうか?

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私たちの「明日」のためにできる事は何か

その団体や、その人間でなくては出来ない事があります。逆に、どんなに頑張っても出来ない事もあります。
それを見極めてできる事を出来る人が、できる範囲でやること。無理をしないこと。大切なのは「頑張ってたくさんやること」ではなく、「想いを長続きさせていくこと」。

では。具体的にはどういうことなのでしょうか。

1、被災地のするべき事

「被害から半年」という区切りの中で見てきたときに、復興の仕方には大きな差が出ていました。
それはなぜか……という疑問の中に、地元の人のこんな声を聞きました。

「場所によって復興に差が出たのは、国やいろいろなところから支援を待って動かなかったところと、自分たちでやらねば、とどんどん動き始めたところの差。」

被害の形はみんな違います。地震の被害。津波の被害。原発の被害。それから風評の被害。
そしてそこから派生する産業や経済の停滞・沈降の有様。人の流れの変化。

だから、一概に「半年」という区切りで比較することは出来ません。けれど、福島での「移動保育プロジェクト」の上國料さんの言葉にもあるように「やってみなくちゃわからない」し、「必要なのは、今」なのです。「自分たちのことは自分で」……慰霊碑を建て、植樹をし、新たな取り組みに向けてどんどん動いていた閖上地区。風評には負けられないとキャラバン隊を組んで全国を回り歩き始めた会津。町が壊滅して、警察が機能しないからと不審車や侵入者、盗難から自警団を作って地域を守ったという石巻。被災地に根ざした地域の新聞社だから、と「伝えること」を第一に地域の情報や現状を訴えている仙台の河北新報。地域の情報を集めてコーナーを組んでいた茨城の書店。「お上からの支援」を待ってはいられない。だから自分たちでどんどん動く。共通していたその姿勢が、明らかにその土地の空気から前向きさと、新しい流れを感じとらせてくれました。

 その土地に住み、その土地を知り、その土地に生きた人たちだからこそ、「どう立て直したらいいのか」が誰よりもわかるはずなのです。だから「自分たちで取り戻そう」とどんどん動くこと。これがまず、とても必要なことだと思います。そうして前に向かって進もうと動くことは、失ったものを思って動けないでいるよりもずっと早くに活気ある心を取り戻すためにも役に立つはずです。

そうして被災地の人たちが自らで動くことによって、「必要な支援のあり方」が見えてきます。「自分たちでやる」事が必要だからと言って、復興を被災地の人たちに任せっぱなしは当然無理に決まっています。心も体も傷ついた人たちの力が「復興」に向かえるように、まわりはそのための環境を整えて力を添えることが大切になってきます。

2、行政のすること……特に「国」
 
この国は、首都東京を中心に動く中央集権国家です。東京から発信されたことが地方に届いて物事が動きます。それがもたらす長所と短所を理解して、やるべき事をしっかり見極めていくことが大切です。

 当然国の中央に「実際に支援活動に動く」事を望むことは無理です。国という大きな組織を動かすには膨大なエネルギーと時間がかかります。だから中央はそれをすべきではありません。国がそれをやると、手続きに時間がかかり、組織を作り実際に動き始めるまでにはかなり手間も金もかかってしまってもろもろが後手に回り手遅れになります。

「中央に物事が集まる」ことと、それを「発信する機能」を長所としてまず活用するべきです。つまり、現地の情報収拾と正しい情報の発信です。避難所の情報を個人や私的グループが集めるにはものすごく困難を要します。しかし、国はそれを容易くできるはずなのです。

 避難所情報を集める。原発の情報や今後の予想も含めてデータを収集する。そのために必要な専門家を集めて分析し、実用化されたデータを流す。どこの避難所にどんな物資が言って何が足りなくて、という「情報」のみを集めて流す。どこのボランティアグループがどんな活動や支援ができるから、どこの避難所や被災地にそれが必要かを見極めて情報を提供する。……そういうことをネットワークを組んでひとまとめでできるのは、国という公的機関だけなのです。

 それから、被災地支援に必要な専門家をその地に派遣する。放射能関連の具体案を提供できる人材をセレクトして福島に送り出す。壊れた町を新しく作りあげるためには、今回の被災の形を考慮して、そういう分析をしつつ町づくりの専門家を派遣する。支援物資の必要なものをとりまとめて企業などに協力を依頼する。動けそうな被災地の会社があれば、そういうところにも依頼をどんどんかけて仕事を与える。

 そして、そのために必要な各地区の役場の人材が、今回の被災で失われたのだったら、各地の役所から人材をセレクトして派遣する。

 情報や人材のとりまとめ。そしてそれを発信や派遣すること。全体を把握して的確にそれができるのは国だけです。それからもう一つ。必要だったら法律を変える。今回の非常時にも、法律にしばられて出来ない事や動けないことがたくさんありました。緊急事態に適応できる法律がない限りは、臨機応変に改訂していかなくてはなりません。法律は守るため(囚われるため)にあるのではなく、社会を動かし、人を守るためにあるのですから。

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「公的機関のやってくれるのを待っていたら、いつになっても始まらない。」……それが、被災地のあちこちからの生の声でした。そしてそれは今回の震災のことに限ったことではありません。今までの社会の歪みを生み出してきたその多くの原因は、公的な機関が臨機応変に動けなくなっていることから起きていることも多かったのです……。

今回の被災地対応でも、国会は非常時緊急で法律を変え、人事を考え、支援金の分配はその地方を知っている人間とその支援に派遣した人間に任せ、必要な情報を集め、それをとりまとめてどんどん発信することができたらこんな風に地域差や風評被害や……隠蔽工作や情報操作などはなくなったはずなのです。

首相や内閣の人事等に無駄な時間を割くような「ヒマ」は、被災地にもこの国全体にも、全くなかったと私は思う。(はっきりいうと、今の日本の政治の状況では誰がTOPでも誰が大臣でもまったく変わらない。ここに書いたことが出来る人をぱっと大臣や要職に起用できるほどの采配も配慮も出来る人がいないのですから。)

そんな状態の国に、何かを期待することや何かをしてもらうことを待つことは無駄だということ、それを私たちは頭に置き、国は国のできる事……机上(情報)の整理と分析と発信に集中してもらい、やることは国民である私たちがどんどん動いていくこと。それが今、必要なことなのだと思います。

そうして、実際にそう動いている人(企業やグループ、著名人を含め)たちが今の復興を支えているのが現実です。本来のリーダーは、こういう中から生まれてくるべきなのです、そして今の時代に、そういう各地の現状をしっかりと掴んだリーダーが、地方を作りあげていくことは十分可能だと思います。

江戸時代に飢饉や災害から民衆を救ったリーダーは、幕府や朝廷ではなく、その土地の豪農や豪商であったという「旦那文化」を持っていた日本ですから。それはきっと出来るはずなのです。

3、メディアのするべき事

 まずは奇をてらった報道や衝撃性のみを追いかけ、視聴率、購読数重視の報道をやめること。そして、情報操作が明らかにあることも今回のもろもろのことからこれだけ露見しているのだから、メディアは自らの報道姿勢をしっかり見直して、本来のメディアのすべきことを再確認することだと思います。

まずは、「正しい情報」を「正しく発信」するだけではなく、「活用できる情報」をしてより多くの人が動けるように、復興へのイメージを持てるように、メディアの持つ伝達力を最大限に活用することだと思うのです。

そのためにはまず、2,で書いたように国が正しい情報を集めてしっかり分析し、使える情報として流すことで、それをメディアが正しく伝えることと同時に、国がもし、中途半端で使えない情報を出したらメディアがそれを「ダメ出し」するくらいの気概を持つべきだと思うのです。それが出来るのはメディアだけだから。

本来は、メディアでも提出された資料を分析し、正しく判断・検証する人間がいるべきだけれども、それがかなわないとなったら、必要な人災に取材をしたり依頼をしたりしてそういう機能を果たすべきなのだと思うのです。「今、国全体が本当に必要な情報とは何か」と考えてそれを伝える。それが出来るメディアだったら、9月11日のトップ記事は震災半年の遅々とした復興状況や先の見えない原発の恐怖に苦しむ人たち、海外からの非難の声……そういうものを伝えるはずだと私は思ったのです。

国が正しく進むために「三権分立」という形が考えられました。(今は正直言うとちゃんと機能していないと思いますが)国が正しい情報を把握し、それをきちんと考えて発信しているかという「情報の見張り番」がメディアのあるべき姿だと思うのです。そうしてきちんと必要な情報を要求し、正しい分析とそれに基づく具体的な復興案を要求し、それを拡げて伝えていく……メディアのできるとても大きな役割だと、私は思います。

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では………

4、私たち一般の人間がすること。

は、なんでしょう。「自分には力がなくて何もできない」と縮こまっている人、恐縮している人もいます。
でも、それは違います。ちゃんとみんなにできる事があるんです。

それを、この次の記事に書こうと思います。

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被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(2)  に続く

3月12日。
朝はやや雲が残ったものの、昨日の天気とはうって変わって快晴になりました。
仙台の町中は、ごく普通の月曜日の朝の風景でした。仕事に向かう人たち、一週間の生活のはじまり、そんなどこにでも見られる光景がホテルをでて次の目的地に向かう私たちの車のまわりで繰り広げられていました。

けれど、ごく普通の生活と見えるその裏を細かく見ると、やはり震災の傷跡はここかしこに残っていました。

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11日の一日で見たもの感じたものは、それはそれは大きく様々なもので、自分の中でとてもまとめのつけられるものではありませんでした。ですから、この3日間を迎える前には、「被災地をめぐって感じたことは、その場でリアルタイムに流して行きたい」と思っていたこの旅の記録も結局できなくなりました。

………それもやはり「想定外」の一つでした。

その場でぱっと感じて記録をとって、さっと流せるような簡単なことではない……そんな軽いものではない……ということが、よくわかったのです。
初日の茨城でもそうでした。そこの「今」を感じられる写真や映像を撮ったらすぐに流して……と思ったのですが、まず、受けとめるだけで精一杯でした。目の前に広がる光景を自分の中でしっかり受けとめて、そしてそれをきちんと伝えるために……できるだけ、見てくれる人たちにそこにある想いや祈りまで含めてしっかりと伝えるためには、「即時性」よりも「正確さ」「誠実さ」の方が大切だと思ったのです。

そのかわり、できるだけ細かくすべてを目と心に焼き付けていこう。写真や映像では、その場の姿を写し取ることができても、その場に流れる空気感、臭い、感覚、温度、そういう雰囲気は伝えられません。写真や映像でとらえられないそういうものをしっかりと自分で感じとって、そこで得られた情報と共にできるだけまっすぐにこれを見る人たちに伝えよう……「リアルタイム情報」を流すのをやめたのは、そういう想いからでした。

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ホテルをでた私たちが、この日まず向かったのは仙台空港でした。
本当は石巻の帰りに海岸沿いを走ってそのまま仙台空港まで……と思っていましたが、時間的に着く頃は真っ暗になってしまって何も見えないだろうと諦めて、代わりに2カ所ほど別の場所をまわってホテルに戻りました。(その事についてはまたのちの記録に書こうと思います。)

仙台空港まで、仙台市内からナビで検索したルートは、ずっと内陸部を走るものでしたので、途中から海岸に向かって海沿いを走ってみようとナビを無視して海の方に走りました。そうして、海に向かって走っているうち、目の前に見えたもの……「あ……船だ!」……。

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(このあたりの様子は、一番最後にリンクしてあるアルバムのほうでご覧下さい。)

道の横に交通の邪魔にならないようにと退けられたような形で船が置いてありました。置いてあると言うよりも取り残された、というのでしょうか?けれど、まるでそれは「ここが港町ですよ」と言うことを示すオブジェのように静かにそこにありました。

海岸に近づくにつれて、船が見える頻度も増えてきて、それにつれて壊れた建物が道のまわりに目立つようになり、やがて、その建物すらまったく見えなくなってまるで新たな宅地を造成しているような更地になりました。車で進んでいくと目の前には大きな川があってそこが道の突き当たりでした。そして、その川の向こう岸ではたくさんのショベルカーが作業をしていました。そこはたぶん、廃棄物の処理場だったのでしょう。しかし、私の目には、まるでたくさんの恐竜がうごめいているかのように見えました。不思議な光景でした。そして、壮絶な光景でもありました。でも……その光景が前日石巻で見た光景から感じた「悲惨さ」とは違うものを感じたのです。厳粛な美しさ……がありました。(美しいなどと言うと語弊があるのかもしれませんが、本当にそう感じたのです。)その理由がわかるのはもう少し後になります。

この日、午前中に走ったルートはこの地図に示してあるルートです。

仙台全体

空港に向かう途中に海に向かってまっすぐ走ったところ行き当たったのは名取市の閖上(ゆりあげ)地区でした。
私が大きな川だと思ったのは、閖上漁港で広浦という入り江につながる部分だったのです。

あたりはまっさらで……乾いた土がひろがっていました。照りつける太陽に埃が舞い上がってその有様は、砂漠の遺跡発掘をしている場所のように思えましたが、よく見ると大きな電信柱が規則的に並び、たぶんこのあたりは津波前にはかなり大きな整備された町であったであろう事が想像できました。

この地区は本当に真っ平らなのですが、一カ所だけ小高く盛り上がった場所があって、そこにはのぼってみることができそうだったので、娘とのぼってみました。石段を登るとその上には、沢山の慰霊の塔と花束が捧げられていました。それがこの地図の「日和山富士主姫神社」です。(ここもまた、日和山なのですね……)

その上で撮った映像です。

ビデオ→9/12閖上地区日和山富士より

この日和山の上には小さい祠が建っていたそうですが、津波はこの高台にも襲いかかり、祠は流されてそのあとに別のお家が流されて残されていたそうです。

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(3月20日時事通信社HPより転載)

そして、4月11日には自衛隊の方や僧侶などがこの日和山の上で黙祷を捧げたそうです。これがその時の写真だそうです。

bp1-2.jpg(Japan’s crisis: one month laterより)

最後に……ネット上を探していて、ようやく見つけました。被災前の閖上地区です。
本当に美しい町だったのですね……。
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AerialPhoto Galleryより)

日和山富士の上には本当にたくさんの祈りがありました。
娘と2人で手を合わせ、ここでも黙祷を捧げてきました。

車で待っていた息子と落ち合って、閖上地区から仙台空港に向かいました。
そこでも、道のあちこちに……田んぼだっただろうところに……船。

その写真はこちらにおさめてありますのでご覧下さい。
アルバム9月12日仙台から閑上地区を通り仙台空港へ。

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今、この閖上の記録をまとめながら思いました。
なぜ、閖上の被災地あとから美しく厳粛なものを感じたのかを。

閖上の地区を走っている間、その被害のすごさに壮絶なものを感じました。まったく何もなくなってしまった町。津波の恐ろしさ。そこに住んでいた人たちの破壊されてしまった日常。それを想いつつ、日和山富士に登ったとき、目の前にはやはり壮絶な光景が広がっていましたが、それはとても整えられていました。

半年の年月が過ぎたということもあるのかもしれません。けれど、とにかく町は「動いて」いました。ショベルカーやクレーン車のような重機の音、それに混じって遠くから聞こえる船の汽笛。

重機は確実にそして傷跡をいたわるように土地を整えていました。かなり暑い日でしたが、臭いは一切しませんでした。かなり深く傷を負ったけれど、その傷を治そうと一生懸命に治療しているさまが、その気配が感じられたのです。

それは、日和山の上でも感じました。
たくさんの慰霊塔。その塔に添えられた花束に、枯れて醜くなったものは一つもありませんでした。
そして、日和山に新しく木が植えられていたのです。
閖上小・閖上中の子ども達が植樹したものでした。

「新しいとき」のために、失ったものを痛み、惜しみながらけれど明日のために新しい木を植える。
その想いがこの日和山だけでなく、閖上の地区のあちこちから感じられたのです。

石巻で日和山に上り、そして偶然通りかかった閖上のこの高台も日和山。
同じ日和山にのぼって見て、感じたまったく違う感覚。
閖上の日和山から見えたのは……「絶望」ではなく「祈り」「誓い」「明日」でした。

これは、わたしだけの感覚かもしれません。
でも、閖上の日和山の上でまわりをみていたほかの人たちも、同じ感じを持っていたのではないでしょうか。
誰1人、静かに高台からまわりを見回してしゃべる人はいませんでした。
その雰囲気は、まるで教会の礼拝の時のような……祈りの時の感じととてもよく似ていたのです。

ここは、きっとまた元気に立ち上がる。
この祈りの心と明日を想う心があるから……。
だから、きっと大丈夫。

……今、閖上の記録をまとめながらそんな気持ちにさえなっているのです。

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被災地をめぐっての3日間~5会津若松  につづく

今回のブログは、書くことにものすごく配慮せねばならない。
「フクシマ」の被害は明らかに他県とは違うからだ。

津波被害、地震被害、これらのものは目に見える。だから情報が無くても目で確認することはできる。
しかし、フクシマが背負っている被害にはこれらにくわえて「放射能」という目に見えない敵がいる。目に見えないものはわからない。わからないから恐ろしい。……それは、人が根本的に持っている恐怖心を煽るものであるからなおのこと根が深い。それが「風評被害」にもつながっていく。

たとえば、病気にたとえると骨折のような怪我や風邪ひきのように視覚的に感じられる病気は理解しやすい。けれど、うつ病のような精神的なものや、内臓の疾病のような外から見えないものは見つかりにくいしわかりにくい。そして自分も他人も理解しにくいから治りにくいし治しにくい。治療方法についても、専門家でないとわからない部分があるので手の施しようがない。……それが、今回のフクシマの陥っている状況なのではないのだろうか。

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9月11日。
この日朝、水戸を出発して常磐道を北上しました。
この日の第一目的地は福島県の郡山。

最初の計画では、常磐道をできるだけ北上して海岸沿いを宮城まで……と思ったけれど、原発の影響で立ち入り禁止になっている区間があります。どこまでかを調べてみたら広野インター以北とのこと。そこまで無理して入り込む必要は今回はないし、仙台近辺の状況をよく見るためにもルートは常磐道から磐越に入って東北道を北上するルートに決めました。

参考までに。
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その折に福島の郡山近辺を通ります。そこでFacebookで知った「福島移動保育プロジェクト」の活動に取り組んでいる上國料竜太さんが、郡山で活動していらっしゃるので、上國料さんにお会いしてお話を聞くことにしたのです。

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福島移動保育プロジェクト」とは、毎日放射能の汚染におびえて深呼吸もできない子ども達に深呼吸できる時間を!というコンセプトのもとに、放射線量の少ない地域に乳幼児~小学生を連れて行って保育する試みです。

あの原発の問題以来、ここ郡山近辺でも外で遊ぶ子ども達の声が消えたそうです。
上國料さん自身のお子さんも30分以上は外で遊ばせないようにしているし、ご自身が預かっている保育所のお子さんたちも同様だそうです。

そんな状況にありながら、ではさっさと安全な場所へ……といってもそれぞれの生活や事情があって、なかなかそれも出来ない人たちがほとんどです。けれど、子ども達は外で元気に遊ぶことが一番。思い切り飛び回ってお腹いっぱいに空気を吸うことができるように。せめて昼間の保育の時間だけでも……そういう想いから上國料さんはこのアイディアをFacebook上に書き込んだのが7月23日だそうです。

そこから2~3週間の間、お金のこと、システムのこと、様々な問題をクリアして約1ヶ月後の8月30日に第1回目の移動保育が実施されたのだそうです。

しかし、このプロジェクトが確実なものとなって行くにはまだまだ課題は山ほどあります。
たった一回の移動保育で子ども達の安全が守られるはずもなく、永続的に長いスパンで取り組まないと意味がありません。そのためにはまだまだ費用も必要ですし、常に放射線に関しての情報も得ていなくてはなりませんし、子ども達に対しての様々な対応も必要です。

現在は主にFacebookを使って活動の報告や支援の呼びかけをしていますが、こういうことに対しては民間の反応がとても早くて、いくつかの協力企業も出てきているそうです。また、飲料メーカーとの協力も得て自販機の売上げの一部を運営費として活用できるシステムも組まれているそうです。

こうしてシステムを確実なものにしていき、今現在は1人500円でお預かりしている費用をいずれは無料にしたいと上國料さんは語っています。

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「結局、他県に頼る支援のあり方は長続きしません。県外避難には限界があります。本当の意味でフクシマの復興のことを思うのだったら県内で経済がきちんとまわる仕組みを考えないと成り立たないと思うのです。」

上國料さんのこの言葉は、その後の被災地の状況を見て回るほどに私の中で重みを増していきました。被災地のことを何よりもよくわかっているのは、そこに生きる人たちです。その人たちがきちんと生活できる状況を作らないと本当の意味での復興は成り立たない。

原発問題に悩むフクシマのみならず、この言葉は被災地や、そしてこの先どんどん大変さをましていく日本の社会全体に対してもしっかりと心に留めなくてはならない言葉だと感じました。

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この訪問の時に、上國料さんが私に見せてくれた一枚の資料があります。

26julyJG.jpg「放射能汚染地図」とタイトルされたこの資料は、群馬大学の早川教授がまとめたもので、3月以降大気中に放出された放射線量を4月8日に文科省がネット上に公開した数値データをもとに作られた物で、これを見ると爆発以来どんなふうに放射能が風に乗ってひろがったのかがよくわかるのです。

そして、これを見ると「フクシマ」だけが問題なのではなく、東日本の多くが何らかの影響を受けていることも、また「フクシマ」の中でも安心して活動できる場所があることも一目でわかる地図でした。詳細は、この地図を作った早川教授のブログ「放射能汚染地図の読み方」をごらんください。

ちなみに、先ほどの政府が示した「30キロ圏内」の注意地区の地図とこの日、郡山に向かうルートとこの地図を重ねてみると………

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こんな風になるんですね。

実は、今回「フクシマ」を通ることに、私の息子はとても恐怖心を持っていました。そして、水戸で夜のご飯に「海に近いからお魚美味しいだろうし、お寿司食べようか。」と言ったら「絶対嫌だ」と言いました。息子は、今回の旅行に当たって彼なりにいろいろ調べていたようです。そして福島原発から放射能の水が海に流れたこと、風の向きで30キロ圏内でなくても放射線量の値の高い地域があることなどから「怖い」になったようです。

それに対して私は「今回通るところは30キロ圏内からははずれているし、大丈夫だよ。」という声がけしかできませんでした。その「大丈夫」の中には、「高速道を通過するだけだから」というニュアンスも含まれていたわけです。それは確かにそうなのでしょう。けれど、3月以降放出された放射線はその土地土地の土壌に染みこんで、それが時には風に舞う塵に乗って、時には海の流れに乗って、この先も消滅することなく回り続けます。

それは「ここは30キロ圏外だから」という言葉で安心できるものではありません。そして、そのばらまかれた放射線の有り様は、政府からはわかりにくい数値データとしてしか提示されてきません。さらに、その放射線に汚染された土壌を除染するシステムも充分ではありません。ここに来て、以前みた東大の児玉教授の「子ども達のために」と必死で声を荒げて訴えていたあの声がより現実味をまして迫ってきました。

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一方でそういう事実をふまえながらも考えなくてはならないことがあります。それが「風評被害」です。

先の汚染マップで示したように、放射線の流れは福島のみに降り注いだわけではありません。そして福島の中でも流れが届いていない地域もあります。「福島」という発音だけで恐れを持ってしまう状態は避けるべきなのです。

上國料さんが行う移動保育は、決して他県に連れて行くというものではありません。同じ福島県内で深呼吸も土いじりもできる土地もちゃんとある。

一方で「被害」はわたしたちにも及ぶ可能性がある。「自分たちももしかしたら」という感覚を持ってこの問題を福島だけのものにしてはいけないのだと思うのです。世の中には流れがあるから、すべてのことはその流れの上にあるから、いついかようにしてその流れが自分に向かうのかは誰にもわかりません。正しい知識で防いでいかないと、いずれは日本全体がその影響を受ける可能性は充分にあります。

福島の人びとは、福島で生きるから自分たちが今の状況の中でより良い明日のために精一杯戦っています。それを単なる「恐れ」だけで避けるのはその頑張りを踏みにじることになる。
かといって、じゃぁ、「福島のものを怖がらずに食べましょう」も違うと思うのです。今の福島にとって、何が必要なのか。どうしたら福島の経済が回り出すのか。「今」を正しく見た上で防ぐべきところは正しい知識で防ぎ、けれど必要以上に恐れることなく考えていくことが大切なのだと思いました。

ちなみに、先に書いたように「福島」を恐れていた息子は、この旅の帰り道で会津若松に立ち寄ったときに、「ぼくは福島でまだお金を落としていないから」と、会津の名産の絵ろうそくを求めるためにあちこち奔走していました……。こういう形の支援を彼は考えていたのですね……。

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「とにかく、考えていても始まらないから。」

移動保育プロジェクトを立ち上げてあっという間に第1回までこぎ着けた上國料さんはこう言いました。「公的な補助なども考えないのでしょうか?」との問いに、「公的な補助を待っていたら時間がかかりすぎますから……。」と答えました。

今までの状況を見ても、それはよくわかります。考えていても始まらないし、子ども達の健康を考えたら国のなかなか進まない支援などあてにせずに一刻も早くやらねばならない。

今回のこの移動保育プロジェクトに限らず、そして福島の人びとの健康に限らず、この問題は日本全体に大きな影響をもたらすものとして一刻も早く意識を持って、正しい認識を持って、みんなで取り組んでいかなくてはならないことなのだ……たとえば風評被害を減らすために正しい知識や情報を学び取ること、それだって大切な支援の一つだ……。と、そう思ったのです。

そして願わくば、こういう正しい情報を正確に一刻も早くに公表できる日本の国であって欲しいし、除染など専門知識や技術が必要なジャンルに必要な専門家が必要なだけ動けるような体制を整えて欲しい……。(今現在、国が出してくる情報よりも海外からのものの方がわかりやすく信憑性があるのが現実です。海外の情報のように「わかりやすく」「活かしやすい」情報をなぜ自分の国のニュースで得られないのでしょう?)

国や公的機関自体がすぐに動けないのだったら、今それぞれでできる事を精一杯頑張っている人たちに活動できる資金やシステムを整える支援を即座にとってくれたら……。それが何より大きな支援になるのに……。

その部分についてどうにもままならない国や東電の姿には、やはり怒りすら覚えるのです。

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福島移動保育プロジェクトは、現在活動用の募金を受け付けています。また、スポンサーも募集しています。

民間で頑張っているこういう活動が多くの人に支えられて未来を開いて行かれるように、多くの人の協力が得られるように祈りつつ、上國料さんと別れを告げて次の目的地仙台~石巻に向かいました。

福島移動保育プロジェクトの詳細や活動の報告などはこちらのページからどうぞ。

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被災地をめぐっての3日間~3石巻・仙台 へつづく

茨城を選んだのは、正直言うと「震災の被害状況を見る」というよりは、翌日の行動を考えたときに沿岸を北上してみるのに都合が良いから……という本当に軽い気持ちだった。

けれど、「想定外」の言葉でこの第1日目の茨城からすでに私は打ちのめされた。

被災地をめぐる3日の旅から戻った今、その気持ちが茨城の人たちにとって本当に失礼であり、被災地の情報を集めていたつもりでも何もわかっていなかった自分を露見させることになるのだが、それも私自身の包みかくさない姿であるからきちんと記していこうと思う。

3月11日の震災が起きた後、私はひたすらTwitterで情報を集めていた。
テレビの映像は衝撃的なものばかりが流れ、それもいつも同じような場面ばかりだった。
だから、本当の情報はテレビじゃだめだ。ラジオで即時的なニュースを得ながら後はひたすらTwitterから飛び込んでくる様々な情報を眺めていた。

震災の翌日からその後しばらく、こういう言葉が浮かび上がっていたことを想い出した。

「茨城だって、被災地なんだ!通り過ぎていかないで!」
「栃木にも支援物資を!救援を!」

テレビや新聞の報道は津波で壊滅的な被害を受けた宮城や岩手の情報が多く、やがて原発の問題が浮上すると福島もそこに加わった。しかし、茨城や栃木に対しての情報はというと、ほとんど入ってこなかった。

(これに関しては、3月12日に震度6の地震に襲われた長野県の栄村についても同じようなことが言える。ふつうだったら震度6の地震が起きたら新聞やニュースはこぞって書き立てるのに、この頃は東北に埋もれて栄村の情報もほとんど入っては来なかった。このあたりについては、またのちに書き記します。)

情報がないという事=被害がなかったという事……ではないのだ。
けれど、今の日本ではどうしても被害の衝撃性が重視されてより刺激性のある情報にメディアは走る。それにおどらされないようにと自らで様々なところから情報を得ていたつもりだったけれど、やっぱり自分もメディアの影響をうけていたのだ……想定外だった。

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9月10日の朝。
長野県を息子(20才)、娘(18才)と共に車で出発する。
長野県の私たちの生活範囲では今回の震災ではほとんど被害が出ていないから、「いつもの秋」ののどかな風景が目の前にひろがっていた。

天気は上々で青空がまぶしい。
ここから先に見えるであろう被害状況はとりあえず本で予備知識を入れ、もしくは今まで現地に行った人びとや現地に住んでいる人たちとの交流から得た知識である程度頭の中に思い描いてはいたものの、「津波」とは縁がない長野県であり、「原発」とも縁がなく、地震の被害も目に見えていなかったから気楽なものだったような気がする。

佐久のSAで、これから会って話を聞く予定の被災地の方々におみやげを買う。
そしてまた秋の高速道をひた走る。
上信越道で群馬に入り、この3月19日に全線開通したばかりの北関東自動車道に入る。開通はあの3月11日の直後だったけれどこのあたりは地震の被害はほとんど無かったのだろう。

北関東自動車道は栃木県の岩舟JCTから、いったん東北道に入り、栃木都賀JCTからふたたび茨城県ひたちなか市に向かって北関東を横断する形になっている。
この、栃木都賀JCTから北関東道に入った途端に、高速道から見える家々の屋根に何か青いものが目立ちはじめた。
よく見ると、それはブルーシートで、そのブルーシートがとばないように石を乗せて押さえてある。
その家々が、高速道の両側にかなりたくさん見えてきたのだ。

長野~水戸

「あれ、もしかして地震の影響?」

写真を撮る。そのブルーシートの家は、次第に見え方が頻繁になり、さらにブルーシートでの補修の面積がどんどん大きくなっていった。(地図の赤い×をした地域)

3月11日に地震が起きて、この日9月10日で半年を経たことになる。
栃木や茨城はもうとっくに「日常」へと戻っているものだと思っていた……。

その「想定外」の光景が目の前に広がっていく。
さらに、水戸市内に入って町中を走ると屋根の修理をしている家、いまだにブルーシートの家、壁にひびが入っている家、ショーウインドーをブルーシートで覆ったままのお店……そこにあるのはまだまだ「完全復興」という文字にはほど遠い町並みの姿だった。

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「海の方まで行ってみようか……。」

運転している息子とどちらとも無く声を掛け合って、水戸を通り過ぎてさらに海の方に走ることにした。
ひたちなか市の方に向かって見たが、途中から本を見た息子が「大洗海岸行こう。」と言ったので、大洗海岸を目指してみることにした。

……その「大洗海岸」は、静かだった。
津波に襲われたと思えない美しい光景が広がっていた……その海辺ではがれきもほとんど無く、たくさんの人たちが波打ち際で海と遊んでいた。ここは穏やかだ……とホッとした。

私たちが到達したのは大洗海岸の水族館「アクアワールド」のあるところ。
大洗海岸は4メートルの津波と言うけれど、ここは穏やかで静かで、人の心を和ませる場所だからいち早く復興したのだろう……と思ってしまったのだ。

けれど、それもまた自分たちの無知のゆえの誤認だった。

水戸~大洗

実際に被害を受けたのはもう少し南の海岸沿い。(地図参照……クリックして拡大してみてください。青い網掛けになっている部分が浸水した場所です。)

大洗の町は約半分が浸水し、大洗港の船が陸に乗り上げ、大きな被害が出ていた。茨城でも津波による被害者が北茨城で出ていた。……みんな、知らなかった……。

それを知ったのは、アクアワールドから偕楽園を見に行き、夕暮れになってホテルに行く前に寄った本屋の「震災関連コーナー」で見た本からだった……。

こちらの本屋の画像を見てほしい……。→茨城の本屋にて。

私は、この震災関連コーナーで初めて「茨城の事実」を知った。
今回、まったく調べなかったわけではないのだ。ネットで「茨城の震災の被害」についてを調べまくったし、本やでも「震災の全体像」が見える本を探し求めたのだ。けれど、それらの本にはやはり「関東圏」である栃木や茨城のことはほとんど書いてはなかった。
ネットで得られた情報は……偕楽園が被害を受けた、ということだけだった………。

地元の本屋では茨城の被災の現状についてまとめた本が出ていて、それをパラ見しただけでも茨城の受けた被害の大きさが伝わってきた。

これでようやく、あちこちではためいていた「がんばっぺ茨城」の旗の意味と、たくさんのブルーシートでの補修の意味と、さらに海岸に向かう道路のあちこちがぼこぼこになっていたり亀裂が入っていたり、補修工事の真っ最中だったりする理由を納得したのだった。

情報がない=復興している……が大間違いであることを、ここで改めて実感した。

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水戸の偕楽園は……、3年前の夏に家族で水戸を訪れたときの写真があったのでそれを見てみるといかに偕楽園も酷い状態にあるのかが実感できた。もっと明るいうちに来て、ちゃんとみておけばよかった。偕楽園についたのは、もう閉園直前の4時50分ぐらいで日も沈みかけていたので写真はほとんどとれなかった。

このあたりも、無知ゆえのコース選択の誤りだった………。

かろうじて撮れた写真で「今の偕楽園」と「3年前の状態」を比較してみた。→水戸偕楽園今昔’08と’11

アクアワールドで海岸を見たつもりになり、すでに真っ暗になってしまった偕楽園を出て、本屋で「茨城」を再認識して後悔しても後の祭り。
けれど、その「想定外」を受けて自分の甘さやメディアの報道の偏りを実感したことは、今回の自分の震災の認識にとってはすごく大切な想いの一つになった。

そしてますます、メディアを信じず自分で情報をしっかり確かめることの大切さも。

こうして自分で見た「茨城」を伝えることで、メディアには乗らなくてもいまだに震災の傷と戦う地域があるということも、できるだけたくさんの人たちに知って欲しいとそう思った。

この日の画像はこちらにまとめてありますので、ご覧下さい。
2011.9/10水戸~大洗の状況(水戸~になっていますが、北関東道の栃木県内の画像も含まれていることをお断りしておきます。)

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付記:
茨城では、3月11日のほぼ1ヶ月後の4月16日に震度5強の地震も起こっています。
私はこの時の記憶はあるものの、「大したことがない」という印象の報道に安心していた可能性があります。
けれど、震災当時に震度6強の揺れのダメージから立ち直っていない上に震度5が来たら……かなり危険な状態ではないのかと、そして今まで復興ができないのもその影響があるのではないかと思ったりします。

一方、この日水戸を訪れたその時間に震度4の地震も起こっています。けれどこちらは、自分たちが車に乗っていて全然入れに気が付かなかったことと報道を知る機会もなかったことでまったく気が付きませんでした……。

参考資料(wikiの「東日本大震災」のページより画像を借用しました)

524px-Shindomap_2011-03-11_Tohoku_earthquake.png

656px-2011_Tohoku_earthquak.jpg

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被災地をめぐっての3日間~2郡山 へ続く

「君が代」と「日の丸」を国歌、国旗として使ってきたのは明治時代からです。日本が開国し、世界の国の仲間入りをするという上でもそれは必要なことだったのだろうと思います。

けれど、やがて日本が世界の中に自らの力を誇示し、「軍事国家」として肩を並べていくほどに、この国旗と国歌は「強い日本」を作り上げるためにその柱として……利用されるようになっていったわけです。つまり、日本は天皇の国であり、天皇陛下=日本のためにあなたたちは働きなさい、戦争に行って国のために命を惜しむ事なかれ……と「刷り込み」をし、その象徴として君が代や日の丸が使われたわけです。

つまりは国民にとっての「踏み絵」でもあったわけですよね。キリスト教徒にとってキリスト像を踏むことが罪であったように、日本の国民たる者、その象徴である天皇に逆らうべからず、ひいては国歌・国旗である日の丸君が代に対しても敬意を表して直立不動で向かうべし……。

「強い日本」「神国日本」の象徴として戦争で「外国の侵略」の旗印としても使われた日の丸ですから、当然その旗を「憎む」人やその旗に対して「深い苦しみ」「大きな傷の痛み」を持つ人だっているわけです。それは、いまだにいるわけです。

けれどそれは決して「日の丸」や「君が代」の罪ではありません。それを「神国日本」の象徴だと刷り込み、直立不動で敬うことを「強制」した時代と社会の罪なのです。

「義務化」という言葉から、その歴史を知り、教える立場にある教師たちが「疑問」を持ち考えて反対すること……それは当然の成り行きなのではないでしょうか?戦争に向かう時代、上層部はまずどこから手をつけたか、といったら「教育」です。未来を担う子ども達にそういう「イメージの刷り込み」を行うのです。すでにしっかりとイメージを持ったおとなの考えを変えるよりもずっと楽に「軍国主義」を植え付けることができるのです。

1990年代、というのはバブルが崩壊しつつある不安定な時代でした。けれど社会はいまだにバブルの後遺症から抜け出せず、日本は世界の中でもいまだに強い立場にあると思いこんでいました。時代背景は大正から昭和にかけての世界の強豪と張り合ったあの頃に似ていました。

そこに来て「日の丸君が代」の強制が教育現場に忍び寄ってきたわけです。

(その4に続く)

〔続き〕
職員会の討論のきっかけになったのは、「運動会に例年は来入児の旗として、その年の一年生が描いた絵を使っていたけれども、今年の運動会からは日の丸にします。」という提案からでした。〔もう20年以上前のことなので、記憶は不確かですけれど〕

毎年一年生が、次の年にやってくる「後輩」のために描いていた絵を日の丸に変える理由とは何でしょう?来入児が初めて「小学校」に係わる行事で、お兄さん、お姉さんが「元気で学校においで、待ってるよ」と描いてくれた旗を手にするのが恒例だったのです。その旗で迎えられる来入児が、一年生になったときにまた次の来入児のために絵を描く。想いのリレーだったそれをやめてまで、なぜ日の丸、なのでしょうか?

職員会で議論が起こりました。「なぜ?」と聞いても「こうします」と言うだけでその理由は明らかになりませんでした。結局それはそのまま「押し切られ」て訳のわからないままにずっと続いていた一年生の旗作りは消えてみんな同じ「日の丸」になりました。

そして卒業式での君が代強制。……そう、「強制」という文字が付くのです。それまでも当たり前のように歌っていたのです。それが「歌いなさい」となったわけです。それがどういうことを表すのか……教員たちは考えたのです。

その3につづく)

「レイバーネットジャパン」より転載

大阪府の地域政党「大阪維新の会」代表の橋下徹知事は17日午前、君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案の他に教員の処分基準を定める条例案を9月府議会に提出する方針を明らかにした。教員が不起立を繰り返せば、懲戒免職処分にできるルール化を目指す。

という記事を目にしました。この記事をきっかけにWeb上でいくつか「日の丸・君が代」についての議論を目にしたけれど、なぜこの議論がいつまでもやむことがないのでしょう。じつは、どうもこの議論については「賛成派」「反対派」の観点がずれている……もしくは、報道の仕方によってゆがめられているようにしか思えないのです。そこに潜む「危険性」について「イメージ」という視点から考えてみたいのです。

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「日の丸の掲揚と君が代の儀式における斉唱を義務化します。」

そういう話が上ったときに、学校の職員の間では議論が巻き起こりました。もともと、国旗日の丸、国歌君が代、ということ自体については何の疑問も持っていなかったわたしですけれど、強い懸念を持ったのはこの「義務化」という言葉に対して、でした。

音楽の教師だったわたしは当然、「君が代」を全校の前で指導することが「義務付け」られるわけです。けれど私の中の感覚は、「なぜ、そんな事をいまさら言うの?」でした。

卒業式では今までも歌っていましたし、子供のころからテレビを観ているときに国技である相撲でも、日本が世界の強豪と競う競技……オリンピックや世界選手権などでも、君が代が流れ、メダルを首にかけて胸を張った選手が上っていく日の丸を感慨深く仰ぎ見る姿をテレビの画面で見て感動をもらっていました。

卒業式の練習で、沢山練習した「卒業式の歌」の中でも、君が代は歌いやすさと馴染みのあることで子ども達は廊下でも歌っているくらいにみんなが気軽に歌っていました。日の丸も、旗、というと白い紙に赤いまるをぐるぐる描くだけの日の丸は、小さな子どもにもかけるもの。お子様ランチの旗にも、マンガにも登場していました。

そのくらい「浸透」していたのです……君が代も、日の丸も。

それを「義務化」という言葉が出てきて、そこに「強制」が発生したのです。確認してみるとこの義務化が始まったのは1990年、そして国旗国歌法という条例化をされたのが1999年です。けれど、学校現場で最初に「義務化」という言葉を聞いたのはわたしがまだ子どもを産む前のことでしたから1990年よりもさらに2〜3年前のことだったはずです。

その2につづく)

Photo提供:「笑顔プロジェクト」HPより 女川第一中学校から見下ろした光景

Webマガジン【N-gene】ライターとして5回に分けて掲載し続けていた「笑顔プロジェクト」の記事の5回目を先ほどアップしました。

長野県小布施町にあるお寺、浄光寺副住職の林さんの取材をしてから「これは書かなくては、伝えなくては」という衝動に押されて記事自体はあっという間に書き上がりました。

いろいろあったけれど、とにかく、震災から丸2ヶ月後の今日、最終の5つめをあげて、「何ができるの?」と焦りの中にいる人たちや「今どうなっているの?」とわからないなか次第に忘れてしまいつつある人たちに、改めてその実際を知って欲しいと強く思って書いた記事です。

もしもこの文を読んで、共感したり何か考えるところがありましたら。
どうか、周りの人たちにも投げかけてみてください。

「自分たちは、被災地の人に背中を押されて必死でやっているだけです。」

そういう笑顔プロジェクトの人たちは、やっぱり同じように「自分には何もできない」と口にしていました。被災地の人たちの想いや辛さを解消することは、たぶんどんなにお金を積んでもどんなにものがあってもできないことなんだと思います。

でも、こんな風に「想うこと」……被災地の人たちに想いをよせること、忘れないでいること……それだけでも、1人1人のできるすごく大切な事なんだと、わたしは災害後のもろもろを見ながらそう想います。

そうして、災害で失われた命に学び、教えられたことを風化させないことが、被災地の人の心を明るくし、被災地だけではなく私たちの生きるこの社会全体を明るく元気に……正直、災害前にはかなりねじ曲がった状態だった世の中を少なくとも「おかしいところはおかしい」と気がつける状態にするきっかけになるのではないかと強く想います。

無くなった命は取り戻せない。
でも、心に残すことでその命は永遠を手に入れます。

数え切れないほどの被害者の命を私たちは受けとめて、そうしてこの先を生きる事。

それが私たちに出来るただ一つのことなのだと想います。

偉そうなことを言えるほど、わたしは何もできません。
けれど、こうして自分の想いを記述して提案し、それについてを「考える」こと……わたしにできる事はそれだけですが、それしかできませんが、それをし続けたいと想います。

本当に、自分の力の小ささを思い知らされた今回でした。
いろいろな意味で、自分には何も力がない。
けれど、できる事は……小さくてもできることは、自分にしかできないことは、絶対にあるはずだ。
それをしていくことだけはあきらめたくない。

……そう、強く感じました。

どうか、よろしかったら最初から最後まで読んでやってください。

【N-gene】記事
被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」
その1 その2 その3 その4 その5

今朝、目に止まった一つの記事があります。


Silenced by gaman」……「我慢という沈黙」

Japan: Silenced by gaman | The Economist より

すみません、これ、私が勝手に意訳したタイトルなのですけど、文面を読んでいて日頃強く感じていたことを思い起こしたので、こんな風に訳してみたのです。(もっと適切な役があったら是非教えてください)

記事の内容は、大約ですが「日本人は昔から我慢が美徳とされている。けれど、それが果たして『美徳』としてもてはやされていい物だろうか?」という投げかけから始まって、先週までに東北地方に投げかけられている三つの『課題』についてを考察しています。

一つ目は4月17日に東京電力の「当面収束に半年〜9か月」という発表について。

二つ目は4月14日に菅総理が行った「東日本大震災復興構想会議」について。

三つ目は、「エネルギー政策」に対する国のあり方について。

この三つの観点で考えた時に、日本の人は「我慢」という美徳の名の下にこれ以上沈黙を続けるべきなのだろうか?という投げかけの記事なのです。

この記事の最後にはこう記述してあります。
”If they are finally running out of gaman, it might be a healthy sign.”
(もしも彼ら(東北の人びと)が我慢の限界にきたら、それは正常なことなのではないでしょうか。)

私は常日頃から思っていたことがあります。「日本という国ではなぜ、革命が起きないのだろうか?」……と。

かなり過激なことだと言われるかもしれません。でも、ずっと人間…、日本やこの地球の歴史を見てきたときに、人びとは耐えられない圧力に対して「抵抗」という術を持っていました。それは時に暴力をともない、人を傷つけたり時に血を流し命を奪ったりという悪い形ででてしまう事もありました。

けれど、もしもそれがなかったら……「抵抗」という抗議の声がなかったら、私たちの今の幸せな「普通の生活」は成り立っていなかったんだろうと思います。

ここにあるのは「上」と「下」との関係。為政者と民衆との闘い。力のある者とそうでない一般の者との闘い。……というように、立場の違う者同士の間に起こる「不理解」がもとになって出来る「不整合面」の不自然だったり理不尽だったりする圧力からの解放……。つまりは、今回の災害の原因になっている「地震」の起こるメカニズムのようなものなのです。もっと言うと、「自然現象」の一つ。

ところが。
第二次世界大戦が終わり、日本が負け、そしてそこから立ち直ろうといわゆる「挙国一致」状態で日本が高度成長を遂げた頃から……いつの間にかこの「自然現象」は見あたらなくなりました。私が成長してくる過程で、東大の紛争・連合赤軍、そういうかなり衝撃的な「革命」の見出しが新聞記事に踊りました。

決してそれを肯定しようとは思いません。だけれども、そこにあった「エネルギー」は……「生きている人の力」を感じさせてくれる命の爆発は……強烈な印象を子供心に、そして社会全体に投げかけていたのは確かです。人の命を危ぶませ、暴力により世の中に一石を投じるという革命のあり方は推奨されません。けれど、「それしか訴える手段がなかった」状態に陥った社会にとってはこれほどの命の爆発が必要になっていたのは確かだろうと思います。

ところが、ここ数年。
日本という国とその社会全体は明らかにおかしな方向に迷走し、人や物の命の重さ・その熱さが忘れ去られ、かなりの「不整合面」があちこちで発生していたのにもかかわらず、「革命」は起きない。暴力に限らず、人びとはどうにも「あきらめ」てしまい、下を向き、そして自らの内面に向かって心を病み、命を絶つような状況が多発していることに対しても次第に「不感症」になりつつあった。

つまり……「怒っても当然」のことに対しての「怒り」さえも、失われつつあったように思います。

この記事を読んでいてそれを思いました。被災者の人たちは怒っていいんだと思います。それは、天の与えた災害に対してではなく、そこに至るまでの社会のあり方と、災害のあとの国のあり方に対して。

怒りは必要です。
「我慢するべき」怒りは当然ありますが、「我慢してはいけない」怒りもあるはずです。
その怒りが、社会や世の中を進めていくのですから。前進させるのですから。

かつては、人は力によってしかこの「訴える力」を持てなかった過去もありました。けれど、今は違います。ネットがあり、様々な表現手段が許されている今は、力に頼らずとも言葉や行動でそれを表すことができるはずです。下を向いているのではなく、正しい視点を持って正しい情報を集め、そしてそれをきちんと受けとめることができる人たちがどうしたら伝わるのか、どうしたらそれを形にできるのかを考えて集約することができるはずです。

エネルギー論争も、本来のこの日本の力を持っていたら原子力に頼らなくても太陽光などのクリーンで自然なエネルギーを大きなパワーに変えることが出来る力はあるはずだと思います。かつて日本がそれほど電気に頼っていなかった時代の状態を想い出してみたら、「電気が必要」な部分と「必要でない」部分をきちんと見分けて電気に頼らない社会が生み出せるはずです。

(実際、「節電状態」の今、真夜中が暗く星空が見える状態の快適さを想いだした人も多いのではないでしょうか)

人びとの応援の声が莫大な支援金となって形になっているのだから、それを「この先の復興」という大きな目標のために被災者の立場に立って、その目線や視点から有効に活用して行ったら、それが形になったら、失った物に心を寄せながらより温かく人の血の流れる町づくりが可能になっていくはずです。

たとえば、先日目にしたこの記事。
東日本大震災:家電6点セット購入に 赤十字社の義援金

果たしてこういう義援金の使い方が、寄付した人びとや、もっと言うと被災地の人びとの「本当の望み」にかなっているのかどうか?そういう観点で物を見たときに、「我慢」するべき事と「我慢しなくても良い」部分に対しての観点がどうにもずれているように私には思います。お金の使途を決めるのは、赤十字や国ではない。寄付した人たちの想いと、それを受けとめた被災地の人たちの本当の意味での「復興」……元気な世の中に戻るための力になる、という観点で考えるべき事なのではないでしょうか。

そのために、私たちは……自分の持っている「きちっと自分の足で立って歩いて行かれる社会」に必要な物、そのイメージを最大限に生かして拡げて、力にしていくことが大切なのではないかと思います。

確かな視点。
目先のことに囚われない、長い目で将来を見つめる目。

「我慢すること」は、人から押しつけられるのではありません。
「我慢」とは、自分の目標に向かい、明るい未来に向かうときにそれをかなえるためにすることであって、あきらめるためにする物ではありません。

我慢して下を向くのではなく、前を見つめて歯を食いしばって進む我慢。

自分と社会全体の進むべき方向の基準に基づいて「我慢すること」を自分で決め、確かな視点と方向性を持って今、力強い復活のイメージを目指してみんなで一緒に歩いて行くときなのではないでしょうか。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

最近、本編は休止状態でコラム「INTERMEZZO」ばかり書いていますが、このご時世と言うことでしばらくご容赦ください。たぶん、「イメージする事」の大切さや過去に学び、前に進むためにとても大切であることを「今この時」考え粘らない状態なのだと思います。だから、本編は一休みして、今この時に皆さんと考えたい事、考えるべき事をしばらく記述していこうと思います。

その時に必要なのが「個人裁量」なんじゃないのでしょうか。今回も、その”個人裁量”……つまり、「人としての想い」で救われた命がたくさんあります。マイクを握ったまま人びとを避難させて自分は間に合わず亡くなっていた消防士さんの話。今、原発の現場で被曝の恐怖を恐れず闘っている人たち。違憲と非難されながらもそこで研鑽を積んだ自衛隊と、その自衛隊に救われ肩車に誇らしげに微笑む少年の写真。

その一方で自分たちは被害に遭わなかったけれども少しでも力になりたいと使えそうなものを必死で集める人々。Twitterで自分の寝る時間も惜しんで必要な情報を繋ぐ人びと。

決まりに縛られずに個人の想いで闘っている人たちがたくさんいます。
それが「現場」なのですけれど、いまだにその「現場」と乖離した「お役所仕事」に支配されている人びとがその妨害をする。

先ほど、原発で今苦しめられている福島県の元知事のインタビュー記事を読みました。そこにはこう書いてありました。

「役所は一旦道が引かれると、止まらない。誰にも責任を取らせないし、取りたくないが故にみななぁなぁでその道を進んで、止めらない。原子力の問題を通じて、このことが判った。」

(2011年3月20日、佐藤栄佐久元福島県知事に緊急インタビュー記事より引用)

これは「いじめ」の増長、悪質化にもつながっていますし、「頑張った人間がバカを見る」と言われるようになった今の日本の社会の根本にある病巣のもとでもあります。原発がなぜ、必要なのか充分な討論もされないままに推し進められたその結果を見つめようとしない関係者の姿。ここにも「馴れ合い」という一つの悪習が巣くっています。

日本ほどの技術を持っていたら、たぶん原発の開発や維持に掛けるだけのお金を持ってしたらきっと充分な太陽光発電の開発がもっと早くに可能だったはずだと私は思います。そっちに行かなかったのは政府主導で行われた「現場との乖離」によるお役所仕事の結末のように思います。

今、浮き彫りになってきている日本の病巣。
災害によって見えてきた「人のあるべき姿」。

こういうものを今、真剣に考えて見つめ直していかないといけないときなのだと思います。
日本が、再び世界に胸を張れる国になることができるのか。

「また、再建しましょう」

戦争。チリ津波。そして今回の地震による被害。
そんな大きな波を何回もかぶってなお、こう言って笑える大先輩が日本にはちゃんと居ます。

こうしてきた「現場の人間」を心の柱にして……こういう人のあり方こそを「ルール」にして、私たちはいいかげん「お役所仕事」の「決まり」に支配され、「慣習」に押しつぶされてきた今までを脱ぎ捨てて「人がルール」の日本に立ち返るべきなんじゃないのでしょうか。

ところが、いつの間にか……最近は「決まり」があり「慣例」があって、そこからはみ出すことがいけないことになってきていて、「オレが責任持つから」という「上の人」がいなくなり、現場の物は上の人が出す指示や命令が絶対になり、それを守れないと責任とるのは現場の者。せめられるのも現場の者。

責任はどこにあるのか?といったら「現場に即した指示ができない上の者」にあるように思うのですけれど、そこには誰も言及しません……出来ないんですよね。

「お役所仕事」という言葉があります。
これは、「お役所とかお役人さんは決まり事以外のことはやらない」という個人裁量のなさを非難した言葉のように思うのですが、実は現代の社会って、お役所に限らず、会社でも、学校でも、社会全体でこの「お役所仕事」が蔓延していたように思うのです。

最初にあげた支援物資の話。それから実際に当日のライブで「寄付を募ろう!」って思ったけれど「個人でそういう事をされては困る」というひと言でその話も進まなくなりました。すべてが「こういう決まりだから」「こういうルートでやってもらわないと困るから」という理由からのことなんです。

さらに、Twitterなどでいろいろな発言を見ていますけれど、そういう中でも同じような現象は起きています。「不謹慎」発言や「偽善者」発言ははその最たるものじゃないかと思います。

こういう事態に陥ったら、被害にあって大変な人がいるから楽しいことは不謹慎だ。旅行なんてとんでもない。笑いなんてとんでもない。そんな発言は不謹慎だ!……「不謹慎」というルールが人を支配してしまうのです。そのルールからはみ出す人は「悪者」であり「あってはいけないもの」なのです。

逆に、こう言うときに自分のことのように必死で応援したり様々な行動をしている人に対して「偽善者」呼ばわりをする者もでてきました。かっこつけ、いい子ぶり、目立ちたいから……。「偽善者」という枠にはまる者は、たとえ相手がそんなつもりじゃなくてもその人にとっては「偽善者」になってしまう。

でも、ちょっと考え直してください。

「決まりだから」
「上がこう言っているから」
「不謹慎だから」
「偽善だから」

○○だから……という言葉のその○○に入る言葉を決めたのは誰でしょう?そしてその○○という言葉は、一体誰のためにあるのでしょうか?

決まり。ルール。上司の命令。
そういうものは「人がより良くあるため」に発するものであるはずです。
そして、人が発するものである限り「誤り」だってあるのです。

単に今までの慣習だから、常識だから、自分がこう信じてきたから。
そんなものに左右されたものがたくさんあるんです。

人は、人である限り「絶対」なんて不可能ですから当然「過ち」はあるはず。かつて「個人裁量」「現場裁量」がちゃんと認められたのは、こういうことがわかっていたからでした。決まりがあったって、現場では何が起こっているのかわからないから、決まり通りに行かないこともある。常識だと思っていたこと、大丈夫だと思っていたことが崩れることも絶対にある。(今回の原発のことに関してもそうですよね。「絶対に安全」という事はない。地震の規模が「想定外」であったことも、また人の常識でははかりきれないことでした。)

そういう「ありえないこと」に出くわしたとき。
決まりや常識では動かせないもの、救えないもの、抗えないものがでてきます。

○○だから……では太刀打ちできないことがまだまだたくさんあるはずなんです。

〜(3)へ続く


graphics8.nytimes.comより

先日、住んでいる町のイベントがありました。
そこに関わって出た話です。

私は、バンド活動でこのイベントに参加することになっていたので、イベント前の二日間、練習をしました。その時にこの震災の話になったのですが……。バンドのボーカルの人が支援物資を持って行ったときの話をしてくれました。

「乾電池をオークションで500コ落として持って行ったんだよ。市で集めていたのに合わせて。で、そのうち1つのパッケージだけ袋があいてたんだ。でも明らかに使ってないってわかる状態だったんだけどね、集めていたひとに言われたんだよ、“新品じゃなくちゃ困ります”って。」

この「新品限定」っていうのも何とも困ったルールだと思ったのです。
実は、私もこの災害に関して支援物資を家にある物で間に合うのだったらかき集めて持って行こうと思ったのです。娘とその情報をもらいに役場に行く途中のラジオでその募集の話をしていました。

やっぱり「新品に限る」とのアナウンス。それから他にも、個々にバラバラに持ってくるのは困るので箱単位、とかでも「購入してまで持ってこないでください」とか、指定した物以外はダメ、とか……。

「ああ…それじゃ無理」と思って娘とあきらめました。

正直、家もそんなに余裕のある生活しているわけじゃありません。だから家に「買い置きしてある物」で「新品」で「まとまった量のある」モノなんか無いんです。毛布も子どもたちが小さい頃使った保育園のおひるね用の小さいのとか、そんな物しかないんです。

新品を……と言われたら、やっぱり買いに行くしかない。
で、ふと思ったのがこのあたりのスーパーでそういう物が品薄になっているという話。もしかしたら買ってでも支援しようとまとめ買いした人のいるのじゃないのだろうか………と。

確かに、支援物資は不要品集めと違いますから、気持ちよく使ってもらえるモノを集めたいということもわかります。でも「新品」に拘る必要はあるのでしょうか?大切なのは「今すぐに必要な物が使える形で届く」事なんじゃないのでしょうか?

現場からは「足りない」の声が上がっていて。余裕のある地域の者は「なんとか届けたい」と思い。

だけど届けるためには個々で受け付けていないのだからお役所に頼るしかない現実。
一つでも多く、一刻も早くに物を届けたいという思いから家にある物で「使える物」を持ち寄りたいという想いがこの「新品に限る」というひと言でさえぎられてしまうんですよね。

確かに、電池なんかはシールはがしてしまうと使えない物かどうかもわからないし、そうして持ち込まれた「不要品」を処分する手間を考えれば「新品に限る」はとてもよくわかるんです。だから今回はそれも仕方ないのかもしれません。

その上で、ひとこと日頃思っていたことを添えたいのです。

かつては、「現場裁量」とか「個人裁量」という言葉がごく自然に行われていました。ある程度の立場にある人、上司、そういう人たちからは「オレが責任持つから思うようにやれ」という言葉を聞くことが多かったのです。

そういう「信頼」を受けた方はまた、その信頼と期待を裏切れませんから「自分に責任」を持って行動しました。

お互いに、自分の行ったこと、自分の信頼、そういう物すべてに自分で責任を持って行動していました。だからその中でもし、失敗があっても人のせいにはしなかったし、自分で何とかしようと頑張りました。責任持ち、信頼しあった者同士で物事を一生懸命に解決していきました。

そこにあるのは人間の温かさ。人の心のこもった行動。
だから、もし、失敗があったとしてもその人を責めるよりはみんなで何とかしようと考えてやって来た……。

(2)へ続く

Photo : Midori Komamura

小布施には高井鴻山という文人がいました。

造り酒屋の豪商である高井家は、八代目の時の天明の飢饉時に蔵を開放して人民の救済をし、そのため名字帯刀を許されたとされています。

その十一代目である鴻山は、京都に遊学して書・画・朱子学などを学び、幕末の様々な文化人との交流も深めています。小布施においては天保の大飢饉に際して八代目同様倉を開放して人民の救済を行い、塾を開いて地域の人民の教育にも力を注ぎました。

また、葛飾北斎を招き、彼をパトロンとして支援したのです。このつながりから北斎が何度も小布施を訪れ、「八方睨み」と言われる鳳凰画を完成させています。

鴻山はしかし、単なる資金援助をしただけではありませんでした。北斎の芸術・感性を大切にし、自らもその弟子として学んだのです。北斎の鳳凰図へのアドバイス、相談にも乗ったとも言われています。

鴻山のように、単に資金面での支援・援助のみでなく、文化や感性のような「心」の部分に至るまで、自らのもっているものを人々と共有し、それを支える姿勢やその仕組み。それが「旦那文化」です。

これはつまり、財産〜金銭〜だけの共有ではなく、思想や感覚の共有にまで及ぶものです。
さらに……それを時の政府という「公的なもの」がやるのではなく、「民が主体的に」行っているのです。ソ連や中国の「共産」がうまくいかなかったのは、民ではなく官主導で行ったという要素があるのに対し、小布施がなぜ、その豊かさを今まで絶えることなく受け継いでいるのかといえば、官主導ではなく民による自発的な「共産」が行われたから……なのだと思うのです。

高井鴻山の末裔である市村氏をはじめ、小布施に生き、小布施を愛する人々が主導して進めてきた小布施の町並み作りは「小布施方式」と言われて全国から注目されていますが、その根本に流れているものは「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という町民の意識。

すなわち「共有」という感覚で町が組み立てられているせい。さらに、外から持ち込まれる文化や物産、さらには人材までも分け隔て無く受け入れ、それもまた皆の財産として共有し、町の財産として分配されているのです。

小布施の町は、人が作っているのです。そこに住む人々が、それぞれの立場でそれぞれのもっているものを町のために共有し、分配しあうのです。だから、小布施の町はみんなが幸せで、みんなが豊かに生き生きしているのだろうと思うのです。

こう考えると……今、マルクスの思想が改めて見直されつつあることと、小布施の町に観光客の客足が途絶えないこととは何か通じるものがあるような気がしてきませんか?

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*なお、小布施町の市としての名残を感じることが出来る「安市」が今週末(14,15日)に開かれます。このコラム(1)(2)で使用した写真は安市のものです。お近くの方は、是非小布施に賑わいを体感しに行ってみて下さい。

小布施安市

Photo : Midori Komamura

さらに学校は今、非常事態のベルが鳴っているのにその音が聞こえないような状態になっている。非常ベルが鳴っているのに、誰も気が付かないし逃げ出しもしない。不登校の生徒たちは、気が付いて逃げ出した子供たちなのに、そういう子供たちは「はみ出した」生徒としてその声を聴いてもらえないのです。

そういうことを、学校の中からなんとか伝えようと思いました。けれど、とても難しいことでした。学校の中にいる状態のままでは絶対に気が付けない・見えないものがあることは、私自身がそういう状態にあったからよくわかりました。

私は、「この先をになう子供たちが、希望を持って進むための力をつけさせたい」から教師になったけれど、それは自分一人ではけっしてできることではありません。学校が一つになって、お互いに補い声を掛け合いながら生徒1人1人をしっかり見つめていかねば出来ない事です。

けれど、今の学校ではそれは無理でした。「古くからの体制」や「今までの流れを作ってきたルール」「先輩と若輩との世代の断絶」「より良いものを目指すためのモデルの不足」……そういったものが学校というものをがっちり固めてしまっていて、たった1人で声を張り上げようともどうにもなるものではなかったのです。

このままいても中から変えることは無理なんだ。そしてこぼれ落ちてしまった生徒は中からは救えない。

そう思った私は、25年間の教職生活にピリオドを打ちました。そしてこぼれ落ちた生徒たちの居場所作りや、うつ病のような心の闇に落ちた人たちが笑顔を取り戻すために出来ることをしていこう、と考え「スマイルコーディネーター」としての活動を開始、子供たちの個別学習指導を軸にして、これまでに記述してきた宮内氏とのプロジェクトに取り組んだり、うつ病理解のための活動を続けたりしてきたのです。

「どの人も、目指すものは同じで、そこに立ちはだかる壁も同じだ。」

ここまでの私自身のそういうもろもろに、ここまで出会った人々のそれが重なってきたのです。学校の中にも闘っている人はちゃんといました。N-ex Talking Over、羅針盤、N-geneの取材。みんな目指すもののもとにあるのは同じものでした。

「人の笑顔があふれる社会」

みな、自分のためだけに活動しているわけではありませんでした。自分の周りの人、家族、友人、地域、それから未来を担う子供たち、社会………そういうものに目をやって、そういうものの笑顔をイメージしつつ、私利私欲に囚われずにそれを目指していました。

そしてその人々に「立ちはだかる壁」は、警報が鳴っているのに気が付かない学校、社会、地域、家庭、形骸化した様々な決まり事や伝統、固定観念。

町づくりや観光の再生に取り組む人々の取材で教育問題に突き当たる。文化やアートの取り組みで社会の決まりや仕組みからの抵抗に突き当たる。そうして必死で「ほほえんで暮らせる毎日」を目指す人々は、みなどこか「はみ出したもの」であること。つまり、今の社会からはみ出して一歩外から眺める人々という点で、実はみんなつながっていたのです。

さらにこれは、第3章でも少し触れましたが、【羅針盤】で取り上げた人々にも共通する点でした。

thinking

Photo : Midori Komamura

第3章 「イメージ」という根っこの上に花開く”今”。

1 すべての根っこは同じ。

【羅針盤】によって新たに進むべき方向をおぼろげに掴んで、次に取り組んだのがエヌ[N]のプロジェクトの一つであるWebマガジン、N-geneの特派員としての取材でした。

そもそもエヌ[N]のコンセプトは、長野県の面白くて役立つ情報の蓄積、交換。特に文化・アートを軸にした講演会や公演なども行われ、積極的に長野の文化を取り上げることを詠っています。そのため交流の場であるSNSにWebマガジンを併設する、というちょっと変わったシステムをとっていました。

ですから、N-gene記事として取材する題材自体はそれまでN-ex Talking Overから羅針盤までの流れの中、次第に自分の中ではっきりしてきたこの「イメージ」というものを柱にした活動や、それをしている人たちを取り上げる、というテーマとぴったり重なっていました。自分のめざし追求するテーマに沿った人々や活動を取り上げて紹介することが出来るので、これを引き受けて仕事の合間を縫って様々なイベントに駆け付け、人と出会い、そういう人たちが目指すビジョンを受け取って1人でも多くの人に伝えようと取材活動を1年以上続けてきました。

そうして自らの中にしっかりとした想いを持って活動している人々を知り、その想いに直に触れるにつれてあることに気が付いたのです。

「どの人も、目指すものは同じで、そこに立ちはだかる壁も同じだ。」……ということに。

もともと私は、学校の教師をしていました。先生として生徒と対する毎日の中で様々なものにぶち当たり、それを解決しようと必死な毎日でした。その中で次第に「教育」とか「学校」とか「学びのあり方」に違和感を感じるようになりました。教室で騒ぎ言うことをきかない子供たち。先生を困らせる子供たち。学校に来なくなる子供たち。そしてその親御さんたちの姿。それに対しての学校のあり方。

「何か変だなぁ」と思いつつも多忙な毎日に翻弄されているうちに、私自身が「うつ病」になって学校に行かれなくなりました。さらに、中学1年の冬に、それまで「言うことは全くありません。」と担任から優等生認定を受けていた息子が不登校に陥りました。

そうして今まで「当たり前」だと思っていた学校の中でのもろもろのことを「外」からながめたときに、いかに自分が何も見えていなかったのか、ということがよくわかったのです。

教師としての常識が、親としての自分にとっては辛いものだったり、親として学校に向かったとき、教師としては苦しい状況に陥ったり。心の闇に苦しんだものとして学校に戻って同じように辛い不登校生と向かい合ったとき、いかに今の学校の仕組みというものが生徒と教師を遠ざける状態にあるのかも、教師同士の情報交換や支え合いが出来にくい状態にあるのかも。

thinking

Photo : Midori Komamura

5 まるでジェットコースター。〜人間味を引っ張り出す対論〜

この【羅針盤】のを形にしていく上で大切にしたことが二つありました。

一つは、映像でも活字でもない「音声での収録」(それも、できるだけ編集はしないもの)にすること。
もう一つは、長野県という土地と、そこに住む人々をきちんと「イメージ」した事業を展開・成功させている人を選ぶこと。

今の世の中、映像があふれています。それはイメージを共有化し、情報をより正確に詳細に伝えるためにとても効果的な手段です。けれども、裏を返すとそれは「イメージの押しつけ」にもなるのです。

美しい風景としてテレビで映した画面のすぐ横には、ごみが落ちているかもしれない。泣いて悲しんでいる人の写真の裏側には、それを見て笑っている人がいるのかもしれない。

与えられた映像というのはそれを創り出したものの「イメージ」が介入したものであり、そこに良くも悪くもある「意図」が組み込まれます。つまり「事実そのもの」を伝えるものではないのです。

この【羅針盤】では、その「イメージの押しつけ」状態を極力排除しました。映像にすると、とったカットや場所によって見るものに「固定イメージ」を与えることになります。また、そこで得た情報を活字化し、本にしたら、話し言葉と書き言葉の与えるイメージも、文にまとめるものの「意図」がからまってきて本来の事実そのものと違ったイメージを与える可能性があります。

人の話す言葉には、「言霊」があって、その人の想いや命が載った言葉が体温を持って相手に届くもの。

それを出来るだけ正確に、その人が自身のアイディアやイメージを語る言葉をそのイントネーションや音の響き、さらにその場の空気感も丸ごと含めて人に届けたい。それを聞くこと、感じることで、その人の人柄や言葉の重みから生まれるイメージもあるはずだ……。

オーディオバイオグラフィーという発想は、そこから生まれました。

もう一つの観点である「人や土地を大切にした」という部分。

N-ex Talking Overや文化庁の事業を進める上で今の世の中がなかなか明るいイメージを持てないのはこの部分が足りないため。またそういう想いを持って人の笑顔を思い描いた活動をしている人々がぶち当たる厚くて大きな壁も、この部分への理解が得られず、それをイメージできない社会の事情に阻まれがちだからです。

その壁をぶち破って、自身の事業を展開し、成功に持っていくことの出来た人々の持っているパワーやアイディアは今なかなか進めない人々に何らかのイメージをもたらしてくれるでしょう。それだけの力を与えてくれる人々が、ちゃんと身近にいるのだ、ということを知るだけでも大きな力になるでしょう。

ジェットコースター

Photo : Midori Komamura

二つのプロジェクトから見えたもの、掴んだ可能性の未来について宮内氏と語るうちに、ひとつのぼんやりとしたイメージが浮かび上がってきました。

今の社会・世の中は、まるで嵐の海のようなもの。先は見えないし、それがいつおさまるともわからない。その荒れた海で避難する場所も見えずもみくちゃで息もつけない。時に嵐は、がっしりした大きな船でもたちまち飲み込んでしまう。ニュースを賑わせる大企業の突然の破産や倒産、経営危機。みんなが必死に嵐と戦っていて、どうしたらいいのかわからなくて。みんなが嵐を乗り越えるために必死でいろいろな手段を講じているけれど……なすすべもなく抗う力も失いつつある。

それを乗り越えるためにはどうしたらいいのだろう。

自分たちも、まだそれが見えない。実際にいろいろ無我夢中で取り組んではいるけれど、どうしたらそれがちゃんと実を結ぶのか、何を目指してどんなふうにしたらいいのかわからない。……その「イメージ」がない……。「乗り越えるイメージ」が欲しい……。

今の時代にありながら、ちゃんと苦難を乗り越えてしっかり立っている人々がいる。そこにはきっと、乗り越えるためのヒントになる「何か」があるに違いない。そういう人たちに会って話を聞いて、その「何か」を集めてみたらどうだろう?

今この時に必要なのは、「乗り越えるためのイメージ」……そしてそれは、嵐にも負けずにしっかり立つことができる人々の持っている「何か」。それこそが訳のわからない苦しい状態を抜け出し、この先進む方角を示してくれるための「羅針盤」になるのではないだろうか。

いろんな人に会って、話を聞こう。そこから何かが見つかるかもしれない。その人々の言葉を集めて、自分たちだけでなく、おなじようにもみくちゃになっている人々にも伝えられるような“何かの形”にしてみたらどうだろう?

こうして、二つのプロジェクトから見えた可能性をより確かなイメージへつなげる手立ての一つとして、オーディオバイオグラフィー【羅針盤】の構想が生まれたのです。

かりがわたる

Photo : Midori Komamura

2-4そして【羅針盤】へ 〜社会という荒波を進むための指針〜

こうして、「日本の社会は大丈夫」というイメージを得、可能性を見つめるエネルギーを得ることが出来たのですが、一方で「現実」「現状」が持つ大きな課題もはっきりと目の前に山積みになりました。

日本は大丈夫、という要素も可能性もありますが、しかし逆をいうと「大丈夫ではない現実」が立ちはだかるからその可能性を探らねばならないわけです。

たとえば、一番切実なのはお金の問題。何をやるのにもお金がかかります。実際、N-ex Talking Overを半年で休止しなくてはならなかったのもそれが大きな理由でした。

同じく、若い世代がなぜ情熱を持ちながらそれを実際に生かすことができないか、という理由にも重なってきます。まだ財力の余裕がない若い世代は、活動にお金をかけることが出来ないし、自分の生活を維持するためには収入を得ることも必要で、収入を得るための仕事の時間が本当に目指すものにかける時間を圧迫する。これも現実のことです。

それから、年代や立場の差。

世代や立場を超えて交流できる場が消滅し、「異なった環境から生まれた意見」が討論される場がないことのほか、少子化・核家族化による年代バランスの崩れ、発展のために急激に進んだ競争社会、失敗が許されにくくなった環境、固定化・形骸化された決まりや伝統、もしくは増え続ける規則による思考の停止状態……。様々な要因が絡み合って、年配と若者、土地のものと外からの者、収入の多少、などの立場の二分化・二極化を創り出し、それによって意見もまた良いか悪いか、あっち派かこっち派か、という歩み寄りのない「対立」の構造を創り出していました。

結果、力のない者、権威のない者、実績のない者、資金のない者、といった「無い者」の挑戦は取り上げられなかったり、孤立したり、という状態がおこるのです。

そこで「可能性」を掘り起こすだけではなく、それをつなげてわかりやすいイメージにすることが必要でした。

実際に、小さい動きですが「活動」して頑張っている人はたくさんいました。けれど、それを取り上げてつなげる機能を持つ機関がないのです。だから、頑張っている人たちは孤独でした。「自分だけ頑張っていてもなぁ」というむなしさや、「こう考えるのは自分だけなんだろうか」という孤独感を持った人。N-ex Talking Overや文化庁の事業で出会った人々の中に見え隠れするそういう想い。

せっかくの可能性を未来につなげるためには、そういう想いを何とかするべきだろう、どうしたらいいのだろうか?
「この先」を考えたときに、何が出来るのだろう?

荒れた海を見つめるカモメたち

Photo : Midori Komamura

かつて人は、様々な感謝や、祈りを捧げる一つの形として「祭」を行っていました。それは豊かな恵みや労働に、人々が生かされていることに、自然との共存を願って、厄や難を避けるために……など理由や形には様々ありますが、「より良く生きる」「豊かに生きる」ことをイメージしたときに生まれる祈りや感謝という想いを形にしたものが舞いや音楽。そしてそれを奉納するのが祭です。

南信州には、山あいとそこに住む人々に守られて、いまだにこの祭がしっかりと中身を伴って多数残っているのです。伝統だから、決まりだから、という形を維持するためではなく、人々の「より良い生き方」への想いと情熱によって今の時代に力強く受け継がれてきているものがたくさんあるのです。

この祭の中に、今の時代をよみがえらせるためのヒントがないだろうか。形だけのものに心を取り戻すためのヒントがないだろうか……。そういうテーマで取り組んだのがこのフォーラム南信州「祭の流儀」でした。

2回のフォーラムと、まとめの会。それから各地の祭の現地調査とそこで出会った人々。一年を通じて頻繁に飯田に通い、南信州の空気や土地柄を直に肌に感じながらこの事業を進めていく中で見えてきたもの。

それは、その土地土地にはそれぞれ持っている気風=地脈というものがあり、その上に成り立った生活や文化は人が生きる上で本当に必要な「命のエキス」のようなものだ、ということ。それを忘れたり捨て去ったりした土地とその人々がたどるのは衰退。けれどその地脈をきちんと感じとり、それを生かした生活の上に成り立っているところは細くても小さくてもちゃんと命のリレーが出来るのだ、ということ。

過疎化。高齢化。こういった現代社会の波は確実にこの独立状態の南信州にも押し寄せています。死んだ畑や田んぼもたくさんありますし、シャッターがおりた店が目立つのも確かです。でも、地脈を感じている土地の人々の表情は明るいのです。前向きなのです。形にはめられず、踊らされず、心を守ろうとする強さと情熱が消えていないからです。

東京の雑踏の中で、ものすごくたくさんの人の波の中で立っているときには感じられない人や大地の放つ「気」というものが、「祭」という一つのイメージの形から強烈に伝わってきたのです。

これなんだ。これが必要なんだ。「今」に欠けているもの、「今」が見失ってしまったものはこれなんだ。

それを色濃く残している南信州の土地と、そこの人々からもまた、「まだいける、まだ大丈夫」という力をもらい、一年間の事業からたくさんの「前へ進むためのイメージ」の材料を受け取ったのでした。

*フォーラム南信州「祭の流儀」 (H20年度文化庁事業)の概要とまとめはこちらでご覧下さい。

霜月祭

Photo : Midori Komamura

目次

記事

PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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