(3) 「イメージ」がつま先からほとばしる 風子の絵足紙&トーク
ライブのステージの上で、彼女はものすごく汗をかく。
汗をかくと、ひょいと近くに置いてあるタオルを足でつまみ上げ身体をぐっと折り曲げて額の汗をふく。
そうしてまた背筋を伸ばすと、屈託のない笑顔でお客さんに話しかける。その笑顔……周りの人間も思わず巻き込まれてしまうその笑い声は、時に豪快ですらある。
「彼女」の名は、風子。
彼女は足でつまんだタオルを横に置くと、「それじゃ、次はこの曲ね。」そういってキーボードを足で奏ではじめる。
残念ながら、ちょっと慣れないと彼女の言葉はとても聞き取りにくい。だけど、周りの人間はそんな事は気にしていない。言葉は聞き取りにくくても、ちゃんと「通じて」いることが人びとの表情からは見て取れる。
風子さんは、その足でまた絵を描き、詩を紡ぐ。時に編み物もし、クッキーも焼く。
彼女の両手は、ほとんど動かない。「小児マヒ」……幼い頃発熱した。高熱が続き、その熱が下がったときに、彼女の身体は自分の想うようには動かなくなっていた。
この第三章の2節に記述したように、今までは「はみ出した」人たちを主に取り上げてきました。けれど、この第三章の終わりに取り上げる風子さんは、「有無を言わさずはみ出させられた」人です。つまり、自分の意志ではみ出したわけではなく、偶発的に与えられた状況からそこに追いやられた人、です。
一般的に「障害者」といわれる人たちは、その「障害」が先天性であろうが後発的なものであろうが、「普通の人とは違う」という観点から「区別」されます。そしてその「区別」のための線ひきは、そのまま「差別」の目印として機能します。
私たちは自分のことを「普通」に思いたい。だから、自分とは違うという「区別する存在」を見つけることで、自分は普通なんだ……という安心感の中に浸りたい。そこに生まれるのが「差別」という認識なのだと思います。
そして、その区別された人びとは、相手の安心感のために自分の存在を時に否定され、正しい認識の無いままに傷つけられて多くのものは「世の中」と離れたところで生きるしか無くなるのです。
けれど、風子さんは、その「障害」という区別の中に置かれ、「出来ない人」という認識に子供のころから追いつめられて来たけれど、そこに留まっていることはなかったのです。
きっかけは、好奇心を満たそうとする欲求。
小さな子どもが自分の手を使っていたずらも出来ない事でつのるイライラが、自分の「可能性」を開くきっかけになったのです。手が出ないから足を使った。自分の想いが、それでかなった……。
「足が使える」「手よりも思うように動かせる」
そう思って、手の代わりに足を使った。たったそれだけのことなのです。だけどそれは、「手を使うのが当たり前」の世の中で、「足は地面に触れるから汚い」という常識の中で、「肯定」されることは難しいことでした。
外に出ることが怖いと想い、ひとの言葉がまるで機関銃やマシンガンのように心を射貫く。自分が生まれてきたことの意味さえもわからない。
「死」をいう言葉も何回も頭をよぎる……。
(その2に続く)