2011年 9月

ref=dp_image_z_0.jpeg「次の日から食べ物がほとんど無く、食パンを4分の1にしたものが1人分でいつもおなかがすいている状態でした。そんな日が何日か続いていました。」(石巻 小6)

「その時はすごくおなかがすいて死にそうでした。ぼくの友だちもすごくおなかがすいてもう死んでんじゃないかと思うくらいだら~としていました。そうしている間におにぎり1個ずつわたされとてもうれしくて十分くらいかけてたべました。」(南三陸町 小6)

「震災の前、大好きな私の家で家族みんなで生活していたこと。お母さんと一緒にご飯を作ったこと。家族みんなで食べたこと。いつでも電気がついて蛇口をひねれば水が出たこと。当たり前のように思えていたことその1つが決してあたりまえなのではなくて、とても大切で幸せで何よりも宝ものだと思うのです。」(南三陸町 小6)

「よるになるとさむくてみんなでくっついて、ねました。カーテンをかけてねました。おなかがすいてさみしくて、はやくかぞくにあいたかったです。でも先生たちがずっとおきててくれてうれしかったです。」(気仙沼市 小1)

「私は、この震災で多くの物を失いました。唯一残ったのは、命です。この命は、今まで以上に大切にし、亡くなった人の分まで一生懸命に生きようと思います。」(気仙沼市 中2)

「1ヶ月たった。ご飯もだいぶよくなり、ご飯・おかず・みそ汁が出るようになった。この頃になると店も開店して、買い物もできるようになった。母に、『何か買ってあげる』と言われても、今なにがほしいのか?前は、ほしい物がたくさんあったのに、今は何がほしいのか、わからないぼくがいた。」(釜石市 小4)

>>>文藝春秋社8月臨時増刊号「つなみ」~被災地の子ども80人の作文集~より引用<<< :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: 震災後に、たくさんの人びとが現地に支援物資を運ぶ活動に取り組んでいました。当時自身で動くことができなかった私は、出来る事……と考えた時にそういう支援活動を取材で取り上げ、記事としてWeb上に掲載することで支援活動を応援すると共に『被災地の現実』を伝えて知ってもらう活動に取り組みました。 その活動の第一歩になったのが長野県小布施町の浄光寺を中心に今でも活発な支援活動を行っている「笑顔プロジェクト」の取材記事でした。五回連載の三回目の記事では、メンバーの1人が最初の支援活動に女川を訪れたときの報告記録を取り上げました。 『女の子の3人が私のところに来て、
「私ね、クッキー大好きなの。本当に嬉しい、ありがとう。」
「久しぶりのおやつです。」
「おやつの中でクッキーが一番好き。」

クッキーでこんなに喜んでくれるのかって思った。もっと、あれが欲しかった、これが欲しかったって言われるかと思ったこの子たちの給食はパンと牛乳だけ。

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「もっと」という言葉は、どの子からも聞くことがなかった。自分の与えられたものとそれを持ってきてくれた想いに、心から感謝する子どもたち。「もっとわがままになってもいいのに!」と思うけれど……子どもたちの喜ぶ姿に逆に胸がつまりあふれそうになる涙を抑えて笑顔を作るメンバー。』

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)より

冒頭に引用した子ども達の言葉にも、「もっと」という言葉はひとことも登場しないのです。その一方で子ども達が何回も何回も記述したり口にしたりする言葉があったのです。それが「ありがとう」……でした。

子ども達は、「無いこと」「無い状態」に陥ってはじめて、自分のまわりに「あるもの」が見えたのです。家族がいること。毎日米のご飯が食べられること。住むところ、寝る場所、身体を包む温かいもの。そして「未来」。

当たり前に目の前にあったものを失って何もなくなったその時に、はじめて何が本当に必要なものなのか、が見えたのです。だから「もっと」とより多くを望まなくなり、そして今ある物に感謝して喜びに変わったのです……だから心からみんな発するのです。「ありがとう」と。

しかし、その子ども達の一方で「現実」は美しい物ばかりではありませんでした。先に引用した笑顔プロジェクトの取材記事から。東北を訪れたメンバーたちが炊き出し活動を行っていたときのこと。

仕切りのないところでゼリーを配り始めると列を作らず、四方から延びる手。一個ずつ配る私を差し置いて、すべてを持っていこうとする。
それが本能だ。 自分の身を守るための行動だ。 生きていくための手段だ。そう思ったけど、 遠くでこちらを見ている方の姿を見つけ、このままではいけないと思いっきり声を振り絞って 「少しでも多くの人に行き渡るようにご協力ください。」 その言葉で、元に戻してくれる人もいた。

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)より

当時、マスコミの報道は一斉に「日本ではこれだけの災害でも盗難はまったく起こらない。我慢強く潔癖な国民だ」という「美しさ・我慢強さ」アピールをしていました。けれど、現実はまったく違ったのです。この記事にあるような姿、店に押し入る暴動が起きたこと、津波が来た途端に一斉に被災地入りした窃盗者、そして自衛官が目を背ける首や手のない死体の山……せっかく残った自宅の2階で寝泊まりしていた人が壁の無くなった1階をあさっていた泥棒と出くわして殺害された、という話も聞きました。……それはすべて、メディアの報じなかった「人が生きるための姿」であり、事実です。日本人は決して美しくも立派でもない。「人間」なのです。

被災地の人たちがみんな、協力し合ってひたすら苦境に耐えているわけではないのです。けれど、メディアが報じる綺麗事に隠れて見えなくなっていたこれらの姿の方が「ありえること」……そして、これがここに至るまでの「日本社会の姿」を具現化しているような気がするのです。

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(4、私たち一般の人間がすること。)
(3) 「もっと」をやめて「ありがとう」と生きる。

突然の夕立。激しい雷雨におびえていると、バチッと音がして当たりが真っ暗になる。
見ていたテレビも部屋のあかりも消えてしまい、何も見えなくなる。

いつ復旧するともわからず不安になっていると「ご飯ですよ~」と声がかかりホッとする。食卓に向かうと、そこにはろうそくの光。静かに揺れるその灯火を囲んで、家族が肩を寄せ合って食事をする。

どのお店も7時になると閉まってしまうから人びとは買い物を済ませて家路を急ぐ。だから夜7時を過ぎるとほとんど人通りはなくなり、当たりは夜のとばりに包まれて、見上げる空には星がきらめいているのが見える。

……実は、これ、災害時のことでもなんでもなくごく日常によく見られた光景でした。どこの家にもろうそくは常備されていて、停電は当たり前。傘や腕時計、みんな高級品。だから一度買ったら大切に使い、故障したら修理。
でも、テレビもラジオも、故障して困ってお願いすると近所の馴染みの電気やさんがひょいと来てさっと直してくれた………。「ありがとう!」「いや、またどうぞ!」そう言って帰る電気屋さんはものすごく頼もしかった。家電は貴重品。毎日の食事は残さず大切に食べないと目の玉が飛び出るほど親から怒られた。

昭和30年代~40年代に子ども時代を過ごした今の4~50代の年齢層が生きてきた時代は、そんな時代でした。

ものがないので、無くしたり残したり壊したりすることは「もったいない」。人びとは物と共に生きていた毎日でした。

やがて高度成長時代からバブルに突入すると、人びとは「ものの命」についてを考える事があまりなくなりました。壊れたら新しい物を買う方が安上がりだし便利。食べるものはいくらでもあるからお腹がいっぱいになったら残して捨ててしまうことに抵抗が無くなり、傘や時計などは使い捨て。電気をつけっぱなしでも「もったいない」という言葉が聞こえなくなり、かわりに聞かれるようになったのは「もっと」でした。

「もっと遅くまで」「もっと明るく」「もっと便利に」「もっと多くのものを」「もっと速く」

次から次に出る新商品。もっと便利でもっと格好良い物が修理するより安く手に入るから人はそちらに向かうのはしょうがないのかもしれませんね。でもそうして大量生産するために多量の原材料が必要で、大量の電気や燃料(石油)が必要で、古いものはどんどん捨てられて多量のゴミが発生して……。

「もっと」とより多くを望むようになったことで地球はどんどん削られていったのです。そしてゴミの山が積み上がっていき、人は物に対しての想いや感謝を忘れていきました。その「使い捨て」文化はやがて、物だけでなく人にも及びはじめました。「人の命」の重ささえも見失いかけていたのが、震災前の私たちの社会の姿でした。

そして起きた、未曾有の災害。人も、物も、多くの物を失いました。私たちはさらにこの先、「放射能」によってさらに多くの物を失っていくことでしょう。

物がない。人もいなくなった。
けれど私たちは明日にむかって進まなくてはなりません。ここから先をどう描いたら、私たちは失った物の重みを忘れずに新しい未来を築くことができるのでしょうか?

それは、本当に、たった1つの想いを切り捨てて、たった1つの言葉を想い出すだけなのです。

切り捨てるべきは「もっと」。
そして想い出すのは「ありがとう」。

……それはまさしく、被災地の子ども達の作文にあふれているまったくそのままのことなのです。

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「節電」を声高に人びとが叫んだ時、私は自分の子供のころのことを想い出しました。

「節電中なのでご不便かけます」と書いてあるチラシのお店の中で不便を感じることなど一度もありませんでした。夜の街灯。深夜まで明るいネオン。「本当にこれが必要なの?」……そういう目で自分のまわりを見回せば、色々が見えてくるのだと思います。

太陽の下で活動し、夜になったら休むという自然の摂理を曲げて「もっと」を望むから余計な電気を食い、余計なエネルギーが必要になるのです。

「原子力発電がなければ電気が足りない」……本当にそうでしょうか?こんなに世の中夜遅くまで明るくする必要はあるのか?こんなに必死で電気を生み出して、それを大量に使うのはどこでしょう?それは決して個人の家ではなく……「電気が足りない」と言っているのは一般の人びとではなく……「企業」なのじゃないでしょうか?

なければないで、やっていられるのです。
ただ今までは「あること」が当たり前だったから、無い状態を知らない。知らないから怖い。今、ここまで来た社会が突然それをやるには大変かもしれません。「無理だ」という人もいるかもしれません。

けれど、幸いにして「そういう時代を生きた人たち」が今まだたくさんいるのです。物がなかった時代。今よりももっと、人の技術も進んでいないから災害から受ける被害も今の比ではなかった時代の人たちが……。戦争。ヒロシマ・ナガサキ。戦後の荒廃の時代。そして何回も日本を襲ったたくさんの災害。それらの物を生き抜いて今に生きる人たちが、そして、そういう時代の「歴史」という記録が、まだちゃんと私たちには残されているのです。

まわりを見回せば、そういう時代があって、そういう人たちがいる。そういう人たちが「もっと」と望まず「ありがとう」と感謝して生きてきた時代の話・その時代の知恵を、過去が私たちに残してくれた大切な蓄積・記録として紐解いて今に生かすことができたら。

私たちはきっと、また立ち直ることができるはずです。より良い明日を見つけること、その手がかりを掴むことができるはずです。「また、再建しましょう」と救助された疲れも見せずに笑顔で語ることのできる、こういう人びとに学びながら。

さいごに。
この被災地巡りの旅に、わたしがもっていって現地の人びとに手渡した物があります。
それは「希望」です。

希望は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか?

長い長い記録のまとめの一番最後に、その事を書きたいと思います。

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被災地をめぐっての3日間~7希望が生まれる時 に続く。

9月11日の仙台、夜。
セキスイハイムスーパーアリーナのまわりは煌々と活気にあふれていた。

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この日は桑田佳祐さんの宮城ライブ「明日へのマーチ!!」の2日目で。
アリーナを取り囲む敷地にはたくさんの提灯が飾られ、広場の真ん中には櫓が組まれ、さらにたくさんの屋台が出ていた。まるで盆踊りの会場のようなにぎやかさ。この屋台に出店しているのは東北の人びとのお店。そして広場の数カ所には被災地を支援するメッセージボードなどの展示。

その模様からもわかるように、このライブは桑田佳祐さん自らが命に関わるような病気から立ち上がるのにたくさんの応援をもらったことに対しての感謝の想いを込め、東北を元気づけるため、日本が元気になるため、という想いを込めて開催したライブ。

私が仙台9月11日、という訪問日程を決めた理由の1つにこれがあった。このライブを1つの旗印として、仙台に人と意識とが集まってきていたのだ。

「まさか、本当に会えるなんて思わなかったけれど、会えて嬉しい。乾杯!」

4人のささやかな飲み会&慰労会。この4人が4人とも、普通の時だったら顔を合わせる可能性もないような離れた場所から集まったメンバーだった。

ヒロコさんは、普段はエジプトで生活している。ふるさとが岩手。今回の震災では、遠く離れた自分に何ができるのかと考えてエジプトからの支援活動をしてきた。岩手県の復興のシンボル、「がんだるま」くんをデザインしたTシャツを作成、販売し、そしてその売上げを岩手に支援金として送った。

アキちゃんは、神奈川在住だ。彼女は日頃、子ども達が元気に学ぶことのできる環境を考えた活動を目指しているが、募金活動をし、集めたお金で被災地の子ども達を思い切り遊ばしてあげるためにディズニーランドに連れて行こうという支援活動に今も取り組んでいるところだ。

カツオさん(と呼ばれているけど本当はヤスヒロさん。)は、仙台在住。自分自身も地震で被害を受けた被災地の人間だけれど、避難所や仮設住宅に物資が行き渡らなかったり滞っていたりする状況を見て、その流れを作ろうと自ら動いて様々な物資の流れを作って支援活動に取り組んでいる。

写真2

そして私は長野県。自分にできる事は情報の収集と発信と、それから人を繋げること。それをするために今回被災地巡りを計画し、その2日目に石巻を見に行ったときにヤスヒロさんが忙しい時間をぬってアキちゃんと私たち親子のガイドをしてくれた。石巻の地に立っていろいろ感じた息子がぶつける質問を真剣に受けとめてくれたおかげで、息子はその場で大切な情報を得ることが出来た。

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4人が知り合った場所は、Facebookでした。

4人とも、この3月の震災を受けとめてそれぞれに「何かしよう」「何ができる?」と考えていました。そうしてその情報を得る場として選んだのがFacebookでした。

ヒロコさんは「地元岩手の情報を知りたい」という想いと、それから故郷を襲ったこの震災の被害の大きさにやりきれないきもちをもっていました。ヤスヒロさんは地元の支援活動を進めるために情報収拾と効率のよい連絡手段と言うことで選んだのがFacebookでした。アキちゃんも同様で、実際に活動しようと思ったときにFacebookでの情報と意見交換が大きな助けとなっていました。

その意見交換の場となったのが、宮城ライブを開催した桑田佳祐さんのファンの集まるウオールだったのです。桑田さんは震災直後から被災地支援のために応援ソングを作り、支援のための音楽活動や発言を続けていて、宮城ライブもその一環。ファンの集まるウオールでも当然のように「被災地支援」も1つのテーマとして加わっていて、そこに意識を持つ人たちが集まってきていました。

被災地の被害の様子、そして支援活動の模様。復興の進行度合い。福島への風評被害や原発問題のきっかけとなった東電への怒り。……Facebookに集まるメンバーは全世界の人びとなので、ヒロコさんのように遠い海外のエジプトから日本への想いを馳せる人も参加していました。桑田さんやSASのファンである、という共通点を持った世界中の人たちがそのウオールで意見交換し、被災地の人びとは自分たちの様子や想いを語るなど、あちこちから様々な情報が入るのです。

やがて協調するもの同士がフレンドリンクによってダイレクトにつながり、それによって情報のネットワークはそれぞれのウオールでどんどん拡がっていきました。

震災の緊急事態の時に、Twitterが発信したものは膨大な情報でした。
私もはじめはTwitterのタイムラインを泳ぎ回って情報を集めました。けれど、Twitterの性質上、情報を蓄積したりリンクして深めたりすること、それはとても難しいことでした。さらに匿名制のTwitterは誰がどこから発信したか追いにくい。

一方実名登録が決まりのFacebookでは情報の出所もかなり明確で、お互いの立場からそれをれが持つネットワークの情報を発信しシェアしあう事によって世界各地からのさまざまな視点からの多様な情報が、それもより正確で信憑性のある情報が手に入りやすくなっていたのです。

この「より正確で信憑性のある情報のリンク」が、この4人それぞれの情報収拾や支援活動とその拡がり、新たなつながりに大きな力となってくれたのです。私自身もそれまでほとんど活用していなかったFacebookを見直しし、自らのウオールとFaceBookページを活用して情報活動をはじめて現在に至ります。この被災地巡りを思い立ったのはFacebook上で「被災地の今を、自分の見たままに伝えたい」という情報発信を目標として持ったからでもありました。

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(4、私たち一般の人間がすること。)

(2) コミュニティーでつながり、「会話」で情報共有。

さて、ここまで書いたように「正しい情報収拾」のためにFacebookやTwitterのようなWebにおけるコミュニケーションツールは大きな力を発揮してくれています。そして、テレビや新聞といった既存のメディアに頼らずとも情報を持つ個人がじょうずに発信していくこと、そしてその発信を繋げて積み重ねることで信憑性や確実性をどんどんあげていくことが出来る事もわかりました。

しかし……メディアの劣化が明らかで、「既存のメディアに頼らない」事がWebの利用で可能になることがわかっても、日本全体に広めることは現状不可能です。ネット人口は日本の全体で2011年、一億を突破したと言われていますが、それはTwitterやmixiで日記を書いたり単につぶやくだけの人数を含めていると思われ、その中で「自分から発信し、情報収集が可能」なユーザーはとなると、果たしてそのうちの半分に行くのでしょうか?

さらにスマートフォンや携帯でのネットユーザーは、かなり若年層が多いのでしょうが、日本の社会を今現在動かしている年齢層はかなり高くなります。そして、年齢層が高くなるほどにネット人口は減少していくと思われます。……となると。日本の人口分布で逆ピラミッドの上方を構成し、現在社会を実際に動かしている中・高年層のある割合は「Webから情報得ること」が困難であったりWebに触れることがない可能性が大きく、そしてそういう層は子供のころから新聞やテレビからの情報を主に情報を収拾している可能性が大きいと言うことなのです。

では。Web上の情報を得にくい人たちにはどうやって「Web上で収拾できる情報」を伝えることが出来るのでしょうか?このNet世代とそうでない世代との格差・溝を埋めることが、情報伝達における当面の課題かもしれません。けれど、そのあたりを解決するのもやはり「情報のリンクの仕方」なのでしょう。つまり、情報を繋げるには「コミュニティー」が必要です。ネット上でもそこにあるコミュニティーでつながりあう人と人との間を情報が流れていきます。それが実際の社会でも行われればいいわけです。

実際に人が活動するときには「実際の知り合い」「現実のコミュニティー」の中での活動が主になってきます。Webのつながりと現実のコミュニティーを繋げていけばいいわけです。……と難しいことを言っているようですが、要するにWeb上で情報収拾できる人は、それを現実の「茶飲み友だち」や「家族・親戚」「ご近所さん」「ママ友」などの集まりでそれぞれが茶飲み話の話題にでも気軽にすればいい、ということなのです。本来はWeb上よりももっともっと身近な知り合いの方が信頼も厚いでしょう。テレビや新聞が流す報道よりも、そういう身近な人たちから得られる情報の方がずっと伝わりやすいでしょう。そうして多種多様な人びとによって構成される多種多様なコミュニティーを身近なところからつなげていく事でWeb上の情報をリアルにもつなげていく事はじゅうぶんにできると思うのです。

そうしたら……信頼感ある仲間内でそういう会話と話題を続けていくことで、正しい情報を皆に伝えて役立てることは十分可能になるんだと思います。……まずは今、この文を読んでいるあなたがそれをすることで。周りの人たちとそれを共有にしようと想いを持つことで。そういう人が1人でも増えることにより、情報伝達において「もう、テレビや新聞(上から与えられる情報)は要りませんよ」と言えて、正しい情報を得ることが出来、日常会話の中でみんなでその正しさを審議し、活用方法を工夫し合うことのできる世の中になっていくとは思えませんか?

また、一方で。
個々の力が小さくても「コミュニティー」でさまざまな人や別のコミュニティー・プロジェクトなどとつながりひろがって行くことで、それぞれの活動をより大きく広く強く……と成長させることも可能なのです。

「ひとりの手」という歌があります。

ひとりの小さな手 何もできないけど
それでもみんなの手と手が合わされば 何かできる 何かできる………

この歌詞に歌われたことそのままに、コミュニティーを発展・リンクさせていくことによって日本中……時に世界中を繋げて想いや活動を展開していくことは十分可能なのです。Webの世界と現実とをリンクさせることさえ出来たら……。

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さて、そんな世の中になっていくとしたら、そこで一番にみんなで伝えあって欲しいことがあるのです。それも、かつての日本を知る人たちに、是非とも大きな声で伝えて欲しいことがあるんです。それもまた、「未来を開く」ために大きなヒントになることなんですが………。

その話題は……
被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(4)  に続きます。

7月3日。Youtubeで発信された1つの映像がマスコミよりも敏感にある政治家の「暴言」を報じた。その映像が、マスコミは最初まったく問題視していなかったその暴言を一気に「大問題」にと変容させた。

政治家の名前は、松本龍。復興相として就任後初の被災地入りでの宮城県知事との会見での彼の発した言葉と態度が問題視され、激しい追及にあって2日後の5日に復興相と防災相の辞任へと追い込まれた。

松本元復興相の態度とその発した言葉は上から目線で横柄で、大震災への対応にみんなが必死になっている状態の中で、被災地の人びとを傷つける許されざるものだ。

その糾弾に立ち上がったのはWeb上の人びとだった。そこにメディアが追随した形だ。
Twitterでこの情報が拡散し、Facebookでもシェアされ、それと共に松本龍復興相の追放を要求するFacebookページが作成され、そこではかなり激しい言葉が交わされていた。

目的は「大臣の追放」。そのためにかなりの怒りのパワーがここに集結していた。これだけの力がまだ、日本の人々にも残っていた。社会の無力感から怒りすら忘れてしまったのかと想っていたけれど、ここまでの力をぶつけることができるのだ……。「間違ったこと」「許されないこと」に対してきちんとNO、と言えること、それに対して怒りをぶつけられること。
社会がきちんと正しい方向に進むためには絶対に必要な力がこれだけ残っていて、その力を集めることがちゃんとできる。今まで人びとが無力感に動けなくなっているのかと想っていた私は、それを感じて少しホッとした。

けれど、その後……あれだけのエネルギーを持ってこの大臣を追及して辞任に追い込み、大臣が「辞任」を表明したことでFacebookページはそのままストップし、あそこに捧げられた情熱もどこかに拡散してしまった。当然メディアの興味もまったく向かなくなり……そして政治は、日本は、被災地は……何か前進しただろうか?

実は、こういう流れは今まで何回も起こっていた。政治家の不祥事、暴言。政治家に限らず様々な企業や組織でも起こってきたこういう「責任問題」。その度に、メディアや国民が怒りを持ち、それを書き立て、そしてその結果テレビや新聞の向こうで「申し訳ありませんでした」と代表が頭を下げ、トップが辞めることで「一件落着」になる。

……そしてそのあとは?

正直な話、「まったく何も変わっていない」。TOPがかわり、辞めることで矛がおさまる。その企業やその部署には監査が厳しくなるのかもしれないが、また別のどこかで同じような問題が発生し、そしてまた同じように引責問題で誰かが頭を下げて辞め、そこで事態は収拾する。

今までずっと、その繰り返しだった。だから、今回もこれだけのエネルギーでこの大臣を辞めさせたが、それは「首のすげ替え」が起こるだけの話で、その体質や組織自体が変わるわけではないから……何も変わらない。そして当の本人も、大臣を辞めるだけで議員を辞めるわけではないからあまり痛みがない。

あれだけのパワーが集まって迫ったら、もっと奥に潜む「根源」を断つことも可能なのにもったいない……わたしはそう思う。

このパワーの矛先を向けるのは、松本大臣でよかったのか?同じようにそのあと菅総理も交代し、首のすげ替えが起こっても、国民よりも我が身第一で上から目線の「永田町の体質」はまったく変わらず、ゆえに大震災後の緒問題も原発問題も何も解決していかない。

こういう問題を引き起こすその原因はどこにあるのだろう?
こういう「大問題」に隠れて、私たちはもっと本当に怒りをぶつける先……「諸悪の根源」を見失ってはいないのだろうか???

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「東日本大震災」が起きた直接の原因は、3つの地殻変動による大きな地震と、それによって引き起こされた大津波です。その破壊力は甚大で、あっという間に多くのものを失いました。

けれど、天災に対して怒りをぶつけても仕方がありません。
なぜなら、私たちはこの地球の「住人」なのだから。人間は地球というアパートに間借りして住まわせてもらっているうえに他に行くところはないので、アパートの現状の中で住人みんなが環境やその維持に心を配って住むしかないからです。

けれど……人間は地球というその借家に好き勝手をして傷つけてしまったのです。地球というアパートが地震で揺れた時、住人の不始末でその被害が果てしなく大きく広がってしまったのです。……つまりそれが「人災」です。

被災地の復興に立ちふさがる行政の動きの悪さ。なかなか行き渡らない支援金や支給品……規則や法律、そして組織の融通がきかない事による行き渡りの遅れ。それから情報の不備や偏りによる地域格差。それによる復興の遅れ。すべては人災です。

さらにもっと大きな許すことのできない人災がこれです。

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自分で制御しきれない「原子力発電」という爆弾を抱え込んでいた住人(東京電力および原発関連の事業)がいて、その扱い方もきちんとできず、何か起きたときの責任さえ取れないままにひたすらその巻き起こした「被害」についての責任から逃れようとし、そのデータの公表や実態を明らかにせずに隠蔽しようとし、責任を問われるとその所在を人に押しつけようとしました。

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(画像は2つとも東北地方太平洋沖地震 原発関連wikiより借用)

その管理を委託されているはずの管理人(国)は、自分から招き入れたその住人を制御も管理もできず、しっかりと責任を取らせることもできず、もっと悪いことには、そのせいで被った被害を埋め合わせるために他の住人たち(国民)にも家賃値上げ(増税)という形で一緒に責任を取らせようとしています。

もともとこの福島の原発の原子炉を作ったのはアメリカの会社ですが、実はこのような大規模な事故に耐えうるものではなかったことがその会社で35年前に指摘されていたのを放置(米GE製の福島原発原子炉、安全上の問題を35年前に指摘)し、うやむやにしたまま操業していたのです。なのに「想定外」と言って逃げようとし、その事態の収拾に当たっては会社の社員ではなく下請け、孫請けの人びとを「使い捨て」状態にしている事実、この事態をきちんとしたデーターとして公表もせず、その分析も人任せ、ひたすら表舞台から逃げ隠れ。そしてそれによってもたらされた被害は地震や津波の比ではありません。

東電の株主総会に出席した人の話を聞くと、その対応は明らかに無責任なものであり、そしてそこで発せられる言葉は被災地の人びとだけでなく、日本、さらに世界の人びとにも影響を及ぼす被害をもたらした者としてありえない、先に辞職に追い込まれた松本大臣の比ではない聞くに堪えない「暴言」に近いものであったと聞きます。さらに、その被害を受けた人たちに対しての「補償」に対する態度すら、こんな状況であるということです。→『東京電力株式会社が行なう原発事故被害者への損害賠償手続に関する日本弁護士連合会会長声明』 

これはもう国をあげてその責任を追及し、怒りを持って東電という存在自体を根っこから覆さなければならないレベルなのではないでしょうか。風評被害、農作物・水産被害、土地の汚染、人々が家に帰れない異常事態……それらの全責任が東電による「人災」です。東電は全世界に対しても今回の件に関して責任を取るべきなのです。

しかし、この「暴言」や「暴挙」に対して……残念ながら松本大臣の時のような勢いを持って東電に迫るものはいまだにありません……「野放し」なのです。

この東電に対して国・政府はもはやなんの制御力もなく、そしてメディアはまったく「追及」しようとはしません。株主総会の状況も、それから現在その対処に当たっている人びとの様子も、さらに立ち入り禁止の区域の状況も、そして「これから何十年も影響を及ぼす放射線に対してどんな対策を立てていったらいいのか」の手立てすら、政府やメディアから仕入れることはできないのです。

(原発の問題が明らかになった途端にそれまでうるさいほど騒いでいた報道関係者が30キロどころか50キロ圏よりも近づかなくなりました。そこで生活しなくてはならない人たちがたくさん居るのに、その人たちの実態や苦しみは報道されることがないのです。)

そのため、当然国民に流れるのは不安や憶測です。見えない、わからない。正しい情報は入らない。そしてこの先どうしていったらいいのかもわからない。「風評」が出るのも当然の状況をつくり出しているのです。東電、国、メディア。すべての逃げ腰がこの状況を作り上げているのです。その責任の重さを、いったい誰が追求するのでしょう?そして、この状況を一体どうしていったら私たちの「明日」につながるのでしょう。子ども達へと「未来」をつなげていく事が出来るのでしょうか?

4、私たち一般の人間がすること。

(1) 「正しい情報」を得る努力。

一つ目に大切な事。それは、「正しい情報を受けとめ、そしてそれをしっかりと把握すること」。

その正しい情報を得れば、より良い社会や方向に向かうためには何をどう正していったらいいのかを判断し、良いものは取り上げてさせたり広めたりする一方で、今回の東電や動かない政府のような正すべき者に対しては、その根っこまで探り当てて修正や治療、時に新しく作り直すことを求めて皆で迫ることが可能です。

が、今回の震災に関連して……特に原発の問題に関しては情報がまったくといっていいほど入って来ません。たぶん、今、日本の国の中で「正しい情報」もしくは「使える情報」を手に入れることは難しいのです。

必死で正しくデータを分析した情報、そして原発に対抗するための情報や手段を訴えている人たちもいます。しかし、なぜかそういう情報を政府も日本国内のメディアはまったくといっていいほど取り上げません。

それが顕著だと私が感じた一例が7月27日に国会( 衆議院厚生労働委員会)で東大の東大アイソトープ総合センター長で教授の児玉龍彦氏の発言です。ここまで具体的に現地の状況を報告し除染の緊急性と子ども達への影響を訴えているにもかかわらず、メディアでこれを重く捉えて緊急事項として報道したところは1つもありませんでした。

国会はまったく動かず、さらにこの模様はYoutubeを通じて一晩で30万を超えるアクセス数があったにもかかわらず7月末には一度削除さえされています。(その児玉教授のまとめはこちらから見ることができます。東大・児玉教授の放射能についての発言まとめ

児玉教授自体はその1ヶ月後くらいに動かない国に対して失望の念と再度の対応を要求するようにメディアを前に訴えていますが、これもまたまったく伝わっていきませんでした。東京プレスクラブ: 東京大学児玉龍彦教授緊急記者会見映像(2011.8.22)

この3月から様々な情報を追いかけていますが、それらを見ていると日本のメディアにはすでにもう役に立つ情報の発信能力や、正しい情報によって国や社会を動かす力、未来につなぐ力はありません。

この東日本大震災に関し、特に原発に関して「信憑性のある情報や状況」といえるものは……海外のメディアによる取材・報道……それが逆輸入の形で入って来た物ばかりでした。(一例:福島第一原発労働者の実態を撮影:小原一真(独ZDF)、)

私たちは、国から正しい指導も方針も得ることは出来ません。そして、日本の国のメディアからも正しい情報や報道を得ることは出来ません。Web上では様々な情報が流れていますが、どれが正しくてどれが間違っているのかの判断を簡単につけることもできません。実際が見えないから情報が欲しいのに、実際を知らないとその正誤の判断もつけられない。

では……国にもメディアにも頼らずに「正しい情報を受けとめ、そしてそれをしっかりと把握すること」のために、一般人である私たちは一体どうしたらいいのでしょうか?

被災地巡りの3日間の2日目、仙台での夜に、ネットを通じて出会った人たちとの会話の中から、そのためのヒントを私はもらったのです。

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被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(3) につづく

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付記:ジャーナリストの烏賀陽 弘道さんが、原発20キロ圏内に潜入し、そのレポートを最近発表しています。原発20キロ圏内の「真実」がそこに見ることができる貴重なレポートです。さらに、そのレポートが浮き彫りにしているのは……。これは皆さん、どうかお読み下さい。

寒気を覚えた無人の町の異様な空気突入!この目で見てきた原発20キロ圏内(前篇)
略奪されたコンビニの暴力的な現実突入!この目で見てきた原発20キロ圏内(後篇)

付記2:風評被害の一例……本当にこれは一例なのです。福島の人たちの心をこれ以上傷つけ苦しめてはいけない……一刻も早くにこういう心ない言葉を発する人を減らす人間が「自らを恥じる」ような正しい認識を広めていかねばいけないと思います。
親父の告白・・・。(口調が厳しいのでスルーでも可)

9月11日。この日は、東日本大震災からちょうど半年後の日。
この日の各新聞の朝刊の見出し……一面のtop記事のタイトル。

鉢呂経産相が辞任 不適切発言などで引責(朝日新聞)
成長導く復興めざせ 東日本大震災から半年(日経新聞)
就任9日、鉢呂経産相辞任…官房長官が臨時代理(読売新聞)
震災で見えた国防の穴 (産経新聞)
鉢呂経産相が辞任/被災地 遠い復興 (毎日新聞)
鉢呂経産省が辞任/希望の光 迷い 守る~大震災きょう半年 (中日新聞)

震災半年 死者1万5781人、不明4086人 避難・原発 見えぬ収束 (河北新報・仙台の新聞社)
Six months on, few signs of recovery (The Japan times)

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私が調べた新聞8紙のうち、鉢呂氏の辞任がTOPだったものが4紙。震災の復興やその後についてを書いた記事が3紙。そして、震災関連かと思いきやそれをきっかけにして「国防の甘さ」についてを書いているのは産経新聞。なぜこの日に「国防」なのか……首をひねった。

震災復興についてを記述した3紙のうち、1紙はジャパンタイムズ、もう一紙は仙台の新聞社「河北新報」の新聞。全国紙で一面に扱ったのは日経新聞ただひとつだった。

TOP記事ではないにしろ、中日新聞は一面のど真ん中に赤子を抱く母の姿。放射能の不安に我が子の未来を迷う母の記事。毎日新聞は扱い的にTOPと同等の印象なので見出しに両方併記した。

この報道を見て、何を想うのかは個人個人の想いもあるだろうけれど、私は正直国内の扱いに対してはこれでいいのか?という想いを持った。鉢呂氏の辞任は、いったい国民のどれだけに影響のあることだろう?東日本大震災の被災状況を半年という区切りでしっかり考察することが、日本の社会のこれからにとってたった八日間の在籍の大臣が辞めることよりもずっと重要なことなのではないか?

対するジャパンタイムズの一面では津波・地震・そして原発という3つの「災害」からの検証と原発にからんでの食糧問題、そして遅々として進まない復興についてをかなりの紙面と図を使用して記述してある。

……このメディアの報道の偏り。そして、震災関連の情報の扱い。
日本がこれから、再建の道を歩んでいくときにこのあり方を見直すべきではないかとそう思う。

3月11日の大震災。
その大きな被害と派生する2次、3次、4次災害……今もなお不明者が数多く残り、遺体安置所が現地にはまだ存在し、職を得られぬもの、避難所生活のもの、その精神や身体の不安は消えてはいない。膨大な量のゴミ、つぶれた車。何より先の見えない、これからさらにその影響が心配される原発の問題。さらにそこから派生した風評被害。経済に及ぼす大きな影響。

半年たった9月11日にがれきの山に囲まれた石巻の地で、14:46に鳴り響くサイレンと共に黙祷を捧げたときに感じた「震災は終わっていない。まだこれからなんだ。」というあの想い。

いまだ先が見えない問題が山積みの今の状況で、私たちはそこから何を感じ、何を学び、そして未来にそれをどうつなげていったらいいのだろうか?

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私たちの「明日」のためにできる事は何か

その団体や、その人間でなくては出来ない事があります。逆に、どんなに頑張っても出来ない事もあります。
それを見極めてできる事を出来る人が、できる範囲でやること。無理をしないこと。大切なのは「頑張ってたくさんやること」ではなく、「想いを長続きさせていくこと」。

では。具体的にはどういうことなのでしょうか。

1、被災地のするべき事

「被害から半年」という区切りの中で見てきたときに、復興の仕方には大きな差が出ていました。
それはなぜか……という疑問の中に、地元の人のこんな声を聞きました。

「場所によって復興に差が出たのは、国やいろいろなところから支援を待って動かなかったところと、自分たちでやらねば、とどんどん動き始めたところの差。」

被害の形はみんな違います。地震の被害。津波の被害。原発の被害。それから風評の被害。
そしてそこから派生する産業や経済の停滞・沈降の有様。人の流れの変化。

だから、一概に「半年」という区切りで比較することは出来ません。けれど、福島での「移動保育プロジェクト」の上國料さんの言葉にもあるように「やってみなくちゃわからない」し、「必要なのは、今」なのです。「自分たちのことは自分で」……慰霊碑を建て、植樹をし、新たな取り組みに向けてどんどん動いていた閖上地区。風評には負けられないとキャラバン隊を組んで全国を回り歩き始めた会津。町が壊滅して、警察が機能しないからと不審車や侵入者、盗難から自警団を作って地域を守ったという石巻。被災地に根ざした地域の新聞社だから、と「伝えること」を第一に地域の情報や現状を訴えている仙台の河北新報。地域の情報を集めてコーナーを組んでいた茨城の書店。「お上からの支援」を待ってはいられない。だから自分たちでどんどん動く。共通していたその姿勢が、明らかにその土地の空気から前向きさと、新しい流れを感じとらせてくれました。

 その土地に住み、その土地を知り、その土地に生きた人たちだからこそ、「どう立て直したらいいのか」が誰よりもわかるはずなのです。だから「自分たちで取り戻そう」とどんどん動くこと。これがまず、とても必要なことだと思います。そうして前に向かって進もうと動くことは、失ったものを思って動けないでいるよりもずっと早くに活気ある心を取り戻すためにも役に立つはずです。

そうして被災地の人たちが自らで動くことによって、「必要な支援のあり方」が見えてきます。「自分たちでやる」事が必要だからと言って、復興を被災地の人たちに任せっぱなしは当然無理に決まっています。心も体も傷ついた人たちの力が「復興」に向かえるように、まわりはそのための環境を整えて力を添えることが大切になってきます。

2、行政のすること……特に「国」
 
この国は、首都東京を中心に動く中央集権国家です。東京から発信されたことが地方に届いて物事が動きます。それがもたらす長所と短所を理解して、やるべき事をしっかり見極めていくことが大切です。

 当然国の中央に「実際に支援活動に動く」事を望むことは無理です。国という大きな組織を動かすには膨大なエネルギーと時間がかかります。だから中央はそれをすべきではありません。国がそれをやると、手続きに時間がかかり、組織を作り実際に動き始めるまでにはかなり手間も金もかかってしまってもろもろが後手に回り手遅れになります。

「中央に物事が集まる」ことと、それを「発信する機能」を長所としてまず活用するべきです。つまり、現地の情報収拾と正しい情報の発信です。避難所の情報を個人や私的グループが集めるにはものすごく困難を要します。しかし、国はそれを容易くできるはずなのです。

 避難所情報を集める。原発の情報や今後の予想も含めてデータを収集する。そのために必要な専門家を集めて分析し、実用化されたデータを流す。どこの避難所にどんな物資が言って何が足りなくて、という「情報」のみを集めて流す。どこのボランティアグループがどんな活動や支援ができるから、どこの避難所や被災地にそれが必要かを見極めて情報を提供する。……そういうことをネットワークを組んでひとまとめでできるのは、国という公的機関だけなのです。

 それから、被災地支援に必要な専門家をその地に派遣する。放射能関連の具体案を提供できる人材をセレクトして福島に送り出す。壊れた町を新しく作りあげるためには、今回の被災の形を考慮して、そういう分析をしつつ町づくりの専門家を派遣する。支援物資の必要なものをとりまとめて企業などに協力を依頼する。動けそうな被災地の会社があれば、そういうところにも依頼をどんどんかけて仕事を与える。

 そして、そのために必要な各地区の役場の人材が、今回の被災で失われたのだったら、各地の役所から人材をセレクトして派遣する。

 情報や人材のとりまとめ。そしてそれを発信や派遣すること。全体を把握して的確にそれができるのは国だけです。それからもう一つ。必要だったら法律を変える。今回の非常時にも、法律にしばられて出来ない事や動けないことがたくさんありました。緊急事態に適応できる法律がない限りは、臨機応変に改訂していかなくてはなりません。法律は守るため(囚われるため)にあるのではなく、社会を動かし、人を守るためにあるのですから。

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「公的機関のやってくれるのを待っていたら、いつになっても始まらない。」……それが、被災地のあちこちからの生の声でした。そしてそれは今回の震災のことに限ったことではありません。今までの社会の歪みを生み出してきたその多くの原因は、公的な機関が臨機応変に動けなくなっていることから起きていることも多かったのです……。

今回の被災地対応でも、国会は非常時緊急で法律を変え、人事を考え、支援金の分配はその地方を知っている人間とその支援に派遣した人間に任せ、必要な情報を集め、それをとりまとめてどんどん発信することができたらこんな風に地域差や風評被害や……隠蔽工作や情報操作などはなくなったはずなのです。

首相や内閣の人事等に無駄な時間を割くような「ヒマ」は、被災地にもこの国全体にも、全くなかったと私は思う。(はっきりいうと、今の日本の政治の状況では誰がTOPでも誰が大臣でもまったく変わらない。ここに書いたことが出来る人をぱっと大臣や要職に起用できるほどの采配も配慮も出来る人がいないのですから。)

そんな状態の国に、何かを期待することや何かをしてもらうことを待つことは無駄だということ、それを私たちは頭に置き、国は国のできる事……机上(情報)の整理と分析と発信に集中してもらい、やることは国民である私たちがどんどん動いていくこと。それが今、必要なことなのだと思います。

そうして、実際にそう動いている人(企業やグループ、著名人を含め)たちが今の復興を支えているのが現実です。本来のリーダーは、こういう中から生まれてくるべきなのです、そして今の時代に、そういう各地の現状をしっかりと掴んだリーダーが、地方を作りあげていくことは十分可能だと思います。

江戸時代に飢饉や災害から民衆を救ったリーダーは、幕府や朝廷ではなく、その土地の豪農や豪商であったという「旦那文化」を持っていた日本ですから。それはきっと出来るはずなのです。

3、メディアのするべき事

 まずは奇をてらった報道や衝撃性のみを追いかけ、視聴率、購読数重視の報道をやめること。そして、情報操作が明らかにあることも今回のもろもろのことからこれだけ露見しているのだから、メディアは自らの報道姿勢をしっかり見直して、本来のメディアのすべきことを再確認することだと思います。

まずは、「正しい情報」を「正しく発信」するだけではなく、「活用できる情報」をしてより多くの人が動けるように、復興へのイメージを持てるように、メディアの持つ伝達力を最大限に活用することだと思うのです。

そのためにはまず、2,で書いたように国が正しい情報を集めてしっかり分析し、使える情報として流すことで、それをメディアが正しく伝えることと同時に、国がもし、中途半端で使えない情報を出したらメディアがそれを「ダメ出し」するくらいの気概を持つべきだと思うのです。それが出来るのはメディアだけだから。

本来は、メディアでも提出された資料を分析し、正しく判断・検証する人間がいるべきだけれども、それがかなわないとなったら、必要な人災に取材をしたり依頼をしたりしてそういう機能を果たすべきなのだと思うのです。「今、国全体が本当に必要な情報とは何か」と考えてそれを伝える。それが出来るメディアだったら、9月11日のトップ記事は震災半年の遅々とした復興状況や先の見えない原発の恐怖に苦しむ人たち、海外からの非難の声……そういうものを伝えるはずだと私は思ったのです。

国が正しく進むために「三権分立」という形が考えられました。(今は正直言うとちゃんと機能していないと思いますが)国が正しい情報を把握し、それをきちんと考えて発信しているかという「情報の見張り番」がメディアのあるべき姿だと思うのです。そうしてきちんと必要な情報を要求し、正しい分析とそれに基づく具体的な復興案を要求し、それを拡げて伝えていく……メディアのできるとても大きな役割だと、私は思います。

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では………

4、私たち一般の人間がすること。

は、なんでしょう。「自分には力がなくて何もできない」と縮こまっている人、恐縮している人もいます。
でも、それは違います。ちゃんとみんなにできる事があるんです。

それを、この次の記事に書こうと思います。

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被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(2)  に続く

今年の夏休み。地元のお祭りと花火に合わせて、姉妹都市である会津若松と、そこで避難生活を送っている大熊町の子ども達に「夏休みをプレゼントしよう」というプロジェクトを行いました。

お祭りの大通りで一緒に踊ったり、特等席で目の前に上がる花火を見たり。
会津の子ども達も、大熊町の子ども達も、来たばかりの緊張した表情がどんどんほぐれてたくさんの笑顔の花が咲きました。

けれど、その子ども達を乗せたバスを見送るとき、とても複雑な気持ちでした。
「大熊町に帰りたい」「福島大好き!」
……あなたの夢は?という質問への答え。ふるさと福島への想い。
福島で待つ家族に、「食べるもの」をおみやげに抱えて帰って行った子ども達。

大熊町の子ども達は、原発の影響でいまだに家に帰ることすら出来ず。
会津若松では、放射能の影響のほとんど無い地区にも限らず今年の観光はかなり落ち込んだと聞きました。
今回の旅の復路に、会津に寄って帰ろう……そう思ったのは夏休みの子ども達の面影が残っていたからでした。

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帰路

仙台空港をぐるっと回って、仙台空港のインターから高速に乗り、仙台とは別れを告げました。
被災地をめぐる旅の3日目、この日は二日かけて走り回った距離を一気に戻らなくてはなりません。ですから本当はもっともっと行きたかったところ、会いたかった人がいたのですが、帰ることに専念するように走りました。

けれど、帰りには会津若松に寄ろうということだけは決めていました。
仙台空港をでたのが11時半頃。そこから高速道路を走って仙台を横切り、東北道に入って来たときと同じルートを南下し、そして郡山の手前の郡山JCTから今度は磐越道新潟方面へのルートに入りました。

山あいの道を進んでいくとやがて左手に開けた場所。そして黄金色の稲穂が見事なその向こうには猪苗代湖。そして右側には会津磐梯山。美しい秋の光景です。
磐梯山に向かっていた磐越自動車道が大きく左にカーブを描き、目の前に会津の町が開けていきます。天気は快晴、空の青さと稲の黄色、そして山々のみどりの色が秋の色を鮮やかに描いていました。

会津若松のインターチェンジをでて会津の町の中に入って会津城を目指しました。お城に向かう通りは整備されていてこぎれいな町並み。大震災の時には会津は震度5だったようだが、道路に若干陥没などあった以外は内陸部で津波の被害もなく、原発から離れているから放射線の影響もなく、福島の中では被害はほとんど無い地域だったようです。

この会津若松が被害を逃れ、ほぼ無傷に近い状態であるのだったら、福島県の復興の先駆けになれるはずの力を持っていたはずでした。けれど、会津若松もまた大きな被害を受けることになったのです。

「風評被害」

これは、天災ではありません。地震でも津波でもないのです。地震と津波という天災によって原発が爆発し、放射線がひろがりました。天災が引き金になったとはいえこの原発の爆発は「人災」です。それこそ「想定外」といってひたすら東電が逃げの姿勢でいたことによってその被害や影響はどんどん拡がってしまいました。

けれど、原発から100キロ離れたここ会津若松はその影響すらほとんど及ばず測定値も問題ない程度のものでした。だから会津若松が盛り上がることで福島県も元気になれたはずなのです。

ところが。こんな記事があります。

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キャンセル相次ぐ観光地からの悲痛な叫び【福島・会津若松】

2011/4/22 17:52

会津からのお願い

3月11日以降、会津から観光客の姿が全くといっていいほど見られなくなってしまいました。

年間350万人の観光客をお迎えする会津若松市は、観光が主要産業といってもいいほどの重要な位置を示しています。しかし全国的に有名な「鶴ヶ城」、白虎隊で名の知れる「飯盛山」さらに、東山温泉・芦ノ牧温泉はキャンセルが続いています。そして、観光施設や土産物屋などからは、閑古鳥が鳴いて悲痛な叫び声が連日のように聞こえてきます。

今さら言うまでもなく、すべて原発による風評被害です。地震と津波だけであれば、次のステップに進むことができますが、この原発の影響は、簡単に乗り越えることができない大きな魔物なのです。(以下略)

全文はこちらから→4/22 Jcastニュース

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焦点/修学旅行 東北離れ/原発事故影響・余震を不安視
2011年05月25日

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修学旅行生の姿が見られない「会津藩校日新館」=17日、会津若松市

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修学旅行が激減し、空きスペースが目立つ駐車場=19日、会津若松市の鶴ケ城会館

 東日本大震災の影響で、修学旅行の「東北離れ」が進んでいる。北東北を訪れる中学校が多い北海道では、多くの学校が道内旅行に切り替えた。余震と福島第1原発事故による影響が大きな理由で、福島県内で予定されていた修学旅行は軒並みキャンセル。東北の中でも行き先を変更する学校が数多く出るなど、事情が一変している。

◎例年の1割未満?/回避の動き、被災地以外も……

(以下略 全文はこちら→河北新報社 5/25記事

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風評被害 観光直撃

参道ガラガラ 会津若松

「客戻したい」懸命の努力

 東京電力福島第1原発事故による放射能汚染の風評被害で、年間350万人にのぼる福島県会津若松市の観光客が激減しています。観光が基幹産業の一つの同市にとって大きな打撃で、賠償要求とともにお客を取り戻そうと懸命な努力がつづいています。

 白虎(びゃっこ)隊自刃の地、市の中心部東にある飯盛山の参道には、観光客の姿がほとんど見られません。土産物店を経営する社長は、「ここはゴーストタウンだ。例年の2割しか客がこない。私の店も売り上げガタ落ちです。店員を6人使っていたが、今は自宅待機させている」と肩を落とします。

 その一方で、固定資産税や消費税が重くのしかかり、業務用で基本料金が高いガスや水道料金は節約しても大きな負担です。

 同地の土産物店や関連業者などでつくる飯盛山商店会はこの間、「地域経済活動は壊滅的だ」として、東電に損害賠償請求に応じるよう要求。県や市に小中学生の教育旅行(修学旅行や体験学習、林間学校など)の推進、税の減免などを陳情しました。

修学旅行中止

 「修学旅行先として会津若松市に32年間ずっときていた首都圏のある中学校が、父母の一部から『今なぜ会津なのか』と異論が出て、変更になった。がく然としました」

 こう語るのは、会津若松観光物産協会(258会員)の渋谷民男統括本部長です。

 同市観光の軸となっている教育旅行の受け入れは、昨年1081校、約8万人だったのが今年は激減し、4~6月に県外27校、秋の予約44校、全部で70~80校と1割にも届きません。

 市観光公社の会津鶴ケ城天守閣グループリーダー、新井田信哉さんによると、例年だと鶴ケ城の観光客100万人のうち60万人が天守閣(有料)まで上ります。しかし、大震災・原発事故直後から1カ月ぐらいは7割減、その後、重要文化財などを一挙公開する「歴代城主展」など企画展も充実させる努力を重ね、やっと3割減まで戻しました。

(以下略 全文はこちらから→2011年7月27日(水)「しんぶん赤旗」

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私たちが訪れたのは9月12日、月曜日。平日のせいかと思ったのですが、それにしても会津城(鶴が城)の駐車場はがらがらで、設備は整っているし地震の被害も影響もほとんど無いのに他の被災地よりも寂しい感じでした。

会津に着いたのが14:30。仙台を出てからお昼も食べずにここまで来たので、おなかがすいて「まず何かお腹に入れよう」と鶴が城の休憩所で軽食を食べることにしました。

食べたのは会津ラーメン。しょうゆ味で和風のだしがきいてあっさりした美味しいラーメンでした。そのラーメンを食べながら、見るとはなしにそこで流れる鶴が城の紹介ビデオを観ていました。その歴史を語るビデオを観ているうちに、私は何となく、この会津のお城や地域の人々の今が、江戸時代の最後の闘いに重なってくるように思えてきたのです。

会津城(鶴が城)は、その前身が黒川城といい、伊達政宗や上杉景勝、保科正之などの名だたる名将が治めてきました。江戸時代末に幕府軍として闘い、あの白虎隊の悲劇などは今も語り継がれる物語です。

幕府軍と政府軍は、ずっと小競り合いを続けて来たものの、慶喜の大政奉還と江戸城の無血開城とによって大きな戦が起こることなく政権は静かに天皇の元に戻りました。けれど、結局双方それではおさまらず、会津での決戦となったわけです。新政府軍の最新兵器による攻撃にもこの城とそれを守る人たちは1ヶ月も堪えました。

その江戸時代の最後の闘いでぼろぼろに傷ついたものの、会津の象徴としてこの鶴が城は地域の人々に愛され、再建され整備されて今もなおその姿を美しく保っています。

天守閣にのぼれる入場券を買うと、特別記念展をやっているということで美しいお箸を記念にいただきました。赤と黒のグラデーションが美しく紋の入った立派なお箸です。「赤と黒」の色もお城にちなんでいます。入った中の展示は、とても充実していて見やすくわかりやすいものでした。5層の天守閣のてっぺんで、会津の地が一望できました。
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明るい秋の日に照らされて、山のみどり、町並みの色が輝いていました。静かでした。そして何よりもこの町には温かさと誇りと美しさがありました。

途中で私はカメラのレンズキャップを落としてしまい、半分諦めながらも入場券売り場で聞いて見ると、「それはさっき私が拾ったのだと思います。入口の観光案内所に届けておきました。」丁寧な対応に感謝して案内所に取りに行くと「ああ、これですよ、どうぞ。あってよかったですね。」と笑顔で手渡してもらえてすごく気持ちがよかったこと。

息子が会津名産の絵ろうそくで、欲しい絵柄があったのでそれをを探して販売元を訪ねてみたら、そこは小さなお家。家族で製作して出しているようだったのですが、そこにも欲しい柄がなかったのですが「じゃぁ、ここに行ったらあるかもしれないよ」といろいろと丁寧に教えてくださったこと。

風評被害で観光客もまばらでしたが、そこにいる人たちの優しさと温かさに触れるたびに会津の町並みがなぜこんなにも美しいのかがわかったような気がしました。

江戸の末期の闘いでぼろぼろに傷つき廃城となったこの鶴が城。けれど町並みはその城をよみがえらせそれを中心に広がり、その城を誇りにして人びとは生活してきました。その闘いと、風評といういわれのない攻撃に対して戦っている会津の人びとの姿は何となく重なってきます。そして、幕末から明治の動乱期を乗り越えて今の世に堂々とたっているこの鶴が城のように、風評被害になど負けずに会津はまたちゃんと立ち上がるんだ……という想いをこのお城が象徴しているように思えてきたのです。
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お昼の時に見たビデオ。それからお城の中の展示。お城や町で出会った人々の想い。
会津にいた時間は本当に短かったのですが、その短い時間にも「会津は負けない、会津は立ち上がるから」というこの土地からのエネルギーのようなものをあちらこちらから感じたのです。

そう、まるであの小さな起き上がり小坊師のように………。

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会津のパワーを見せてくれる一つの資料があります。会津若松市のHPからの転載です。

会津若松市風評対策キャラバン隊があなたのまちに参上します!!
最終更新日:平成23年7月26日

東日本大震災からの復旧・復興のため、会津若松市の農産物や、民芸品、加工食品を展示・即売したり、会津地域の観光PRを行う会津若松市風評対策キャラバン隊が東京をはじめとするみなさまのまちに伺います。

「会津を応援したい!」皆様、お近くにキャラバン隊が参りますので、どうか応援をよろしくお願いいたします。
※本事業は福島県緊急雇用創出基金事業「風評対策キャラバン隊活動事業」により運営しています。

実施期間  平成23年7月1日から平成24年3月31日

(映像が表示されない場合はこちらから)→会津若松市風評対策キャラバン隊出発式

記事全文はこちらから→会津若松市風評対策キャラバン隊

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三日間の旅で訪れたい場所はすべてまわりました。本当は、時間に余裕があったら帰り道で高速を降りて、3月12日に日を一日またいで大地震に見舞われた長野県北部の栄村を通って帰ろうか……という気持ちもありました。
(最初にアップしてある地図参照)

栄村の被害については、東北の大震災の影であまり報道されず、今回も出会った人たちほとんど知らなかったのが現実でした。けれど、東北各地をめぐるうちに息子や娘と一緒に語ったのが、「じゃぁ、私たちの長野県の栄村の今はどうなのだろう?」という想いでした。

様々な被災地の様々な被害の形を見てきました。そこに生きる人たちの生活の一部を感じて来ました。そして、そこから被災地がこの先どうあったらいいのか、私たちがどう支援をしていったらいいのか、という部分が少しずつ見えてきました。それは、今回の被災地だけではなく、「日本の社会」のこれからにもつながるとても大切なもののような気がしています。

そう思ってきたときに、栄村の姿やあり方からも、大きなヒントを得られそうなそんな気持ちがしています。

「10月になったら今度は、栄村とその周辺にも行ってみよう」

帰りの車の中で、ちょうど上りはじめた「中秋の名月」を眺めて帰路をひた走りながら、三人でそう決めました。

(この区間の写真はこちらから→東北の旅ラスト〜会津若松9/12
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被災地をめぐっての3日間~6「見えてきたもの」 に続きます。

3月12日。
朝はやや雲が残ったものの、昨日の天気とはうって変わって快晴になりました。
仙台の町中は、ごく普通の月曜日の朝の風景でした。仕事に向かう人たち、一週間の生活のはじまり、そんなどこにでも見られる光景がホテルをでて次の目的地に向かう私たちの車のまわりで繰り広げられていました。

けれど、ごく普通の生活と見えるその裏を細かく見ると、やはり震災の傷跡はここかしこに残っていました。

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11日の一日で見たもの感じたものは、それはそれは大きく様々なもので、自分の中でとてもまとめのつけられるものではありませんでした。ですから、この3日間を迎える前には、「被災地をめぐって感じたことは、その場でリアルタイムに流して行きたい」と思っていたこの旅の記録も結局できなくなりました。

………それもやはり「想定外」の一つでした。

その場でぱっと感じて記録をとって、さっと流せるような簡単なことではない……そんな軽いものではない……ということが、よくわかったのです。
初日の茨城でもそうでした。そこの「今」を感じられる写真や映像を撮ったらすぐに流して……と思ったのですが、まず、受けとめるだけで精一杯でした。目の前に広がる光景を自分の中でしっかり受けとめて、そしてそれをきちんと伝えるために……できるだけ、見てくれる人たちにそこにある想いや祈りまで含めてしっかりと伝えるためには、「即時性」よりも「正確さ」「誠実さ」の方が大切だと思ったのです。

そのかわり、できるだけ細かくすべてを目と心に焼き付けていこう。写真や映像では、その場の姿を写し取ることができても、その場に流れる空気感、臭い、感覚、温度、そういう雰囲気は伝えられません。写真や映像でとらえられないそういうものをしっかりと自分で感じとって、そこで得られた情報と共にできるだけまっすぐにこれを見る人たちに伝えよう……「リアルタイム情報」を流すのをやめたのは、そういう想いからでした。

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ホテルをでた私たちが、この日まず向かったのは仙台空港でした。
本当は石巻の帰りに海岸沿いを走ってそのまま仙台空港まで……と思っていましたが、時間的に着く頃は真っ暗になってしまって何も見えないだろうと諦めて、代わりに2カ所ほど別の場所をまわってホテルに戻りました。(その事についてはまたのちの記録に書こうと思います。)

仙台空港まで、仙台市内からナビで検索したルートは、ずっと内陸部を走るものでしたので、途中から海岸に向かって海沿いを走ってみようとナビを無視して海の方に走りました。そうして、海に向かって走っているうち、目の前に見えたもの……「あ……船だ!」……。

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(このあたりの様子は、一番最後にリンクしてあるアルバムのほうでご覧下さい。)

道の横に交通の邪魔にならないようにと退けられたような形で船が置いてありました。置いてあると言うよりも取り残された、というのでしょうか?けれど、まるでそれは「ここが港町ですよ」と言うことを示すオブジェのように静かにそこにありました。

海岸に近づくにつれて、船が見える頻度も増えてきて、それにつれて壊れた建物が道のまわりに目立つようになり、やがて、その建物すらまったく見えなくなってまるで新たな宅地を造成しているような更地になりました。車で進んでいくと目の前には大きな川があってそこが道の突き当たりでした。そして、その川の向こう岸ではたくさんのショベルカーが作業をしていました。そこはたぶん、廃棄物の処理場だったのでしょう。しかし、私の目には、まるでたくさんの恐竜がうごめいているかのように見えました。不思議な光景でした。そして、壮絶な光景でもありました。でも……その光景が前日石巻で見た光景から感じた「悲惨さ」とは違うものを感じたのです。厳粛な美しさ……がありました。(美しいなどと言うと語弊があるのかもしれませんが、本当にそう感じたのです。)その理由がわかるのはもう少し後になります。

この日、午前中に走ったルートはこの地図に示してあるルートです。

仙台全体

空港に向かう途中に海に向かってまっすぐ走ったところ行き当たったのは名取市の閖上(ゆりあげ)地区でした。
私が大きな川だと思ったのは、閖上漁港で広浦という入り江につながる部分だったのです。

あたりはまっさらで……乾いた土がひろがっていました。照りつける太陽に埃が舞い上がってその有様は、砂漠の遺跡発掘をしている場所のように思えましたが、よく見ると大きな電信柱が規則的に並び、たぶんこのあたりは津波前にはかなり大きな整備された町であったであろう事が想像できました。

この地区は本当に真っ平らなのですが、一カ所だけ小高く盛り上がった場所があって、そこにはのぼってみることができそうだったので、娘とのぼってみました。石段を登るとその上には、沢山の慰霊の塔と花束が捧げられていました。それがこの地図の「日和山富士主姫神社」です。(ここもまた、日和山なのですね……)

その上で撮った映像です。

ビデオ→9/12閖上地区日和山富士より

この日和山の上には小さい祠が建っていたそうですが、津波はこの高台にも襲いかかり、祠は流されてそのあとに別のお家が流されて残されていたそうです。

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(3月20日時事通信社HPより転載)

そして、4月11日には自衛隊の方や僧侶などがこの日和山の上で黙祷を捧げたそうです。これがその時の写真だそうです。

bp1-2.jpg(Japan’s crisis: one month laterより)

最後に……ネット上を探していて、ようやく見つけました。被災前の閖上地区です。
本当に美しい町だったのですね……。
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AerialPhoto Galleryより)

日和山富士の上には本当にたくさんの祈りがありました。
娘と2人で手を合わせ、ここでも黙祷を捧げてきました。

車で待っていた息子と落ち合って、閖上地区から仙台空港に向かいました。
そこでも、道のあちこちに……田んぼだっただろうところに……船。

その写真はこちらにおさめてありますのでご覧下さい。
アルバム9月12日仙台から閑上地区を通り仙台空港へ。

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今、この閖上の記録をまとめながら思いました。
なぜ、閖上の被災地あとから美しく厳粛なものを感じたのかを。

閖上の地区を走っている間、その被害のすごさに壮絶なものを感じました。まったく何もなくなってしまった町。津波の恐ろしさ。そこに住んでいた人たちの破壊されてしまった日常。それを想いつつ、日和山富士に登ったとき、目の前にはやはり壮絶な光景が広がっていましたが、それはとても整えられていました。

半年の年月が過ぎたということもあるのかもしれません。けれど、とにかく町は「動いて」いました。ショベルカーやクレーン車のような重機の音、それに混じって遠くから聞こえる船の汽笛。

重機は確実にそして傷跡をいたわるように土地を整えていました。かなり暑い日でしたが、臭いは一切しませんでした。かなり深く傷を負ったけれど、その傷を治そうと一生懸命に治療しているさまが、その気配が感じられたのです。

それは、日和山の上でも感じました。
たくさんの慰霊塔。その塔に添えられた花束に、枯れて醜くなったものは一つもありませんでした。
そして、日和山に新しく木が植えられていたのです。
閖上小・閖上中の子ども達が植樹したものでした。

「新しいとき」のために、失ったものを痛み、惜しみながらけれど明日のために新しい木を植える。
その想いがこの日和山だけでなく、閖上の地区のあちこちから感じられたのです。

石巻で日和山に上り、そして偶然通りかかった閖上のこの高台も日和山。
同じ日和山にのぼって見て、感じたまったく違う感覚。
閖上の日和山から見えたのは……「絶望」ではなく「祈り」「誓い」「明日」でした。

これは、わたしだけの感覚かもしれません。
でも、閖上の日和山の上でまわりをみていたほかの人たちも、同じ感じを持っていたのではないでしょうか。
誰1人、静かに高台からまわりを見回してしゃべる人はいませんでした。
その雰囲気は、まるで教会の礼拝の時のような……祈りの時の感じととてもよく似ていたのです。

ここは、きっとまた元気に立ち上がる。
この祈りの心と明日を想う心があるから……。
だから、きっと大丈夫。

……今、閖上の記録をまとめながらそんな気持ちにさえなっているのです。

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被災地をめぐっての3日間~5会津若松  につづく

今回の旅で9月11日、仙台……というのは一番最初に決まったことだ。
それと娘のひと言がなかったら、東北巡りはまだ実現していなかったかもしれない。

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「東北の実態」を見ようと思っても、東北は広い。
出発の日が近づくのに、どこをどう見ようかまだ決まっていなかったときに、仙台に住んでいてそこで様々な支援活動をしているFB友だちに案内をお願いできることになりました。

11日は仙台に宿をとることを決めて、南三陸や女川に行かれたら………と思っていたけれど、どうやら高速を走るようにはいかれないということらしく、時間的距離的なことを考えて「石巻」を見ようということになりました。
そこで郡山をでて東北道に乗って、そのままダイレクトに石巻港インターを目指して走りました。

郡山~石巻

(青いラインが走行した道、赤く塗ってある部分は津波被害のあった箇所)

仙台に入り、仙台南部道路を海に向かって走るとやはりブルーシートで屋根を補修してある家が目立っています。それが、海に近づくほどに次第に光景がかわりはじめました。本来だったら実りの秋、黄金に色づいているはずの田んぼには雑草が生えていて、まるで区画整理の工事の最中のような場所。時々目に入るゴミが積み上がった場所。

仙台の郊外を抜けて石巻に向かう三陸自動車道に入ると、まわりが山に囲まれた場所が多いから再び静かな山あいの道に戻りました。そして30分ほど走って石巻港のインターをおり、そこで案内をお願いした眞壁さんと落ち合いました。

合流したあとは、眞壁さんの車について走ったのですが、そこから先、車の両側に広がる光景は……どう表現したらいいのでしょう?想像していたとはいえ、それも津波被害から半年の年月がたっているとはいえ……地震と津波に襲われた、そう、まさに「襲われた」町の様子は言葉を発することもできない有様でした……。

ここから先は、たぶん言葉で表現するよりも実際の映像を見てもらった方がいいのでしょう。
ビデオで走った場所の様子をとってあるので、走った区間の地図と一緒にごらんください。
写真はこちらです。→郡山~石巻と石巻の町1

石巻の町〜1(ビデオ)

ビデオ1で走った区間。薄く水色で塗ってある部分が津波で浸水したところです。赤いルートを走りました。

石巻の町

ビデオの中に、水たまり……と言うよりも池がたくさん写っています。これはすべてあの3月の津波の遺物だそうです。そしてその「池」は今まで閑静な住宅街だった場所のあちこちに点在し、波と共に運ばれてきた魚が今でもそこで元気に……泳いでいるのです。魚のたてる水音と、カラスの鳴き声ばかりが響く静かな空間。

3月11日の津波までは、ここでたくさんの人たちが生活していた……きっとにぎやかな生活音にあふれた場所だったのでしょう。道路の太さ、家の残骸の様子。それらはにぎやかだった町の気配を
残しているばかりです。

降りたって、しばらくあたりを見ていましたが、その時にサイレンが鳴りました。
14時46分。ちょうど6ヶ月前に、地震が起こった時間です。その場で子ども達と共に、黙祷を捧げました。

「お母さん……あまり写真やビデオ、撮るのやめたら?」

娘にそう言われました。実は私も悩んでいました。この場を確かめ、そして今の様子を伝えるために来ました。記録として必要を感じて撮ってはいたものの、この光景をおさめるにはあまりに悲惨で……娘がそう声をかける気持ちもわかりました。けれどテレビや新聞でもうあまり扱われなくなってかなりもとどおりになっているだろうという感覚があった自分が打ちのめされたこの事実をやっぱり伝えた方がいいのではないか、と思って娘にもそう話し、胸の痛みを感じながら写真とビデオを撮りました。

この石巻地区の地図でちょうど浸水地区からすぽっと抜けている箇所があります。これが日和山公園の一帯の高台です。この麓にある門脇小学校は真っ黒に焼け焦げています。津波で流された車が突っ込んで、火災が起きたせいだそうです……。

この高台にある日和山公園に逃げた人たちは、周り中を水に囲まれて波にのまれた町をずっと見ていたのでしょうか……その日和山公園にのぼって町を見ました。

公園ですごくホッとしたのは、高台で木に囲まれているせいか、ここまでは下で感じた「臭い」がたちこめていなかったことです。被害にあった人たちが一様に言っていた「ヘドロの臭いのきつさ」は、6ヶ月たったあともまだ残っていました。この日は天気が悪く、曇りでやや肌寒い感じの日で気温が低かったからまだましだったろうと思います。きっと、夏のさなかには……このあたりにかなりの悪臭が漂っていたのだろうことは予想されました。

公園で案内の眞壁さんといったんお別れして私たちは市民病院に行ってみました。公園以降、ビデオその2で写っているのはこのルートです。

石巻2

公園からも見える北上川の海沿いのルートにかかる橋が日和大橋。
石巻の津波は、この橋よりも高く盛り上がって町に襲いかかったそうです。橋を車で走っているとかなりの高さですが、これよりも高い波……想像できませんでした。

石巻の町その2(ビデオ)

「まるで戦争が終わったあとのよう」と表現する子。「テレビや映画を観ているような感じ」だった子ども。
この東北に来る前に読んだ文藝春秋社の「つなみ」という被災地の子ども達80人の作文を集めた本には、石巻の子ども達のこんな言葉が載っています。

人は、あまりにショックなことが起こると、その事に対して記憶を閉ざしたり、現実ではないと思おうとして心を守ろうとするといいますが、被災から6ヶ月たった石巻を歩いている私もたぶん、そういう状況にあったのではないかと思います。現実味がないのです。もちろん、もとあった町並みを知らないからなおのことかもしれませんが、まるで目の前の光景は映画のロケのために作られた光景なのではないか、こんなことありえるはずがないのだから………と、たぶんずっと心の中で否定していたのではないのかと思います。

同じ事を娘もずっと口にしていました。「全然現実感がない…」と。
あまりに自分のイメージできるものとかけ離れている状況を見て、言葉を失い、今立っているその場所でさえも作られた空間であるような気になっていたのです。そしてこれが「半年後」なのです……この「現実」をあの3月に突然押しつけられ、そして今もなおその「現実」のなかに生きているた人たちは、特に子ども達は……いったい今、どんな想いでいるのでしょう。ここを乗り越えるために、かなり心にストレスがかかっているのではないのだろうか??

それが何よりも心配になりました。

石巻地区の海沿いを走り、ぐるっと内陸に入って道を走ると、浸水した地区でありながら郊外の大型店舗はそのまま建っていて営業しています。その有様がなおのこと、さっきまで見た光景のありえなさを強調していて、「なんだか複雑だ……」と娘が町並みを見ながらつぶやいていました。

この地区の写真についてはこちらにまとめてあります。→石巻の町2

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被災地をめぐっての3日間~4仙台 に続く

今回のブログは、書くことにものすごく配慮せねばならない。
「フクシマ」の被害は明らかに他県とは違うからだ。

津波被害、地震被害、これらのものは目に見える。だから情報が無くても目で確認することはできる。
しかし、フクシマが背負っている被害にはこれらにくわえて「放射能」という目に見えない敵がいる。目に見えないものはわからない。わからないから恐ろしい。……それは、人が根本的に持っている恐怖心を煽るものであるからなおのこと根が深い。それが「風評被害」にもつながっていく。

たとえば、病気にたとえると骨折のような怪我や風邪ひきのように視覚的に感じられる病気は理解しやすい。けれど、うつ病のような精神的なものや、内臓の疾病のような外から見えないものは見つかりにくいしわかりにくい。そして自分も他人も理解しにくいから治りにくいし治しにくい。治療方法についても、専門家でないとわからない部分があるので手の施しようがない。……それが、今回のフクシマの陥っている状況なのではないのだろうか。

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9月11日。
この日朝、水戸を出発して常磐道を北上しました。
この日の第一目的地は福島県の郡山。

最初の計画では、常磐道をできるだけ北上して海岸沿いを宮城まで……と思ったけれど、原発の影響で立ち入り禁止になっている区間があります。どこまでかを調べてみたら広野インター以北とのこと。そこまで無理して入り込む必要は今回はないし、仙台近辺の状況をよく見るためにもルートは常磐道から磐越に入って東北道を北上するルートに決めました。

参考までに。
水戸ー郡山2

その折に福島の郡山近辺を通ります。そこでFacebookで知った「福島移動保育プロジェクト」の活動に取り組んでいる上國料竜太さんが、郡山で活動していらっしゃるので、上國料さんにお会いしてお話を聞くことにしたのです。

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福島移動保育プロジェクト」とは、毎日放射能の汚染におびえて深呼吸もできない子ども達に深呼吸できる時間を!というコンセプトのもとに、放射線量の少ない地域に乳幼児~小学生を連れて行って保育する試みです。

あの原発の問題以来、ここ郡山近辺でも外で遊ぶ子ども達の声が消えたそうです。
上國料さん自身のお子さんも30分以上は外で遊ばせないようにしているし、ご自身が預かっている保育所のお子さんたちも同様だそうです。

そんな状況にありながら、ではさっさと安全な場所へ……といってもそれぞれの生活や事情があって、なかなかそれも出来ない人たちがほとんどです。けれど、子ども達は外で元気に遊ぶことが一番。思い切り飛び回ってお腹いっぱいに空気を吸うことができるように。せめて昼間の保育の時間だけでも……そういう想いから上國料さんはこのアイディアをFacebook上に書き込んだのが7月23日だそうです。

そこから2~3週間の間、お金のこと、システムのこと、様々な問題をクリアして約1ヶ月後の8月30日に第1回目の移動保育が実施されたのだそうです。

しかし、このプロジェクトが確実なものとなって行くにはまだまだ課題は山ほどあります。
たった一回の移動保育で子ども達の安全が守られるはずもなく、永続的に長いスパンで取り組まないと意味がありません。そのためにはまだまだ費用も必要ですし、常に放射線に関しての情報も得ていなくてはなりませんし、子ども達に対しての様々な対応も必要です。

現在は主にFacebookを使って活動の報告や支援の呼びかけをしていますが、こういうことに対しては民間の反応がとても早くて、いくつかの協力企業も出てきているそうです。また、飲料メーカーとの協力も得て自販機の売上げの一部を運営費として活用できるシステムも組まれているそうです。

こうしてシステムを確実なものにしていき、今現在は1人500円でお預かりしている費用をいずれは無料にしたいと上國料さんは語っています。

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「結局、他県に頼る支援のあり方は長続きしません。県外避難には限界があります。本当の意味でフクシマの復興のことを思うのだったら県内で経済がきちんとまわる仕組みを考えないと成り立たないと思うのです。」

上國料さんのこの言葉は、その後の被災地の状況を見て回るほどに私の中で重みを増していきました。被災地のことを何よりもよくわかっているのは、そこに生きる人たちです。その人たちがきちんと生活できる状況を作らないと本当の意味での復興は成り立たない。

原発問題に悩むフクシマのみならず、この言葉は被災地や、そしてこの先どんどん大変さをましていく日本の社会全体に対してもしっかりと心に留めなくてはならない言葉だと感じました。

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この訪問の時に、上國料さんが私に見せてくれた一枚の資料があります。

26julyJG.jpg「放射能汚染地図」とタイトルされたこの資料は、群馬大学の早川教授がまとめたもので、3月以降大気中に放出された放射線量を4月8日に文科省がネット上に公開した数値データをもとに作られた物で、これを見ると爆発以来どんなふうに放射能が風に乗ってひろがったのかがよくわかるのです。

そして、これを見ると「フクシマ」だけが問題なのではなく、東日本の多くが何らかの影響を受けていることも、また「フクシマ」の中でも安心して活動できる場所があることも一目でわかる地図でした。詳細は、この地図を作った早川教授のブログ「放射能汚染地図の読み方」をごらんください。

ちなみに、先ほどの政府が示した「30キロ圏内」の注意地区の地図とこの日、郡山に向かうルートとこの地図を重ねてみると………

水戸ー郡山3

こんな風になるんですね。

実は、今回「フクシマ」を通ることに、私の息子はとても恐怖心を持っていました。そして、水戸で夜のご飯に「海に近いからお魚美味しいだろうし、お寿司食べようか。」と言ったら「絶対嫌だ」と言いました。息子は、今回の旅行に当たって彼なりにいろいろ調べていたようです。そして福島原発から放射能の水が海に流れたこと、風の向きで30キロ圏内でなくても放射線量の値の高い地域があることなどから「怖い」になったようです。

それに対して私は「今回通るところは30キロ圏内からははずれているし、大丈夫だよ。」という声がけしかできませんでした。その「大丈夫」の中には、「高速道を通過するだけだから」というニュアンスも含まれていたわけです。それは確かにそうなのでしょう。けれど、3月以降放出された放射線はその土地土地の土壌に染みこんで、それが時には風に舞う塵に乗って、時には海の流れに乗って、この先も消滅することなく回り続けます。

それは「ここは30キロ圏外だから」という言葉で安心できるものではありません。そして、そのばらまかれた放射線の有り様は、政府からはわかりにくい数値データとしてしか提示されてきません。さらに、その放射線に汚染された土壌を除染するシステムも充分ではありません。ここに来て、以前みた東大の児玉教授の「子ども達のために」と必死で声を荒げて訴えていたあの声がより現実味をまして迫ってきました。

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一方でそういう事実をふまえながらも考えなくてはならないことがあります。それが「風評被害」です。

先の汚染マップで示したように、放射線の流れは福島のみに降り注いだわけではありません。そして福島の中でも流れが届いていない地域もあります。「福島」という発音だけで恐れを持ってしまう状態は避けるべきなのです。

上國料さんが行う移動保育は、決して他県に連れて行くというものではありません。同じ福島県内で深呼吸も土いじりもできる土地もちゃんとある。

一方で「被害」はわたしたちにも及ぶ可能性がある。「自分たちももしかしたら」という感覚を持ってこの問題を福島だけのものにしてはいけないのだと思うのです。世の中には流れがあるから、すべてのことはその流れの上にあるから、いついかようにしてその流れが自分に向かうのかは誰にもわかりません。正しい知識で防いでいかないと、いずれは日本全体がその影響を受ける可能性は充分にあります。

福島の人びとは、福島で生きるから自分たちが今の状況の中でより良い明日のために精一杯戦っています。それを単なる「恐れ」だけで避けるのはその頑張りを踏みにじることになる。
かといって、じゃぁ、「福島のものを怖がらずに食べましょう」も違うと思うのです。今の福島にとって、何が必要なのか。どうしたら福島の経済が回り出すのか。「今」を正しく見た上で防ぐべきところは正しい知識で防ぎ、けれど必要以上に恐れることなく考えていくことが大切なのだと思いました。

ちなみに、先に書いたように「福島」を恐れていた息子は、この旅の帰り道で会津若松に立ち寄ったときに、「ぼくは福島でまだお金を落としていないから」と、会津の名産の絵ろうそくを求めるためにあちこち奔走していました……。こういう形の支援を彼は考えていたのですね……。

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「とにかく、考えていても始まらないから。」

移動保育プロジェクトを立ち上げてあっという間に第1回までこぎ着けた上國料さんはこう言いました。「公的な補助なども考えないのでしょうか?」との問いに、「公的な補助を待っていたら時間がかかりすぎますから……。」と答えました。

今までの状況を見ても、それはよくわかります。考えていても始まらないし、子ども達の健康を考えたら国のなかなか進まない支援などあてにせずに一刻も早くやらねばならない。

今回のこの移動保育プロジェクトに限らず、そして福島の人びとの健康に限らず、この問題は日本全体に大きな影響をもたらすものとして一刻も早く意識を持って、正しい認識を持って、みんなで取り組んでいかなくてはならないことなのだ……たとえば風評被害を減らすために正しい知識や情報を学び取ること、それだって大切な支援の一つだ……。と、そう思ったのです。

そして願わくば、こういう正しい情報を正確に一刻も早くに公表できる日本の国であって欲しいし、除染など専門知識や技術が必要なジャンルに必要な専門家が必要なだけ動けるような体制を整えて欲しい……。(今現在、国が出してくる情報よりも海外からのものの方がわかりやすく信憑性があるのが現実です。海外の情報のように「わかりやすく」「活かしやすい」情報をなぜ自分の国のニュースで得られないのでしょう?)

国や公的機関自体がすぐに動けないのだったら、今それぞれでできる事を精一杯頑張っている人たちに活動できる資金やシステムを整える支援を即座にとってくれたら……。それが何より大きな支援になるのに……。

その部分についてどうにもままならない国や東電の姿には、やはり怒りすら覚えるのです。

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福島移動保育プロジェクトは、現在活動用の募金を受け付けています。また、スポンサーも募集しています。

民間で頑張っているこういう活動が多くの人に支えられて未来を開いて行かれるように、多くの人の協力が得られるように祈りつつ、上國料さんと別れを告げて次の目的地仙台~石巻に向かいました。

福島移動保育プロジェクトの詳細や活動の報告などはこちらのページからどうぞ。

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被災地をめぐっての3日間~3石巻・仙台 へつづく

茨城を選んだのは、正直言うと「震災の被害状況を見る」というよりは、翌日の行動を考えたときに沿岸を北上してみるのに都合が良いから……という本当に軽い気持ちだった。

けれど、「想定外」の言葉でこの第1日目の茨城からすでに私は打ちのめされた。

被災地をめぐる3日の旅から戻った今、その気持ちが茨城の人たちにとって本当に失礼であり、被災地の情報を集めていたつもりでも何もわかっていなかった自分を露見させることになるのだが、それも私自身の包みかくさない姿であるからきちんと記していこうと思う。

3月11日の震災が起きた後、私はひたすらTwitterで情報を集めていた。
テレビの映像は衝撃的なものばかりが流れ、それもいつも同じような場面ばかりだった。
だから、本当の情報はテレビじゃだめだ。ラジオで即時的なニュースを得ながら後はひたすらTwitterから飛び込んでくる様々な情報を眺めていた。

震災の翌日からその後しばらく、こういう言葉が浮かび上がっていたことを想い出した。

「茨城だって、被災地なんだ!通り過ぎていかないで!」
「栃木にも支援物資を!救援を!」

テレビや新聞の報道は津波で壊滅的な被害を受けた宮城や岩手の情報が多く、やがて原発の問題が浮上すると福島もそこに加わった。しかし、茨城や栃木に対しての情報はというと、ほとんど入ってこなかった。

(これに関しては、3月12日に震度6の地震に襲われた長野県の栄村についても同じようなことが言える。ふつうだったら震度6の地震が起きたら新聞やニュースはこぞって書き立てるのに、この頃は東北に埋もれて栄村の情報もほとんど入っては来なかった。このあたりについては、またのちに書き記します。)

情報がないという事=被害がなかったという事……ではないのだ。
けれど、今の日本ではどうしても被害の衝撃性が重視されてより刺激性のある情報にメディアは走る。それにおどらされないようにと自らで様々なところから情報を得ていたつもりだったけれど、やっぱり自分もメディアの影響をうけていたのだ……想定外だった。

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9月10日の朝。
長野県を息子(20才)、娘(18才)と共に車で出発する。
長野県の私たちの生活範囲では今回の震災ではほとんど被害が出ていないから、「いつもの秋」ののどかな風景が目の前にひろがっていた。

天気は上々で青空がまぶしい。
ここから先に見えるであろう被害状況はとりあえず本で予備知識を入れ、もしくは今まで現地に行った人びとや現地に住んでいる人たちとの交流から得た知識である程度頭の中に思い描いてはいたものの、「津波」とは縁がない長野県であり、「原発」とも縁がなく、地震の被害も目に見えていなかったから気楽なものだったような気がする。

佐久のSAで、これから会って話を聞く予定の被災地の方々におみやげを買う。
そしてまた秋の高速道をひた走る。
上信越道で群馬に入り、この3月19日に全線開通したばかりの北関東自動車道に入る。開通はあの3月11日の直後だったけれどこのあたりは地震の被害はほとんど無かったのだろう。

北関東自動車道は栃木県の岩舟JCTから、いったん東北道に入り、栃木都賀JCTからふたたび茨城県ひたちなか市に向かって北関東を横断する形になっている。
この、栃木都賀JCTから北関東道に入った途端に、高速道から見える家々の屋根に何か青いものが目立ちはじめた。
よく見ると、それはブルーシートで、そのブルーシートがとばないように石を乗せて押さえてある。
その家々が、高速道の両側にかなりたくさん見えてきたのだ。

長野~水戸

「あれ、もしかして地震の影響?」

写真を撮る。そのブルーシートの家は、次第に見え方が頻繁になり、さらにブルーシートでの補修の面積がどんどん大きくなっていった。(地図の赤い×をした地域)

3月11日に地震が起きて、この日9月10日で半年を経たことになる。
栃木や茨城はもうとっくに「日常」へと戻っているものだと思っていた……。

その「想定外」の光景が目の前に広がっていく。
さらに、水戸市内に入って町中を走ると屋根の修理をしている家、いまだにブルーシートの家、壁にひびが入っている家、ショーウインドーをブルーシートで覆ったままのお店……そこにあるのはまだまだ「完全復興」という文字にはほど遠い町並みの姿だった。

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「海の方まで行ってみようか……。」

運転している息子とどちらとも無く声を掛け合って、水戸を通り過ぎてさらに海の方に走ることにした。
ひたちなか市の方に向かって見たが、途中から本を見た息子が「大洗海岸行こう。」と言ったので、大洗海岸を目指してみることにした。

……その「大洗海岸」は、静かだった。
津波に襲われたと思えない美しい光景が広がっていた……その海辺ではがれきもほとんど無く、たくさんの人たちが波打ち際で海と遊んでいた。ここは穏やかだ……とホッとした。

私たちが到達したのは大洗海岸の水族館「アクアワールド」のあるところ。
大洗海岸は4メートルの津波と言うけれど、ここは穏やかで静かで、人の心を和ませる場所だからいち早く復興したのだろう……と思ってしまったのだ。

けれど、それもまた自分たちの無知のゆえの誤認だった。

水戸~大洗

実際に被害を受けたのはもう少し南の海岸沿い。(地図参照……クリックして拡大してみてください。青い網掛けになっている部分が浸水した場所です。)

大洗の町は約半分が浸水し、大洗港の船が陸に乗り上げ、大きな被害が出ていた。茨城でも津波による被害者が北茨城で出ていた。……みんな、知らなかった……。

それを知ったのは、アクアワールドから偕楽園を見に行き、夕暮れになってホテルに行く前に寄った本屋の「震災関連コーナー」で見た本からだった……。

こちらの本屋の画像を見てほしい……。→茨城の本屋にて。

私は、この震災関連コーナーで初めて「茨城の事実」を知った。
今回、まったく調べなかったわけではないのだ。ネットで「茨城の震災の被害」についてを調べまくったし、本やでも「震災の全体像」が見える本を探し求めたのだ。けれど、それらの本にはやはり「関東圏」である栃木や茨城のことはほとんど書いてはなかった。
ネットで得られた情報は……偕楽園が被害を受けた、ということだけだった………。

地元の本屋では茨城の被災の現状についてまとめた本が出ていて、それをパラ見しただけでも茨城の受けた被害の大きさが伝わってきた。

これでようやく、あちこちではためいていた「がんばっぺ茨城」の旗の意味と、たくさんのブルーシートでの補修の意味と、さらに海岸に向かう道路のあちこちがぼこぼこになっていたり亀裂が入っていたり、補修工事の真っ最中だったりする理由を納得したのだった。

情報がない=復興している……が大間違いであることを、ここで改めて実感した。

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水戸の偕楽園は……、3年前の夏に家族で水戸を訪れたときの写真があったのでそれを見てみるといかに偕楽園も酷い状態にあるのかが実感できた。もっと明るいうちに来て、ちゃんとみておけばよかった。偕楽園についたのは、もう閉園直前の4時50分ぐらいで日も沈みかけていたので写真はほとんどとれなかった。

このあたりも、無知ゆえのコース選択の誤りだった………。

かろうじて撮れた写真で「今の偕楽園」と「3年前の状態」を比較してみた。→水戸偕楽園今昔’08と’11

アクアワールドで海岸を見たつもりになり、すでに真っ暗になってしまった偕楽園を出て、本屋で「茨城」を再認識して後悔しても後の祭り。
けれど、その「想定外」を受けて自分の甘さやメディアの報道の偏りを実感したことは、今回の自分の震災の認識にとってはすごく大切な想いの一つになった。

そしてますます、メディアを信じず自分で情報をしっかり確かめることの大切さも。

こうして自分で見た「茨城」を伝えることで、メディアには乗らなくてもいまだに震災の傷と戦う地域があるということも、できるだけたくさんの人たちに知って欲しいとそう思った。

この日の画像はこちらにまとめてありますので、ご覧下さい。
2011.9/10水戸~大洗の状況(水戸~になっていますが、北関東道の栃木県内の画像も含まれていることをお断りしておきます。)

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付記:
茨城では、3月11日のほぼ1ヶ月後の4月16日に震度5強の地震も起こっています。
私はこの時の記憶はあるものの、「大したことがない」という印象の報道に安心していた可能性があります。
けれど、震災当時に震度6強の揺れのダメージから立ち直っていない上に震度5が来たら……かなり危険な状態ではないのかと、そして今まで復興ができないのもその影響があるのではないかと思ったりします。

一方、この日水戸を訪れたその時間に震度4の地震も起こっています。けれどこちらは、自分たちが車に乗っていて全然入れに気が付かなかったことと報道を知る機会もなかったことでまったく気が付きませんでした……。

参考資料(wikiの「東日本大震災」のページより画像を借用しました)

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被災地をめぐっての3日間~2郡山 へ続く

3月11日、東日本大震災が起きた。
あの日からちょうど半年すぎる9月11日をはさんで10日から12日まで、私は息子と娘と一緒に被災地の「今」を感じに車で走り回った。

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ずっと自分と、自分の子ども達の生活やこれからのことで手一杯なまま、何かしたいと思いつつも何もできないでいた。

いや。何もしなかったわけではなくN-geneの記事で支援活動をしている「笑顔プロジェクト」について取り上げたり、4月に引っ越したばかりの地で活動している支援グループがあると知ってそこに参加し、福島の子ども達を夏休みに呼んでくるプロジェクトも行った。そして、自分のFacebookページを使い、震災の情報を集めたり支援活動をしている人を応援したりもした。

そもそも、Facebookページ(笑顔をつなぐ~スマイルコーディネーター)を開設した理由が「災害支援のために情報を集めて必要なものが手に入れられるまとめを作ろう」と思ったのがはじまりだった。

だから、自分なりにできる事を一生懸命にやってきた。けれど……どうしても集められる情報には限りがある。新聞やニュースで報道されるものと、実際にTwitterやFacebookの投稿から感じるものとの大きなずれや違和感。報道やメディアは過剰報道や逆に必要なことを見せてくれないと想いながらも、実際を知らない自分は何もわからないままだ。

現地を知りたい……現地の「今」と「現実」を知りたい。
そう思っていたときに、娘が背中を押してくれた。

「おかあさん、学校が夏休みの間に、私も自分の目で見に行きたい。」

その言葉を息子に伝えると、息子も「ぼくももちろん!」と同意したところから、この計画はスタートした。

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期日は娘の大学の日程と息子の日程、そして私の日程を示し合わせて9月の10日から12日までの3日間にした。
そして目的地は……正直行って、見当つかなかった。
あまりに被災地の範囲が広すぎて、改めて「どこにいったら現実が見えるのか」がまったくわかっていない自分に気が付いた。

何気なく「東北」といいながら、福島の原発被害、宮城や岩手の津波被害、そういうものがどこにどう影響をもたらしたのか自体も、はっきりと知らなかった自分がいた。
そこで、本を探した。今回の震災の被害状況や影響を総括的にまとめている本がないか。
けれどなかなか見つからなかった。原発の脅威や影響について書いている本は世論の関心とも相まってけっこうたくさん本屋で見かけたが、震災の全貌をわかりやすく語っている本がなかなか見つからなかった。

やっと見つけたのがこの本だった。
手に入れて帰って一生懸命に読んだ。

book-kiroku.jpeg  

この本の出版社は「河北新報社」という仙台に本社のある新聞社だった。

記者たちは、自分たちも実際にあちこちの取材の途中であの大地震や津波に巻き込まれている。中には九死に一生を得た人もいる。ものすごく迫力のある津波が迫る写真を撮った記者は「この写真は自分が津波を甘く見ていて逃げ遅れそうになった深い後悔の残る一枚だ」と記している。また、浸水した住宅の屋根に上って救助を求めて手を振る女性の写真を撮った記者は、「この女性を助けたいと想いながら、このヘリではそれが出来ないから」と心の中で謝り後ろ髪を引かれながら去った胸の痛みを書いている。「あの女性は、無事に救われたのだろうか?」と……。

被災者でありながら、しかし報道という責任を持った記者たちが書く文章には余計な飾りも誇大表現もないと思った。

そしてもう一冊、被災した子ども達80人の書いた作文を集めた文藝春秋社の「つなみ」という本。
小さな子どもから高校生くらいまでの子ども達の声が……中には自分の身内が失われた子もいる……この中にたくさんの「事実」を見せてくれた。(この本については一つ前の記事「今週末は、東北を感じてきます」で紹介していますのでそちらをご覧下さい)

この本を読み、いくつかの訪れたい場所が決まった。後は実際の時間と行動の可能性だけ。

行程地図

それから訪れた場所の記録を、できるだけリアルタイムでFacebook上に流して行こうと思った。
「今」を感じて欲しかったから……。

カメラ、ビデオ、iPad、WiーFi。
しっかりとした記録のための準備を整えた。
これで「万全」のはずだった。

でも、やっぱり「頭で考えた事と実際」とはまったく違うことをあらゆる場面で感じさせられた。
「想定外」は必ずある。それは肝に銘じておくべきなのだと、出発してから実際の道程で感じた道中でもあったのだった……。

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続きは「被災地をめぐっての3日間~1茨城」へ。


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PROFILE

駒村みどり
【すまいるコーディネーター】

音楽活動(指導・演奏)、カウンセリングや学習指導、うつ病や不登校についての理解を深める活動、長野県の地域おこし・文化・アート活動の取材などを軸に、人の心を大切にし人と人とを繋ぎ拡げる活動を展開中。

信州あそびの学園 代表

Twitter:komacafe 
HP:コマちゃんのティールーム
  信州あそびの学園

facebook:Midori Komamura
     信州あそびの学園
笑顔をつなぐスマイルコーディネーター

アメブロ:【うつのくれた贈り物】


WebマガジンNgene特派員
(長野県の文化、教育、地域活性化などに関わる活動・人の取材)
【羅針盤】プロジェクトリーダー。

詳細は【PRPFILE】駒村みどりに記載。

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