教育

みんなの夢をみんなで描く〜6年3組の映画製作<’10年8月掲載記事>

「わぁっ!!」
目の前のスクリーンに展開される映画に、観客は一斉に歓声を上げる。

会場は小布施町にある「まちとしょテラソ」の多目的室。座席はすべていっぱいで、客のほとんどが小中学生の子供たち。映画に登場するのはその子供たちとほぼ同年代の小学5年生ばかり。さらに驚くことに、この映画の制作者もスタッフもすべて小学5年生。

けれど、その映画は大人の私が観ても面白かった。画面から伝わってくるのは「熱意」。そして「真剣さ」。演技しているのはごく普通の小学生たちだから決して「上手い」とは言えないし、ハイテクを駆使しているわけでもないけれど、思わず引き込まれてしまう「魅力」にあふれていた。

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真っ暗な会場の中、ひしめき合った子供たちは画面に食い入るように見入っている。
目の前で展開する映画を観ているうちに、気になることがひとつ。

「これまでいくつもの事件を解決してきた。コールサインは少年探偵DAN。」
「これまでいくつもの事件を解決してきた。コールサインは少年探偵DAN。」

……あれ?映画から聞こえてくるセリフが、私の後ろからも聞こえてくる。まさかサラウンド?

後ろを振り返ると、まだ小学校の低学年ほどの小さな女の子が画面の言葉と同じセリフを、小さな声でつぶやいていた。さらに驚くことに、そのつぶやきは一句一語も違わず映画が終わるまでずっと続いたのだ。この子、一体この映画何回見たんだろう?セリフすべて覚えている。それもただの丸暗記じゃなく、画面の人物がセリフをいうタイミングや抑揚まですべてを再現していた。
すごい……この子にとってはそこまで深く刻まれる映画なんだ………。初めてここでこの映画に出会った会場の子供たちが夢中になるのもよくわかる。

「この映画は、子供たちの意欲で出来ているんです。みんなで原案を持ち寄って、機材を扱うのも、小道具大道具を作るのも、脚本や絵コンテも、演技もすべて子供たちがやりました。私はそれを合体させて仕上げただけ。」

そう語るのは麻和プロダクション製作総指揮者こと、松本開智小学校の麻和正志教諭。

小布施のまちとしょテラソの館長である花井氏は映像作家でもあるのだが、その花井氏がこの映画の上映会の情報を得て家族で松本まで見に行って感激し、小布施での上映会&講演会へとつながった。

5年生クラス全員で創り上げた映画。総合学習として取り組んだそうだが学校の多忙な時間割の中、これだけの作品を創り上げるには相当の手間と労力が必要だ。
さらに、すべての子が「みんなと一緒」に動くはずもない。機械の扱いにしろ、撮影技術にしろ、演技力にしろ、すべてが1からのスタートだ。ひとクラスの子供たちを動かすことでさえも大変なのに、どうしてここまで来ることが出来たのだろう?

「やれるものなら、やってみろ、最初はそこからでしたね。」

元々、漫画家になりたかった。「美術の勉強が出来る国立大学」として選んだのが信大教育学部の美術科……。気が付いたら、「学校の先生」になっていた。

けれど、大学祭で一度映画を作ってから映像への興味は尽きることなく、教員生活のスタートから映像作品を学校の行事に生かすなどして何らかの形で関わってきた。それはやがて「映画」へとつながり、地元松本では「映画の先生」として周知のところとなった。このクラスを5年で担任することになり、一年間の総合学習のテーマを考えたとき、「映画」は子供たちの中から自然と出てきたそうだ。

むろん、映画作りは時間がかかるしやったことのない子供たちには問題山積み。それに、他にも「やりたいこと」はあがっていた。けれど麻和教諭のとまどいを押し切ったのは子供たちだった。

「やれるものなら……」そうして、本格的な「映画作り」に昨年一年かけて取り組んだ。やる上で、先生は子供たちといくつかの約束をした。

「時間は守る。準備、片付けはきちんとする。他のクラスに迷惑はかけない。」そして……「映画を言い訳にしない。」

簡単なようだけれども、これはとても難しいことだ。子供たちはどうしても出来ないこと、忘れてしまうことがある。めんどくさいことからは逃げたい。(これは大人も同じだけど)。「○○があったから遅れました」というのはとてもいい「口実」だけれど、言いはじめたらきりがない。自分たちのことに夢中で、周りが見えなくなることもある。熱中して面白いことは、途中で止めて切り替えるのは難しい。それも、数人ではなくひとクラス。29人の「個性」を率いるのはかなり困難だ。

しかし、この約束の下に映画は完成し、上映会会場の松本市民芸術館の小ホールは2回の上映とも満員の客であふれ、「来年やるとしたら大ホールにしてください。」と会場にいわれるほどだったそうだ。

「ひとつやり遂げる中で、子供たちは『みんなでやる』姿勢が育ってきた。支え合う姿も。それから映画作りの中で『物の見方』も変わってきた。そして、映画を勉強しない理由にはさせないから、ちゃんと勉強もする。」

……これこそ、「総合学習」の狙う「生きる力」。

「総合学習で子供たちにどんな力をつけていくのかは教師自身が考えてアピールしていくべき。」「大きな舞台を用意すると、子供たちはちゃんと動く。ケンカやいじめをしている『ヒマ』なんか無くなります。」
「結局、生きるということやその目的は、真剣に放浪して捜すものだと思います。ゼロから出発して自分たちで………。」

麻和教諭のこの講演を聴きながら、わたしはものすごくこの「生徒たち」に会ってみたくなった。

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他県の学校はまだ当然のように夏休みの期間。けれどなぜか長野県の「休み」は短く、どんな酷暑でもエアコンも扇風機もない学校は窓を全開にしても蒸し暑さにつぶされそうになる。まして「夏休み」から「学校生活」への身体の切り替えがまだ出来ていない2学期のはじめは、生徒も先生も動くのがかなり辛い期間。

打合せ時の麻和教諭からのメールには「低学年では熱中症にやられる子も出ています、暑いのでお気をつけておいでください。」……うわぁ……。

学校に着くとわざわざ玄関まで迎えに出てくださった麻和教諭について教室へ。教室の入り口には去年映画で使ったべっこう飴屋の看板を掲げてあった。

「市民芸術館で『今年は大ホールに』といわれて、その予約の関係で2月には今年映画をやるかどうかをみんなで決めなくちゃならなかったんですが、全員一致で決まりました。」

子供たちの意志はもう一つだった。「もっといい映画を」「無駄な時間を作らないように」「去年失敗したり経験したりしたことを生かして」「大ホールがいっぱいになってそのお客さんが楽しんでくれるものを」「もう一度映画作りの経験をして卒業したい」

昨年度末に映画作りをするかどうかを決めたときの子供たちの決意。紙の上に踊るのはよりよいものをめざすみんなのやる気と、それから「来年度」にかける夢。
一度映画製作をしているので皆「やること」や「流れ」はつかめている。「次に描きたい世界」ももうそれぞれ持っていた。春休みの日記などを使って今年の構想が練られた。スタッフはすでに3月中に決まっていた。

教室の黒板の上には、「学級目標」「学校目標」にはさまれて「映画作りの目標」もかかげてある。映画はこのクラスの柱なのだ。

映画の「制作費」。機材はあるものを使うけれど、いろいろな道具は作らなくてはならない。それを稼ぐのも自分たち。学校のPTAバザーで子供たちは家にある「景品」を持ち寄って射的の店を出し「こんなに稼いでいいのかと思うくらいに」売り上げた。それから昨年の映画。DVDで販売する。その売上げも「次の映画」にむけての資金。ちゃんと昨年の活動が次の年につながっていく。それも大きな力となって。

教室は、普通の6年生の教室。台の上には、はにわなどのフィギュア。「歴史の勉強がありますから」と麻和先生。「映画製作」に関わるのだったらもっと道具でゴチャゴチャしているのだと思っていた。けれど、小さなロッカーにカバンや水着の袋が詰まっている……といった感じの小学生らしい雑然さはあっても「映画作っています」みたいな「特別感」は全くなかった。

しかし、その雰囲気は5時間目の開始と共にがらっと変わった。


今日の撮影シーンの確認。黒板の先生の説明を真剣に聞く。撮影場所でケガや事故がないようにとの注意も、多分聞き漏らした子はいないだろう。

そして「では、はじめよう」の声と共に生徒たちは準備を開始。大勢の子がすぐに教室を出ていったけれど、数人が残ってなにやら製作をはじめた。

生徒たちの打合せ。これも映画のワンシーンのよう。

最初は廊下で撮影。南から夏の日が照りつける。

麻和教諭の額には玉の汗。

それぞれが、それぞれの役に真剣に取り組む。1人1人がこの「映画製作」では主人公だ。今年の主役を務める達家さんの身支度を手伝う衣装の係の天野さんと西山さん。小道具の点検に余念がないのは山崎くん、犬飼くん、中川くん。カチンコを持ち、記録をとるのは昨年の映画でヒロイン美咲役を務めた長瀬さん。それぞれのシーンをチェックしながら、そこで必要なことを細かく記録していく。撮影の最初からとった記録の紙の束はすでにもうかなりの厚さになる。

もう一つのシーンの撮影現場に移動。窓ひとつないオイルタンク室が撮影場所だ。普段は誰も近づくことのないこの部屋も、子供たちの工夫によって不思議な異次元空間に変身する。風がまったく通らないから暑い。けれど誰1人文句をいわず黙々とそれぞれの役割を果たす。重い機材や熱いライトを支え、記録をとり、風を送り……。

何回も撮り直したシーンが「カット」と終わったとき、コスチュームのヘルメットの下から現れたのは津田くんの汗まみれの顔。

授業時間も終わりに近づき、廊下では特別教室から戻ってくるほかのクラスの子供たち。その子達が通るのに邪魔にならないようにさっと交通整理をはじめる生徒はプロデューサーの渋木くん。

「へぇ?こんな部屋、学校にあったんだ。」

別のクラスの生徒がオイルタンク室を見てつぶやいた。学校の廊下の突き当たりにある普段はまったく気にもとめない小部屋。それが、麻和プロダクションの子供たちに見いだされ、演出によってなんだか興味深い雰囲気を醸し出している。はしご階段の上からのぞく2人のヘルメット姿を見ると、なんだか不思議な気分になる。誰がここを「舞台」として見いだしたのだろう。

「撮影終わり、片付けて次の時間だよ。」先生の声に「もうちょっと……」との声を飲み込んで整然と片付けをし、教室に戻る。教室ではまだ別グループが作業中。

彼らが黙々と作っているのは「ネギ」。が、これは映画の小道具ではない。毎年やっている「長野県ふるさとCM大賞」にむけての準備だ。彼らは昨年、松本代表として予選を突破して県民ホールのステージに立った。
「去年は入賞が出来なかったから、今年は賞をとりたい。」

チーフの松本さんはネギ作りの手を休めずにそう語る。映画と平行してそちらの撮影も進んでいる。丁寧に作られたネギが今年のCM大賞での入賞につながるといいね。

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「最初に子供たちを持ったとき、はさみも糊もちゃんと使えなくて驚きました。」

今の子供たちは、自らそうして何かを「生み出す」機会が少ない。小さい頃に泥をこねてどろだんごをつくる。そういう経験さえもないので粘土で団子やひもをこねることも出来ない。ぞうきんも絞れない。マッチで火をつけることはおろか、ガスコンロも今はスイッチひとつだから理科室でマッチを擦ってガスの栓を「開いて」火をつけることも困難だ。

学校で図工や美術の時間が減り、家庭科も減り、理科も実験している時間がなく教科書を読むことで終わることも増えた。机に向かい、本を見る時間がいくら増えてもこれらの「体験」による学びは決して得られない。今の子供たちはそうして「頭で考える」世界にいることが多い。自らの力で生み出し、見いだし、工夫する機会はほとんど無いからそういうことが出来ないのは当然だ。

その子供たちが今、こうしてネギを作り記録をとり、自分たちのイメージで創り上げた「新しい世界」を生み出すために地道な努力を積み重ねている。その膨大な時間の中で自分に出来ることも、出来ないこともあることを感じ、出来ないことは出来るために努力し、一人の力で足りないところはみんなで考え補い合って様々な力をつけ、昨年一年の成果の中でさらに「次のステージ」をめざしている。

「はさみ使えるように」と先生に「宿題」を出されなくても、子供たちは自らのめざすもののために山ほどのネギをきれいに作り上げる力をつけた。その子供たちの姿を見て、親たちも心から活動を支援している。

「学びの姿」……本来のその姿は、ここにあるのではないだろうか。

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「去年やってよかったこと?そうだなぁ……『最後までやり通した』ってことかなぁ。」

昨年の映画で少年探偵DANを演じた清水くんに去年のことを聞いたらこんな返事が返ってきた。

そういえば、映画の中のセリフに『きみになら出来る』という言葉が出てきた。これは、麻和教諭が日頃から口にする言葉だそうだ。はじまれば、終わりがある。どんなに大変なことでも、はじめればきっと終わるときが来る。

その終わりをどんなふうに迎えるのかはそれぞれ違うだろう。けれど『きみになら出来る』という可能性を腹の底に据えた先生とそれを受けとめた生徒たち、そして見守る人々がやり終えた時に生み出したひとつの「成果」。

それは確実に何かを変えていく。新しい何かを生み出していく。
そしてそこに至る力は、「次の未来へ」向かう地盤となってどんどん拡がっていく。

麻和プロダクションpresents「スターダイバー」。
2月27日の上映会むけて、今、撮影は進んでいる。きっと今年度の観客にも彼らの創り上げるものが発する大きなエネルギーが伝わるに違いない。

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写真・文 駒村みどり

(付記)
今年の映画製作の模様は一年間を通してテレビ松本によって何回かにまとめられて放送されるようです。

この映画製作に当たっては、12月1日公開の超大作「SPACEBATTLESHIP ヤマト」の監督で松本市出身の山崎貴監督の応援をいただいています。今、ヤマト製作で大変多忙を極めているにもかかわらず、メールでアドバイスをくださっています。

昨年度の「少年探偵DAN」においては、多くの青春映画の監督をされた河崎義祐監督にもご指導をいただいています。

また、今回の映画の主人公、達家さんは「キンダーフィルムフェスティバル」の審査員としてこの夏、東京で活躍をしてきたそうです。

N-gene掲載当時にいただいたコメントもこちらに転載します。

コメント
ご報告です。
頑張って作ったネギのCMが、長野県知事賞を受賞しました。
みなさまの応援に感謝いたします。
(ほごしゃ①)
投稿者: M・Y | 2010年12月07日 10:22
>M・Yさま
県知事賞、おめでとうございます!
子どもたちはきっと、大喜びだったことでしょうね。
HPでCMを見させていただきましたが、すばらしい出来ですよね。わたしも、自分のHPでもご紹介させていただきました。
→http://komacafe.net/blog/archives/category/3-0/3-3/3-3-1
ほんとうにおめでとうございます。
今ごろは、映画の最後の仕上げで忙しいことでしょうが、2月の上映会を楽しみにしています。
お知らせありがとうございました。
投稿者: 駒村みどり | 2011年01月17日 22:40

生きるための力。生きるための学び。〜さくらびの挑戦<’10年8月掲載記事>

「今日これ使うグループは?」

美術教室の黒板の前で先生が手にしたのはデッキブラシ。受け取った女生徒はそれを嬉しそうに持って席に着く。大掃除の時間ではない、れっきとした美術の授業時間。

さらにビニールシート、梱包の保護材のプチプチ……次々に登場するモノはおよそ美術教室には縁がなさそうな素材ばかり。それらを手にした中学生たちは先生の指示を聞くとぱっとそれぞれの作業場所へと散っていった。

先生の名は、中平千尋。この美術教室で展開されているのは「さくらびアートプロジェクト」。「学校を美術館にしよう」をスローガンにかかげたこのアートプロジェクトの流れは今年で6年目を迎え、いま全国から熱く注目されつつある。

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机の上には、ウエディング情報誌。あこがれのドレスに身を包んで微笑むモデルさん。それを囲んで真剣に討論する女の子二人。写真の甘いムードと、それに向かうその表情の真剣さとは対照的だ。

そうかと思うと、その隣では同じく女の子二人組で趣ある古民家の写真集を拡げている。「教室に古民家の町並みを作りたい」というのがこの二人の想い。

古民家とアニメとのコラボを考える……何とも絶妙な取り合わせ。どんな町並みが出来るのだろう?信州大学の工学部の学生がそのイメージ実現の支援をする。
パソコンを開いて、ノートに書き込んで、実際に作って……各グループは自分たちのイメージを外部から来ている支援者と共にどんどん拡げている。

ベランダでなにやら写真を一生懸命に撮っているチーム。ここも女の子二人組。
「何撮っているの?」と聞くと「空の写真です。」との答え。

二人は海のない長野県に海を作っちゃおう、というグループ。小さいときに家の人と行った海。いいなぁ、あれ、教室に作れないかなぁ……そう思った二人が教室に海を再現するのにチャレンジ。空の写真は、その海の背景に使うのでとにかく青い空をいっぱいいいとこ撮りするのだそうだ。

「どんな海が出来るのかなぁ、楽しみだね。」と声をかけると恥ずかしそうに「はい!」と笑顔で答えてくれた。………良い表情だなぁ。

別教室では電動ドライバーの音。やや危なっかしい手つきだけど真剣に木の枠組みを作っている。長いねじなのでまっすぐに入っていかない。やり直し。今度はまっすぐしっかりとねじが食い込んでいく。

「教室の真ん中に、クジラのしっぽがどーんとあったらいいなと思って。」と水口くん。図書館で見たクジラ。これを作りたい。教室を深~い海の底にして………。その想いに共感した清野くんと組んだ男子二人組を応援するのは昨年に引き続き今年も支援者として参加の彫刻家の神林学氏。(神林学氏の作品は、ワイヤーワークなどで躍動感と生命力があると定評がある。小布施境内アートにも参加。 )

二人のイメージをもとになんと3メートルもあるクジラの実物大のしっぽが教室に登場するらしい。ダイナミックだ。聞いただけでワクワクする。

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「絵を描くなんてかったるい」「なんか創るのめんどくさい。」

学校の美術の授業でよく聞かれる生徒の声だ。何かを作ること、何かを表現すること、それはとにかく時間がかかる。自分の想いを表現するのには必死で考え、工夫することも必要だ。なんでもあって便利な世の中になって「考える」「工夫する」「自分で作り出す」必要もなくなってきた今、そういう機会は生活の場からは激減している。

子供のころから外で泥だらけになって遊ぶことやそういう場所も減り、汚いからと泥から遠ざけられ、土をこねる機会もない。泥遊びできる水たまりさえ排水溝の整備などで見あたらなくなった。

いい高校へ、いい大学へ。そのためにはいい成績を……。そういう「テストの点重視」の社会の流れの中、学校での限られた授業時間も次第に「受験教科」にかたむけられるようになってきて、結果、受験に関係ない美術、音楽、家庭科などはもう20年くらいも前から次第に削減される傾向にあった。

それは「ゆとり教育」がきちんと浸透しない中途半端な形で「失敗」と言われてからなおのこと加速化した。そして……もしかしたら数年後には「美術の時間」は学校から消えるかもしれない、という危機的な状態にある今。

「このままでいいのだろうか?これではまずい。」

その危機感をそのままにしておけずに自ら「危険」の鐘を鳴らし始めたのがこの授業を組んでいる中平千尋教諭だ。

彼は、長野県に美術教育を育て、確立させようと孤軍奮闘をはじめる。その試みのひとつが「Nアートプロジェクト」。“学校を美術館にしてしまおう”という大胆なスローガンをかかげ、独自の美術教育を展開し、さらに外部に向かって次々と発信をし続けているのだ。

中平千尋教諭履歴(NアートプロジェクトHPより抜粋)

 

武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、東京都内のデザイン会社勤務を経て、長野県内の養護学校や中学校を歴任。
2001年から千曲市立戸倉上山田中学校に勤務。2003年より学校を美術館に変身させる「戸倉上山田びじゅつ中学校(略称:とがびアートプロジェクト)」を始める。その後、2007年長野市立櫻ヶ岡中学校に転勤、2007年からは「ながのアートプロジェクト」を立ち上げ、長野県内の美術教育だけではなく、全国の美術教育を盛り上げるため活動中。

芸術には情熱が必要だ。表現し、伝える、そのためにはかなりのパワーと熱量がないとやって行かれない。ある意味それは「先生」という職業にも通じる部分がある。生徒という人間に学びの場で対し、「育てる」点で情熱が必要だ。芸術への想いと生徒への想い。その二つが重なり合い強い想いを持って教壇に立つ。

……中平教諭はそんな「熱い」芸術教師だ。

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「今の世の中、なんでもすぐに“答え”を求める。“答え”に結びつけたがる。だけれど、答えはすぐには見つかるものじゃないし、ひとつじゃない。それぞれの答えはそれぞれ自分で見つけるものですよね。」「美術では答えはひとつじゃない。自分の答えを自分で見つける。だから今、美術教育が必要なんです。」

今の世の中、今の子供たち。その現実を見つめたときに「美術教育の育むもの」の必要性を感じた中平教諭は、千曲市の戸倉上山田中学校在職中に「学校を美術館にしよう」というアートプロジェクト、“とがぴアートプロジェクト”を立ち上げ、展開をはじめる。(詳細はこちらから。「とがびプロジェクトの意義と展開」ほか)

しかし、そんな中平教諭の発信はなかなか受けとめられない。まずは学校。「外に向かう」事に対してものすごい抵抗がある。それから周りの教諭たち。毎日の細かい仕事に追われる中「余計な手間」に関わってはいられない。地域の文化施設。美術館からの発信もなかなかない。

美術に関わるべきものが、発信していない。必要な場所に必要なものが届かない。そういう矛盾の中、中平教諭は警鐘を鳴らすことと発信とをやめなかった。
選挙前の各政党に、美術教育や文化に対する質問状を送った。(2党は返答が帰ってこなかったが)それを校内に掲示して自らも候補者としての主張をかかげて校内で「選挙」を行った。生徒たちからは圧倒的な支持を得た。

当時の千曲市の教育長もとがびのプロジェクトに理解を示してくれた。しかしその発信を受けとめはじめたのは、残念ながら県内からではなかった。県外の学校からの視察が来る。文科省からも視察が来た。講演の依頼もある。
そして何よりも、生徒たちの姿が物語る。

「相談室登校の生徒がいるんですが、この時間だけは教室に来るんですよ。」

さくらびのプロジェクトでの1人の生徒の姿。あるグループに入って毎時間一生懸命取り組んでいる。他の時間には教室に顔を出せないのに、その時間はグループの中心になって活動する。周りの生徒もその思いをちゃんと受けとめる。

「今、学校の先生や親たち(社会)が、車の運転にたとえるとハンドルを握るところからブレーキもアクセルもすべてやってしまう状態。生徒は手が出せない。“いい子”はそれであきらめてしまう。」「だけど、美術は自分の想いの中で“徹底的にやる”事が出来る。やりたいことを徹底的にやる、ということが学校教育の中で出来るのが、美術の時間だと思うのです。」

子供たちはもともと無鉄砲だ。小さい頃は遊びの中で、大きくなったらこういう表現活動を通して「無茶」や「めちゃくちゃ」をやる。その中で「自分はここまでできる」「これだったら大丈夫」という「基準」を見つけ出す。そうして自分探しをしながら大人になっていく。

「それが“自立”だと思うんですよね。徹底的にやることで自分勝手なところから自分を知って周りの中でともに生きる術を身につける。それをぼくは“卒業”って表現しているんです。」

今までのアートプロジェクトの中でいくつもあった「卒業」の場面。そういう場面を通して生徒たちは本当の意味で生きる力をつけていく。そして、それが本来の学校教育の中でつけるべき力。本来の学校教育がめざすべきものであるはずだ………。

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「え~、せんせい音楽の先生なのに、さんすう出来るんだ!」

中平教諭と話しながら、かつて私自身が小学校の音楽教諭をしていた頃、低学年の子供にそう言われて愕然としたことを想い出した。もう15年も前のことだ。「おんがく」や「ずこう」は「勉強」ではない、そういう意識がこんなに小さい子供の中にもあることがショックだった。

自分自身、音楽や美術で育てられた感覚が「教科学習」に役立ったことは数知れない。

現在は中学生の家庭教師をしているが5教科の指導で子供たちを見ていると、数学や理科の文章題が解けない子は文章が読めない、わからない。読解力の不足と共に、問題を読んで頭の中にイメージがわかないから図や表でその現象を表現できない。表現力の欠如が原因だ。細かいところに注意する「観察力」も影響する。

読解力を助けるイメージ力や表現力などは音楽や美術で育つ力だ。また、表現の対象をじっと見て分析することで育つ観察力も、あきらめないで問題にじっくり取り組む集中力も、音楽や美術の表現を完成させようとする中で得られる力だ。

合唱や合奏で音を合わせて曲を練り上げる。共同製作で大きな作品を創り上げる。人と「力を合わせる」事の心地よさを感じ、自分1人では出来ないことも出来る可能性を感じる。そこで育つのは社会で生きていくために大切な「コミュニケーション力」。「創作」の課程や「表現の工夫」のなかで、人と関わり、自分にない価値観とぶつかり、それを取り込んだり折り合ったりしながら生まれてくる力だ。ひとり机に向かって黙々とやる「勉強」の中からは決して育たない。

逆に、音楽や美術をやっていく上で、国語や社会・英語、時に理科や数学の力が必要になることもある。教科を越えて「知識」というものは絡んでくる。このすべてをバランス良く獲得しようというのが「ゆとり教育」で詠われた「総合学習」の狙いだ。

けれど、点数ではかる「学力」重視の傾向がこの狙いを妨げた。いろいろな力は長い期間をかけて積み上げる中でつく力であり、最終的にはそれが学力に限らず「生きるために考える力」に結びついていく。けれど結果がすぐには出ないため、結果を急ぐ点数重視の社会は「ゆとりはダメだ」という世論を早くから展開し、それが総合学習の本来あるべき姿をどんどんゆがめていってしまった。

それでは、テストの点を重視したら学力はつくのか。

教えている中学生たちは一様に答案の点数の部分を折り返して隠す。点数を隠しても×のある答案は丸見えなのに。生徒には「点数」しか見えていない。50点なら50点。自分の力は「50点」。

まったくわからなくて出来ない問題が50点分の×なのか、それとも勘違いやちょっとしたミスでの×なのか。それを見ようともしない。そこで「どうして自分が50点?」と「考える」こともない。「悔しい」という気持ちさえもわいてこない。「なぜ、どうしてこの答えがこうなるのか」それを理解しただけで、子供たちはものすごく嬉しそうに微笑むのに。

音楽や美術で「出来る」「自分で満足する」までくり返し練習し、訓練し、その中で感じる出来ないときの悔しさや出来たときの感動も、「テスト」では関係ない。そうして子供たちは「点数基準」の判定になれ、自分の中に自分で基準を持てず、目標も持てず、◯か×かの2者択一の判断基準の中で良いか悪いかで生きていくしかない。

テストが出来る子は、頭がいい子。点が取れなかったらダメな子。

だけど、この先生きていくときに、◯か×かだけじゃない選択肢は山ほどある。50点の子が50点の生き方しかできないわけじゃない。100点の子よりも輝いて生きている人はいっぱいいる。

「生きる力」の評価基準は「子供たちの姿」だ。わかったときの笑顔、成し遂げたときの輝いた顔、その表情。生きるために本当に必要な力は「テストの点」では決してはかれない。

中平教諭の鳴らす警鐘は、これを如実に伝えている。子供たちの表情を見取って評価しながら、社会の一員として、この世に生きる者として、立って歩いていくために必要なものをちゃんと見きわめて与えていかなければ………と。

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「あのですね、今の世の中ちょっとリッチな気分になりたいですよね。だから、教室中をお金でいっぱいにするんですよ。」自らのデザインしたお金を誇らしげにかかげる大日向リーダー。男の子の5人組のチームは、机に向かってひたすらにお札のデザインをしていた。

壁一面・バスタブいっぱいのお札を作って、来た人に「リッチな気持ち」になってもらいたい。自分たちの夢のほかに「来てもらうお客さん」への想いが重なっている。教室いっぱいのお札を作るには、一体何枚製作するのだろう。ちょっと考えると途方もない。けれど生徒たちには迷いがない。真剣なその姿は、声をかけるのさえもとまどうほどだ。

不思議な世界を作りだそう……という目的の隣の男子4人チームは教室中にトンネルを造ろうと話し合う。話し合いの声に耳をかたむけてみる。

「不思議とかえ~っとかいう感じを出すには、ただトンネルあるだけじゃなくて“中をのぞく”事が出来たらいいね。」「そう、好奇心。何かあるんじゃないかなって感じ。」「どうせだったら理科室ぜ~んぶおおっちゃおうか。」「それは時間かかるねぇ、前日の準備大変だから、前日お泊まり会やるかぁ。」「合宿、合宿!」

話が弾む4人の男子と支援する信大教育学部美術科の二人の学生。学祭のノリだ。

さらに話は続く。「じゃぁ、トンネルの高さはどうしよう?」「そうだなぁ、しゃがむと腰が痛くなる人もいるから2メートル?」「いやぁ、教室だと192センチが限界だよなぁ。」

ああ、ここでも。自分たちの製作をお祭りのノリで楽しみながら、見てくれる人に思いやりを持ってトンネルの高さを考える心が育っている。自分たちだけが楽しめばいいのではない、だけど自分たちもちゃんと楽しんでいる。

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「美術の時間って、自分のやりたいことが出来る時間だから好きだった。」「作ることって楽しいし、考えることがいっぱいある。その中で人とのコミュニケーション力も育ってくる。」

この日の授業終了後、トンネルチームを支援している二人に話を聞いていたら、別のチームを支援している3人がそこに加わってきた。この5人は、信州大学教育学部の美術科の学生。善光寺門前の古い蔵を利用してギャラリーやワークショップを自主的に主催しているMINIKURAERT(ミニクラート) のメンバーだ。

「教育実習で中学生が、美術の時間をすごく嫌がる姿がショックだった。」「きっと、誉められたことないんだろうね。上手い下手、とか点数で評価されるのに慣れちゃってほんとの楽しさ感じる機会がなかったんだろうなぁ。」

自分たちは図工や美術の楽しさを知って、美術教師の資格をとる課程にいる。自分たちの生きる軸だった美術が学校の教育から消えてしまったら悲しいという。

彼らは中平教諭の持っている危機感に呼応するように今回協力者としてここに参加している。こういう世代が後に続き、次に繋ぐ活動をしている。こんな風にたくさんの協力者と、今年もさくらびアートプロジェクトは進行していく。

10月に向かって各自の夢が進行していくその中で、中平教諭の想いや生徒たちがどうなっていくのか、それはまだわからない。10月の発表を迎えたあとで、みんなの中にどんな想いが育ち、なにが生まれるのか。その表情や成果の中に中平教諭の美術指導の成果と真価が見えてくるはずだ。

今年、その10月までもうちょっとこのプロジェクトを追いかけてみようと思う。

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ながのアートプロジェクトHP

(写真・文: 駒村みどり)

菅平の光を取り戻せ〜プリンスの挑戦<’10年8月掲載記事>

風に乗って何やら派手な音楽が聞こえてきた。その音はこちらに向かってどんどん近づいて来る。やがて1台の送迎バスの姿。バスからはただならぬ音量で音楽があふれ出している。かなり離れているのに低音が下腹に響く。
あ。これが噂の「爆音バス」か………。それは想像以上の衝撃だった。

「爆音バス」と名づけられたのは、ラガーマンたちをグランドに送迎するためのバス。運転するのは「菅平プリンスホテル」の2代目大久保寿幸さん。送迎の道すがら音楽を大音量でかけて「激励」しているのだ。彼が「すがだいらぷりんす」というTwitter名でつぶやくのは兄貴のような温かいまなざしで見つめる、菅平を訪れるスポーツマンたちへの励ましの言葉。

そんな彼が今挑戦していること。それはある意味、菅平のみでなく信州の……あるいは、社会全体への大きな一石となるのかもしれないと思う。

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「菅平の爆音バス、って名物になるといいね。そう思ってやっているけど、周りとの関係もあってこれ以上はあまり派手には出来ないかなぁ。」
「いやすでに充分に派手だと思う……昔から変わってないよね、そういうところ。」

大久保さんの言葉に反応したのは今野さん。お二人は子供のころからずっと菅平で育ち、この地を見て感じてきた。

大久保寿幸さんは、7月はじめ菅平高原で行われた「セガレとセガレのBBQ」~様々な職種の「セガレ(2代目、3代目の跡継ぎたち)」たちの集まり~に菅平の観光ホテルの2代目として参加、そこで菅平の「これから」について語ってくれた。

それをBBQの記事に記述したところ、1人の女性がTwitterで声をかけてくれた。

【anuka_angela】 おはようございます! 私も菅平を故郷とするセガールです。友人が頑張ってるのを見ると嬉しくなりますね!素敵な記事にして読ませてくださって、ありがとうございます。

それがanuka_angelaこと今野真由美さんだった。菅平で育った彼女は長野を離れて大学進学し、卒業後長野県に教師として戻ってくる。けれど、教職のいろいろで体調を崩し退職、再び地元を離れ大学院に学ぶ。その後、結婚して今は菅平を遠く離れた秋田県で子育てしながらも故郷の菅平を想っている。

【anuka_angela】来月帰省しますよ。では菅平プリンスホテルで(笑)
【suga59】スゲー!つながってる!! 神様がくれた出会いだわ(^_^) 

……というわけで、今野さんのお盆帰省に合わせて菅平での「初対面」と大久保さんとの「取材再会」が成立した。

「小学校の時の担任の先生はめちゃくちゃだったよね。伊代ちゃんが大好きで、教室で毎日でっかい音で伊代ちゃんかけてた。」
「そうそう、カセットテープ二つ入れられるラジカセ買ってきて、それでみんな毎日聞いてたよな。『二つも入るなんて、なんか今までよりいい音する感じ?先生スゲー』なんて言ってたっけな。」

……もしかして、爆音バスのルーツはここにあるのだろうか?

2人は、幼稚園から中学校までずっと同級生だった。菅平には小中単級の学校がひとつあるだけ。だから同じ学年だと9年間は必然的に「同級生」になるわけだ。

「小学校の時には、山に入って遭難しそうになったこともあったよな。」
「最後は川に沿ってくだって、やっと出てこられたときに『あー良かった』って……。」
「先生自体が道わからなくなってたんだよな、あれって。」
「わたしたちの今ってあの先生の影響大きいのかもね。」
「あの先生好きだったよ。めちゃくちゃやったけどしめるところはしめてたよな。」

授業時間に山を歩き回る生徒と先生、めちゃくちゃだけど人間味あふれる先生、そんな先生の元で小学生時代を過ごして彼らの“今”がある。

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彼らが生まれ育った菅平高原は大笹街道が通り、太平洋と日本海を結ぶ重要な交通の拠点でもあった。江戸時代に本格的に始まった農地の開拓のため各地から移住してきた人々によって今の菅平がある。

夏のラグビーのメッカ。そのはじまりは法政大学のラグビー部を昭和6年に誘致してからのこと。一方、ウインターシーズンはスキーのコース数36、80年を超えるという規模・歴史的には申し分のないスキー場だ。けれど、その「申し分のないスキー場」「夏のスポーツのメッカ」である菅平が抱える問題はとても大きい。

たとえば菅平まで30分というところに住んでいる私が「スキーに行く」とき菅平は視野には入らない。私の関東・関西のスキー仲間も同じ。彼らは「長野でスキー」といえば白馬・志賀高原・野沢温泉。それはなぜか。

かつて、菅平に隣接する須坂市の野球少年たちが菅平でスキー合宿をした時、私は請われて指導者として参加したことがある。

野球少年とはいえ、3~4年の子達はまだスキーが上手くないので初心者コースを利用するのだが、リフト1本分しかない短さなのであっという間に滑り降りてしまう。
あきてしまって別のコースに移動するとゲレンデの連絡がとても悪く、子供たちはスキーで「歩く」のが大変。ようやく別のコースに出たらそこもまた短くあっという間に終了。ちょっと滑れるようになった子供には物足りない。初心者には移動が辛い。

せっかくたくさんのコースを抱えているのに、なんでもっと連絡良くしないんだろう?志賀高原の方がもっと広範囲に拡がっているけれど、「全リフト制覇特典」のように楽しみがあるから移動が気にならないのに比べ、菅平の一体感のなさってなんだろう?

「これだけのスペースに6つもの会社が入っていて……みんなそれぞれバラバラなんだよな……。」……と大久保さん。

あの時「菅平っていいな」にならなかったその理由が、その大久保さんのひとことでやっとわかった。そしてそれは、スキーの話に限らない。夏のスポーツでも同じようなことが起きていた。

菅平の「グランドマップ」(写真はその一部分)。夏のシーズン、スポーツ観戦に訪れる人のためのものだけど、菅平の「観光地図」として使われることも多い。

この地図を見るとグランドには番号がふってあって、それぞれが「どの宿泊施設のものか」わかるようになっている。ほぼ真ん中に1のグランド、そのあと2は?3は?と番号で追っていこうとすると2は見つかるけど3はそばにない。1の周りに60台、70台の番号が並ぶ。色分けされているけれど、その意味もよくわからない。

「これね、番号は『グランドの出来た順番』になっているんですよ。」と大久保さん。

「おまけにこの地図、グランド持っている宿泊施設しか載ってない。そこに泊まる選手は宿泊施設がバスで送迎するから地図は要らない。これ使うのは試合を見に来る親御さんや外部の人達で、必ずしもここに載っている宿に泊まるわけじゃない。番号の不規則さ、目印のなさ。使う人にとってとても見にくいものになっているんです。」

確かにそうだ。私も菅平はよく通るので道は知っている方だけれど、この地図もらったときに目印を捜してしばらく考え込んだ。ましてやまったく土地勘のない人にはすごくわかりづらいものだ。

「この地図のこと、いつも言っているんだけどね。作っている人間は“自分たちはわかっているから大丈夫”と言ってこれがなかなか改善されなくて。」

……だけど、菅平って「開拓者」が入ってきて出来た土地ですよね?伝統とか歴史とかにはあまりこだわりがなさそうな気がするんだけど?

「元々あちこちからの開拓組が集まって出来た土地なんだけど、『自分たちが切り開いてきたんだ』という自負というか、誇りというか、そういうものすごく強いものがあるんです。バブル期にうまくいっていたので自分たちの親世代には特にそれが強い。菅平を離れるとそれがよく見えます。」と今野さん。

大久保さんや今野さんの視点は外から菅平を訪れる人達のもの。けれど、菅平で人を迎える立場の多くの人が「自分たちにはわかっているからいい」という視点であちこちを考えていたら……私のように30分という至近距離にいながら「スキーは菅平」にならないのだから、遠くからわざわざ訪れる人にとったらなおのことだろう。

そうでなくても、今、スキー産業は落ち込み続けている。かつてバブルの頃、都会からスキーに殺到してリフト待ちが1時間2時間だったあの時代はもう過去のこと。

「菅平は、まだ夏のスポーツがあるから落ち込みがひどくない。でも、今この時に何とかしなかったら……春や秋、そこも視野に入れた菅平を考えなかったら手遅れになる。」という大久保さんの懸念は強くなるばかりだ。

しかし……「かつての華やかな頃」を知る親世代と、「未来に危機感を持つ」子世代との意識の差は……簡単には埋められない。

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「日本に『国技』ってあるでしょ?あれと同じように菅平の学校には『校技』ってのがある。スキーがそれ。」と大久保さん。

子供のころから当然のようにスキー。選手も大勢輩出したろうし、今の菅平にいるスキーの指導員は地元の人間が大多数。

「だけど私はスキーは大嫌い。なんでこんなことしなくちゃいけないかってずっと思ってたし、すごくいやだった。」と今野さん。

スキーは中学の部活にも大きな影響を持っていた。ゲレンデに雪のないシーズンは男子はサッカー、女子はバスケ。シーズンになると全員が「スキー部員」になる。
本来、一般の中学生は部活を「選択」して入部する。スポーツが好きな子だけじゃない。音楽や美術をめざしたい子もいるだろう。今野さんのように「スキー嫌い」という子もいるだろう。しかし菅平の中学生はみんな一緒。「それが常識」だった。

さらに数年前のこと。部活を一年中「スキーに統一する」という通達が学校から家庭にあった。これに対して、PTAからはいろいろな声が上がった。大久保さんもOBとして、PTAとして、声を上げた。

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思い起こせば、自分が生徒だった頃は「何のために勉強をするのか?」「何のためにスキーをするのか?」を自間自答しながら、自分が生まれる以前から始まっていた校技スキーの意義・概念を理解できないまま、受け入れる事ができないままに、ただ何となく活動に取り組んでいたように思います。(中略)

今回の中学生夏部活の件において、子供たちを取り巻く状況を一変させてしまったスキー活動の運営方針については、校技スキーの行く末を憂慮せざるを得ません。このような現状が、校枝スキーを「負の連鎖」に導くのではないかと危惧してならないのです。

現在の子供たちに対する教育・指導の内容は、次の世代の未来を創り、さらに、この世代の子供たちが親になって、そのまた次の世代を育ててゆきます。「教育は国家百年の計」と言われる所以です。

今回の件で、勇気を持って主張した生徒の意見が却下され、「大人に何を言つても無駄」と言葉を飲み込んでいる子供達が多数存在しています。意志が尊重されず、校技スキー活動に疑間を感じながら取り組まざるを得ない現在の生徒達が、菅平・峰の原の親となった時に『負の連鎖』が具現化され、校技スキーは衰退の一途を辿るのではないでしょうか。      (大久保さんのPTA文集原稿「思うこと」より抜粋)

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結局、通年スキー部はなくなったが、今まで秋までやっていたサッカーとバスケは春の地区大会までになり、その後夏からスキーシーズンの間は全員スキー部に……という「改変」が実施された。

けれど……。子供たちの夢は、スキーだけで実現するものじゃない。たとえ1人でもボールが蹴りたい子がいたらサッカーの機会を与えたい。速い球を投げられる子がいたら、甲子園夢見るかもしれない………。

実際、当時の中学生にはものすごく速い球を投げる生徒がいたし、サッカーの上手な女の子もいた。本来だったら「やりたいこと」の機会を与えるのは学校。けれど、菅平の学校でそれはかなわない。大久保さんは「菅平の子供の未来」を考えてひとつの行動を起こした。

サッカー少女と野球少年。2人のために「大人」を集めて一緒にゲームをする環境を作った。「菅平野球軍」「フリースタイルフットボールおしゃれ組」……そして、それらのために補助金をとり、菅平高原を拠点にしたスポーツクラブ設立をめざした。

メンバー集めから難航。地元の協力はなかなか得られない。スキーを推進する人達からは歓迎されない。体育協会への報告書作成もお役所仕事に翻弄される。
が、「地元の子供たちのために」という思いに突き動かされて活動は3年目に入った。

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「菅平は、夏、スポーツの選手が集まってきている。けれど昔に比べてスポーツマンの質も変化していて。」

「夏の菅平」も今の菅平を支えているのは確かな事実だ。しかし、そこにもただ喜んでばかりいられない「現実」がある。
かつてのようにスポーツの技術と同時に先輩後輩の関係から人やものに対しての「精神性」を育成されたスポーツマンばかりではなくなった。菅平のメイン通りだけでなく、グランドや宿のそばの細い道までも拡がって歩く。近くの畑の農家の人々がトラクターで通りかかろうとお構いなしに。当然、メインストリートでも車は大渋滞。

「家の近くで夜遅くまで、大声で騒いでいる人も多いですよ。狭い道なのに、そして農家は朝早いから夜は早く休まなくちゃいけないのに、その騒ぎで寝られないこともあります。」「そういう人達がいるから子供のころは夕方になると道を歩くのがこわかった。」と、実家が農業を営む今野さん。

「そう、菅平を支えているのは観光だけじゃない。農家の人達だって大切な存在。だけど、夏の誘客を考えたときにスポーツマンが来てくれることも必要。観光と農業の関係性がとても難しい………。」大久保さんがそれに言葉を添える。

「菅平の農家は冬はゲレンデの食堂などで稼いでいるんだけど、スキーが落ち込んだら夏に頑張るしかない。夏、農業で稼げなかったら冬の食堂の設備投資のための借金返せないし………。」今野さんが語る菅平の農業の問題点は深刻だ。

菅平の抱えている課題は大きい。「冬」と「夏」のあり方、「農業」と「観光」のあり方、「親世代」と「子世代」の感覚の違い………。そしてさらに、それぞれの思惑や願いが渦巻く中、そのバランスを考えた上での「菅平」のこれから。

けれど、それらのひとつひとつを見ていくと、これは菅平だけの課題ではないように思える。たとえば、「町並みづくり」「学校教育」「地域おこし」そして「社会のあり方」……。今までの伝統と新しいものとのバランスや融合、様々な立場の人達がそれぞれに主張するものをどうまとめていくのか。

今の社会全体が抱えている、様々な問題の根っこにあるものが、この「菅平高原」のあり方に凝縮されているように思う。

この日。あっという間に時間はすぎ、それぞれの場所に戻ってお互いに尽きない想いをTwitterでつぶやき合った。
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【anuka_angela】駒村さん(@komacafe)と、旧友菅平プリンス(@suga59)と会った!すごいエネルギーをもらって帰ってきた。異業種間交流はすっごく楽しかった。
【anuka_angela】……で思ったのは、儲けることは決して悪いことではないんだが、もう個々の利潤だけ追求してても発展はないってこと。全体の発展を考えて初めて、個々が潤う時代だな。
【suga59】このような情報交換が菅平内で出来れば面白いんだけどね~
【komacafe】「全体最適」の考え方。社会全体で考えていくべき問題なんですよね。
【suga59】そう!ウチのホテルだけ生き残っても、他が淘汰されれば菅平の集客力が落ちるってことだし、そうなればリフト会社の経営がより厳しくなるし、リフトが動かなくなったら菅平は壊滅する
【komacafe】それをみんなで考えるようになるためにはどうしたらいいのかなぁ。
【suga59】うーん、今は、いろんな活動を通して活躍することでミンナに認めてもらって、賛同者を増やして…と考えています(´∀`)そのためには稼業を揺るぎないものにしなければいけませんね!
【komacafe】私はそういう人を見つけて繋げて、拡げるお手伝いを……それぞれが出来ることをするってことかな。
【suga59】いろいろ教えてください!!ミンナが笑えるように
【komacafe】合言葉は「ミンナの笑顔」。
【anuka_angela】「最大多数の最大幸福」、社会全体の課題だよね。良いモノやサービスを提供するのは大事なこと。例えばホテルが良くても、スキー場のサービスが悪ければお客様は来ない。夏も同じ。みんなで協力することが不可欠だよなー。

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この話には「結論」はないし、まだ先も見えない。けれどこれは菅平の中で、そしてもっと言うと社会全体至るところでこの先「尽きることなく」討論されていくべきなのだろうと思う。「今」から生まれる「明日」のために………。

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観光(かんこう)とは、一般には、楽しみを目的とする旅行のことを指す。語源は『易経』の、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節による。「tourism」の訳語として用いられるようになった。(ウィキペディアより)

「国の光を観る」ということは、「その国の王の立派な人徳と、その王による国民の教化の美しさをみる」(これが、観光の意味)ということであり、「用て王に賓たるに利し」とは、「それだけの知力を持った人物であればこそ、王の賓客として遇せられる臣となることができる」(これが、観光の目的)ということ。

つまりは、その地にある光を見、その地の人々の徳に触れ、それによってその人も学ぶ。土地ばかりでなくそこの人々もまた「光」であるべきで、訪れたものが「また来たい」と思うような経験をそこですること。それが本来の「観光」だ。

最初に登場した「爆音バス」は、大久保さんが放つ光のひとつ。

【suga59】バスでAKB流してたら、違うグランドに送ってしまい、選手達はそこから走って移動しました…。しかしラガーマンは「いいアップになりました!!」と言ってくれた

大久保さんのツイッターにはこんな風に爆音バスで送迎したラガーマンたちの姿が登場する。彼らにはきっと、違ったグランドから走って移動することさえもいい「思い出」となったに違いない。爆音バスを知る人に聞くと、大久保さんはバスの子達だけでなく、信号待ちの時にもバスのドアを開けて道ばたのスポーツマンたちにも声をかけ続けているという。

「AKBで爆音バス楽しかった\(^^)/帰りのテンションなら最高に楽しいですww」

これはそんなラガーマンのつぶやきのひとつ。彼にとっても大久保さんの「おもてなし」は心から嬉しく楽しい思い出のひとつに刻まれたのだろう。→ 爆音バスの様子(Youtube)*ボリュームにご注意

帰るとき、ホテル前のベンチに3人のラガーマンが座っていた。日に焼けてたくましい筋肉を持つその青年たちは、私たちが前を通るとさっと立って「こんにちは!」と笑顔で挨拶してくれた。

「この子たちは今年の優勝候補だよ、強いんだよほんとに。」

そういって3人を紹介する大久保さんは、自分のことのように嬉しそうだった。

夏の合宿、冬のスキー修学旅行……「すがだいらぷりんす」に出会った人達は、ここに菅平の「光」を見、そしていつかまたきっとこの地を訪れて大久保アニキと語り合いたい……と思うに違いない。

菅平に生まれ、菅平に育った「すがだいらぷりんす」の想いはこの地を訪れる人達に菅平の光を届けること。そのためにはまず自分が光となり、輝いてちゃんと人を照らせるようになること。その光を菅平のみんなと共有し、「みんなの笑顔」があふれる事。

まだまだ越えなければならない山はたくさんある。 “プリンスの挑戦”はまだまだこれからも続いていく。「できるひと」が「できること」を。みんなのために力出し合う菅平をめざしてその輪を少しずつ拡げながら。

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菅平プリンスホテル→HP

写真・文 駒村みどり

伝える者と受け継ぐ者と~中沢小の炭焼き行事【’11年5月掲載記事】

「別に楽しみじゃないよ。大変だし。だけど嫌いじゃないし、無くなるときっと寂しいと思う。」
そう答えてくれたのは、6年生の男の子。
「う~ん、そう、大変。楽しいってわけじゃない。」
列の先頭で下級生の班長として並んでいた女の子もこう答える。

ここは、駒ヶ根市立中沢小学校。5月16日、朝から全校が校庭の隅に作られた立派な炭焼き窯のまわりに集まって、年間の恒例行事となっている「炭焼き」に取り組んでいた。作業中結構楽しそうに見えたので、「炭焼きの行事、楽しみだった?」と発したその問いに対しての子ども達の答えは「楽しみじゃない」だった。普通「楽しい!」という答えを期待する。だけど、どの子も取材むけに理想の答えをしてくれない。何でだろう?

その答えは、取材を進めていくうちに見つかってきた……。

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「いやぁ、来たかね。来るかどうか心配してたんだよ。」

そう言って、子ども達の炭焼きの指示を出しながらこちらに笑顔を向けてくれたのは、4月に「平成の花咲おじいさん」の記事に登場した宮下秀春さん。そこでも紹介した宮下さんの多彩な顔の一つに「炭焼き指導員」があります。朝から全校の炭焼きの指導にあたっているのです。

駒ヶ根市中沢地区は、かつてはナラの木に覆われた山あいの村でした。この中沢地区を支えていたのが養蚕と林業。その地区にある130年の歴史を持つ中沢小学校の校歌(大正5年制定)にも「かまどのけぶり豊かにて」と歌われているように特に林業で古くから炭焼きの技術が発達し、かつて炭が熱源として大いに活用されていた時代に良質の炭を産出し、地元を潤していました。

「車も炭で走っていたんだよ。木炭自動車って言ってね、炭を細かくしたものを使ったんだ。」
「だけど炭が使われなくなって、炭焼きのものがどんどんいなくなって。炭の材料になるナラの木も植林でどんどん杉の林に取って代わって、今では手に入りにくくなったよ。」

そう言いながら宮下さんが見回すまわりの山々一帯は「常緑樹」を植林され黒に近い緑色をしていました。けれど分杭峠に続く奥の方を見ると遠くの山肌には新緑のみずみずしい若葉色が……。「私にはよくわからないんですが、たぶん向こうのいろいろな緑のある方が元々のこの地区の森の様子だったんでしょうね。」と、橋枝教頭先生が教えてくださいました。

「特色ある学校を作りたいのだけれど、炭焼きを子ども達に教えてくれませんか。」
平成3年3月、炭焼きの煙や炭焼き窯が地域から次第に姿を消す中、炭焼きを続けていた宮下さんのもとに当時の中沢小学校のPTA会長さんがやって来たそうです。その声をきっかけにして平成4年に体育館の裏手に炭焼き窯を作り、毎年子ども達が炭焼きに取り組むようになりました。

平成17年には宮下さんの指導とPTAの皆さんの作業によって新たに「これはあと、30年は使えるよ」と宮下さんの保証付きの大きく立派な炭焼き窯が誕生。そうして積み重ねてきた中沢小学校の炭焼きの歴史は、今年でなんと19年になるのです。

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「はい、重たいからね!気をつけて持ってね!」

炭焼きはまず、炭になる材料のナラの薪を窯にまんべんなく詰め込むところから始まります。
見るからにずっしりとした大きな薪。それを縦割りのグループで運びます。

中沢小学校に通うのは1年から6年までの約120名(各学年20名前後の単級)と、伊那養護学校の分教室のおともだち。その子ども達がみんな混ざった縦割り班で行動します。ですから薪運びも小さな薪は1人ずつ、大きな薪は大きな子と小さな子が組になり、お互いの力加減を工夫しながら協力しての作業。みんなが一緒になって窯に隙間なく薪を詰めていきます。

やがて、全校の協力で薪がすべて詰め込まれると、今度は入り口にみんなでレンガを運んで積み上げ、さらに土を詰め順番に木で押さえて厳重に密閉して準備が完了。今度は「火付け係」の6年生が2人、竈の方から火をつけます。火が勢いよく燃えはじめると全校からわぁっと歓声が上がり、思わず拍手をする子どももいます。

勢いよくもうもうと黒い煙が立ちこめあたりは煙で霞む中、この日の全校の生徒の仕事はここまでで、みんなは宮下さんにお礼をいって教室に戻っていきました。

けれど、宮下さんと学校の職員はまだその場に残って「ここから」の打合せ。いい炭に焼き上げるためにはここからの温度管理や観察が大切。宮下さんの指示と説明を先生方が真剣な表情で受けとめていたのが印象的でした。

「炭が焼き上がるのはいつですか?」そう宮下さんにお聞きすると、「いやぁ、いつとは言えないよ」との答え。

ここからの気温、天気、火の燃え方。そういういろいろな状態をずっと観察し続けて、最後は「今だ」という状態を見極めるのは長年の経験と感覚なのだそうです。およそこのくらい、とは予想はしても予想通りに行くとは限らない。だから、この先一週間ほどは毎日何回もここにやってきて様子を見て、「窯と相談しながら」焼き上がりを決めるとのこと。窯の入口は厳重に密閉されて中は見えません。見えない中の様子を様々な状況から予測して判断するしかないのです。

「煙が出なくなったら炭化終了だけどね、火を止めるタイミングが難しいんだよ。ここで焦ってのぞいちゃったりしてちょっかい出すといい炭ができないんだ。」

宮下さんが眼を細めながら話すその言葉を聞いて、炭焼きと人を育てることとはなんだかちょっと似ているかもしれないなぁ……と感じました。

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生徒たちの作業の合間に、長嶋校長先生が「炭の展示コーナー」を案内して下さいました。

このコーナーは児童玄関を入った正面の壁の真ん中にあります。学校に来てまず最初に目に入るところにきれいに展示された炭焼きの活動の様子と、できた炭で作られた製品。いかにこの学校で「炭焼き活動」が大切にされ、学校の中に位置付いているかが感じられます。

中沢小学校では、一年生から六年生までが全校で取り組む活動の他に、この「炭焼き」を柱に据えた学年ごとの活動もしています。出来上がった炭を使ってバーベキューをしたり、炭を販売して収益で本を購入したり。窯を使う炭焼きの他に、ドラム缶やオイル缶を使った炭焼きもします。

炭に使うナラの木は、ここ数年はここから分杭峠につながる道の途中にある「大曽倉の市有林」から切りだしたナラの木を使っています。切り出しでは毎年6年生も作業の手伝いをします。「倒れるぞ!」という呼びかけと共に大きな木がどさっと切り倒される様を、6年生は皆で見るのです。その切り倒された木が薪になって炭になる。こうして炭ができるその行程のすべてと、その炭の活用まで含めて6年生までのうちに子ども達は皆経験するのです。

「子ども達は、毎年やっているので中には煙の匂いとか加減で火の様子などを感じとる子ども達も出てきているんですよ。」

作業中の何人かの先生方の言葉にもあるように、子ども達はただ炭を柱にした活動をこなすだけではなく、宮下さんの炭焼き職人としての熟練した感覚までも受け継いできているのかもしれません。それはとても貴重なもの。マニュアルに書けるものではなく、マニュアルを読んでわかるものでもありません。長い年月経験を積まなければ生まれない貴重な技なのです。

「……ですけれど……。」

来年、20年目の節目をきっかけに、宮下さんは炭焼き指導から引退することになっているそうです。中沢の里で唯一炭焼きの技術を今につないでいる宮下さんの引退は中沢小学校にとって大きな転換でしょう。後継者のいない炭焼き窯の火をどう受け継いでいくのか……。

実は、今回の炭焼きに宮下さんの横でずっと一緒に作業をしていた方がいます。中沢地区で喫茶店を経営している岡庭さんです。宮下さんの後継者としてこの炭焼きの指導に当たることになっているとのこと。岡庭さんご自身は炭焼きの経験は無いけれど子供のころにおじいさんが炭焼きをしているのを見て育っていて、宮下さんから話があったときに「炭焼きの活動を絶やしたくない」とあとを引き受ける決意をされたそうです。

どうやら中沢の炭焼きの煙は、「30年は大丈夫」な炭焼き窯と共にまだまだ受け継がれていくことになるようです。

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「面白くはないけど、でもつまらなくはないよ。」

「別に楽しみじゃない」と答えたあとで、ふみきくんはこう言葉を続けました。彼は窯に火を入れた「火つけ係」2人のうちの1人です。
「火をつけるのは怖くない?マッチするのも大丈夫?」ときくと「1年の頃から炭でバーベキューやってたりしたから別に大丈夫。」と答えてくれました。

今は、ボタン一つ押せばすぐに火がつく時代。学校の理科や家庭科の時間、またキャンプの飯盒炊さんの時などにマッチをすれない子ども達が当たり前になってきています。けれど中沢小の子ども達は一年生から炭焼きとそれを柱にした活動をしてくる中で、ちゃんと火のつけ方も扱い方も身につけているのです。

この記事の冒頭に書いたように、「楽しみじゃない」「面白くない」という言葉を最初は意外に思った私でしたが、しかしそれはどうやら「炭焼きの否定」の意味ではなかったのです。

この学校の子ども達にとっては、炭焼きは「行事」じゃない、「日常生活」なんだ、ということ。炭と、炭焼きを柱にして人がちゃんとそこに生活を成り立たせているのです。日常と切り離された遠足や運動会のように、年に一度のお楽しみとして指折り数える行事ではなく、自分たちの生活を成り立たせる一場面。だから面白くはないけどつまらなくもなく、楽しみではないけどなくなると寂しい………。

竈から上がる煙と燃えさかる火を見守る人たちの想いや、木を切り倒す音、薪の匂い、炭の感触などとともに、それは子ども達の生活の場面として染みこんでいるのだろうとおもいました。

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「炭をもっと見直して山も元気にしなくてはね。」

一旦家に戻ってまた来るから、と別れを告げる宮下さんがつぶやいた言葉です。

長野県はかつて豊かな山と共にあり、山の幸を得て人びとは生活していました。林業で山を整え、炭を焼き、エネルギー資源として大きな需要を持っていた炭で潤っていた時代。しかし石油に頼るようになって炭は廃れ、山は荒れ、手を入れる者が減り、ナラの木の森は植林によって次第に針葉樹林に変化していきました。今は炭の材料になるナラの木を手に入れるのもなかなか思うにまかせません。

一度使わなくなった炭焼き窯は、復活させるのにはものすごく大変なのだそうです。それは炭焼きの技術も同じ。木も、山も。そして人も……みんな同じ事が言えるのではないでしょうか。

炭焼きの技術とそれを伝える者があり、それを受け継ごうとする者がいて。そこにある人の想いを感じとって受け止める子ども達がいて。そうしてこの中沢小学校の炭焼き窯はこれからも毎年こうしてもくもくと元気な煙を吐いて炭を焼き上げ続ける。

沢山の人たちに見守られながら行われる炭焼きは、同時にこの中沢地区に学ぶ子ども達の心もまた豊かに育んでいるのだ……ということを強く感じた一日でした。

駒ヶ根市立中沢小学校
〒399-4231 長野県駒ヶ根市中沢4036

ちりも積もれば宝になる〜まちとしょテラソ1周年<’10年7月掲載>

玄関で手作りのくす玉が、ひらひらと朴訥に祝いの言葉で歓迎してくれた。

「祝 まちとしょテラソ開館1周年」

小布施の町立図書館まちとしょテラソが今月7月で開館して1周年を迎えた。3日間開館記念行事が行われ、そのフィナーレが19日のシンポジウム。
タイトルは「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」。
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この日も一般の人々がたくさん勉強したり本を読んだりしている。ここはいつ来ても活気がある。シンポジウム会場はそんなテラソの東の一画。七夕ムードに飾られた館内にふさわしく、浴衣での受付は情緒たっぷり涼の演出。

正面には大きなモニター、サイドに記録用のビデオカメラが配置され、さながらテレビスタジオのような趣。図書館利用の子供が周りを興味深そうにぐるぐる回っている。
日常の図書館の光景に加わったお祭りのワクワク感とちょっとした緊張感。夏の日差しが大きな窓から差し込んでいる中、シンポジウムが始まった。

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「この写真は大正15年の小布施の町の真ん中を走る道の写真です。」
シンポジウムの冒頭に挨拶に立った小布施町の町長、市村良三氏の言葉と共に提示されたのは印刷された白黒の写真。

シンポジウムのテーマが「デジタル」なのに初っ端の極端なアナログ資料の提示に驚く。しかし、シンポジウムのサブタイトルを見るとその意図が伝わってきた。

「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~

市村氏は、こういう古い資料が雄弁に物語ることを未来に繋げることの重要性を語る。つまり「未来に向かう社会」がよりよくあるための過去と未来のかけはしがデジタルアーカイブだと。ここでシンポジウムのテーマとサブタイトルの意味がしっかり絡まり合ってつながった。

続く、国立情報学研究所 丸川雄三氏による基調講演。

「たとえば、このまちとしょテラソは何となく本を読みたくなるような図書館。その何かしたくなる、というのが大切。あるだけで何かしたくなる、そんな風に“文化”を発信していくことで何かが生まれる土壌になる。」

そう話しながら大きなディスプレイに触れる。サムネイルの風景画が一気に全画面表示になり、さらに部分拡大も。トラの画像を拡大すると今にも食いつきそうな迫力に。

確かにこれは、いじりたくなる。

こういう作品は美術館で実物を見るか、美術全集のようなもので写真で見るしかない。が、ガラスケースやフェンスに囲まれた本物には近づくことが出来ず、美術全集では写真の画像の細部の陰影はつぶれてしまう。けれど、デジタルの映像はあざやかで、拡大しても細部までくっきり見ることが出来る。様々に作品を“いじって”いるうちに、いろんな“発見”もありそうだ。

「何かが生まれる土壌になる」……なるほど、確かにうなずける。

丸川氏は文化財をデジタルデータ化し、たくさんの人達がいろいろな形で活用できるよう研究を進めている。これをデジタルアーカイブと呼ぶのだが、「これは、記録のデジタル化と言うよりは、“電子記憶”と呼んだ方が適切」という。

単なる記録ではない、単純に文化財をコピーするだけでもない。そこに“情報”を加えて一緒にデータ化することでコピー(記録)ではなく文化的な財産として価値をもったひとつの新たなデータ(記憶)になる。「人の手による作業」というアナログ的なものが加わり、埋もれていた文化財が生き生きとよみがえる、それがデジタルアーカイブだ。

こうしてよみがえった記憶を活用しやすいようにデータベース(目録)を作り、そこではじめて、人々はこの新たな記憶を「コンテンツ(記事)」として活用できるようになる。誰もがわかりやすく簡単に記憶をたぐり寄せることが可能になる。

たとえば、ジンボウナビ。古本屋の町、神保町のガイドがタッチパネルで自由に呼び出せる。絵引きギャラリー。画面に並んだたくさんの画像から興味のある文化財にタッチしてその詳細を知ることが出来る。そしてさらに、まちとしょテラソにも備えてある“連想検索”「想-IMAGINE」。キーワードをもとに関係図書・情報を探すことが出来るシステムだ。

さらにコンテンツをもとに新たなテーマでまた別のコンテンツを組み上げる。それを「メタコンテンツ」という。その例として丸川氏が見せてくれたのは「葛飾北斎」というキーワードから情報を集めた「連想新聞」だった。メタコンテンツと聞いてもピンと来なかったのだけれど、「連想新聞」の話を聞いて思いだしたことがある。

わたしは教員時代、中3生の修学旅行の「栞」を作るときに生徒とこれをやっていた。目的地は京都・大阪。金閣寺・清水寺、USJ・海遊館……。1人1カ所を担当した生徒たちはPCでそれを調べ上げ、他の生徒がそこで何をどんなふうに見たらいいのかのガイドを創った。

USJではどんなアトラクションがあって、どこにどんなおみやげがいくら位で売っているか。金閣寺は誰がどんな時代になんのために建てて、どこが写真スポットで……などなど。まだPCの扱いにも慣れない生徒たちが、自分の行きたい場所のガイドを作るうちに思いもかけないデータを集め、それをコピペし自分たちで見出しや解説をつけながら創り上げた自分たちのためのガイドブック。

わたしは見ていてその発想の豊かさや、視点の面白さに感心した。教師が教えるという観点で作る栞はそれなりに意味がある。だけど、生徒たちが自分で行きたい場所を人に伝えたいという想いから創り上げたそれは、荒削りだけど「伝わる」「わかる」という点ですばらしいものだった。

「メタコンテンツ作りは、必ずしも専門知識が必要ではありません。」

丸川氏のその言葉に、わたしは大きく心の中で同意した。市販のガイドブックやテレビの情報から選んだ目的地について生徒たちはほとんど何も知らない。だから一生懸命に調べる。わからない、知らないからこそ掘り下げる視点は目新しい。そこから「生まれる」新しい発見・認識や価値観。

まさに、過去の財産を今によみがえらせ、未来に繋げるかけ橋。今を生きる子供たちが、過去に学んで新しい価値観を想像するためには大きな力となるはずだ。

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「今日の講演、学校の先生は聴きに来ているのでしょうか?」

丸川氏の基調講演で,このテーマは学校現場にもものすごく必要なものであることを感じたわたしは、講演後の休憩時に花井館長をつかまえて質問した。

授業で教え込まれることの多い「学校」の中で、自ら学んでつかむための大きなヒントがここにある。おまけにこのまちとしょテラソは小学校に隣接している。これだけハードもソフトも充実し,それを使いこなす人がいるすばらしい施設を活用しない手はないし、今日の講演も先生たちが聞いたら、絶対に現場で役に立つ。

だけど、答えは残念ながら「NO」だった。まちとしょテラソが今回のサブテーマにかかげている「100年後の小布施人へ伝えるもの」……その100年後の小布施人に繋げていくのは、まぎれもなくこの小布施町の子供たちなのに………。その子供たちを実際に学校で育てる者が誰も来ていない……。

それは、ものすごく残念でもったいないことだ。こんな風にどんどん発信しているパワーあふれるスポットが近くにあるのに。「外に飛び出す図書館」がある町で学校はいまだに外と繋がろうとはしていない。せっかくの発信も受けとめるべきところが受けとめないと繋がってはいかない。

それは、ここ小布施に限ったことではないと思う。いや、小布施でさえもまだ難しい課題なのだとしたら……まだまだ、「未来を作る子供たち」に過去の財産を繋げていくのは難しいことなんだなぁ……と、ものすごく残念に思った。

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休憩後、「小布施百人選」の紹介が花井館長から、小布施の町内旧家文書デジタルアーカイブ実例集が小布施史料調査会の小山洋史氏から、「小布施ちずぶらり」について開発者の高橋徹氏から、「鴻山文庫」デジタルアーカイブの紹介が国立情報研究所の中村佳史氏から発表された。ここではその概要を掲載する。

小布施百人選:小布施町を作った人々を100人選定。町づくりの想いと知恵を本人が語ったものを映像と書物にて「人物史」としてアーカイブ化。先人から学び、今を生き抜く羅針盤の役目を果たすものとして,また未来へのタイムカプセルとして考えていく。……100年後にはすべてが大切な宝物となるはず。 (花井館長)

町内旧家文庫:小布施町の旧家に眠る資料を集めてデジタルアーカイブ化。横浜国大の協力を得て、検索システムを整備。調査しているうちに新しい史料(葛飾北斎の書状)も発見された。 (小山氏)

小布施ちずぶらり:iPod,iPhone用に開発された地図アプリ。18世紀後半の小布施の古地図・オリジナルイラスト地図・Google Mapを切り替えつつ、GPSで現在地を表示しながら小布施の街を歩くことが出来る。いろいろな人の作った地図を活用して拡げる研究も進められている。(高橋氏)

鴻山文庫のデジタルアーカイブ化
:旧小布施図書館に眠っていた高井鴻山の遺産「鴻山文庫」をまちとしょテラソに整理・保管。人々が閲覧できるようにデジタルアーカイブ化。立体感のあるあざやかな映像として鴻山文庫がよみがえった。地方文化を支えた鴻山の「コレクション」の固まりを財産としてまとめた。(中村氏)

小布施の町の財産が……100年後につながるものが今このまちとしょテラソを中心に宝の山として積み上がりつつある、そんな感動を覚えた。もし、小布施を訪れる機会があるのだったら、是非まちとしょテラソに寄ってそれらを体感して欲しいと思う。

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3時間半に及ぶシンポジウムのラストは発表者すべてによるディスカッション。今日の濃密な発表に呼応するように深く鋭い質問が飛び交った。

「デジタルアーカイブ」はまだまだ人の中への浸透率が低い。プラスの面ばかりでなくマイナス面、デメリットも当然あり、それは発表者各自もメリット同様に明言していた。また、普及にはソフト・ハード両面や環境面での困難さも多い。その点を発信するもの、受けとめるもの、両者がきちんと理解し合い、ふまえながらこの先も進めていくことの大切さが語られた。

個人情報の問題・著作権の問題。古地図を扱うには差別の問題も。一般に「公開」すると、かつてグーグルアースのストリートビューで問題になったような様々な問題が浮上してくる。法規制や個人のプライバシーをふまえてこれらに取り組むことと「情報の公開」との間にはまだまだ課題がたくさんある。

さらに二つ、大きな課題が提示された。

「なぜ、小布施(まちとしょテラソ)からの発信」なのか。そして「なぜ今、この時に無駄かもしれないことに金をかける」のか。

この答えについては,きっと今すぐには明確な回答は出ない。100年先になってはじめて見えることに今地道に取り組んでいる過程なのだから。けれど、今回のパネラー各氏の回答の中に、今も大切な想いが……将来につながる想いが浮かび上がってきていた。それは、過去の大いなるものを今よみがえらせ、未来へと受け渡す地道な努力を積み重ねている各氏だからこその言葉なのだろう。

小布施は実験の大好きな町。まずやって見よ、と遊ばせてくれる町。人のためになるのだったら進んで「小布施モデル」を作ろうとする気質がある。もしかしたらそれは、北斎はじめ「よそ者」を受け入れるばかりかつかんで離さないおぶせびとのDNA……。福岡出身で自らも小布施につかまれた花井館長が語る。

おぶせびとの小山氏(氏は小布施で天明時代から味噌を商う穀屋の主人でもある)がそれを受ける。城下町でも門前町でもなかった小布施は、市で成り立ってきた町。情報や人やものが外から入ってこないと成り立たなかった町。入ってきたものを発酵させて生きてきた。だからよそ者大歓迎の町だった、と。

そんな小布施町が、公費をかけて一見報われないもの(無駄なもの)と思われるものになぜ取り組むのか?という質問に答えて花井氏。

「地球を作ったのは僕たちじゃない。過去の100年、未来の100年の中で今、僕たちが生かされている。僕たちは今の人達だけのためにサービスするのではなく、もっと長い物差しで公務にあたり繋げていくための努力をするべき。」

受けて丸川氏が今、文化庁を中心にした取り組みについて語る。
「日本が文化的なものをどれだけ発信するのか、それがとても大切になってきている。急がないと失われつつある文化遺産の維持が難しくなってしまう。」税金を使って文化事業に取り組むことが急務である実態と共に、「IT化によりコスト削減の効果も考えられる。そういう期待に応えられるだけの成果を上げないといけない。」と、公務として取り組むものの覚悟も。

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3時間半にわたるシンポジウム、最初は長いなぁ……と思っていた。

けれど、これだけの濃い中身と課題の提示、その検討の時間は気が付くとあっという間だった。多分、まだまだ語り尽くせない想い、聞き出したい問題、そういうものもたくさん残っていたに違いない。けれど、それらはこれからの小布施やまちとしょテラソの取り組み……「小布施モデル」から我々が受けとめるものだろうし、またそうしていくべきなんだろう。真剣に我々を先駆ける小布施の姿から見つけ出すものなのだろう。

最後に再び挨拶に立った市村町長はこう語った。

「今の世の中、ものの尺度になる物差しが小さくなってきている。だからこそ我々は、いくつもの様々な物差しを持たないと危険だ。今、空気を読むことが大切といわれているけれど、この“空気”に対抗できるだけのものがないといけない。そのためには様々な物差しが必要で、それを生み出していく取り組みのこれからに期待したい。」

人々の地道な努力と積み重ね。それは、決して表に華やかに示されるものではない。いつの間にか町の片隅で,家の中で、実用化されて活用されていく。けれどもこの蓄積があってこそ、未来を作る子供たちの活動につながっていく……。という司会の中村氏は最後にこう締めくくった。

「100年前から100年後へ。この理念を持って今、誇りに思い伝えるべきものを伝える努力をする。ここからがまた新たなスタートです。心して遊びましょう。」

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小布施という北信濃の小さな町。
そこに静かに、しかし熱く積み重ねられつつあるものたち。今はまだ、その価値も真価もわからない。もしかしたら風に吹き飛ばされる小さなチリのようなものかもしれない。

けれど、長い長い昔からのものを今、受け継ぎ、熟成し、発酵させながらまた新たな物を生み出し、そうしてこの先の長い長い年月を繋いでいく。出発は小さな吹きだまりかもしれないが長い時を経たその先に、それはやがて積み重なって地層を形成し、この先の時代を構成する大きな山へと変貌していくのだろう。

今を生きる我々は、それを受けとめ受け継ぐ。未来を生きる人のために。未来を作る人達のために。

「図書館は、今まで何処もみんな同じが当然でまったく“議論”してこなかった。もっとお互いに情報交換しつつ、それぞれの立場で違う業態があっていい。うちはうちで持っている情報がある。それを編集して自分たちなりの表現をしていくことだね。」

この日、すべてが終わったあとの懇親会で伊那図書館の館長である平賀研也氏はこうつぶやいた。

小布施町の試みから発せられるエネルギーが、伊那市につながった。これが長野県、さらに日本の国をおおって巻き込んで拡がっていくことで、新しい未来につながっていくに違いない。それを受けとめるのはわたしたち。そして繋げるのは子供たち。

小布施の真似は決してできない。まちとしょテラソと同じ事をやっても意味がない。この発信を受けたもの……図書館も、学校も、役場も、地域の住民もあらゆる職種の人々も……それぞれがそれぞれの立場でできる小さなチリの積み重ねをはじめること。

その「小さな積み重ね」がみんなひとつに集まれば山となり、長野県、日本、そしてやがては世界の宝となって100年後につながっていく。

まちとしょテラソの1周年は、100年後への第一歩をここに記して盛会に終わった。

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写真・文 駒村みどり

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢【’11年6月掲載記事】

「実は、先日浪速の少年院で講演を頼まれまして。少年院、それも浪速の少年院なのでものすごくドキドキして行ったんですよ……。」

『夢』というテーマで話をしていた時に、突然少年院の話が出てきて驚いた。少年院……おおよそ「お菓子屋さん」とはつながらない場所。話してくれているのは菓匠Shimizuのシェフパティシエ、清水慎一さん。

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清水慎一 

菓匠Shimizu専務取締役・シェフパティシエ
NPO法人Dream Cake Project理事長

「東京洋菓子倶楽部」( 東京・日本橋 ) で修行し渡仏。フランスで修行中にクープ・ドゥ・フランス大会入賞。
2005年、両親とともに「菓匠 Shimizu」新店舗をリニューアルオープン。
2006年より、子供たちの描いた夢の絵をケーキにしてプレゼントする「夢ケーキの日」を開始。 菓子業界のみならす各界から注目をあつめ、全国で技術講習や講演、世界的夢ケーキ普及のため小中高各学校で道徳やキャリア教育なども行っている。
夢は「お菓子を通して世界中を夢でいっぱいにすること」 愛称は「サンタクロース」。
(菓匠ShimizuHPより抜粋)

「夢ケーキ」で注目を浴びて、小学校や中学校からの講演の依頼が増えたという清水さんに舞い込んだ浪速少年院からの講演依頼。数多くの講演をこなしてきた清水さんはこの依頼に最初はとまどった。

少年犯罪を犯して収容されている少年たちに、自分の話が役に立つのだろうか?聞いてもらえないかもしれない……そんな思いを持って訪れた清水さんを迎えたのは、130人の院生たちのきらきらした眼と熱い拍手だった。

「正直な話、たぶんどこの小中学校よりも子ども達の姿勢はよく、背筋を伸ばして話にのめり込むように聞いてくれていました。涙を流さんばかりに感動した院生たちが、最後に全員で歌ってくれたのがゆずの『虹』でした。」

清水さんが少年院の先生たちと話をした中でわかったこと。それは罪を犯す少年たちは決して悪いことをしようとしているわけではなく、「居場所がない」ために居場所を求めて仲間たちに巻き込まれて、というパターンが多いこと……。

親から見放され、友人や社会から受け入れられずに「夢」をなくした少年たち。
その少年たちに「夢をあきらめないでかなえてきた」清水さんが語りかけたのだから、その瞳が輝くのもわかるような気がしました。

「子ども達には、ド真面目に、ド真剣に夢を語る大人が必要なんだと思います。」

この浪速少年院同様、いろいろな学校をまわってたくさんの生徒たちに出会い、先生たちに出会う。そこで清水さんが感じたことが、これでした。

子ども達は、夢の固まり。「運転手さんになりたい!」「野球選手になりたい!」「看護婦さんになりたい!」「世界一周したい!」……「○○したい!」「○○になりたい!」という思いはどんどんふくらんでいく。まだ世界を知らないし、自分に何ができるかわからないけど、だからこそその夢はあこがれを載せて無限に拡がっていく。

「なにそれ?無理だよ。」「そんな事できっこない。」「夢?ばっかじゃない?」

子ども達の「夢」に対して「世間を知った大人」がかける言葉の多くは、そこに「限界」を感じさせ、「制限」をつけます。無限に拡がる世界に大きな壁を作ってしまうのです。確かにそれは「現実」かもしれないけれど、それはあくまでもその大人にとっての「現実」にすぎないのです。

「ある中学で女の子が、ぼくの話を聞いたあとでこう言ったんですよ。『昔は、いっぱい夢を持っていたけれど中学になったら夢、って言葉をいわなくなった。でも、これからまたいっぱい夢を語りたい!』……ってね。たぶん、その子もまわりから夢なんて……って言われて夢なんかムリ……って思っちゃったんでしょうね。」

「できないって思ったら、絶対にできないし、あきらめたらそこでおしまい。だけど『絶対かなう』と思ったらそれはかなうんですよ。」

「夢は叶う!」……それを合言葉にして実際に夢ケーキのイベントを成功させてきた清水さんはそう子ども達に語りつづけているのです。

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「お菓子屋」である清水さんの想いが「社会」に向かうようになったのは、ある一つの事件がきっかけでした。

長野県のとある町。伊那近隣のいつもは静かなこの町で、突然起こった一つの悲劇。
……子が父に傷を負わせるという衝撃的な事件。

かつて、新聞では「人の死」の扱いがものすごく大きな記事になりました。それが今や自殺は日常茶飯事、肉親……本来は愛情で結ばれた関係である家族を傷つけたり殺害したりしても、「またか」と思ってしまう状況になっています。実際清水さんも、そういう事件を見てもどこかに「人ごと」という感じがあったそうです。

けれど、この時は違ったのです。自分の隣の町。もしかしたら……自分のお店に来たことがある人かもしれない。自分のケーキを、食べたことがある人かもしれない。

「もしも、事件の前日に、この家族が菓匠Shimizuのケーキを家族で一緒に食べていたら……もしかしたら、こんな事件が起こらなかったかもしれない。」

「人ごと」であり「自分には関わりのないこと」と思っていたこういう出来事が、悲劇が、一気に自分に降りかぶさってきたのを感じ、そして今まで「他人事」と無関心でいた自分へとその思いは向かったのです。

夢をなくした世の中。他人への関心が薄れた世の中。それは家族でさえも蝕んでいる。

自分も人の親であり、人の子であり、また、人を幸せな気持ちにするお菓子屋として、何ができるのだろう?夢を失った子ども達、夢のない社会……そのために何ができるのだろう?

そうして清水さんの中に生まれてきたのが「夢ケーキ」の構想だったのです。

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(写真は菓匠Shimizuの店内の展示。ケーキを受け取った人びとの笑顔がそこにある。)

「夢ケーキ」イベントは回を重ねるごとに応募が増え、中には毎回応募してくる家族もいて、いろいろな家族の笑顔がそこに生まれています。感想をもらっていると、その中で「家族の夢の進化」の有様が見えてくるそうです。

「このイベントに毎回応募してくださっているご家族があります。その「お父さんの夢」の欄を見ると、初めての時は「なし」と書かれていました。それが二回目の応募の時は「休みたい」でした。(中略)
その次の回には「休みの日に家族で出かけたい」と書かれていました。(中略)
その次の応募用紙にはついに、「息子の夢をかなえたい」と書かれていました。(略)ぼくは嬉しくて応募用紙を見ながらニヤニヤしてしまいました。」(著書:世界夢ケーキ宣言!より抜粋)

こうして「夢」をキーワードにしてきた清水さんは、だからこそ「夢」というテーマについてよく考えるのだそうです。「夢って何だろう?」と……。

それは、無理矢理持たされるものではありません。「夢なんかありません」という人も実際にたくさんいます。じゃぁ、そういう人はどうすればいいのでしょう?

「夢なんかなくてもいいんです。そういう人たちにぼくはいつもこう言っているんです。『夢なんかなくてもいい。だけど、もしもあなたのまわりに夢を持っている人がいたら、あなたはその人の夢を応援してあげて。』……と。」

オリンピック、ワールドカップ、コンクール。テレビや新聞の向こうの世界のことでも、日本の選手が活躍するのはとても嬉しい。世界一を目指し、その夢のために闘う人を一緒になって応援する。その人が栄冠を手に入れたら……自分も嬉しくなる。
それは、その人の『夢』が自分の『夢』と重なって、誰かの夢が自分の夢になる瞬間。

それも立派な夢の実現の一つの形なのです。夢ケーキもその一つ。夢ケーキに限らず菓匠Shimizuのケーキは、そういう思いで作っていくことを目指しているのです。ケーキ作りは『物作り』ではなく『こと作り』。このケーキが食べたい、ではなくこの人が作ったケーキなら食べたい、と言ってもらえるようなケーキ作りを目指す。

けれど、いくら夢を目指し、思いを持ってやっていても、受けとめられるばかりではありません。時にはクレームもあるけれど、それはまた「さらに大きな夢の実現へのヒント」と受けとめ、無理難題は「あなたはそれをどうしたい?」と、大切なひとのためにだったらどうするかを考えてすべてを感謝に変えてやって来ました。

そのために必要なのは情熱だけではありません。「確かな技術」も必要です。夢をかなえるためにお菓子作りの腕を磨くこと、自分を高めることも怠りません。

「本当のおいしさとは味覚ではなく、安心感」
「お客様の言葉を愛で受けとめ感謝で返す」

……そして生まれるのが菓匠Shimizuのケーキであり、清水さんの目指すケーキなのです。

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「夢のない大人が、子どもの夢を育てることなんかできません。大人が夢を語る世の中にならないと。」

……そう語る清水さん。だからこそ「夢ケーキ」で家族がみんなで一つの夢を語る時間を提供したい。そうして家族が夢を語り、夢見た世界をケーキの上で実現したい。それがまた清水さんや菓匠Shimizuのスタッフ全員の夢になるのです。

果てしなく広がる夢をあきらめなければ、どんな形でもそれはきっと実現する。短い期間で850台ものデコレーションケーキを仕上げるという技も、その思いの上にやり遂げた。その充実感が清水さんやスタッフを幸せにし、その夢がつまったケーキを受け取った家族も笑顔になり、そしてその笑顔を見てみんなが幸せになる。……そしてそれが、次の夢の実現へのエネルギーになっていく……。

「夢を信じてかなえること」は、決して楽なことではありません。夢は、簡単に手に入ったら夢ではないのです。だからこそそれに向かって人は必死で努力するのです。

挫折も失敗もそこにはあるけれど、あきらめずに突き進めば絶対にかなう。そうして夢は果てしなく広がり、その連鎖でみんなが幸せになる。
そういう人びとで積み上げられた社会は……これは、本当に幸せな社会になる、心のある温かい社会になる。

実はそれが、「お菓子のサンタクロース」清水さんがめざす一番の「夢」なのです。

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「菓子屋が変われば、世の中は変わる」<菓匠Shimizuのこころみから>

8月8日世界夢ケーキの日 東日本復興チャリティー講演会 8月8日伊那市生涯学習センター6F 無料(義援金募金形式)300名
NPO法人「Dream Cake Project」
*今年度の夢ケーキ企画 期間8月5日~7日 (申込みは7月1日より)
東北大震災チャリティー夢ケーキ(2011年4月1日~2012月3月31日)

「夢塾」・お菓子作り教室……等イベント・企画多数。詳細、お問い合わせは菓匠Shimizu HP 

書籍「世界夢ケーキ宣言!幸せは家族だんらん」清水慎一著
清水さんの著書です。夢のこと、お店のことなどが綴られ、読んでいるうちにだんだん忘れていた「夢を追いかける気持ち」を思い出せる……そんな一冊です。

「世界一の真心」を売るお菓子やさん~菓匠Shimizu【’11年6月掲載記事】

まるでおとぎの国のお菓子の家のよう。それともヨーロッパのおしゃれなセンスの良いお家。あまりに背景に見える中央アルプスの山並みが似合いすぎます。

このお店はお菓子屋さんなのだけれど、入口に向かうにはちょっとドキドキしながら緑茂る通路を通っていくので、お店というよりも友だちの家を訪れる感覚。そうしてドアを開くと……正面のショーウインドウには色とりどりのケーキが……。

けれど、私がまず目を奪われたのはそこよりもお店にいる人びとの様子でした。
まず、平日昼間のお客様の多さ。そしてそのお客様の中にお年を召した方の割合が多いこと。それは、正直「ケーキ屋さん」のイメージからしたら意外な光景でした。若い女の子や、ちょっと年配のマダムがおしゃれに立ち寄るのがケーキ屋さん、というイメージが私の中にはあったのですが……。

このお店は元々は和菓子やさんで、お店の一角ではちゃんと和菓子も……それもこのお店に受け継がれる味もしっかりと大切にされているからお年寄りの姿があるのも当然なのかもしれないけれど……。そんな風に思いながら、和菓子コーナーのショーウインドウでお菓子を見ているおばあさんの姿を見て、私はまた、はっとしたのです。

店員さんが……おばあさんの孫と言えるくらいの店員さんが、ショーウインドウの向こうからおばあさんの横にでてきて寄り添ってお菓子を一緒に選んでいる姿がそこにあったのです。まるで仲良しの孫とおばあちゃん。そんなほほえましい姿をそこに見て、このお店の中いっぱいに流れる温かい空気がどこから来ているのかがわかったような気がしました。

驚いたのはそれだけではありません。「○○様~。ケーキのご用意ができました。」……ケーキを選んで包んでもらい、お会計待ちをしていると店員さんが名前を呼んでくれるのです。

温かいなぁ……優しいなぁ……。美味しそうに並ぶケーキや和菓子たちの甘い匂いだけでなく、そんな微笑ましい「甘さ」がお店の中に漂っていました。

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朝7時48分。
お菓子を作る作業工房に、シェフ、パティシエ、店員さんたちがずらっと輪になって丸く並び、その輪の中の1人の女性がきりっと張りのある……それもかなりの声量でこう告げました。

「朝礼をはじめます!」
間髪を入れずその声は続きます。「笑顔体操、はじめ!」
かけ声にあわせて、顔をほぐすことしばし。そのあと「笑顔!」「真顔!」のかけ声でみんなが表情を作る練習。

でも、そこまでだったらまだいろいろなお店でもやっているのかもしれません。
その次に、二人組になるとみんなで真剣にはじめたことが……「じゃんけん」でした。嬉しそうに、楽しそうに。でも「本気」でみんな一斉にじゃんけんを始めます。

そうして次の合図で、勝った方の人から相手に向かって「いいところ」を伝えるのです。昨日見た接客の姿、お菓子作りに真剣な姿、同じ仲間として相手の姿を見て「いいなぁ」と思ったところを相手に時間いっぱい伝え続けるのです。

……皆さん、同じ職場でそれをやるように言われてできますか?それは実はとでも難しいこと。まずはその「相手」をしっかり見ていなくてはなりません。悪いところは目につきやすいもの。でも、いいところというのは相手をしっかり見ていなくては気が付かないもの。そして、それも中途半端に見ていたら、上っ面の言葉はすぐに相手にばれてしまうので「誉め言葉」にはならずにかえって不快にさせることになります。

それを、たった1人だけでなく、職場全員の姿について……仕事をしながら見ているわけですから、これは簡単にできる事じゃないのです。2人組になって、まず相手と握手をして挨拶してから勝った人が時間いっぱいに心から相手のいいところを伝える。当然、自分のいいところに気が付いてもらえたら嬉しいから聞いている方は笑顔になっていきます。心からの笑顔です。

そうして時間が来たら、自分のいいところを語ってくれた相手に心からのお礼を言うと、交代です。また真心のこもった言葉がどんどんと相手に届いていきます。

お互いにいいところを伝えあったら、今度はくるりと回れ右して、違う二人組でまたいいところを伝えあいます。それをみんなが真剣に伝えあっていく中で笑顔と優しさがこの作業工房の中に充ちてくる感じがしました。

「なりたい自分を想像しましょう!プラスのイメージで。イメージした自分にしかなれません!」

次のリーダーの声で、それまでのにぎやかさがあっという間に静寂に変わります。目をつぶって自分の「よい姿」を心に描くのです。そして次に「世界一宣言」。

自分は、これの世界一になる!という宣言を1人ずつ全員が、大きな声で順番にしていくのです。一周まわって全員の「世界一」が出そろうと、次は「HAPPY スパイラル!」……ここまで来るともう、お祭りが最高潮に盛り上がっているかのように皆さんの顔が上気し、声もどんどん大きくなっていきます。そしてその盛り上がりはみんなの意気を一つにまとめ上げていくのです。けれどそれは単なる大騒ぎばかりではなく、次の瞬間はみんなで手をあわせていろいろなものに静かに感謝の心を持つ時間へとつながります。

きれいだなぁ……
目をつぶって心の中で、家族、お客様、仲間、地域の人たち……いろいろな人たちに「感謝」をしている人たちの静かな横顔は、まるで仏像のような穏やかさに充ちているのです。

最後に目を開けて、仲間全員と順番に握手をし、一日頑張ろうと挨拶をしあって朝礼が終わったかと思うと、さっきまでの盛り上がりが嘘のように皆さんさっと自分の今日の仕事・持ち場に向かってそのままそれぞれの作業が始まるのです。

それはもう、鮮やかというか何というか……あまりの見事さに、私は言葉が出ませんでした。
たぶん10分か15分くらいの時間の中で、これだけ濃縮された中身が展開されて職場の仲間の心が一つになり、笑顔があふれ、やる気に充ちて始まる一日。

ただ笑顔の強制じゃなく、ただ大声の強制じゃなく、ただ形ばかりの挨拶や目標を順番に述べるだけじゃない。見習い研修中の人も含めて皆が同じようにこの朝礼の時間を共有することで、この作業工房の中にやる気と真心をいっぱいに満たしてしまったのです。
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皆さんが朝礼をやっている間に、ふとまだ暗い店内を見渡せるカウンターの上に目が行きました。そこには、何冊も重なった分厚いノート。

どのノートも明らかに、びっしりと書き込まれていることは一目でわかります。たぶんこれは、それぞれのスタッフが書きためている仕事の記録なのでしょう。

菓匠Shimizuのシェフパティシエは、日本やフランスの各地のお菓子作りの権威のもとで修行を積んできた方でものすごくお菓子作りには厳しい方と聞いています。朝礼のあのノリで、意気をあげてその勢いだけで突っ走るのではなく、朝礼のあとはあっという間に仕事について張り詰めた空気を作りあげるのはたぶん、この「技術的」にも皆さんが菓匠Shimizuの味として責任持って胸を張れるものを生み出す努力も怠っていないから……さりげなく積み重ねられたノートのふくらみ方を見てもそれを感じることができました。

その確かな技術と、それから仲間同士の強い支え合いと真心の成果は、この菓匠Shimizuで行われている「夢ケーキ」というイベントが毎年「大成功」を積み重ねてきている実績にも表れています。

この「夢ケーキ」というイベントは、2006年、5年前から菓匠Shimizuで行われているイベントです。2005年に今の場所に今のお店をオープンし、その一周年企画で開催されたこのイベントは、「家族みんなで一つの夢を語ってもらい、その夢をケーキの上に描いてプレゼントする」というものです。

みんなでサッカーをしているケーキ、ロケットで宇宙に飛び立とうとするケーキ……様々な家族の夢を描いたケーキを形にして、その家族に無料でプレゼント……家族に夢を送ろう、子ども達に夢が叶う喜びを届けよう、という思いの元に開催されているこのイベントは、第一回目に6台申込みがあってから年を重ねるごとにその応募数を増やし、第8回には850台ものデコレーションケーキを応募者に届けるという、偉業を成し遂げています。

この夢ケーキの構想は、今や日本の各地に飛び火して共感したお菓子屋さんがそれぞれの想いを乗せた夢ケーキのイベントを始めて来ていて、2010年には8月8日を「夢ケーキの日」とし、さらに今年度はNPO法人「Dream Cake Project」を設立、このお店から発信された「夢ケーキ」の構想が「8月8日世界夢ケーキの日」制定に向けて確実にそのあゆみを進めています。

このイベントがここまで定着し、拡がり続けているのはまぎれもなくこの菓匠Shimizuの「夢に向かって突き進む力」であり、それを現実に叶える技術力でもあります。

デコレーションケーキは生ものですから、作り置きができません。日頃の業務はきちんとこなしつつ、数日の間に何百というデコレーションケーキを作りあげること。それはスタッフがあきらめず、できると信じて心を一つに協力してここに向かうからなのだと思います。

「お客様の夢を叶える」という喜びのために、みんなが一つになって、数が多いからと手抜きをすることなく、むしろ妥協を許さない厳しさと、時間や費用などの制約に負けないあきらめない心とで毎年成功しているこの夢ケーキ。ケーキを受け取るお客様の笑顔をエネルギーに、夢が叶うものだという喜びを送り続ける菓匠Shimizuの真心は、世界一の真心。

その真心のエッセンスがたっぷり含まれたお菓子。それはこのお菓子を食べた人たちにこれからも伝わり続けていくことでしょう。

いつかきっと。カレンダーに書かれる日が来るに違いありません。
「8月8日 世界夢ケーキの日」………と。

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さて。
この朝礼でお会いできなかった方がいます。

この菓匠Shimizuのオーナーシェフであり、朝礼を提案し、夢ケーキを進めてきた清水慎一さん……菓匠Shimizuの三代目です。

厳しさの中にも本気の笑顔でお菓子を作り続けるスタッフとこのお店を引っ張る清水さんとは……一体どんな方なのでしょうか?改めてこの次の記事で取り上げたいと思います。

お菓子作りは世の中作り~「お菓子のサンタクロース」がめざす夢」へつづく)

原点に立ってめざす「先進」の姿〜小布施、まちとしょテラソ〜<’10年6月掲載>

そこにたどり着くまでに、今までこんな建物があるなんて気が付かなかった。
いや、実際、その建物は小布施の駅近くのちょっと奥まった場所にある。けれど、一度その外観を目にし、中に入ったら多分……「何だ、これ?」と虜になるに違いない。

実際、わたしがそうだった。
一見なんだかわからない建物。その外観よりもずっと広く感じる広々としたスペースにそびえる、目の前の大きな「木」……のような柱と、外の光を採り込む大きな窓。空間に静かに流れるBGM。それを聴きながら身を預けたくなるどっしりとしたソファーに、それから……近づいてすぐ手にとって見ることの出来る、たくさんの「本たち」。

そう、わたしが足を踏み入れたのは、「図書館」。なんだけど……。

なんだけど、その場所は「本も置いてある憩いのテラス」といった趣で、今までに知っていたような図書館特有の「張り詰めた空気」は、そこにはなかった。

小布施町の町立図書館「まちとしょテラソ」。

もうすぐ開館一周年を迎えるその建物とそこに集う人たちは、「今までの図書館」という概念とはまったくかけ離れていて、それにとても強く惹かれたわたしはもっとその奥をのぞいてみたくなった。

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「実はね」とはじまる内緒話。
それを聞く相手が驚いて「え~~~!!」と思わず声を上げると、周りから飛んでくる鋭い非難の目と「し~~~~っ!」という制御。

漫画やドラマで描かれるよくある「図書館」の光景。

図書館は、静かに。
図書館では、黙って勉強や読書。
図書館では、走ったり騒いだりはタブー。
図書館では、ものを飲んだり食べたりなどとんでもありません。

そうして今までのイメージを並べる“図書館”は、その「字面」からして堅苦しい。

わたしがはじめて出会った「図書館」は、小学校のもので。自分の背よりもずっと高い書棚に本がびっしり詰まって所狭しと並んでいて、その圧迫感は子供心に相当なものだった。

足を踏み入れるのにはちょっと勇気がいって、ドアを開ける前に深呼吸して息を止める。足音や、息をする音さえもひそめて、たくさんの壁のような書架から本を探り当てると手続きをして抜け出して、やっと息をつく。

だから、図書館に友だちと行って“楽しく過ごす”……というイメージは、残念ながらわたしにはない。

「いや、実はね、図書館法をちゃんと読むと、そのイメージとはちょっと違うんですね、本来の“図書館”がめざした物は。」

開口一番、「図書館」についてこう語りはじめたのはこの「まちとしょテラソ」の館長の花井裕一郎氏だ。

花井氏も正直、「図書館の館長」というイメージとはまったくかけ離れている。それもそのはず、普通「公共の施設」である図書館の館長といったら「公務員畑」の人がおさまることが多いのだが、この花井氏の肩書きは?と聞くと「館長ですけど、他に演出家でもあり、映像作家でもあり……。」という答え。
数年前までは東京に住み、テレビを中心とした映像の世界に生きていた方だ。

そんな花井氏の話に、さらに耳をかたむける。

「図書館法の最初に図書館の定義が書いてあるんですけどね、そこには図書館って本や資料を保有してそれを提供するだけではなく、文化的な活動やリクリエーションに資することをその目的としているんです。」
「つまり、図書館って、単に本を読む場所、勉強する場所、じゃないんですよ、積極的な文化発信や人と人との交流にも役に立てるべき場所なんですよね。」

それは、ものすごく意外な言葉だった。前述したように「本を提供し、本を読んだり勉強したりする場所」=図書館、だとわたしはずっと思っていた。

実際、図書館法をわたしも調べてみた。こう書いてあった。

(定義)
第2条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保有して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。

「レクリエーション」という言葉はやはり意外だった。学校で行事の時に「レク係」なんて作ったけど、わたしはよくこれになった。みんなでうたう歌を考えたり、ゲームを考えたり、いろんな人が仲良く楽しめるように工夫をこらすのが腕の見せ所。「お楽しみ係」なんて名前のつくこともあったっけ。

笑顔、笑い声、にぎやかさ。そんなものと密接な関わりのある「レクリエーション」という言葉は、正直今までの「図書館」のイメージとはかなりかけ離れやものだ。
それが、戦後間もない昭和25年に制定されたこの図書館法で明記されていたのだ。

「どういうわけか、いつの間にか図書館って本を読んで静かに勉強する場所、というイメージが定着しちゃった。でも、本来 “図書館”のめざす姿って、本や資料、むろんそれはCDや映像、といったものまで含めたあらゆるものを提供しつつ、それだけでなく「文化的な発信」やそれに基づいたコミュニケーションの場……それが最初からある図書館の姿なんですよ。」

「だから、このまちとしょテラソは、今までの図書館では“ダメ”とされてきたこともかなりの事が許されるんです。」

走っちゃダメ、食べ物を持ち込んじゃダメ……さらには、本を読む姿勢まで正さねばという雰囲気の漂う禁止事項の数々が頭をよぎるのが図書館だった。

「多少走るくらいだったら何も言いません。さすがに追いかけっことかはじまると止めますけどね。
それに、ここはペットボトル(ふた付きの飲みもの)も持ち込みOKです。食べ物も許可されるスペース(カフェコーナー席)がちゃんとあります。だってね、本、家に持って帰ったらそっちの方がよっぽど食べ物とか飲みものとかにさらされる危険な状態でしょ?そのくらいだったら図書館でちゃんとマナー守ってもらえばよっぽど本は安全だし。」

花井氏の話を聞きながら、ぐるっと図書館を見渡す。
そこには、様々な本を楽しむ姿が見られる。


おっきなクッションに身を預けて本に熱中する少年、清潔なカーペットで靴を脱いでその場に座り込んで楽しむ姿………。

「静かにしなさい」などといわれなくてもそこには自然な静寂が存在している。息をひそめた張り詰めた静寂ではなく、ごく自然な日常のやわらかい空気の中で誰一人他人の存在を気にすることなく自分の世界に没頭することで生まれる心地よい沈黙。~集中~の世界があちこちで生まれていた。

けれども。
館長からこうして直接話を聞いただけでも驚きの連続のこの図書館。
外観からはじまって、図書館の方針やイメージは、「今までの概念」とはかなりかけ離れている。正直「斬新」とも言うべきこの姿が生まれる前の段階では、イメージしにくい図書館のあり方だ。いくら許容範囲の広い「小布施」とはいえ……。

「そうですね、実際、開館するまでもしてからも、かなりいろいろありましたよね。」

この図書館の構想は、まず「建てる」か「建てない」か、というところからすでに激しい意見が交わされたそうだ。

文化の薫り高い小布施町。
このまちとしょテラソが開館する前は、町役場のエレベーターもない3階に小さな図書館があるのみだった。

「図書館構想」のきっかけは、行政からだった。現町長の公約であった“図書館”についてのあり方検討会が開かれ、さらに「図書館協議会」が町に作られた。そこで町の図書館について意見募集が行われ、町民として花井氏も意見を出した。それをきっかけに図書館委員会に参加。その後、図書館建設運営委員会が設立され、町民主体、協働の図書館建設が始まった。

そうしてすすめていく中、ようやく固まってきた図書館構想の上で「館長」と「建築家」を“公募”することになった。

普通は、こういう公共の施設はまず「箱」が作られ、そこに入れる「中身」が決まる。
けれど、小布施はまず「中身」から入った。それも「公募制」。そして、全国から集まった候補者の中から館長が花井さんに決まり、建築家は古谷誠章氏(アンパンマンミュージアム、茅野市民館など)のものに決まった。

最初から、みんなで一緒に創り上げてきた。
それがこの小布施のまちとしょテラソなのだ。

そうしてみんなで創りあげてくる過程でもたくさんぶつかり合いがあった。開館してからもわだかまりが残った部分もあった。

「今まで自分は、演出とか映像作家、という立場で100%自分の意図をかなえる人たちに囲まれて20年間やってきていたんですよね。けれど、ここはそうではない。ぶつかることから出発。」

最初は、そういう慣れない状況で違う意見を“排除”出来たら楽だ、という思いも正直あったそうだが、その思いは次第に花井氏の中でこう変わってきた。

「違う意見を出してくれる、そういう“あなた”がいたから実現した」

それは感謝の気持ち。
ぶつかり合い、意見を交わすことはものすごい抵抗を伴うが、そういう抵抗があるからこそ「成長」がある。新しい発見、新しいアイディア、そのバランスがとれたときに生まれてくるものはより「成長」した姿。

そういう中で花井氏を中心としたこの「まちとしょテラソ」創立への道筋によって築かれてきたものは、まちとしょテラソの建物や雰囲気だけではない……人と人との信頼関係やつながり……見えないたくさんの物がそこには積み重ねられてきたのだろう。

このまちとしょテラソは、構想段階からすでに“交流センター”というカッコ付きの概念があったように、交流、コミュニケーションも大きな目的として持っている。“交流と創造を楽しむ、文化の拠点”という理念からそれを強く物語っている。

花井氏がめざすのは、「行動する図書館」。“図書館は外に出よう”を合い言葉にどんどん外に出て町や人の話を聞いたり、デジタルアーカイブなど活用して外の風を運び込むことを柱にして勉強会を開いたり。

イベントも目白押しだ。開館イベントで登場した落合恵子氏はじめ、谷川俊太郎氏の講演や、松本の小学生が子供だけで創り上げた映画の上映会など魅力的な企画が次々に繰り広げられ、目が離せない。

そうした目的を持ったこの建物の中には、“連想検索”が出来るシステムを導入、学校一クラス分の生徒がすっぽり収まる多目的室、視聴覚コーナー、カフェコーナーや授乳室、オストメイト対応のトイレなど利用者の多様な目的や文化発信、コミュニケーションを想定したあらゆる活動に対応できる設備が充実している。

小布施の子供たちは、このまちとしょテラソのイメージキャラクターの「テラソくん」(生みの親は小布施アート展でご紹介した中村仁氏)をみんな知っているし、毎日ぶらりとここに立ち寄ったり待ち合わせ場所にしたりという町民も多い。

そこにあるのは、単なる冷たいコンクリートの「箱」ではない。人の血の通ったぬくもりのある居心地のいい“空間”なのだ。

正直、そのすべてをここで紹介するのは不可能なので、是非まちとしょテラソのHPをのぞいてみて欲しいと思う。

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(注:こちらは、掲載当時2010年時点の情報です。)
来月7月で、開館一周年を迎えるまちとしょテラソ。

いま、館長はじめ館に関わる人々はその記念イベントの開催準備にみんなで向かっている。それが7月19日に行われる「デジタルアーカイブシンポジウム」。(詳細情報

「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~

小布施にあるこの「進化した図書館の姿」は、しかし遙か昔の図書館の構想の基礎の上に立ち、いや、それよりもっとさかのぼった小布施の偉人、高井鴻山の足跡を受け継ぎつつ、そしてこの先を見据えて100年後、200年後にも残すべきものをいま次々に生み出して発信しはじめている。

「ここの真似をして欲しい、というつもりはないんです。でも、ここのあり方を通じて、『コミュニティーとはどうあるべきか』ってみんなに考えて欲しいんですよね。」

小布施の街を歩くと感じる古きものの息づかい。それを生かしつつ今の時代に人々を惹きつける力。その力はまた、この場所でもしっかりと生きて、生かされているのだ。

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さて。
このまちとしょテラソの館長である花井氏だが、東京からこの小布施にたどり着いて館長になるまでの足跡は、この「まちとしょテラソ」のイメージにとっても、ものすごく大きな影響を持っているように思う。

本来はこの記事の中で記述しようと思ったのだが、記述しきれないほどのものがあり、それをこの次の記事で改めて、取り上げようと思う。(つづく)

寄り道、みちくさ、まわり道 ~たどり着いた“小布施の花井”~

写真・文 駒村みどり

心は体には囚われない〜風子、その2〜<’10年5月掲載>

(その1)よりつづき~

小児マヒによる緊張と硬直で動きにくい手の変わりに足を使いこなす風子こと冨永房枝さん。
彼女と話をしていると、まったくそういう「障害の壁」を感じない。なぜだろう?

ひとつに、彼女はいつも笑顔を絶やさない。もうひとつ、その屈託のない笑顔で話す言葉にはネガティブな感じが全くない。彼女は「障害があるから」という言葉を決して口にしない。

先日、取材のために一緒にランチでも、と迎えにいってお店に向かう車の中での会話。

「あのね、悪いけど今日、食べさせてね。」
「いやぁ~、悪いけどわたしも貧乏だからさ、おごるのはムリ。(笑)」
「そうじゃなくてさぁ~。」
「あははは、ちゃんとわかってるよ。大丈夫だよ、まかせてね。」

“食べさせて”という言葉の意味は「おごって」などではもちろんない。
レストランのようなお店では、椅子に座って食事をする。当然、足で食べる仕様にはなっていない。だから「食べ物を口に運んでね」という意味だ。

「足を使う」

その行為に対して、人は決して必ずしもいい感情を持たない。
何かをするのは“手が当たり前”だから。そして“足は汚い”という感覚が一般的だから。

手が使えない代わりに足でやる。今でこそ彼女の周りはそれを認めるけれど、子供のころからそうだったわけではない。実際、わたしも彼女の高等部時代に同じ学校の職員がこう話すのを聞いたことがある。

「彼女は、足でクッキーも作っちゃう。それはすごいけど、でも足で作ったクッキー食べる気にはなれないなぁ。」

もちろん彼女は足をいつもきれいにしている。今もキーボードを弾くその足のつめは手入れされてきれいにペディキュアが施されている。わたしは彼女がどんなに自分の足を大切にしているのか感じ、いつもきれいだなぁ、とその足に見とれてしまうのだ。

けれども“足は汚い”という感覚は一般的で、その中で子供のころから生きて来た彼女はその笑顔や明るさの裏に悲しみや苦しみもたくさん感じてきたことだろう。

“いたずらをしたい。触ったりぐちゃぐちゃにしてみたりしたい。”
それは好奇心の固まりの小さな子供にはごく当たり前の欲求だ。
けれども、周りの人間と同じようにやろうとしても、手が動かない。

動きたい、動かせない。
そのイライラが高まって、足を動かした。

「足の方が、じょうずにできる!」

そう思って足を使い始めた彼女だが、周りがそれを受け入れるのは難しかった。

「足で給食食べていい、って許してもらえたのは中学部になるときだったよ。それまでは、手の機能訓練ということでなんでも手でやるようにいわれたなぁ。『足の方がずっと速く、上手に出来るのになぁ』って思いながらやってたから訓練つまんなかったねぇ。」

笑顔でそう話すけど、食べることまですべて「訓練」にされるのはたまらなかったろう。みんなが美味しそうに食べているのに、お腹もすいているのに、手ではなかなか食べられず、時間もかかる。

「足で食べてもいい」と認められた(というよりは、「周りがあきらめたんだよ」と彼女は表現したが)ときには「やっと自分らしく出来る」という思いがあふれてきたそうだ。

「足でものをやる」ということひとつとっても、彼女を小さな頃から知る身近な者でもこれだけの抵抗がある。当然、彼女が受けてきた波は、それだけに留まらなかった。

わたしは彼女からメールをもらって再会の約束をしたが、その一方で久しぶりに会う「先生」という存在に対しての心の迷いや傷について彼女は自身のHPの日記に、こんな記述をしている。

養護学校の思い出は楽しいことよりも先に“辛いこと(当時の養護学校には障害児・者を理解できず“社会のお荷物”と口走り、生徒の心を無雑作に傷つける教師もいて、嫌な思いをしたこと)”を思い出してしまうからだ。教師と生徒だったことがあり「先生」と呼んでいたMさんに再会したら、私は平常心でいられるだろうか…?
(風子のきまぐれ絵日記 2007年5月「花香る風の中の再会は………」より)

同じように、彼女が1990年に出版した詩集「”女の子”のとき」にも障害のある自らに対する悩みや苦悩がこんな風に描かれている。

 なれているからこわくない
いつも 口にするけれど
うそです

街を歩くのは こわいのです
一人で歩く道は こわいのです
いくら なれていても
こわいものは やっぱりこわいのです

   家の一歩そとは
心の戦場
人の目は機関銃
聞こえる声は大砲
人の態度はミサイル
わたしの心 殺そうとする
わたし1人殺すのに 何十人、何百人

(詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

が、彼女はそれを人前では臆面にも出さないのだ。「障害があるから」「手が使えないから」……彼女はそれを理由にしない。そして、その裏でどんなに汗や涙を流したのか、どんなに努力をしたのかも、ひけらかすことはない。

再会のとき、わたしはうつ病で学校に行かれなくなった休職中の教師で、彼女はボランティアでいろいろな学校にも講演に行くことがある立場から、「学校」の話になった。

彼女の“人目をひく姿”に対して、子供たちは当然興味を持つ。そういう人を見かける機会も少なければ、話をする機会などもっとない。だから、校長室やステージなどで話をしている彼女に子供たちは寄ってきて、時々こういう質問をする。

「ねぇ、なんでそんな変な恰好なの?」

その時に、周りの先生たちの対応はまっぷたつにわかれるそうだ。
「そんなこというのじゃない」と叱責し、彼女から遠ざけるパターン。
それを見守り、子供たちの疑問に対して彼女が答えるチャンスをくれるパターン。

自分の体について人がどう思うのか、彼女はいやというほど知っている。まだ経験の浅い子供たちならなおのことだ。そういう子供たちが「知る」機会を奪わないで欲しい、と彼女は言う。

「変な恰好」といわれたら、ちゃんと話をする。伝わるように、わかるように、きちんと話をする。そういう子供の好奇心をただ「言っちゃいけないこと」と押さえ、そういう対象から遠ざけたら、子供の中に残るのは「障害について口にするのは禁忌」……そんなマイナスのイメージ。知ろうともせず避けて通る人間が出来上がる。

だから、彼女は自分の体について知ろうとする子供やその好奇の目を遠ざけない。すごく落ち込んだり重い気持ちになることがあっても、そうして人とつながることをやめることはしない。

 こわいけど
ミサイル・鉄砲 すごくこわいけど
でも 歩く
こわくなくなるまで歩く
戦争が終わるまで歩きたい

   こわいけど やっぱり歩く
(詩集“女の子”のとき「戦国時代」より抜粋)

死んでもこの身体はなおらない と
気付いたときから
生きたい と思った

(詩集“女の子”のとき「自殺」より抜粋)

それは、彼女の決意でもあり、覚悟でもあり、そして多分彼女が自分を受け入れた瞬間だったんだろう。再会したとき、高等部時代よりもずっと軽やかになった彼女の心をわたしは感じた。いつの間にか2時間も話し込んだ。そうして「また、会おうね」とわかれた。ごく普通に、お互い必死で生きている人間同士として。心から「また語りあいたい」と思った。

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「今回は、本当に久しぶりに新作を描いたんです。何を描こうか迷ったんだけど、紙一面を宇宙にたとえてみたんです。」

ミニコンサートの合間のMCで、今回の新作の話になった。
「銀河鉄道の夜」はあるけど、「銀河鉄道の朝」はどう?……そういわれて、ぱぁっとひろがったイメージ。1メートル×2メートルの紙を2枚繋げて約一週間で書き上げた。

野の花。とり。風、月、万華鏡。彼女の心の中にひろがる宇宙、銀河鉄道の朝にはいろいろなものが息づいている。寒くてしもやけに悩まされながら描ききった作品。

この中の「万華鏡」について彼女はこう語った。

「小さな穴をのぞくと、その中にひろがる大きなきれいな世界。
それって人間とか宇宙とかに似ている。
小さな人間が地球の上で動き回って悩みまくって
あたふたしている様子のように思えたんですよね。」

さらに、この絵について内緒話をひとつ。

「実は、この絵の中に一カ所だけ塗り残したところがあるんですよ。
これはね、まだ終わってないよ、これからも続くよ、ってそういう意味。」

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苦労も、悲しみも。悔しいことだってまだまだ山ほどある。
だけどそんなこと言っていてもしょうがない。

体が思い通りにならないから出来ることに制限もある。
だけど、それも自分の体。

そして、自分の体をしっかりと受け止め、自分も含めてあたふたしながらちっちゃいことでうだうだしつつそれでも生きていく人間の「生」を、万華鏡のきらめきのように愛おしむ。そしてまだまだ続くよ……と彼女の心はその歩みを止めることがない。

彼女の心はなにものにも囚われずに、自由に飛び回る。その自由な心が、彼女の笑顔に触れた物達に伝わって、そしてまたひろがっていく。

絵から、詩から、音楽から。彼女の足が生み出すすべてのものが、今日もまた輝いて“生きる”事の持つエネルギーを発信し伝え続けていくのだ。

もし、あなたの近くに「風子の絵足紙キャラバン」が訪れたら、そこに行ってぜひ一人の人間の命のきらめきと生きざまを感じて欲しいとそう思う。

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心は体には囚われない~風子、その1~

HP:「風子の絵足紙キャラバン
森の宿 林りん館 (長野県小川村「風子の絵足紙ギャラリー」併設宿泊施設)

(写真・文:駒村みどり)

心は体には囚われない〜風子、その1〜<’10年5月掲載>

春まだ浅い3月のある日。長野市篠ノ井にある額縁店2階のギャラリーで、会場から流れるキーボードの音楽。個展+ミニコンサート「春へのつぶやき」。そこでキーボードを奏でるのは「手」ではなくて「足」。奏でているのは、個展で「絵手紙」ならぬ「絵足紙」を含めたたくさんの作品を披露している「風子」さん。

「千の風になって」、「G線上のアリア」。
しっとり聞かせたかと思ったら突然に「トッカータとフーガ」。

「いやぁ、やっちゃったよ。」
演奏が終わるとそういって会場を笑わせる。

豪快で繊細。大胆で優しい。
彼女の持ち味は昔からまったく変わらない。

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「風子」。本名は冨永房枝。
長野県長野市に生まれる。生まれて半年後に風邪のための高熱が元で「脳性小児マヒ」を発症。それにより体幹の機能障害が残る。養護学校の高等部を卒業後、詩作、詩の朗読、キーボードの演奏などでボランティア活動を続ける。

1996年に「絵足紙」を始める。絵だけでなく、書など描き続けた作品は多数にのぼる。
(詳細は彼女のHPを参照のこと)

演奏会でも、話をしている最中にしょっちゅう汗をかく。(その汗も、足でタオルを持って拭き取る。)からだが常に緊張して突っ張っているうえに思いもよらない動きが常に止まることがない。ひとこと話すごとに体中が突っ張って、息が荒くなり顔がこわばるので話し声に集中しないと聞き取りにくい。

それは、小児マヒによる体のマヒと、緊張と、それから不随意運動のせいだ。
この状態にある人たちは、だから見た目はある意味「異様」だ。ゆがんだ体と顔。それは意識があって脳が働いている間はどうにもならないのだ。彼女らの緊張のない状態が見られるのは、脳が休んでいる「眠っているとき」だけだ。

こういう「機能障害」を持った人は、私たちの周りに普通に居るのだが……しかし、町でその姿を見かけることはほとんど無い。たいていの人は施設に入ってしまうか、「差別」「好奇」の視線が苦しくて家に引きこもってしまうか、あまり外には出てこない。

けれど、彼女はどんどん外に出て行く。
明るい笑顔と大きな笑い声と共に。

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わたしが彼女と「再会」したのは、2007年の5月。
再会のきっかけはネットのSNSだった。

「再会」と書いたのは、彼女との出会いはもう20年以上も前にさかのぼるからだ。

「なんかねぇ、久しぶりなのにそんな気がしないね。」
そう笑う彼女は、その時ふとわたしのことを「みどりちゃん」と呼んだ。
その呼び方が昔の二人の状態を的確に表しているようで妙に笑えた。

彼女の活動は展覧会やコンサート、講演を通じて今やかなり多くの人が知っている。支援者も多く、そういう人たちと共に彼女は自分の道を歩んでいる。けれど、わたしはそういう人たちが彼女を知る以前の姿を知っていて、そしてある意味、彼女との出会いでわたしの考え方も大きく変わった。

だから、今回の演奏会の取材記事を書こうと思ったときに、ただ単にみんなが知っている彼女の姿だけではなく、その頃の彼女を描きたい……とそう思ったのだった。

「風子」以前の「富永房枝」の姿。まずはそこから、入りたいと思う。

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「肢体不自由養護学校の高等部3年生 冨永房枝さん」。

それが、わたしが最初に出会ったときの彼女の肩書き。
そして、その時のわたしの肩書きは「その学校の新卒一年目の新米先生」だった。当時、採用されたぺーぺーの先生だったわたしは、特殊教育(当時の呼び名)の免許もないのに養護学校に配属されて途方に暮れていた。

もともとは音楽の免許を持っていたので、高等部に所属したわたしは音楽のクラスを二つ担当した。そのひとつのクラスにいたのが房枝さんだ。

「先生」とは呼ばれても、まだ養護学校について何も知らなかった私と、小さい頃からずっとこの養護学校で学んでいた彼女。学校のキャリアからいったら彼女の方がずっと慣れたもので、おまけに新卒のわたしと高三の彼女では実質いくつも年は違わない。

途方に暮れてあたふたしていたわたしからしたら、ある意味この学校では「先輩」とも言える彼女は体に緊張があって手が自由に使えないけれど、字を書くのも絵を描くのも、ランチルームで給食を食べるのでも、なんでもまったく手でやるのと変わらぬ出来映えでやってしまっていた。

驚いたことに、彼女の足は手よりもずっと器用に動いた。編み物……特に一番細かいレース編みでさえも……彼女はみんな足の指を駆使してやってのけたのだ。その足さばきは、わたしにとって本当に驚異的で器用さには舌を巻いた。

また一方で、専門である音楽の授業でもわたしは途方に暮れていた。
生徒たちは房枝さんだけでなく、みんなからだが思うように動かない。のどに緊張が走るから、歌を歌うのにも声を振り絞って必死だし、楽器を奏でるにもテンポやリズムの通りには行かない。

みんな音楽は大好きなのに……どうしたらいいんだろう?

その頃に、「文明の利器」が有志の方から学校に寄贈された。ヤマハの「ポータートーン」というキーボードだ。今は、簡単なものだったら1万円もせずに買えてしまうポータブルキーボードだが、当時はン十万もする高価なもの。

その登場のおかげで、思いもかけない展開が待っていた。

「先生、やろうよ。」

昼休みになると、わたしの教室に房枝さんがやってきた。
最初は片足でメロディーを奏でる。こちらの方は、足さばきはもう手慣れたもので(じゃない、足慣れたもの、だな。)楽譜を一緒に読めば割合すんなりと演奏が出来た。

彼女の技能をひろげたのは、今こそ当たり前のようにキーボードについている「ワンフィンガー和音演奏」機能だ。

左の指一本でキーを押すと、設定された「リズムパターン」に乗って「和音」がなる。コード進行に合わせて一本指でキーを押すだけで、重厚な和音伴奏がつけられるのだ。ワルツ、ポップス、ロックンロール、マーチ、ボサノバ、16ビート。それがたった一本の指で和音演奏と同時にパーカッションとして鳴ってくれる。

手の10本指では右も左も簡単にできる「和音演奏」だが、足の指は短くてとても無理だ。けれど、この「ワンフィンガー」機能だと、その一本指がありさえすれば立派なリズム伴奏になるのだ。

……と簡単そうに書いたけれど、当然右足でメロディーを弾きながら、テンポ変わらず流れているリズムパターンにのせて左足でコード進行を追うのは、普通の人でも大変なこと。

それに彼女は挑戦したのだ。毎日毎日、休みなく教室にやってきては練習する。曲は今でも忘れない。さだまさしの「天までとどけ」だ。

「あの曲ね、もう、さんざんやったから今はもう飽きちゃったよ。」

そういって彼女は笑う。確かにそうだろうね、そのくらいほんとに毎日何回も練習したものね。

もともと右足でメロディーを弾くことは出来ていても、この曲のさびの部分は16分音符が連続してどんどん音が上昇していくので手の五本指でも大変。メロディーがなんとか出来ても、それに合わせて左でのコード演奏がついていかない。いったいどのくらいの期間、練習したのだろう?今は華麗な足さばきでレパートリーもたくさんになった彼女のキーボード演奏の基本は、この時の必死な練習の積み重ねの結果なのだ。

そうして、「天までとどけ」が形になって、2曲くらい演奏が可能になった頃に、彼女は卒業して社会へと飛び立っていった。

この時のキーボードとの出会いが彼女のライフワークのひとつとして存在している。それは大きな出会いだったろう。でも、同時に、「この学校でこの生徒たちとどう音楽に向かい合ったらいいのだろう?」と悩んでいたわたしにとっても、彼女が毎日教室にやってきて練習し、仕上がっていく段階を一緒に悩み、工夫しながら味わった経験が「そうか、音楽って教科書や楽譜を教えるだけじゃない、その人なりに表現することなんだな」という大きな収穫と音楽指導の確信へとつながったのだった。

「あのね、最初にあったときにわたしが何考えていたかっていうとね………。」
「わたし楽譜読めないしさ、この音楽の先生、ニコニコして人が良さそうだから利用してやれ~って思ったんだ。」

そういって彼女は朗らかに笑った。
この取材のために改めて会って話していたときに、この頃を想い出して不意に彼女が口にした二十何年目の事実。

目標を持つ。それに向かって何が必要で、どんなふうに学び深めるのかを自ら考えて選ぶ。
そしてそこに向かってくり返し投げ出さずに進んでいく。

そのくり返しと積み重ねが今の彼女を創り上げ、この笑顔と自信を支えているのだ。こともなげに見えるその影では流した汗や苦労などは当然のことと受け止めて、前向きに進んでいく彼女の姿があるのだ。

わたしもね。利用してもらえてよかったよ。おかげで、あの頃一緒に練習していた思いは大切な経験のひとつになって私の中に蓄積されているのだから。おたがいさまだね。

そういってわたしも、一緒に笑った。

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たぶん。障害とか、先生と生徒とか、そんなものはどうでもよかったんだろうと思う。
人と人とのつながりや、関わり合い、出会いというのはこういうものなんだろうと、そう思う。

『障害者としてではなく、ひとりの社会人として世に問うていく「風子の絵足紙キャラバン」に、今後ともより一層のご理解とご支援をお願いいたします。』

今回行われたつぶやきコンサートでもらったパンフレットにこんな一文が載っている。これは絵足紙キャラバン実行委員会という彼女の支援者の会の挨拶文だ。彼女に出会った人たちは、みな、「障害なんか関係ないや」と、きっとそう思うに違いない。

彼女は「冨永房枝」というひとりの人間として生きてきているのだから。人と人との関係の中で、ただ生を与えられたものとして同じように悩みもし、苦しみもし、喜びや感動を得ながら生きているだけなのだから。

そんな彼女がここに来るまでの「からだとのつきあい方」「生きざま」を通しながら、彼女の「絵足紙展」についてこのあと記述していこうと思う。

心は体には囚われない~風子、その2~へ続く。)

HP「風子の絵足紙キャラバン」

(写真、文:駒村みどり)

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