地域おこし

「今」は進化し続ける。〜傘に、ラ。の試み(その3)<’10年6月掲載>

「長野市は川合新田からやってまいりました、なかがわよしのです。」

おなじみの前口上だけれども、聞く場所によってこんなに違うものなのか。

カタカナの「ラ」が、傘をかぶったら?……「傘に、ラ」の試み(その1)

言葉のマシンガンが、「今」を射抜く。……「傘に、ラ」の試み(その2)

今まで2回にわたって取材してきたなかがわよしの氏の「傘に、ラ」のシリーズ。
今回は、2月の末にネオンホールで行われた「芝居」の会(「傘に、ラ vol.8」と、先日6月始めに行われた田植え&田んぼでライブの会(「傘に、ラ vol.16」)のふたつの会を取り上げてみようと思う。

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なかがわよしの氏。
彼が「今」をキーワードに様々な試みをしている「傘に、ラ」。
詩の朗読や対談、音楽や芝居など様々なジャンルでいろいろなゲストと共にこれまでいろいろな場所で展開されてきた。

ナノグラフィカ、ネオンホール、そういった「会場」で行われたり、最近ではツイッターといったネットの上で展開されたり。

2月の「傘に、ラ」は、凍てついた空気の中、ネオンホールで行われた。
ちょっと遅れて入った会場のステージでは、女性二人がおしゃべりをしながら餃子を作っていた。そこにあるのは、ごく普通の「日常」を切りとっただけの一場面だった。

前半は赤尾英二氏脚本・演出による「餃子のなかみ」という現代口語劇。
激しい動きはない。ステージの上では餃子の具をきざみ、それを包み、「いただきます」というところまでの30分の展開。

ところが、「餃子を作って食べる」というその一連の流れの中で交わされる会話はかなりドラマティックだ。赤尾氏の演じる弟と、囲む姉二人(司宏美氏、田中けいこ氏)の3姉弟の間にはいろいろなわだかまりがあって、「親の死」という事実の前にお互いの想いがぶつかり合う。

妹弟を思うがゆえに口うるさくなる長姉。素直に受け止められない弟。間にはさまれる次姉。その3人の想いを紡ぎ、気持ちを繋げていくのがひとつのセリフだった。

「来た道を振り返ってはため息をつき、石橋をたたいては渡るのをためらう。」

先を見過ぎても、過去にこだわりすぎても進めない。せっかくのこの瞬間を見失ってしまう。そのセリフは出来上がった餃子から立ち上る湯気のようにステージ上の3人を包み込み、餃子の香ばしい香りと共に会場にも広がり、さらにはなかがわ氏の一人芝居へと引き継がれていく。

(ちなみにこの餃子、前半の劇終了後の休憩時間に会場のみなにふるまわれた。写真を撮っていてわたしは食べ損なったがおいしそうだった………残念。)

続くなかがわ氏の一人芝居。彼が演じるのは、売れない脚本家。

売れない彼は、ある日「声」を聞く。
~「今」をわたしにおくれ。おまえはすばらしい過去と未来を手に入れる。地位や、名誉はおまえのものだ。~

そうして彼はその声にしたがって「今」を捨て去る。
あっという間に売れっ子の脚本家に変貌した彼の「過去」には華やかな名誉ある足跡が刻まれ、「未来」は光にあふれて輝く。金も、地位も、女も、栄光も……彼は「すべて」を手に入れる。たったひとつ「今」をのぞいたすべては彼の思いのままだった。

しかし、彼には「今」がない。だから、「今を生きている」実感がない。
どんな名誉が過去にあっても、その名誉を受けたその瞬間の実感がない。この先必ずすばらしい成功が来るのは約束されている。だから今、そこに向かう緊張感もない。

ちやほやされても賞賛を浴びても。彼はその「瞬間」の記憶がない。

「さみしい」「むなしい」「悲しい」

次第に彼の心は、華やかな実情とはまったく別の感情に占領されていく。
そして彼は、かつて自らの「今」を明け渡した「声」に、再び乞い願う。
「お願いです、僕の今を返してください」………と。

声は答える。
「それなら、おまえの命とひきかえに『今』を返そう。」

彼は、今……その「一瞬」を手に入れ、その瞬間にすべては「無」に……。

ネオンホールの真っ暗な空間に、沈黙が流れる。
「今」というテーマがぎゅっと凝縮され、一瞬の光を放って、消えた。

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6月に入ったばかりの日差しまぶしい小川村の田んぼ。
白馬に向かうオリンピック道路に向かって登っていくのぼり道をすこしあがると、歓声が聞こえてきた。

道から一枚の田んぼが見える。その手前の広場には軽トラや自転車が停めてあり、祖田んぼ沿いの空き地にはテントとビールケースをひっくり返した即席テーブル。

小さな煙突つきのストーブからは煙が上がり、その上で豚汁がおいしそうに湯気を上げている。そこに田植えをしている人がいなかったら、それはさながらキャンプの光景。

「傘に、ラ。vol.16~田植え的ピクニック~」

なかがわ氏からいつも送られてくる「傘に、ラ」の告知メールにはこう書いてあった。

田植えやります! 当日苗がどんくらい集まるかわからんので、「え!? もう終わりっ」とかいうこともなきにしもあらずだけど、豚汁食ったり、談笑したり、誰かが歌ったり、あっちで即興芝居はじまったり、ラジカセからなんかいいカンジの音楽流したりして、またりーと過ごす予定。「ピクニック、ときどき田植え」な催しです。 

なかがわ氏、奥さんに誘われて姨捨の田んぼの農作業を経験、それで田んぼの面白さに目覚めたそうなのだけれども、今回それが「ピクニック」という発想につながったのはナノグラフィカの高井綾子さんとの会話がきっかけだそう。
(ちなみに、高井さんは昨年松代で田んぼ作業を経験、その模様はこちらから。
皆神山の麓の田んぼで…・ 桃栗三年柿八年、田んぼの稲は?

高井さんから小川村で田んぼをやっている大沢さんを紹介してもらって今回のこの田植えイベントになったということ。

この田んぼは、小川村に移住してきた大沢さんと、お友達のジョンさんの家族が借り受けてやっている田んぼだそうで、大沢さんも田んぼや農業に関わりたくて長野県にやってきた人。小川村では農業就業者の年齢が高齢化して、今ではあき田んぼが増え、大沢さんやジョンさんのように借りる希望者がいても、それよりもあき田んぼの数の方が多いのが実態。

けれど、そんな中でも「田んぼ」を受け継いでやっていこうとする人がいる。
なかがわ氏も、それから今回ここに集まったなかがわ氏の友人の多くの人も、何らかの形で田んぼに関わっていた人たち。

その人たちが今回、なかがわさんの呼びかけで集まってみんなでワイワイと田植えをしちゃおう、ということなのだ。

家族ぐるみで参加している人が多く、小さい子供もたくさん。水位を下げているとはいえ田んぼのどろどろの中、膝の上まで泥にはまって田んぼのかえるやオタマジャクシと戯れながら、ひとしきりお田植え。

2時をまわった頃には、田んぼの端までしっかりと苗が植えられて、せき止められていた取水口から勢いよく水が流れ込み始めた。
そして田んぼの横に停めてあった軽トラが、一転ステージに変貌する。お田植え会場は、あっという間にライブ会場に変身。なかがわ氏の詩の朗読がはじまった。

田んぼに水の注ぐ音。空の高いところを吹き抜ける風の音。なかがわ氏が「今」を紡ぐ音。それらが頭の上にひろがった閉ざされることのない空間に広がっていった。

続いてステージに登場したのは地元小川村のデュオ、「やくばらい」のおふたり。
オリジナルソングを中心に、10分ほどのミニミニライブを展開。

ちょうど、田んぼの上の道を通りかかったおばあちゃんがその歌声を聞きながら、「いや、おんがくこういうところで聞くのって、なかなかいいもんだね。」と笑顔を浮かべてゆっくりと畑に向かっていった。

やくばらいミニライブのラストナンバーはメンバー紹介ソングだったのだけど、ここでジャンベをやっているという大沢氏が臨時参戦。けれど、ジャンベがそこにあるわけではなく、転がっていた長い塩ビのパイプをたたいての即席パーカッション。

やくばらいのお二人のデュエットに絶妙に絡んだ“パイプカッション”のセッション。
今、この時、この瞬間だから生まれた音が静かな田んぼの上を渡る風に乗ってのんびりと流れていった。

軽トラの即席ステージで、なかがわ氏の即興詩の朗読と、塩ビパイプの即席セッションが加わった田んぼライブが終わる頃、みんなが田植えで踏み込んで泥で濁っていた田んぼの水も、すっかり澄み渡って静かに青い空を映し出していた。

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暗く閉ざされた空間で、その空間の中に凝縮され、発表の場に向かってぐーっと焦点化されていった「今」があれば、どこまでも広がっていく無限の空間の中に、その瞬間にふと生まれてどんどん広がっていく「今」がある。

どちらもまぎれもなく「今」であり、その表現の形。

「なんかね、最近はテーマとかジャンルとかあまり気にしないで『これやりたい』と思うことをとりあげるようになってますね。」

田植えをなぜ『傘に、ラ』で取り上げたのかを聞いたとき、なかがわ氏はそう答えた。

なかがわ氏がこの「傘に、ラ」というイベントで持っている「今」というテーマ。
どうやらそれは、すでになかがわ氏だけのものではなくなっているようだ。なかがわ氏が取り上げるジャンルや会場、そういうものに影響を受けその場を共有したものたちの中に、しっかりと「今」が息づいて広がり始めているのではないか。

いろいろな形の「今」があり、いろいろな人の「今」がある。
それはみな違うものだし、その先がどこに向かっているのかもわからないけれども、そういうたくさんの「今」が出会い、触れあい、輝きあって「明日」に向かっていくのだろう。

始まって半年のなかがわ氏の「傘に、ラ」の試みは、そうしてこれからも様々な「今」を織りなしながら進化していく。

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今後の「傘に、ラ」
(注:記事掲載時2010年6月時点の情報)

10年7月3日(土)
「傘に、ラ。 vol.18 ~今に生まれて今に死ぬ~」@ネオンホール
出演:outside yoshino・ タテタカコ
料金/前売・予約3500円、当日4000円
問い合わせ/026-237-2719(ネオンホール)

10年8月22日(日)
「傘に、ラ。 vol.19 ~果樹園で朗読会。~」@丸長果樹園
詳細後日発表
10年12月4日(土)
「傘に、ラ。 vol.23 ~なかがわよしの告別式  たとえば僕が死んだら~」@ネオンホール
詳細後日発表

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写真、文 駒村みどり

原点に立ってめざす「先進」の姿〜小布施、まちとしょテラソ〜<’10年6月掲載>

そこにたどり着くまでに、今までこんな建物があるなんて気が付かなかった。
いや、実際、その建物は小布施の駅近くのちょっと奥まった場所にある。けれど、一度その外観を目にし、中に入ったら多分……「何だ、これ?」と虜になるに違いない。

実際、わたしがそうだった。
一見なんだかわからない建物。その外観よりもずっと広く感じる広々としたスペースにそびえる、目の前の大きな「木」……のような柱と、外の光を採り込む大きな窓。空間に静かに流れるBGM。それを聴きながら身を預けたくなるどっしりとしたソファーに、それから……近づいてすぐ手にとって見ることの出来る、たくさんの「本たち」。

そう、わたしが足を踏み入れたのは、「図書館」。なんだけど……。

なんだけど、その場所は「本も置いてある憩いのテラス」といった趣で、今までに知っていたような図書館特有の「張り詰めた空気」は、そこにはなかった。

小布施町の町立図書館「まちとしょテラソ」。

もうすぐ開館一周年を迎えるその建物とそこに集う人たちは、「今までの図書館」という概念とはまったくかけ離れていて、それにとても強く惹かれたわたしはもっとその奥をのぞいてみたくなった。

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「実はね」とはじまる内緒話。
それを聞く相手が驚いて「え~~~!!」と思わず声を上げると、周りから飛んでくる鋭い非難の目と「し~~~~っ!」という制御。

漫画やドラマで描かれるよくある「図書館」の光景。

図書館は、静かに。
図書館では、黙って勉強や読書。
図書館では、走ったり騒いだりはタブー。
図書館では、ものを飲んだり食べたりなどとんでもありません。

そうして今までのイメージを並べる“図書館”は、その「字面」からして堅苦しい。

わたしがはじめて出会った「図書館」は、小学校のもので。自分の背よりもずっと高い書棚に本がびっしり詰まって所狭しと並んでいて、その圧迫感は子供心に相当なものだった。

足を踏み入れるのにはちょっと勇気がいって、ドアを開ける前に深呼吸して息を止める。足音や、息をする音さえもひそめて、たくさんの壁のような書架から本を探り当てると手続きをして抜け出して、やっと息をつく。

だから、図書館に友だちと行って“楽しく過ごす”……というイメージは、残念ながらわたしにはない。

「いや、実はね、図書館法をちゃんと読むと、そのイメージとはちょっと違うんですね、本来の“図書館”がめざした物は。」

開口一番、「図書館」についてこう語りはじめたのはこの「まちとしょテラソ」の館長の花井裕一郎氏だ。

花井氏も正直、「図書館の館長」というイメージとはまったくかけ離れている。それもそのはず、普通「公共の施設」である図書館の館長といったら「公務員畑」の人がおさまることが多いのだが、この花井氏の肩書きは?と聞くと「館長ですけど、他に演出家でもあり、映像作家でもあり……。」という答え。
数年前までは東京に住み、テレビを中心とした映像の世界に生きていた方だ。

そんな花井氏の話に、さらに耳をかたむける。

「図書館法の最初に図書館の定義が書いてあるんですけどね、そこには図書館って本や資料を保有してそれを提供するだけではなく、文化的な活動やリクリエーションに資することをその目的としているんです。」
「つまり、図書館って、単に本を読む場所、勉強する場所、じゃないんですよ、積極的な文化発信や人と人との交流にも役に立てるべき場所なんですよね。」

それは、ものすごく意外な言葉だった。前述したように「本を提供し、本を読んだり勉強したりする場所」=図書館、だとわたしはずっと思っていた。

実際、図書館法をわたしも調べてみた。こう書いてあった。

(定義)
第2条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保有して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。

「レクリエーション」という言葉はやはり意外だった。学校で行事の時に「レク係」なんて作ったけど、わたしはよくこれになった。みんなでうたう歌を考えたり、ゲームを考えたり、いろんな人が仲良く楽しめるように工夫をこらすのが腕の見せ所。「お楽しみ係」なんて名前のつくこともあったっけ。

笑顔、笑い声、にぎやかさ。そんなものと密接な関わりのある「レクリエーション」という言葉は、正直今までの「図書館」のイメージとはかなりかけ離れやものだ。
それが、戦後間もない昭和25年に制定されたこの図書館法で明記されていたのだ。

「どういうわけか、いつの間にか図書館って本を読んで静かに勉強する場所、というイメージが定着しちゃった。でも、本来 “図書館”のめざす姿って、本や資料、むろんそれはCDや映像、といったものまで含めたあらゆるものを提供しつつ、それだけでなく「文化的な発信」やそれに基づいたコミュニケーションの場……それが最初からある図書館の姿なんですよ。」

「だから、このまちとしょテラソは、今までの図書館では“ダメ”とされてきたこともかなりの事が許されるんです。」

走っちゃダメ、食べ物を持ち込んじゃダメ……さらには、本を読む姿勢まで正さねばという雰囲気の漂う禁止事項の数々が頭をよぎるのが図書館だった。

「多少走るくらいだったら何も言いません。さすがに追いかけっことかはじまると止めますけどね。
それに、ここはペットボトル(ふた付きの飲みもの)も持ち込みOKです。食べ物も許可されるスペース(カフェコーナー席)がちゃんとあります。だってね、本、家に持って帰ったらそっちの方がよっぽど食べ物とか飲みものとかにさらされる危険な状態でしょ?そのくらいだったら図書館でちゃんとマナー守ってもらえばよっぽど本は安全だし。」

花井氏の話を聞きながら、ぐるっと図書館を見渡す。
そこには、様々な本を楽しむ姿が見られる。


おっきなクッションに身を預けて本に熱中する少年、清潔なカーペットで靴を脱いでその場に座り込んで楽しむ姿………。

「静かにしなさい」などといわれなくてもそこには自然な静寂が存在している。息をひそめた張り詰めた静寂ではなく、ごく自然な日常のやわらかい空気の中で誰一人他人の存在を気にすることなく自分の世界に没頭することで生まれる心地よい沈黙。~集中~の世界があちこちで生まれていた。

けれども。
館長からこうして直接話を聞いただけでも驚きの連続のこの図書館。
外観からはじまって、図書館の方針やイメージは、「今までの概念」とはかなりかけ離れている。正直「斬新」とも言うべきこの姿が生まれる前の段階では、イメージしにくい図書館のあり方だ。いくら許容範囲の広い「小布施」とはいえ……。

「そうですね、実際、開館するまでもしてからも、かなりいろいろありましたよね。」

この図書館の構想は、まず「建てる」か「建てない」か、というところからすでに激しい意見が交わされたそうだ。

文化の薫り高い小布施町。
このまちとしょテラソが開館する前は、町役場のエレベーターもない3階に小さな図書館があるのみだった。

「図書館構想」のきっかけは、行政からだった。現町長の公約であった“図書館”についてのあり方検討会が開かれ、さらに「図書館協議会」が町に作られた。そこで町の図書館について意見募集が行われ、町民として花井氏も意見を出した。それをきっかけに図書館委員会に参加。その後、図書館建設運営委員会が設立され、町民主体、協働の図書館建設が始まった。

そうしてすすめていく中、ようやく固まってきた図書館構想の上で「館長」と「建築家」を“公募”することになった。

普通は、こういう公共の施設はまず「箱」が作られ、そこに入れる「中身」が決まる。
けれど、小布施はまず「中身」から入った。それも「公募制」。そして、全国から集まった候補者の中から館長が花井さんに決まり、建築家は古谷誠章氏(アンパンマンミュージアム、茅野市民館など)のものに決まった。

最初から、みんなで一緒に創り上げてきた。
それがこの小布施のまちとしょテラソなのだ。

そうしてみんなで創りあげてくる過程でもたくさんぶつかり合いがあった。開館してからもわだかまりが残った部分もあった。

「今まで自分は、演出とか映像作家、という立場で100%自分の意図をかなえる人たちに囲まれて20年間やってきていたんですよね。けれど、ここはそうではない。ぶつかることから出発。」

最初は、そういう慣れない状況で違う意見を“排除”出来たら楽だ、という思いも正直あったそうだが、その思いは次第に花井氏の中でこう変わってきた。

「違う意見を出してくれる、そういう“あなた”がいたから実現した」

それは感謝の気持ち。
ぶつかり合い、意見を交わすことはものすごい抵抗を伴うが、そういう抵抗があるからこそ「成長」がある。新しい発見、新しいアイディア、そのバランスがとれたときに生まれてくるものはより「成長」した姿。

そういう中で花井氏を中心としたこの「まちとしょテラソ」創立への道筋によって築かれてきたものは、まちとしょテラソの建物や雰囲気だけではない……人と人との信頼関係やつながり……見えないたくさんの物がそこには積み重ねられてきたのだろう。

このまちとしょテラソは、構想段階からすでに“交流センター”というカッコ付きの概念があったように、交流、コミュニケーションも大きな目的として持っている。“交流と創造を楽しむ、文化の拠点”という理念からそれを強く物語っている。

花井氏がめざすのは、「行動する図書館」。“図書館は外に出よう”を合い言葉にどんどん外に出て町や人の話を聞いたり、デジタルアーカイブなど活用して外の風を運び込むことを柱にして勉強会を開いたり。

イベントも目白押しだ。開館イベントで登場した落合恵子氏はじめ、谷川俊太郎氏の講演や、松本の小学生が子供だけで創り上げた映画の上映会など魅力的な企画が次々に繰り広げられ、目が離せない。

そうした目的を持ったこの建物の中には、“連想検索”が出来るシステムを導入、学校一クラス分の生徒がすっぽり収まる多目的室、視聴覚コーナー、カフェコーナーや授乳室、オストメイト対応のトイレなど利用者の多様な目的や文化発信、コミュニケーションを想定したあらゆる活動に対応できる設備が充実している。

小布施の子供たちは、このまちとしょテラソのイメージキャラクターの「テラソくん」(生みの親は小布施アート展でご紹介した中村仁氏)をみんな知っているし、毎日ぶらりとここに立ち寄ったり待ち合わせ場所にしたりという町民も多い。

そこにあるのは、単なる冷たいコンクリートの「箱」ではない。人の血の通ったぬくもりのある居心地のいい“空間”なのだ。

正直、そのすべてをここで紹介するのは不可能なので、是非まちとしょテラソのHPをのぞいてみて欲しいと思う。

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(注:こちらは、掲載当時2010年時点の情報です。)
来月7月で、開館一周年を迎えるまちとしょテラソ。

いま、館長はじめ館に関わる人々はその記念イベントの開催準備にみんなで向かっている。それが7月19日に行われる「デジタルアーカイブシンポジウム」。(詳細情報

「デジタルアーカイブで遊ぶ、学ぶ、つながる」
~100年前の小布施人が伝えたもの 100年後の小布施人へ伝えるもの~

小布施にあるこの「進化した図書館の姿」は、しかし遙か昔の図書館の構想の基礎の上に立ち、いや、それよりもっとさかのぼった小布施の偉人、高井鴻山の足跡を受け継ぎつつ、そしてこの先を見据えて100年後、200年後にも残すべきものをいま次々に生み出して発信しはじめている。

「ここの真似をして欲しい、というつもりはないんです。でも、ここのあり方を通じて、『コミュニティーとはどうあるべきか』ってみんなに考えて欲しいんですよね。」

小布施の街を歩くと感じる古きものの息づかい。それを生かしつつ今の時代に人々を惹きつける力。その力はまた、この場所でもしっかりと生きて、生かされているのだ。

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さて。
このまちとしょテラソの館長である花井氏だが、東京からこの小布施にたどり着いて館長になるまでの足跡は、この「まちとしょテラソ」のイメージにとっても、ものすごく大きな影響を持っているように思う。

本来はこの記事の中で記述しようと思ったのだが、記述しきれないほどのものがあり、それをこの次の記事で改めて、取り上げようと思う。(つづく)

寄り道、みちくさ、まわり道 ~たどり着いた“小布施の花井”~

写真・文 駒村みどり

「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2)〜境内アート小布施×苗市〜<’10年5月掲載>

北信濃の小さな町、小布施町。その南西に位置する玄照寺で4月17,18日の2日間にわたって行われた「境内アート小布施×苗市」。

最初の目的を忘れて思わずあちこちに見入ってしまったそのにぎやかで楽しいイベントの様子は(1)に記述したが、では、このイベントがここまで盛り上がってきたのはなぜか。
その仕掛け人のひとりとして名前の挙がった中村仁氏。
わたしがこの日玄照寺を訪れたのはこの人に出会うためだった。あまりの楽しさに、目的を忘れて思わずイベント自体に引き込まれてしまったのだ。

そこで、改めて目的を果たすべく中村氏を捜して境内に出た。

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ふたたび境内に出て最初に出会ったのが、もともとこの日にここに中村氏が来ることをわたしに教えてくれた人、花井裕一郎氏だった。

花井裕一郎氏は、昨年小布施町にオープンしたばかりの町の図書館、「まちとしょテラソ」の館長だ。
この日は、この境内で「一箱古本市~まちとしょテラソ市~」を開催していて、わたしはその取材を兼ねて中村氏を紹介していただく予定だったのだ。
花井氏については、別の機会に「まちとしょテラソ」の記事できちんとご紹介したいと思う。

「一箱古本市」。
そのルーツは東京の「不忍ブックストリート」にある。
参加者が一箱に売りたい本を持ち寄って、販売しながら交流を楽しむ日本初のネットワーク型の古本市だ。

それを、この小布施のアート展に花井氏が昨年から持ち込んだ。
三門の回廊がその会場だ。

「せっかくやるなら、小布施らしさを出したいと思ってね。」

古本市には、どんな箱でもいいから「一箱」に本を入れて売るのだが、その「一箱」を探したら近隣の農家からたくさん見つかったのが「りんご箱」。
言われて見ると「ふじ」と箱の横にはっきり書かれたりんご箱がそこに。

おお………確かに良い味だしてる。東京には絶対ないね。これ。

「どう?売れてますか?」

あちこちのイベントでよく顔を見る知り合いがいたので声をかけてみた。
回廊は、日影。日があたらない上に風通しがいいので、前日雪が降った小布施の風は冷たい。古本市出店の人はみな、厚いジャケットに身を包んでいる。

「売れないよ~。でもね、周りの人やのぞきに来る人と、他の人の箱をのぞき込んで本の話するのが楽しいよ。」

凍えながらも笑顔でそんな答えが返ってきた。
本を通じての交流。そうか、これがネットワーク型の古本市か。

三門の反対側では、こんな風に「ご自由にどうぞ」の本のコーナーもあった。
来年は、わたしも一箱出してみようかなぁ………。

さて、で、紹介いただくはずの中村氏はいずこに?

「う~ん、あの人さっきまでここにいたんだけど、今どこにいるかなぁ。会場内のどこかにはいるはずなんだけど。」

「また会ったら声かけますよ。」

そういうわけで、花井氏から声がかかるまで再度会場内をうろつくことにした。
で、ここまでほとんど全部見回っていたんだけど、ふと目についた看板。

ダンボールの看板に書かれた文字は「絵・映像パフォーマンス」。
あ、まだこれ、見てないや。待っている間に、これ見てみよう。

会場は三門入ってすぐの左にある「講堂」。
ここは屋内なので靴を脱いであがる。

……なんだか懐かしいこの雰囲気。
そうか、学校の文化祭で体育館に展示してあるあの感じだ。

四隅の壁に作品が展示されていて真ん中があいていて。子供がかけっこしたりして。
肩肘張らずにゆる~く、展示物を楽しんでいるのだ。

ぐるっと見回したら一番奥に映像のコーナーがあって、扉の奥でやっているようなのでそちらに向かうと、扉手前で見たことのあるペンギンの絵。(写真右下)

あ。
N-geneでも紹介されているたかはしびわ氏だ。
ちょうどお客さんが途切れていたので、声をかけてみた。

びわ氏も、このアート展が始まった頃からずっとこうして参加しているそうで。

「前に外で展示してみたんですけどね、クラフトと違って絵だからホコリや光の影響がどうしてもあって。」

で、日があたらなくて寒いけど、この屋内でいつも展示しているそう。
しばらくびわ氏とお話しをしていたら、中村氏の話になって。
「今日は、中村さんに会いに来たんですけど。」
「え?今そこで写真とっている人が中村さんですよ。」

見ると、カメラ片手に今から外に行こうとしている背の高い人影が。
あわててびわさんにお礼を言うと、中村氏に声をかけた。

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中村仁氏。御代田在住の「美術家」。アーティスト。グラフィックデザイナー。
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略歴(小布施との関わり中心に抜粋)
1959 長野県生まれ
1984 信州大学教育学部美術科工芸研究室卒(主に鋳造による現代金属工芸を研究)
1987 JACA’87日本イラストレーション展入選(伊勢丹美術館)
8th 日本グラフィック展協賛企業賞受賞(渋谷パルコPART3)

※以降、国内外で作品を発表、個展、企画展への参加など多数

1999 「中村仁の仕事展 ・ 絵本の世界から」(千曲川ハイウェイミュージアム)
2007「オブセコンテンポラリー」アーティストネットワークによる企画プロデュースを1年間手がける(小布施)
2004 “境内アート「苗市」in 玄照寺 vol.1”企画・参加(以後毎年,小布施)

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そもそも取材しようと思ったきっかけは、中村氏がデザインしたまちとしょテラソのキャラクター「テラソくん」に興味があって、その生みの親に会ってみたいなぁ、と思ったから。

そういう理由で花井氏に紹介してもらう手はずだったから、知らなかったのだ。
このアート展に出展していること。……それも、さっきまで見ていたびわ氏のお隣に。
さらに、中村氏がこのイベントの重要人物であることも。
(ちなみに、このアート展のチラシ・ポスターの図案も中村氏の作品だ。)

本当に、なんの予備知識もないままに飛び込んで来ちゃったなぁ。ちょっと出展者の名前調べたら、花井氏に紹介してもらうまでもなくちゃんとここにたどり着けたはずなのに。

ようやく偶然巡り会えた中村氏と、その場に座り込んで話を聞き始めた。

現在、御代田在住の中村氏。その中村氏がなぜ、小布施のこのイベントに「アート」を持ち込んだのですか?

「7年前、玄照寺さんから文屋・木下豊氏を通して、その頃次第に人出が減り始めていた苗市を再興する手だてがないか、クラフトフェアのような企画はどうだろう?と相談を受けました。しかしその時点ですでに、クラフトをテーマにしたフェアは有名なものが数多く存在していました。同じような企画の後ノリでは面白くない。そこで木下氏と二人で『小布施ならではの形』を考えた。で、どうせやるなら志を“アート”にしようと、それで「境内アート」。単純なんですけどね。」

「じつは、自分自身がいろんなクラフトフェアに触れて来た中で、それまで“アート”という言葉はどちらかというと“クラフト”の価値を高めるようなかたちで使われることが多く、“アートそのもの”にちゃんと向き合ったフェアはあまりなかったように感じていたのです。
でも、“アート・芸術”といっても取っつきにくい。そこで この苗市という“市”の持っている活気とか迫力とかをアートに活かせないかと思ったわけです。」

「 “クラフト作品”は何かの役に立つものです。でもアート作品って“飾って楽しむ”以外には多分何の使い道もありません。“役に立たないもの”にお金をかける事って勇気がいりますし、日本人はあまり慣れてもいません。

でも海外では道ばたにアート作品を並べて売っていたり、お客さんも自分の身の丈に合ったアートを家具やインテリアのような感覚で購入したりして上手に付き合っています。自分のお気に入りのクリエーターの作品をちょっと勇気を出して買って日常の中で楽しむきっかけやそういう体験の場に出来たらいいな、と思ったのです。

美術館やギャラリーでスポットライトをあびているモノだけがアートではありませんからね。」

……でも、なぜそれが小布施だったのですか?

「小布施の人たちは、これはダメかも、というラインからは入らないんですよ。どうせだったらちゃんとやってみて考える、という意識にある。」

やるんだったらやってみよう。小布施だったら出来る。そういう想いでアート展をここに持ち込んだ。さらに……

「住職さんにはこの企画をやるのであればどんなにお客さんがこなくても10年は我慢して続けてくださいとお願いしました。」

ご住職はそれを快諾し、そしてその想いに共鳴した地元の人たちやアーティストの協力の輪が広がって、今年7年目を迎えるアート展はますます盛況だ。

「アート、アートといっても“クラフト”だってやっぱり楽しい。使って楽しむ魅力もありますよね。そこで昨年から、町で秋に開催されていたクラフトフェアと合流しました。」

「僕はただきっかけを持ち込んだだけですよ。僕の力じゃないんです。ここに来るまでに、いろんな人を巻き込んできた、ただそれだけです。」

といって中村氏は穏やかに笑う。

けれど、このひとがそれだけの想いを持ってここに来なかったら、このアート展は始まらず、その想いを受け止める人もいなかったのだ。

こうして話をしている間にも、中村氏のもとにやってきた新しいつながり。
「長野・門前暮らしの会」のメンバー。今年の境内アートに参加した人たちだ。

「結局こういうものはごちゃごちゃ言わないで楽しんだもの勝ち。お客さんにも、参加者やスタッフも「境内アート小布施×苗市」を心から楽しんでもらいたい。毎回新しい試みにみんなでチャレンジしています。」

小布施の魅力が、人を引き寄せる。
そして、魅力ある人のもとにまた人が集まる。
このイベントはそうして成長し続け、より魅力ある町が、生活が、生まれて育っていく。

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そういえば、今までいろいろなアートの展覧会やクラフト展、境内のお祭りやイベントを見てきたが、この小布施で特別に感じたことがある。

「子供の多い空間」だなぁ………ということ。

古いお寺をめぐるときには、小さい子供の姿はほとんど見かけない。
クラフト展やアート展でも目立つほど多い、とは感じない。
ところが、このお寺を歩き回っている間、子供の姿のないところがなかった。
それも、みんなのびのびと子供らしい表情で、人のいる場所でよく見かける「静かにしなさい」とか「そんなに飛び回らないの」とか大人に怒られている場面にまったく出くわさなかった。
(さっきも、中村さんの展示物のある講堂で子供が走り回っていたし。)

かつてあった、町の路地で近所の仲良しが集まってそこがたちまち「遊び場」になったような、そんな感じ。子供たちも「アート」「クラフト」に囲まれてそこにいるのだ。

あちこちで見られるその「子供のいる風景」は、クラフト展というよりもごく普通の生活の一場面を切りとったよう。

そう。
ここは、特別な空間ではない。小布施という町の生活の一コマなのだ。

そして、この空間で目立つのは子供たちばかりではない。

ちょっと気軽に散歩に……といった風体のお年寄りも。うららかな春の光や桜を楽しみながら起伏のある道を歩き回る姿。ブースの若い人たちと交流する姿。
日頃縁のないようなバンドのライブをBGMに、アートを楽しむ境内の姿。

中村さんから教えていただいたのだが、この日は小布施町で他にもたくさんのイベントが行われていたそうだ。
そんな中で、これだけたくさんのいろいろな年齢層の人がここに集まっている、その事実はものすごいことなんだと思う。それだけまちの人々にこのイベントが受け入れられ、創り上げた人たちの想いを受け止める人がいるのだ、ということだから。

「それはとても嬉しいことですね。」

そう言って、中村氏はまたにっこりと笑った。

境内という磁場と縁日という祝祭の空気感のなかで何かを表現できたら、作家も見に来てくれる人たちもどんなにか楽しいだろうとはじめたフェス。その想いは全て「境内アート」という名前に込めました。毎年4月北信濃桜咲き誇る季節、さまざまなジャンルのクリエーターたちが全国から集まります。老若男女・善男善女どんな出会いがあるかお楽しみ。是非小布施へ足を運んでみてください。」(中村仁氏)

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「あのね、これは聞くべきですよ。ちょうど今、やっているから。」

中村氏にそう言われてお礼と別れを告げるとわたしは本堂に向かった。
これは多分……どんなアート展でもクラフト展でも体験できないここならではのメインイベント。

この間、本堂前で行なわれていたライブはお休みで、境内は厳かな空気に包まれる。
本堂で行われているのは「大般若法要」。

ご住職の静かだが張りのある読経の声が本堂に満ちていく。

これもまた、すごい「ライブ」であり「アート」の形だなぁ………。

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小布施の町の南西にある普段は静寂の中にあるお寺、玄照寺。

その境内がすべて一大テーマパークに変わる。
それは、小布施の町や生活を作る人、愛するひとが集って創り上げたもの。

そこにはその土地に住む、その土地に息づく人たちが集まってくる。
人が集まり、その空気を共有するものに伝わり、ひろがってそしてまたつながっていく。

そうして、この町の空気は作られていく。ひとも作られていく。

このイベントを、もっと多くのひとに知って欲しい。
もっと多くのひとに感じて欲しい。心から、そう思った。

ここに来ればきっと、ひとのためにある思いがひとを集め、町を作るその事実を感じられるはずだから。

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境内アート小布施×苗市 HP
玄照寺 HP
中村仁 HP

+++++ 境内アート小布施×苗市 その背景とここまでの流れ +++++++

そもそもは戦後約50年ほどつづいた曹洞宗・玄照寺縁日「苗市」の“再興”(歴史はあったものの当時は足を運ぶ人が年々減少傾向)を目指して葦澤住職、現事務局の木下氏(出版編集「文屋」代表・小布施在住)、そして中村仁氏らが中心になり、2004年にお寺で開催するアートフェス「境内アート」の企画・構想を立ち上げる。
運営母体は同寺若手檀家衆「玄照寺奉賛会」であり、現在もその仕組みは変わらず、開催・運営にあたって彼ら地元小布施人の尽力によるところは大きい。その後、回を重ねるごとに運営にかかわる人たちが増え、実行委員会を組織し2009年より本格的に小布施町の協力を得て、事務局も役場・行政改革グループ内に設けている。
尚、同年より毎年秋に開催されていた「おぶせアート&クラフトフェア」と企画統合し、正式名称も「境内アート小布施×苗市」(毎年4月第三土・日開催)とし、アート部門・クラフト部門・飲食部門の公募の他、歴史ある「苗市」を存続させ、参道にて骨董市を開催。さらに2010年より同町立図書館「まちとしょテラソ」企画による「一箱古本市」も共催するなど、他に類を見ない複合型フェスに発展している。
資料協力:中村仁氏

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(文・写真 駒村みどり)

「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(1)〜境内アート小布施×苗市〜<’10年5月掲載>

4月の第3週末である17日・18日。
この日、わたしはある人に会うために小布施町の玄照寺を訪れた。

ところが、玄照寺に行き着く手前で車は特設駐車場にはいるように誘導された。
駐車場はいっぱいでビックリ。

……いったい、ここで何が起きているのだろう?

お寺までの道は静かな田舎の生活道路なのだが、お寺の真ん前に立って参道を見たときにまたビックリ。

この人出は、どうしたこと?
まるでここだけ別世界。
参道にはずらりと屋台が軒を並べ、人がどんどん奥へ奥へと吸い込まれている。

屋台といったら、お祭り。お祭り……楽しそう………。
最初の目的を忘れて、わたしも参道の奥に引き込まれていくひとりになった。

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信州小布施町の曹洞宗陽光山玄照寺。
小布施町の南西部にある普段は静かなお寺。お寺の前の道路を通っても、ここにお寺があることは気が付かないくらい。

けれども、どうやらこの日は違う。

参道に足を踏み入れる。
両側ににぎやかな屋台が並ぶ。
その屋台を過ぎるとそこには「骨董市」ののぼり。

着物の古着。古い道具。ブリキのおもちゃ。
タープを張って、その下に人の手のぬくもりの染みこんだ「骨董品」たちが所狭しと並んでいる。

面白そうだけど……
横目で見ながら、さらに奥へ。

すると今度は、鮮やかな「色彩」が飛び込んできた。
三門の手前の「苗市」のブースだ。

「苗市」。
春の香りがあたりに満ちている。

けれど、先を急いでここも通り過ぎる。

すると、三門前には案内看板。
右に曲がると「クラフトエリア」、直進して三門をくぐると「アートエリア」。

山門の向こうからは、なにやら歌声も聞こえてくる……ライブをやっているらしい。
ここまで来ると、この先に何があるのか早く見たくて小走りになる。

三門をくぐると……

桜の花がちょうど満開の境内。
本堂に向かう参道の両側に様々な「アート」が展示されていた。
いや、よく見ると、参道の両脇だけではなく、庭にも、本堂の回廊にも……。

気が付くとそこに何か作品が「ある」。
境内のあちこちに、普段は物静かなお寺の庭や建物と一緒に、今、人が歩いているその場所に「ある」。

こういう「アート」っていいよなぁ。
「芸術」って言ってかしこまっていたり、高値で取引されていたりするものばかりが「アート」なわけじゃない。
足元の小さな石ころの中に、どうぶつの姿や人の顔を思い浮かべる……そんなのも「アート」。人の日常の中に、日常の中から生まれてくる表現がアート。
自分の周りの景色がいつもと違って見えるとか、その中に何かを感じること。
それがアート。

余談だけど、artという単語の語源はラテン語のL.ars 。技、芸術という意味がある。関連語彙にartifice(工夫)なんて言葉もある。日常の些細な風景や感覚を違った形で工夫したり創り上げたり、組み立てたり……もっと言うと、「おばあちゃんの知恵」だってアート。

境内には、そういう「生まれたてのアート」があっちこっちにかくれんぼしている。
そして、ごく自然にその周りで子供が遊んだりお年寄りが憩ったりしている。
……いいな、いいな、これ。

正面の本堂の周りも、すごいことになっている。

わたしにとっては「お寺さん」って言うと「荘厳」で「侵すべからざるもの」というイメージがある。お寺さんの敷地内では静かに瞑想にふけって煩悩から切り離されたところにいなくちゃ、なんて気分になる場所……だと思ってた。

それが、どうだろう。

……うわ、本堂の真ん前でライブやっちゃってる。
それも、なんか「荘厳」って言葉とはかけ離れたけだるい雰囲気だったり「煩悩」の固まりのような曲だったり……。(笑)

でも、かしこまってえらそうにしているお寺よりもずっとこの方が、いいなぁ。

そして本堂の周りの縁。通路に沿って歩くだけでも、こんなにいろいろ。

縁の上、下。柱。すべて有効活用されている。
縁の上では展示の他にもゆっくり座ってのんびりと庭を眺めたりお茶を飲んだりする人の姿も。

日頃はひっそり静かなお寺の本堂も、まるで孫が来たときのおじいちゃんのように心なしか華やいで嬉しそうな感じ。

本堂に沿う石の通路は、そのままクラフトエリアへの道になる。
にぎやかな本堂の裏手に回り、見事な庭園の池庭(ここにも展示物がある)を見ながらさらに進むと、お寺を取り囲む林へつながっていくのだが……

小さなせせらぎを越えるとそこは「どんぐり千年の森」。
雰囲気がまたがらっと変わったクラフト展の会場だ。

ごらんの通り、桜が満開。
桜並木の下に、今年は何と150ものブースが登場した。

ぐるっと会場を歩いてみる。

わたしは、二日目に行ったのだけど、1日目の土曜日は、4月に珍しい積雪のあった日でとても寒かった。そのため、このクラフト展会場の通路はぐちゃぐちゃになってしまって泥まみれになるから、急遽スタッフが畳を並べて臨時通路を造ったという。

それがまた、あったかいのだ。
畳の感触が、足に優しい。

臨時通路だから決して歩きやすいとは言えないけれど、かえってそれが子供たちには魅力みたいで、一生懸命にでこぼこを笑顔で歩く姿がかわいい。
ベビーカーを押して歩く人の姿も多い。

頭の上には満開の桜。

クラフトを楽しみ、お花見も楽しめ、花より団子の人は飲食ブースでいろいろな味を楽しむ。焼きそばやお好み焼きのようなおなじみのメニューに混じって東御市から来た永井農園の「焼き餅」の香ばしい匂いも………。

クラフト展の会場を歩いていて感じた。

ただの林の中に、それぞれが好きにタープを立ててやっているので、まるでキャンプ場にいる気分。敷地は塀や柵で囲われていない、外から遮断されていないオープンな会場。なので、どこからでも会場に入り込んで行かれるし、中でなんかにぎやかだなぁ、と、偶然通りがかっただけでもついふらっと気楽に入り込める。
やわらかい草地。落ち葉のじゅうたんがふかふかで、「区画」や「線ひき」のない会場構成は、まるで「小布施方式」と言われて全国から注目されている小布施の町並みと同じ感覚なのだ。

……小布施ならでは、なのかもしれない。この光景は。

しかし、すごいなぁ。
入り口の屋台から始まって、骨董市、苗市、アート展、クラフト展。飲食も出来て花見も出来て、散歩も出来てライブも聴くことが出来て。
お寺全体がひとつの「テーマパーク」のようになっているのだ。

わたしの持っていた「お寺」というイメージとはかなり異なっている。

このお寺の住職さんは、どんな方なんだろう?
そういう疑問が湧き上がって、ものすごくお会いしてみたくなった。

「ああ、住職さんや奥さんだったらあそこから行けばいいよ、みんな自由に出入りしてるから。」
そういわれて、「お話をお聞きしたいのですが」と突撃取材。

忙しいのにご住職は笑顔で迎えてくれた。

玄照寺23世住職、葦澤義文氏。

玄照寺は今からおよそ450年ほど前に開かれたお寺。現在の場所に移転したのが江戸時代の1704年だという。

その玄照寺で「苗市」が始まったのが今から50年前の1960年。
地域の人々に春を運ぶその行事は、毎年多くの人が訪れていたが、今や「苗」は近くの花屋、スーパー、ホームセンターなどで一年中手にはいる。

「そこでね、7年前から以前はハイウエイオアシスで町主催でやっていたアート展を苗市と合体させたんです。」
「その後、昨年からはクラフト展も一緒にやるようになりました。今年はアート展を始めた頃の出展数の2倍以上、150の出展数になりましたよ。」

町でやっていたことを、ひとつのお寺が請け負うというのはすごい。
お寺さんはどういう立場で?

「そうですね、場所の提供と、あとは、檀家さんなどの協力ももらって運営費を一部捻出しています。でも、いろいろ実行にあたっては寺の若い人や役所の人、クラフト展実行委員会の人たちがみんなで頑張っています。」

話をしていたら、住職の奥様がお昼に、と牛丼を持ってきてくださった。
話をしている場所は関係者の休憩場所で、入れ替わり立ち替わりいろいろな人が心づくしの食事を食べに来る。

「昨日の夜は関係者みんなで交流会やりました。150人くらいいたかな。」

「通路に畳を敷きながら話したんですよ。来年は、もうちょっとこの林を整備したらもっとたくさん出展できるかもね、って。」

そう言ってご住職は、穏やかに微笑んだ。

小布施という北信濃の小さな町。その小さな町の片隅の、静かなお寺。
そこにそれだけの「人」が集まって、このイベントを創り上げている。
毎年毎年、新しい人がやってきて新しいつながりを作り、新しい人を巻き込んでどんどん発展しているこのイベント。

苗市の衰退とともに、ご住職がどうにかしたいと小布施の仕掛け人 文屋・木下豊氏に声をかけ、その木下氏が、美術家・中村仁氏を住職に紹介し、この3人に、お寺の檀家衆が加わり、境内アートが始まって。

そして、昨年からハイウエイオアシスで町も加わった実行委員会でやっていたアート&クラフト展が一緒になったそうだ。

ここでご住職の口から出た「中村仁」という人の名前。
それはこの日、わたしが当初の目的として会うはずの人の名だった。

わたしはご住職にお礼を言い、中村氏を捜して再び外にでた。

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「ひとの住む街」を作るのは、ひと。(2) へつづく。

(文・写真:駒村みどり)

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その5)【’11年5月掲載】

(注:本記事は、H23年5月11日に発表されたものの再掲です)

*本日5月11日で、震災から丸二ヶ月がたちます。改めて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしつつ、今なお避難生活にある人びとに一刻も早く安心した生活が戻りますことを重ねて心からお祈りしたいと思います。
なお、これだけの日々を経た今も、被災地からは大量の支援物資の要請が笑顔プロジェクトの方にも届いているそうです。この記事の一番最後に詳細を書きますので、可能な方はお力を貸していただければと思います。

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「自粛」と「不謹慎」という二つの言葉。

何かしたい、何かをしよう……と人々の心が被災地や自分たちの状況に集中した3月11日から日がたち、それぞれの受けとめや感覚や行動の差が次第に明らかになるにつれてこの2つの言葉が世の中に蔓延し、人びとの動きは停滞しはじめた。

「自粛」と「不謹慎」による自主規制の動きには、「こんなことやったら被災地には迷惑」とか「被災地の人が悲しんでいるのに自分たちが笑っちゃダメ」とかいう想い、さらに何もできない焦りから生まれた目立つ人に対してのあこがれやできない自分を卑下する、もしくは理由付けしようという想いが垣間見える気がする。

そうでなくても災害によって「日常」が停滞しているところにさらに自主規制がかかった世の中。でも、果たして「これから」のためにはそれでいいのだろうか?

「だからね、お金を動かさなくては。まず、昔から商業地だったこの小布施町でちゃんとお金を動かすことが大切なんです。」

そうして生まれたのがこの企画。「ラーメンフェスタin小布施」だ。

北信の人気ラーメン店8軒が出店、一杯500円のワンコインでラーメンが食べられる。でも、小布施でなぜ「ラーメン」??さらにラーメンのイベントだったら毎年地元テレビ局主催のものはじめすでに大きなものがいくつかある。

「ラーメンはね、小さいお子さんからお年寄りまで、みんなが笑顔で食べることのできるメニューだからですよ。」……と林さん。

「で、今回は皆さんと相談して他のラーメンフェスタと違い全部『新作ラーメン』で行こうと。お店に行ったらいつでも食べられるラーメンじゃなくて、ここでしか食べられないもの。そして赤になったら意味がないから黒字(収益)を出す。そのお金を支援活動に当てる。

みんながおいしいラーメンで笑顔になって、そのお金を使うことで被災地に笑顔が届けられて、自分の笑顔が被災地の笑顔につながる。」

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「正直ね、ラーメンとしたらほとんど収益無いですよ。」

そんな林さんの想いを受けた須坂の参加ラーメン店「旋風堂」の店長の田子さんに「500円って値段設定、正直どうなんですか?」と聞いたらこんな答えが返ってきた。

「せっかくいろんなラーメン食べられるんだからと、話し合って一杯の量は控えめで500円設定にしたけれど、それでも500円じゃとんとんぐらいかな。けどね……」

「今回の話を聞いて嬉しかったよ。だって、もし必要だったら実際現地に行って炊き出しでもなんでもする気はあったけど、行って邪魔になっても困るし1人でがんばるのは難しすぎる。せいぜい店で募金つのるしかできなかったところに今回のこの話が来た。こんな風に誰かが考えてくれてそこに乗れば自分も力になれる。『待ってましたぁ!』って感じだったよ。」

そんな田子さんは、「焼きラーメン」の新作メニューを考えている。

「これ今回のフェスタでしか絶対に作るつもり無いからね。フェスタ以外ではもう食べられない味になるよ。」

……つまりは、旋風堂の「幻の味」になるわけですね。

その幻の味が、他の7店でも全部一杯ワンコイン500円で味わえる。会場の小布施ハイウエイオアシスではこの日、ライブペインティングや太鼓の演奏などのイベントも盛りだくさん用意されている。そしてそこで1日楽しめばその笑顔は確実に笑顔プロジェクトメンバーが被災地に届けてくれるのだ。

用意されたのは3000食分のラーメン。だけどもしかしたら、足りなくなるのかもしれないなぁ……と、林さんや田子さんの笑顔を見ながらふとそう思った。

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「何かしたいけど、何もできなくてじれったかった」

旋風堂の田子さんの言葉にもあったけれど、実際そう想っている人が私の周りにもかなりいる。私も、そして私の周りの多くの人たちも、そういう思いを抱えつつ「できる事は?」と考えては募金をし、支援物資を提供してみても「届いている」「役だった」「力になれた」という実感はなく、現地では本当に足りているのか、何が必要なのか、という情報はほとんど入ってこない。

笑顔プロジェクトに係わった人たちは、笑顔のお返しをダイレクトに感じることができ、次にできる事は?と具体的に考えて動くことができる。小布施の近くにいる人や遊びに来ることが出来る人は、今回のラーメンフェスタでおいしいラーメンを食べる事で「協力できた」「力になれた」実感を得ることも出来る。

でも、それすら出来ない人は?それが出来ないと、やっぱり「何もできない自分」を恥じたり卑下したりして哀しい思いにいなくてはならないのだろうか?

……私は、そうは思わない。

では、いったい何をすればいいのだろうか?

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原発問題が起こり、電力の不足がささやかれて行われた計画停電。その時に想い出したことがある。

「こんな停電、昔はしょっちゅうあったなぁ……。」ってことを。

まだ、テレビが白黒だった時代。番組が盛り上がって「いよいよ」って時に、突然テレビが消えてしまうことがよくあった。夜、明日の宿題を必死でやっている最中にも、突然真っ暗になって何も見えなくなり、焦ることもあった。「停電」は予告もなくやって来て、いつまで続くのかもわからなかった。

けれど、誰ひとり怒らなかったしあわてなかった。家々に常備してあるろうそくをつけ、ろうそくの周りに集まって平気で食事や会話が続いていた。暗闇に揺れるろうそくの光はあたたかくて、いつもよりも隣の人を身近に感じ、暗闇はなんだか「秘密基地」を思わせてドキドキした。

夜になると暗くなるのは当然で、コンビニが生まれる前の時代、お店は19時というとみんな閉まってしまった。買い物はそれまでに済ませて人びとは家路につく。「夜は暗いのが当たり前」だった時代。

被災後の電力不足が懸念される今、「節電のため、明るさを控えています」とお詫びの貼り紙のある店に入っても、実は何も不便はない。節電状態でも充分だ。今までは「もっと目立つように、もっと買ってもらうように」という想いから必要ない電気が使われていたのだから。

それは何も、電気に限ったことではない。テレビもそうだ。どのチャンネルを見ても同じような情報しか流れてこなかった震災時。テレビを消して、新聞やラジオ、ウェブ上だけでも充分に情報を得ることが出来た。それも、テレビのように垂れ流され押しつけられる情報でなく、自分から求める事実を必要に応じて必要なだけ。

食べ物、灯油やガソリン、本……同じように振り返ってみると「無くても大丈夫なもの」がいかに多かったのかを震災後にものすごく感じる。

そうして「もっと」を望まずに無くて当然の状態で「無駄を省くこと」をみんなが行った結果、停電はかなり規模が縮小されたし、必要な物は被災地に届きやすくなった。

人びとが「もっと」を望まずあるものに感謝して大切に使う……それだけでちゃんと世の中の流れが自然になり、さらにそこには「ありがとう」と笑顔が生まれている。

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今回、笑顔プロジェクトのメンバーが支援活動で、子ども達がさぞや「もっと」を言うのかと思ったら、それどころかクッキー1枚、本一冊という「今ここにあるもの」をものすごく喜んだ姿を報告している。

たぶんその子達は、あきらめたわけでも我慢しているわけでもないと私は思う。そのクッキー1枚、本一冊を届けようとここまでやって来てくれた人たちの「想い」の温かさを感じ、「物があること」に対しての心からの感謝と喜びで満たされたからなのではないだろうか。だからその「ありがとう」が伝わると、届けた方も嬉しくなって「ありがとう」と笑顔になる。

家族がいること、仕事があること、食べるものがあること……生きていること。
当たり前だと思っていたそれらのことを振り返ったときに「あること」に対しての感謝と喜びの気持ちがわき、そして「ありがとう」と口に出すことで人びとが笑顔になる。

「わたしには何ができる?」そう思ったら、そんな風に感謝を持って「ありがとう」を口にしてみたらどうだろう。もし、それで自分も、それを聞いた人も「笑顔」になったら。それがあなたにできる、あなたにしかできない何よりも大きな事なのではないだろうか。あなたの想いが大きいほど、あなたの笑顔が人にもたらす笑顔も大きく拡がるはず。

それが拡がっていくことで、自分だけでなく周りの人々、そして地域の人たち、被災地の人びと、日本の人たち……さらには世界みんなの幸せへとつながっていくのではないのだろうか。

どんな小さな事でもみんなで積み重ねていけば……それは絶対にできるはずだ。

大げさな物言いかもしれない。
けれど、こうして「笑顔をつなげ、被災地に笑顔を」というところから始まり、被災地の人びとの必死で生きる姿に背中を押された人びとの小さな力がしだいにまとまり確実な力として被災地に届けようとしている、長野県小布施町の小さなお寺中心に拡がりつつある「笑顔プロジェクト」の試みから、そんな事を強く感じた。

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取材後、夕闇に埋もれつつある本堂を背に別れを告げ「本当は私も、行って力になりたかったんですけれど……」と小さくつぶやいた私に、林さんは満面の笑顔と共にこう言った。

「こうして取材に来て、いろいろなことを聞いてその事実を「伝えて」くれる人も必要です。被災地の皆さんの「この事実を記憶から消してしまわないで!」という叫びを届けるためにも……。」

その言葉と林さんの笑顔に、私は「ありがとうございます」と笑顔で返し、家路についた。

〔写真・文 駒村みどり)

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これまでの笑顔プロジェクトの詳しい情報や、これからの活動予定などはこちらから。
「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その4)【’11年5月掲載】

4月27日の訪問は日帰りという強硬日程で、現地での混乱や慌ただしさや困難があった。しかし、実はそこに至るまでの地元の準備段階でも、かなり大きな壁をたくさん乗り越えなくてはならなかったのだ。

「4月27日にうどん1000食を被災地の子どもたちに届けよう!」

笑顔プロジェクトの支援目標が決まった。では次に、支援に向かう先は?

先発隊のメンバーがすでに行ってその情況を目の当たりにしている宮城県へ。でもその先はまったくわからない。どこも大変だろうが、同じようにちゃんと支援が届いているのかと言ったらたぶんそれはないだろう。「学校」で一番支援が届いていないところに行こう。

そう考えて地元のボランティアセンターに問い合わせる。しかし、「学校は後回し、避難所が先」というボランティアセンターは「学校」への分配機能がなかった。その現状を全く把握もしていないので取り次ぎどころか紹介さえもしてくれない。社会福祉協議会や役所、公的機関もおなじ。どこも全く当てにはならなかった。

それなら、とみんなでいろいろな伝手を頼って「地元の人」を探した。地元水産業の平塚さんという方にやっとつながりをつけることができた。その方を通じて「支援が必要な学校」ということでようやくたどり着いたのが「女川第一中学校」だった。

一方うどん1000食を実際に「炊き出しに行く」ために必要な物……現地調達は無理だからすべてをこちらから持って行くことになる。

「ガス」。火をおこし、お湯を沸かし、うどんを茹でるのに必要。
1000食分というと相当なガスが必要になる。けれど、個人で運べるガスの量はたった8キログラム。小グループのキャンプだったらいいけれど、1000食はとても作れない。さらに大量のガスを運ぶにも扱うにも、「危険物取り扱い」の資格を持ったものがいないとダメだ。(実際に、ボランティアで行った人による「ガス事故」や「ボヤ騒ぎ」も報道されていないが多発しているようで地元でも神経をとがらせているそうだ。)

………どうしたらいいのだろう?みんなで必死に考える。

初っ端からの躓きに困惑しながらこちらもメンバーそれぞれの伝手をたどり、Web上でも必死で手立てを探っていたら中野の「北信ガス」という会社が協力を申し出てくれた。ガスの取り扱いの資格を持った人材と運搬車両を貸してくれることになった。

「水」。うどんのつゆなどで必要になるのは600キログラムの水。20リットル入りのポリタンクが30個必要になる。

「地元の給水車を借りられれば……」

そう思って小布施町に掛け合ってみた。だが、給水車は緊急時のもので、たとえ普段使ってはいなくても「もしも」のために地元から離すことが出来ない事になっているとのこと。隣の須坂市でも同じ答えだった。確かに時期が時期だから、地元だっていつ必要になるかわからない。またもやみんなであちこちに投げかけ、問い合わせる。

給水車を貸せない代わりに、とポリタンクを沢山貸してくれた自治体。そしてタンクを持っている……という個人の方の好意。最終的には北信ガスさんが大型の水用タンクを貸してくれることになり、ついに水600キログラムもなんとか持参可能になった。

行き先が決まり、支援物資も整って、材料もそろい、出発までにあと3日……。
そこまで来てアクシデントがまた起きた。

「排水は持ち帰って下さい。」との連絡が入る。

現場の混乱状況や処理雑務の多さを考えれば仕方がないこととはいえ、「排水タンクは充分だから排水の方は持ち帰らなくてもいい」という打合せだったはず。

持って行く水のタンクに排水を入れるわけにはいかず、あわてて処理の仕方を考える。またもやあちこちに投げかけて、直前に慌ただしいながらもようやくドラム缶を用意することができた。

そうして迎えた4月27日。夜中の0時の小雨降り注ぐ寒さの中、総勢24名、車7台のチームが出発。

(写真は公式ページ「笑顔の活動報告」 より転載)

結局現地でも、「避難所以外での調理行為禁止」とか「炊き出しは一品ではなく一食のメニューにしなくてはダメ」だとかいう様々な困難に突き当たって右往左往した。

けれど現地での支援活動に向けて、メンバーや沢山の協力者とそれらの多くの困難や積み上がったがれきの山を一回乗り越えてみて今、林さんはこう語る。

「支援物資を持ってきてくれる人や、車を見送ってくれた人たちはみんな『ありがとう』って言ってくれたのです。」

「何かしたい。自分たちも行って手伝いたい……。」
きっと辛い思いをして居るであろう被災者の方々への思いがあっても何もできない憤りの中にいた人びとが、「支援物資供出」で協力でき、その想いのこもった荷物の載った車を見送って実際に想いが届く状況を見ることが出来た。小さくても自分も力になれた。それが「ありがとう」に込められた想い。

一方で実際に支援活動を行う林さんたちメンバー自身も、最初はまったく何もないところからこんなに沢山の人たちの協力を得、その思いを受けとめて支援活動に向かうことができた。自分たちだけではできなかった。「ありがとう」と心から思う。

被災地ではいつまで続くかわからない深い悲しみや寒さや飢えや不自由さと今も毎日闘っている人びと……支援物資を届け、炊き出しのうどんを食べた人から、「ありがとう」の声を受け取ることができた。

「笑顔でそれぞれの想いや行為に心から『ありがとう』を口にする。みんながね、お互いに『ありがとう』なんですよ。ありがとうでつながっている。」

心からのありがとうという言葉に乗って、笑顔は確実に支援地につながった。
そして支援地でもらったありがとうが、笑顔と共に地元に戻ってきてさらに大きな「ありがとう」と笑顔につながっていく。

災害のあと、「何かをしたい」「何ができる?」と突き上げられる想いのままに、人びとは公的機関の支援物資集めに協力したり、義援金に募金したりした。私も募金箱と見ると手持ちのお金を募金した。

そこにあるのは、人として本当にシンプルな人を想う気持ち。けれど、そのシンプルな気持ちが実際にちゃんとした形で届いているのかどうかはまったくわからないままだ。

実際、自分が今入れたお金は、いったいどこの誰に、いつ役に立ったのだろうか?今現在、寒さや飢えや悲しみで苦しんでいる人たちのために「今すぐ」役に立ちたいのに、何もできない。せめて、と募金してみても、そのお金は「今すぐ」どころか、ちゃんと役に立ったのかどうかすらもわからない。

著名人がチャリティーで大金を寄付し、コンサートを行うニュースが流れる。なのに力のない自分には何もできない。実際に行くことができたら、と焦る。でも、実情はそう簡単にはいかない。……やっぱりもやもやした焦りが残ったままだ。

けれど、この「笑顔プロジェクト」に関われた人たちは自分の想いがちゃんと届き、被災地で受け取った笑顔と「ありがとう」が返ってくることが実感ができた。だからこその心からの「ありがとう」なのだ。人が人を想う気持ちがしっかりつながったときに生まれる、「ありがとう」なのだ。

「笑顔のデリバリー」である笑顔プロジェクトは、こうして沢山の人たちにダイレクトにありがとうをつなげ、笑顔を届けている。ただひたすらに、今辛い状況にある被災地の人びとのために何かがしたい、というその想いの積み重ねに動かされて。

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今月16日。今回縁のできた宮城に、再びメンバーは向かうことになっている。前回の困難を教訓に、今度は公的機関は通さずに行く。お寺や集会所といった私的な場所に避難している人びとに、ダイレクトに笑顔を届けに行く。

こういう「私的避難所」には、避難している人びとがいても毎日の食事も支援物資も届けてもらえない。だから、公的避難所まで取りに行くしかない。

けれど、毎日毎食、避難生活で疲弊した身体で、お年寄りにその生活が可能だろうか?その答えは誰でもすぐにわかるだろう。把握しきれないほど沢山ある、そんな私的な避難所に今度は笑顔を届けに行くのだ。

それから、訪問する学校では「筆あそび出張教室」も予定している。最初はライブをしようかと提案したが、ライブのできる場所の確保が無理だった。「筆遊びをやって下さい!」……学校からそう提案された。筆一本で表現できる自分の気持ち。きっと子ども達の豊かな感性ですばらしい作品が沢山生まれ、避難所生活にも笑顔が広がるに違いない。

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平行して5月29日にむけて「あるイベントの企画」が進行中だ。それによってもっと沢山の人たちに「自分にもできる事」を感じてもらうために……。みんなにありがとうと笑顔の輪が広がるように……。

(その5に続く)

写真・文 駒村みどり

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)【’11年5月掲載】

連日連夜流れる被災地からの目を覆わんばかりの映像。テレビやラジオ、どのチャンネルをまわしてもなすすべもなく流されていく家々や人びとの涙と叫び。そして絶え間なく続く大きな余震の恐怖。停電のため混乱した大都会。

「○○で人が助けを求めています!」

Twitterのタイムラインはそんな救助要請や家族を捜す悲痛な声で満たされ、一方で「何とかして!」「何ができる?」と支援をしたくてもどうして良いかわからずにとまどう声も。

3月11日。

「その日」を境にのどかな日々が一変した。次第に被害の大きさが明らかになるにつれて人々の心にできた大きな傷口からの痛みがそれぞれの人たちの心を重くしていった。やがてこんな呼びかけまでなされる事に。

「ニュース映像を見続ける人にも衝撃によるストレスが影響を及ぼします!テレビを見続けずにスイッチを切って下さい!」

そう。映像が苦しかったらテレビを消せばいい。ラジオを聴きたくなければラジオのスイッチをひねればいい。けれど……

毎日地震のニュースを見ていると具合が悪くなる、ニュースを見るのをやめたという大人がいる。何回も同じCMが流れて抗議をしたという人もいる。子供たちは、このような景色だけを毎日見ている。これが現実なんだと思ったら胸が苦しくなった。

(以下太字は笑顔プロジェクト横川玲子さんの「救援物資運搬・炊き出し」の記述より。)

そこに「現実」として目の前のがれきの山が広がったままの被災地の人びとは毎日その「事実」を突きつけられている。その事実の中に大切なものの命を奪われたものもいる。被災地の人びとは悲劇のスイッチを消すこともかなわないのだ。

そんな被災地に笑顔プロジェクトチームの代表メンバーは飛び込んでいった。

27日0時 天気は雨、すごく寒い。 総勢24名、7台の車が長野を出発する。 これから向かう先も雨が降り、寒いのであろうか。
私は支援物資を載せた車に乗った。支援物資・支援金を提供した人、仕分けや積み込みをした人の 「本当は一緒に行きたいけど、行かれない。どうか届けて欲しい!!」 温かく優しい気持ちがたくさん詰まった車に乗り込んだ。


(中略) 福島近くから高速道路がガタガタと道が悪くなり、車酔いとこれからどんな光景が目に飛び込んでくるのか。 そして、初めてのボランティアで迷惑をかけないか。 不安で胃が痛くなった。

3月11日の被害を受けた人と、そうでない自分たち。その実際もわからないし、何ができるのか、果たして自分たちが力になれるのかもわからない。大きな不安を抱えつつ、メンバーで支え合いながらここまで来た。それでもやっぱり胸が痛くなる。

現地に着いて女川第一中学校で物資を配る。
「クッキーをもらえる」という言葉に想像以上に大きな喜びを見せる子どもたち。

            (被災地に届けた手作りの「笑顔クッキー」)
女の子の3人が私のところに来て、
「私ね、クッキー大好きなの。本当に嬉しい、ありがとう。」
「久しぶりのおやつです。」
「おやつの中でクッキーが一番好き。」
クッキーでこんなに喜んでくれるのかって思った。もっと、あれが欲しかった、これが欲しかったって言われるかと思ったこの子たちの給食はパンと牛乳だけ。

「もっと」という言葉は、どの子からも聞くことがなかった。自分の与えられたものとそれを持ってきてくれた想いに、心から感謝する子どもたち。「もっとわがままになってもいいのに!」と思うけれど……子どもたちの喜ぶ姿に逆に胸がつまりあふれそうになる涙を抑えて笑顔を作るメンバー。

そうかと思えば生きるための「現実」もまた迫ってくる。
炊き出し用の別の会場で、うどんを作りデザート用のゼリーを配りはじめたときのこと。

仕切りのないところでゼリーを配り始めると列を作らず、四方から延びる手。一個ずつ配る私を差し置いて、すべてを持っていこうとする。
それが本能だ。 自分の身を守るための行動だ。 生きていくための手段だ。そう思ったけど、 遠くでこちらを見ている方の姿を見つけ、このままではいけないと思いっきり声を振り絞って 「少しでも多くの人に行き渡るようにご協力ください。」 その言葉で、元に戻してくれる人もいた。

多くを望む気持ちもわかる。生きていこうとする本能と、人としての助け合いと……どちらの立場もわかる。……本音と建て前と云々言っていたら「生きる」ということの前に力尽きるかもしれない。だけど……。

炊き出しをしている私たちを手伝ってくれた、おばさま二人と出会った。「自分たちは、家も仕事も失った。早く仕事をしたい」 そして「あなたたちは、いいわね。帰ったら仕事があるんでしょ?」

帰ったら「もとどおりの日常」が待っている自分たち。一方の目の前にいる人たちは「天災」という敵に傷つけられ突き落とされても、その怒りや悲しみをぶつける場もない。言葉を失う。返す言葉もない。あるのは「普段通りの日常」に感謝する気持ちと、この人たちに精一杯できる事を……の気持ち。

次の避難所に向かう。湊小学校体育館。
体育館の周りには、墓地があった。目に入ってきた光景は……。

墓石の上に車が・・・ 近づくと仏像も倒れ首が取れているものもあった。大人の私でも、恐ろしいものがあった。この墓地の向かいに体育館への入り口があった。

体育館に避難している人びとは、この「恐ろしい」光景を毎日目にして生活しているのだ……。

「欲しいもの」との問いに答える子どもたちの口から出るのは……フラフープ、投げ輪。読み飽きてしまったので違う絵本。……それから、おやつ。

子どもたちの望む物は、つい1ヶ月前までは当たり前のように身のまわりにあったもの。けれど避難所生活ではそれらの物すら手に入らず、まして多くの人が避難しているので体育館といえども走り回ると「走るな!」と注意の声が飛ぶ。
(欲しいというおもちゃが、大きく身体を動かさずに遊べるものだというのもそういう状況を理解して、の事なのだろうか?)

それでも、その状況の中で、「今」を素直にしっかり受けとめて子どもたちは生きている。忘れられない、忘れちゃいけない。

「また、来ます」……目の当たりにした震災の傷跡を受けとめたメンバーの答えが、これだった。

(その4に続く)

*今回の記事に引用させていただきました福島さんの写真と記述の全文は、笑顔プロジェクトHPの「活動報告」の救援物資運搬・炊き出し (2011,4,27) に記載されています。

現地に行ったメンバーの生の声と現地の事実が綴られています。是非全文お読み下さい。

被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その2)【’11年5月掲載】

「地震や津波の事だけだったらまだなんとか自分を保てたのに、原発の恐怖が加わったら自分がどうにかなってしまいそうでどうにもならなかった。」

震災後、小布施町の数人の集まりで小さなお子さんを持つお母さんが、あまりのショックでご主人にしっかりとハグしてもらわないと立ち直れなかったと語った。その声を受けとめた林さんは衝撃を受けた。

「物事の受け止め方にはこんなに人によって差がある。男性と女性でもこんなに認識の仕方が違う。こういう状況ではダメージを受けるのは被災した人たちだけではないのだ。」

被災者への支援は急務だ。しかし、支援する立場にある側も人に支えてもらわなくては苦しくなるほどダメージを受けている。その「支援側のケア」も必要だ……。支援者も元気にならねば、と強く感じた林さんが自分にできる事を考えた時に思い浮かんだことが「字を書くこと」だった。

林さんは浄光寺で「筆遊び教室」を開催している。その文字による表現を学びたいと常にキャンセル待ちが出ているほど林さんが書く文字には伝える「力」があり、それを求める人は多い。

書こうと思った文字は「笑顔」。

笑顔でみんなが元気になるように。何よりも自分がまず「笑顔」になれるように。……そうして書いた「笑顔」の文字がどんどんとその力をいろいろな人たちに繋げていった。

この文字に共感した人が人を呼び、3月19日「日本笑顔プロジェクト」が立ち上がり、浄光寺のHPに公式ページが開設された。同時にFacebookにプロジェクトのページが作られた。でも笑顔プロジェクトのアカウントを取得、Web上で投げられた小さな小石はその波紋をどんどん拡げていった。

東北とほぼ時を同じくして起きた長野県栄村の被災地。今年度で「閉校」が決まっていた栄村東部小学校では卒業式と閉校式が中止になった。林さんは3月24日、代わりに行われた「卒業証書を渡す会」にプロジェクトメンバー3名と参加し、この「笑顔」の文字を1人1人に手渡した。

(写真は公式ブログ「笑顔の活動報告」”栄村へ笑顔を“より転載)

この子どもたちをはじめ、「笑顔」の文字を掲げた人たちのフォトアルバムが公式ページに掲載されている。


文字を持った人々の心からの笑顔。その数は現時点(平成23年5月現在)で405点に達している。

現状の厳しさは、被災地も支援者も形こそ違え決して双方楽観の出来ない状況にある。けれど、この文字を持って微笑む人の笑顔は見るものの心に「希望」の光を含んで鮮やかな輝きとなって伝わってくる。

「400人を超えたし、そろそろいいかな」

元々は「支援者側のメンタルダウン対処」としてこのプロジェクトを立ち上げた林さんはそう思った。けれど、動き出した笑顔のパワーはこれでとどまることはなかったのだ。

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ある時、メンバーの1人が「東北に行きたい」と実際に現地に飛んだ。

宮城県に行ったそのメンバーが戻ってきて語った「宮城の事実」はあまりにも報道やそこから想像されるものとはかけ離れていた。現地は「そろそろいいかな」で終わりにできる状態ではなかった。いや、被災地の悲劇は終息するどころか「まだまだこれから」なのだ……。

「現地に行こう!自分たちでそれを受けとめてこよう!そして現地に笑顔を直接届けよう!」

「現実」を目の当たりにした「笑顔プロジェクト」はこうして新たな展開を迎えた。

その3に続く)

文・駒村みどり 写真提供・笑顔プロジェクト 写真加工・駒村みどり

被災地に笑顔を届けよう〜がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その1) 【’11年5月掲載】

宮城県牡鹿郡女川町、女川第一中学校。
ここでは今、二つの小学校と一つの中学校の生徒400人あまりが集まって勉強している。

昼の「給食」は毎日牛乳一本とパン1個だけ。
(成長期の子どもたちが………だ。)

物資は「避難所」には届くが、「学校」は後回し。炊き出しや支援物資を届けたいとボランティアセンターに問い合わせてみても関連の機関に問い合わせても、どこも取り次いではくれなかった。

せめて、積んでいった230個のりんごを食べてもらいたい……と申し出たら「ごめんなさい、受け取れない」と言われた。

生徒が400人。りんごはその半分の数。
丸ごと1個はわたらないから半分に切って配ればいい……ずっと野菜もくだものも食べていない育ち盛りの子どもたちに食べさせたい……そういう思いからの申し出だったのに、なぜ?

答えは、「りんごを切ることができないから」……だった。

今、「調理行為」が許されているのは「公的に認可された避難所」でのみなのだ。それ以外の場所では、調理……当然炊き出しも含まれる……は、一切認められていない。消毒ができず食中毒の恐れがあるためなのだ。

りんごを切るのには包丁を使う。使った包丁を洗って消毒できる充分な設備がない。だから、りんご1個を半分に切り分ける行為さえも認められない。…..結局、生徒たちにりんごを配ることはかなわなかった。同様に、学校でやろうと考えていた「うどん1000食分の炊き出し」もかなわなかった。

「子どもたちに笑顔を」「子どもたちに食べさせたい」

そういう想いがいくらあっても、その想いが届くにはかなりの困難がある。
それが、報道では「物資もボランティアも足りている」と言われているはずの被災地の現実……。

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3月11日。

東北地方を震源とした群発地震は予想もできない大津波を引き起こし、そして想像もできないほどの多くの命を奪っていった。

その影響の大きさは2ヶ月たとうとする今でも……いや、ここから先なおのことその爪痕をあらわにしてきているが、その一方であの時点でみんなの気持ちが「被災地」に向き、「何かできることは?」という一つにまとまった気持ちは次第に「日常」の中に薄れつつあるのかもしれない、という感じがある。

けれど、今でもまだ被災地では捜索が続き、がれきの山は積み上がったまま。

冒頭に記述したように4月の末現在、いまだに子どもたちにも充分な栄養のある食事が行き渡っていないし入浴もままならない避難所生活の中にある人が大半だ。

(4/27女川第一中学校から見下ろす風景)

さらに、原発の恐怖。

放射能汚染(被曝)の恐怖に加えて風評被害という2次、3次、4次と続く被害、天災のみでなく人的被害までを直接被っている被災地の人びとにとって「これから」はまだまだ見えてこない。

被災地から遠く離れたここ長野県では、同時期に起こった栄村震源地となる地震による被害を受けた人びとも同じように復興の目処も立たずにいるが、それすらも「実態」「事実」はなかなか見えてこないし伝わってこない。

そんな中でも「自分たちにできる事を」と多くの人たちが想い、それぞれの場所、それぞれの立場でできる事を頑張っている人びとの支援活動もたくさんある。

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「笑顔プロジェクト」はWeb上で始まったそんな支援活動の一つ。

長野県小布施町浄光寺。
副住職の林映寿(はやしえいじゅ)さんを中心として始まったこのプロジェクト。林さんがその笑顔プロジェクトの仲間・協力者24名と4月27日訪れた被災地(宮城県石巻)の姿は、報道されているものとは全くかけ離れていました。そこで信じられない状況と現実を目の当たりにしてきたのです。

震災から間もなく2ヶ月を迎えようとする今、笑顔プロジェクトメンバーが現地の人たちから受けとめてきた「これを風化させないで、記憶から消さないで」という訴えを繋げるために、この林さんの活動を中心に見えてくる震災の事実を今日から11日まで5回に分けて記述していこうと思います。(その2に続く)

文・駒村みどり
*使用写真は林さんはじめ24名が4/27に被災地宮城県石巻市に行ったときのものです。
(石巻市での活動報告は→ こちら

「日本笑顔プロジェクト」HP
Facebookページ「日本笑顔プロジェクト」

商業の町、小布施に受け継がれるいにしえの心〜「安市」<’10.1月掲載>

小布施の町では、毎年町を挙げて行われる祭りがあります。
それが「安市」です。

12月頃から小布施の町中を通りかかると、あちこちで赤いポスターが目につきはじめました。

「先生、14日と15日は、学校お休みだから。」
「え?何故?」
「だって、安市だもの。」

去年、仕事で家庭教師をしていた小学生の言葉にちょっと驚いた記憶がよみがえりました。

学校が休みになるのかぁ……。町のお祭りで。
そういう話は、あちこちの学校を知っているけれど最近はあまり聞かなくなりました。

だけど、小布施町ではちゃんと休みになるのです。
1月の14日、15日。

成人式。敬老の日、体育の日………。

「ハッピーマンデー」などという言葉が生まれるように、国の祝祭日が「第◯月曜日」に変更されることが多くなってから、何となくもともとの祝祭日の意味も薄れてしまったような気分。
もともとの意味のある日からかけ離れたそういう休みの取り方になって、かつては「小正月」に当たるこの日に行われていたどんど焼きも今や別の日になってしまいました。

そんな「祭」や「季節の行事」への意識が薄れると共に、町のお祭りにあわせて「お休み」になる学校もなくなったのに。

お祭りで、学校が休みになる。
お祭りのワクワクと、それから学校のお休みの嬉しさで「地域の祭」は子供たちにとって特別な日でした。そういう意識も最近ではなくなってて、なんだかさびしいなぁ、と思っていたのだけれど。

ここ、小布施では残っているんだなぁ。

小布施町。
平日の昼間でも、訪れる人が絶えることのない北信の小さな観光地。

この町は、「古いもの」を大切にし、その息づかいを生かした町作りがなされています。
「小布施方式」といわれたその町作りの手法は、遠くから視察に来る人々もいるほどなのです。
古い建物や蔵、それから町の財産である歴史や特産の栗を生かした町並みが、来る人の心と目を休めるのです。

その小布施町がさらに活気にあふれるのがこの「安市」の日。
あちこちの文献を調べるとその起こりは江戸時代で、次のような由来があるようです。

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北国街道と谷街道の分岐にある小布施では、江戸時代初期の寛永6年(1625)から月に6回(三と八のつく日が市日)市を開く六斎(ろくさい)市が立ち、日常欠かせない穀物や実綿・太物・荒物・金具・塩・紙類・茶・鎌・肴(さかな)類などが取り引きされていた。また北信濃の米麦相場を定める場ともなっていた。文化年代 (1804~18)頃の地図に小布施は「市」と記されるほど、北信濃の中心的な市だった。

(ちなみに中野市では 1・4・7・11・14・17・21・24・27日に市が開かれたことから「九斎市」、善光寺や松代では「十二斎市」の名称で同様の市が開かれていた。)

しかし、明治時代になってからは、北信濃における物資の集散地として賑わった小布施も、交通上の理由などからその座を善光寺を中心とする長野に渡すこととなり、「六斎市」は次第に衰退。これに危機感を感じた伊勢町・中町・上町・横町の町組商人は六斎市の伝統を引き継ぎ、 毎年1月14 日・15 日の安市を起こし定着させてきた。

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なるほど。
小布施の町の歴史は、町に住む人たちの創り上げた歴史。
それはこの安市にも現れているんですねぇ。

安市の会場は、小布施町の中心にある「皇大神社」境内と、そこに続く参道です。
天照大御神を祀った「皇大神社」へは伊勢神宮の御師が出張し、ここを中心に伊勢信仰が広まりました。

参道には、両側にたくさんの屋台が建ちます。商売繁盛の祈願のだるまや「福飴」といわれる飴。色とりどりの縁起物が所狭しと並びます。

そして、その中心の「皇大神社」で行われるのは大正時代からはじまったとされる「火渡り神事」。安市行事最大の呼び物とされています。そのほか、薪積みの儀式・だるまのお焚き上げなども行われます。

火渡り神事の時間が近づいたので、屋台は気になるけど境内に急ぎました。
ちょうど神事が始まったところでした。

白い装束に赤いチョッキ(?)をまとった行者さんたちが、中央に積み上げられた薪に火をつけ、その周りを祈祷しながらぐるぐると回ります。

その火の勢いは、かなりのもの。
周りを回る行者さんたちはしかし、熱さをみじんも感じさせず、祈祷の言葉をつぶやきながら厳しい表情で回り続けます。そして、その周りを4方向、4人の行者さんが固めてこちらも印を結びながら祈祷し、それから一番の修験者が、東西南北、それぞれの位置に移動してそこでまた、印を結んで祈祷します。

この祈祷は、何の意味かわからなかったのですが、どうやら厄除けとか病気・悪魔払い、豊作などを祈るもののようです。

中央の薪がほとんど燃えて炭になり始めた頃、長い太い竹の棒で二人の行者さんが中央に「火渡り」用の道を作り始めました。

そして、火渡りの儀式の始まりです。

まずは、修験者のリーダーの人がたびとわらじを脱いで、雪の上からまだ熱い炭の上を渡ります。そして、祭壇に祈祷をすると他の行者さんたちも渡りはじめました。

行者さんたちがみなさん渡ったあとには、何と、町長さんがよばれます。
靴を脱いで裸足になった町長さんも、それからその後、町をリードする人たち(消防署長さんとか、警察署長さんとか……)も次々と渡ります。

さらに、一般の人たちの中からも希望の人が渡りました。
みんな渡って、祭壇に一礼して。

……熱くないのかなぁ……と思ってみていたら、最後の男性が渡り終わったあとで、近くの知人と思われる人に「熱かったぞぉ。」と言っていたので納得。

だって、みんな表情ひとつ変えずに渡っていくんですもの。熱くないのかと思った。

そうして、小布施町の発展を祈る火渡りの神事は終了。
すべて終わったあと、人々が立ち去る中、最後に行者さんたちが残って祭壇にみなで祈祷を捧げていた姿が印象的でした。

今年一年、いい年になるといいなぁ。
凛とした行者さんたちの祈祷の姿に、そんな想いを持ちました。

(余談ですが。
この安市の資料が欲しくて神社で聞いたら「商工会議所にあるんじゃない?」といわれ、商工会議所にいってみたら「そんなのはないから、ネットで調べて」と言われて……。
実は、この取材に当たってネットで事前に調べたのですが、安市や火渡りの神事、小布施の皇大神社についての資料がほとんどなかったので、地元で手に入れられないかと聞いてみたのですが……。
せっかくのにぎやかなお祭り、由来とかいわれなどを知る場所や資料があったらいいのになぁ……と、ちょっと残念に思いました。)

さて。
「火渡りの神事」が終わると、とたんに境内も屋台も人の姿が減りました。
わたしは毎年、この安市で買い物するのが楽しみなので、あわててお店巡り。

一番多いのはだるまを売るお店。
この近くのだるま作りの職人さんたちが、自作のだるまを持ち寄って売っています。
祭も終わりに近いので、「まけるよ~、みてって!!」とかける声も一段と大きくなっています。

しばし、参道の賑わいをお楽しみください。

みな、それぞれに味のあるだるまの顔を見ているのは、それだけでも楽しいです。

最近は、赤いだるまだけじゃなく、黒とか黄色とか金とかむらさきとか……。
いろいろな「御利益」によって色分けしているお店もあります。

神社では、まゆだまを売っていました。

だるまと一緒に目立つのが、「福飴」を売るお店。
色とりどりできれいな飴が、たくさんの縁起物と並んでいるお店で「写真を撮ってもいいですか?」と撮らせてもらったのですが……。

「どうですか?今年の売れ行きは?」とそのお店の人にお聞きしたら。
「いや、ダメだねぇ、この景気でほとんど売れないよ。」

他のだるまや縁起物のお店の人も、みんなそんな答えで。
色とりどり、華やかなお店にも、景気の悪さが影響しているんだなぁ……。
でも、お店のみなさんは「まぁ、今年はそんなもんさ。」とみなさん元気でした。

そうだね。今年は、少しは元気な年になるといいな。
行者さんたちも真剣に祈祷してくれたんだし………。

毎年立ち寄るお店のいつも元気なおばちゃんから「張り子のトラ」を購入して、おまけでカバンにつけてもらったひょうたんの鈴がちりちりと鳴る音を聴きながら、雪の舞う小布施をあとにしました。

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みなさん、あけましておめでとうございます。
小布施の町が、こうして元気に祭を続けていくように、みなさんの今年も元気で幸せな一年になるように、張り子のトラくんと一緒に祈念したいとおもいます。

(写真、文:駒村みどり)

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