今、子供がテストの点のところを折って隠して持ち帰ってくるテスト。なぜ「点数」を隠しているのでしょうか?
それは、悪い点だと出来ないヤツの証明になり、進学先を決めるのにも、成績を決めるのにも、みんなその「点数」がものを言うからです。時に友だちづきあいにまでも影響する「点数」。
けれど、その点数にはいったいどのくらいの意味があるのでしょうか。
「先生……今回ダメでした。親に怒られました。」
そういって私にすまなそうにテストを手渡す生徒の答案を拡げます。ざっと見ると以前は全く計算問題さえも解けずに「当てずっぽう」で書いていた答えが、今回は間違えてはいてもかなりいいところまで行っています。
「ねぇ、今回のテストの手応えはどうだった?」
「先生、間違えたのだけど、ここは計算間違いしちゃって、ここは写し間違いしちゃって……ものすごく悔しいです。」
テストの点自体は全く変化がない同じ40点だとしても。まったくわからない40点の時にはこの生徒は自分のばつの悪さを隠すために笑ってごまかしていたけれど、同じ40点でも今回の表情は「悔しい」とにじみ出すもので、以前のごまかし笑いなどは全く浮かんでいません。
けれど、学校でもお家の人の評価でも、この40点は「変化がない」40点なのです。この子がいかに頑張って「わからない」ところから「わかっても間違えてしまって悔しい」ところまで進歩し、成長したのか……それを誰も認めてはくれないのです。変化がない「点数」しか見てもらえないせいです。
けれども。この生徒はすでに「わかる喜び」も「解くことが出来た快感」も体験しています。以前のように笑ってごまかさなくても、「ここが間違っていたから、次はここに気をつけよう」という道筋が自分の中で出来上がっているのです。つまり出来るというイメージが自分の中で確立したのです。
こうなると、後は自分で学ぶ喜びにむかって進みます。「勉強しなさい」などと言われなくても、自分からちゃんと学ぼうとするのです。
「勉強」という漢字を見つめてみてください。「勉めて(努力して)強くする」という二つの感じはどちらも「強化」する意味合いがあります。むち打って強くなること、それが「勉強」。つまり「学び」そのものを意味するのではなくて、「学ぶための方法・手段・姿勢」なのです。
一方の「学習」は、「学び習う」こと。学ぶという言葉の語源は「真似る」から来ています。つまり、お手本を見習ってその真似をして身につけること。習う、というのはそうして教わったことをくり返し練習して身につけること。
英語では勉強=study、学ぶこと=Learnと一般的に訳されていますが、確かにstudyというのは「強化する」という意味合いを持ちますし、learnというのは学ぶ、習う、などの意味の他にも「知る」という意味合いも含まれます。
学校でやるべきこと、生徒に対して行うことはまず「学び」があるべき。そして学習、という経験を積んだ生徒たちが自らそれを身につけるために頑張る行為、それが「勉強」なのです。
(3につづく)