1 「イメージ」がないとどういうことが起こるのか。
「もしも○○だったら」と考えること。それも「イメージ」する方法の一つです。
だからこの文章の最初から、実は「イメージ」が出来ないと成り立たないのだけれど、まずはそこから入ってみます。
「もし、イメージすることが出来ないとどうなるのか。」
朝起きる。時計を見る。目覚ましが鳴らなかったのかいつもよりも遅い時間。
「じゃぁ、この後どう動くのか」……そこにまず「イメージする」という事が起きるのだけれど、それが出来ないといつものように起きていつものように歯を磨き身支度し食事をしていつものように家を出る。
家を出てから学校や職場に行くまでにもイメージは仕事をします。今日は一体、何の授業があって宿題には何が出ていて、順番から行ったら自分が当たりそうだから、わからなかった問題をあの子に聞いておこう……とか、今日の仕事はちょっと忙しくなりそうだから、少し会社に早めに着いていた方がいいかな、着いたらまず、あれとこれを準備して……とか、その日1日の状況を予測して自分の行動をシミュレーションするような感じで、ほとんどの人が無意識に「イメージ」を働かせているのです。
これが全く働いてくれなかったとしたら……。ただ時間にその場に行って、与えられたことを与えられたままにこなし、時間が終わったらまた家に戻る。それはまるでベルトコンベアーで決まったルートを流れていく状態か、機械仕掛けの人形のようなもの。
工作の時間などに刃物を持つ。刃物に触れたらどんなことが起きるのか、人はそれをイメージする(もしくは体感から記憶によみがえらせる)から、むやみに振り回したり人にむけたりすることを「常識として」普通はやろうとしません。「これが当たったら痛い」という「痛みのイメージ」を呼び起こしたり「ケガをして血が流れる」などの「恐怖のイメージ」を持ったりするからです。けれどもし、このイメージがなかったら、手に持ったまま振り回したり、平気で人に向け、それが当たったり刺さったりすることも気にしないし、逆に自らにそれが向かうことに対しての恐怖さえも感じることはありません。
自分よりも弱いものを守ろうとする行動もイメージが支えています。もし、自分が今手を貸さなかったら、自分が守らなかったら、この先この子はどうなるのだろう。自分の飼っているペットはどうなるのだろう。もし、自分がその立場に立ったらどんなに悲しくつらいだろう?……私たちは目の前で人が何か困っているときにそういうイメージが働くから、「大丈夫ですか?」と声をかけ、泣いている子供を抱きしめ、言葉が通じるかわからないペットに話しかけるのです。
もし、そこに「自分がその立場だったら」というイメージが働かなかったら、困っている人や弱っているものを見てもなにも感じないし当然働きかけをすることもないことになります。