そんな学校の姿はまた社会の有様の縮図でもありました。
近所の人間が集まってワイワイ話をする場はほとんどありません。それぞれが仕事に忙しく、下手をしたら近所に誰がいるのかさえもわからない。誰がどんな知恵を持っていて、誰がどんな技術があって、こんな時にはこの人に聞いてみればいいかな、この人にアドバイスもらえるな……そういうデータは手に入りにくくなりました。
子育て中のお母さんは先輩のお母さんにアドバイスをもらう機会が無く孤立し、ちょっと子供を誰かに見ていてもらうことも出来なくなりました。職場での先輩後輩の交流も減少、仕事のノウハウはマニュアルに頼るしかありません。
地域独自の行事も参加者が減り、継承者が減り……子供は社会人としての生きざまを大人たちのその背中から見取る機会も時間も減りました。お父さんは会社、お母さんも仕事。自分は学校とその後は夜遅くまで塾。家庭でさえもこの有様です。
世代を超え、性別を超えた「寄り合い」の減少によって経験者はその経験とノウハウを伝える場を失い、若者は自らの情熱を実践や知恵に結びつける機会を失い、歴史もそれに伴う経験や実績の集積も伝わることなくそこから生まれた伝統や決まりだけが残っていく。
つまり「形」が残って、その形を作り上げ、伝えていくための中身=「心、精神」が全く抜け落ちた状態があちこちで起こっているのです。中身が抜けた張りぼての重みを感じない形を受け取った若い人間が、それを支え、伝えていこうという情熱を持つことが出来るでしょうか?
伝統や決まり事、会社や仕事のやり方というのはその中身が大切だから受け継いで守る情熱も生まれるのです。年配者は経験とそこから得た知識を、若い世代はその情熱を持ち寄って作ってきたもろもろのこと。
それを伝え合ってみんなで一つの「イメージ」を作り上げて来たものが伝統であり決まり事であったのに、「持ち寄って」「伝え合う」が場を失ったことでその中身、心が置き去りになってしまった。その結果、向かうべき「イメージ」のモデルがどこにも見つけられなくなって、ただその形を追うだけになってしまった……。
モデルというのはイメージ作りの上でとても大切な材料です。いいモデルはもちろん、悪い面でのモデル〜反面教師〜も必要です。それに触れる機会である「寄り合い」は大切な社会を動かし、成長させる場であり機会だったのです。
今の社会のあちこちが形骸化し、中身を失う原因はイメージ作りが出来ないせい。その場や機会を提供してきた「寄り合い」が必要……それはこれからのために絶対に。
漠然とそんな想いを持っていたときに、宮内氏の「カフェミーティング」の提案に出会いました。
「カフェミーティング」……そのひとことが私の中にある想いや感覚を確かな「イメージ」に変えてくれたのです。